スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
獅騎 一郎(しき いちろう、1931年6月20日 - 200… 獅騎 一郎(しき いちろう、1931年6月20日 - 2008年11月3日)は、東京府出身のシナリオライター、クイズ作家。スパイや暗号の専門家。本名である松村基生の名義による作品もある。 東京市中野区江古田生まれ。東京府立第五中学校(現・東京都立小石川高等学校)卒業。衆議院速記者養成所在学中からシナリオを執筆。卒業後は毎日新聞社に入り、メディア情報部副部長などを歴任(退社後は嘱託となる)。 シナリオライターとしては石原裕次郎主演の『ジャズ娘誕生』(日活、1957年)などアクション・ミステリーものが10本映画化されている。 神奈川県鎌倉市に住んでいた。2008年肺梗塞で死去。
古畑 和孝(ふるはた かずたか、1931年(昭和6年)6月9… 古畑 和孝(ふるはた かずたか、1931年(昭和6年)6月9日 - )は、日本の社会心理学者、東京大学名誉教授。父は、法医学者・医学博士・東京大学名誉教授・日本学士院会員の古畑種基。 石川県金沢市出身。三重県人・古畑種基の四男。金沢医科大学教授を務めていた父・種基は1936年、東京帝国大学教授に任ぜられ医学部に勤務した。 1954年、東京大学教育学部教育心理学科卒業。同大学院人文科学研究科修士課程、同博士課程を経て、1960年~64年米国イリノイ大学留学。国際基督教大学、東京大学文学部、帝京大学文学部の各教授を歴任。
高木 教典(たかぎ のりつね、1931年5月8日 - 201… 高木 教典(たかぎ のりつね、1931年5月8日 - 2015年5月7日)は、日本のマスコミュニケーション研究者、東京大学名誉教授。 東京府北多摩郡小平村(後の東京都小平市)の天台宗の寺に生まれる。1950年、東京都立小石川高等学校を卒業し、東京大学教養学部文科1類に入学。1952年4月に経済学部へ進学するが、学生運動への関わりにより退学処分を受け、7月に退学、のち1954年5月に再入学し、1956年に経済学部を卒業して、新聞研究所研究生となった。1957年に大学院社会科学研究科社会学専攻新聞学専修に進学、1961年に博士課程を中途退学して、新聞研究所助手。以降、1965年に助教授、1981年に教授へ昇任し、1982年から1983年にかけてはロンドン大学、コロンビア大学の客員教授も務めた。
渡辺 謙太郎(わたなべ けんたろう、1930年12月22日 … 渡辺 謙太郎(わたなべ けんたろう、1930年12月22日 - 2006年11月14日)は、日本のアナウンサー。東京府(後の東京都)出身。 1953年2月、TBSにアナウンサーとして入社。日本の民放のスポーツアナウンサーの草分けで、温かみのある実況の名調子は「謙太郎節」と呼ばれ、プロ野球中継に一時代を築いた。皇太子御成婚中継の他、メルボルン、東京、メキシコ、ミュンヘン各五輪の放送も担当。ワイドショーの司会等もこなし、1985年12月にTBSを定年退職。1986年1月、フリーに転向後はメディア・スタッフ代表取締役の他、東京運動記者クラブ会友、日本プロゴルフ協会学術委員、日本ボウリング場協会理事も歴任した。
小島 三郎(こじま さぶろう、1930年5月4日 - 198… 小島 三郎(こじま さぶろう、1930年5月4日 - 1984年7月8日)は、日本の経営学者。 東京市本郷区(現・文京区)白山生まれ。都立小石川高校(現都立小石川中等教育学校)卒業後、1953年慶應義塾大学経済学部卒業、1958年同大学院博士課程満期退学、同商学部助手となり、1962年助教授、1968年経済学博士。1969年教授、1979年商学部長となるが53歳で死去した。
粕谷 一希(かすや かずき、1930年(昭和5年)2月4日 … 粕谷 一希(かすや かずき、1930年(昭和5年)2月4日 - 2014年(平成26年)5月30日)は、日本の編集者、出版事業家、文筆家。都市出版株式会社社長を経て、相談役。 保守派の編集者として多くの書き手を送り出し、戦後日本の論壇に保守主義、現実主義の潮流を築いた。東京府出身。 東京雑司が谷に生まれる。旧制東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)、旧制第一高等学校を経て、東京大学法学部卒業。学生時代には河合栄治郎、和辻哲郎、波多野精一、猪木正道、蠟山政道、丸山眞男の著作を読み、高坂正顕、鈴木成高、西谷啓治、高山岩男など敗戦後否定されていた京都学派の戦中期の著作にも影響を受けた。 1955年、中央公論社に入社。
いずみ たく(1930年1月20日 - 1992年5月11日… いずみ たく(1930年1月20日 - 1992年5月11日)は、日本の作曲家・政治家。元参議院議員(第二院クラブ)。中黒を付けていずみ・たくと表記される場合もある。本名は今泉 隆雄(いまいずみ たかお)。 歌謡曲(演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調はさまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、ミュージカル、童謡、校歌、交響曲(笙や能管などと管弦楽の組み合わせという作品も含めて数曲が残されている)と幅広いジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。 東京市下谷区(現:東京都台東区)谷中生まれ。家系は越智河野氏の末裔に当たる。 仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。
牧 柾名(まき まさな、1929年10月11日 - 2022… 牧 柾名(まき まさな、1929年10月11日 - 2022年1月12日)は、日本の教育学者。駿河台大学名誉教授。元東京大学教授。専門は、教育行政学・教育権。 1929年に東京都で生まれる。 東京府立第五中学校、静岡高等学校を経て、東京大学へ進学した。その後、東京大学大学院人文科学研究科を中退する。 東京大学教育学部教授として教育行政学研究室で教育・研究に従事した。東京大学退職後は、駿河台大学経済学部教授を歴任した。 その他に、川崎市子ども権利条例検討連絡会議副座長、子どもの人権埼玉ネット代表委員などを務めた。 子どもの権利条約など教育権に関する研究で多数の著作を執筆した。1998年に『牧柾名教育学著作集』(エムティ出版)が発表されている。
稲岡 耕二(いなおか こうじ、1929年4月12日 - )は… 稲岡 耕二(いなおか こうじ、1929年4月12日 - )は、日本文学者(万葉学者)。古代文学専攻。東京大学名誉教授。
根本 二郎(ねもと じろう、1928年11月1日 - 201… 根本 二郎(ねもと じろう、1928年11月1日 - 2014年12月7日)は、日本郵船最高顧問で、元社長・会長。日本経済団体連合会名誉会長。 東京府立第五中学校、旧制静岡高等学校を経て東京大学法学部卒業。1952年日本郵船に入社。1987年日本郵船副社長。1989年日本郵船社長。1995年日本郵船会長。2003年同社初の名誉会長に就任。2009年日本郵船相談役。 1995年日本経営者団体連盟会長。1999年日本経営者団体連盟特別顧問。2002年日本経済団体連合会名誉会長。 1998年中央教育審議会会長。 1998年三菱倉庫取締役、日本空港ビルデング取締役。1999年パレスホテル取締役。 1998年早稲田大学名誉博士。
畑 英次郎(はた えいじろう、1928年〈昭和3年〉9月10… 畑 英次郎(はた えいじろう、1928年〈昭和3年〉9月10日 - 2023年〈令和5年〉8月4日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲章は勲一等瑞宝章。 通商産業大臣(第56代)、農林水産大臣(第19代)、衆議院議員(7期)、民主党副代表、太陽党幹事長、大分県日田市長(3期)等を歴任した。 大分県日田市生まれ。1946年、武蔵工業専門学校(現東京都市大学)を中退し、出身地である日田市の市役所に入庁。その後、旧大分1区選出の衆議院議員・広瀬正雄の秘書に転じる。 1968年、日田市長選挙に立候補し、初当選。市長を3期11年務め、1979年に3期目の任期途中で辞職。同年の第35回衆議院議員総選挙に自由民主党の公認を受け、旧大分1区から広瀬の地盤を引き継いで出馬し、当選した(当選同期に佐藤信二・保利耕輔・麻生太郎・小里貞利・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・吹田愰・宮下創平・亀井善之・船田元らがいる)。
臼井 正明(うすい まさあき、1928年5月8日 - 201… 臼井 正明(うすい まさあき、1928年5月8日 - 2016年11月23日)は、日本の俳優、声優。 東京市大森区出身。芝区赤羽小学校(現港区立赤羽小学校)で児童文学作家の中村博と同級生になり、東京府立第五中学校では、澁澤龍彥、脚本家の松木ひろしと同級生になった。なお、澁澤龍彦とは大人になってからも交遊があった。 1946年に東京放送劇団2期生になる。ラジオドラマ全盛期に活躍し、『君の名は』などに出演した。同作が縁となり、1954年に東京放送劇団1期生の七尾伶子と結婚。『君の名は』の作者の菊田一夫が仲人となった。この当時、雑誌等では「声優界の池部良」と称されていた。1956年、息子が生まれる。 その後1959年に東京放送劇団を退団し、劇団手織座に入団。
上田 哲(うえだ てつ、1928年(昭和3年)2月26日 -… 上田 哲(うえだ てつ、1928年(昭和3年)2月26日 - 2008年(平成20年)12月17日)は、日本の政治家、ジャーナリスト、労働組合運動家。
マサオ・ミヨシ(三好将夫、1928年 - 2009年10月1… マサオ・ミヨシ(三好将夫、1928年 - 2009年10月1日)は、日本生まれの米国の英文学者、カリフォルニア大学バークレー校名誉教授。専門は、英文学(ビクトリア朝文学)、日本文学、比較文学。 東京府生まれ。次兄は建設省の官僚であった三好勝彦。1945年旧制東京府立第五中学校(現小石川高等学校)卒業、49年第一高等学校卒業、51年東京大学文学部英文科卒業、学習院大学助手、同講師時代にフルブライト奨学生としてイェール大学大学院に学ぶ。 1953年強制送還され学習院に戻るが米国人と結婚していたため再度渡米、ニューヨーク大学において英文学で博士号取得。1963年、博士論文作成中にカリフォルニア大学バークレー校に英文学の助教授(assistant professor)として迎えられ、ヴィクトリア朝英文学を専門に教える。
矢代 静一(やしろ せいいち、1927年〈昭和2年〉4月10… 矢代 静一(やしろ せいいち、1927年〈昭和2年〉4月10日 - 1998年〈平成10年〉1月11日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家。日本文芸家協会、日本演劇協会の各会員。 東京市京橋区尾張町二丁目(現:中央区銀座六丁目)のヨシノヤ靴店(銀座ヨシノヤ)の2階で、父・矢代乙吉、母・園子の長男として誕生。祖父はヨシノヤ靴店の創業者であった。日比谷幼稚園・泰明小学校・東京府立第五中学校から第二早稲田高等学院を経て、1950年に早稲田大学文学部仏文科を卒業。 早稲田高等学院在学中の1944年(昭和19年)に診断書を偽造して大学を休学し、俳優座研究生となる。のち、戦時下の移動劇団に加わる。移動演劇隊の『父帰る』(菊池寛原作)などで主役を張ったが、東野英治郎の薦めで演出部に転向する。
中村 稔(なかむら みのる、1927年1月17日 - )は、… 中村 稔(なかむら みのる、1927年1月17日 - )は、日本の弁護士・弁理士・詩人・評論家。中村合同特許法律事務所パートナー、日本商標協会顧問、公益財団法人日本近代文学館名誉館長、第二東京弁護士会所属、日本芸術院会員、文化功労者。 中松特許法律事務所弁護士、中村・山本・武田合同特許法律事務所代表パートナー、中村合同特許法律事務所代表パートナー、日本商標協会会長(初代)、財団法人日本近代文学館理事長(第6代)、社団法人日本商事仲裁協会常任理事、日本芸術院第二部部長などを歴任した。 千葉県木更津市生まれ。父・光三は、尾崎秀実、リヒャルト・ゾルゲの予審担当の主任判事。東京府立第五中学校から第一高等学校を経て、1950年、東京大学法学部法律学科卒業。
伊藤 和夫(いとう かずお、1927年 - 1997年1月2… 伊藤 和夫(いとう かずお、1927年 - 1997年1月21日)は、日本の予備校講師。駿台予備学校英語科専任講師を約30年間務めた。「受験英語の神様」、「受験英語界の巨人」と称された。 1927年(昭和2年)長野県生まれ。1944年、東京都立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)卒業後、第一高等学校(旧制)を1944年(昭和19年)に受験した。なお、1941年とこの年は旧制高等学校入試にて受験科目から英語が除外された例外的な年だった。予備校で受験英語の教授に人生を捧げた伊藤だが、自らの旧制高等学校受験(新制大学受験に相当)では英語の試験が無かった。第一高等学校卒業を経て、1947年旧制東京大学哲学科入学後は病気療養を挟みつつ、1953年旧制東京大学哲学科を卒業した。
岡田 孝男(おかだ たかお、1926年1月28日 - 199… 岡田 孝男(おかだ たかお、1926年1月28日 - 1998年10月28日)は、日本の医師、医学博士。 1926年(大正15年)1月28日、東京都小石川区久堅町(現:東京都文京区小石川4丁目)に誕生する。 祖父は医学博士、細菌学者である岡田国太郎。父は日本興業銀行より日本軽金属等の監査役を歴任した岡田弟左、母は伊勢亀山藩石川氏の一族の出である治(治子とも呼ばれた)。二人兄弟の長男として誕生した。東京府女子師範学校附属小学校(現:東京学芸大学附属竹早小学校)より東京府立第五中学(現:東京都立小石川中等教育学校)を経て順天堂医学専門学校の1期生として卒業した。 卒業後病理学教室に入り伴俊男教授に師事する。
椿 實(つばき みのる、1925年10月31日 - 2002… 椿 實(つばき みのる、1925年10月31日 - 2002年3月28日)は東京府出身の小説家。椿 実とも表記。 東京市神田区山本町(現:東京都千代田区外神田)に生まれ、下谷区池之端七軒町(現:台東区池之端)に育つ。生家は医療器械や注射針を製造。 東京府女子師範学校(現:東京学芸大学)付属幼稚園から同校付属小学校に学ぶ。同級に荻昌弘や岡田孝男がいた。東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)を経て旧制都立高等学校(現:首都大学東京)文科一組に入学。在学中、1946年に吉行淳之介たちと同人誌『葦』を創刊。1947年、東京大学文学部哲学科入学、同年、吉行たちと第14次『新思潮』を創刊し、同誌第2号に発表した「メーゾン・ベルビウ地帯」で柴田錬三郎や三島由紀夫たちに高く評価される。
永野 健(ながの たけし、1923年3月17日 - 2008… 永野 健(ながの たけし、1923年3月17日 - 2008年5月12日)は、日本の実業家。従三位勲一等工学博士。広島県安芸郡下蒲刈町三之瀬(現呉市)出身。 東京府立五中、第二高等学校を経て、東京帝国大学第一工学部卒業。父は運輸大臣を務めた永野護。元日本経済新聞編集委員の永野健二は次男。 大学卒業後の1945年、三菱鉱業に入社。コロンビア大学工学部冶金学科に留学。1962年工学博士(九州大学)。1982年に三菱金属の社長に就任。無公害などの特徴を持つ最後の銅精錬技術「三菱連続製銅法」の商業化を手がけた。また社長在任中、旧本社ビル建て替え・再開発(大手町ファーストスクエア)を主導し、大阪アメニティパークを建設した。
藤林 伸治(ふじばやし しんじ、1922年9月26日 - 1… 藤林 伸治(ふじばやし しんじ、1922年9月26日 - 1994年5月2日)は、日本の映画監督・演出家・市民運動家。群馬県富岡市出身。
鈴木 一雄(すずき かずお、1922年(大正11年)8月26… 鈴木 一雄(すずき かずお、1922年(大正11年)8月26日 - 2002年(平成14年)5月19日)は、日本文学者。元十文字学園女子短期大学・十文字学園女子大学学長。勲三等旭日中綬章(2000年)。正四位(2002年6月)。 東京市本郷区田町に、8人姉弟の7番目の長男として、大工の棟梁の家に生まれる。文京区立礫川小学校、東京府立第五中学校を経て、1946年(昭和21年)、東京文理科大学文学部国語国文学科卒業。専攻は平安時代文学、とくに物語文学・日記文学。 東京都立九段高等学校、東京教育大学附属中学校・高等学校の教官、東京教育大学文学部助教授。金沢大学法文学部助教授・教授、同文学部学部長。明治大学教授を経て、1991年に十文字学園女子短期大学学長(第3代)に就任、1996年からは十文字学園女子大学初代学長を務め、大学を創設した功績により叙勲を受けた。
野原 一夫(のはら かずお、1922年(大正11年)3月30… 野原 一夫(のはら かずお、1922年(大正11年)3月30日 - 1999年(平成11年)7月31日)は東京府出身の編集者、作家。 東京府立第五中学校(現都立小石川高等学校)から浦和高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部独逸文学科卒業。1943年(昭和18年)12月、学徒出陣、二等水兵として横須賀市の武山海兵団に入隊。その後、海軍の第四期兵科予備学生となる。1944年(昭和19年)12月に海軍少尉任官、埼玉県大和田通信隊勤務。1945年(昭和20年)4月、南九州・鹿屋基地に第五航空艦隊司令部付として赴任。終戦を大分で迎える。 1946年(昭和21年)8月26日、700名中2名の被採用者のひとりとして新潮社に入社(もうひとりの被採用者は野平健一)。
深見 けん二(ふかみ けんじ、1922年3月5日 - 202… 深見 けん二(ふかみ けんじ、1922年3月5日 - 2021年9月15日)は、福島県出身の俳人。本名は謙二。 高玉鉱山(現・郡山市)に生まれる。父の転勤で東京に移り、府立第五中学校を経て東京帝国大学工学部冶金科を卒業。卒業後は東大冶金科研究室勤務を経て日本鉱業入社。日興エンジニアリング勤務。 高校時代の1941年より高浜虚子に師事、20歳の頃に深川正一郎の指導を受ける。大学卒業後「ホトトギス新人会」を結成。1952年より山口青邨にも師事し、1953年に青邨の「夏草」同人。1959年に「ホトトギス」同人。1989年、「珊」創刊同人。1991年、「Fの会」を土台として「花鳥来」を創刊、主宰。 1992年、句集『花鳥来』で第31回俳人協会賞を受賞。
三ヶ月 章(みかづき あきら、1921年〈大正10年〉6月2… 三ヶ月 章(みかづき あきら、1921年〈大正10年〉6月20日 - 2010年〈平成22年〉11月14日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は法学博士(東京大学・論文博士・1962年)(学位論文「強制執行と滞納処分の統一的理解」)。法務大臣(第56代)。東京大学名誉教授。1991年日本学士院会員、2005年文化功労者、2007年文化勲章受章。弁護士(大江忠・田中豊法律事務所)。菊井維大門下。弟子に青山善充、伊藤眞、上原敏夫など。 島根県浜田市出身。家計が貧しかったため中学進学は諦め洋服屋の小僧になるつもりでいたが、東京府立第五中学校(現東京都立小石川中等教育学校)に進み、第一高等学校を経て、1942年東京帝国大学入学。
平井 隆太郎(ひらい りゅうたろう、1921年2月15日 -… 平井 隆太郎(ひらい りゅうたろう、1921年2月15日 - 2015年12月9日)は、日本の心理学者、新聞学者。立教大学名誉教授。大阪府出身。 平井太郎(江戸川乱歩)の一人息子として大阪府北河内郡守口町(現在の守口市)に生まれる。東京府立第五中学校から1年浪人して第一高等学校に入学。このとき1級下に藤村正太がいた。1942年、東京帝国大学文学部心理学科に入学。1943年11月、同大学を仮卒業し(正式卒業は1944年9月)、1943年12月に学徒出陣で徴兵されて大日本帝国海軍に入団。千葉県の館山海軍砲術学校に配属され、高射砲を専修。予備学生として横須賀市武山の海兵団で過ごした後、海軍少尉として茨城県土浦市の航空隊に赴任。
吉田 悟郎(よしだ ごろう、1921年2月8日 - 2018… 吉田 悟郎(よしだ ごろう、1921年2月8日 - 2018年5月21日[信頼性要検証])は、日本の歴史学者。 金沢市に技術者・吉田恵一の子として生まれる。東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)卒、成城高等学校卒、1942年東京帝国大学文学部西洋史学科を学徒出陣で繰り上げ卒業、1945年敗戦で復員し、GHQで検閲の仕事をしたのち日本評論社の編集者となる。1952年東京都立広尾高等学校教諭、81年退職。大学非常勤講師として世界史を教える。歴史教育者協議会会員。
市村 俊幸(いちむら としゆき、本名:石川 清之助、1920… 市村 俊幸(いちむら としゆき、本名:石川 清之助、1920年12月20日 - 1983年8月9日)は、昭和期の俳優。旧東京市(東京都)出身。「ブーちゃん」の愛称で親しまれた。クレイジーキャッツのリーダーであるハナ肇の名付け親としても知られる。 東京府立第五中学校卒。日本医師会勤務を経て1938年、日劇ダンシングチームに入団。戦後の1946年、南里文雄らの「南里文雄とホットペッパーズ」でピアニストを務める。 1951年9月21日に上映された映画『花嫁蚤と戯むる』(製作:ラジオ映画、配給:東映)で俳優デビュー、翌年の黒澤明監督作品『生きる』で脚光を浴びる。映画ではフランキー堺主演の作品に多数出演した。
久保 亮五(くぼ りょうご、1920年2月15日 - 199… 久保 亮五(くぼ りょうご、1920年2月15日 - 1995年3月31日)は、日本の物理学者。東京大学、京都大学、慶應義塾大学教授。全米科学アカデミー、フランス科学アカデミー名誉会員。線形応答理論で知られる。 統計物理学、物性物理学の分野で国際的に知られた。 1920年、東京府駒込で中国文学者の久保天随の5人目の子供(4男)として2月15日に誕生。1931年、父・天随が台北帝国大学教授に就任したため、一家は台湾の台北市に移った。翌1932年、台北高等学校尋常科に入学。しかし、1934年に父が死去したことにともない、駒込に戻る。東京府立第五中学校に編入して中学校を4年で修了し、1936年に第一高等学校 (旧制)理科甲類に入学。
西嶋 和夫(にしじま かずお、1919年11月29日 - 2… 西嶋 和夫(にしじま かずお、1919年11月29日 - 2014年1月28日)は、日本の仏教学者。 神奈川県横浜市出身。東京府立第五中学校、旧制静岡高校を経て、東京帝国大学法学部法律学科へ進学。卒業後大蔵省入省。日本証券金融等に勤務のかたわら仏教研究を行い、その主著は道元の著した「正法眼蔵」全巻の現代日本語訳である「現代語訳正法眼蔵全12巻」と、さらにその詳細な解説をした「正法眼蔵提唱録全34冊」である。「正法眼蔵」の現代語訳と同時にその詳細な「提唱」を行ったのは、日本で最初である。2007年頃まで日本証券金融常任監査役を経て、㈱井田両国堂顧問。仏教に関する多数の著書があり、ナーガールジュナ(龍樹尊者)の著作「中論」の日本語訳を出版して以降はその講義と再改訂ならびに英語訳に取り組んでいる。
小関 博(こせき ひろし、1919年〈大正8年〉10月24日… 小関 博(こせき ひろし、1919年〈大正8年〉10月24日 - 2013年〈平成25年〉6月15日)は、日本の実業家。群馬銀行代表取締役頭取。 東京都豊島区巣鴨に生まれる。旧制府立五中を経て、1942年(昭和17年)旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業。同年高等試験行政科に合格し、日本銀行入行。 短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業し、館山海軍航空隊付となる。同年5月、海軍省経理局第三課に転じ国防献金受付に従事。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み、同年6月、第四南遣艦隊付に転じ第1次糧食生産隊長(アンボン)に着任。
鳥居 鉄也(とりい てつや、1918年(大正7年)5月14日… 鳥居 鉄也(とりい てつや、1918年(大正7年)5月14日 - 2008年(平成20年)10月16日)は、日本の地球化学者、冒険家。日本における南極調査・研究の第一人者。理学博士。ソ連科学アカデミー南極大陸発見150周年メダル、南極観測20周年文部大臣表彰などを受賞。日本極地研究振興会理事長、千葉工業大学教授などを歴任。
田辺 健一、田邊 健一(たなべ けんいち、1917年12月1… 田辺 健一、田邊 健一(たなべ けんいち、1917年12月10日 - 1985年10月7日)は、日本の地理学者。専門は人文地理学、特に都市地理学。宮城教育大学名誉教授、東北大学名誉教授。 東京神田生まれ。旧制東京府立五中から旧制浦和高等学校(現埼玉大学)に進学。卒業後東京帝国大学理学部に進んだ。 学生時代に、木内信蔵が主導して行なわれた東京市四谷谷町小住宅密集地区の学際的調査に参加したことを機に、都市地理学研究者として注目され、後には「木内門下生きっての都市地理学者」と評されるに至った。 1944年1月17日旧姓小石弘子と結婚。仙台に疎開する。 1945年に長男の好美(よしはる)、1950年に長女のさつきをもうける。
鳴海 四郎(なるみ しろう、1917年9月3日 - 2004… 鳴海 四郎(なるみ しろう、1917年9月3日 - 2004年10月7日)は、日本の英文学者、英米演劇研究家、翻訳家。本名は鳴海 弘。 テネシー・ウィリアムズ、エドワード・オールビー、ニール・サイモンの戯曲やアガサ・クリスティなどの小説を翻訳した。文学座座友。 1919年新潟県長岡市に、1922年に東京市に移り関東大震災に遭う。東京府立第五中学校、東京商科大学予科を経て、1940年に東京商科大学(現・一橋大学)卒業。会社員となるがアマチュア演劇団体に所属。 1944年弘前市歩兵連隊に応召。敗戦後、田舎にこもる。1949年帰京。1951年慶應義塾高校教諭、コロンビア大学に留学。1952年帰国、文学座の文芸演出部員となる。
山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年6月15日 - 2… 山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年6月15日 - 2002年10月23日)は、日本の随筆家・編集者。東京市下谷根岸出身。 東京の下谷根岸に生まれる。父・山本三郎(1879-1928)は、坪内逍遥に傾倒し慶応から早稲田に転学し、詩人・山本露葉として児玉花外、山田枯柳らとともに若手の新体詩人として注目されたが、夏彦は三男で小学6年時に、父は50歳で亡くなった。なお祖父は高利貸しの山本義上(1848-1909)で、父の代は資産家であった。 父・露葉の友人であった武林無想庵に連れられ15歳で渡仏。3年後に帰国し、24歳のときにフランス童話『年を歴た鰐の話』の翻訳で文壇デビュー。戦後まもない1950年に工作社を創立、没時まで編集兼発行人、コラムニストとしても活動した。
小平 邦彦(こだいら くにひこ、1915年〈大正4年〉3月1… 小平 邦彦(こだいら くにひこ、1915年〈大正4年〉3月16日 - 1997年〈平成9年〉7月26日)は、日本の数学者。東京大学名誉教授。学位は理学博士(東京大学・1949年)。 東京帝国大学理学部数学科卒。同大学で博士号取得。日本人初のフィールズ賞およびウルフ賞受賞者となった。 農政官僚だった小平権一の長男として東京に生まれる。東京府立第五中学(現:東京都立小石川中等教育学校)、第一高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学理学部数学科および物理学科卒。東京大学理学博士(1949年)。 フィールズ賞を1954年に日本人として初めて受賞(調和積分論、二次元代数多様体(代数曲面)の分類などによる)。
松井 聰(まつい さとし、1915年3月12日 - 1995… 松井 聰(まつい さとし、1915年3月12日 - 1995年8月1日)は、日本のバスケットボール選手、指導者。 1936年のベルリンオリンピック日本代表。福井県福井市出身。176cm。 1915年、福井県福井市に生まれる。府立五中、成城高校を経て、京都帝国大学経済学部に進学する。高校の途中まではサッカーの選手だったが、16歳でバスケを始め、3年の秋には日本代表に選出された。 京大在学中は籠球部に所属し、大学3年時の1936年にはベルリンオリンピックに出場した。 大学卒業後は神戸学士クラブに所属し、高校、大学、社会人のすべてで全国制覇を経験した。 現役引退後は日本バスケットボール協会の理事や副会長を務めたほか、1979年夏季ユニバーシアードの団長や日本オリンピック委員会の委員等を歴任した。
不破 整(ふわ せい、1915年 - 1982年11月)は、… 不破 整(ふわ せい、1915年 - 1982年11月)は、東京府出身のサッカー選手。ポジションはGK。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)を卒業して、第一早稲田高等学院へ、その後早稲田大学に入学。ア式蹴球部に在籍した。 不破が21歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出されたが、同じ早稲田大学から代表に選出された佐野理平がスタメンを占めたため、出場機会は無かった。 また、早稲田大学在学中の1938年に全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝、1939年には同大會(第19回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で準優勝に貢献した。 1940年に早稲田大学理工学部採鉱冶金学科を卒業、同年日本製鋼所に入社するが、1941年春に太平洋戦争のために召集され満州に配属された。
今井 秀喜(いまい ひでき、1914年9月5日 - 2014… 今井 秀喜(いまい ひでき、1914年9月5日 - 2014年5月17日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。 父、今井登志喜は東京帝国大学文学部の学部長を務めた歴史学者。 東京府立第五中学校(現:都立小石川高等学校)から(旧制)第一高等学校を経て,1939年東京帝国大学理学部地質学科を卒業、同工学部助手となる。1944年助教授、1958年教授に昇進し、鉱山学科応用地質学第一研究室を担当した。1958年東京大学より工学博士の学位取得。学位論文の表題は「本邦における銅・亜鉛・鉛鉱床の地質構造、共生関係並びに成因に関する研究」。1975年定年退官し、名誉教授となる。 1987年、勲三等旭日中綬章を受章。
鹿子木 健日子(かのこぎ たけひこ、かのこぎ ケーニヒ、男性… 鹿子木 健日子(かのこぎ たけひこ、かのこぎ ケーニヒ、男性、1914年6月17日 - 1992年2月19日)は、日本のバスケットボール選手、指導者。193cmの長身選手として1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場した。 1914年東京生まれ。東京府立五中、武蔵高校を経て、東京帝国大学経済学部に進学。在学中は籠球部レンジャースに所属して主将を務めた。1936年のベルリンオリンピックには、バスケットボール日本代表として出場した。 大学卒業後は日産自動車に勤務したが、戦後退社して陶器の輸出入を手掛ける茜商会を起業した。会社経営の一方で日本バスケットボール協会の理事として後進の育成にあたり、1957年5月には日本スポーツ界代表団の一員として中華人民共和国を訪問した。
種田 孝一(おいた こういち、1914年4月9日 - 199… 種田 孝一(おいた こういち、1914年4月9日 - 1996年9月11日)は、東京府出身の実業家。また、サッカー選手としてもハーフバック、フルバックのポジションでプレーした。叔父は種田虎雄。 東京府立五中(現・小石川高校)、旧制水戸高校を経て、東京帝国大学に入学しア式蹴球部に所属。 在学中の1936年にベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出された。 本来のポジションはハーフバック(現在の守備的MFに相当)だが、1936年のベルリンオリンピックでは、ドイツ到着後に現地指導者から指導を受けた日本代表が従来の2-3-5システムから3-2-5システムに変更したため、長身で守備的な種田が3バックの中央のフルバック(現在のスイーパーに相当)にコンバートされた。
前田 泰次(まえだ やすじ、1913年9月21日 - 198… 前田 泰次(まえだ やすじ、1913年9月21日 - 1982年1月16日)は、工芸研究家、東京芸術大学名誉教授。日本金工史、東洋工芸史、工芸論を講じた。 鋳金家・田中後次の子として東京府大森町(現東京都大田区)に生まれる。東京府立第五中学、松本高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部宗教史学科卒。東京帝室博物館、大阪市立美術館勤務、東京美術学校助教授、1959年東京芸大教授。77年定年退官、名誉教授。文化財保護審議会専門委員、日本伝統工芸展鑑査委員。
和田 信賢(わだ のぶかた、1912年〈明治45年〉6月19… 和田 信賢(わだ のぶかた、1912年〈明治45年〉6月19日 - 1952年〈昭和27年〉8月14日)は、戦前から戦後にかけて活動したNHKのアナウンサー。妻は後輩アナウンサーの大島(旧姓)実枝子(1918年(大正7年)- 2016年(平成28年)、1939年入局)。 東京府に生まれ、東京府立第五中学校、第二早稲田高等学院を経て早稲田大学に進学するも中退した。1934年に日本放送協会(当時は社団法人)へ第1期アナウンサーとして入局した。 和田が一躍有名になった場面は、1939年の大相撲1月場所の実況中継である。和田はこの場所の実況中継を初日から4日目まで担当したが、4日目(1月15日・日曜日)に70連勝を目指していた双葉山定次が、結びの一番で安藝ノ海節男に外掛けで敗れ、連勝が69で止まった。
大束 元(おおつか げん 、1912年〈明治45年〉5月10… 大束 元(おおつか げん 、1912年〈明治45年〉5月10日 - 1992年〈平成4年〉12月4日)は、日本のカメラマン。吉岡専造、船山克とともに朝日新聞出版局写真部の三羽烏といわれ、戦後ジャーナリズム写真の代表的な写真家のひとりである。父は写真修正の先駆者、大束昌可。
早瀬 喜太郎(はやせ きたろう、1911年10月22日 - … 早瀬 喜太郎(はやせ きたろう、1911年10月22日 - 1977年3月17日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。北海道奥尻島生まれ。 1929年旧制東京府立第五中学校を卒業後、朝鮮の金山や日本の喜茂別・大土森鉱山などに勤務。1940年早稲田大学理工学部採鉱冶金学科に入学、1943年に同学科を修業、1945年に早稲田大学専門部工科講師となる。1949年4月新制大学発足に伴い理工学部鉱山学科講師となり、同年10月助教授に昇進。1950年同大学より工学博士の学位取得。博士論文の表題は「松尾硫黄鉱床の成因と採鉱」。退任まで鉱物学実験・岩石学実験などを担当、該博な知識と長年の実務経験を生かし、多くの学生を育てる。
高嶋 雄三郎(たかしま ゆうざぶろう、1911年10月2日 … 高嶋 雄三郎(たかしま ゆうざぶろう、1911年10月2日 - 1993年6月27日)は、医療研究家、文筆家。 東京市小石川区(現:東京都文京区)に東洋大学学長などを務めた高島米峰の三男として生まれる。東京府立第五中学校を経て、法政大学文学部国文科卒。東京宝塚劇場文芸部勤務、1939年中央公論社勤務、1949年学風書院を創設。健康雑誌『主治医』編集長、日本植物友の会参与、松葉を食べる会主宰。
尾高 尚忠(おたか ひさただ、1911年9月26日 - 19… 尾高 尚忠(おたか ひさただ、1911年9月26日 - 1951年2月16日)は、日本の作曲家、指揮者。 東京府生まれ。幼少の頃から音楽に親しみ、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)を経て旧制成城高等学校文科(現・成城大学)を半年で中退し、1931年にウィーンに留学、ピアノをベルタ・ヤンベール、音楽理論をリヒャルト・シュテールに学んだ。翌年一時帰国して武蔵野音楽学校で作曲科の教鞭を取り、その間作曲をクラウス・プリングスハイム、ピアノをレオ・シロタに学んだ。1934年に再びウィーンに渡り、作曲をヨーゼフ・マルクス、指揮をフェリックス・ワインガルトナーに学び、個人的にフランツ・モーザーに作曲、管弦楽法、指揮の教授を受けた。
三谷 昭(みたに あきら、1911年6月5日 - 1978年… 三谷 昭(みたに あきら、1911年6月5日 - 1978年12月24日)は、東京府出身の俳人・編集者。 東京府巣鴨村(現豊島区)生まれ。東京府立第五中学校(現小石川高等学校)卒。1930年に素人社に入社。『俳句月刊』『俳句世界』編集に携わる。1936年赤坂区役所嘱託となり『赤坂区史』を編纂。「京大俳句」「天香」等に参加したが、1940年、新興俳句弾圧事件に連座し検挙された。1941年に実業の友社に入社、『新女苑』『オール生活』編集長を歴任。 戦後は「天狼」「俳句評論」「面」などに同人参加。1946年新俳句人連盟に入会するが翌年退会し現代俳句協会に加入、機関誌『俳句芸術』の編集に携わる。1961年より協会幹事長、のち初代会長を務める。
福島 玄一(ふくしま げんいち、1911年4月6日 - 19… 福島 玄一(ふくしま げんいち、1911年4月6日 - 1994年)は、宮城県出身の歯科医師、サッカー選手、サッカー審判員。 東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)でサッカーを始め、日本歯科医学専門学校(現:日本歯科大学)でもサッカー部に入部。1933年に大学を卒業し以降も第一生命保険などでプレーした。 1936年の全日本蹴球選手権大會(第16回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で線審を務め以降、日本サッカー協会の審判員として活動を続けた。1958年からは国際審判員としてAFCユース選手権や1964年の東京オリンピックで主審を務めた。1969年には国際Aマッチ10試合以上の条件をクリアし、国際サッカー連盟(FIFA)から日本人初の審判特別功労賞(FIFA Referees’Special Award)を受賞した。
前川 春雄(まえかわ はるお、1911年2月6日 - 198… 前川 春雄(まえかわ はるお、1911年2月6日 - 1989年9月22日)は、東京都出身の第24代日本銀行総裁。兄は建築家前川國男。父は土木官僚の前川貫一。 府立五中、一高を経て、1935年、東京帝国大学法学部を卒業。日本銀行に入行し、イタリア駐在、ドイツ駐在、ニューヨーク駐在等、国際金融のスペシャリストとして歩みを進める。外国為替部門の責任者を経て、一度、輸銀へ転出。1974年、副総裁として日本銀行に復帰する。1979年に森永貞一郎の後を受け、第24代日本銀行総裁に就任。副総裁には、輸銀時代の上司であった澄田智(後任の第25代日銀総裁)を据え「逆転人事」として話題を呼んだ。 日銀総裁就任後、前川は早速、第2次オイルショックによるインフレーションにどう対処するのかという難題に取り組まねばならなかった。