スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
針生 一郎(はりう いちろう、1925年12月1日 - 20… 針生 一郎(はりう いちろう、1925年12月1日 - 2010年5月26日)は、日本の美術評論家、文芸評論家。和光大学名誉教授。映画プロデューサー針生宏は弟。 宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。 大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年、軍国少年だったことへの反省から日本共産党に入党したが、1961年、60年安保闘争時の時の共産党の指導方針を批判して除名される。 反権威的な美術評論・文芸評論で活躍、日本藝術院批判の急先鋒でもあった。1965年、赤瀬川原平の「千円札裁判」で特別弁護人となる。1970年の大阪万博に反対。
一力 一夫(いちりき かずお、1925年(大正14年)9月8… 一力 一夫(いちりき かずお、1925年(大正14年)9月8日 - 2014年(平成26年)7月20日)は、日本の実業家。ジャーナリスト。河北新報社社主。 河北新報社元社長である一力次郎の長男として宮城県仙台市に生まれる。 1950年(昭和25年)河北新報入社。編集局長時代には自らが隊長となり同行記者3名と共に、「人類初の地球縦断大ドライブ」を敢行。それにより日本新聞協会ボーン・上田記念国際記者賞を受賞する。1970年(昭和45年)には、父の逝去により社長・社主に就任する。その後、東北放送社長就任に伴い、会長・社主に就任した。 好角家としても知られ自宅には大相撲の座布団が多数あったという。日本相撲協会横綱審議委員会委員(1988年-2001年)、第8代の委員長(1999年-2001年)も歴任した。
石田 名香雄(いしだ なかお、1923年〈大正12年〉3月6… 石田 名香雄(いしだ なかお、1923年〈大正12年〉3月6日 - 2009年〈平成21年〉12月4日)は、日本の医学者、ウイルス学者。元東北大学学長。仙台市名誉市民。二男は分子生物学者の石田直理雄。 新潟県上越市生まれ。旧制仙台一中、旧制二高、東北帝国大学医学部卒業。ウイルスベクターとして知られるセンダイウイルス、また、制癌抗生物質ネオカルチノスタチンを発見した。野口英世記念医学賞、日本学士院賞などを受賞。お酒が好きなことで知られており、利酒が趣味だった。学生に抜群の人気があった。 ミシガン大学ウイルス研究所留学
吉江 英四郎(よしえ えいしろう、1922年7月9日 - 1… 吉江 英四郎(よしえ えいしろう、1922年7月9日 - 1986年1月21日)は、カナダ生まれ、宮城県出身のプロ野球選手(投手)。 仙台一中では第26回全国中等学校優勝野球大会に出場した。翌年に早稲田大学へ進学し卒業後地元のアマチュア野球チームの仙台広瀬倶楽部に入った。1948年に急映フライヤーズに入団。1年目に48試合に登板し16勝19敗と新人ながら2桁勝利を記録した。翌年は9勝を挙げ、1950年に読売ジャイアンツへ移籍し同年に退団。退団した次の年に社会人野球の大昭和製紙でプレーし第24回都市対抗野球大会で優勝を経験した。
佐藤 功(さとう いさお、1915年(大正4年)3月29日 … 佐藤 功(さとう いさお、1915年(大正4年)3月29日 - 2006年(平成18年)6月17日)は、日本の法学者。専門は憲法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1958年)。上智大学名誉教授。文化功労者。また、内閣法制局参事官として日本国憲法の制定作業に携わった。主著『日本国憲法概説』(学陽書房刊)は版を重ねている。京都府京都市出身。宮沢俊義門下。弟子に粕谷友介、向井久了、高野敏樹、吉川和宏、矢島基美、藤本富一、松田聰子、玉巻弘光、前田徹生など。 京都府京都市に生まれる。1931年(昭和6年)4月1日:第二高等学校文科乙類入学。1934年(昭和9年)3月31日:第二高等学校文科乙類卒業。
武田 豊(たけだ ゆたか、1914年1月6日 - 2004年… 武田 豊(たけだ ゆたか、1914年1月6日 - 2004年2月15日)は、日本の実業家。宮城県高清水町出身。新日本製鐵(新日鉄)代表取締役会長、経済団体連合会(経団連)副会長、日本鉄鋼連盟会長などを歴任した。東京帝国大学法学部政治学科卒業。 宮城県仙台第一中学校 (現: 宮城県仙台第一高等学校 )、山形高等学校(現:山形大学)を経て1939年に東京帝国大学法学部政治学科(現:東京大学法学部政治学科)卒業後、同年4月日本製鐵(日鉄)入社。1950年同社解体により富士製鐵に移り、社長室秘書課長、人事部長などを経て、1970年3月八幡製鐵と合併し新日鉄が発足するとともに専務となり、1977年には副社長、1981年社長に昇格。
角田 文衞(つのだ ぶんえい、1913年4月9日 - 200… 角田 文衞(つのだ ぶんえい、1913年4月9日 - 2008年5月14日)は、日本の歴史学者(古代学専攻)。学位は、文学博士。従四位勲三等瑞宝章。大阪市立大学教授、平安博物館館長兼教授、古代学研究所所長兼教授、財団法人古代学協会理事長を歴任。 1913年、福島県伊達郡桑折町生まれ。成城高等学校在学中から濱田耕作の学問を慕い、京都帝国大学に進学し濱田の指導により考古学を学んだ。 濱田の在職中での病没と、梅原末治との確執がなければ、濱田の後継者となっていたとの説もあるほど将来を期待された学徒であった。 世界史的な視座に立って考古学と文献史学を統合した「古代学」を提唱。したがって、研究分野は文献史学と考古学の両分野におよんだ。
加藤 陸奥雄(かとう むつお、1911年12月2日 - 19… 加藤 陸奥雄(かとう むつお、1911年12月2日 - 1997年3月8日)は日本の生物学者。位階は正三位。 宮城県仙台市生まれ。専門は昆虫生態学。 兄に化学者の加藤多喜雄(仙台名誉市民)、地球物理学者の加藤愛雄、弟に地質学者の加藤磐雄がいる。大甥(甥の息子)に数学者の加藤文元。 指導学生に松田達郎などがいる。
神 直道(じん なおみち、1911年(明治44年)8月20日… 神 直道(じん なおみち、1911年(明治44年)8月20日 - 1998年(平成10年)9月29日)は、日本の陸軍軍人、宗教学者。軍人としての最終階級は陸軍中佐。陸士44期卒で瀬島龍三と同期。
上法 快男(じょうほう よしお、1911年〈明治44年〉5月… 上法 快男(じょうほう よしお、1911年〈明治44年〉5月29日 - 2001年 )は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍主計将校として勤務。戦後は出版業界に入り、芙蓉書房社長や会長を務めた。 秋田県士族、上法眞廣(従五位勲三等陸軍主計中佐)次男。 弟は上法眞男(1945年1月、海上挺進第9戦隊長としてフィリピン ルソン島にて戦死、陸軍少佐)、上法達男(陸軍大尉)。 仙台一中・二高を経て東北帝国大学法文学部独法学科を卒業し、陸軍に入る。 主計将校として近衛歩兵第3連隊、歩兵第59連隊、第2師団、関東軍司令部、戦車第3師団、陸軍燃料本部総務部等で勤務し、階級は陸軍主計少佐に昇る。 1945年8月15日、陸軍省人事局附となり、人事局補任課にて復員軍人の職業輔導業務に従事。
菅原 克己(すがわら かつみ、1911年1月22日 - 19… 菅原 克己(すがわら かつみ、1911年1月22日 - 1988年3月31日)は、昭和期の詩人。宮城県出身。1927年に室生犀星の『愛の詩集』を読んだことをきっかけにその口語自由詩に影響を受け、私淑する。日本共産党員の時期もあったが、1961年の第8回党大会前に、党の紀律にそむき、意見書や声明を発表し、除名された。新日本文学会の中心メンバーのひとりとしての活動を続けながら詩作を続け、日本文学学校の講師も担当した。 1911年、宮城県亘理郡亘理町に生まれる。父新兵衛、母金の第四子。1914年、父が県視学となり、仙台市に移住。1917年、宮城県立師範学校附属小学校卒業、父が勤務先の角田高等女学校の校長室で急死。
土井 英一(つちい(どい) えいいち、1909年(明治42年… 土井 英一(つちい(どい) えいいち、1909年(明治42年)9月17日 – 1933年(昭和8年)9月9日)は、戦前日本のエスペランティスト。詩人土井晩翠の長男。第二高等学校在学中からエスペラント運動に取り組み、特にドイツの小学校長ヨハネス・シュレーダーと親交した。東北帝国大学入学後、ハンセン病患者救済のため寄附金付切手の導入を働きかけたが、在学中に病没した。 1909年(明治42年)9月17日、土井晩翠・八枝夫妻の長男として生まれた。片平丁尋常小学校(現在の仙台市立片平丁小学校)在学中に教師に飛び級を勧められ、5年次修了後に宮城県立仙台第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)に入学した。1年生の夏期休暇には原釜海水浴場で鰹漁船まで泳いだり、蔵王に登山するなど健康だったが、4年生の秋に発火演習で無理をしてから体調を崩した。
斎藤 秀夫(さいとう ひでお、1909年〈明治42年〉5月4… 斎藤 秀夫(さいとう ひでお、1909年〈明治42年〉5月4日 - 2003年〈平成15年〉9月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法、特に競売法、司法学。学位は、法学博士(東北大学・論文博士・1952年)。東北大学名誉教授。司法権論、裁判官論など、日本の司法学の開拓者として著名。菊井維大門下。弟子に小室直人など。 宮城県出身。旧制仙台第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1933年東北帝国大学法文学部卒、同助手。東京帝国大学法学部に内地留学し、菊井維大、兼子一に師事した。その後、1937年東北帝国大学助教授、1949年東北大学法学部教授。1952年「国会と司法権の独立 国政調査権と裁判官弾劾」で東北大学より法学博士の学位を取得。
伊東 信雄(いとう のぶお、1908年(明治41年)3月17… 伊東 信雄(いとう のぶお、1908年(明治41年)3月17日 - 1987年(昭和62年)4月10日)は、日本の考古学者。東北地方の縄文・弥生・古墳時代、古代・中世・近世史、樺太(サハリン)の先史時代研究に大きな業績を残した。東北大学名誉教授。 1957年に東北大学考古学講座初代教授に就任した。東北地方の原始・古代文化を考古学的手法により解明し、「東北の考古学の父」と呼ばれた。伊東は、山内清男とともに東北の古い縄文土器の編年を確立し、特に青森県垂柳遺跡の発掘において、東北地方の稲作農耕を明らかにする研究を進めた。 戦前には、通説として「東北の古代文化は遅れていた」、「東北地方は鎌倉時代まで石器時代が続いた」とされていた。
小野 浩(おの ひろし、1907年9月1日 - 1997年)… 小野 浩(おの ひろし、1907年9月1日 - 1997年)は、日本の哲学研究者。 仙台第一中学校、第二高等学校、1933年東北帝国大学哲学科卒業、同副手、高橋里美に師事、1938年仙台陸軍幼年学校教授、1942年二高教授、戦後1947年公職追放、1953年明治大学講師、助教授、1959年教授、1974年定年退職、城西大学教授。1982年定年退職。同11月勲四等旭日小綬章叙勲。 ドイツ哲学・文学を専門とし、日本美術、文学も論じた。
岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> … 岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> 7月4日- 1981年 <昭和56年> 3月19日)は、日本の経営者。日産自動車社長。位階は正四位。 鳥取県出身。旧制仙台一中、旧制弘前高校を経て、1931年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。東京乗合自動車での勤務を経て、1937年に日産自動車に転じ、1952年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1973年11月から1977年6月までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1981年3月19日、肝不全のために死去。74歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
亀田 孜(かめだ つとむ、1906年(明治39年)3月4日 … 亀田 孜(かめだ つとむ、1906年(明治39年)3月4日 - 1982年(昭和57年)12月5日)は、日本の美術史学者。 宮城県伊具郡角田町(現・角田市)出身。吉野臥城(甫)の三男として生まれ、1922年(大正11年)亀田よねの養子となる。宮城県立第一中学校、第二高等学校理科甲類、東北帝国大学文学部卒、奈良国立博物館学芸員、1950年(昭和25年)東北大学文学部助教授、1952年(昭和27年)教授。1969年(昭和44年)定年退官、名誉教授。1962年(昭和37年)「白鳳後期美術の諸形相」で東北大学文学博士。
島野 武(しまの たけし、1905年(明治38年)9月20日… 島野 武(しまの たけし、1905年(明治38年)9月20日 - 1984年(昭和59年)11月6日)は、日本の政治家、弁護士。元・仙台市長。 島野翠・はる夫妻の子として福岡県福岡市荒戸町に生まれる。島野家は伊達政宗以来の仙台藩士の家柄で、家格は納戸奉行などを務める大番士であった。父翠は同じく大番士の小野家から島野家に養子に入った人物で、陸軍に入り陸軍大佐まで進み、退役後には仙台藩士会会長、仙台市会議員を務めていた。 1908年(明治41年)、父の退役に伴い仙台市に移る。1912年(明治45年)、宮城県立師範学校附属小学校(現在の宮城教育大学附属小学校)に入学し、1年から6年まで級長を務めた。1918年(大正7年)、旧制宮城県立第一中学校に一番で入学し、その後には父の薦めで陸軍幼年学校を受験したが、視力が足りずに身体検査で不合格となった。
日沖 憲郎(ひおき のりお、1903年7月2日 - 1993… 日沖 憲郎(ひおき のりお、1903年7月2日 - 1993年4月8日)は、日本の刑法学者、裁判官、弁護士、法学博士。 三重県出身。小野清一郎らに師事、刑法学者として改正刑法準備草案、ついで改正刑法草案の作成に関わる。戦後政財界の主な汚職事件で弁護団に参加、ロッキード事件では全日空の若狭得治の主任弁護士として活動した。訳書にイェーリング著『権利のための闘争』(岩波文庫)がある。
野副 鉄男(のぞえ てつお、1902年5月16日 - 199… 野副 鉄男(のぞえ てつお、1902年5月16日 - 1996年4月4日)は、日本の化学者、理学博士。台北帝国大学教授を経て、戦後、東北大学理学部教授、同大学名誉教授。文化勲章受章者、日本学士院会員、仙台市名誉市民(本籍地は東京都新宿区)。 宮城県仙台市に生まれる。旧制仙台一中、旧制二高を経て、1926年(大正15年)に東北帝国大学理学部化学科を卒業。同年7月当時日本領であった台湾に渡り台湾総督府専売局に勤務する。1927年(昭和2年)工業部に籍を置き、台湾総督府中央研究所助手となる。1929年(昭和4年)台湾に台北帝国大学が新設されると理農学部化学科助教授に就任し、有機化合物の構造研究や大学の教育に尽力した。
平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月… 平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月16日 - 1986年(昭和61年)2月21日)は日本の電力土木技術者、電力事業経営者。昭和時代の電力開発に卓越した見識と強い使命感をもって貢献したと伝承されている。また女川原子力発電所等の建設にあたっては貞観地震、慶長三陸地震による大津波を考慮した適切な技術的助言を与えた。平井彌之助とも書く。 主な経歴は『土木史研究』第18号による。 平井は次に示す伝承のように、技術者としての合理性と電気事業者としての責任感に基づいて地震・津波対策の重要性を説いた。地震・津波の恐ろしさを実感していたと云われ、「貞観大津波(869年)は岩沼の千貫神社まで来た」と語っていたという。
佐藤 信彦(さとう のぶひこ、1902年5月11日 - 19… 佐藤 信彦(さとう のぶひこ、1902年5月11日 - 1977年2月3日)は、慶應義塾大学文学部教授などを務めた、日本の国文学者。 彦根藩出身の軍人であった父の任地だった島根県那賀郡浜田町(後の浜田市の中心部)で生まれ、宮城県立仙台第一中学校(宮城県仙台第一高等学校の前身)を経て、東京の私立日本中学校(日本学園中学校・高等学校の前身)に転じ、校長だった杉浦重剛の薫陶を受けた。1920年に卒業して、慶應義塾大学文学部予科に入学し、1924年には本科国文学科に進んで、折口信夫の指導を受け、川合貞一や田中豊蔵に学ぶ。1927年に大学を卒業して予科の国語教師に採用され、その後、1943年に藤山工業図書館の事務監督・主事、1945年から1947年にかけて工学部事務監督を兼任となり、戦中戦後の混乱期に、大学行政の一翼を担った。
薄井 己亥(うすい きがい、1899年(明治32年)2月25… 薄井 己亥(うすい きがい、1899年(明治32年)2月25日(旧暦) - 没年不明)は、昭和時代後期にかけて活動した郷土史家、歴史研究家、水戸史学会顧問。 茨城県那珂郡木崎村(のち那珂町、現那珂市)に生まれる。高等小学校卒業後、寺子屋で学ぶ。1918年(大正7年)頃上京し、正則英語学校で学ぶ。1919年(大正8年)仙台第一中学校(現宮城県仙台第一高等学校)の検定試験に合格する。合格後は開校したばかりの水戸高等学校に入学し、1年留年するが、1924年(大正13年)に卒業する。同年東京帝国大学法学部に入学。東大では上杉慎吉と美濃部達吉から憲法学を学ぶ。1927年(昭和2年)に卒業する。卒業後は大阪商船の内定を受けるが辞退する。
早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月… 早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月6日 - 1991年(平成3年)11月10日)は、日本の実業家。戦後数々の大型倒産において管財人として企業再建に取り組み、「会社再建の神様」と呼ばれている。 宮城県宮城郡七郷村南小泉(現仙台市)に早川智寛・長子夫妻の子として生まれる。父智寛は土建業で財を成したが、すでに第一線を退き、仙台商業会議所会頭や米穀取引所理事長などの名誉職にあった。後に仙台市長にも就任した。 慶應義塾大学在学中は茶屋遊びをはじめとする放蕩生活で遺産を蕩尽した。慶大を5回落第し、卒業するのに10年もかかった。20歳の時に父が財産分けしてくれた30万円(今だと2、3億円になる)を10年間にほぼ使い果たした。
土屋 喬雄(つちや たかお、1896年〈明治29年〉11月2… 土屋 喬雄(つちや たかお、1896年〈明治29年〉11月21日 - 1988年〈昭和63年〉8月19日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授。東京都生まれ。日本経済史専攻。 仙台一中卒業ののち、1918年に旧制第二高等学校を卒業し、1921年に東京帝国大学卒業。1924年、東京帝国大学経済学部助教授。日本資本主義論争では労農派の論客として活躍。人民戦線事件に連座し、大学を追放される。戦後、大学復帰。1954年に「封建社会崩壊過程の研究」により東京大学から経済学博士の学位を授与される。 1957年に東京大学を定年退官した後は明治大学、千葉敬愛経済大学、駒澤大学、拓殖大学、城西大学で教授として教鞭をとる。
内ヶ﨑 贇五郎(うちがさき うんごろう 1895年(明治28… 内ヶ﨑 贇五郎(うちがさき うんごろう 1895年(明治28年)9月25日 – 1982年(昭和57年)9月22日)は、日本の実業家。 宮城県黒川郡富谷町(現・富谷市)に造り酒屋の家に生まれる。父は富谷村長を務めた内ヶ崎儀左衛門。一族には、政治家で衆議院議長を務めた内ヶ崎作三郎がいる。 旧制第二高等学校から東京帝国大学工学部電気工学科に進み、1919年(大正8年)に大阪電燈に入社。大阪電燈が大阪市営になって後は大同電力に移り、第二次世界大戦時に設立された日本発送電東北支店長・東北配電社長を歴任し電力事業に一貫して携わった。 1951年(昭和26年)5月1日、第二次世界大戦後の電力事業再編に伴う、日本発送電・東北配電の解体・改組に伴い設立された東北電力の初代社長に就任。
能勢 克男(のせ かつお、1894年8月2日 - 1979年… 能勢 克男(のせ かつお、1894年8月2日 - 1979年6月17日)は、日本の思想家、社会運動家。同志社大学法学部教授、弁護士、京都家庭消費組合、京都洛北生活共同組合(現・京都生活協同組合)初代理事長。 1894年8月2日、裁判官である父・能勢萬、国分三亥の妹である母・三美の長男として仙台片平町の裁判所官舎に生まれる。仙台第一中学校、第二高等学校を経て、1919年東京帝国大学法学部を卒業。古河合名会社に入社後、遠縁の海老名弾正、宮川経輝の紹介により1922年に同志社大学講師、1924年同教授。賀川豊彦、杉山元治郎、中島重の指導で行われていた「同志社労働者ミッション」の一環である同志社消費組合に参加、1927年柳宗悦らと上賀茂民芸協団設立。
下飯坂 潤夫(しもいいざか ますお、1894年〈明治27年〉… 下飯坂 潤夫(しもいいざか ますお、1894年〈明治27年〉1月29日 - 1971年〈昭和46年〉12月26日)は、日本の裁判官、最高裁判所判事。宮城県出身。四男はシナリオ作家の下飯坂菊馬。小説家の橘かがりは孫。 旧制宮城県立仙台第一中学校、旧制第二高等学校、東京帝国大学法科大学卒業。第二次世界大戦前は鳥取地裁所長、水戸地裁所長、新潟地裁所長、大審院判事などを務め、その後は札幌高裁長官、名古屋高裁長官、大阪高裁長官を歴任。 1956年11月に最高裁判事となる。岩松三郎裁判官の後任であり、当初は安部恕東京高裁長官が候補に上ったが、安部が辞退したため下飯坂になった。 八海事件の第二次上告審では第一小法廷裁判長として単独犯行説ではなく5人犯行説をとって1962年5月17日に無罪判決を破棄し、広島高裁に差し戻す判決を言い渡した(八海事件は1968年10月に第三次上告審で無罪判決が確定した)。
高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 … 高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 - 1978年3月19日)は、日本の実業家、政治家、参議院議員(2期、自由民主党)。 宮城県栗原郡若柳町(現・栗原市)出身。1915年早稲田大学商学部卒。卒業後は七十七銀行に入り、支店長となる。その後、家業の醸造業を継ぎ、のち栗原鉄道(株)を創立、社長に就任する。 若柳町長(1935.11.28-1943.8.15)を務めたが、戦時中に地元の大政翼賛会の役員をしていたため、戦後、公職追放となる。 宮城県議を5期務め、議長を2期務める。1965年、高橋進太郎の宮城県知事選出馬による参議院補欠選挙で当選。同年春の叙勲で勲四等瑞宝章受章。1968年の第8回参議院議員通常選挙で再選した。
一力 次郎(いちりき じろう、1893年(明治26年)8月1… 一力 次郎(いちりき じろう、1893年(明治26年)8月12日 - 1970年(昭和45年)7月7日)は、日本の実業家。河北新報社元社長、会長、社主。 河北新報社創業者である一力健治郎の次男として宮城県仙台市に生まれる。 1917年京都帝国大学法学部卒業後、コロンビア大学、オックスフォード大学に留学し法律学、新聞学を専攻。帰国後、東京にて弁護士を開業する。 1924年(大正13年)1月1日河北新報社入社。副社長として、父を補佐する。 1929年(昭和4年)には父が逝去したことに伴い社長に昇格する。また、弟である五郎が実質的な副社長として兄を補佐した。 社長、会長時代は東北の振興に力を注ぎ、東北開発三法(北海道東北開発公庫法、東北開発株式会社法、東北開発促進法)の制定に傾注した上、政府の東北開発審議会委員となり、計画の策定や実施に貢献した。
小倉 強(おぐら つよし、1893年3月7日 - 1980年… 小倉 強(おぐら つよし、1893年3月7日 - 1980年2月23日)は、日本の建築家、建築史家。東北大学名誉教授。東北地方の民家についての調査を精力的に行ったことで知られ、仙台の歴史的建造物の保存にも影響を与えた。 1893年(明治26年)、宮城県仙台市で実業家・歌人の小倉長太郎(小倉茗園)の八男として生まれる。1916年(大正5年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。大学では、高橋貞太郎、小林政一らと同期であった。 1921年、東京府営繕技師となる。平和記念東京博覧会(1922年)の設計を担当。1922年、東北帝国大学技師に採用される。1929年、仙台高等工業学校教授に着任準備のため文部省在外研究員としてドイツ留学。
井川 忠雄(いかわ ただお、男性、1893年2月15日 – … 井川 忠雄(いかわ ただお、男性、1893年2月15日 – 1947年2月18日)は、日本の大蔵官僚、政治家。太平洋戦争開戦前、日米民間人交渉に携わった人物として知られる。 島根県出身。(旧制)仙台一中、一高、1917年東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、大蔵省に入省。東京税務監督局兼理財局属。近衛文麿と近しく、近衛や後藤隆之助らが設立した「昭和研究会」の初期のメンバーでもあった。1936年、門司税関長を最後に退官し、産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事となった。 1940年、ニューヨーク州のカトリック外国伝道協会のジェームズ・E・ウォルシュ、ドラウト両神父が井川のもとを訪れ、日米国交の調整問題について意見交換を行ったことを契機に、陸軍省の岩畔豪雄大佐とともに日米交渉を進め「日米諒解案」を作成するが、蚊帳の外に置かれていた松岡洋右外相の逆鱗に触れ、事実上握り潰された。
土井 辰雄(どい たつお、1892年12月22日 - 197… 土井 辰雄(どい たつお、1892年12月22日 - 1970年2月21日)は、大正・昭和期の日本のカトリック教会高位聖職者。洗礼名はペトロ。日本人初の東京大司教かつ、日本人初の枢機卿。 宮城県仙台市出身。1902年4月21日に洗礼を受ける。仙台第一中学(現・宮城県仙台第一高等学校)・第二高等学校(旧制)卒業後、ローマのウルバノ大学に留学し、神学・哲学の学位を得て帰国。1921年5月1日に司祭叙階。宮城県、岩手県の教会にて司牧活動の後、在京ローマ教皇使節秘書を務めていた。 パリ外国宣教会によって司牧されていた東京大司教区が1937年に邦人教区として独立した時、初代邦人大司教として東京教区長に任命され、1938年2月13日にジャン・アレキシス・シャンボン大司教の手により司教叙階を受けた。
土田 荘助(莊助、つちだ そうすけ、1888年(明治21年)… 土田 荘助(莊助、つちだ そうすけ、1888年(明治21年)3月13日- 1962年(昭和37年)8月25日)は、大正から昭和時代の農場経営者(馬産)、地主、実業家、政治家。衆議院議員。 秋田県平鹿郡、のちの館合村(大雄村を経て現:横手市)で素封家土田万助の長男として生まれる。仙台第一中学校(現:宮城県仙台第一高等学校)を卒業した。 平鹿郡大森町菅生田(現:横手市大森町)の土田農場を経営し、馬産に取り組み、競走馬「フレーモア」の生産者として知られた。秋田県畜産組合議長、馬政協議会議員、帝国馬匹協会特別会員、中央畜産会特別議員、秋田県畜産組合長、日本競走馬生産者協会会長、地方森林会議員、秋田県耕地協会評議員、大日本山林会評議員などを務めた。
岩崎 孫八(いわさき まごはち、1887年(明治20年)10… 岩崎 孫八(いわさき まごはち、1887年(明治20年)10月31日 - 没年不詳)は、陸軍中佐。昭和時代前期の政治家。宮城県石巻市長。 仙台市で岩崎亨平の4男として生まれた。1904年(明治37年)宮城県立第一中学校(現宮城県仙台第一高等学校)を卒業。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業し、同年12月、陸軍歩兵少尉任官。シベリア出兵に出征した。1930年(昭和5年)陸軍中佐に進む。予備役となり、石巻市会議員、県方面委員、石巻市協和会会長、郷軍石巻連合分会長などを歴任する。 1938年(昭和13年)12月26日に石巻市長に就任。在任中は石巻市立実業女学校の開校。東北振興パルプ石巻工場の操業、保健所の開設、市民病院の開院があった。
郡山 智(こおりやま さとし、1886年(明治19年)2月1… 郡山 智(こおりやま さとし、1886年(明治19年)2月10日 – 1955年(昭和30年)12月21日)は、日本の拓務官僚。南満州鉄道理事。 宮城県仙台市出身。宮城県立第一中学校、第二高等学校を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格。朝鮮総督府試補、同事務官、同書記官、同税関長、賞勲局書記官、拓殖局書記官、拓殖事務局書記官、東洋拓殖株式会社監理官、関東庁事務官、内閣拓殖局書記官、拓務省拓務局長を歴任した。 1934年(昭和9年)から1938年(昭和13年)まで南満州鉄道株式会社理事を務め、退任後は海外移住組合聯合会理事長に就任した。その他、南洋協会理事を務めた。
林 道倫(はやし みちとも、1885年(明治18年)12月2… 林 道倫(はやし みちとも、1885年(明治18年)12月21日 - 1973年(昭和48年)3月28日)は、日本の精神医学者、教育者。新制岡山大学の初代学長を務めた。名前は「どうりん」と音読みされることもある。 宮城県仙台市出身。仙台第一中学校、第二高等学校を経て、1910年12月東京帝国大学医学部卒業。帝大在学中は日本の精神病研究の先駆者である呉秀三の薫陶を受け、歌人の斎藤茂吉は同級生であった。1921年からドイツに3年間留学する。 帰国から間も無い1924年7月、岡山医科大学(現岡山大学医学部)精神科教授に就き、生涯にわたり岡山を活動拠点とする。しかし、就任早々林を待ち受けていたのが、日本脳炎の流行であった。
小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年〈明治15年〉6月4… 小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年〈明治15年〉6月4日 - 1944年〈昭和19年〉2月8日)は、日本の言語学者。朝鮮語研究、日本語研究。日本語研究にも多くの業績があるが、特に朝鮮語研究においてその後の研究の礎を築いた。 1882年、宮城県仙台市生まれ。父は実業家・歌人の小倉茗園。1903年、東京帝国大学に入学し言語学を専攻、卒業論文は「平安朝の音韻」。その後上田萬年の下で国語学研究室助手。1911年朝鮮総督府勤務。1924~1926年にはヨーロッパおよびアメリカに留学。1926年、京城帝国大学教授。1933~1943年、東京帝国大学言語学科主任教授。 主要な業績として1920年『朝鮮語学史』(刀江書院)がある。
矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日… 矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日 - 1961年(昭和36年)12月13日)は、日本の小説家、俳人。本名は義勝。矢田插雲とも。石川県金沢市出身。主著に『太閤記』『江戸から東京へ』などがある。 1882年(明治15年)2月9日、石川県金沢市生まれ。幼い頃、父の転勤によって各地を転々とした。 旧制中学時代から俳句に親しむようになり、宮城県立第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)を卒業後に上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学する。この頃に正岡子規と知り合い、俳句を学ぶようになったが、本格的に句作をするべく、中退した。 1908年(明治41年)以降、各地を転々として九州日報や芸備日日新聞にて新聞記者として勤めた。
大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1… 大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1920年1月20日)は、日本の俳人・俳論家。福島県相馬郡中村町(現在の相馬市)生まれ。本名・績(いさお)。 祖父は儒学者の神林復所で父は漢学者で漢詩人の大須賀筠軒。福島尋常中学校(現在の福島県立安積高等学校)、宮城県第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)から第二高等学校(現在の東北大学)を経て東京帝国大学文科大学国文科卒業。卒業後は教員として中学、高等女学校で教えたのち、若くして東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授に就任した。東大卒で学者一族の家系という毛並みの良さと文才を評価され、早くから新傾向俳句の旗手として嘱望された。『海紅』の河東碧梧桐に師事、同じ旧制二高出身(ただし碧梧桐は中退)で才能も評価された乙字に対し碧梧桐の期待は高かったが、海紅堂事件に端を発する海紅同人同士の内部対立により1915年5月に離脱。
今村 武志(いまむら たけし、1880年(明治13年)11月… 今村 武志(いまむら たけし、1880年(明治13年)11月2日 - 1960年(昭和35年)8月21日)は、日本の官僚、政治家である。 戦前日本の統治における要職を歴任した後、戦時下および終戦直後の仙台市長を務めた。 1880年(明治13年)、宮城県宮城郡多賀城村(当時)に、農家の長男として生まれる。学歴は、宮城県中学校、第二高等学校を経て、東京帝国大学法科卒業。 1908年(明治41年)に大学卒業後は、高級官僚として朝鮮総督府に入り要職を歴任し、黄海道知事にも就任した。1931年(昭和6年)、内地に戻り、1932年の齋藤内閣発足とともに樺太庁長官となって、1938年まで務めた。退職後には、日本拓殖協会理事に就任した。
小山 東助(おやま とうすけ、1879年(明治12年)11月… 小山 東助(おやま とうすけ、1879年(明治12年)11月24日 - 1919年(大正8年)8月25日)は、衆議院議員(公友倶楽部→憲政会)、ジャーナリスト、教育者。号は鼎浦。 宮城県本吉郡気仙沼本郷(気仙沼町を経て現気仙沼市)出身。宮城県立尋常中学校、第二高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に入学した。尋常中学校では吉野作造と回覧雑誌を発行し、高等学校でも吉野・内ヶ崎作三郎らと雑誌を編集した。大学でキリスト教と政治に傾倒し、海老名弾正の本郷教会に関係したほか、島田三郎に私淑した。 1903年(明治36年)に大学を卒業すると、島田が経営する東京毎日新聞社に入社した。その後、東京日日新聞に移り、また早稲田大学講師として倫理学・新聞学を担当した。
青木 存義(あおき ながよし、1879年8月15日 - 19… 青木 存義(あおき ながよし、1879年8月15日 - 1935年4月19日)は、日本の国文学者、唱歌作詞家、小説家、教育者。童謡『どんぐりころころ』の作詞者として知られる。 宮城県宮城郡松島町幡谷新田出身。宮城県尋常中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)、東京帝国大学文科大学卒業(1906年)。1917年に東京音楽学校教授就任。その後は文部省図書編集部長(1924年)、旧制新潟高等学校校長(1934年)などを歴任。文部省在職中に『どんぐりころころ』などを始め、文部省唱歌を数多く作りあげた。また青木苫汀(せんてい)の名で『我や人妻』などの小説も書いている。 180cmの長身で温和な性格だったと伝わる。
真山 青果(まやま せいか、旧字体:眞山 靑果、1878年(… 真山 青果(まやま せいか、旧字体:眞山 靑果、1878年(明治11年)9月1日 - 1948年(昭和23年)3月25日)は、日本の劇作家・小説家。本名は、真山 彬(まやま あきら)。日本芸術院会員。 宮城県仙台市裏五番町三番地に生まれる。父・寛は旧伊達藩士の士族で小学校の校長だった。1895年宮城県尋常中学校を中退。1896年に上京し、1897年日本中学校を卒業。同年、第二高等学校医学部に入学するも、小説や詩の習作に熱中して落第。1904年、佐藤紅緑に師事し「青果」の号を与えられる。翌年には小栗風葉門下となる。1907年、仙台市に近い農村を舞台とした農民文学の『南小泉村』(「新潮」1907年5月号)で注目されるも、1908年原稿二重売り事件を起こす。
阿刀田 令造(あとうだ れいぞう、1878年(明治11年)8… 阿刀田 令造(あとうだ れいぞう、1878年(明治11年)8月7日 - 1947年(昭和22年)5月21日)は、日本の西洋史学者である。宮城県仙台市の(旧制)第二高等学校第9代校長を務めた。 1878年(明治11年)に宮城県名取郡下増田村(現:名取市)で生まれる。父は下増田村初代村長阿刀田義潮(あとうだ よしとも)。宮城県仙台第一中学校(現:宮城県仙台第一高等学校)を卒業して、1902年(明治35年)に(旧制)第二高等学校(現:東北大学)に入る。大学卒業後、さらに東京帝国大学・京都帝国大学法学部に進学した。在学中、西洋学に興味を持った。東京帝大に在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が東京府東京市本郷区で主宰していた求道学舎に寄宿した。
吉野 作造(よしの さくぞう、1878年〈明治11年〉1月2… 吉野 作造(よしの さくぞう、1878年〈明治11年〉1月29日 - 1933年〈昭和8年〉3月18日)は、大正時代を中心に活躍した日本の政治学者、思想家。「民本主義」という訳語の提唱者。袁世凱の長男である袁克定の家庭教師。「黎明会」の設立発起人。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。初名は「作蔵」で、大正6年(1917年)5月「作造」と改名した。号は「古川学人」。弟は商工官僚・政治家の吉野信次。 明治11年(1878年)、宮城県志田郡大柿村96番地(現・大崎市古川十日町)に木綿織物の原料を扱う糸綿商吉野屋を営む父・年蔵、母・こうの長男として生まれた。当時の吉野屋には、祖母、両親、5歳と3歳になる二人の姉、そして父の姉夫婦が同居していた。
志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月1… 志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の医学者・細菌学者。赤痢菌の発見者として知られる。朝鮮総督府医院長・京城医学専門学校校長・京城帝国大学総長などを歴任。 赤痢菌の発見とともに化学療法を研究し、明治時代の日本の近代化の中で世界に通用する科学研究の成果を成し遂げた先駆者と評される。赤痢菌の学名(属名)は志賀に因む Shigella であるが、これは主要な病原細菌の学名に日本人の名前が冠されている殆ど唯一の例となった。数々の名誉を得ながらも清貧を貫き、質素な暮らしに徹した。 1871年(明治3年)、仙台藩領・陸前国宮城郡仙台(現在の仙台市)で、佐藤信の三男として生まれた。
愛知 治郎 は、日本の政治家。参議院議員(3期)、自由民主党… 愛知 治郎 は、日本の政治家。参議院議員(3期)、自由民主党参議院議員副会長を歴任。
伊藤 邦彦(いとう くにひこ)は、日本の薬学者(薬理遺伝学・… 伊藤 邦彦(いとう くにひこ)は、日本の薬学者(薬理遺伝学・抗体工学・免疫学・分子生物学・臨床薬理学・医療薬学)。学位は薬学博士(東北大学・1989年)。静岡県立大学薬学部教授・大学院薬学研究院教授。 東北大学医学部附属病院助手、スクリプス研究所博士研究員、秋田大学医学部助教授などを歴任した。 宮城県仙台第一高等学校を卒業し、東北大学の薬学部にて薬学を学ぶ。同大学を卒業後は、そのまま大学院の薬学研究科に進み、博士後期課程を修了した。1989年、薬学博士を取得した。学位論文の題は 「抗修飾核酸塩基モノクローナル抗体の癌診断及びモニタリングへの応用を目的とした基礎研究」。 東北大学医学部附属病院に採用され、薬剤部の助手として勤務した。
ヴィヴィアン佐藤は、日本の非建築家、アーティスト、イラストレ… ヴィヴィアン佐藤は、日本の非建築家、アーティスト、イラストレーター、パーティイスト、ドラァグクイーン、著作家、映画評論家。宮城県出身。宮城県仙台第一高等学校卒業。 「東京ウォーカー」「ARIGATT」「AERA」「S」「ゴシック・アンド・ロリータバイブル」「流行通信」「リトルモア」「ATTIVA」「TITLE」「VOGUE NIPPON」「BT/美術手帖」「BRUTUS」「THE SIGN TIMES」「S&Mスナイパー」「pen」「FIGARO」等多数。「朝日新聞」「ジャパンタイムズ」「ART iT」「週刊金曜日」「ゆかいライフ 」 「トゥナイト」「新・モンド研究所」「街角の君たち」(テレビ朝日)、「2時ドキッ!」(関西テレビ)等多数出演。