スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
塚田 佐(つかだ たすく、1936年(昭和11年)3月3日 … 塚田 佐(つかだ たすく、1936年(昭和11年)3月3日 - 2023年2月22日)は、日本の実業家、政治家。長野県長野市長(4期)。 長野県上水内郡安茂里村(現・長野市)で、塚田之安、とみ の長男として生まれた。長野県長野高等学校を経て、1958年(昭和33年)早稲田大学商学部卒業。家業の白土製造業に従事し、長野白土産業の専務取締役となる。 1967年(昭和42年)から長野市議会議員を2期、1975年(昭和50年)から長野県議会議員を3期務め、長野県地方社会福祉審議会長を兼任。 1985年(昭和60年)の長野市長選挙に立候補して初当選した。市長在職中には北陸新幹線関係都市連絡協議会会長の他、長野冬季五輪招致委員会会長を務め、招致運動を展開して1998年の長野冬季五輪大会の開催に力を尽くし、実現させた。
小林 實(こばやし まこと、1935年6月1日 - 2017… 小林 實(こばやし まこと、1935年6月1日 - 2017年6月18日)は、日本の自治官僚。長野県長野市出身。 長野県長野高等学校を経て、昭和33年(1958年)東京大学法学部第1類(私法コース)卒業。同年、自治庁(現総務省)に入庁し、北海道庁に配属される。同39年(1964年)栃木県総務部地方課長、同42年(1967年)京都府教育管理課長、同48年(1973年)自治省大臣官房参事官、同55年(1980年)北九州市助役、同58年(1983年)同省財政局財政課長、同61年(1986年)自治省大臣官房審議官、同62年(1987年)10月1日 同大臣総務審議官、平成元年(1989年)6月 同大臣官房長、同平成2年(1990年)7月 財政局長などを歴任後、同3年(1991年)10月 自治事務次官を務めた。
山岸 静馬(やまぎし しずま、1934年4月2日 - 199… 山岸 静馬(やまぎし しずま、1934年4月2日 - 1990年10月4日)は、長野県上水内郡信州新町出身のプロ野球選手。 長野北高校から1954年に高橋ユニオンズへ入団。ヴィクトル・スタルヒンがプロ最後の先発登板となった1955年10月7日の試合では先発捕手として出場した。 1956年に球団が吸収合併されたため1957年は大映ユニオンズ所属となり同年に退団。退団後は電電信越でプレーし都市対抗野球大会にも出場した。
町田 行彦(まちだ ゆきひこ、1934年3月8日 - 202… 町田 行彦(まちだ ゆきひこ、1934年3月8日 - 2025年9月22日)は、長野県長野市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。 長野北高校では、2年生次の1950年夏の甲子園予選信越大会決勝に進むが、松商学園に敗退し甲子園出場を逸する。同年の秋季北信越大会では優勝を飾るが、翌1951年春の選抜には選出されなかった。高校通算36本塁打。高校同期に松橋慶喜、1年下に山岸静馬がいた。 1952年に国鉄スワローズへ入団。入団後まもなく強肩を見込まれて、本来の守備位置である三塁手から外野手にコンバートされた。1953年には開幕から右翼手として起用され、7月には杉浦清に代わり初の四番打者も経験。1954年には初の規定打席(29位、打率.250)に達する。
池田 満寿夫(いけだ ますお、1934年〈昭和9年〉2月23… 池田 満寿夫(いけだ ますお、1934年〈昭和9年〉2月23日 - 1997年〈平成9年〉3月8日)は、日本の画家・版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督などの従来の芸術の枠にとどまらず多彩に活躍した芸術家。エロスの作家といわれるように、官能的な作風が多い。しかし、多岐にわたる活動や多才さは、かえって“池田芸術”の高い知名度にふさわしい正当な評価を困難にしている。 旧満洲国奉天市(現在の瀋陽市)に生まれ、戦後長野県長野市で育つ。長野市立柳町中学校、長野北高等学校(現・長野県長野高等学校)定時制課程卒業。高校在学中に絵画が入選、画家を志し上京するが、東京芸術大学の受験に3度失敗し大学進学を断念。
松橋 慶季(まつはし よしき、旧名:義喜(よしき)、秀康(ひ… 松橋 慶季(まつはし よしき、旧名:義喜(よしき)、秀康(ひでやす)、1934年1月10日 - 2015年2月22日)は、長野県長野市出身のプロ野球選手(捕手)、プロ野球審判員。 長野県長野北高等学校では2年生の時、捕手として1950年夏の甲子園予選信越大会決勝に進むが、松商学園に敗退し甲子園出場を逸する。松商学園の控え捕手は吉沢岳男であった。同年の秋季北信越大会では優勝を飾るが、翌年春の選抜の出場校には選出されなかった。高校同期に三塁手の町田行彦、1年下に控え捕手の山岸静馬がいた。 1952年に阪急ブレーブスに入団するが、翌1953年に国鉄スワローズに移籍。阪急から国鉄に移籍したのは、郷里に母を一人残した中、長野県から遠い西宮市でプレーするのを好まなかったからである。
傳田 章(でんだ あきら、1933年5月20日 - 没年不明… 傳田 章(でんだ あきら、1933年5月20日 - 没年不明[要出典])は、日本の中国文学者・中国語学者。東京大学名誉教授。放送大学名誉教授 長野県に生まれる。長野県長野北高等学校を経て、1956年、東京大学文学部中国文学科を卒業した。引き続き大学院に進み、1958年に修士課程を修了した。 1974年、東京大学教養学部助教授(中国語)となり、1985年に教授に昇格した。1994年に定年退官して、名誉教授となる。 放送大学教授も務めた。
倉嶋 康(くらしま やすし、1933年1月7日 - )は、日… 倉嶋 康(くらしま やすし、1933年1月7日 - )は、日本のジャーナリスト。冒険家。社会活動家。 父は長野市長を務めた倉島至。叔父は気象学者の倉嶋厚。 中国・北京生まれ。朝鮮総督府に勤務する父の転勤に伴い、現在の北朝鮮と韓国を転住。終戦後、長野市に引き揚げ。長野県長野北高等学校(現・長野県長野高等学校)を経て、早稲田大学第一政治経済学部政治学科を卒業後、1955年に毎日新聞社入社。 毎日新聞社入社後は福島支局に配属される。福島在勤2年目の1957年、松川事件で死刑判決を受けて上告中の被告人のアリバイを立証する証拠である『諏訪メモ』を福島地方検察庁郡山支部の支部長が保管していることを掴んだ。検事への聞き取り調査を進めて諏訪メモの存在を確認し、1957年6月29日付毎日新聞福島版記事でこれをスクープ報道。
上條 逸雄(かみじょう いつお、1931年10月23日 - … 上條 逸雄(かみじょう いつお、1931年10月23日 - 2002年8月14日)は、脚本家・作家。長野県上水内郡中条村(現長野市)出身。長野県長野北高等学校を経て、早稲田大学第一文学部卒。 『サインはV』『アテンションプリーズ』『積木くずし』といった高視聴率のテレビ番組や、日本テレビの『これが青春だ』『でっかい青春』『進め!青春』『おれは男だ!』『飛び出せ!青春』『われら青春!』といった一連の青春学園シリーズを執筆。他、数多くの人気テレビドラマの脚本を書く。晩年は舞台の脚本も手がける。(新橋演舞場『都おどり』など) 叔父の阿木翁助の影響で大学時代からラジオドラマを書き始める。大学の同級生に監督の高瀬昌弘がおり、彼がメイン監督となった『これが青春だ』の折に「君の青春を提供してくれ」と依頼を受け、その後も一連のシリーズに執筆しつづけた。
宮崎 秀樹(みやざき ひでき、1930年7月9日 - )は、… 宮崎 秀樹(みやざき ひでき、1930年7月9日 - )は、日本の医師・医学博士、政治家。元参議院議員、元自由民主党副幹事長。2004年から2006年まで日本医師会副会長を務めた。
山田 欣吾(やまだ きんご、1930年 - )は、日本の歴史… 山田 欣吾(やまだ きんご、1930年 - )は、日本の歴史学者、経済学者。主専攻はドイツ中世史。一橋大学名誉教授。 1930年、長野県長野市生まれ。長野県長野高等学校を経て、1954年一橋大学経済学部卒業、1959年同大学大学院経済学研究科博士課程修了。大学では一橋新聞部に所属。 1960年一橋大学経済学部専任講師、1972年より同教授。1995年に定年退官し、その後共立女子大学国際文化学部教授として教鞭をとった。
岩崎 卓也(いわさき たくや、1929年7月9日 - 201… 岩崎 卓也(いわさき たくや、1929年7月9日 - 2018年2月4日)は、日本の考古学者、筑波大学教授を歴任。 この間、早稲田大学客員教授(1991年~2000年)、国立歴史民俗博物館客員教授 (1992年~1995年)などを併任。文化財保護では、長野県文化財保護審議会委員、更埴市文化財審議会委員、森将軍塚古墳保存整備委員・発掘調査団長、流山市文化財保護審議会委員、史跡埼玉古墳群保存整備協議会委員などを歴任。
吉沢 典男(よしざわ のりお、1928年8月25日 - 19… 吉沢 典男(よしざわ のりお、1928年8月25日 - 1988年3月8日)は、日本の国語学者・音声学者。 長野県長野市出身。長野師範学校付属小学校、旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、國學院大學文学部国文科卒業、1953年同大学院修士課程中退、同年国立国語研究所に入所、東京医科歯科大学助教授を経て、1963年千葉大学文理学部助教授、1966年東京外国語大学助教授、同音声学研究所教授。 1962年「呼気消費量計による、発声・発音についての音声生理学的研究」で神戸医科大学医学博士。NHK放送用語委員会委員を務めた。
吉村 午良(よしむら ごろう、1926年(大正15年)2月1… 吉村 午良(よしむら ごろう、1926年(大正15年)2月13日 - 2007年(平成19年)5月7日)は日本の政治家・官僚。元長野県知事(在職期間:1980年(昭和55年) - 2000年(平成12年))。旧名は吾朗であり、改名は姓名判断に凝っている夫人の勧めで行われた。 新潟県長岡市生まれ。長野市立鍋屋田尋常小学校(現:長野市立鍋屋田小学校)、旧制長野中学校(現:長野県長野高等学校)、東京大学法学部を卒業後、自治省(現:総務省)へ入省。1948年(昭和23年)に長野県厚生課に出向し、児童課、林政課、振興課、厚生課の各課長を経て、1957年(同32年)宮城県庁に転じ、1961年(同36年)自治省会計課長補佐、1962年(同37年)総理府統計局経済課長となり、1965年(同40年)自治大臣官房調査官から、長野県総務部長に再出向した。
倉嶋 厚(くらしま あつし、1924年1月25日 - 201… 倉嶋 厚(くらしま あつし、1924年1月25日 - 2017年8月3日)は、日本の気象エッセイスト、気象学者。理学博士(東京教育大学(現・筑波大学))。かつてテレビで気象キャスターとして活躍した。 長野県長野市生まれ。父は仏教関係の新聞を出版していた倉島元弥。兄は長野市長を務めた倉島至。 旧制・長野縣長野中學校(現・長野県長野高等学校)を経て、中央気象台付属気象技術官養成所研究科(現・気象大学校)を卒業後、1949年に気象庁入庁。気象庁主任予報官、札幌管区気象台予報課長、鹿児島地方気象台長を歴任。 1984年気象庁を定年退職。業務で付き合いがあったNHKに招聘され外部解説委員となり、『ニュースセンター9時』『にっぽん列島ただいま6時』『NHKおはようサンデー』『NHKモーニングワイドサンデー』で気象情報、気象キャスターを担当。
佐々木 光雄(ささき みつお、1924年 - 没年不明)は、… 佐々木 光雄(ささき みつお、1924年 - 没年不明)は、長野県出身のプロ野球選手。 長野中から1942年に大洋軍へ入団し、同年退団。戦後は国民野球連盟の大塚アスレチックスでプレーした。
宮澤 清治(宮沢 清治、みやざわ せいじ、1923年2月21… 宮澤 清治(宮沢 清治、みやざわ せいじ、1923年2月21日 - 2011年7月18日)は、日本の気象解説者。 長野県長野市出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1942年気象技術官養成所(現在の気象大学校)本科卒業。長野地方気象台、新潟地方気象台を経て福岡管区気象台予報課長。1968年運輸大臣表彰(豪雪機構の解明)。1969年「豪雪に関する中気候学的研究」で東京教育大学理学博士。1972年気象庁天気相談所長。1980年広島地方気象台長。1982年神戸海洋気象台長。1983年気象庁を退官。1983年から2010年6月まで、NHKテレビ・ラジオの「気象情報」の解説を担当した。1993年日本気象学会評議員。
永野 裕貞(ながの ひろさだ、1922年(大正11年)5月2… 永野 裕貞(ながの ひろさだ、1922年(大正11年)5月21日 - 2021年(令和3年)11月22日)は、昭和後期から平成期の地方公務員、政治家。長野県上田市長。位階は従五位。勲四等旭日小綬章受章。 長野県上水内郡三水村(現飯綱町)で、永野貞治、はまえの長男として生まれた。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を経て、1944年(昭和19年)9月、旧制上田繊維専門学校を卒業。 1947年(昭和22年)5月、長野県庁に入庁し、長水地方事務所次長、北佐久地方事務所長、総務部管財課長、同地方課長、下伊那地方事務所長、長野県教育委員会教育次長、人事委員会事務局長、生活環境部長を歴任し、1978年(昭和53年)上田市助役に就任。
小坂 雄太郎(こさか ゆうたろう、1920年3月18日 - … 小坂 雄太郎(こさか ゆうたろう、1920年3月18日 - 1990年8月21日)は、日本の経営者。信越化学工業創業者小坂順造の甥で、信越化学工業社長を務めた。勲二等瑞宝章受章。 長野県上水内郡柳原村(現長野市)出身。地元の地方財閥の信越化学工業創業家小坂一族に生まれる。旧制長野中学・旧制松本高校を経て、1943年に京都帝国大学工学部機械工学科を卒業。海軍技術大尉を経て、1945年に信越化学工業に入社。 取締役、常務を経て、1975年8月に専務に就任し、1983年8月に社長に昇格。 1990年8月21日、肝不全のために死去。70歳没。同日勲二等瑞宝章受章。従兄に小坂善太郎、小坂徳三郎、従弟に小坂健介(信濃毎日新聞社社長)、岳父に舞出長五郎がいる。
徳武 敏夫(とくたけ としお、1919年9月20日 - 没年… 徳武 敏夫(とくたけ としお、1919年9月20日 - 没年不明)は、日本の教育評論家、平和運動家。 長野県長野市生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部卒業。1946年から1959年まで出版社勤務、1965年大連外語外賓教授として渡中。1967年から歴史教育者協議会副委員長に就く。1975年高知大学、1981年和光大学、1982年法政大学で非常勤講師を務める。家永三郎の教科書検定訴訟を30年以上支援し、支援する全国連絡会常任委員。
田中 太郎(たなか たろう、1919年(大正8年)6月4日 … 田中 太郎(たなか たろう、1919年(大正8年)6月4日 - 2001年(平成13年)10月9日)は、昭和戦後から平成前期の実業家、政治家。長野県須坂市長。 長野県上高井郡須坂町(現須坂市)で、田中新十郎、田鶴の長男として生まれた。生家は代々須坂藩の御用達を務めた豪商「田中家」。長野中学校(現長野県長野高等学校)を経て、1942年(昭和17年)9月、早稲田大学商学部卒業。翌月に召集され1946年(昭和21年)7月に復員した。 1947年(昭和22年)須坂町議会議員となる。1953年(昭和28年)田中殖産 (有) を設立し社長に就任した。1964年(昭和39年)11月、長野県議会議員となり5期在任し、土木住宅委員長、農政林務委員を務める。
小林 計一郎(こばやし けいいちろう、1919年5月21日 … 小林 計一郎(こばやし けいいちろう、1919年5月21日 - 2009年11月1日)は、日本の歴史学者、郷土史研究家。長野県史編纂委員、長野郷土史研究会会長(初代)。長野工業高等専門学校、文化女子大学長野専門学校、信州短期大学の元教授。長子は、長野郷土史研究会の二代目会長の小林一郎。脚本家の小林雄次と小林英造は孫。 長野県長野市生まれ。旧制長野中学校(現長野高校)を卒業し、神宮皇學館に進学する。小林一茶研究で知られる伊藤正雄に師事して国文学を学ぶ。1941年に卒業。兵役を経て、1946年から大阪府立農学校や長野県の高等学校教諭、長野工業高等専門学校教授、信州短期大学教授などを歴任。1991年信州短大退職、名誉教授の称号を受ける。
深澤 俊勇(ふかざわ としお、1917年11月11日 - 没… 深澤 俊勇(ふかざわ としお、1917年11月11日 - 没年不明)は、日本の経営者。日野自動車社長を務めた。長野県長野市出身。 旧制長野中学を経て、1937年に名古屋高等工業学校を卒業し、同年に東京自動車工業に入社。1965年11月に日野重工業(のちの日野自動車)取締役に就任し、常務、専務を経て、1980年6月に副社長に就任し、1983年6月に社長に昇格。1987年6月に相談役を経て、1993年7月から顧問を務めた。 1986年11月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。
丸山 忠綱(まるやま ただつな 1917年7月8日 – 1… 丸山 忠綱(まるやま ただつな 1917年7月8日 – 1971年5月8日)は、日本の歴史学者。 長野県生まれ。1935年県立長野中学卒業、1938年旧制第二高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に入学。中村孝也に師事し、1941年に卒業。「宮座ノ研究」を研究課題とし、同大学大学院に進学。1948年に法政大学教授となる。 宮座の研究の他、古代史では三世一身の法、墾田永年私財法、家人・奴婢の研究に取り組み、また戦時下の空襲で自宅を失った東京のホームレスや戦災孤児の姿を見て、近世史では加役方人足寄場の研究も行った。
原田 要(はらだ かなめ、1916年(大正5年)8月11日 … 原田 要(はらだ かなめ、1916年(大正5年)8月11日 - 2016年(平成28年)5月3日)は、日本の海軍軍人、戦闘機操縦者、最終階級は海軍中尉。 長野県上水内郡浅川村(現長野市)の農家に生まれた。わんぱくで勉強は好きではないが、よく出来たほうで、1929年(昭和4年)、旧制長野中学(現長野県長野高等学校)に入学する。 1933年(昭和8年)、一般志願兵として海軍に入隊し、横須賀海兵団で新兵教育を終えた後、駆逐艦「潮」乗組みとなった。だが大砲や魚雷があまり好きになれず、やがて幼少時に見て以来ずっと憧れていた飛行機に乗りたいと志すようになったものの、上司や父の反対のため、たまには飛行機に乗せてもらえるということで、1935年(昭和10年)横須賀航空隊に航空兵器術練習生として入隊した。
丸田 芳郎(まるた よしお、1914年12月16日 - 20… 丸田 芳郎(まるた よしお、1914年12月16日 - 2006年5月30日)は、日本の実業家。京都大学工学博士。花王の社長、会長を歴任した。 長野県更級郡信田村(現長野市)で教師の両親の元に生まれる。1932年旧制長野中学(後の長野県長野高等学校)卒業、1935年桐生高等工業学校(後の群馬大学工学部)卒業。花王の前々身、大日本油脂株式会社に入社。1948年3月、京都大学工学博士の称号を得る。学位は丸田たちが研究した航空潤滑油の合成に関する功績による。 1954年取締役。1956年常務、1968年専務を経て、1969年、副社長に就任。1971年、伊藤英三の死去にともない社長に就任。バイヤスドルフとの提携でニベア花王を設立し、1982年には「ソフィーナ」を発売して化粧品事業に進出するなど経営の多角化・省力化を進め、公害防止にも努めた。
中村 八朗(なかむら はちろう、1914年4月16日 - 1… 中村 八朗(なかむら はちろう、1914年4月16日 - 1999年2月3日)は、昭和期の小説家。 長野県長野市出身。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、第二早稲田高等学院(現早稲田大学高等学院)を経て早稲田大学文学部仏文科卒業。吉江喬松にフランス文学を学んだ。高等学院時代に八木義徳、辻亮一、多田裕計らとともに同人誌『黙示』を創刊。『黙示』に載せた小説「或る尼僧の話」を丹羽文雄に評価され、以後師事する。1937年、丹羽の推挙により『早稲田文学』に処女作「古い絆」を発表、文壇デビューを果たす。初期の作品は僧侶を題材としたものが多かった。 大学卒業後、1938年から早稲田大学出版部に勤務するが、翌年応召され、松本市の歩兵第50連隊を経て、盛岡市の陸軍予備士官学校に入る。
中山 善郎(なかやま よしろう、1914年(大正3年)2月1… 中山 善郎(なかやま よしろう、1914年(大正3年)2月12日 - 1996年(平成8年)1月25日)は、日本の実業家。東京市荒川区生まれ、長野県古間村育ち。
宮入 潔(みやいり きよし、1914年1月26日 - 200… 宮入 潔(みやいり きよし、1914年1月26日 - 2004年12月22日)は、日本の経営者。長野県長野市出身。 旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1934年に山梨高等工業学校機械工学科を卒業し、同年に久保田製作所に入社し、豊田自動織機製作所、トヨタ自動車工業での勤務を経て、1959年4月に豊田通商に移り、同年5月には常務に就任した。 1961年11月に専務に就任し、1968年5月に社長に昇格した。1977年7月から相談役を務めた。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2004年12月22日急性心不全のために死去。90歳没。
小山 清茂(こやま きよしげ、1914年〈大正3年〉1月15… 小山 清茂(こやま きよしげ、1914年〈大正3年〉1月15日 - 2009年〈平成21年〉6月6日)は、日本の作曲家。神楽や祭囃子をモチーフに、日本情緒に満ちた温和な作風に特徴がある。 長野県更級郡信里村(現在の長野市)の出身。生家は山深い里の農家で幼少期には西洋音楽に触れることがなかったという。その代わりに彼の周りには、村の祭礼音楽やさまざまな童歌、村人達がうたう即興の唄や民謡があふれていた。小学校の高学年のころ、近くの町で行われた陸軍戸山学校軍楽隊の演奏に触れ、極めて強い印象を受ける。後に彼はそのことについて、文章の中で「まるで夢のような体験だった」というような事を述べている。やがて旧制長野中学校(現在の長野県長野高等学校)に入学、ハーモニカ合奏や短歌に熱中するようになった。
宮本 幹也(みやもと みきや、1913年3月20日 - 19… 宮本 幹也(みやもと みきや、1913年3月20日 - 1993年11月2日)は、日本の作家。本名は正勝(まさかつ)。 長野県上水内郡吉田村(現長野市)生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、明治大学文学部卒業。1932年「青春街」がサンデー毎日新人賞を受賞し、作家デビュー。週刊朝日に「霧の中の獣心」「渋柿」を掲載、1935年日活撮影所脚本部員となり、1937年社会浪漫派同人となる。1940年国民文化建設同盟を結成し、1941年『公論』編集長となる。1943年に軍に応召し、1945年復員、1949年から文筆業に復帰。戦後、ユーモア小説、通俗小説を多く書いたが、50代で筆を折ったようである。
北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 19… 北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。東京都立大学名誉教授。専門は近世日本史。 新潟県柏崎市生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、松本高等学校文科乙類を卒業 し、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。卒業論文は「徳川幕府直領の研究」。近世政治経済史を専攻し、1962年に「江戸幕府の権力構造」により東北大学から文学博士の学位を授与される。 1950年新潟大学助教授、1951年東京都立大学 (1949-2011)助教授、1959年同大学教授、同大学附属図書館長、1977年定年退官後は立正大学教授を務め、1983年退職。専門書のほか、一般向けの著書・編著を多く著した。
山本 正男(やまもと まさお、1912年1月12日 - 20… 山本 正男(やまもと まさお、1912年1月12日 - 2007年10月10日)は、日本の美術史学者。専攻は美学、芸術史。第4代東京芸術大学学長、初代沖縄県立芸術大学学長。長野県長野市出身。 日本学術会議第13・14期会員、文部省学術審議会委員、日本美学会委員などを歴任した。
瑞穂 春海(みずほ しゅんかい、1911年3月22日 - 1… 瑞穂 春海(みずほ しゅんかい、1911年3月22日 - 1995年6月19日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1911年(明治44年)3月22日、長野県長野市に善光寺塔頭蓮華院の長男として生まれる。 旧制・長野県長野中学校(現在の長野県長野高等学校)、旧制・姫路高等学校(現在の神戸大学)をそれぞれ卒業後、東京帝国大学に入学、同文学部で美術史学を専攻し、同学を1934年(昭和9年)に卒業した。卒業後、同郷の映画監督・池田義信の在籍する松竹キネマの松竹蒲田撮影所に入社した。池田のほか、深田修三、渋谷実に師事した。 1940年(昭和15年)、三浦光子主演の映画『女の気持』で監督に昇進した。第二次世界大戦開戦後の1943年(昭和18年)、河村黎吉・吉川満子主演の『家に三男二女あり』を監督した。
宮坂 完孝(みやさか さだたか、1909年 <明治42年> … 宮坂 完孝(みやさか さだたか、1909年 <明治42年> 12月15日 - 1996年 <平成8年> 11月13日)は、日本の朝鮮総督府官僚、国会職員。参議院事務総長、国立国会図書館長を歴任した。位階は正三位。 長野県埴科郡埴生村(現千曲市)出身。旧制長野中学(現、長野県長野高等学校)を経て早稲田大学法学部卒業。朝鮮総督府、貴族院事務局、文部省を経て参議院事務局に奉職。1965年第5代参議院事務総長に就任。1972年に退任し、同年国立国会図書館長に就任。1980年勲一等瑞宝章を受勲した。1996年死去。死没日付をもって従六位から正三位に進階した。
成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18… 成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18日 - 1988年(昭和63年)4月1日)は、日本の野球評論家。成田は旧姓。本姓は西田。息子は中日ドラゴンズに所属した西田暢。 長野県上水内郡三輪村(現長野市)で生まれる。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に法政大学法文学部法律学科を卒業する。大学在学中は、野球部選手として活躍し、2回の優勝に貢献する。 1934年東京鉄道局に入局。1940年応召。復員後の1949年に退職し、東鉄野球部監督、東京六大学野球審判員。1951年、明治座入社とともに野球部監督、全日本軟式野球連盟常任理事。1979年日本社会人野球関東連盟副会長。
上野 誠(うえの まこと、1909年〈明治42年〉6月7日 … 上野 誠(うえの まこと、1909年〈明治42年〉6月7日 - 1980年〈昭和55年〉4月13日)は、日本の版画家。1950年代初めには「魚沼六郎」という名でも作品を発表していた。プロレタリア芸術を探求して原爆も多く題材とし、海外でも高く評価された。 長野県更級郡今里村(現・長野市川中島町今里)に内村家に生まれ、長野中学校(現・長野高等学校)を卒業後、1929年に東京美術学校に進む。しかし、共産主義運動に影響を受けて学内改革運動に関わり、1932年に検挙・拘留を経て、1933年に放校処分となる。 その後、東京や郷里で綿製品仕上げ工や鉄道工夫、土工などの労働に従事し、その傍ら須坂の版画家・小林朝治に感化されて木版画を始め、1935年に川中島で木版画の頒布会を開いた。
夏目 忠雄(なつめ ただお、1908年(明治41年)9月8日… 夏目 忠雄(なつめ ただお、1908年(明治41年)9月8日 - 1997年(平成9年)9月30日)は、参議院議員(2期)。長野県長野市長(3期)。長野県議会議員。 長野市生まれ。松本高等学校文科甲類、1932年東京帝国大学法学部卒業。1955年長野県議会議員当選、2期目の途中で辞職し、1962年長野市長選挙に当選、1974年第10回参議院議員通常選挙長野県選挙区に自由民主党から出馬し、初当選。1979年第2次大平内閣科学技術政務次官、1980年第12回参議院議員通常選挙で再選した。 長野市長在任中は篠ノ井市等との2市6町村合併による「大長野市」の実現に尽力した。
青木 太郎(あおき たろう、1908年〈明治41年〉7月31… 青木 太郎(あおき たろう、1908年〈明治41年〉7月31日 - 1977年〈昭和52年〉)は、昭和期の歯科医師、政治家。中野市長。元中野市長の青木一は長男。 長野県下高井郡延徳村大字三ツ和(現・中野市三ツ和)で、元長野県議会議員の青木賢一郎と千代の長男として生まれた。青木家は代々松代藩の庄屋を勤役した旧家。 旧制長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒業後、東京帝国大学医学部修了(選科生)。帰郷し、中野で歯科医院を開業した。1937年(昭和12年)に応召し、1946年(昭和21年)陸軍大尉で復員した。 1947年(昭和22年)長野県議会議員に選出され2期在任。
今井 勇之進(いまい ゆうのしん、1907年10月12日 -… 今井 勇之進(いまい ゆうのしん、1907年10月12日 - 2001年9月18日)は、日本の金属工学者。東北大学名誉教授。元日本学士院会員。元日本金属学会会長。文化功労者。日本学士院賞受賞。工学博士(東北帝国大学、1947年)。長野県上水内郡柳原村(現・長野市)生まれ。 鉄鋼材料に関する研究を進めた。鋼の微量成分の研究で、窒素が極めて有用な合金成分になることを発見した。1992年文化功労者。村上武次郎は岳父にあたる。
小田切 新太郎(おだぎり しんたろう、1907年8月12日 … 小田切 新太郎(おだぎり しんたろう、1907年8月12日 - 1997年4月17日)は、日本の経営者。信越化学工業社長、会長を務めた。長野県上高井郡須坂町(現・須坂市)出身。 旧制長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、1932年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に信越化学工業に入社。 1948年6月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1971年7月に副社長に就任し、1974年7月に業界不況の状況で社長に就任する。 経理・財務担当常務時代は、数字を綺麗に書くこと、判子は伝票に書かれている内容をよく見て、グッと力を入れてまっすぐ縦に押すこと、ソロバンで加減乗除の計算ができるようにすることを経理担当に厳命、管理部門の強い権限を変革して販売、製造、研究各部門に権限を振り分けた。
峯村 光郎(みねむら てるお、1906年6月26日 - 19… 峯村 光郎(みねむら てるお、1906年6月26日 - 1978年2月18日)は、日本の法学者。慶應義塾大学名誉教授。 専門は法哲学、経済法、労働法。 長野県上水内郡水内村(現長野市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て慶應義塾大学法学部卒。 慶應義塾大学助教授、1938年教授。1948年法学博士。のちに同大学法学部長。1972年定年退任、名誉教授、國學院大學教授。日本法哲学会理事長。 1976年勲一等瑞宝章叙勲。 1949年の公共企業体等労働関係法の施行以降には、公共企業体の労働関係問題に深く携わり、1956年からは公共企業体等労働委員会(中央労働委員会の前身)の会長代行、会長を務めた。
松橋 久左衛門(まつはし きゅうざえもん、1905年(明治3… 松橋 久左衛門(まつはし きゅうざえもん、1905年(明治38年)1月2日 - 1970年(昭和45年)11月30日)は、日本の政治家。長野県長野市長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 長野市生まれ。家業は鋼材商「鍋久」で、代々「松橋久左衛門」を襲名する。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、旧制松本高等学校文科を経て、1929年東京帝国大学経済学部卒業。家業の鋼材商「鍋久」を承継し、長野市連合青年会長、長野市会議員を経て、昭和14年(1939年)長野県会議員となる。 同21年(1946年)長野市長臨時代理者となり、翌年に施行された初の公選による長野市長選挙で当選。また戦後の特例で長野県議会議員を兼務し、議長として「分県論」を収束させた。
若林 忠一(わかばやし ちゅういち、1903年(明治36年)… 若林 忠一(わかばやし ちゅういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1977年(昭和52年)5月28日)は、日本の農民運動家、政治家。長野県更埴市長。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)生まれ。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を中退し、独学で法政大学経済学部に進学し、在学中から社会主義運動に参加し、1924年(大正13年)中途退学して帰郷。 更級・埴科地方の自作・小作農民層の青年らを集めて「北信社会思想研究会」を立ち上げ、これに教員らが参加して、1925年(大正14年)政治研究会長野県評議会を組織し、幹事長となる。1926年(大正15年)労働農民党(労農党)に入党。1927年(昭和2年)屋代町に長野県小作組合連合会(日本農民組合長野県連合会)を組織し、その中心人物として県下の農民運動を主導した。
水野 亮(みずの あきら、1902年11月18日 - 197… 水野 亮(みずの あきら、1902年11月18日 - 1979年2月14日)は、日本のフランス文学者・翻訳家。 長野県北佐久郡高瀬村(現佐久市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1926年東京帝国大学仏文科卒業。 東大図書館に勤務しつつ、オノレ・ド・バルザックを主として数多くの翻訳を行った。豊島与志雄の『レ・ミゼラブル』の翻訳の誤訳や脱漏を指摘し、豊島に喜ばれ、自らの翻訳を刊行した。 明治大学では非常勤講師、中央大学では専任講師としてフランス語を教えた。 没後、旧蔵書の中でバルザックに関係する資料は武蔵大学附属図書館で水野文庫として保存され、目録が刊行された。
町田 一郎(まちだ いちろう、1902年8月11日 - 19… 町田 一郎(まちだ いちろう、1902年8月11日 - 1992年1月16日)は、三菱銀行常務取締役、三菱経済研究所長などを務めた、日本の銀行家。 長野県更級郡青木島村(後の長野市更北)生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)から、第八高等学校 (旧制)へ進み、東京大学経済学部を卒業した。大学では研究者になることを目指して大内兵衛のゼミに参加していたが、実家が経営に関わっていた更埴銀行(1911年 - 1937年)の経営が困難に陥る状況などがあって研究者への道を断念し、1928年に三菱銀行に入行して、以降はもっぱら調査や貸付関係の業務に従事した。1936年ころには業務として欧米留学を経験し、その後、審査部長を経て常務取締役となり、後には、三菱経済研究所長に転じた。
倉島 至(くらしま いたる、1901年(明治34年)6月19… 倉島 至(くらしま いたる、1901年(明治34年)6月19日 - 1993年(平成5年)3月4日)は、日本の政治家。長野県長野市長(2期)。 長男はジャーナリストの倉嶋康、弟は気象学者の倉嶋厚。 長野市生まれ。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、旧制松本高校文科甲類を経て、1925年東京帝国大学法学部法律学科卒業。1925年朝鮮総督府に奉職。終戦時は慶尚北道内務部長、1946年引揚げ。1947年法政大学工業専門学校の教授から長野市助役となる。1951年長野県地方労働委員会事務局長。 1954年の長野市長選挙に立候補して初当選し、2期務めた。 在任中は飯綱高原の観光開発に乗り出し、スキー場やキャンプ場などを開設。
坂口 幸雄(さかぐち ゆきお、1901年2月24日 - 20… 坂口 幸雄(さかぐち ゆきお、1901年2月24日 - 2002年3月18日)は日本の実業家。日清製油元会長。長野県上高井郡川田村(現長野市)生まれ。 その他、日本油脂協会会長、世界製油協会副会長、日本経済団体連合会常任理事などを歴任した。
青木 重臣(あおき しげとみ、1900年〈明治33年〉8月6… 青木 重臣(あおき しげとみ、1900年〈明治33年〉8月6日 - 1982年〈昭和57年〉4月21日)は、日本の内務・警察官僚、公選初代愛媛県知事(1期)。 長野県更級郡牧郷村(現:長野市)に青木善蔵の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、京都帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、石川県警部となる。 以後、麻布警察署長、六本木警察署長、深川警察署長、西平野警察署長、関東局警務課長、同特別高等警察課長、同警察官教習所長、満州国治安部特務科長、福井県書記官・警察部長、内務事務官、厚生省監理課長、情報局第一部第二課長、首相秘書官、内務省監査官、千葉県書記官・警察部長などを経て、福島県内政部長に就任。
倉石 忠雄(くらいし ただお、1900年(明治33年)7月2… 倉石 忠雄(くらいし ただお、1900年(明治33年)7月2日 - 1986年(昭和61年)11月8日)は、日本の政治家。労働大臣、農林大臣、法務大臣。位階は正三位。 長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市)に、製糸用繭問屋を経営していた倉石万平の子として生まれる。少年時代の友人に漫画家の近藤日出造がいる。長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、1925年に法政大学法科 を卒業。法大在学中は法政大学弁論部で活動。森恪の知遇を得て、立憲政友会の院外団にも参加する。この活動で同じく院外団メンバーだった大野伴睦と知り合った。 大学卒業後は婦人雑誌を発行していた「婦女界社」に入社する。同社社長の都河竜に目をかけられ二女徳子と結婚、媒酌人は森格が務め、音羽の鳩山一郎邸に一時身を寄せた。