スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
土田 正剛(つちだ せいごう、1943年(昭和18年)10月… 土田 正剛(つちだ せいごう、1943年(昭和18年)10月25日 - 2026年(令和8年)4月16日)は、日本の政治家。山形県東根市長(7期、在任中死去)。元・山形県議会議員(4期)。 山形県東根市出身。山形県立山形東高等学校卒業。1967年(昭和42年)3月、慶應義塾大学法学部卒業。1969年(昭和44年)5月、衆議院議員松沢雄蔵の秘書となる。1974年(昭和49年)12月、国務大臣となった松沢の秘書官となる。 1979年(昭和54年)4月30日、山形県議会議員に就任。4期連続当選。県議時代は自由民主党に所属し、同党山形県連組織委員長、政調会長、幹事長などを務めた。 1993年(平成5年)2月14日に行われた山形県知事選挙に加藤紘一や近岡理一郎など自民党主流派の支援、さらに公明党、民社党、スポーツ平和党の推薦を得て立候補するも落選。
阿部 正俊(あべ まさとし、1942年11月4日 - 202… 阿部 正俊(あべ まさとし、1942年11月4日 - 2020年10月25日)は、日本の厚生官僚、政治家。 厚生省老人保健福祉局長を経て、自由民主党参議院議員(2期)を務めた。 山形県北村山郡小田島村(現東根市)出身。山形県立山形東高等学校を経て、東北大学法学部を卒業。 左目を5歳の時に事故で失い、左耳も高校生の時に聞こえなくなった。大学時代、障害者施設の花壇作りや農家に泊まり込んで農作業を手伝うワークキャンプに打ち込み、活動を通じ、社会福祉の整備が手付かずになっていると痛感する。 1966年4月、国の社会福祉の仕組みを築くために厚生省に入省。1978年12月、橋本龍太郎厚生大臣秘書官事務取扱。
鹿野 道彦(かの みちひこ、1942年〈昭和17年〉1月24… 鹿野 道彦(かの みちひこ、1942年〈昭和17年〉1月24日 - 2021年〈令和3年〉10月21日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)、衆議院運輸委員長、農林水産大臣(第14・51・52代)、総務庁長官(第12代)、運輸政務次官、新党みらい代表、国民の声代表、民政党幹事長、民主党国会対策委員長、常任幹事会議長、副代表、自由民主党青年局長、総務局長などを歴任した。父は衆議院議員を5期務めた鹿野彦吉。 民主党内では珍しい、自民党清和政策研究会出身。自民党時代は「清和会のプリンス」と呼ばれ47歳で初入閣するなど、将来の総裁候補として期待されていた。離党後も新党みらい・国民の声で代表を務め、新進党・民主党でも党首(代表)候補としてたびたび名前が挙がった。
三浦 新(みうら あらた、1940年〈昭和15年〉5月30日… 三浦 新(みうら あらた、1940年〈昭和15年〉5月30日 - 2013年〈平成25年〉3月12日)は、日本の銀行家。山形銀行頭取、会長を歴任した。2010年(平成22年)旭日小綬章受章。位階は従五位。 三浦弥太郎山形銀行頭取の長男として、山形県山形市に生まれる。東京商科大学(現一橋大学)学長や両羽銀行(現山形銀行)頭取を務めた三浦新七は祖父。 慶應義塾大学商学部卒業後、三菱銀行勤務を経て、山形銀行入行。常務、専務を歴任し、45歳で頭取に就任するが、これに対しては行内外から若すぎるとの声も出た。 頭取在任中は、金融の自由化や国際化に対応し、事務センターの建設、第三次オンライン計画の策定のほか1988年(昭和63年)には、総預金1兆円を達成した。
舩山 龍二(ふなやま りゅうじ、1940年2月6日 - )は… 舩山 龍二(ふなやま りゅうじ、1940年2月6日 - )は、日本の実業家、JTB元代表取締役会長、元社長、立教大学観光学部元教授、日本ワーキング・ホリデー協会元会長、公益財団法人日本交通公社評議員。 1940年2月6日、山形県山形市生まれ。山形東高卒業。1962年3月、東京教育大学(現・筑波大学)理学部卒業。同年4月、日本交通公社(現JTB)入社。 国際旅行事業からその経歴をスタートさせ、海外旅行のルック販売部販売課長、国内旅行のエース課長などを歴任。経営企画室長、取締役九州営業本部長、常務人事部長などを経て1996年に代表取締役社長就任。2002年から代表取締役会長を務めた。 JTB会長と兼任して立教大学観光学部教授を務め、ツーリズム産業の発展のために後進の育成を行うとともに、日本旅行業協会(JATA)では副会長、海外旅行委員長などの要職を務め、初の大使が誕生したスロバキアには旅行会社5社とJALの協力を得て初のチャーター便を飛ばすなどの活動を行った。
叶内 紀雄(かのうち としお、1940年(昭和15年)- )… 叶内 紀雄(かのうち としお、1940年(昭和15年)- )は、日本の銀行家。殖産銀行頭取を歴任した。 殖産相互銀行社長を務めた叶内長兵衛の孫として山形県山形市に生まれる。 山形県立山形東高等学校を経て中央大学法学部を卒業する。山形東高時代の同級生には、山形銀行頭取を歴任した三浦新らがいた。 中大卒業後、日本勧業銀行勤務を経て、殖産相互銀行入行。1987年には、在任25年に及んだ長谷川吉内社長の後を受け同行社長に就任する。 トップ在任中は普通銀行への転換、東証2部への上場など功績もあったが平成銀行、ミライオン銀行と2度にわたる合併破談を招いたとして引責辞任。特別相談役に退いた。
高宮 眞介(たかみや しんすけ、1939年1月7日 - )は… 高宮 眞介(たかみや しんすけ、1939年1月7日 - )は、日本の建築家。山形県村山市出身。 山形県立山形東高等学校を経て、1962年に日本大学理工学部建築学科を卒業後、大林組に勤務。 1966年から1968年まで、デンマークのクローン・ラスムッセン設計事務所に勤務する。その後丹下健三都市建築設計研究所を経て、 1975年に計画・設計工房を谷口吉生と開設。1980年には谷口建築設計研究所取締役に就任し、1985年に谷口建築設計研究所の代表となり、谷口吉生とともに、資生堂アートハウス、土門拳記念館、東京都葛西臨海水族園、豊田市美術館などを手がけていく。 1996年から2007年まで母校日本大学理工学部建築学科の教授を務める。
佐藤 亮一(さとう りょういち、1937年10月18日 - … 佐藤 亮一(さとう りょういち、1937年10月18日 - 2020年11月11日)は、日本の日本語学者。専門は方言学。山形県山形市出身。 山形県立山形東高等学校を経て、1960年東北大学文学部国語学科卒業、1963年同大学院文学研究科国語学専攻課程修士課程修了(文学修士)、1966年同博士課程単位取得退学。1966年聖和学園短期大学助教授、1968年国立国語研究所第一研究部地方言語研究室に入室、1975年同室長、1989年フェリス女学院大学文学部教授、1994年東京女子大学現代文化学部教授、2006年退職。 国立国語研究所では、「日本言語地図(LAJ)」「方言文法全国地図(GAJ)」、「日本方言大辞典」などの編纂にあたった。
冨士田 元彦(ふじた もとひこ、1937年6月26日 - 2… 冨士田 元彦(ふじた もとひこ、1937年6月26日 - 2009年12月18日)は、日本の評論家、編集者、実業家。京城府(現・ソウル特別市)生まれ、山形県出身。 山形県立山形東高等学校を経て、早稲田大学文学部史学科卒業。角川書店の「短歌」編集長として60年代の前衛短歌運動の一端を担う。1972年、個人誌「雁-映像+定型詩」を創刊。14号まで編集・発行を続ける。小紋潤と設立した書肆「雁書館」代表。短歌及び日本映画の評論を精力的に行った。著書に「冨士田元彦短歌論集」など。2009年、敗血症のため逝去。
峯田 義郎(みねた よしろう、1937年 - )は日本の現代… 峯田 義郎(みねた よしろう、1937年 - )は日本の現代具象彫刻家。山形県生まれ。新座市在住。東北芸術工科大学芸術学部美術科教授。
斎藤 たま(さいとう たま、1936年- 2017年1月26… 斎藤 たま(さいとう たま、1936年- 2017年1月26日)は、日本の民俗学者。 山形県東村山郡山辺町に生まれる。山形県立山形東高等学校定時制を卒業後は東京渋谷の書店に就職した。 1970年から子供の遊びや民俗風習の聞き取り調査を日本全国で手がけ、1971年に仕事は退職した。同じ遊びが離れた地域に広く分布していることに興味を抱いたことが、収集を手がけるきっかけだった。 1972年から埼玉県秩父市浦山の過疎部落(嶽)に移り住み、自給自足で暮らしながら著作を執筆した。 嶽での生活を28年あまり続けたのち秩父市街地に移住、晩年は長く入院生活を送り、2017年に死去した。 斎藤の収集した民俗資料については「今では採録することができない貴重なものも少なくありません」「採集された民俗は現在では消滅の危機にあり、それを書き残した調査カードは民俗学的に貴重な資料である」といった評価がなされている。
渋谷 重光(しぶや しげみつ、1935年6月7日 - 199… 渋谷 重光(しぶや しげみつ、1935年6月7日 - 1992年4月16日)は、日本の社会学者、社会心理学者、広告学者。 1935年山形県山形市生まれ。1954年山形県立山形東高等学校卒業。1958年中央大学法学部法律学科卒業。1961年中央大学大学院法学研究科公法専攻修士課程修了。日本産業構造研究所研究員、神奈川大学教授。
東海林 周太郎(しょうじ しゅうたろう、1933年11月12… 東海林 周太郎(しょうじ しゅうたろう、1933年11月12日 - 2017年7月15日)は、山形県山形市出身のバスケットボール選手・指導者である。 山形東高校から立教大学に進み、全日本チームの一員としてメルボルン五輪に出場。 卒業後は日本鉱業に入社し、ローマ五輪に出場した。 引退後はコーチに転じ、1966年には全日本の監督を務めた。 1995年にバスケットボール日本リーグ機構が発足されると、専務理事に就任した。 2017年7月15日、心筋梗塞のため神奈川県藤沢市の病院で死去。83歳没。晩年は同県茅ヶ崎市に在住しており、葬儀も茅ヶ崎市内の葬祭場でしめやかに営まれた。
五百澤 智也(いおざわ ともや、1933年5月30日 - 2… 五百澤 智也(いおざわ ともや、1933年5月30日 - 2013年12月14日)は、日本の地理学者。山岳・氷河地形研究者であり、山岳鳥瞰図作家として知られる。 山形県山形市出身。東京教育大学理学部地学科地理学専攻卒業。大学時代には、九州南端の開聞岳から北海道の利尻山まで日本各地の山々に登り、日本アルプスにおける氷河地形の発達について強い関心を抱く。大学卒業後には魚沼水無川シン沢単独遡行。建設省地理調査所(のちの国土地理院)を37歳で退職するまで、空中写真撮影、写真判読、基本図測量、修正測量、地形図製作などに従事し、積雪調査の開発研究にあたる。1962年には、それまで知られていなかった槍・穂高山域で最低位の堆石堤群を発見し、その後、日本の氷河地形の再検討を続ける。
服部 公一(はっとり こういち、1933年4月24日 - )… 服部 公一(はっとり こういち、1933年4月24日 - )は日本の作曲家、随筆家、音楽評論家。神奈川県鎌倉市在住。 昭和8年(1933年)、山形県山形市生まれ。音楽教師であった祖母の指導で幼少時よりピアノを始める。 山形県立山形東高等学校卒業後、学習院大学文学部哲学科に入学し、久野収ゼミに所属。大学では皇太子・明仁親王と同学年。学部が違ったためいわゆる「ご学友」ではなかったが、「美術史」など一般教養科目をともに履修し、親しく言葉を交わすこともあったという。現在も宮中の茶会などに招かれる間柄である。学生時代からアマチュアの音楽家として活動し、中田喜直・山田耕筰・團伊玖磨らの知遇を得る。同大学4年の時NHKのオーディションに合格。
ばば こういち(1933年(昭和8年)3月28日 - 201… ばば こういち(1933年(昭和8年)3月28日 - 2010年(平成22年)4月9日)は、日本のジャーナリスト。本名・馬場 康一。 1977年(昭和52年)、中山千夏らと革新自由連合を結成し、参議院選に出馬するが落選した。「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めた。 モデルガンが趣味で、『コンバットマガジン』などの専門誌に記事を寄稿した。 結婚歴は3回。長女は一般女性。次女はジャーナリストの堤未果、その夫は川田龍平。長男はアニメーション作家の堤大介。
鈴木 正雄(すずき まさお、1932年9月18日 - )は、… 鈴木 正雄(すずき まさお、1932年9月18日 - )は、日本の実業家。ソープランド32軒や宝石店やボクシングジム、不動産会社、バスタオル洗濯会社などを擁する角海老グループの創業者・経営者で「ソープの帝王」と呼ばれる。 富裕な家具屋と妾の間に生まれ、山田家の養子となる。東京府東京市金曾木国民学校(現:台東区立金曾木小学校)を経て、1945年4月、旧制開成中学校(現:開成中学・高校)に入学。同年5月、山形県に疎開し、旧制山形中学校(現:山形県立山形東高等学校)に転入。 第二次世界大戦後、東京に戻るが、実家と養家の没落に伴い実母の元に戻り、困窮生活を送り、アルバイトをしながら旧制開成中学校に3年間学ぶ。
相馬健一(そうま けんいち、1931年(昭和6年)8月13日… 相馬健一(そうま けんいち、1931年(昭和6年)8月13日 - )は、日本の実業家。元山形新聞社社長、会長。
星川 保松(ほしかわ やすまつ、1930年(昭和5年)8月2… 星川 保松(ほしかわ やすまつ、1930年(昭和5年)8月20日 - )は、日本の政治家。尾花沢市議会議員、山形県議会議員、尾花沢市長を歴任。その後参議院議員を1期務め、民主改革連合常任幹事(代表)として細川内閣の連立に参加し、日本社会党に移籍。落選後は、民主党山形県連代表代行、同顧問などを歴任。勲三等旭日中綬章。
丹羽 厚悦(にわ こうえつ、1930年〈昭和5年〉8月12日… 丹羽 厚悦(にわ こうえつ、1930年〈昭和5年〉8月12日 - 2023年〈令和5年〉6月23日)は、日本の銀行家。元山形銀行頭取。 山形県山形市出身。福島経済専門学校(のち福島大学経済学部、現在の同大学人文社会学群経済経営学類)卒業後、両羽銀行(現在の山形銀行)入行。 1993年(平成5年)、8年あまり頭取を務めた三浦新の後任として昇格する。これは戦後初めて、創業家である三浦家、長谷川家以外での頭取就任となった。 2005年(平成17年)には在任12年を迎えたこと、じゅうだん会による新システムも稼動となったことから、長谷川吉茂専務に大政奉還し顧問に退いた。その堅実な経営手腕には定評があった。
髙橋 和雄(たかはし かずお、1930年〈昭和5年〉7月28… 髙橋 和雄(たかはし かずお、1930年〈昭和5年〉7月28日 - 2022年〈令和4年〉1月8日)は、山形県の政治家。山形県知事(在任期間・1993年〈平成5年〉2月14日 - 2005年〈平成17年〉2月14日)。山形県山形市出身。 旧制山形中学(現:山形県立山形東高等学校)、東北大学法学部を経て同大学院を修了。山形銀行頭取を務めた丹羽厚悦は、旧制山形中学で同学年で親しき仲だった。 1953年(昭和28年)に山形県庁に入庁。 東京事務所長、 農林水産部長、 教育長等を歴任後、1986年(昭和61年)副知事に就任し、1988年(昭和63年)秋、病に倒れた板垣清一郎知事が東京・虎の門病院に2ヶ月余り入院した際には板垣に代わり県政の指揮を執った。
無着 成恭(むちゃく せいきょう、本名同じ、1927年3月3… 無着 成恭(むちゃく せいきょう、本名同じ、1927年3月31日 - 2023年7月21日)は、日本の教育者、禅宗の僧侶。生活綴方の代表的な文集『山びこ学校』を刊行し、『全国こども電話相談室』の回答者を28年間務めた。 山形県南村山郡本沢村(現在の山形市本沢)沢泉寺に長男として生まれる。山形県立山形中学校(現在の山形県立山形東高等学校)卒業。1948年、山形師範学校(現在の山形大学地域教育文化学部)卒業し、山形県南村山郡山元村(現在の上山市)立山元中学校(僻地1級校)に赴任した。国語教育として須藤克三からの助言を得て、「生活綴方運動」に取り組む。クラス文集『きかんしゃ』所収の「母の死とその後」(江口江一作)が文部大臣賞を受賞する。
永田 亀昭(ながた かめあき、1922年〈大正11年〉9月1… 永田 亀昭(ながた かめあき、1922年〈大正11年〉9月17日 - 1998年〈平成10年〉12月29日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(4期)、元自由民主党山形県議会議員(2期)。位階は従五位。 山形県南村山郡上山町(現上山市)出身。山形県立山形中学校(現山形東高校)卒、1944年に日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)卒業。なお、1944年に軍隊入隊、陸軍軍医学校に入学し、1945年修了。復員後、永田歯科医院で歯科医師に従事。1964年に上山市歯科医師会長に就任。1966年山形県歯科医師会理事。 1955年から1983年まで自由民主党に所属。上山支部長や山形県支部連合会の総務会や政務調査会の各副会長などを務めた。
星川 清司(ほしかわ せいじ、本名:清(きよし)、1921年… 星川 清司(ほしかわ せいじ、本名:清(きよし)、1921年10月27日 - 2008年7月25日)は、日本の脚本家・小説家。
降矢 敬義(ふるや けいぎ、1920年10月25日 - 没年… 降矢 敬義(ふるや けいぎ、1920年10月25日 - 没年不明)は、日本の官僚、政治家。自治事務次官を経て、自由民主党参議院議員(2期)。 山形県山形市出身。山形県立山形中学校、旧制山形高等学校を経て、1942年に東京帝国大学法学部を卒業。高等文官試験に合格し内務省に入省(地方局配属)。しかし、翌年に応召され、1947年の復員までシベリアに抑留された。1950年に静岡県商工課長。 その後、自治庁行政課長、自治大臣官房参事官、自治省選挙局長、同税務局長、自治大学校長等を歴任。1970年に消防庁長官、1973年に自治事務次官を最後に退官。安孫子藤吉山形県知事が国政に転じるにあたって、その後継として一時、擬せられた。
新関 岳雄(にいぜき がくお、1917年3月11日 - 19… 新関 岳雄(にいぜき がくお、1917年3月11日 - 1986年10月20日)は、日本のフランス文学者。山形大学名誉教授。 山形県生まれ。旧制山形中学校、旧制山形高等学校を経て、1941年東京帝国大学文学部仏文科卒業、山形大学助教授、教授、81年定年退官、名誉教授、山形女子短期大学学長。郷里の先輩・阿部次郎についても研究した。
吉川 需(よしかわ まつ、1916年 - 1995年)は、日… 吉川 需(よしかわ まつ、1916年 - 1995年)は、日本の造園学者。庭園史家。研究は発掘庭園史をテーマに戦後に東京大学の助手を経て昭和26年から文化財保護委員会に移り以後、文化庁退官まで一貫して庭園の調査研究、文化財遺構の発掘調査・復元整備に尽力。師の吉永義信と共に精力的に全国を巡り、幾多の名園を実測調査、記録・報告する。 庭園の名勝指定や解除、遺構の整備、復原などに携わり、平城京の北宮庭園などの指定、岡山の後楽園をはじめ、鹿苑寺(金閣寺)や縮景園などの戦災復旧事業に尽力すると同時に、中尊寺、毛越寺、無量光院などに関連した平泉の庭園遺跡について一連の調査を進め、その成果を総括。 文化財保護審議会専門委員(第3專門調査会会長),財団法人日本ナショナルトラスト専門委員、社団法人日本庭園協会理事長、文化財指定庭園保護協議会会長、識名園復旧整備委員会、史跡永福寺発掘整備委員会、松本城整備研究会会長他、昭和35年5月から日本造園学会評議員・理事・監事・副会長を歴任。
里木 佐甫良(さとき さぶろう、1912年3月31日 - 1… 里木 佐甫良(さとき さぶろう、1912年3月31日 - 1999年12月23日)は、日本の俳優。本名は佐藤 喜三郎。旧芸名は里木三郎、里木左甫良。他に里木三朗、里木三甫良、黒木三郎、黒木三朗、黒木左甫良、黒木佐甫良、悟木三郎などの別表記もある。 山形県山形市八森出身。旧制・山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)卒業。東京俳優生活協同組合に所属していた。 中学校卒業後の1930年に上京し、1931年、日本俳優学校(歌舞伎役者・六代目尾上菊五郎が設立した四年制の学校)へ二期生として入学し、演技を学ぶ。同期には山形勲や植村謙二郎、加藤嘉、三津田健がいた。その後は日本楽劇協会演劇研究所(山田耕筰が設立)に在籍し、1944年に陸軍移動演劇隊に入隊、満州および北支・中支前線を慰問で廻った。
鈴木 啓蔵(啓藏、すずき けいぞう、1910年〈明治43年〉… 鈴木 啓蔵(啓藏、すずき けいぞう、1910年〈明治43年〉8月20日 - 1993年〈平成5年〉5月8日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(3期)。位階は正六位。 山形県南村山郡上山町十日町出身。旧制山形中学校(現山形東高校)、早稲田大学中退。1931年に兄の死去に伴い上山町に帰郷。太平洋戦争に応召。1945年終戦は台湾の屏東で迎えた。復員後、山形県に奉職。山形県知事室秘書課長、文書課長、統計課長、東京事務所長、最上事務所長、東南村山地方事務所長を歴任。 1959年より松本長兵衛市長のもと上山市助役を2期務めた。 1971年7月に上山市長選に出馬し、雨谷憲作との一騎打ちを制して初当選。(鈴木啓蔵13,549票、雨谷憲作9,204票) 1975年6月の市長選では、無投票当選し2選。
山中 吾郎(やまなか ごろう、1910年(明治43年)7月2… 山中 吾郎(やまなか ごろう、1910年(明治43年)7月23日 - 1983年(昭和58年)6月2日)は、昭和期の教育者、地方公務員、政治家。衆議院議員。 和歌山県伊都郡名倉村(高野口町を経て現橋本市高野口町)出身。1933年(昭和8年)東京高等師範学校文科を卒業した。 山形県立山形中学校(現山形県立山形東高等学校)教諭、三重県師範学校教諭、京都府師範学校教諭などを歴任。1943年(昭和18年)7月、高等試験行政科試験に合格。1945年(昭和20年)岩手県庁に入庁。学務課長兼厚生課長、労働部長、教育部長を歴任し、1948年(昭和23年)岩手県教育委員会教育長に就任。その後、公共企業体等労働委員会地方調停委員、岩手大学講師、私立修紅短期大学助教授などを務めた。
原 知一(はら ともかず、1910年5月 - 2004年3月… 原 知一(はら ともかず、1910年5月 - 2004年3月31日)は、日本の歌人、作詞家。山形市出身。 1910年(明治43年)、山形市に生まれる。旧制山形中学校在学中にアララギへ入会し、結城哀草果に師事した。大谷大学予科へ進学し、1936年(昭和11年)に同大学文学部国文学科を卒業。帰郷後は国語教諭となり、宮内高等女学校(山形県立南陽高等学校の前身の一校)に在職中の1944年(昭和19年)、宮内町(現在の南陽市)出身で12月7日にフィリピンのオルモック湾で玉砕した粕川健一を顕彰する「軍神粕川少尉」の歌を作詞した。1946年、黒江太郎と共に「宮内アララギ短歌会」を結成。 1947年(昭和22年)、憲法普及会山形県支部が日本国憲法公布を記念して実施した戦前の「最上川」に代わる2代目の県民歌募集に際して生まれたばかりの長男の名義で応募した「朝ぐもの」が入選し、5月3日の憲法施行記念祝典で演奏されるがこの2代目県民歌は不評のため短期間で演奏されなくなり「最上川」が再び県民歌として返り咲いている。
阿部 金蔵(金藏、あべ きんぞう、1907年(明治40年)1… 阿部 金蔵(金藏、あべ きんぞう、1907年(明治40年)12月14日 - 1981年(昭和56年)9月2日)は、日本の政治家。山形県天童市長を務めた(5期)。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 山形県出身。旧制山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)卒業。卒業後は山形県庁に入り、道路書記並土木書記、県社会事業主事補、山形県属などを経て、1951年、山形県議会議員に当選。1期務めた後、天童町議会議員に転じた。町議会議長を経て、市制施行により市議会議長となった。1962年、天童市長に当選。当選後は市建設基本計画を策定した。3期目に市総合計画を策定、4期目に市民生活環境基準を策定した。5期目途中の1981年に死去。
神保 光太郎(じんぼ こうたろう、1905年〈明治38年〉1… 神保 光太郎(じんぼ こうたろう、1905年〈明治38年〉11月29日 - 1990年〈平成2年〉10月24日)は、昭和期の日本の詩人・ドイツ文学者。本名は光太郎(みつたろう)(姓の読みを「じんぼう」とする文献もある)。 山形県山形市生まれ。山形県立山形中学校から山形高校を経て、京都帝国大学文学部独文科を卒業。在学中から同人誌に詩や短歌を発表して新散文詩運動の一翼を担った。 1934年、埼玉県浦和市(現:さいたま市)の別所沼のほとりに家を新築し、生涯にわたって活動拠点とした。この別所沼の家に、神保を兄と慕う立原道造の来訪をしばしば受けている。1935年、保田與重郎や亀井勝一郎らと『日本浪曼派』に参加し、詩誌『四季』などに作品を発表した。
阿部 吉雄(あべ よしお、1905年〈明治38年〉5月12日… 阿部 吉雄(あべ よしお、1905年〈明治38年〉5月12日 - 1978年〈昭和53年〉5月30日)は、日本の中国哲学者。 1905年、山形県山形市で生まれた。山形中学校を経て、東京帝国大学文学部支那哲学科に入学。1928年、卒業論文『荀子の研究』を提出して同大学を卒業。同大学大学院に進学した。 1930年、東方文化学院東京研究所の助手となり、服部宇之吉の「儀礼鄭注補正」の助手を務めた。1935年に同研究所研究員となり、「朱子経説の淵源」の題目で研究を進めた。 1941年、京城帝国大学法文学部助教授として赴任。当地で朝鮮儒学に関心を抱いた。李退渓と闇書の思想的血縁関係について著した専門書をまとめたものの、公刊直前に敗戦となり、原稿ともども失う。
高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月1… 高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月18日 - 1993年(平成5年)7月7日)は、日本の哲学者。京都帝国大学教授・神奈川大学教授・日本大学教授・東海大学教授、秋田経済法科大学学長を歴任。 1905年、山形県山形市で生まれた。1918年、山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に入学。1925年、山形高等学校を卒業。西田幾多郎、田辺元の著書に触発され、京都帝国大学文学部哲学科に入学。当時の文学部には西田幾多郎、波多野精一、田辺元、和辻哲郎らが教員として在籍しており、京都学派の全盛期であり、特に田辺から多大な影響を受けた。西田幾多郎からは俊秀と評され、京都帝国大学を首席卒業した。
土井 武夫(どい たけお、1904年(明治37年)10月31… 土井 武夫(どい たけお、1904年(明治37年)10月31日 - 1996年(平成8年)12月24日)は、日本の航空機設計者。山形県山形市香澄町出身。
内藤 雄(ないとう たけし、1903年(明治36年)8月17… 内藤 雄(ないとう たけし、1903年(明治36年)8月17日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人(海兵52期、海大36期卒)。太平洋戦争において艦隊参謀職を歴任した後、海軍乙事件で殉職。殉職による一階級昇進で最終階級は海軍大佐。 山形県出身。山形中学卒。海軍兵学校52期。席次は236名中6番。高松宮宣仁親王、入佐俊家、淵田美津雄らは同期生である。海軍大学校甲種36期。内藤は戦闘機の源田實と並び、爆撃機の内藤雄として知られ、樋端久利雄らとともに海軍爆撃術の体系化に功績があった。1939年(昭和16年)1月から10月まで独出張。第二次世界大戦勃発直後の独空軍は目覚しい活躍を見せていたが(電撃戦)、内藤は海上攻撃における問題点を指摘した。
川井 巌(かわい いわお、1896年(明治29年)9月2日 … 川井 巌(かわい いわお、1896年(明治29年)9月2日 - 1972年(昭和47年)5月15日)は、日本の海軍軍人、実業家。海兵47期・海大29期。山形県出身。 1943年(昭和18年)、海軍大佐・軽巡洋艦「木曽」艦長としてキスカ島撤退作戦に参戦し、武功を挙げた。 帝国海軍での最終階級は海軍少将。1945年(昭和20年)11月30日を以て帝国海軍が消滅した後も、公職追放を受けずに1948年(昭和23年)12月まで第二復員省人事局長などの公職に就き続け、海軍の残務を処理した。 1953年(昭和28年)、東京光学機械株式会社(現:トプコン)に入社し、東京光学機械株式会社 営業部長を経て、東光物産株式会社 社長(在任期間:1957年〈昭和32年〉7月 - 1965年〈昭和40年〉9月)を務めた。
竹岡 勝也(たけおか かつや、1893年11月10日 - 1… 竹岡 勝也(たけおか かつや、1893年11月10日 - 1958年9月30日)は、国学研究を中心に、日本思想史を専門とする日本の歴史学者で、九州帝国大学教授などを歴任した。 阿部 勝也として、山形県飽海郡上郷村山寺(後の松山町→酒田市)に生まれる。阿部一郎(阿部襄の父)、阿部次郎、堀三也、阿部余四男は兄、阿部六郎は弟である。 地元の山寺尋常高等小学校から、1907年に山形県立山形中学校(山形県立山形東高等学校の前身)に進み、さらに1912年には仙台の旧制・第二高等学校第一部乙類に入学した。二高では、土井晩翠、登張竹風らの薫陶を受けた。 1915年7月には東京帝国大学に進み、1918年に文科大学史学科を卒業した。
大沼 貞藏(おおぬま ていぞう、旧姓:吉田、1893年〈明治… 大沼 貞藏(おおぬま ていぞう、旧姓:吉田、1893年〈明治26年〉1月23日 - 1974年〈昭和49年〉8月1日)は、日本の医師。医学博士。(社)山形県医師会会長〈初代〉。(社)山形市医師会会長〈初代、第5代〔法人化以前からの通算では第7代、第11代〕〉。山形市医師連盟委員長〈初代〉。山形市立病院済生館館長〈第10代〉。大日本帝国陸軍軍医大尉。
尾形 源治(おがた げんじ、1892年9月9日 - 1978… 尾形 源治(おがた げんじ、1892年9月9日 - 1978年8月6日)は日本の柔道家(講道館9段)。 京都武専や講道館で修業したのち選手として昭和天覧試合や全日本選士権大会等で活躍する一方、指導者としては大日本武徳会や三重県警察部を経て生まれ故郷の山形に道場を構え多くの門人をの育成に当たり、山形柔道界の大家と知られた。 山形県山形市は宮町3丁目の生まれ。山形第三小学校高等科2年の頃、叔父が柔術の先生をしているという小柄な友人西村辨蔵が休み時間に体操場で五六人を前に見様見真似で大柄な友人三沢栄助に後ろから両手で抱き着かせたのを外し投技を仕掛けたところ、大きい体が風車の様に飛んで地響きをうって転倒し目を廻しながら気絶してしまい友人一同びっくり仰天。
北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月1… 北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月10日 - 1956年(昭和31年)3月15日)は、日本のジャーナリスト、実業家である。旧姓は佐藤。 山形県山形市七日町の生まれ。兄に尾崎紅葉門下の佐藤流葉を持つ。旧制山形中学を経て東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学し、卒業後はジャパン・アドバタイザー(現在のジャパンタイムズ)に勤務する。その後は萬朝報に転勤し、1916年(大正5年)には北野量子と結婚し婿入りの形で北野姓に改姓した。同年末には東京朝日新聞に転勤し、アサヒグラフ編集部および整理部次長を歴任した。1926年(大正15年)には同社のニューヨーク特派員となり、1929年(昭和4年)の帰国まで同職にあたった。
大内 有恒(おおうち ありつね、1890年〈明治23年〉 -… 大内 有恒(おおうち ありつね、1890年〈明治23年〉 - 1954年〈昭和29年〉)は、昭和時代前期の政治家。弁護士。山形県山形市長(第11代)。 山形県東置賜郡小松町(現・川西町)生まれ。福島中学校から2年時に山形中学校へ移り、旧制第二高等学校、東京帝国大学を経て、山形市内に弁護士を開業する。1925年(大正14年)山形市会議員に当選以来市会の実権を握り、のちに蔭の市長と呼ばれた。市議会議員を5期務め、議長に就任した時期もある。 太平洋戦争末期と終戦後の混乱期の2年間市政を担当し、分散疎開や外地引揚者の受入に苦心した。その後、公職追放となった。
新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 - 1… 新関 良三(にいぜき りょうぞう、1889年8月4日 - 1979年4月27日)は、ドイツ文学者、演劇研究者。1943年恩賜賞受賞。1963年日本学士院会員。1967年文化功労者。文学博士。学習院教授、埼玉大学学長。河北町名誉町民。息子の新関欽哉は外交官、オーストリア、ソ連大使などを務めた。 山形県西村山郡谷地村横町(現・河北町谷地)生まれ。旧姓・平泉。谷地尋常高等小学校から西村山郡立西村山中学校(現・山形県立寒河江高等学校)に入学後、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に転じる。東京高等商業学校(現・一橋大学)に進む。1912年、山形市の伯母新関せいの養子となる。第一高等学校文科を経て、1915年東京帝国大学文科大学独文科卒。
大場 鑑次郎(おおば かんじろう、1888年(明治21年)2… 大場 鑑次郎(おおば かんじろう、1888年(明治21年)2月12日 - 1980年(昭和55年)5月15日)は、日本の内務・警察官僚。官選愛媛県知事、関東州庁長官。旧姓・金子。 山形県南村山郡椹沢村(現在の山形市)出身。農業・金子慶治の三男として生まれ、大場徳太郎の養子となる。山形県立山形中学校、第二高等学校を卒業。 1911年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し愛媛県試補となる。 1913年7月、愛媛県警視に就任。以後、北海道庁理事官・視学官、高知県理事官、関東庁事務官・警務局保安課長、同局高等警察課長兼保安課長、同局保安課長、東京府内務部長、福岡県書記官・内務部長などを経て、1931年5月、台湾総督府文教局長に就任し1932年3月まで在任。
高木 市之助 (たかぎ いちのすけ、1888年(明治21年)… 高木 市之助 (たかぎ いちのすけ、1888年(明治21年)2月5日 - 1974年(昭和49年)12月23日)は 、日本の国文学者である。愛知県名古屋市出身。
鈴木 美通(すずき よしゆき、1882年(明治15年)9月2… 鈴木 美通(すずき よしゆき、1882年(明治15年)9月2日 - 1956年(昭和31年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 山形県出身。山形中学を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 1911年12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付を経て、1916年(大正5年)11月、歩兵少佐に昇進し歩兵第1連隊大隊長に就任。1918年(大正7年)6月、陸大教官に転じ、関東軍司令部付に異動。1921年(大正10年)4月、歩兵中佐に進級。
羽島 金三郎(はしま きんざぶろう、1880年11月25日 … 羽島 金三郎(はしま きんざぶろう、1880年11月25日 - 1962年3月22日)は、日本の鉄道技術者。現在の山形県上山市出身。次男には国鉄浜松工場・大宮工場長、川崎電機製造常務取締役を務めた羽島進。 山形県南村山郡上山裏町(現・上山市裏町)にて羽島栄造・はなの長男として生まれ、明新学校・上山尋常高等小学校(現・上山市立上山小学校)、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)、第二高等学校(現・東北大学)、帝国大学工科大学(現・東京大学大学院工学系研究科・工学部)機械工学科を経て1905年に川崎造船所に就職した。同年には松平信安の長女・賀満(かま)と結婚した。 1907年12月に帝国鉄道庁へ移り大宮工場で勤務、1910年に鉄道院技技師、1919年に盛岡工場長、1922年に札幌鉄道局工作課車両係長を経て、その後工作課長となる。
伊藤 昌庸(いとう まさつね、1880年(明治13年)6月2… 伊藤 昌庸(いとう まさつね、1880年(明治13年)6月20日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚、教育者。官選香川県知事。 山形県南村山郡山形香澄町(現:山形市香澄町)で、旧山形藩士・伊藤喜惣の二男として生まれる。貧しさのため小学校入学は9歳で、1894年にはその小学校も退学して山形県庁の給仕として採用され床次竹二郎内務部長付となる。山形郵便局雇員に転じ、書記補試験に合格。 その後、山形県尋常中学校4年に編入し、1900年に卒業。中学同期生の鈴木美通(後に陸軍中将)と共に陸軍士官学校を受験したが、眼病のため不合格となる。1904年、東京高等師範学校英語専修科を卒業し、北海道師範学校教諭に就任。
小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月2… 小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月22日 - 1950年〈昭和25年〉11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。山形県士族。山形県新庄市出身。 陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役に編入された。その後平沼内閣と米内内閣で拓務大臣、朝鮮総督(第8代)を務め、太平洋戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として1944年(昭和19年)に内閣総理大臣に就任した(小磯内閣)。悪化の一途をたどる戦局を挽回できず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、1945年(昭和20年)4月に総理を辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。