スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
寺西 忠成(てらにし ただしげ、1926年4月25日 - 1… 寺西 忠成(てらにし ただしげ、1926年4月25日 - 1999年1月14日)は、広島県広島市出身の元サッカー選手・サッカー指導者。元八幡製鉄サッカー部監督、東福岡高等学校コーチ。 広島一中(現広島県立国泰寺高校)から広島高等師範学校(現広島大学)を経て1949年、当時サッカー不毛の地といわれていた九州の八幡製鉄サッカー部に入団。まだ発足二年目の八幡製鉄サッカー部は同好会レベルで、企業内スポーツ部がまだレクリエーションとしか見られていなかった時代、引き抜きや本社転勤話を断り、無名だったチームの主力フォワード(FW)として活躍した。入社二年目の1951年監督就任。同年日本代表候補となるが、社用が忙しくなり合宿に参加できず、この年インド・ニューデリーで第1回が行われたアジア競技大会には出場出来なかった。
中条 一雄(ちゅうじょう かずお、1926年〈大正15年/昭… 中条 一雄(ちゅうじょう かずお、1926年〈大正15年/昭和元年〉 - 2023年〈令和5年〉12月28日)は、大阪生まれ、広島県広島市出身のスポーツライター、元サッカー選手、サッカー記者(自らは「サッカー愛好家」と称した。詳細は後述)。元朝日新聞論説委員。 旧制広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)・旧制広島高等学校(現・広島大学)を経て東京大学を卒業。1945年広島高等学校2年の夏、爆心地から1. 8キロの修理工場内で広島への原爆投下に遭遇。勤労動員で北部に向かう途中、偶然トラックがブレーキ故障を起こし、その修理のためトラックの下に潜り込んでいたところに原爆が投下された。この結果、奇跡的に一命をとりとめたが、父は行方不明、母は死亡した。
藤沢 令夫(ふじさわ のりお、1925年6月14日 - 20… 藤沢 令夫(ふじさわ のりお、1925年6月14日 - 2004年2月28日)は、日本の哲学者・西洋古典学者。専攻はギリシア哲学。京都大学名誉教授。京都国立博物館館長を歴任。1993年紫綬褒章。1998年叙勲二等授瑞宝章。2004年没時叙正四位。 1925年、母の実家のある長野県松本市で生まれた。国鉄官僚の父の転任にともなって各地を転々とした。旧制広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に入学し、上級生だった頃に西洋絵画集を購入。ラファエロの大作『アテナイの学堂』のプラトンとアリストテレスの部分を切り取り、部屋に飾った。北村透谷の「ホメロス在りし時、プラトン在りし時、彼の北斗は今と同じき光芒を放てり」という美文とあいまって、第三高等学校 (旧制)の受験勉強の気休めにしていたのが、哲学への憧憬の始まりだったと回想している。
渡部 英麿(わたなべ ひでまろ、1924年9月24日 - 2… 渡部 英麿(わたなべ ひでまろ、1924年9月24日 - 2011年10月12日)は、広島県広島市西本浦町(現南区)出身の宮司。元サッカー選手、指導者。 実家は広島市の黄金山に面した邇保姫神社。國學院大學出身という異色の経歴は神社の神主だからである。 広島似島中学教諭時代に日本代表に選出され、1954年のワールドカップスイス大会予選と第2回アジア競技大会(マニラ)の国際Aマッチ2試合に先発出場した。体格も良く、ゴールキーパーとして安定したプレーを見せ、名ゴールキーパーと謳われた。視力が悪かったためメガネを掛けてプレーした。当時チームでのニックネームはやはり「神主」だったという。 指導者としても活動しており、山陽高校監督として1967年、同校を全国高校選手権優勝に導いた。
増岡 康治(ますおか こうじ、1924年〈大正13年〉8月1… 増岡 康治(ますおか こうじ、1924年〈大正13年〉8月18日 - 1996年〈平成8年〉12月2日)は、日本の内務及び建設官僚、政治家。参議院議員(3期、自由民主党)。 広島県広島市出身。旧制広島一中、旧制広島高校を経て1946年東京帝国大学工学部土木工学科卒。同年内務省に入る。1948年、建設省発足に伴い同省に移る。1972年北陸地方建設局長、1974年河川局長に就任する。1976年に退官。翌年の第11回参議院議員通常選挙に全国区から自民党公認で立候補して当選した。1981年鈴木善幸改造内閣で大蔵政務次官に就任。1989年の第15回参議院議員通常選挙で落選した。1991年に首都圏建設資源高度センター社長に就任した。
今田 智憲(いまだ ちあき、1923年7月20日 - 200… 今田 智憲(いまだ ちあき、1923年7月20日 - 2006年6月23日)は、日本の映画プロデューサー。東映アニメーションの社長と会長、東映ビデオの社長を務めた。広島県東広島市西条町出身。 東映社長だった岡田茂の盟友。自宅も近所の幼馴染で、今田の家も酒樽の製造元であった。岡田と小学校から進学・就職とともに歩み、旧制広島一中(現・広島国泰寺高校)、東京商科大学(現・一橋大学)予科を経て1946年東京産業大学(1944年に東京商科大学から改称、現一橋大学)卒業、1947年東京急行電鉄に入り同郷の先輩・黒川渉三が社長を務めていた東横映画(東映の前身の一つ)に誘われて移籍。東映では営業畑を歩き、東映動画(現・東映アニメーション)に移動すると、同社製作のテレビアニメや劇場アニメ作品(東映まんがまつり)の多くに製作・企画などで携わった。
宮脇 幸彦(みやわき よしひこ、1921年1月24日 - 1… 宮脇 幸彦(みやわき よしひこ、1921年1月24日 - 1994年5月10日)は、日本の裁判官、法務省民事局参事官(検事)、学習院大学教授(一時、法学部長)、弁護士
河内 卓司(こうち たくじ、1920年4月26日 - 201… 河内 卓司(こうち たくじ、1920年4月26日 - 2016年6月8日)は、広島県広島市出身のプロ野球選手(三塁手)。 旧制広島一中(現広島国泰寺高校)から慶應義塾大学へ進み、遊撃手として活躍。1943年(昭和18年)10月16日、出陣学徒壮行早慶戦にも八番遊撃手として出場。この後太平洋戦争の激化により大日本帝国陸軍に入隊し、広島の野砲兵第五連隊・西部第五部隊に所属、中尉として台湾で終戦を迎えた。戦後復員し慶應野球部に戻り1946年春、戦後最初の東京六大学リーグ戦優勝の中心選手となる。リーグ通算14試合出場、39打数7安打、打率.179。卒業後1947年、大洋漁業入社。野球部の四番遊撃手として3番戸倉勝城らと第20回都市対抗野球大会でチーム初出場に貢献(林兼商店としては戦前1930年に出場がある)。
藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年〈大正9年〉4月1日… 藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年〈大正9年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉5月16日)は、日本の実業家。フジタ社長・会長。フジタドルフィンクラブ設立者。 広島県広島市出身。広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)、旧制広島一中を経て、1943年に日本大学旧工学部建築学科卒業。藤田組に入り、1949年に監査役、1951年に取締役、1957年に副社長を経て、1962年に社長に就任。 1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下により、東白島町の藤田家はぺしゃんこにつぶれた。自宅にいた一暁は気を失ったが、何秒後かに気がつき、ケガもないため自力で這い出した。家の下にある両親とお手伝いさんを助けようとしたが、一人ではどうにもならず、通りがかりの兵隊の助けを借りて救出した。
山本 朗(やまもと あきら、1919年〈大正8年〉8月20日… 山本 朗(やまもと あきら、1919年〈大正8年〉8月20日 - 1998年〈平成10年〉1月11日)は、日本の新聞記者、実業家。中国新聞社第4代社長。 広島県広島市出身。中国新聞創業家に生まれる。子供時代から優等生で広島高等師範学校附属小学校を5年で修了し、広島県立広島第一中学校に入学。旧制中学を4年修了で旧制広島高等学校に進学。自転車通学で3年間無遅刻、無欠席を続け卒業時には皆勤賞を受けた。同期に永野厳雄(広島県知事)、1年後輩に松谷健一郎(中国電力会長)などがいる。 旧制高校卒業後、東京帝国大学経済学部に進学。1941年4月、実父の山本實一が社長を務める中国新聞社に入社。県政記者などを担当していたが、1944年(昭和19年)3月召集令状が来て呉海兵団へ入隊。
津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 … 津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 - 1984年(昭和59年)12月26日)は、日本のプロ野球記者、野球解説者。広島県広島市出身。 出身校は、広島県立広島第一中学校(広島一中。のちの広島県立広島国泰寺高等学校)→神戸高等商業学校(神戸高商。のちの神戸大学)。中学時代はは堅守の内野手として鳴らしたものの、親の反対により野球を断念。戦後の復員以降は、知人と乾物店を経営しながら、母校・広島一中などで野球のコーチを務めたり、実業団野球チームの全広島に参加していた。 1948年(昭和23年)に中国新聞社へ入社し、運動部記者となりプロ野球記者としての活動を開始。1949年(昭和24年)秋の地元球団・広島カープ(のちの広島東洋カープ)創設以降はカープの番記者として活動。
頼實 正弘(頼実 正弘、よりざね まさひろ、1919年6月2… 頼實 正弘(頼実 正弘、よりざね まさひろ、1919年6月21日 - 2024年4月7日)は、日本の化学工学者である。広島大学名誉教授。 広島大学学長、広島県立大学学長、比治山大学学長、日本伝熱学会副会長などを歴任した。勲二等旭日重光章受章。 広島県生まれ。1937年広島県立広島第一中学校(のちの広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1941年広島高等工業学校(のちの広島大学工学部)機械工学科卒業。 1943年東京工業大学(のちの東京科学大学)化学工学科卒業。東京工業大学の研究助手などを経て、1951年文部教官任官、広島大学講師。1955年広島大学助教授。 1961年には東京工業大学から工学博士の学位を取得。
大谷 洌子(おおたに きよこ、1919年1月1日 - 201… 大谷 洌子(おおたに きよこ、1919年1月1日 - 2012年5月8日)は、昭和期の声楽家(ソプラノ)、歌手。出生年を1921年とする文献もある。 広島県広島市国泰寺町(現・中区国泰寺町)出身。両親はいずれも広島一中(現・広島国泰寺高校)の教師だった。1940年武蔵野音楽学校卒業。同期生に高英男、木下忠司がいる。原信子に師事。 同年、ビクターレコードから歌手デビュー。1941年に、柴田睦陸と「出せ一億の底力」を吹き込む。 1942年には、灰田勝彦と、「ジャワのマンゴ売り」や「空の神兵」を吹き込みヒットさせている。 前年、第10回毎日音楽コンクール声楽部門入賞をきっかけに藤原歌劇団歌舞伎座公演『ファウスト』の主役・マルガレーテ役に抜擢されオペラ界にデビュー、新人でマルガレーテを演じた冽子は「オペラ界のシンデレラ」ともてはやされた。
村上 信二郎(むらかみ しんじろう、1918年(大正7年)1… 村上 信二郎(むらかみ しんじろう、1918年(大正7年)11月27日 - 1972年(昭和47年)8月26日)は、日本の政治家、内務・通産官僚。衆議院議員(2期)を務めた。従四位勲三等。 1918年(大正7年)、広島県に生まれる。広島県立広島第一中学校を経て東京府立第四中学校へ転校し、その後、第一高等学校を卒業。卒業後は短期現役海軍主計科士官(12期)を志願し、1944年(昭和19年)9月、海軍経理学校に入学。1945年に卒業した。同年6月、海軍主計少尉に任官。舞鶴施設本部付兼第101部隊長を務めて終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 1945年(昭和20年)9月、東京帝国大学法学部を卒業。
小畑 実(おばた みのる、1918年6月7日 - 1986年… 小畑 実(おばた みのる、1918年6月7日 - 1986年5月1日)は、日本の元サッカー選手、元サッカー指導者。広島県出身。慶應義塾大学卒。 元日本代表FW。元東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)監督、元同チーム総監督。 1936年(昭和11年)、広島一中(現広島国泰寺高校)が全国中等学校蹴球選手権大会(現全国高校サッカー選手権)で初優勝を果たした時の左インナー(FW)。1937年(昭和12年)卒業。同年度卒に、久保道正(第一産業創業者)、藤田一暁(フジタ社長)、頼實正弘(広島大学学長)などがいる。 二宮洋一、津田幸男らとともに、戦前の慶應義塾大学体育会ソッカー部黄金時代の左インサイドとして活躍した。
久保 道正(くぼ みちまさ、1918年〈大正7年〉3月16日… 久保 道正(くぼ みちまさ、1918年〈大正7年〉3月16日 - 1992年〈平成4年〉6月28日)は、広島県広島市出身の実業家。第一産業(後のダイイチ/デオデオ/エディオンWEST、現エディオン WESTカンパニー)創業者。現エディオン社長、サンフレッチェ広島会長・久保允誉は長男、上新電機取締役を経てエディオン専務取締役の浄弘晴義は次男。 広島県広島市大手町(現在の同市中区大手町)生まれ。久保家は代々江州屋の屋号で刀剣商を営んでいた。寺下辰夫の小説『サンパギタ咲く戦線で』に太平洋戦争中、陸軍報道班員として広島宇品港からフィリピンに向かう寺下、尾崎士郎、石坂洋次郎らが、その前日、今日出海の短刀を軍刀に拵えるため、ふと久保刀剣店に立ち寄り、刀が出来る間、店の二階で御馳走に与り、訣れの酒宴を行なったエピソードが書かれている。
山内 敕靖(やまうち ただやす、1918年〈大正7年〉 - … 山内 敕靖(やまうち ただやす、1918年〈大正7年〉 - 1983年〈昭和58年〉8月28日)は、日本の実業家。元広島ガス社長、元広島商工会議所会頭。 広島市出身。広島県立広島第一中学校を経て旧制広島高等学校に入学。旧制高校では松谷健一郎元中国電力社長、山本朗元中国新聞社社長、永野厳雄元広島県知事らと同期で、友人だった。旧制高校では寮委員を務め留年したが、非常に人望があった。 旧制高校を卒業後は九州帝国大学工学部に進学、卒業後は住友金属工業に入社するも間もなく海軍に応召。終戦により復員するも、財閥解体により復職できず、四国ガスに勤務した後、1947年(昭和22年)、実父が重役をしていた広島ガスに入社。
市田 夏生(いちだ なつお、1917年7月10日 - 没年不… 市田 夏生(いちだ なつお、1917年7月10日 - 没年不明)は、広島県出身のプロ野球選手(投手)。 1950年に広島カープへ33歳で入団。武器はドロップ。1951年に引退。
末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 19… 末岡 圀孝(すえおか くにたか、1917年2月1日 - 1998年11月)は、広島県出身のサッカー選手。 広島一中時代は、センターフォワード(CF)だった。早稲田大学理工学部に進学してア式蹴球部に所属、高橋英辰らが同期であり、1938年の全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝メンバーに名を連ねている。また、1940年4月の全日本蹴球選手権大會(第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)では早大WMWのメンバーとして大会準優勝に貢献した。 また、大学在学中の1939年8月27日には関東州代表戦でサッカー日本代表として初出場。また、同年9月の日満華交歓競技大会および1940年6月の紀元二千六百年奉祝東亜競技大会に出場し、国際Aマッチ1試合を含む合計4試合に出場した。
岡村俊民(おかむら としたみ、1916年(大正5年)11月1… 岡村俊民(おかむら としたみ、1916年(大正5年)11月15日 - )は、日本の農学者。学位は、農学博士(北海道大学・論文博士・1960年)。北海道大学名誉教授。元北海道拓殖短期大学学長。広島県出身。 1934年(昭和9年)広島県立広島第一中学校卒業。1941年(昭和16年)北海道帝国大学農学部農学科卒業。 間もなく兵役のため入隊。1946年(昭和21年)復員。 1947年(昭和22年)北海道帝国大学農学部助手。1949年北海道大学農学部付属農林専門部教授。酪農学園短期大学酪農科助教授を経て、1963年(昭和38年)帯広畜産大学畜産学部教授。1965年(昭和40年)北海道大学農学部教授。1973年(昭和48年)同附属農場長。
岡野 良定(おかの よしさだ、1916年9月10日 - 20… 岡野 良定(おかの よしさだ、1916年9月10日 - 2008年1月30日)は、実業家、元三菱自動車工業会長。サッカー選手、サッカー指導者、三菱重工業サッカー部(現:浦和レッズ)創設者、初代監督。選手時代のポジションはフォワード。 広島県広島市白島(現:中区白島)出身。広島一中(現:広島県立国泰寺高校)、広島高等学校卒業。一中時代からサッカー一筋で一中の2つ上の先輩にのちに東洋工業サッカー部を創設する山崎芳樹がいる。広高時代、1938年の第14回全国高等学校ア式蹴球大会では主将・フォワードとしてチームを優勝に導く。京都帝国大学経済学部進学後も蹴球部で活躍、1941年卒業。同年、三菱重工業入社。
正田 誠一(しょうだ せいいち、1915年〈大正4年〉5月1… 正田 誠一(しょうだ せいいち、1915年〈大正4年〉5月10日 - 1974年〈昭和49年〉10月11日)は、日本の経済学者。広島県安芸郡江田島村(後の江田島市)出身。原爆歌人として知られる正田篠枝の実弟。 広島県立第一中学校(後の広島県立広島国泰寺高等学校)、旧制広島高等学校を経て、九州大学法文学部経済学科を卒業。広島高時代は同校始まって以来の秀才との評判を得ていた。その後、日本鉄鋼連合会調査部、宇品内燃機有限会社、不二越鋼材株式会社の勤務を経て、1946年(昭和21年)に九州大学の講師に就任し、後に助教授、さらに教授に昇任した。 教授職においては工業政策や社会政策講座を担当する傍ら、九州の石炭産業の分析・研究に関する論文を多く執筆した。
山﨑 芳樹(やまさき よしき、1914年(大正3年)4月8日… 山﨑 芳樹(やまさき よしき、1914年(大正3年)4月8日 - 2014年(平成26年)3月10日)は、広島県広島市出身の実業家。 マツダ5代目社長。元広島商工会議所会頭。元サッカー選手・東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)創設者、初代監督。 広島県安芸郡仁保島村大河(現・広島市南区北大河町)生まれ。生家は広島の旧家、父も技術者。 広島高等師範学校附属小学校(現広島大学附属小学校)5年生からサッカーを始め、広島県立第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)でもサッカー部に所属する。二浪した後、広島高等工業学校機械工学科(現広島大学工学部)に入学。 1938年(昭和13年)、東洋工業へ入社、以降生産技術畑を歩む。
岡本 悟(おかもと さとる、1913年7月13日 - 198… 岡本 悟(おかもと さとる、1913年7月13日 - 1988年11月12日)は、日本の政治家、官僚。参議院議員(2期)。 広島市南区松原町出身。旧制広島一中、旧制広島高等学校卒業。1937年(昭和12年)、東京帝国大学法学部法律学科卒業。同年、鉄道省入省。大阪鉄道局書記。運輸省観光局長、大臣官房長、鉄道監督局長を務める。 1963年(昭和38年)4月19日-運輸事務次官就任。1964年(昭和39年)、運輸事務次官退任。 1965年(昭和40年)、第7回参議院議員通常選挙全国区当選。1971年(昭和46年)、第9回参議院議員通常選挙再選。1972年(昭和47年)、七日会(田中派)理事。1977年(昭和52年)、第11回参議院議員通常選挙に立候補せず、引退。
松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日… 松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日 - 2003年(平成15年)10月28日)は、日本の実業家。カルビー創業者。広島県広島市出身。 カルビーの前身は1905年(明治38年)広島市宇品で創業した広島名産柿ようかん製造の松尾巡角堂である。ただ、松尾が幼少時代の家業は、米ぬかを中心とした穀粉製造販売を行っていた。幼少期は比較的不自由なく生活していた。太田川(旧太田川)で捕った小エビで母親が作ってくれたかき揚げが大好物で、これがのちにかっぱえびせんにつながっていく。 もち米の暴落で父が相場で失敗し、当時の金額で1万円の莫大な借金を抱えた。さらに1927年(昭和2年)広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)5年のとき、母が亡くなり、病弱で足も不自由な父と弟を養わなくてはならなくなり家業を始めた。
原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 19… 原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 1999年6月25日)は、日本の外科医、平和運動家。広島県広島市出身。広島市名誉市民。 旧制・広島県立広島第一中学校、旧制・広島高等学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業。第二次世界大戦中、軍医として中国大陸を転戦する。1946年(昭和21年)に広島へ戻り、原子爆弾投下直後の同市で爆心地にバラックの外科病院を作り、治療を開始する。被爆によるケロイド治療や原爆医療法の制定で中心的な役割を担うなど被爆者医療に尽力した。外科医としての活動の傍ら、平和運動に参加。1955年(昭和30年)体にケロイドの残る「原爆乙女」に付き添う形で訪米。渡米治療に道を開くとともに、原爆の惨禍を世界に伝えた。
進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月… 進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月28日 - 2000年(平成12年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵60期。最終階級は海軍少佐。 1911年(明治44年)8月28日、神奈川県横須賀市で、海軍機関大佐であった進藤登三郎の3男として生まれる。父親の転勤に伴い小学校一年から広島県呉市で育った。父が1921年(大正10年)新設された広海軍工廠の総務部長に就任したため、飛行機が身近なものとなる。広島県立第一中学校(現広島国泰寺高校)4年のとき、町でヤクザと喧嘩して相手に怪我を負わせて退校処分となり崇徳中学に編入、1929年(昭和4年)、海軍兵学校60期生として入学した。 ロサンゼルスへの遠洋航海後、「名取」・「日向」・「伊4」・「呂66」の乗組員を経て、1934年(昭和9年)11月に第26期飛行学生となった。
扇畑 忠雄(おうぎはた ただお、1911年2月15日 - 2… 扇畑 忠雄(おうぎはた ただお、1911年2月15日 - 2005年7月16日)は、日本の歌人・国文学者。東北大学名誉教授。旧満州の旅順出身。京都帝国大学文学部国文学科卒。 父・孫一は旅順民政部で農林技師をしていた。父の急逝により8歳で広島県の祖父母の元に移住、12歳で広島市に移った。旧制広島一中を経て旧制広島高校に進学、北島葭江教授が指導する広高短歌会に所属した。広高在学中の19歳の時「アララギ」に入会。アララギ派の歌人となり、斎藤茂吉、土屋文明、中村憲吉に師事。京都帝大卒業後、旧制呉二中や旧制京都一女の教員を経て1942年に旧制第二高等学校教授となり、1946年東北アララギ会『群山』を創刊。
安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年… 安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年8月24日)は、広島県広島市出身の官僚、教育者。厚生事務次官、医療金融公庫総裁、安田学園理事長を歴任した。 広島の私学・安田学園創立者・安田リヨウの長男。戦後の1949年、厚生省保険局長に就任。戦時及び戦後の混乱で乱雑となった厚生年金台帳の整理に尽力し、また海外視察の経験を基にして台帳整理の機械化導入を指示した。1959年には厚生事務次官に就任。1960年、医療金融公庫総裁となる。退官後の1978年、母リヨウ死去に伴い安田学園理事長に就任。1996年、広島市内の病院で死去。享年86。
加藤 陽三(かとう ようぞう、1910年1月29日 - 19… 加藤 陽三(かとう ようぞう、1910年1月29日 - 1989年6月5日)は、日本の内務及び防衛官僚、政治家。防衛事務次官、衆議院議員(2期)。
児玉 好雄(こだま よしお、1909年1月28日 - 198… 児玉 好雄(こだま よしお、1909年1月28日 - 1986年10月20日)は、日本の歌手、教育者。 1909年(明治42年)1月28日、広島県広島市向洋(現:広島市南区向洋新町)に生まれる。 旧制・広島県立広島第一中学校(現:広島国泰寺高校)を1年で中退し、15歳になる1924年(大正13年)に渡米しパシフィック大学音楽科で学び、7年間をアメリカで暮らす。21歳になる1930年(昭和5年)の帰国後、日本青年館で音楽会を開催する。その後、イタリアに留学し、在欧5年でオペラを本格的に学んだ。1933年(昭和8年)、ミラノ音楽院を修了。 帰国後、25歳になる1934年(昭和9年)、ビクターの専属となる。
永野 鎮雄(ながの ちんゆう/しずお、1908年7月25日 … 永野 鎮雄(ながの ちんゆう/しずお、1908年7月25日 - 1982年12月7日)は、日本の僧侶、政治家、参議院議員(1期)。戦後、政財界で活躍した永野一族の一人。 広島県下蒲刈島にある浄土真宗本願寺派弘願寺の生まれ。旧制広島一中、旧制広島高校を経て東北帝国大学卒業後、1939年龍谷大学文学部卒業、1941年に龍谷大学研究科を卒業。自坊の弘願寺住職を継承した後に西本願寺宗務所に勤務し、総務や親鸞聖人大遠忌常務理事などを歴任。1957年には全日本仏教会の代表として当時正式な国交のなかった中華人民共和国を訪問している。 1968年、第8回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補し当選。
藤田 明(ふじた あきら、1908年1月1日 - 2001年… 藤田 明(ふじた あきら、1908年1月1日 - 2001年5月29日)は、日本の水泳・水球選手。ロサンゼルス五輪(1932年)水球日本代表選手主将兼コーチ。元日本水泳連盟会長。実業家、元日本ゼオン専務、関東ゴム社長。早稲田大学商学部卒業。広島県広島市出身。 後年、広島平和記念公園となる広島市中島町の生まれ。中島小学校の先生に水泳にも堪能だった多田徳雄がいて正しい泳法を習う。広島一中(現広島県立国泰寺高校)で水泳部を創部し水泳・水球の名選手として鳴らした。尊敬する中学の先輩・沖田芳夫、織田幹雄を追い早稲田高等学院、早稲田大学と進学する。その全てで主将を務めた。全国から水の英才が集結し、第一次黄金時代を誇った早稲田大学水泳部で活躍する。
田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)… 田部 文一郎(たなべ ぶんいちろう、1907年(明治40年)9月5日 - 2002年(平成14年)2月7日)は、日本の実業家。三菱商事社長・会長、日本商工会議所副会頭。 広島県広島市出身。名前は文一郎だが男女9人兄弟姉妹の四番目。一郎・二郎・三郎の繰り返しで文一郎となった。実家は中級の燃料商で、当時から広島ガスや三菱商事などとも石炭で取引があった。両親はサラリーマンが嫌いで息子はみな商売人となるよう教育した。父親はさほど仕事に熱心でなく、よく仕事を休んでいたという。広島市立本川小学校6年の頃から集金をやらされたが子供の集金に取引先はお金を払わず。子供ながら絶対商売人にはなりたくないと強く願い、他の男兄弟はみな商業学校に行った中で一人だけ広島県立一中(現・広島国泰寺高校)へ進学した。
金井 清(かない きよし、1907年(明治40年)7月25日… 金井 清(かない きよし、1907年(明治40年)7月25日 - 2008年(平成20年)4月13日)は、日本の地震工学者。分散性表面波、常時微動の測定法開発、構造物や地盤の振動理論などの研究で知られる。東京大学教授・日本大学副総長を歴任。 1907年(明治40年)、広島市で生まれる。広島県立広島第一中学校を経て、1928年(昭和3年)に広島高等工業学校電気工学科を卒業した。卒業後は同校久保研究室で実験助手を勤めていたが、1931年(昭和6年)に上京し、東京帝国大学地震研究所の妹沢克惟を訪れ、1934年(昭和9年)に正式に助手となった。妹沢との共同研究は10年余に及んだが、この期間に地震研究所彙報により発表された論文は年に10-20編に達する。
黄田 多喜夫(おうだ たきお、1907年〈明治40年〉3月1… 黄田 多喜夫(おうだ たきお、1907年〈明治40年〉3月16日 - 1998年〈平成10年〉)は、日本の外交官、通産官僚。外務書記官、大東亜省電信課長、香港占領地外事部長、公正取引委員会総務部長、通産省通商局長、外務省経済局長、駐デンマーク公使・大使、駐インドネシア大使、外務審査官、外務次官を務めた。 1907年広島県生まれ。広島国泰寺高校から東京帝国大学を経て、第39回文官高等試験外交科合格後、1930年に外務省に入省。1942年に外務書記官(在米大使館外務書記生)を務めた後、大東亜省電信課長を経て、日本占領下の香港で外事部長を務め 、日本の降伏まで務めた。帰国後は、終戦連絡中央事務局経済部長、公正取引委員会総務部長、通商産業省の通商局長(通商監)、外務省の経済局長、駐英公使(1954年より)、駐デンマーク公使・大使、インドネシア大使などを歴任。
田部 武雄(たべ たけお、1906年3月28日 - 1945… 田部 武雄(たべ たけお、1906年3月28日 - 1945年6月)は、広島県広島市袋町(現在の中区)生まれのプロ野球選手(内野手、外野手、投手)。大日本東京野球倶楽部→東京巨人軍創成期の1番打者、主将。巨人で最初に背番号3を着けた選手(現在永久欠番となっている1と3を両方着けた唯一の選手でもある)[3][4]。戦死した日本のプロ野球選手の一人。
織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日… 織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日 - 1998年(平成10年)12月2日)は、日本の陸上選手、指導者。広島県安芸郡海田町出身。1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリスト。 「日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人初のオリンピック金メダリストでもある。織田の金メダルにより、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳した。早稲田大学時代に競技会のプログラムを作る際、織田が「三段跳」と訳した。三段跳では、織田(1928年五輪)・南部忠平(1932年五輪)・田島直人(1936年五輪)と3大会連続で金メダルを獲得したことから、当時は、「日本のお家芸」とも言われた。
下程 勇吉(したほど ゆうきち、1904年10月6日 - 1… 下程 勇吉(したほど ゆうきち、1904年10月6日 - 1998年3月17日)は、日本の教育学者、京都大学名誉教授。教育人間学を提唱した。 広島県安佐郡戸山村にて下程直太郎の長男として誕生。1924年3月広島県立第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1927年3月広島高等学校(文科乙類)卒業。 1930年京都帝国大学文学部哲学科卒。1937年京都府立医科大学予科教授。1947年、京都大学助教授、「天道と人道 二宮尊徳の哲学」で、文学博士(京都大学)を取得。1948年京都大学教授。教育学部創設に参加し1951年から学部長。1968年定年退官、名誉教授。 松蔭女子学院大学学長 (1968.4 - 1970.3)。
源田 実(げんだ みのる、旧字体: 源田實、1904年(明治… 源田 実(げんだ みのる、旧字体: 源田實、1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官、政治家。海軍では海兵52期を卒業し、最終階級は大佐。戦闘機パイロット、航空参謀を歴任。大艦巨砲主義だった日本海軍内で、いち早く航空機の有用性を見い出し「零戦」「紫電改」の開発に関与。戦争中は、大本営参謀として真珠湾攻撃を立案・指導。これによりアメリカ太平洋艦隊が機能不全に陥り、アメリカが第二次世界大戦に参戦するきっかけとなった。以降、ミッドウェー海戦他、海軍の戦闘に参画。また特攻作戦に深く関与し、第三四三海軍航空隊司令として終戦を迎えた。戦後1954年(昭和29年)空将補として自衛隊入りし、自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した。
田部 辰(たなべ のぶる、1904年2月20日 - 1994… 田部 辰(たなべ のぶる、1904年2月20日 - 1994年2月9日 )は、広島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。 広島県立広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)を卒業後、東京工業大学応用科学科に入学。また、広島一中出身者で組織された鯉城蹴球団にも所属し、1923年5月に開催された第6回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されたが、出場機会は無かった。 また、鯉城蹴球団 (鯉城クラブ) のフォワードとして清水直右衛門や深山静夫、香川幸らと共に1924年の第1回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第4回天皇杯全日本サッカー選手権大会)および1925年の第2回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第5回天皇杯全日本サッカー選手権大会と2年連続での優勝に貢献した。
清水 直右衛門(しみず なおえもん、1902年12月16日 … 清水 直右衛門(しみず なおえもん、1902年12月16日 - 1945年8月6日)は、滋賀県生まれ、広島県出身のサッカー選手。ポジションはフォワード、ディフェンダー。 呉服商の家に生まれ、父が広島市内に店舗を構えるのに合わせて中学以前に広島市内に移住した。広島県立広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)を卒業後、神戸高等商業学校に入学してサッカー部に所属し、1924年に神戸高等商業学校を卒業した。 また、鯉城蹴球団にも所属し、1923年5月に開催された第6回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、中華民国代表戦でヘディングシュートにより1得点を決めた。日本の国際Aマッチ2ゴール目が広島出身者の代表初ゴールであった。
高橋 朝次郎(たかはし あさじろう、1902年9月24日 -… 高橋 朝次郎(たかはし あさじろう、1902年9月24日 - 1976年8月5日)は、日本の実業家。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。広島県広島市出身。 広島市立本川小学校、旧制広島一中を経て、1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業、キリンビール入社。1942年営業部第一部長。1943年営業部第一部長兼東京支店長。1944年麦酒配給統制出向。1948年酒類配給公団理事。1949年酒類配給公団解散に伴い、キリンビールに復帰し、同社取締役営業部長に就任。1953年取締役営業部長兼宣伝部長。1958年常務取締役営業部長。1966年専務取締役。1969年から代表取締役社長を務め、史上最高の63.8パーセントの市場シェアを獲得。
正岡 旭(まさおか あきら、1902年〈明治35年〉4月25… 正岡 旭(まさおか あきら、1902年〈明治35年〉4月25日 - 没年不明)は、日本の医師(産婦人科医)。医学博士。広島市医師会会長。正岡病院院長。 広島県広島市吉島町、正岡政太郎の長男。広島一中、松山高校を経て1928年、岡山医大卒業。同大学安藤産婦人科教室に入り1933年6月まで勤続、研究。 1932年、医学博士の学位を受く。1933年、正岡産婦人科医院開設、院長就任。1955年、第21回広島県医師会代議員会会長をつとめた。 1972年、勲四等叙勲。宗教は真宗。趣味はスポーツ、粘土細工、陶器。住所は広島市猫屋町。
黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3… 黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3月4日 - 1975年(昭和50年))は、日本の実業家。東京急行電鉄専務のほか、東横映画、東京映画配給、東急自動車、東京トヨタディーゼル社長などを務めた。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市)出身。 岡田茂は実家の四軒隣で、医師の息子だった黒川は、旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て1926年(大正15年)、慶應義塾大学経済科卒業。 東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)に入社し同社開発、電燈各課長、東京急行電鉄事業部長、殖産局次長、取締役、専務を歴任。根っこからの野人、バケツの底が抜けたような大酒くらいで大風呂敷。お固い電鉄会社では型破りな人物で五島慶太に可愛がられた。
灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月… 灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月21日 - 1994年(平成6年)1月22日)は、昭和時代の内務・厚生官僚、政治家。位階は従二位。 衆議院議長(60・61代)、文部大臣(74・75・77・82・83・90代)、厚生大臣(36代)、自由民主党総務会長(18代)等を歴任した。 1899年12月21日広島県佐伯郡大柿村(のち大柿町、現・江田島市)に生まれる。灘尾家は農業の傍ら、木綿の製造と醤油の醸造を営んでいた。父の灘尾夫子俟(なだお ふじまつ)は、早稲田大学の講義録で独学した後、政治に興味を持ち、地元で村会議員、町会議員、村長を務めた。なお、遠縁に5代目三遊亭圓楽がいる(灘尾弘吉の父方のいとこの妻が、圓楽の母の姉にあたる)。
野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 … 野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 - 1983年(昭和58年)8月27日)は、広島県広島市出身の医師(医学博士・小児科医)、サッカー選手(日本代表)。 サッカー指導者でもあり、第4代日本サッカー協会会長、アジアサッカー連盟副会長、国際サッカー連盟理事を歴任した。柔和でおだやかな人柄で、回りから敬意と親しみをこめて「のづけん」さんと呼ばれた。元日本損害保険協会会長の河野俊二は甥に当たる。 1899年(明治32年)、広島県広島市生まれ。父親も開業医だった。虚弱児童であったが、1911年(明治44年)4月、広島県立広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高校)に進学すると在学中に蹴球部(サッカー部)が創部されサッカーを始めた。
田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年) - … 田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年) - 1985年(昭和60年)3月6日)は、日本のサッカー指導者。広島県広島市翠町(現・南区翠町)出身。 息子は東洋工業や日本代表でもプレーした田中雍和。 戦前における「サッカー王国広島」の歴史を拓いた人物である。 旧制広島中学(現広島県立広島国泰寺高等学校)在学中の1914年(大正3年)同校に初めて蹴球部(サッカー部)が出来て入部。それまでは同好会的なものだった。田中はレフトウイングで、後に日本サッカー協会会長となる野津謙もサッカー部の同期でフルバック、広島カープの設立で知られる谷川昇も同期でハーフセンターだった。サッカー部の一年上が関西学院大学体育会サッカー部創設者・平田一三 と山口高等学校 (再興山高)サッカー部創設者・武田邦次郎。
永山 忠則(ながやま ただのり、1897年(明治30年)10… 永山 忠則(ながやま ただのり、1897年(明治30年)10月14日 - 1984年(昭和59年)6月13日)は、昭和期の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)、自治大臣・国家公安委員会委員長、広島県庄原市長を歴任した。勲一等旭日大綬章受章(1969年)。広島県比婆郡敷信村(現・庄原市)出身。庄原市名誉市民(1981年)。 広島県立広島中学校(現・広島県立国泰寺高校)出身で岩畔豪雄と同級。1924年に中央大学法学部予科を卒業後、女子師範学校の教師を務めた。1926年、20代で敷信村(現・庄原市)村長となり、八期務めた。その後、広島県議会議員を経て1936年の第19回衆議院議員総選挙に昭和会公認で初当選。
岩畔 豪雄(いわくろ ひでお、1897年10月10日 - 1… 岩畔 豪雄(いわくろ ひでお、1897年10月10日 - 1970年11月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 陸軍中野学校(設立時の名称は防諜研究所)の設立他、多くの諜報機関の設立に関わり、「謀略の岩畔」の異名をとった。また日米開戦回避に奔走した他、戦中はインド国民軍(INA)及び自由インド仮政府の樹立に中心的に関わった。戦後は京都産業大学設立者として理事を務めた。 広島県安芸郡倉橋島(現・呉市)出身。倉橋島は海軍兵学校があった江田島の隣の島である。島育ちながら「なんとはなしに船に乗ることはあまり好きではない」という理由で、陸軍を志願し、広島中学校(現広島県立国泰寺高校)から名古屋陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。