前田 利功(まえだ としこと、1888年(明治21年)7月7… 前田 利功(まえだ としこと、1888年(明治21年)7月7日 - 1962年(昭和37年)2月21日)は、明治から昭和期の華族(男爵)。旧名・芳明。 富山前田家第12代当主前田利聲の子として生まれる。1890年5月22日、加賀前田家分家当主前田利武の臨終に際してその養子となり、利功と改名し男爵を襲爵した。 学習院高等科を卒業。中央生命保険(第一生命保険の前身の一つ)社長、国際製菓監査役などを務めた。
藤井 達也(ふじい たつや、1888年(明治21年)7月7日… 藤井 達也(ふじい たつや、1888年(明治21年)7月7日 - 1934年(昭和9年)12月16日)は、日本の政治家で立憲政友会所属の衆議院議員。 青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)出身。東京帝国大学法科大学を卒業後、シカゴのノースウェスタン大学に留学し、法学博士の称号を得た。帰国後政友会の院外団に入る。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で初当選。その後、第17回・第18回の総選挙でも当選した。その間、犬養内閣で内務参与官を務めた。
松尾 高一(まつお たかいち、1888年 <明治21年> 7… 松尾 高一(まつお たかいち、1888年 <明治21年> 7月5日 - 1973年 <昭和48年> 5月19日)は、日本の実業家。尼崎信用金庫理事長を務めた。位階は正五位。 岡山県英田郡作東町(現在の美作市)出身。1912年に関西大学専門部経済科を卒業した。 大阪市役所、日本木管での勤務を経て、1921年1月に尼崎信用組合(現在の尼崎信用金庫)を創立し、理事に就任した。1944年5月には組合長(1951年の尼崎信用金庫への改組後は、理事長)に就任した。1954年1月には尼崎商工会議所会頭にも就任した。 1952年に緑綬褒章を受章し、1959年に紺綬褒章を受章し、1965年11月に勲四等旭日小綬章を受章し、1968年には尼崎市名誉市民の表彰を受けた。
山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日… 山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉7月30日)は、日本の弁護士、法学博士、医学博士、医史学者、医事法制学創始者。日本弁護士連合会会長、日本医史学会理事長、公安審査委員会委員長などを歴任した。 1888年(明治21年)、千葉県君津郡木更津町の医家に生まれる。1909年(明治42年)に旧制第七高等学校造士館を卒業後、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法兼修)を卒業した。 1913年(大正2年)7月に医事法制の志を立て、東京地方裁判所予審判事として法曹実務に携わる傍ら、翌1914年(大正3年)春から医学者及び医学史家の富士川游に師事して医史学や医事法制等の研究を開始し、両分野にまたがる独特の地歩を築いた。
稲垣 平太郎(いながき へいたろう、1888年7月4日 – … 稲垣 平太郎(いながき へいたろう、1888年7月4日 – 1976年4月23日)は、日本の実業家・政治家。前参議院議員。
村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3… 村上 華岳(むらかみ かがく、1888年〈明治21年〉7月3日 - 1939年〈昭和14年〉11月11日)は、大正~昭和期の日本画家。 1888年(明治21年)、大阪(北区松ケ枝町)に生まれる。本名は武田震一(のち村上震一)。甲州武田氏の末裔。家庭の事情により幼い頃に実父母のもとを離れ、叔母の嫁ぎ先である神戸の村上家に預けられて、神戸の小学校に通った。1901年(明治34年)、震一13歳の時には実父が死に、実母は再婚して行方知れずとなり、少年であった震一が武田家の家督を継ぐこととなった。3年後の1904年(明治37年)、武田家の廃家が許可され、震一は養父母の姓である「村上」を名乗ることとなる。父方の祖母は、日本初の感化院とされる「池上感化院」を自宅に設立した池上雪枝。
宮崎 彦一郎(みやざき ひこいちろう、1888年7月2日 -… 宮崎 彦一郎(みやざき ひこいちろう、1888年7月2日 - 1967年10月10日)は、日本の実業家。 滋賀県犬上郡東甲良村(現:甲良町)に生まれる。東亜同文書院卒業後に、伊藤忠商事に入社。 1955年から丸紅飯田取締役会長社長を務めた。その一方で、神戸商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭、ラジオ関西会長、神戸高速鉄道社長なども歴任した。 1964年には勲三等旭日中綬章を受章した。 1967年10月10日、尿毒症のために神戸市の病院で死去。79歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
土屋 源市(つちや げんいち、1888年〈明治21年〉7月1… 土屋 源市(つちや げんいち、1888年〈明治21年〉7月1日 - 1968年〈昭和43年〉7月8日)は、明治末から昭和期の獣医師、政治家、実業家。衆議院議員、岡山県新見市長、同市名誉市民。旧姓・佐々木。和牛の改良に心血を注ぎ岡山県の「和牛の父」と称された。 岡山県阿賀郡実村(千屋村、阿哲郡千屋村を経て現新見市千屋実)で、農業・佐々木久太郎の三男として生まれる。1908年(明治41年)岡山県農学校(現岡山県立高松農業高等学校)獣医科を卒業した。1913年(大正2年)阿哲郡美穀村唐松の土屋和吉の養子となる。 阿哲郡吏員、同農業技手、阿哲郡産牛馬組合技師を務め、千屋牛の改良に尽力した。1920年(大正9年)阿哲畜産 (株) が設立されると支配人に就任し、その後、同社長を務めた。
田中 和一郎(たなか わいちろう、1888年(明治21年)7… 田中 和一郎(たなか わいちろう、1888年(明治21年)7月 - 1950年(昭和25年)4月8日)は、日本の衆議院議員、厚生参与官。 京都府京都市出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、京都帝国大学大学院で都市社会政策を専攻した。大阪毎日新聞社に入社。その後、京都市会議員、同議長、京都府会議員に選ばれた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に京都1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受け、出馬し、当選。幣原内閣で厚生参与官を務めた。 1946年(昭和21年)、推薦議員のため公職追放となった。追放中の1950年死去。 その他、京都ホテル株式会社取締役、内外出版印刷株式会社監査役、京都府教育委員長を務めた。
小坂 狷二(おさか けんじ、1888年6月28日 - 196… 小坂 狷二(おさか けんじ、1888年6月28日 - 1969年8月1日)は、日本の鉄道車両工学の専門家、エスペランティスト。日本のエスペラント運動の父とも称される。エスペラント著作ではKenĵi OSSAKAと自署した。 東京市生まれ。1901年に陸軍幼年学校に入学、士官するものの除隊し、第一高等学校を経て1916年に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業し、鉄道院(後の鉄道省)に就職。客車、貨車の技術者となった。 1906年、二葉亭四迷の『世界語』によりエスペラントを知り、日本エスペラント協会に入会。1907年に横須賀エスペラント会を再建。1911~1916年に謄写版刷りの"Orienta Stelo"を独力で刊行。
小原甚八(おはら じんぱち、1888年6月28日 - 196… 小原甚八(おはら じんぱち、1888年6月28日 - 1968年)は、日本における光学ガラス製造のパイオニア。光学ガラスメーカーのオハラを創業した。藍綬褒章受章。 1888年(明治21年)福井県生まれ。1911年(明治44年)東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科を卒業した後、1915年(大正4年)海軍造兵廠に勤務した。柴田理八の元で光学ガラス試作に従事し、1922年(大正11年)には光学ガラス工場の主任になった。海軍が光学ガラス製造を日本光学工業(現ニコン)に譲渡したことに伴い日本光学工業に移籍し、日本光学光学硝子研究所主任となった。 1935年(昭和10年)日本光学工業を退社し、同年10月東京蒲田にて小原光学硝子製造所(現オハラ)を創業した。
斎藤 樹(さいとう いつき、1888年〈明治21年〉6月26… 斎藤 樹(さいとう いつき、1888年〈明治21年〉6月26日 - 1951年〈昭和26年〉6月2日)は、日本の内務官僚。警視総監、台湾総督府総務長官等歴任。貴族院議員。 斎藤宗吉の長男として長崎県に生まれ、斎藤倉吉の養子となる。本籍は千葉県。 旧制千葉中学を経て、1912年(明治45年)7月、第一高等学校を卒業。同年8月、千葉県大多喜中学教諭に就任するが、1914年(大正3年)8月に休職。同年9月、東京帝国大学法科大学に入学し、在学中の1916年(大正5年)10月に文官高等試験に合格。 1917年(大正6年)7月、東京帝大法科大学法律学科(英法)を優等で卒業し銀時計を授与された。任書記官兼警察講習所教授。
湧上 聾人(わくがみ ろうじん、1888年(明治21年)6月… 湧上 聾人(わくがみ ろうじん、1888年(明治21年)6月26日 - 1966年(昭和41年)5月24日)は、日本の政治家、社会運動家。戦前の沖縄県議会議員(3期)、衆議院議員(1期)。 沖縄県玉城間切冨名越(現・南城市玉城船越)に生まれる。幼名平二。幼少期に水遊び中の耳のケガが原因で聴力を失ったといわれ、35歳の時に「聾人」と改名する。長じて上京し、攻玉社中学校を経て早稲田大学高等師範部に入学。在学中は安部磯雄に私淑するも中退し、帰郷後玉城村村議(1921年)を経て、1925年沖縄県議に当選。 沖縄県議時代は、関西の県出身出稼ぎ紡績女工の待遇改善に尽力。また自身の医療公営論を実践するため、1931年那覇市に「沖縄同仁病院」を設立するなど、庶民の立場に立った活動を行う。
2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年… 2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1959年〈昭和34年〉7月6日 / 7月16日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家、武道家。貴族院多額納税者議員。幼名・仙八 / 千八、名は応義(まさよし)。 群馬県佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)で、剣道範士本間三郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京府の錦城中学校を卒業、中央大学を中退。 伯父の初代千代吉の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続し2代千代吉を襲名した。1917年以降、上毛貯蓄銀行、群馬県農工銀行、伊勢崎銀行、群馬銀行、粕川水電などの重役を歴任したほか、赤堀村農会長、同村会議員などを務めた。
竹腰 健造(たけこし けんぞう、明治21年〈1888年〉6月… 竹腰 健造(たけこし けんぞう、明治21年〈1888年〉6月25日 - 昭和56年〈1981年〉7月28日)は、建築家。住友総本店出身で、日建設計の母体の長谷部竹腰建築事務所の長谷部鋭吉と共に創業者の1人である。 健造は明治21年(1888年)6月25日、石川県金沢市で生まれた。当時、父親の岩村高俊は石川県知事であった。健造が竹腰姓を名乗るようになったのは、福岡にいた10歳のとき、旧小倉藩出身の名家である竹腰家の養子になったからである。 学業においては優秀で、豊津中学校から一高、東京帝国大学工科大学へと順調に進む。建築を専攻したが、希望というわけではなく、選択肢が土木、機械、採鉱、建築しかなかった。
古屋 武助(ふるや たけすけ、1888年〈明治21年〉6月2… 古屋 武助(ふるや たけすけ、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1942年〈昭和17年〉12月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家。山口県萩市長。 山口県美祢郡伊佐町伊佐(現・美祢市伊佐町伊佐)出身。学歴は不明。1909年(明治42年)、普通文官試験に合格。1914年(大正3年)6月、山口県属に任じ、1923年(大正12年)8月、岡山県属に転じる。1924年(大正13年)3月、島根県鹿足郡長に就任し、同年7月に地方事務官となり、島根県総務部庶務課長などを経て、1937年(昭和12年)7月24日、萩市長に就任した。1942年(昭和17年)12月29日、心臓麻痺により急逝、享年55歳。
細萱 戊子郎(ほそがや ぼしろう、1888年(明治21年)6… 細萱 戊子郎(ほそがや ぼしろう、1888年(明治21年)6月24日 - 1964年(昭和39年)2月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階は従三位。 農業、細萱伊勢吉の四男として長野県南佐久郡桜井村(現佐久市)に生まれる。野沢中学を経て、1908年(明治41年)11月海軍兵学校(36期)を卒業し、1910年(明治43年)に少尉任官。1914年海軍水雷学校高等科を卒業後、駆逐艦「樺」乗組、第1特務艦隊参謀、佐世保鎮守府副官などを歴任。1920年(大正9年)、海軍大学校(甲種18期)を卒業。以後、第4戦隊参謀、軍令部第2班第4課参謀、「夕張」副長、「日向」副長、呉軍需部第1課長、「鳥海」艦長、軍需局第1課長、佐世保工廠造兵部長、「陸奥」艦長などを歴任し、1935年(昭和10年)海軍少将に進級。
関屋 延之助(せきや えんのすけ / のぶのすけ、1888年… 関屋 延之助(せきや えんのすけ / のぶのすけ、1888年(明治21年)6月22日 - 1975年(昭和50年)7月21日)は、日本の内務官僚。官選県知事、弁護士。 石川県鹿島郡崎山村三室(現在・七尾市)出身。関屋助右衛門の四男として生まれる。第四高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。大学卒業後、内務省に入り和歌山県地方課に勤務、その後、同県那賀郡長となる。 以後、和歌山県警視、滋賀県理事官、京都府理事官、岐阜県警察部長、北海道庁拓殖部長、1931年(昭和6年)12月に新潟県書記官・内務部長などを歴任。
物部 長穂(もののべ ながほ、1888年6月19日 - 19… 物部 長穂(もののべ ながほ、1888年6月19日 - 1941年9月9日)は日本の土木学者。工学博士。日本の水理学、土木耐震学の第一人者。 秋田県仙北郡(現在の大仙市域)出身。出羽物部氏の家系である唐松神社の生まれで、弟に帝国陸軍中将の物部長鉾がいる。 大正時代から昭和初期に掛けて土木工学の第一人者として当時の日本に多大な影響を与えたが、特に影響を与えたのは河川工学・ダム工学である。ダムの耐震構造に関する基礎を形成し(これを初めて採用したのが庄川水系の小牧ダム)、バットレスダムや重力式コンクリートダムの工法理論を構築した。そして最も影響を与えたのは河川開発であり、彼の発案した「河水統制計画」論は以後の河川開発に革命をもたらし、河川総合開発事業とその根幹である多目的ダムは彼の案より実現された。
松本 卓夫(まつもと たくお、1888年6月19日 - 19… 松本 卓夫(まつもと たくお、1888年6月19日 - 1986年11月28日)は日本の牧師、新約聖書学者である。 1888年(明治21年)岩手県盛岡市にメソジスト派の牧師松本総吾の三男として生まれる。 鎮西学院高等部卒業後、1912年に関西学院神学部を卒業する。1913年(大正2年)に渡米し、オハイオ・ウェスレアン大学、ドルー神学大学、ペンシルベニア大学院、ユニオン神学校大学院で学び、1919年に帰国する。 1919年(大正8年)より青山学院神学部の教授に就任する。東京女子大学、津田塾大学講師も兼任する。 1923年(大正12年)に日本メソヂスト教会の按手礼を受けて、牧師になる。 1941年(昭和16年)より広島女学院院長、広島女学院大学学長を兼任する。
佐藤 垢石(さとう こうせき、1888年〈明治21年〉6月1… 佐藤 垢石(さとう こうせき、1888年〈明治21年〉6月18日 - 1956年〈昭和31年〉7月4日)は、日本の新聞記者、エッセイスト、釣り師。本名は佐藤 亀吉(さとう かめきち)。号の「垢石」は、アユが好むとされる水垢のついた石に由来する。 1888年(明治21年)、群馬県群馬郡東村大字上新田村(現・前橋市上新田町)に生まれる。佐藤栄三郎・ハツの三男として出生するが、同村の佐藤孝次郎・ケイの養嗣子となる。 桃井尋常高等小学校卒業後、前橋中学(現・群馬県立前橋高等学校)に進学。4年生の時に校長排斥のストライキ(同盟休校)を行い退学処分となり、上京して郁文館中学で学んだ。その後早稲田大学英文科に進学するも中退。
増井 幸雄(ますい ゆきお、1888年6月18日 - 194… 増井 幸雄(ますい ゆきお、1888年6月18日 - 1944年3月18日)は、日本の経済学者。 静岡県浜名郡生まれ。1912年慶應義塾大学部理財科卒、同助手、1913年慶大予科教授、1917年から1920年まで欧米に留学、慶大経済学部教授、1938年学部長。1944年、肺壊疽のため56歳で死去。交通経済学を開拓した。息子の増井健一も慶大教授、経済学者。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
安場 保健(やすば やすたけ、1888年(明治21年)6月1… 安場 保健(やすば やすたけ、1888年(明治21年)6月18日 - 1944年(昭和19年)2月3日)は、大正から昭和期の実業家、電気技術者、政治家、華族。貴族院男爵議員。 実業家・安場末喜の長男として生まれた。父の死去に伴い、1930年(昭和5年)4月15日、男爵を襲爵した。 1913年(大正2年)7月、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。同年、芝浦製作所に入社。その後、東洋電気製作所取締役、東京金鋼技術顧問、東京港運社長、芝浦運輸社長、東亜印刷監査役などを務めた。 1934年(昭和9年)2月15日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して死去するまで2期在任した。その他、逓信省委員、運輸通信省委員などを務めた。
間崎 万里(まざき まさと、1888年6月17日 - 196… 間崎 万里(まざき まさと、1888年6月17日 - 1964年9月15日)は、日本の西洋史学者。慶應義塾大学名誉教授。西洋古代史からイギリス自治領民族主義まで幅広く研究し、日本の西洋史学界に大きな貢献をした。松本芳夫、松本信廣とともに「三田史学科の三羽烏」と賞された。 高知県幡多郡西土佐村(現・四万十市)出身。1914年慶應義塾大学文学部史学科卒業。慶應義塾普通部教員、同大学予科教員を経て、1925年ヨーロッパに留学。1929年慶應義塾大学文学部教授。1945年「英国自治領民族国の成立に就て」で文学博士。1946年から1948年の間は文学部長を務めた。1962年定年退職、名誉教授となる。この間、1952年日本西洋史学会創立に尽力。
金森 太郎(かなもり たろう、1888年〈明治21年〉6月1… 金森 太郎(かなもり たろう、1888年〈明治21年〉6月16日 - 1958年〈昭和33年〉6月12日)は、日本の農商務・内務官僚。東京府(のちの東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町、現東京都渋谷区)出身。勲三等旭日中綬章。 宗教家の金森通倫の長男。第102・103代内閣総理大臣・石破茂の外祖父。 1888年、熊本県人の牧師・金森通倫の長男として誕生。1909年、第二高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学独法科卒業。 農商務属となり、兵庫県朝来・明石各郡長、島根県理事官産業課長、茨城・静岡各県警察部長、福島・長野各県内務部長等を経て、1931年、大阪府警察部長に就任。1932年、東京府内務部長に就任。
曽和 義弌(曾和、そわ ぎいち、1888年(明治21年)6月… 曽和 義弌(曾和、そわ ぎいち、1888年(明治21年)6月16日 - 1968年(昭和43年)1月21日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員、大阪府南河内郡高向村長。 大阪府錦部郡、のちの高向村(南河内郡高向村を経て現河内長野市)で生まれる。 小学校代用教員となる。以後、同訓導、市立堺女子手芸学校教諭、府立大阪医科大学書記、滝畑尋常高等小学校長などを歴任。 大阪府会議員に選出され、高向村長も務めた。河陽新報を創刊し経営を行った。 1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、立憲政友会公認)で当選し、その後、翼賛議員同盟に所属し衆議院議員に1期在任した。戦後に公職追放となった。
道家 斉一郎(どうけ せいいちろう、1888年(明治21年)… 道家 斉一郎(どうけ せいいちろう、1888年(明治21年)6月13日 - 1942年(昭和17年)3月28日)は、経済学者、専修大学総長、衆議院議員。 貴族院議員・農商務官僚道家斉の長男として東京市に生まれる。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業。1922年(大正11年)より久原鉱業株式会社参事を務め、また専修大学・日本大学・中央大学で講師として統計学・経済学・労働問題などを講義した。1923年(大正12年)、久原鉱業を退社して、帝都復興院参事に任命された。翌年には東京市の主事となり、1929年(昭和4年)に辞職するまでの間、統計課長、文書課長、電気局労働課長を歴任した。 1928年(昭和5年)に専修大学の評議員となり、翌年には教授・常務理事となった。
黒土 四郎(くろつち しろう、1888年〈明治21年〉6月1… 黒土 四郎(くろつち しろう、1888年〈明治21年〉6月12日 - 1967年〈昭和42年〉2月9日)は、日本の教育者。横浜中学校・高等学校創立者。青森県今別町名誉町民。位階は従四位。 青森県東津軽郡一本木村(現今別町)奥平部で旧弘前藩士の黒土形衛の二男として生まれた。父は維新後に始めた商売に失敗し、津軽半島北端の地に移り海藻を採るなどして生計を立てた。12歳で父と死別し、翌年に青森地方裁判所の給仕となった。その後、進学するために弘前にある寺の住職を務めていた伯父の養子となり、東奥義塾に入学した。1908年(明治41年)に東奥義塾を卒業して東京高等師範学校博物学科に進み、1912年(明治45年)に卒業した。
岡本 帰一(おかもと きいち、1888年6月12日 - 19… 岡本 帰一(おかもと きいち、1888年6月12日 - 1930年12月29日)は、童画家。兵庫県洲本に新聞社勤務の父・岡本甚吉と母・もとの長男として生まれ、東京で育った。1906年、東京市立第一中学校卒業。白馬会葵橋洋画研究所で油絵を学ぶ。1912年に岸田劉生や木村荘八らによって設立されたフュウザン会に創設メンバーとして参加。その後、童話雑誌「金の船(のちに「金の星」に改題)」、「コドモノクニ」に挿絵を描き始めた。1930年12月、腸チフスにより死去。弟子にまつやまふみお、岩岡とも枝、川島はるよらがいる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
那須 皓(なす しろし、1888年6月11日 - 1984年… 那須 皓(なす しろし、1888年6月11日 - 1984年3月29日)は、大正・昭和期の農学者(農学博士)。専攻は農業経済学及び農政研究。 1888年、東京市本郷区(のち東京都文京区)生まれ。府立四中、一高を経て、1911年に東京帝国大学農科大学(のち東京大学農学部)を卒業後、1917年に助教授、1922年には教授となる。「日本農業経済学会」を結成して農業経済学の日本における普及を図る一方、農林省の石黒忠篤と親交が深く、頻発する小作争議や農村の貧困問題の解決などの研究を行い、後に農林大臣となり「農政の神様」と称されるようになった石黒の側近・ブレーンとして活躍した。また、軍部の台頭に危惧を抱いて、アジア太平洋地域との平和的な交流に尽力した。
一氏 義良(いちうじ よしなが、1888年6月11日 - 1… 一氏 義良(いちうじ よしなが、1888年6月11日 - 1952年2月21日)は、日本の美術評論家。 島根県八束郡東出雲町(現・松江市)揖屋に生まれる。1913年早稲田大学英文科を卒業。1921年ヨーロッパに遊学、1926年再留学。イギリスの大英博物館図書室で読んだ本に感銘を受ける。帰国後は、海外の美術や現在の動向、とくに古代エジプト美術の紹介に努めた。1928年帝国美術学校、1941年北京芸術大学教授。 雑誌『中央美術』を創刊して編集に携わり、また、平凡社の百科事典や世界美術全集の編集にも関わった。中国に赴いて研究を深め、『支那美術史』を著した。教授の末田利一や石塚太喜治の下で中華民国国立北京芸術専科学校(現中国中央美術学院)の講師をしていた。
真野 毅(まの つよし、1888年6月9日 - 1986年8… 真野 毅(まの つよし、1888年6月9日 - 1986年8月28日)は、1947年8月4日の最高裁判所発足と同時に最高裁判所判事に就任した日本の裁判官。愛知県生まれ。第二東京弁護士会会長。
千家 元麿(せんげ もとまろ、1888年〈明治21年〉6月8… 千家 元麿(せんげ もとまろ、1888年〈明治21年〉6月8日 - 1948年〈昭和23年〉3月14日)は、日本の詩人。人道派的な詩人として知られる。新しき村の関係者。 出雲国造家当主の千家尊福の長男(庶子)として東京市麹町区(現・東京都千代田区)三番町の父の別邸に生まれる。母は画家の小川梅崖(本名・豊子)。浦和、静岡、麻布六本木の小学校を転じたのちに、慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部に入り、寄宿舎に入ったが1年で退学し、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)に転校して、校長の自宅に預けられた。1904年(明治37年)学業に興味を失い実家に戻る。さらに家出事件を起こし、仙台に預けられるも半年ほどで東京に帰る。
松井 卓治(まつい たくじ、1888年(明治21年)6月6日… 松井 卓治(まつい たくじ、1888年(明治21年)6月6日 - 1978年(昭和53年)11月12日)は、大正から昭和期の医師、政治家。長野県飯田市長。位階は正六位。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で、松井敦、光子の息子として生まれた。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)を経て、1926年(大正元年)10月、旧制千葉医学専門学校を卒業。同年、一年志願兵として歩兵第60連隊に入隊し、2年後に陸軍三等軍医として除隊。東京江東病院小児科医局に勤務する。1916年(大正5年)飯田に戻って兄が経営する医院に小児科医として勤め、1930年(昭和5年)兄の死去により医院を承継し、内科小児科医院を経営した。
神近 市子(かみちか いちこ、出生名:神近 イチ、1888年… 神近 市子(かみちか いちこ、出生名:神近 イチ、1888年6月6日 - 1981年8月1日)は、日本のジャーナリスト、婦人運動家、作家、翻訳家、評論家。ペンネームは榊 纓(さかき おう/えい)。1916年の日蔭茶屋事件で一躍著名になり、大杉栄に対する殺人未遂罪で2年間服役した。戦後に政治家になり、左派社会党および再統一後の日本社会党から出馬して衆議院議員を5期務めた。 長崎県北松浦郡佐々村(現在の佐々町)生まれ。漢方医の神近養斉とハナ夫妻の子で、出生当時父は47歳、母は43歳になっていた。夫妻はすでに二男二女をもうけていて、彼女は末の子であった。 父は幼い末娘を「チコ」と呼んで可愛がっていたが、1891年、彼女が3歳のときに死去した。
岩垂 亨(いわだれ とおる、1888年 <明治21年> 6月… 岩垂 亨(いわだれ とおる、1888年 <明治21年> 6月3日 - 1974年 <昭和49年> 6月16日)は日本の化学者、実業家。梅毒治療薬サルバルサンの国内製造を行い、また万有製薬を創設し初代社長を務めた。位階は正五位。 1888年(明治21年)、宇田作太郎の次男として三重県宇治山田町(現在の伊勢市二俣町)で誕生。愛知県立第一中学校に入学するも中退し、神戸病院などで働いたのち、東京に住む叔父の勧めで東京に移転し再び勉学に取り組むことになった。 1906年(明治39年)、東京高等師範学校に入学。1910年(明治43年)3月には本科数物化学部を卒業し物理および化学の教員免状を得た。私立名古屋中学校に就職するが、ほどなく退職し同年10月には東京帝国大学理科大学化学科に入学。
小林 俊三(こばやし しゅんぞう、1888年〈明治21年〉6… 小林 俊三(こばやし しゅんぞう、1888年〈明治21年〉6月3日 - 1982年〈昭和57年〉6月3日)は、日本の昭和時代の最高裁判所判事、弁護士(第二東京弁護士会所属)。 東京出身。1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業後、いったん会社員になったが、1年10ヶ月で退社して弁護士となる。1941年(昭和16年)、ゾルゲ事件の尾崎秀実の官選弁護人を務めた。太平洋戦争における日本の降伏に伴う極東国際軍事裁判(東京裁判)では松岡洋右の弁護人を務めた。「検事、弁護士をした後に裁判官になるのが最も望ましい」と主張する法曹一元化論者であった。 1947年(昭和22年)10月に東京高等裁判所長官に就任。
小笠原 八十美(おがさわら やそみ、1888年〈明治21年〉… 小笠原 八十美(おがさわら やそみ、1888年〈明治21年〉6月2日 - 1956年〈昭和31年〉12月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。厚生政務次官、日本馬事会評議員、十和田観光社長、全国畜産販売農業協同組合連合会長、中央畜産会長などを歴任した。位階は正四位、勲等は勲二等。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
森本 貫一(もりもと かんいち、1888年(明治21年)6月… 森本 貫一(もりもと かんいち、1888年(明治21年)6月1日 - 1979年(昭和54年)9月26日)は、日本の技術者、実業家。三菱化成工業(現三菱ケミカル)社長や、旭硝子(現AGC)社長、電気化学協会会長を務めた。正四位勲二等瑞宝章。 熊本県宇土市生まれ。第五高等学校を経て、1915年九州帝国大学工科大学応用化学科卒業、旭硝子入社。1940年尼崎工場長。1944年三菱化成工業常務取締役、日本板硝子取締役。1946年に三菱化成工業社長に就任したが同年公職追放となった。1951年旭硝子会長、旭化学工業奨励会理事長。 1952年から旭硝子社長を務め、高度経済成長期に、ブラウン管用ガラスや、自動車用ガラスの製造を進めた。
加藤 鯛一(かとう ちょういち、1888年(明治21年)6月… 加藤 鯛一(かとう ちょういち、1888年(明治21年)6月1日 - 1943年(昭和18年)10月5日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟→立憲民政党)、ジャーナリスト。衆議院議員・労働大臣を務めた加藤勘十は実弟。 愛知県丹羽郡岩倉町(現在の岩倉市)出身。雑誌「実業帝国」を創刊し、社長兼主筆となる。また東京政治通信社社長も務めた。他に社団法人大日本国防義会の創設にも加わり、評議員となった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、7回の当選回数を重ねた。その間、阿部内閣で内務政務次官を務めた。 1943年(昭和18年)、翼賛政治会、農林省、内務省共同の満鮮食糧事情調査団に一員として参加することとなり、助川啓四郎代議士や随行者とともに満州へ向けて出発。
吉井義次(よしい よしじ、1888年5月28日 - 1977… 吉井義次(よしい よしじ、1888年5月28日 - 1977年2月4日)は、日本の植物学者。 1888年(明治21年)5月28日、生まれる。東京帝国大学卒。1911年(明治44年)、井上禧之助らと共に帝国議会貴族院に「史蹟及天然記念物保存ニ関スル建議」を提出、採択された。 1919年(大正8年)、内務省史蹟名勝天然記念物考査員になる。 1922年(大正11年)、東京帝国大学の講師になり、1926年(大正15年)、欧米へ留学する。 1928年(昭和3年)、東北帝国大学教授になるも、1950年(昭和25年)退官。教授としての活動中、野外実験所の設置や、八甲田山高山植物実験所の設置を行った。他、機関紙「生態学研究」の発行にも携わる。
若山 喜志子(わかやま きしこ、1888年5月28日 - 1… 若山 喜志子(わかやま きしこ、1888年5月28日 - 1968年8月19日)は、明治期から昭和期の歌人。若山牧水の妻。旧姓は太田、本名は喜志。妹の潮みどりも歌人。 1888年(明治21年)、長野県東筑摩郡広丘村吉田(現・塩尻市)生まれ。松本高等女学校への進学を希望したが、母が病弱だったため断念した。高等小学校から補習科を終えて、島木赤彦が校長を務める広丘尋常高等小学校(現・塩尻市立広丘小学校)に裁縫教師として奉職。しかし赤彦からの影響は特に受けていない。「女子文壇」に投稿するようになったことで今井邦子や生田花世らを知り、横瀬夜雨から高い評価を受ける。22歳の頃、信濃毎日新聞歌壇に投稿し、選者の太田水穂に認められる。
原田 雪松(はらだ ゆきまつ、1888年5月27日 - 19… 原田 雪松(はらだ ゆきまつ、1888年5月27日 - 1960年9月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。獣医師。 熊本県出身。1913年日本獣医学校本科卒。熊本県衛生技手、御領村(のち五和町、現・天草市)議、同村長、熊本県議となる。 御領村農業会技師、熊本県獣医師会副会長、日本獣医師会理事、天草郡家畜商組合理事長、同畜産農業協同組合理事長、熊本畜産販売農業協同組合会長、全国畜産販売農業協同組合連合会理事など務めた。 1949年の第24回衆議院議員総選挙では熊本2区から民主自由党公認で立候補し、当選した。日本民主党の与党残留派を吸収合併して結党した自由党への参加を経て同党公認で再選を目指した1952年の第25回衆議院議員総選挙では落選してしまった。
月輪 賢隆(つきのわ けんりゅう、1888年5月25日 - … 月輪 賢隆(つきのわ けんりゅう、1888年5月25日 - 1969年8月25日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の仏教学者。秋田県仙北郡美郷町の浄土真宗本願寺派圓徳寺の住職、西本願寺(京都市下京区)の勧学。 明治21年(1888年)5月25日、秋田県仙北郡金沢村米ノ口生まれ。旧制横手中学校(現秋田県立横手高等学校)を卒業後、京都の佛教大学攻究院に進んでここを修了した。その後、金沢町米ノ口の正流山圓徳寺(浄土真宗本願寺派)の15世住職となった。 大正15年(1926年)9月、高野山大学教授となり、のち龍谷大学教授、西山専門学校教授などを務め、昭和10年(1935年)西本願寺司教となった。大学ではサンスクリット語・チベット語による文献研究にもとづいて原始仏教を教授した。
洪 命熹(ホン・ミョンヒ、朝鮮語: 홍명희/洪命憙、1888… 洪 命熹(ホン・ミョンヒ、朝鮮語: 홍명희/洪命憙、1888年5月23日 - 1968年3月5日)は、朝鮮の独立運動家、作家。本貫は豊山洪氏。忠清北道槐山出身。号は碧初。 1905年日本の東京に留学するが、1910年の日韓併合時、錦山郡守であった父・洪範植の自決により、中国に亡命し、申采浩らと交友し、独立運動に参加する。1919年の三・一独立運動では故郷の槐山でデモ活動を指導する。『東亜日報』の主筆を務める。後に東亜日報の主筆、時代日報社の社長、五山学校校長などを務める。小説『林巨正』を執筆する。1927年からは、民族統一戦線組織新幹会運動の中心となったが、1929年に検挙され、投獄された。 1945年の光復後は、南朝鮮で政治運動を展開する。
湯沢 三千男(ゆざわ みちお、明治21年(1888年)5月2… 湯沢 三千男(ゆざわ みちお、明治21年(1888年)5月20日 - 昭和38年(1963年)2月21日)は、大正・昭和期の日本の政治家、内務官僚。宮城・広島・兵庫県知事や東條内閣の内務大臣を務め、戦後も自由民主党参議院議員として活動した。
飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20… 飯村 穣(いいむら じょう、1888年(明治21年)5月20日 - 1976年(昭和51年)2月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将、栄典は従三位勲一等。茨城県出身。陸士21期次席。 総力戦研究所所長として研究生とともに「総力戦机上演習」という日米開戦となった場合のシミュレーションをおこない、日本の敗北という結論を出した。 この演習では船舶の喪失が生産量を上回り、戦争遂行が困難になること、ソ連とアメリカが軍事的に協力する(演習ではソ連極東地方の米軍の軍事利用という設定)ことなど実際の太平洋戦争をかなり正確に予測した。 自著「続兵術随想」によると、当時陸軍大臣であった東条英機は、殆ど毎日机上演習を見学した一方で、主戦派の塚田攻参謀次長は一度も見学せず、主戦派が大勢を占める参謀本部からは数人の部員だけ見学に来たとのことである。
奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5… 奥里 将建(おくざと しょうけん、1888年(明治21年)5月18日 - 1963年(昭和38年)12月29日)は、日本の教育者、国語学者、国文学者、方言学者。 1888年(明治21)5月18日沖縄県宜野湾村生まれ(本籍は首里市寒川町)。 宜野湾小学校をはじめとして教員勤務の傍ら、日本古典文学や方言の研究を進め、1926年(大正15)『琉球人の見た古事記と万葉』を出版。1927年(昭和2)京都御所内東山文庫で源氏物語の校合に従事、1928年(昭和3)4月京都帝国大学国文学部に入学、1929年(昭和4)7月高等教員検定試験(国語科)合格、同年9月兵庫県立神戸第一中学校教諭に任じられ、1942年(昭和17)まで勤務。
石川 芳太郎(いしかわ よしたろう、1888年(明治21年)… 石川 芳太郎(いしかわ よしたろう、1888年(明治21年)5月17日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 茨城県河内郡、のちの稲敷郡生板村(河内村を経て現河内町)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、高等文官試験に合格した。福島県理事官、内務事務官・地方局勤務、社会局事務官・書記官、青森県書記官・内務部長、北海道庁警察部長、三重県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長を歴任。1932年(昭和7年)、新潟県書記官・内務部長となり、1935年(昭和10年)に退官した。 退官後は1939年(昭和14年)まで京都市助役を務めた。
野澤 一郎(のざわ いちろう、1888年5月16日 - 19… 野澤 一郎(のざわ いちろう、1888年5月16日 - 1978年5月20日)は、日本の発明家、実業家。巴コーポレーションの創業者。紫綬褒章や藍綬褒章を受章。 栃木県河内郡本郷村(現上三川町本郷地区)東汗出身。本郷小学校(現本郷中学校)を経て、1906年真岡中学校(現栃木県立真岡高等学校)卒業。1910年東京高等工業学校(現東京科学大学)機械科卒業、千代田瓦斯入社。1917年巴組鐵工所を創立。立体構造建築の研究開発に従事し、1932年ダイヤモンドトラスを発明。1933年建築組成材骨組法を発明。1938年全国発明表彰大賞受賞。1944年藍綬褒章受章。1948年日本鉄塔協会設立、会長。1956年紫綬褒章受章。