スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
藤田 信之(ふじた のぶゆき、1940年10月4日 - )は… 藤田 信之(ふじた のぶゆき、1940年10月4日 - )は、京都府出身の陸上競技指導者。「F・R・A 藤田ランニングアカデミー」の監督。 1956年(昭和31年)、京都府立洛北高等学校に入学。同高校在学中に陸上競技部に入部し、当時の同部顧問だった塩尻安吉の指導の下、専ら中距離選手として活躍していた。その一方で、同高校に於ける冬の風物詩とされた校内耐寒マラソンに於いては驚異的な走りっぷりを見せていたという。 洛北高校を卒業後、一度は京都市職員として就職するも陸上競技指導者を目指すべく退職。トレーニングと勉学に励む日々を送る中、日本レイヨン(現ユニチカ)の陸上競技部から声がかかり、急遽同社チームの一走者として第4回全日本実業団駅伝に出場、同社チームは第5位の成績を残す。
竹本 信弘(たけもと のぶひろ、1940年2月24日 - 2… 竹本 信弘(たけもと のぶひろ、1940年2月24日 - 2024年7月14日)は、日本の新左翼元活動家・理論家。かつては滝田修(たきたおさむ)というペンネームを使用していた。 1969年、京大パルチザンを結成。1971年の埼玉県朝霞駐屯地での自衛官殺害事件の共謀共同正犯として指名手配され、10年間逃亡の後、逮捕された。のち有限会社メディアコム代表。 2024年7月14日、京都市伏見区の病院で誤嚥性肺炎により死亡した。84歳没。 京都府京都市で京都教育大学名誉教授竹本正信の次男、三人兄弟の末っ子として生まれる。1958年、京都府立洛北高等学校卒業。1960年、京都大学経済学部入学。1964年に京都大学大学院修士課程に進み、ドイツ社会思想史(特にローザ・ルクセンブルク)を専攻する。
栗塚 旭(くりづか あさひ、1937年〈昭和12年〉5月9日… 栗塚 旭(くりづか あさひ、1937年〈昭和12年〉5月9日 - 2025年〈令和7年〉9月9日)は、日本の俳優。男性。身長175cm(1967年1月)。劇団くるみ座出身。 北海道札幌市出身。札幌市立向陵中学校、京都府立洛北高校卒業。 1965年にテレビドラマで演じた土方歳三が当たり役となり、以降も多くのドラマや映画、舞台で土方を演じた。 幼少のころに父を亡くし、札幌市立向陵中学校を卒業するころには母も亡くしたため、教師をしていた兄夫婦を頼って1953年に京都市へ移り住む。 高校へは編入というかたちで入学し、定時制へ1年間通ったのち、全日制へ移った(定時制当時は、法然院などへ来ていた映画撮影隊のロケーションを昼間の空いた時間を使ってよく観に行っていた)。
岩﨑 隆(いわさき たかし、1937年 - )は、日本の実業… 岩﨑 隆(いわさき たかし、1937年 - )は、日本の実業家。株式会社ノリタケカンパニーリミテド代表取締役社長や、同社代表取締役会長、中部経済同友会代表幹事などを務めた。 京都府立洛北高等学校を経て、1960年同志社大学経済学部卒業、日本陶器株式会社(現ノリタケカンパニーリミテド)入社。1992年取締役に昇格。1994年常務取締役。1997年専務取締役。1998年取締役副社長。1999年から代表取締役社長を務め、2002年には社章を制定した。2004年代表取締役会長。2009年相談役。中部経済同友会代表幹事なども務めた。
家 正治(いえ まさじ、1937年(昭和12年) - )は、… 家 正治(いえ まさじ、1937年(昭和12年) - )は、日本の法学者。専門は国際法学。神戸市外国語大学名誉教授、姫路獨協大学名誉教授。京都府生まれ。 2017年1月28日に大阪市で開催された「新春 日朝友好芸術のつどい」実行委員会の実行委員長を務めた。 2017年4月14日には、北朝鮮の親善勲章第2級を受勲している。 2018年、埼玉大学名誉教授の鎌倉孝夫を団長、「福島朝鮮学校を支援する会」会長の住谷圭造を秘書長とする代表団の副団長として北朝鮮を訪問した。 2020年1月11日に沖縄県立博物館・美術館で開催された、北朝鮮の指導者金正恩の誕生日を祝賀するための「チュチェ思想新春セミナー」に、高良鉄美(参議院議員)、平良研一(沖縄大学名誉教授)、尾上健一(チュチェ思想国際研究所事務局長)らとともに参加し、みずからは講演を行った。
森 正夫(もり まさお、1935年12月11日 - )は、日… 森 正夫(もり まさお、1935年12月11日 - )は、日本の中国史学者、名古屋大学名誉教授。 京都府出身。京都府立洛北高等学校卒、1958年京都大学文学部東洋史学科卒、1963年同大学院博士課程単位取得退学。1989年「明代江南土地制度の研究」で文学博士。1963年名古屋大学文学部助手、1967年高知大学教育学部専任講師、1968年助教授、1970年名大文学部助教授を経て、1980年教授、1989-1991年文学部長を務め、1998年定年退官、名誉教授となる。1998-2001年愛知県立大学学長。明清史が専門。 2013年11月瑞宝中綬章受章。
岡部 陽二(おかべ ようじ、1934年8月16日 - )は、… 岡部 陽二(おかべ ようじ、1934年8月16日 - )は、日本の国際金融マン、医療経済研究者。 住友銀行(現:三井住友銀行)入行。取締役国際投融資部長、常務取締役ロンドン支店長、専務取締役を歴任。同行退職後、明光証券(現:SMBC日興証券)代表取締役会長、広島国際大学医療福祉学部医療経営学科および同大学院教授を経て、医療経済研究・社会保険福祉協会 医療経済研究機構副所長を歴任。
高坂 正堯(こうさか まさたか、1934年〈昭和9年〉5月8… 高坂 正堯(こうさか まさたか、1934年〈昭和9年〉5月8日 - 1996年〈平成8年〉5月15日)は、日本の国際政治学者、歴史家、思想家。京都大学(京大)法学部教授を長く務め、学んだのも京大であった。国際政治学や欧州外交史を専門とし、現実主義(リアリズム)の立場から理論や日本の針路についての発言を展開した。日本の国際政治学に大きな影響を与えたほか、論壇でも活躍した。主著に『古典外交の成熟と崩壊』『国際政治』『宰相吉田茂』『海洋国家日本の構想』など。 生まれも京都市で、哲学者高坂正顕の次男である。 高坂家の先祖は高坂弾正忠昌信と言われる(後述)。父の高坂正顕は西田幾多郎に学んだ京都学派の哲学者で、「近代の超克」を唱えた。
小辻 英雄(こつじ ひでお、1933年8月22日 - )は、… 小辻 英雄(こつじ ひでお、1933年8月22日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手。 洛北高校から大日本印刷を経て1953年に南海ホークスへ入団。 1956年は正捕手の松井淳に衰えが見え、2番手だった筒井敬三も移籍したこともあり野村克也と正捕手を争ったが春キャンプで結果を残せず4試合の出場に留まった。同年に退団し、翌年から社会人野球のリッカーミシンでプレー。後に同社の京都支社長に就任した。
野々内 隆(ののうち たかし、1933年5月 - )は、日本… 野々内 隆(ののうち たかし、1933年5月 - )は、日本の通産官僚。通商産業省基礎産業局長や、資源エネルギー庁長官を経て、中小企業診断協会会長や経済産業調査会理事長などを歴任した。 京都府立洛北高等学校を経て、1956年京都大学経済学部卒業、通商産業省入省。同期に尾身幸次(第6代財務大臣)、杉山弘(通商産業事務次官、電源開発社長)、川崎弘(経済企画審議官、東京電力副社長)、守屋一彦(日本化学繊維協会理事長)など。 1972年通商産業大臣官房審議官。1973年通商産業大臣官房参事官。1974年通商産業省通商政策局西欧アフリカ中東課長。1977年通商産業省産業政策局商政課長。1978年通商産業省通商政策局経済協力部経済協力課長。
松下 治夫(まつした はるお、1931年(昭和6年)12月 … 松下 治夫(まつした はるお、1931年(昭和6年)12月 - 2014年(平成26年)10月)は、日本の実業家、芸能プロモーター。芸能事務所の草分け的存在である渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者の一人。 京都府出身。京都府立洛北高等学校卒業。従来、芸能人の地方公演はそれぞれの土地の興行師が実権を握り、不明朗なことが少なくなかった、そこで、タレントを抱えるプロダクションが自らの手で興行を行い、利益と権利を確保しようという狙いのもとに、1955年、当時人気ベーシストであった渡辺晋とその妻美佐と組んで渡辺プロダクションを設立した。 それまでレコード会社の専属抱えだった歌手・作詞家・作曲家を渡辺プロの傘下に集結させ、芸能界初の月給制を導入。
西澤 信正(西沢 信正、にしざわ のぶまさ、1931年2月7… 西澤 信正(西沢 信正、にしざわ のぶまさ、1931年2月7日 - 2009年8月14日)は、名古屋を中心に活動したジャーナリスト、ニュースキャスター、大学教授。 山口県下関市出身。京都府立洛北高等学校→同志社大学文学部英文科卒業後、1953年に中日新聞社(当時は「中部日本新聞社」)に入社。当初は社会部記者として活動するが、後にカイロ、ワシントンD.C.特派員記者、東京本社(東京新聞)国会担当記者を歴任。1976年から名古屋本社文化部長を務めた。 1978年、東海テレビ放送が「イブニングニュース」シリーズ (630→600) をスタートさせると、中日新聞社が東海テレビのニュース制作に現在に至るまで協力している関係から初代メインキャスターに抜擢される。
亀井 龍夫(かめい たつお、1930年8月6日 - 2010… 亀井 龍夫(かめい たつお、1930年8月6日 - 2010年10月23日)は京都市出身の編集者。 父亀井三郎(化学者、京都帝国大学教授)と叔父亀井奎介(内科医、岐阜医大教授)は共に高知県出身で第三高等学校 (旧制)OB。旧制京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)のころから文学作品に魅せられ太宰治に私淑していた。第三高等学校 (旧制)を経て、1954年、東京大学文学部仏文科卒業。同年、古山高麗雄の後任として河出書房に入社。主に文芸出版を担当した。『知性』編集部での同僚に山口瞳がいる。 1957年に河出書房倒産に伴い退社し、フリーライターとなる。テレビ関連の仕事もこなした。 1957年11月、新潮社に入社し三高の先輩の野平健一と仕事をするようになる。
佐野 武治(さの たけじ、1930年5月11日 - 2011… 佐野 武治(さの たけじ、1930年5月11日 - 2011年3月4日)は、日本の照明技師。倉敷芸術科学大学メディア映像学科非常勤講師。日本映画テレビ照明協会会長。 1930年5月11日、京都府京都市に生まれる。 1948年、京都府尋常中学校(現在の京都府立洛北高等学校)卒業後、松竹京都撮影所に入社。 1957年(昭和32年)、同撮影所の契約技師となる。 1964年、松竹京都撮影所閉所にともないフリーランスの照明技師となり、約5,000本の映画作品の照明を手がける[要出典]。 晩年も現役の照明技師で、照明歴は実に60年、照明の神様である。 その傍ら、日本映画テレビ照明協会会長である。 2008年より倉敷芸術科学大学メディア映像学科非常勤講師に就任。
中岡 哲郎(なかおか てつろう、1928年7月12日 - 2… 中岡 哲郎(なかおか てつろう、1928年7月12日 - 2024年1月6日)は、技術史学者、大阪市立大学名誉教授。 妻・百合は経済学者浅沼万里の妹。次男の中岡俊介は経済学者で国士舘大学准教授。 京都府生まれ。京都府立第一中学校卒業。海軍兵学校に進むが4か月で敗戦。1947年に第三高等学校に入学。自然弁証法研究会で広重徹と出会う。 1950年に卒業して京都大学進学。1953年京都大学理学部宇宙物理学科卒業。在学中1951年の京大天皇事件で昭和天皇への質問状を書いた。 1953年 - 1960年定時制高校教諭。1960年、『現代における思想と行動』で、三一新書の200点記念懸賞論文を受賞し、退職して薮内清の弟子となる。
12代 下村 正太郎(しもむら しょうたろう、1927年(昭… 12代 下村 正太郎(しもむら しょうたろう、1927年(昭和2年)11月20日 - 2007年(平成19年)5月13日)は、日本の実業家。大丸社長・会長。 京都府出身。大丸の創業家12代目当主。府立一中を経て、大阪大学経済学部を卒業。 1951年、大丸の主力行である三菱銀行に入行。ニューヨーク支店などに勤務。1965年に大丸に転じ、取締役となり、常務、専務を経て、1984年に社長に就いた。 梅田店出店のため、社長就任直前の1984年2月期に大丸は赤字決算に転落した。しかし、就任直後の1984年上半期(3~8月)の売上高は前年同期の7%増となった。このまま業績を回復軌道に乗せるため、1万人の労使あげて、サービス向上の「スクラム10,000運動」を始めた。
寿岳 潤(じゅがく じゅん、1927年9月19日 - 201… 寿岳 潤(じゅがく じゅん、1927年9月19日 - 2011年9月14日)は、日本の天文学者。東京大学名誉教授。父は寿岳文章、母は寿岳しづ、姉は寿岳章子。 京都府出身。国際天文学連合第51分科会(生物天文学)の副委員長を務め、日本における地球外知的生命体探査の第一人者として知られる。 父は英文学者・書誌学者の寿岳文章、母は翻訳家・評論家・小説家の寿岳しづ、姉は国語学者・随筆家・社会運動家の寿岳章子。1933年、一家で京都府向日市に転居し少年期を過ごした。
粟津 則雄(あわづ のりお、1927年(昭和2年)8月15日… 粟津 則雄(あわづ のりお、1927年(昭和2年)8月15日 - 2024年(令和6年)4月19日)は、日本の文芸評論家、フランス文学者、美術評論家、詩人、翻訳家。日本芸術院会員。「歴程」同人。法政大学名誉教授。 1927年、愛知県西尾市生まれ。京都府立第一中学校、第三高等学校で学び、卒業した。1948年、東京帝国大学文学部仏文科に入学。1952年に東京大学を卒業し、その後はフランス文学の翻訳、美術評論等を多く手掛けた。 1964年に法政大学経済学部助教授となり、後に教授昇格。1997年に法政大学を定年退職して名誉教授となった。草野心平と1960年代に出会って以降、生涯にわたって交友が深く、後にいわき市立草野心平記念文学館長を務めた。
植木 光教(うえき みつのり、1927年3月24日 - 20… 植木 光教(うえき みつのり、1927年3月24日 - 2009年6月6日)は、日本の政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。 参議院議員(5期)、総理府総務長官(第24代)、沖縄開発庁長官(第5代)などを歴任。 京都府生まれ。京都府立京都第一中学校を経て、第三高等学校にて学んだ。その後、東京帝国大学法学部に入学した。東京大学時代は学生運動に関わり、渡邉恒雄らとともに、共産党勢力を排除した新「新人会」の創設に加わった。またクリスチャンでもあったため、東大YMCA代表も務めた。 1950年に大学を卒業すると、日本放送協会に勤務した。その後、警視総監を経て政治家となった町村金五の秘書を務めた。 1962年、35歳の誕生日直後に京都府知事選挙に自由民主党公認で立候補するが、現職の蜷川虎三に敗れ落選。
西島 安則(にしじま やすのり、1926年11月17日 - … 西島 安則(にしじま やすのり、1926年11月17日 - 2010年9月3日)は、日本の工学者。専門は高分子化学。工学博士。京都大学名誉教授、京都市立芸術大学名誉教授。京都大学総長・京都市立芸術大学学長(1998年~2004年)・京都市産業技術研究所所長を歴任。2004年瑞宝大綬章受章。 京都府生まれ。旧制京都府立京都第一中学校(現:京都府立洛北高等学校)卒業、京都大学工学部卒業。工学博士。 1949年~1954年京都大学大学院特別研究生。1953年~1956年ブルックリン工科大学高分子研究所留学。1962年京都大学工学博士、1964年京都大学講師。1967年ブルックリン工科大学客員教授、1968年京都大学助教授,1974年京都大学教授、1975年京都大学学生部長、1979年京都大学工学部長、1985年~1991年京都大学総長。
上田 章(うえだ あきら、1926年(大正15年)5月5日 … 上田 章(うえだ あきら、1926年(大正15年)5月5日 - 2014年(平成26年)3月10日)は、衆議院法制局長。弁護士。位階は従三位。京都市出身。
内垣 啓一(うちがき けいいち、1925年(大正14年)12… 内垣 啓一(うちがき けいいち、1925年(大正14年)12月20日 - 1989年(平成元年)8月17日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家、演劇・音楽評論家、舞台演出家、オペラ演出家。東京大学名誉教授。 京都府京都市に生まれる。京都第一中学校(旧制)、第一高等学校(旧制)を経て、1950年(昭和25年)京都大学文学部ドイツ文学科卒。1951年(昭和26年)に東京大学教養学部助手となり、1953年(昭和28年)戦後初めてのドイツ学術交流会招聘留学生としてハンブルクにおいて研究を続け、以後ドイツ文学、ドイツ演劇、比較文学、比較演劇の講師、助教授、教授を務め、1986年定年退官。 ドイツ文学のエキスパートとして古典から現代までの数多くの文学作品や戯曲を翻訳し出版しているのみならず、研究領域はドイツ演劇に加え、ドイツオペラから新劇や伝統芸能に至るまで舞台芸術全般に及んだ。
酒井欣也(さかい きんや、1925年1月25日ー1996年4… 酒井欣也(さかい きんや、1925年1月25日ー1996年4月25日)は、日本の映画監督。 京都市北区西白梅町生まれ。酒井米子と俳優の葛木香一の子。1942年京都府立京都第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒、慶応義塾大学法学部に入学、44年、陸軍特別操縦見習士官を志願して合格、熊谷陸軍飛行学校に入学、陸軍航空少尉で敗戦を迎える。慶大に復学するが食料事情が悪く京都に帰り、母の劇団を補佐していたが、49年母の世話で松竹京都撮影所監督部に入る。助監督として溝口健二に師事。58年に監督に昇進。「大盗少盗」で監督デビュー。おもに喜劇を撮った。66年フリーとなる。
吉川 経夫(きっかわ つねお、1924年6月4日 - 200… 吉川 経夫(きっかわ つねお、1924年6月4日 - 2006年8月31日)は、日本の法学者。法政大学名誉教授(刑法)。京都府京都市出身。長男の純は弁護士。弟の進三は同志社大学教授。 刑法学説の位置づけとしては、自由主義的でありながら、法律の権威を守ることも重視する、大場茂馬以来の後期旧派(後期古典派)の系譜に属する。 2006年8月31日19時、膵臓がんのため東京都内の自宅で死去。82歳没。
奥山 融(おくやま とおる、1924年1月21日 - 200… 奥山 融(おくやま とおる、1924年1月21日 - 2009年11月7日)は、日本の実業家・映画プロデューサー。元松竹株式会社社長。創業家である白井家、大谷家以外からは永山武臣以来2人目の社長であった。父は元松竹専務の奥山市三、次男は元松竹専務でチームオクヤマ代表の奥山和由。 京都市出身。京都府立京都第一中学校、第五高等学校を経て、1947年京都帝国大学法学部政治学科卒業。同年大和証券入社。1951年松竹入社。主に映画興行部門、国際部門を歩き、1955年プロデューサー、国際部長を経て1968年取締役、1971年常務、1974年専務、1978年副社長。1986年、松竹大船撮影所50周年を期して「ニュー大船調」を打ち出す。
小橋 一郎(こばし いちろう、1923年(大正12年)2月1… 小橋 一郎(こばし いちろう、1923年(大正12年)2月14日 - )は、日本の法学者。専門は、商法・会社法)。学位は、法学博士(大阪大学・論文博士・1962年)。同志社大学名誉教授。勲三等旭日中綬章受章。 京都府京都市生まれ。1940年(昭和15年)3月京都府立京都第一中学校卒業。1945年(昭和20年)、立命館大学法文学部卒業。学位は、法学博士(大阪大学、1962年)(学位論文「手形行為論」)。2000年(平成12年)4月、勲三等旭日中綬章受章。
梨本 徳彦(なしもと のりひこ、1922年(大正11年)11… 梨本 徳彦(なしもと のりひこ、1922年(大正11年)11月19日 - 2007年(平成19年)2月7日)は、日本の海軍軍人、皇族、華族。位階は従四位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終階級は海軍大尉。お印は鳳凰。梨本家(旧梨本宮家)前当主。皇族時代は徳彦王(久邇宮家)といい、臣籍降下後に梨本伊都子(梨本宮守正王妃)の養子となるまでは龍田 徳彦という。 1922年(大正11年)11月19日午後5時15分、久邇宮家の多嘉王と静子妃の第三王子として生まれる。 京都府立京都第一中学校を経て、1942年(昭和17年)、海軍兵学校を卒業(第71期)。同期には野村実など。同年11月19日に貴族院皇族議員となる。
川勝 義雄(かわかつ よしお、1922年(大正11年)11月… 川勝 義雄(かわかつ よしお、1922年(大正11年)11月8日 - 1984年(昭和59年)4月4日)は、日本の東洋史学者。京都大学人文科学研究所教授。専門は六朝期の中国史、中国思想史。京都市生まれ。 京焼の一つ粟田口焼の窯元の息子として生まれ、京都府立第一中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校、京都帝国大学文学部卒業。京都大学人文科学研究所の司書系の助手になり、後研究系の助手、フランスに留学してヨーロッパ東洋学を学び、東洋学者アンリ・マスペロの著書を翻訳した。帰国後京都大学人文科学研究所教授在職中に没した。 内藤湖南・宮崎市定の魏晋南北朝時代を中世とする論を受け継ぐ京都学派の一人であり、特に中国の貴族制研究において谷川道雄と共に「豪族共同体論」を展開し、矢野主税・越智重明らと激しい論争を繰り広げた。
柴谷 篤弘(しばたに あつひろ、1920年8月1日 - 20… 柴谷 篤弘(しばたに あつひろ、1920年8月1日 - 2011年3月25日 )は、日本の生物学者・科学・国際問題評論家。 専門は分子生物学。学位は、理学博士及び医学博士。京都精華大学名誉教授。本名、横田篤弘。 大阪府堺市生まれ。旧制京都一中、旧制三高卒業、京都帝国大学工学部応用化学科入学を経て、1946年に京都帝国大学理学部動物学科を卒業。ミノファーゲン製薬研究部、大阪大学を経て、山口県立医科大学教授、広島大学原爆放射能医学研究所教授、オーストラリア連邦科学産業研究機構上級主任研究員、関西医科大学教授、ベルリン高等学術研究所客員研究員、京都精華大学教授、同学長などを歴任。京都精華大学名誉教授。
林 忠四郎(はやし ちゅうしろう、1920年(大正9年)7月… 林 忠四郎(はやし ちゅうしろう、1920年(大正9年)7月25日 - 2010年(平成22年)2月28日)は、日本の物理学者(天体物理学)・天文学者。学位は理学博士(京都大学・論文博士・1954年)。京都大学名誉教授。位階は従三位。文化勲章受章者。 天文学と原子核物理学・素粒子物理学とをつなぐ学問である宇宙物理学の日本における先駆者の一人。京都大学理学部物理学科・天体核物理学研究室の教授を27年にわたって務め、研究の一方で数多の優秀な理論物理学者や宇宙物理学者、天文学者や惑星科学者を育てた。 京都府京都市上京区紫竹西南町(現・京都市北区紫竹西南町)に林誠次郎・ムメ夫妻の四男として生まれる。生誕翌年の1921年(大正10年)7月12日、大叔父・林寛次郎の養嗣子となる。
梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日 - 20… 梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日 - 2010年7月3日)は、日本の生態学者、民族学者、情報学者、未来学者。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、京都大学名誉教授、理学博士(京都大学、1961年)。従三位勲一等瑞宝章。日本中東学会初代会長を務めた。 1963年に発表した「情報産業論」はセンセーションを巻き起こした。今では当たり前の言葉になった「情報産業」という言葉を初めて用いた。 1964年には自身を中心とした若手研究会による私的研究会「万国博覧会を考える会」を発足。小松左京が万博に参加するきっかけを作った。 「京大式カード」の生みの親でもある。 アフガニスタン、東南アジアなどを実地踏査し、世界を西欧と日本の第一地域と、それ以外の第二地域とから成るとした『文明の生態史観序説』(1957年)を発表した。
川喜田 二郎(かわきた じろう、1920年(大正9年)5月1… 川喜田 二郎(かわきた じろう、1920年(大正9年)5月11日 - 2009年(平成21年)7月8日)は、日本の地理学者、文化人類学者。東京工業大学名誉教授。 1920年(大正9年)、三重県津市で生まれた。京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)に入学し、山岳部に入る山岳部の先輩の今西錦司らと山歩きに没頭。1937年に卒業。第三高等学校理科に進学し、1941年に卒業。 京都帝国大学文学部に進学し、地理学を専攻した。京都帝大時代は山岳部に入部し、今西錦司、森下正明、梅棹忠夫、吉良竜夫らと共に探検隊を結成。カロリン諸島や大興安嶺山脈を探検した。1942年の北部大興安嶺探検隊では、今西錦司が隊長、川喜田が支隊長であった。
宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日… 宇治 家彦(うじ いえひこ、1920年〈大正9年〉3月17日 - 2008年〈平成20年〉10月24日)は、日本の華族、皇族、海軍軍人(皇族軍人)。階級は海軍技術大尉。多嘉王第2王子。皇族時代の名と身位は家彦王。1942年(昭和17年)に臣籍降下し、宇治伯爵家当主となる。 1920年(大正9年)3月17日午後5時35分、久邇宮家の多嘉王と同妃静子の第2男子として誕生。御七夜の3月23日に「家彦」と命名された。兄の宮賀彦王は早世しており、実質的な長男として育つ。1937年(昭和12年)に父と死別。父の多嘉王は久邇宮家本家とは独立していたものの、宮号は賜っていなかったため、家彦王は宮家の当主の地位を継承していない。
苧阪 良二(おさか りょうじ、1918年〈大正7年〉6月28… 苧阪 良二(おさか りょうじ、1918年〈大正7年〉6月28日 - 2018年〈平成30年〉8月12日)は、日本の心理学者。京都大学名誉教授、名古屋大学名誉教授。視空間構造の成立に係わる心理学的研究、眼球運動計測に関する研究などで知られる。長男は苧阪直行、長男の妻は苧阪満里子。 京都市左京区吉田に生まれる。旧制京都府立京都第一中学校、旧制第三高等学校理科甲類を経て、1943年(昭和18年)9月に東京帝国大学文学部心理学科を卒業(卒業論文は「視空間の異方向性 - 月の錯視について」)後、海軍予備学生として応召され海軍兵学校舞鶴分校教官として電測術および心理学を担当する。終戦後、復員し1945年(昭和20年)11月より京都帝国大学大学院文学研究科部哲学専攻にて学ぶ。
柴田 護(しばた まもる、1918年1月27日 - 1995… 柴田 護(しばた まもる、1918年1月27日 - 1995年10月13日)は日本の内務・自治官僚。香川県出身。 京都一中、第三高等学校を経て、1941年3月に東京帝国大学法学部卒業。高等試験行政科に合格し、同年4月に内務省入省(地方局配属)。1942年1月に茨城県経済統制課長に就任。1946年7月に内務省官房調査部、1948年1月に内事局官房自治課、同年4月に地方財政委員会企画課で勤務。1949年に地方自治庁総務課長、1950年5月に地方自治庁府県税課長、1953年10月に自治庁財政課長、1958年6月に北海道総務部長、1960年1月に自治庁官房長(同年7月から自治省官房長)、1962年5月に自治省税務局長、1963年10月に自治省財務局長を歴任。
近藤 次郎(こんどう じろう、1917年1月23日 - 20… 近藤 次郎(こんどう じろう、1917年1月23日 - 2015年3月29日)は、日本の航空工学者。東京大学名誉教授。滋賀県出身。 航空工学の分野では航空機の超高速化に取り組んだり、環境科学の分野では応用数学を利用し、大気汚染の予測や核拡散問題を解明した。 その他、国土審議会、航空機工業審議会、学術審議会などの各種審議会委員。中央公害対策審議会、中央環境審議会会長などを務めていた。
辻 辰三郎(つじ たつさぶろう、1916年(大正5年)7月2… 辻 辰三郎(つじ たつさぶろう、1916年(大正5年)7月23日 - 2004年(平成16年)8月28日)は、日本の検察官、弁護士。検事総長。京都市出身。位階は正三位。 1947年(昭和22年)検事任官。法務大臣官房長、刑事局長、最高検刑事部長等を経て、1976年(昭和51年)に次長検事。1978年(昭和53年)東京高検検事長、1979年(昭和54年)に検事総長に就任。 1981年(昭和56年)に定年退官後、弁護士登録し法制審議会委員等を務めた。1988年(昭和63年)の秋の叙勲で勲一等瑞宝章を受章。死後、正三位に叙された。
遠藤 湘吉(えんどう しょうきち、1916年7月10日 - … 遠藤 湘吉(えんどう しょうきち、1916年7月10日 - 1975年10月19日)は、日本の経済学者。東京大学教授。専攻は財政学、学位は経済学博士(1962年)。実兄に東大野球部で投手として活躍した遠藤洋吉がいる。 北海道に生まれる。京都府立京都第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第一高等学校を経て1940年東京帝国大学経済学部卒業。同年東京帝国大学経済学部助手、1949年東京大学社会科学研究所助教授、1958年同教授。1963年東京大学経済学部教授に移り、1970年から1972年まで同経済学部長。
会田 雄次(あいだ ゆうじ、1916年〈大正5年〉3月5日 … 会田 雄次(あいだ ゆうじ、1916年〈大正5年〉3月5日 - 1997年〈平成9年〉9月17日)は、日本の西洋史学者。京都大学名誉教授。専門はイタリア・ルネサンス。保守派の論客として知られた。 1916年、動物学者・会田龍雄の次男として京都市で生まれた。京都府立第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校を卒業して、京都帝国大学文学部史学科に進んだ。1940年に大学を卒業し、同大学大学院に進学。 1942年、京都帝国大学文学部副手に採用された(1948年まで)。1942年からは龍谷大学予科講師を兼任。しかし、戦局の悪化に伴い1943年に応召し、ビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍。
上林 吾郎(かんばやし ごろう、1914年7月30日 - 2… 上林 吾郎(かんばやし ごろう、1914年7月30日 - 2001年6月21日)は、日本の経営者。文藝春秋社長、会長を務めた。京都府京都市出身。 1939年に早稲田大学文学部国文科を卒業し、同年に文藝春秋新社に入社。 出版部長、「文学界」・「オール讀物」・「週刊文春」・「文藝春秋」各編集長を経て、1961年に取締役に就任し、専務、副社長を経て、1984年6月に社長に就任。1988年5月には会長に就任。 2001年6月21日、肺炎のために死去。86歳没。
林屋 辰三郎(はやしや たつさぶろう、1914年4月14日 … 林屋 辰三郎(はやしや たつさぶろう、1914年4月14日 - 1998年2月11日)は、日本の歴史学者・文化史家。 立命館大学教授・京都大学人文科学研究所教授・京都国立博物館長などを歴任。中世史の研究において大きな足跡を残した。 1914年(大正3年)、石川県金沢市に生まれた。父は茶商を営んでいた四代林屋新兵衛で、四男であったことから生後1年足らずのうちに新兵衛の次兄林屋次三郎の養子となり、生家を離れて東京に移った。 1924年、中華民国・北京に一家で渡航・居留。2年後の1926年、中学校入学準備のため単身帰国した。慶應義塾幼稚舎に入学し1927年に慶應義塾普通部に進学。翌1928年京都に移住し、京都府立京都第一中学校第2学年に編入学した。
川越 藤一郎(かわごえ とういちろう、1914年4月9日 -… 川越 藤一郎(かわごえ とういちろう、1914年4月9日 - 2002年4月16日)は、昭和初期の日本の元ラグビー選手。後に日本ラグビーフットボール協会第9代会長。 京都府立京都第一中學校(現在の京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、早稲田大学(以下、早大)に進学。1937年度シーズンには早大の主将を務め、東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦の制覇に貢献。また日本代表選手として、1936年のニュージーランド学生代表 (NZU) 戦でキャップ1を獲得した。 その後、1987年〜1992年まで関西ラグビーフットボール協会会長(後に同協会名誉会長に就任)、1992年〜1994年まで日本ラグビーフットボール協会第9代会長を務めた。
日比野 丈夫(ひびの たけお、1914年(大正3年)3月4日… 日比野 丈夫(ひびの たけお、1914年(大正3年)3月4日 - 2007年(平成19年)7月2日)は、日本の東洋学者、歴史学者(歴史地理学)。京都市生まれ。祖先は高須藩(現在の岐阜県海津市)に代々仕えた漢学者の家柄。 京都一中、三高を経て、1936年京都帝国大学文学部史学科東洋史専攻卒業。1936年東方文化学院京都研究所嘱託、1942年東方文化研究所副研究員。この間、中国留学(39-41年)や出張(43年)によって、中国国内の遺跡の実地調査に当たる。 1948年京都大学人文科学研究所研究員。49年助手、51年講師、57年助教授、68年教授。59年「居庸関」(共同研究)により、日本学士院賞受賞。
原田 正夫(はらだ まさお、後年の姓名は藤江、1912年(大… 原田 正夫(はらだ まさお、後年の姓名は藤江、1912年(大正元年)9月22日 - 2000年(平成12年)1月22日)は、日本の陸上競技選手。1936年ベルリンオリンピック銀メダリスト。 1912年9月22日、京都府亀岡市曽我部町西条出身。京都一中、三高、京都帝国大学法学部卒業。のち藤江家に養子に入ったため藤江姓を名乗った。 1936年、ベルリンオリンピック男子三段跳に出場。15m66をマークし銀メダルを獲得した。金メダリストは同じ京都帝大出身の田島直人だった。田島は、オリンピック2年前に両者が出席して京都大学陸上競技部誌に掲載された「三段跳座談会」では「(ベルリンオリンピックに代表として)大島さんと原田さんが行くことになるだろう」と発言していた。
西村 秀雄(にしむら ひでお、1912年(明治45年)5月1… 西村 秀雄(にしむら ひでお、1912年(明治45年)5月17日 - 1995年(平成7年)10月17日)は、日本の解剖学者。 西村秀雄は1955年から1976年まで、京都大学医学部の解剖学教授として、《ヒトにおける奇形の発生率は初期胎児集団において高い》ことを報告した。この発見が《重度の奇形を持った胎児は自然流産につながりやすい》ことの根拠となった。 1948年、敗戦後の人口増加による窮乏を緩和するため、国会は社会的・経済的理由による妊娠中絶を合法化した。当時日本は米軍占領下にあり、GHQ公衆衛生福祉局は「避妊・家族計画」を推奨して中絶に反対したが、やがて賛同した。1960年から西村は22府県の1400人をこえる産科医の協力をとりつけ、妊娠初期に中絶のため医院を訪れる母親たちの同意を得て、摘出された胎児を研究標本として収集し、調査した。
岡田 博(おかだ ひろし、1912年(明治45年)3月21日… 岡田 博(おかだ ひろし、1912年(明治45年)3月21日 - 2001年(平成13年)9月29日)は、日本の医師。医学博士。名古屋大学医学部名誉教授、愛知医科大学学長を務め、公衆衛生・予防医学発展に寄与した。京都府出身。 1912年(明治45年)3月21日、岡田吉相(おかだよしすけ)の長男として誕生した。父吉相は滋賀県野洲郡守山村吉身(現守山市)で生まれ、後に京都市東山区東山松原にて医院を開業した。祖父は滋賀県議会議長・衆議院議員を務めた岡田逸治郎。博は父と共によく守山を訪れ、博の息女一人は守山で誕生した。 1933年(昭和8年)入学者80名中席次13番の成績で名古屋医科大学(現名古屋大学医学部)に入り、1937年(昭和12年)3月席次5番で卒業した。
四手井 綱英(しでい つなひで、1911年11月30日 - … 四手井 綱英(しでい つなひで、1911年11月30日 - 2009年11月26日)は、日本の森林生態学者。京都大学名誉教授。京都府立大学名誉教授。京都府生まれ。 里山概念の普及に大きな影響を与えた人物であり、関連する数多くの著書を出している。また、京大山岳部出身で、京都大学学士山岳会での京大ヒマラヤ遠征隊の裏方を長らく務めた。また、京大教授時代は「探検部」の顧問も務めた。
木村 徳三(きむら とくぞう、1911年 - 2005年1月… 木村 徳三(きむら とくぞう、1911年 - 2005年1月23日)は、日本の編集者。 京都市に生まれ育つ。少年時代から歌舞伎に親しみ、旧制京都府立京都第一中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校)時代に谷崎潤一郎や中里介山、江戸川乱歩、菊池寛、郡虎彦などを愛読。旧制第三高等学校の同期に田宮虎彦、青山光二、森本薫がいた。 もともと作家か劇作家になることを志望していたが、東京帝国大学文学部フランス文学科在学中、1935年に太宰治の「逆行」を読んで自らの才能に絶望し、創作の道に進むことを断念する。大学卒業後、1937年6月に改造社入社、出版部に配属されて改造文庫の編集を担当。1938年2月に、『文藝』編集部に異動。
清水 三男(しみず みつお、1909年12月20日 - 19… 清水 三男(しみず みつお、1909年12月20日 - 1947年1月27日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。山部好吉のペンネームによる論文もある。 京都市下京区生まれ。京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、1928年第三高等学校を卒業し、京都帝国大学に入学。同期に赤松俊秀らがいる。義兄でもあった中村直勝の影響と、指導教官三浦周行の指導で荘園研究を行った。卒業論文「封建制度の成立に関する一考察」をまとめ、1931年京都帝国大学文学部を卒業する。同年、大学院に進学し、西田直二郎の指導を受ける。唯物史観の立場に立って中世封建社会成立についての研究を進めた。 1931年10月から1934年3月まで、叡山学院で神道史の講師を務めた後、1935年、和歌山県立和歌山商業学校教員となる。
田杉 競(たすぎ きそう、1909年 <明治42年> 6月2… 田杉 競(たすぎ きそう、1909年 <明治42年> 6月20日 - 1989年 <平成元年> 11月13日)は、日本の経営学者。京都大学名誉教授。位階は従三位。勲二等瑞宝章。 長野県木曽郡楢川村(現塩尻市)出身。旧制京都府立第一中学、旧制第三高等学校を経て、1932年京都帝国大学経済学部卒業。1938年京都帝国大学助手、1939年講師、1946年助教授、1949年京都大学経済学部教授。1958年経済学部長、1972年定年退官、名誉教授。同年より京都学園大学教授を務め、1981年同大学学長に就任。1983年からは開学に尽力した京都文化短期大学学長も兼ねた。1987年「下請制工業論 經濟發展過程における中小工業」で、経済学博士(京都大学)。