スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
森田 功(もりた いさお、大正15年(1926年)6月16日… 森田 功(もりた いさお、大正15年(1926年)6月16日 - 平成10年(1998年)3月3日)は、日本の医師・作家。 大正15年(1926年)6月16日三重県一志郡竹原村(美杉村竹原宝生を経て現三重県津市)に生まれる。父は竹原村村長を務める森田治と母きみの四男として誕生した。昭和8年(1933年)竹原尋常小学校に入学した。小学校時代成績は万年2位、悪童5人組の年長者で腕白だったと伝えられる。昭和14年(1939年)三重県立第一中学(現三重県立津高等学校)の受験に失敗、1浪後の翌年入学した。昭和20年(1945年)旧制広島高等学校理科に入学したが、8月6日軍需工場で労働作業中に被爆し、3日後三重の実家へ帰郷した。
岡村 初博(おかむら はつひろ、1924年(大正13年)1月… 岡村 初博(おかむら はつひろ、1924年(大正13年)1月23日 - 2014年(平成26年)1月5日)は、日本の政治家。三重県津市長(5期)。 三重県出身。津市市議会議長をしていた岡村末次郎の長男として生まれる、旧制津中学から旧制第八高等学校を経て、軍事色が強まった昭和17年9月東京帝国大学文学部西洋史学科に入る。東京帝国大学では野球部に入り東京六大学野球に打ち込んだ。近鉄バッファローズの監督になった立教大学野球部の西本幸雄と練習試合を行う。慶應義塾大学野球部の別当薫とも試合をしている。帝国大学在学中学徒動員で昭和18年に出征、日本帝国陸軍中部第三十八部隊に入隊、東満州に出兵した。昭和20年8月関東軍の主力が内地防衛のため帰国した中、8月12日牡丹江衛門を出て行軍した。
青木 みか(あおき みか、1923年 - )は、日本の栄養学… 青木 みか(あおき みか、1923年 - )は、日本の栄養学者、名古屋女子大学名誉教授。 三重県一志郡美杉村に生まれる。旧姓・森田。津高等女学校卒業ののち、19歳で結婚するが、夫はその半年後に朝鮮半島沖で戦死。1953年(昭和28年)三重大学農学部農芸化学科卒業、1955年(昭和30年)九州大学大学院修士課程修了。名古屋女学院短期大学講師、1956年名古屋女子大学に勤務、1967年三重県立大学医学博士。名古屋女子大学教授、1989年定年退職、名誉教授。
大久保 房男(おおくぼ ふさお、1921年9月1日 - 20… 大久保 房男(おおくぼ ふさお、1921年9月1日 - 2014年7月25日)は、日本の編集者、作家。 三重県北牟婁郡紀伊長島町(現紀北町)生まれ。旧制津中学校を経て、慶應義塾大学国文科で折口信夫に師事する。学徒出陣で1943年に出征、海軍予備学生(第4期)を経て、1944年暮れに海軍少尉となる。敗戦により復員し、1945年10月に復学、1946年9月に卒業する。同年11月、講談社に入社する。1955年から1966年まで『群像』の編集長を務めた。石原慎太郎や有吉佐和子の作品を一切掲載しない一方で、吉行淳之介や安岡章太郎など「第三の新人」と呼ばれた作家たちを陰で支えた。その仕事ぶりは「文学の鬼」「純文学の鬼」などと称された。
中村 悌次(なかむら ていじ 、1919年(大正8年)9月2… 中村 悌次(なかむら ていじ 、1919年(大正8年)9月24日 - 2010年(平成22年)7月23日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵67期首席。第11代海上幕僚長。最終階級は、帝国海軍では海軍大尉、海自では海上幕僚長たる海将(海軍大将に相当)。京都府出身。 1980年代以降の海上自衛隊とアメリカ海軍の緊密な関係を作り上げた海上自衛隊中興の祖の一人。三重県立津中学校四年修了時に海軍兵学校を受験し合格した。海軍兵学校第67期を首席で卒業し、遠洋航海に出る。なお、67期が遠洋航海をした最後の期となる。重巡洋艦「高雄」乗組みを経て駆逐艦「夕立」に水雷長として乗組む。スラバヤ沖海戦では水雷長として魚雷発射の指揮をとり敵艦に向け魚雷を8本発射するが、発射した魚雷のうち半分が目の前で自爆し、敵艦には1発も当たらず悔しい思いをしている。
奥山 道郎(おくやま みちろう、大正8年(1919年)4月1… 奥山 道郎(おくやま みちろう、大正8年(1919年)4月10日 - 昭和20年(1945年)5月24日) は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。陸士53期。義烈空挺隊長。三重県出身。 陸軍砲兵中佐・奥山春次郎(陸士18期)の長男として神奈川県で出生。 千葉中学(現:千葉県立千葉中学校・高等学校)、津中学(現:三重県立津高等学校)を経て、東京陸軍幼年学校に入校。
高山 成雄(たかやま しげお、髙山 成雄、1916年5月27… 高山 成雄(たかやま しげお、髙山 成雄、1916年5月27日 - 2010年7月25日)は、日本の実業家・篤志家。伯東株式会社創業者・代表取締役会長。香良洲町名誉町民。 1953年(昭和28年)にエレクトロニクス専門商社の伯東株式会社を設立して代表取締役社長・会長を務め、東証一部上場企業に育て上げた。 香良洲町に対して、浜っ子幼児園の建設費用の寄付、めぐみの広場の用地取得費用及び整備費用の寄付、高山元気づくり事業寄付などを行い、郷土の発展に貢献した。香良洲町が津市に編入された後も多額の寄付を行い、魅力ある津市政の推進に貢献した。浜っ子幼児園には高山の銅像(胸像)が設置されている。2011年(平成23年)8月18日にはサンデルタ香良洲に顕彰コーナーが設置された。
近藤 典生(こんどう のりお、1915年4月28日 - 19… 近藤 典生(こんどう のりお、1915年4月28日 - 1997年1月21日)は、日本の環境共生学者・研究者・指導者。探検家。専門は植物遺伝育種学などで、種無しスイカの生みの親でもある。三重県松阪市生まれ。 1915年、小津茂右衛門の次男として生まれる。は旧制津中学(現・三重県立津高等学校)を経て1939年、東京農業大学農学部農学科卒業。京都帝国大学農学部遺伝子研究室副手。1941年、財団法人木原生物学研究所所員。1944年同研究所主任。1948年、同研究所主任・京都大学副手を辞任、東京農業大学助教授就任。1950年、東京農業大学育種学研究所創設。1954年に農学博士。1957年、東京農業大学教授就任。
小津 正次郎(おづ しょうじろう、1915年1月29日 - … 小津 正次郎(おづ しょうじろう、1915年1月29日 - 1997年11月25日)は、日本の実業家、プロ野球球団経営者。三重県出身。 阪神電気鉄道の取締役、専務取締役を歴任し、プロ野球阪神タイガースの球団社長に転じた。 球団社長時代、阪神球団のチーム改革を断行した手腕やドラフト会議でのクジ運の強さから、「オヅの魔法使い(オズの魔法使いのパロディ)」、「オヅワルド(ジョン・F・ケネディ射殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドのパロディ)」「コンピューター付ブルドーザー(田中角栄もこう呼ばれた)」等の異名をとった。 旧制津中学校(現在の三重県立津高等学校)から旧制高松高等商業学校(現在の香川大学経済学部)に進む。
駒田 信二(こまだ しんじ、1914年1月14日 - 199… 駒田 信二(こまだ しんじ、1914年1月14日 - 1994年12月27日)は、日本の作家、文芸評論家、中国文学者。島根大学教授、桜美林大学教授、早稲田大学客員教授などを歴任した。 1914年1月14日、父の勤務地の大阪府大阪市に生まれる。本籍は三重県安濃郡多門村(現在は津市)で、家は明治23年(1890年)の名簿によると地価総額3036円余りの素封家だった。兄は父の姉の家を継いだ美術史家の谷信一。父の転勤で広島、金沢、東京と移動したのち、津で祖父母に育てられ、津中学校卒業、旧制山形高校を経て1940年東京帝国大学文学部支那文学科卒業。 1941年旧制松江高校教授となるが、1942年召集されて支那に出征、捕虜となり共産党の工作員と誤認されて死刑宣告を受けるが日本人と分かり釈放。
水町 庸子(みずまち ようこ、本名︰三国 むめ子、1912年… 水町 庸子(みずまち ようこ、本名︰三国 むめ子、1912年3月24日 - 1941年1月11日)は、福井県出身の女優。夫は俳優の三国周三、娘は女優の水町瑛子(三邦瑛子)、甥は放送タレントの三國一朗。 三重県立津高等女学校(現 三重県立津高等学校)を中退後、1933年、21際の時に新宿の大衆劇場ムーランルージュ新宿座に入団。入団当初は「水町玲子」の芸名で地味ながら堅実な演技をこなす舞台女優として活躍した。徐々に女優としての頭角を現し、美人であった事も加わってトップ女優の仲間入りを果たしていく。 その後、同じムーラン所属の俳優であった三国周三と結婚、1938年に芸名を「水町玲子」から「水町庸子」に改名して「冬の宿」で映画デビューを果たす。
東畑 四郎(とうはた しろう、1908年11月6日 - 19… 東畑 四郎(とうはた しろう、1908年11月6日 - 1980年10月21日)は、日本の農林官僚。食糧庁長官、農林事務次官を務め、退官後は農政調査委員会理事長や日銀政策委員などを歴任した。農業経済学者の東畑精一は実兄。 三重県一志郡豊地村(現在の松阪市)で地主の父・東畑吉之助、母よしをの四男として生まれる。1925年に三重県立津中学校を卒業し、第八高等学校文科甲類に入学した。1928年、東京帝国大学へ入学。在学中の1930年10月に高等試験行政科に合格し、1931年大学卒業後に農林省へ入省。 終戦後には、農政課長として第一次農地改革の原案の作成にとりかかった。東畑が作成した原案では、地主が保有できる貸付地の限度を3haとしていたが、当時農林大臣であった松村謙三は完全自作農主義を持論としており、その限度を1.5haとすることを主張した。
下津 清太郎(しもづ せいたろう、1908年 - 1996年… 下津 清太郎(しもづ せいたろう、1908年 - 1996年)は、日本の歴史家、官僚。 三重県津市出身。三重県立津中学校(現三重県立津高等学校)、第八高等学校卒、1931年東京帝国大学法学部卒。東京市、名古屋市で自治行政に携わる。のち京都地方裁判所司法委員。本務のかたわら西洋史を研究した。
長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月… 長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月2日 - 1946年(昭和21年)10月10日)は、日本の俳人。本名・直次郎。 父が大阪砲兵工廠の技師であったため大阪府で生まれたが本籍は三重県津市。1915年父の退職により津に戻り、津中学校、京都市の第三高等学校を経て京都帝国大学に入学。 俳句を田中王城、鈴鹿野風呂に師事し、1929年野風呂主宰の「京鹿子」同人。また高濱虚子にも師事し、1930年「ホトトギス」初入選。 後に平畑静塔らとともに「京大俳句」創刊に参加するも、1933年に志を異にして決別。同年、「阿漕」を創刊・主宰。1937年、砲兵少尉として応召。同年、病により内地送還。1939年、戦争を詠んだ句を集めた句集『砲車』を刊行。
佐藤 昌胤(さとう しょういん、1907年(明治40年)- … 佐藤 昌胤(さとう しょういん、1907年(明治40年)- 1970年(昭和45年)9月4日)は画家。伊勢湾台風を題材にした絵画などで知られる。三重県桑名郡長島町(現在の三重県桑名市)出身、長島町町会議員も務めた。 晩年住んだ屋敷は改修され、桑名市の情報交流施設・又木茶屋として利用されている。 1921年(大正10年)、三重県立津中学校に入学する。1924年(大正13年)、三重県立富田中学校に編入学するも、翌年退学する。同校の先輩の丹羽文雄の影響を受け、文学を志し上京した。川端画学校で油絵の修業を始め、曽宮一念の指導を受けた。1928年(昭和3年)「晩秋の丘」が帝展に入選する。1930年から春陽会に出品し、1948年に準会員として推挙され、後に会員となる。
城多 又兵衛(きた またべえ、1904年(明治37年)3月3… 城多 又兵衛(きた またべえ、1904年(明治37年)3月30日 - 1979年(昭和54年)3月30日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、音楽学者、作曲家。 三重県出身。三重県立津中学校(現・三重県立津高等学校)卒業。1929年(昭和4年)東京音楽学校卒業。1931年(昭和6年)東京音楽学校研究科修了。同年イタリアにわたり、1934年(昭和9年)までローマのサンタ・チェチーリア音楽院に学ぶ。船橋栄吉、スコラーリに師事。 1936年(昭和11年)ヴェルディ『レクイエム』で歌手デビュー。同年演奏会形式でヴェルディ『椿姫』アルフレードを歌い、のちベルリオーズ『ファウストの劫罰』や、オペラにも出演。
鬼頭 白雨(きとう はくう、1901年(明治34年)11月1… 鬼頭 白雨(きとう はくう、1901年(明治34年)11月16日 - 1977年(昭和52年)10月4日) は、三重県津市出身の歌人。 その後に白駒の歌誌「ROVE」と合同し、「日輪」と改題して発刊したが当局の圧力を受け創刊即終巻となった。(伊勢平野 三重歌壇回顧録より) 「歌人稲森宗太郎」年譜によると、当時の一中(現 津高等学校)には伊賀出身の稲森宗太郎と同時代に鬼頭白雨も在学しており、中谷太郎、岩津資雄、城多又兵衛、後藤義之進らがおり、一級下には寺崎浩、中谷悌吉。また二級上には文学を志す中谷孝雄がいた。在学中には岩津資雄らと合同歌集「青白き薔薇」を発刊とあり、鬼頭白雨とも親交が深かったことが想像できる。
中谷 孝雄(なかたに たかお、1901年(明治34年)10月… 中谷 孝雄(なかたに たかお、1901年(明治34年)10月1日 - 1995年(平成7年)9月7日)は、日本の小説家。妻は小説家の平林英子。 三重県一志郡七栗村(現・津市)出身。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)卒業後、旧制第三高等学校に進学し、梶井基次郎、飯島正、浅野晃らと出会う。平林英子とは三高在学中に出会い、2人が既に同棲をしていた下宿へ友人であった梶井基次郎や大宅壮一が遊びに訪れた。 1924年(大正13年)に東京帝国大学文学部独文科に進み、一旦離れていた平林英子と10月から同棲を再開し結婚。翌1925年(大正14年)1月に、同校の梶井基次郎、外村茂らと同人誌『青空』を創刊した。
下山 定則(しもやま さだのり、1901年〈明治34年〉7月… 下山 定則(しもやま さだのり、1901年〈明治34年〉7月23日 - 1949年〈昭和24年〉7月6日、(死亡日時は不詳)は、日本の鉄道官僚。運輸次官、日本国有鉄道総裁(初代)などを歴任した。 兵庫県神戸市出身。司法官であった父の英五郎は、同県有馬郡高平村木器(こうづき)(現在の三田市木器)の出身であった。転勤に従い少年時代は転校を繰り返していた。転校するたびにその都市の主要駅の時刻表を暗記して人気者になっていたという。静岡中学、津中学、三高卒業。静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)でピッチャーを務めた。三高時代には稚内から[疑問点 – ノート]鹿児島まで駅名を暗唱して友人から「鉄道」というあだ名をつけられた。
稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉… 稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉7月12日 - 1930年〈昭和5年〉4月15日)は、三重県名張市出身の歌人。 1901年(明治34年)に、三重県名張市本町の煙草元売捌商・稲森惣兵衛の長男として生れた。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)を卒業し、1921年(大正10年)、20歳の時、第一早稲田高等学院政治経済学科入学。学院時代から歌人・窪田空穂教授に師事。和歌を作り始めた。早稲田同人誌『自画像』に和歌や小説を発表し、島村民蔵主催の演劇研究会に参加するなど活躍し、その機関誌に戯曲も寄稿していた。 早稲田大学国文学科に進んだ宗太郎は、三重県立第一中学校時代の2年先輩の中谷孝雄と、中谷の友人・梶井基次郎からの誘いで、彼らと一緒に同人誌『青空』の創刊メンバーとなった。
生悦住 求馬(いけずみ もとめ、1900年(明治33年)4月… 生悦住 求馬(いけずみ もとめ、1900年(明治33年)4月26日 - 1993年(平成5年)12月13日 )は、日本の官僚、政治家。 1900年4月26日、三重県久居市に生まれる。1919年、三重一中から第八高等学校文科甲類入学。同級に憲法学者穂積八束の息子の穂積秀二郎がいた。1921年、東京帝国大学英法科入学。穂積八束宅に二年間下宿する。 1924年、高等文官試験に通る。大学の成績は英法科首席。卒業後、第一希望の内務省入省。辞令は「内務省属、六級俸月七十五円を給す」。警保局属。直属の上官は新聞検閲主任事務官であった唐沢俊樹。初めて検閲した本は荒畑寒村『赤露行』。九月十七日発売頒布禁止処分。 1925年、高等官任官。
東畑 精一(とうばた せいいち、1899年(明治32年)2月… 東畑 精一(とうばた せいいち、1899年(明治32年)2月2日 - 1983年(昭和58年)5月6日)は、日本の農業経済学者。農学博士。位階は従二位。次女は東畑朝子。 三重県出身。シュンペーターの革新論や企業者論を中軸に日本の資本主義や農業問題に独自の解明を行った『日本農業の展開過程』などで第二次世界大戦の終結までは主に学究面で活躍、戦後は農林省農業総合研究所所長、アジア経済研究所所長、税制調査会会長など多くの調査研究機関、政策関係委員会の要職を歴任、戦後の日本社会に多方面で大きな影響を与えた。 1899年、三重県一志郡豊地村(現・松阪市)の地主の家に生まれた。東畑吉之助の長男。 三重県立第一中学校を経て、1919年7月旧制第八高等学校第二部丙類卒業ののち、東京帝国大学農学部に入学、農業経済学を専攻した(在学中の友人に蠟山政道・勝次郎(のち山田姓)兄弟がいる)。
森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 19… 森田 慶一(もりた けいいち、1895年4月18日 - 1983年2月13日)は、日本の建築家。建築研究者。三重県生まれ。京都大学名誉教授。また東海大学教授を歴任。過去の様式からの分離を宣言した分離派建築会に名を連ね設計活動を始めるが、西洋建築の歴史的研究を経て、ギリシアやローマの古典精神を探求し、建築論研究にも力を注いだ。 県立三重第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年(大正9年) 東京帝国大学工学部建築学科卒業。その後、一旦、警視庁技師となったのち、武田五一からの招聘で京都帝国大学助教授として赴任。 1934年に「ヰトルーヰウスノ建築論的研究」で工学博士。1934年から1936年、古典建築を研究のため、フランス、ギリシアに留学。
池田 克(いけだ かつ、1893年5月23日 - 1977年… 池田 克(いけだ かつ、1893年5月23日 - 1977年9月4日)は、日本の司法官僚、検事、裁判官。最高裁判所判事。 静岡県出身。幕臣、郡長・池田忠一の三男として生まれる。三重一中、第一高等学校を経て、1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年8月、司法省に入り司法官試補・東京地方裁判所詰となる。 1917年7月、東京地裁予備検事に発令され、同検事、兼司法書記官・行刑局付、刑事局兼行刑局(思想部長)、大臣官房調査課長などを歴任。治安維持法などを立案し、その後、思想犯担当検事(通称・思想検事)となる。 1935年3月、大審院検事に就任。以後、東京刑事地方裁判所検事正、司法省刑事局長、名古屋控訴院(現:名古屋高等裁判所)検事長を歴任し終戦を迎える。
倉田 太一(くらた たいち、1892年10月28日 - 19… 倉田 太一(くらた たいち、1892年10月28日 - 1969年2月2日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 京都武専にて柔道修行に励んだのち、広島高等師範学校や旧制広島文理科大学にて後進の指導に当たって広島における柔道の普及・振興に尽力。また選手としては昭和天覧試合へ名誉ある出場を果たした。 広島県の仁保に生まれた。三重県立第一中学校(現・三重県立津高校)を卒業後、既に柔道3段の倉田は京都の武道専門学校本科に1期生として進学し、同期の尾形源治らと共に磯貝一・永岡秀一・田畑昇太郎の元で稽古に励んだ。極度の近視であった倉田は、稽古の際に眼鏡を外すと常に眉間に皺を寄せて睨み付けるような形相であった事から、同級生らから“鬼瓦”と呼ばれたという。
弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)… 弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)6月30日 - 1952年(昭和27年)11月17日)は、日本の作曲家。 1892年(明治25年)高知県安芸市に生まれる。一絃琴の名手であった母親から、音楽的才能を受け継いだと言われている。 父の転任に従って3歳の時高知を離れ、千葉師範学校附属小学校、三重県立第一中学校(現:三重県立津高等学校)を経て、1910年(明治43年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学する。東京音楽学校では本居長世に師事。在学中に歌曲『昼』を発表した。文部省唱歌の『鯉のぼり』は作者不詳とされてきたが、弘田龍太郎が在学中に作曲したものと言われている。
松井 春生(まつい はるお、1891年(明治24年)5月12… 松井 春生(まつい はるお、1891年(明治24年)5月12日 - 1966年(昭和41年)10月1日)は、貴族院議員などを務めた内務官僚。
甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年〈明治24年〉1月… 甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年〈明治24年〉1月26日 - 1945年〈昭和20年〉8月20日)は、日本の陸軍軍人。 陸軍憲兵大尉時代にアナキストの大杉栄や伊藤野枝らを殺害した甘粕事件で知られる。事件後、短期の服役を経て日本を離れ満洲で関東軍の特務工作を行い、満洲国建設に一役買う。満洲映画協会理事長を務め、終戦の直後に現地で服毒自殺した。 1891年(明治24年)1月26日、宮城県仙台市青葉区北三番丁に米沢藩士で当時宮城県警部だった父・甘粕春吉と、母・志け(旧姓:内藤、仙台藩士内藤与一郎の娘)の長男として生まれた。第四次川中島の戦いでの奮戦で知られる上杉家家臣甘粕景持の子孫で、三菱信託銀行社長を務めた甘粕二郎と陸軍大佐の甘粕三郎は弟。
堀川 美哉(ほりかわ よしや、1883年(明治16年)5月1… 堀川 美哉(ほりかわ よしや、1883年(明治16年)5月17日 - 1963年(昭和38年)6月22日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲民政党)。津市長。 三重県名賀郡比奈知村(現在の名張市)出身。旧制三重県立津中学(現・三重県立津高等学校)を経て、1908年(明治41年)、早稲田大学大学部政治経済科を卒業。『東京日日新聞』記者となり、また一年志願兵として陸軍三等主計に任じられ、さらにアメリカ合衆国のコロンビア大学、イギリスのロンドン大学に留学した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1922年(大正11年)から1927年(昭和2年)まで『中外商業新報』記者を務めた。
小野 耕一郎(おの こういちろう、1883年(明治16年)4… 小野 耕一郎(おの こういちろう、1883年(明治16年)4月1日 - 1945年(昭和20年)1月21日)は、明治末から昭和前期の農業経営者・政治家。衆議院議員、三重県一志郡下之川村長、同郡久居町長。 三重県一志郡下ノ川村(下之川村大字下之川、美杉村大字下之川を経て現津市美杉町下之川)で、豪農・小野耕平の長男として生まれ、1902年(明治35年)三重県立津中学校(現三重県立津高等学校)を卒業し、同年に家督を相続し農業を営む。 下之川村産業組合長、地方森林会議員、一志郡木炭同業組合長、三重県木炭同業組合連合会評議員、産業組合中央会三重支部理事、三重県海外協会理事、同海外移住組合理事などを務め、農事の改善、産業振興に尽力した。
大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)… 大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)11月8日 - 1940年(昭和15年)11月21日)は、日本の内務官僚。府県知事。位階および勲等は正四位・勲二等。 滋賀県犬上郡彦根町出身。旧彦根藩士・大海原尚義(近江鉄道、大日本製糖重役)の長男として生まれる。三重県第一中学校、学習院高等科を経て、1908年、東京帝国大学法科大学を卒業し大学院に進む。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年2月、内務省に入り香川県属となる。 以後、香川県事務官、熊本県事務官、埼玉県警察部長、千葉県警察部長、長崎県警察部長、内務省警保局事務官兼内務書記官、東京府内務部長などを歴任。 1922年10月、山梨県知事に就任。
橋本 策(はしもと はかる、1881年5月5日 - 1934… 橋本 策(はしもと はかる、1881年5月5日 - 1934年1月9日)は、日本の医師、病理学者。橋本病、Hashimoto's thyroiditisを初めて記載した。 三重県阿拝郡西柘植村(現伊賀市)御代の医家に生まれる。旧制津中学校、旧制第三高等学校をへて、京都帝国大福岡医科大学(現九州大学医学部)1907年第1回卒業生として卒業。第一外科に入局。1911年4月“甲状腺ノリンパ腫様変化ニ関スル組織的並ビニ臨床的知見ニ就キテ”を福岡医科大学第17回集談会にて発表、1年後の1912年にまとめてArchiv für klinische Chirurgieに掲載した。今日では橋本病という疾患名が与えられている。
藤原 松三郎(ふじわら まつさぶろう、1881年2月14日 … 藤原 松三郎(ふじわら まつさぶろう、1881年2月14日 - 1946年10月12日)は、日本の数学者・数学史家。第二次世界大戦前において、90編の欧文論文を著し、1936年にオスロで開催された国際数学者会議で招待講演を行うなど、当時の日本の数学界を代表する数学者であり、また日本数学史、中国数学史、朝鮮数学史をカバーする和漢数学史家としても大きな業績を残した。特に8000枚という膨大な遺稿「日本数学史」は『明治前日本数学史』全5巻(岩波書店、1955-1960)としてまとめられ、現在においても和算史を研究する上で最も重要かつ基本的な文献となっている。 1911年(明治44年)、東北帝国大学に数学科が設置されると、30歳で教授に就任。
川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年… 川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年)11月6日 - 1963年(昭和38年)10月26日)は、日本の陶芸家・実業家・政治家。川喜田久太夫16代目。「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称される。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)、幼名は「善太郎」。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」「其飯(そのまま)」等。実業家としては、河芸銀行、一志銀行、三重共同貯蓄銀行、百五銀行各頭取等を務めた。 大阪市東区本町で生まれ、津市の川喜田家の本宅で育つ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となり、久太夫(政令)を襲名。
臼杵 才化(うすき さいか、1876年(明治9年)1月31日… 臼杵 才化(うすき さいか、1876年(明治9年)1月31日 - 1917年(大正6年)12月13日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の医学者・小児科医である。東京帝国大学卒、医学博士。 日本統治時代の台湾総督府医院小児科医長、台湾総督府医学校教授に任ぜられる。 東京帝国大学より医学博士の学位を授与される。正論文『生理的並びに病的関係に基ける哺乳児腸内に於ける脂肪の運命』。 30代臼杵仁(長男)(昭和20年12月10日没)も同墓地。31代臼杵薫(次男)(昭和37年3月10日没)は三重県尾鷲市、金剛寺。(28代臼杵玄貞までの先祖の墓地は、三重県津市榊原、海泉寺にあり永代供養されている)
西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日〈… 西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日〈1870年1月7日〉 - 明治38年〈1905年〉7月12日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍歩兵少佐。栄典は正六位勲四等功四級。 歩兵第50連隊第1大隊長、後備歩兵第29連隊大隊長等を務め日露戦争で勇戦、樺太の戦いに於いて戦死を遂げた。 三重県警部長従七位の西久保紀林の子として肥前国佐賀郡鍋島村八戸(現佐賀市)に生まれる。兄は西久保弘道。明治7年、父に従い東京へ移住。明治8年8月から東京芝区巴町の第一番小学鞆絵学校(後の港区立鞆絵小学校。平成3年3月閉校し現在は港区立御成門小学校)に入校する。明治10年10月に佐賀の日新小学校に転校。明治12年4月には再び父の転勤の為三重県津市養正小学校に転校する。
笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(18… 笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(1868年9月30日) - 大正3年(1914年)12月30日)は日本のキリスト教の大衆伝道者、牧師、神学校教師、宗教家、讃美歌作家。 淀橋教会初代牧師、聖書学校(柏木聖書学院)初代院長。 1868年8月15日 伊勢安濃郡古河村(後の新町、現在の三重県津市)に、代々庄屋の家柄である父・藤堂藩の郡奉行伊藤篤之助、母・そうの5人兄弟の末子(三男)として誕生。 幼少期に父を亡くす。兄、七左衛門が後見人になる。その土地に中学校がなかったので伊藤家が土地を寄付して、鉄三郎のために中学を創設する。中学時代には肺炎を患い生死をさまよう。 1886年(明治19年)に津中学を卒業後する。
加藤 佳子(かとう よしこ 1943年-) は、三重県津市在… 加藤 佳子(かとう よしこ 1943年-) は、三重県津市在住の日本画家。 日展会友。日展入選12回、日春展入選11回。 津市立橋北中学校、三重県立津高等学校卒業。 津中日文化センター、学校法人下村学園の日本画教室講師。 アスト津、三重県立津高等学校、伊賀市役所本庁舎、に日展入選作品を収蔵。 津市役所本庁舎に日春展入選作品を収蔵。 三重県総合文化センターに作品収蔵。 三重県文化奨励賞、津市文化功労賞、津市文化奨励賞、三銀ふるさと三重文化賞を受賞。 三重県展、津市展、松阪市展、伊勢市展、四日市市展の審査員。
熊澤 一衛(くまざわ いちえ) 1877年(明治10年)11… 熊澤 一衛(くまざわ いちえ) 1877年(明治10年)11月1日-1940年(昭和15年)2月14日は、三重県四日市市出身の大正時代から昭和時代の戦前期の実業家。歌人。伊勢電鉄社長。『校本萬葉集』刊行を支援した伊勢生まれの実業家である。 1877年(明治10年)11月1日に現在の三重県四日市市河原田地区に生まれる。父が熊澤市兵衛、母が熊澤かと子の長男として生まれている。熊澤家は農家で河原田の旧家で地主であり、代々藤堂氏の津藩の御金御用達の役を務めていた。熊澤市兵衛は幕末に庄屋などを務めており、戊辰戦争で『撒隊士』という身分で東征に従っている。明治になって四日市に帰郷したが、明治時代に若くして三重県会議員になり、河原田村の村長などの名誉職となった。
田中 里沙(たなか りさ)は、事業構想大学院大学学長。宣伝会… 田中 里沙(たなか りさ)は、事業構想大学院大学学長。宣伝会議取締役副社長・編集室長、日本郵便取締役、三重大学理事・副学長、首都高速道路監査役などを歴任。 三重県津市出身。三重県立津高等学校卒業後、学習院大学文学部英米文学科卒業。株式会社宣伝会議では総務を経て編集部に移り企業宣伝部、メディア、海外広告情報などを担当。 主要な対象読者層の若返りを図る戦略のもと、29歳で同誌の編集長に抜擢された。 専門は広報ブランディング、企業の広報宣伝戦略、マーケティングトレンド分析など。 広告賞審査員、行政・企業の広報宣伝アドバイザーなども歴任してきた。 テレビ番組のTBS『ブロードキャスター』にゲスト・コメンテーターとして2001年から2008年のあいだ出演し、NHK『日曜討論』、TBS『Nスタ』、また『ひるおび!』にレギュラーコメンテーターとして出演。
西田 律夫(にしだ りつお)は、日本の化学生態学者。京都大学… 西田 律夫(にしだ りつお)は、日本の化学生態学者。京都大学名誉教授。国際化学生態学会シルバーメダル賞、日本農芸化学会功績賞等受賞。 三重県津市生まれ。三重県立津高等学校を経て、1972年三重大学農学部農芸化学科卒業。1977年京都大学大学院農学研究科博士課程修了。京都大学農学部助手、助教授を経て、京都大学大学院農学研究科教授。専門は化学生態学、生物有機化学で、昆虫生理活性物質の研究により、2013年度日本農芸化学会功績賞受賞。2015年京都大学名誉教授。同年には化学生態学分野で顕著な功績を挙げた研究者に贈られる国際化学生態学会シルバーメダル賞を受賞した。
丸山 純一(まるやま じゅんいち)は、日本の財務官僚。駐セル… 丸山 純一(まるやま じゅんいち)は、日本の財務官僚。駐セルビア特命全権大使。2021年より、ミュージック・セキュリティーズ株式会社非常勤顧問。 三重県出身。三重県立津高等学校、東京大学法学部第1類(私法コース)卒業、1977年 大蔵省入省(大臣官房秘書課)。1979年プリンストン大学留学。1981年7月 大臣官房秘書課財務官室調査主任。1983年7月 葛城税務署長。 1984年7月 理財局総務課長補佐(総合資金・産業資金)。1986年4月 在アメリカ合衆国大使館二等書記官。1987年4月 在アメリカ合衆国大使館一等書記官。1989年6月 国際金融局為替資金課長補佐。1991年6月 銀行局銀行課長補佐。
笠井 啓次(かさい けいじ、Keiji Kasai)は、日本… 笠井 啓次(かさい けいじ、Keiji Kasai)は、日本の歯科医師、医療法人理事長。三重県鈴鹿市に本拠を置く医療法人大木会 大木歯科医院の創設者であり、理事長・院長を務めている。 予防歯科を基盤に、インプラント治療や矯正歯科に加え、デジタル技工との院内連携を特徴とする総合歯科医療を展開している。 笠井は三重県亀山市に生まれ、1988年に三重県立津高等学校を卒業した。1989年に国立徳島大学歯学部へ入学し、1996年に卒業後、徳島大学病院小児歯科学講座に入局した。1998年には医療法人大里会うらさと歯科・大里デンタルクリニックへ入職し、臨床経験を積んだ。 2002年、三重県鈴鹿市に大木歯科医院を開院し、医療法人大木会の基礎を築いた。
堀出 一郎 ほりで いちろう、1931年7月12日 - )は… 堀出 一郎 ほりで いちろう、1931年7月12日 - )は、日本の経済学者。専門は経営学マーケティング、企業家論、企業行動論、経済学進化経済学。元TBSブリタニカ社長。元サントリー取締役・監査役・顧問。麗澤大学名誉教授。インターネット放送局ことのは顧問。 1949年3月、三重県立津中学校卒業、1950年3月、三重県立津高等学校卒業[要出典]。1954年3月、一橋大学経済学部卒業。在学中は中山伊知郎に師事した。同年4月、大阪商船株式会社に入社。1962年2月サントリー株式会社へ転職。マーケティング室長・取締役国際本部長を経て、1985年TBSブリタニカ社長。1991年、サントリー株式会社役員監査役。