阿部 規秀(あべ のりひで、1887年(明治20年) 9月8… 阿部 規秀(あべ のりひで、1887年(明治20年) 9月8日 ‐ 1939年(昭和14年) 11月7日)は、日本陸軍の軍人。陸士19期。最終階級は中将。正四位勲一等功三級(追贈)。 日中戦争にて八路軍との交戦中に戦死し、中将としては帝国陸軍の創設以来初の戦死者となった。 青森県旧北津軽郡七和村羽野木沢(現五所川原市)出身。衆議院議員・阿部武智雄の次男。就学前から一つ上の兄について行って小学校に出入りしており、教師の計らいで二年生に中途入学扱いとなる。そのため、兄と同学年として青森県立第一中学(現:青森県立弘前高等学校)に進学した。弘前では中士士族の鎌田家に下宿し、城陽館で剣道に打ち込んだ。 1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校を卒業。
竹内 平吉(たけうち へいきち、1887年(明治20年)9月… 竹内 平吉(たけうち へいきち、1887年(明治20年)9月6日 - 1972年(昭和47年)4月14日)は、日本の作曲家、指揮者、チェロ奏者。帝国劇場附属洋楽部の初代楽長、宝塚少女歌劇作曲家、指揮者。 静岡県出身。1906年(明治39年)、静岡県立静岡中学校卒業。東京音楽学校卒業。チェロをハインリヒ・ヴェルクマイスターに、音楽理論をアウグスト・ユンケルに学ぶ。1911年(明治44年)に新設された帝国劇場附属洋楽部の初代楽長として迎えられ、チェリスト、専任指揮者としてジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーとともに創成期のオペラ指導に尽力。1923年(大正12年)に起きた関東大震災を機に宝塚少女歌劇に移り、指揮者を務める。
小林 卯三郎(こばやし うさぶろう、1887年(明治20年)… 小林 卯三郎(こばやし うさぶろう、1887年(明治20年)9月6日 ‐ 1981年(昭和56年)11月2日)は、日本の教育者、盲学校創設者、点字出版社編集者、社会事業家である。視覚障害当事者として視覚特別支援教育に尽力し、奈良県視覚障害者教育の始祖と称される。 1887年(明治20年)、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市)の商家に生まれる。1891年(明治24年)前後、4歳あるいは5歳で失明。琴三絃を習う。1899年(明治32年)、12歳で叔母の勧めにより京都市立盲唖院入学。按摩・マッサージ技術、中等普通科科目を習得した。1907年(明治40年)3月、京都市立盲唖院を卒業し、同年4月から東京盲唖学校教員練習科入学。
林 繁蔵(はやし しげぞう、1887年(明治20年)9月5日… 林 繁蔵(はやし しげぞう、1887年(明治20年)9月5日 - 1945年(昭和20年)10月3日)は、朝鮮総督府官僚。朝鮮殖産銀行頭取。
松本 伊織(まつもと いおり、1887年〈明治20年〉9月5… 松本 伊織(まつもと いおり、1887年〈明治20年〉9月5日 - 1967年〈昭和42年〉9月25日)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。 愛媛県宇摩郡三島村(現在の四国中央市)出身。宮大工彫刻の名手・松本新助の子。1915年(大正4年)、中央大学英法科を卒業し、高等文官試験に合格した。愛知県警視、同丹羽郡長、同愛知郡長を務めた。1923年(大正12年)、朝鮮総督府道理事官に転じ、林野調査委員会事務官、殖産局水産課長、全羅南道内務部長、内務局社会課長、中枢院書記官、慶尚南道内務部長、全羅南道知事を歴任した。 1937年(昭和12年)に退官した後は、朝鮮油脂株式会社社長、油脂統制会理事を務めた。
北原 鉄雄(きたはら てつお、1887年〈明治20年〉9月5… 北原 鉄雄(きたはら てつお、1887年〈明治20年〉9月5日 - 1957年〈昭和32年〉3月28日)は出版人。写真や文学を専門とする出版社・アルスを設立し、代表を務めた。北原白秋の実弟(三男)にあたる。 1887年(明治20年)9月、福岡県柳川市生まれ。1915年(大正4年)に慶應義塾大学部理財科を中退すると、アルスの前身となる阿蘭陀書房を設立、芸術雑誌『ARS(アルス)』を発行した。1918年(大正6年)に社名をアルスに改称した。アルスは北原白秋の作品も出版した。小唄研究家の湯朝竹山人『小唄選』をアルスの前身・阿蘭陀書房で出版したところ、非常によく売れた因縁から、竹山人が亡くなるまで生活費を出し続けたという美談が残っている。
園山 民平(そのやま みんぺい、1887年(明治20年)9月… 園山 民平(そのやま みんぺい、1887年(明治20年)9月4日 - 1955年(昭和30年)1月11日)は、日本の作曲家。島根県鳶巣村(現在の出雲市)出身。 1887年(明治20年)9月4日、島根県(現在の出雲市)に生まれる。東京音楽学校師範科でピアノと作曲を学び、1910年(明治43年)に同校を卒業後、宮崎高等女学校の音楽教師となった。1922年(大正11年)に満州へ渡り、教科書や副読本を発行する南満州教育会教科書編集部の職員となった。園山は当初編集部から大きな期待をかけられているようには感じなかったと述懐しているが、『満州唱歌集』の発行に携わり、自ら収録曲の作曲も行うなど満州唱歌の誕生に深く関与することになる。
麻生 太郎(あそう たろう、1887年〈明治20年〉9月4日… 麻生 太郎(あそう たろう、1887年〈明治20年〉9月4日 - 1919年〈大正8年〉3月4日)は日本の実業家。第92代内閣総理大臣麻生太郎の祖父。 麻生太吉の三男として生まれる。長兄の太右衛門は病弱で、次兄の鶴十郎も若くして他界したため、麻生家の後継となる。しかし本人も病弱であり31歳で死去した。生前は麻生商店取締役を務めていた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949… 杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949年8月29日)は、日本の医学者、精神科医。 1887年、東京府生まれ。第一高等学校に入学し、高校在学時代の友人に谷崎潤一郎がいた。その後東京帝国大学に進学し卒業する。欧米に留学。帰国後に東京帝国大学助教授となり、松沢病院副院長。1931年名古屋医科大学教授、戦後名古屋大学教授となるがほどなく死去した。 妹の息子に小田切秀雄、小田切進がいる。
村田 四郎(むらた しろう、1887年9月2日 - 1971… 村田 四郎(むらた しろう、1887年9月2日 - 1971年2月7日)は、日本の神学者、牧師、明治学院5代目院長。 村田沰冶の四男として山口県吉敷郡山口に生まれた。1911年6月明治学院神学部を卒業した。その後1912年9月に渡米してオーバン神学校(英語版)で学んだ。1916年に帰国し、大阪同志館神学校教授に就任した。1918年に母校の明治学院に来任し、翌年中学部長となる。しかし、1920年に起きた中学部同盟休校事件の責任をとり部長を辞任し、朝鮮の大邱教会牧師となった。 1925年に明治学院に戻り、神学部で基督教史を担当した。1930年の明治学院神学部廃止後日本神学校教授となり、1933年に同校校長となる。
昌谷 忠(さかや ただし、1887年(明治20年)9月 - … 昌谷 忠(さかや ただし、1887年(明治20年)9月 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、日本の外交官。駐フィンランド公使。 奄美大島の管鈍(後に鹿児島県大島郡西方村を経て、大島郡瀬戸内町の管鈍)出身。旧名:昌(さかり) 忠二。管鈍小学校、古仁屋高等小学校、鹿児島県立大島農学校(現鹿児島県立大島高等学校)予科を経て、鹿児島県立川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)を卒業。1906年(明治39年)東京・神田の東京外国語学校(現東京外国語大学)独語科に入学して、ドイツ語を修め1909年(明治42年)に卒業。京都帝国大学法科大学(現京都大学法学部)に入学した後、東京帝国大学法科大学(現東京大学法学部)に転入。
川上 凉花(かわかみ りょうか、1887年9月 - 1921… 川上 凉花(かわかみ りょうか、1887年9月 - 1921年5月5日)は明治・大正期の日本の画家。本名は川上乙次郎。 東京府東京市本郷区本郷(現・東京都文京区本郷)に生まれる。1906年に太平洋画会研究所に入る。1907年に岸田劉生や川村信雄とともに紫紅会を結成し、美術回覧雑誌『紫紅』の編輯にたずさわる。1910年に川村信雄・萬鐵五郎・三並花弟・松村巽らと雑草会を結成し、本郷教会で展覧会を催す。1911年、二六新報の美術記者となる。1912年、フュウザン会に出品。1914年から中野で大森商二(熊本県山鹿町出身、東大中退の洋画家)と自炊生活をはじめ、この年から木炭による風景画を描く。1915年、東中野にアトリエを構え、越後・佐渡に旅行する。
6代上野 松次郎(うえの まつじろう、1887年〈明治20年… 6代上野 松次郎(うえの まつじろう、1887年〈明治20年〉8月31日 - 1954年〈昭和29年〉10月5日)は、日本の商人(油屋、肥料商)、政治家(貴族院議員)、栃木県多額納税者、実業家、銀行家。下野貯蓄銀行頭取。前名・順一。勲四等。 栃木県宇都宮市本郷町出身。上野松次郎の長男。1936年、父・松次郎の隠居により家督を相続し、翌1937年に6代目松次郎を襲名し、家業の肥料商を継承した。 また銀行、会社の重役であった。宇都宮商工会議所会頭、栃木県農工銀行頭取、下野貯蓄銀行頭取。また1925年(大正14年)に鹿沼銀行、宇都宮銀行、下野実業銀行、喜連川銀行、烏山産業銀行、今市銀行が合同して発足した下野中央銀行の頭取となった。
布 利秋(ぬの としあき、1887年(明治20年)8月30日… 布 利秋(ぬの としあき、1887年(明治20年)8月30日 ‐ 1975年(昭和50年)6月15日) は、大正から昭和期の海外特派員、著述家、政治家。衆議院議員。 愛媛県北宇和郡吉野村(吉野生村を経て現松野町)で、布岩太郎の二男として生まれた。1911年(明治44年)早稲田大学政治経済科を卒業。さらに同大文科で地理学を学んだ。のちワシントン大学文科、ロンドン大学文科でも学ぶ。 コーストタイムス旬刊雑誌社主幹、外務省特務通信員、中央新聞海外派遣員を務め、18年間で世界60数か国を旅行し、1933年(昭和8年)中央アジアで消息不明となるなど「世界漫遊家」と称された。また著述業にも従事した。 戦後、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に愛媛県全県区から出馬して当選。
中村 順平(なかむら じゅんぺい、1887年8月29日 - … 中村 順平(なかむら じゅんぺい、1887年8月29日 - 1977年5月24日)は日本の建築家。建築教育者。 大阪府大阪市生まれ。三男二女の末子。旧制天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)に進学。同校を経て、1910年に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)を卒業。曾禰達蔵・中條精一郎の曾禰中條建築事務所に入所する。1910年12月から大阪高槻工兵第四大隊第一中隊入営。1914年には東京大正博覧会第一会場の設計を委ねられ、また1919年には一ツ橋如水会館の設計を担当。1920年に、岩崎財団の助成をうけ、フランスに渡る。1921年、エコール・デ・ボザールに、33歳にして留学。クロモール&エクスペールのアトリエに所属。
李 範昇(イ・ボムスン、朝鮮語: 이범승、1887年8月29… 李 範昇(イ・ボムスン、朝鮮語: 이범승、1887年8月29日 - 1976年9月3日)は、日本統治時代の朝鮮の公務員、大韓民国の警察署長、弁護士、政治家、実業家。京城図書館(現・鍾路図書館(朝鮮語版))の設立者であり、初代楊州警察署長、初代京城府尹、第2・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 同じく第2代国会議員を務めた李肯鍾は甥。 忠清南道燕岐郡(現・世宗特別自治市)または漢城府出身。京都帝国大学(現・京都大学)法科卒、同大学院で奨学生として法制史の研究を行って修了。1921年に京城図書館(現・鍾路図書館(朝鮮語版))を設立し、1923年から民立大学期成準備会発起人、普成専門学校(現・高麗大学校)講師を務め、その後は親日団体の同民会で活動した。
土田 伊右衛門(つちだ いえもん、1887年〈明治20年〉8… 土田 伊右衛門(つちだ いえもん、1887年〈明治20年〉8月27日 - 没年不明)は、日本の政治家、地主・家主。大阪府会議員。大阪市会議員。土田家9代目。 大阪府・土田忠蔵の長男。1906年、市岡中学卒業。1923年、家督を相続する。祖先伝来の多くの土地家屋を管理する。社会公共事業に心を注ぎ中津青年会を組織し、その副会長となり以降諸般に渉り尽くす。 数多の公職に就く。大阪府西成郡中津町助役となり、また同町会議員に当選する。中津町長に挙げられる。大阪市会議長、同副議長、大阪市公安委員長などをつとめる。 1928年、社会教育功労者として文部大臣より表彰される。大阪府参事会員として府政に力を致す。 趣味は碁、長唄、謡曲。
毛利 宮彦(もうり みやひこ、1887年(明治20年)8月2… 毛利 宮彦(もうり みやひこ、1887年(明治20年)8月25日 - 1957年(昭和32年)1月27日)は、日本の図書館学者、早稲田大学図書館員・講師。日本の図書館学の創成に大きく関わる草分けの1人であり、早稲田大学新図書館の設計図案を作成するなど図書館施設・設備にも高い関心を示した。 1887年8月25日、士族である毛利義保・鋺子の子として愛知県に生まれる。 1912年、早稲田大学大学部文学科英文学科第一部を卒業し、早稲田大学図書館の図書館員となる。1915年5月から1916年7月まで、図書館・大学研究室制度の研究のためにニューヨーク公共図書館附属ライブラリースクールに留学する。帰国した後、1916年10月9日から山形県山形市で開催された第11回全国図書館大会において「個人と公衆図書館」という演題で講演を行う。
助川 啓四郎(すけかわ けいしろう、1887年(明治20年)… 助川 啓四郎(すけかわ けいしろう、1887年(明治20年)8月23日 - 1943年(昭和18年)10月5日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、船引町長。 福島県田村郡片曾根村(現在の田村市)出身。1906年(明治39年)、早稲田大学専門部政治経済科卒業。1915年(大正4年)より、片曾根村長・福島県会議員・船引町長(片曾根村が町制施行し改称)を歴任した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙で補欠当選。以後、5回の当選回数を数えた。その間、第1次近衛内閣で農林参与官を務めた。 農政の専門家で、農村之青年社をおこして、雑誌「農村之青年」を発刊した。 1943年(昭和18年)、翼賛政治会、農林省、内務省共同の満鮮食糧事情調査団に一員として参加することとなり、加藤鯛一代議士や随行者とともに満州へ向けて出発。
田辺 譲(田邊 讓、たなべ ゆずる、1887年(明治20年)… 田辺 譲(田邊 讓、たなべ ゆずる、1887年(明治20年)8月21日 – 1952年(昭和27年)1月1日)は、大正から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員、山口県会議長、山口県美祢郡大嶺村長、同大嶺町初代町長。 山口県美祢郡大嶺奥分村(大嶺村、大嶺町を経て現美祢市大嶺町奧分)で、素封家・田辺誠民と辰(小沢正路の四女)の長男として生まれる。1909年(明治42年)山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業し、東京美術学校(現東京芸術大学)で学んだ。 郵便局長、大嶺酒造取締役社長、大嶺運送社長、秋吉洞自動車社長、有ノ木炭鉱社長、日本石灰工業所取締役社長、貯蔵食糧取締役社長、大嶺無煙炭礦取締役、山口県地方木材 (株) 理事、山口県山林会副会長、山口県耕地協会常務理事などを務めた。
伊達 徳次郎(だて とくじろう、1887年〈明治20年〉8月… 伊達 徳次郎(だて とくじろう、1887年〈明治20年〉8月20日 - 1959年〈昭和34年〉1月9日)は、大正から昭和時代の政治家。警察官。埼玉県川越市長。 千葉県安房郡北条村(北条町、館山北条町を経て、現館山市北条)に生まれる。伊達博・せいの六男で生家は仙台藩伊達家の末裔。1907年(明治40年)明治大学法学科を卒業し、1921年(大正10年)埼玉県高等課長、浦和署長、茨城県特高課長、再び浦和署長を歴任した。 埼玉県の商工課長を経て、1933年(昭和8年)川口町助役となる。1935年(昭和10年)には川越市長の橋本定五郎に請われ同市助役に就任。下水道整備を進めた。1939年(昭和14年)同市長となり、田面沢村の合併、都市計画事業などに尽力した。
天羽 英二(あもう えいじ、1887年〈明治20年〉8月19… 天羽 英二(あもう えいじ、1887年〈明治20年〉8月19日 - 1968年〈昭和43年〉7月31日)は、日本の外交官。 日独伊三国同盟締結時(1940年〈昭和15年〉9月25日)は駐イタリア特命全権大使。三国同盟に反対の立場の天羽は三国同盟締結直前(1940年〈昭和15年〉9月6日)に松岡外相によってイタリア特命全権大使の任を解かれ(いわゆる松岡旋風人事)、後任の駐イタリア特命全権大使として堀切善兵衛が選ばれた(1940年〈昭和15年〉9月30日に正式任命)。外務次官(近衞文麿内閣)や情報局総裁(東條英機内閣)を務め、戦後A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監され公職追放となった(のちに解除)。1945年(昭和20年)12月にA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監された天羽は遂に起訴されることなく3年後の1948年(昭和23年)12月に釈放された。
對馬洋 弥吉(つしまなだ やきち、1887年8月19日 - … 對馬洋 弥吉(つしまなだ やきち、1887年8月19日 - 1933年2月16日)は、長崎県下県郡久和村(のち厳原町、現対馬市)出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は川上 弥吉(かわかみ やきち)。最高位は東大関。現役時代の体格は190cm、105kg。得意手は左四つ、吊り、上手投げ、小手投げ。 対馬の生まれで幼少時より背が高く、「半鐘泥棒」と言われてはからかわれていた。成人して地元の重砲隊に入隊したが体の大きさを見込んだ師団長が力士になることを勧め、除隊させてくれた。師団長の紹介状を手に角聖・常陸山を訪ね入門した。常陸山からは「タイシュウ(対州)」の愛称で呼ばれていた。
吉田 享二(よしだ きょうじ、1887年(明治20年)8月1… 吉田 享二(よしだ きょうじ、1887年(明治20年)8月18日 - 1951年(昭和26年)4月29日)は、日本の建築家。建築研究者、工業教育者。 建築材料学の権威で、建築材料協会会長、日本建築学会会長などを歴任した。各地の都市計画にも携わる。建築材料学のほか建築設備学の草創期において、その研究は学界や業界標となる。終始、早稲田大学・同高校での教職と運営にあたる。 1887年(明治20年)兵庫県美方郡生まれ、石川県士族で宮中顧問官の吉田醇一の養子となる。旧姓は宮脇。1912年(大正元年)に東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、早稲田大学理工学部建築学科に勤務。また母校の講師、早稲田大学助教授を経て1916年(大正5年)に同校教授。
坪内 士行(つぼうち しこう、1887年〈明治20年〉8月1… 坪内 士行(つぼうち しこう、1887年〈明治20年〉8月16日 - 1986年〈昭和61年〉3月19日)は、日本の演劇評論家、早稲田大学教授、戯曲家、振付師。女優・坪内ミキ子の父。 現在の愛知県名古屋市に生まれる。坪内逍遥の兄・義衛の三男で、逍遥に子がなかったため7歳のときに養子となった。旧制早稲田中学校を経て、1909年(明治42年)早稲田大学文学部英文科卒業。その後、ハーバード大学に留学して演劇を学び、1915年(大正4年)に帰国。翌年、留学中深い関係となったアメリカ人女性マッグラルド・ホームズが後を追って日本に来た。しかし逍遥は士行に娶合わせるつもりで鹿嶋清兵衛の娘のくにを養女にしており、この関係を許さなかった。
三村 起一(みむら きいち、1887年8月15日 - 197… 三村 起一(みむら きいち、1887年8月15日 - 1972年1月28日)は、日本の実業家。住友鉱業(現住友金属鉱山)初代社長、石油開発公団初代総裁などを歴任。 東京・銀座尾張町出身。実父の山口慎、養父の三村直ともに旧信濃上田藩士。第一高等学校を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に大阪の住友総本店に入社する。住友伸銅所勤務を経て、1919年(大正8年)~1921年(大正10年)欧米出張。1931年(昭和6年)住友伸銅鋼管取締役、1932年(昭和7年)住友別子鉱山常務、専務を経て、1941年(昭和16年)住友鉱業(現住友金属鉱山)初代社長兼住友本社理事。この間、住友機械製作(現住友重機械工業)、大日本産業報国会理事などの役員を兼務。
荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年〈明治20年〉8月… 荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年〈明治20年〉8月14日 - 1981年〈昭和56年〉3月6日)は、日本の社会主義者・労働運動家・政治家。また、作家・評論家。本名は荒畑 勝三(あらはた かつぞう)。 日本共産党および日本社会党の結党に参加するが離党し、1946年(昭和21年)から衆議院議員を務めた。主義主張の一貫した生涯は、日本社会主義運動の良心の軌跡とされている。 1887年(明治20年)8月14日に神奈川県横浜市永楽町にあった横浜遊廓の中で生まれ、幼少期を横浜市野庭(現・横浜市港南区)で過ごした。高等小学校を卒業後に外国人商館でボーイとして勤務しながらキリスト教に改宗し、ボーイを退職後は横須賀海軍工廠で勤務していた。
岩瀬 徳三郎(いわせ とくさぶろう、1887年8月11日 -… 岩瀬 徳三郎(いわせ とくさぶろう、1887年8月11日 - 1971年2月2日)は、日本の化学技術者、工学博士。東ソー及び東曹産業の創業者。 千葉県銚子市出身。1887年(明治20年)大地主、岩瀬利右衛門の三男として生まれる。1914年九州帝国大学工学部応用化学科卒業。同大学院へ進みアメリカへ留学。渡米の際の船で安野譲と知り合った縁で1918年に日本曹達工業(のちのトクヤマ)入社。同社取締役技師長、専務取締役を経て1935年東洋曹達工業(現東ソー)を設立し社長に就任。1940年「アンモニアソーダ工業用生石灰焼成に関する研究」で九州帝国大学工学博士の学位を取得。 妻・つね(1894年生)との間に徳郎、和子、義郎、秀郎、幹子、及び養子の寅四郎あり。
川端 千枝(かわばた ちえ、1887年(明治20年)8月9日… 川端 千枝(かわばた ちえ、1887年(明治20年)8月9日 - 1933年(昭和8年)7月4日)は、大正・昭和期の歌人。 1887年(明治20年)に神戸市で生まれた。父は神戸又新日報副社長を務めた炬口又郎。神戸市の親和女学校卒業。その年、淡路島の川畑隆平と結婚。 結婚3年目を迎えた頃、ひとり娘の母となり、加寿と名付ける。後の歌人・杉村けい子である。しかし、加寿が3歳になったばかりの1909年(明治42年)、夫と死別する。 1913年(大正2年)、亡夫の友人前田夕暮主宰の『詩歌』に入門する。同じく『詩歌』同人であった清水白花との相聞歌で誌面を騒がせた。また娘の杉村けい子は、別の同人、田中白夜を恋人に擬した作品を引用している。
郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 196… 郷原 古統(ごうばら ことう、1887年8月8日 - 1965年4月6日)は、日本統治時代の台湾で活躍した日本の画家、美術教育者。本名は郷原藤一郎。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)出身。堀江家に生まれ、伯父で広丘村村長の郷原保三郎の養子となる。母方の従兄弟に歌人の太田水穂がいた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を経て、1907年に東京美術学校日本画科に首席入学し、図画師範科に転じて寺崎広業に師事し、1910年に卒業。京都で美術教師として教壇に立った後、1917年に台湾に渡り、旧制台中中学校に赴任する。1927年に設立された台湾美術展覧会で創立委員や審査員を務めた。1932年に「栴檀社」を主宰し、多くの門弟を育成した。
榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月… 榊原 紫峰(さかきばら しほう、1887年〈明治20年〉8月8日 - 1971年〈昭和46年〉1月7日)は、京都市出身の日本画家。本名は安造。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
鈴木 祥枝 (すずき さかえ、1887年(明治20年)8月6… 鈴木 祥枝 (すずき さかえ、1887年(明治20年)8月6日- 1957年(昭和32年)2月11日)は、日本の実業家、商学博士。東京海上火災保険社長を務めた。 香川県出身。1903年(明治36年)香川県立商業学校(現香川県立高松商業高等学校)卒業。1907年(明治40年)神戸高等商業学校(現神戸大学)を第一期生として卒業。1907年(明治40年)、東京海上保険(1918年に東京海上火災保険に改称)に入社。ロンドン駐在時、鈴木商店ロンドン支店長高畑誠一、台湾銀行ロンドン支配人佐々木義彦などと親交を結ぶ。鈴木商店破綻後、日本商業(日商、現在の双日の前身企業の一つ)の創立に当たり高畑に大きな援助を与えた。
山口 政二(やまぐち まさじ、1887年(明治20年)8月6… 山口 政二(やまぐち まさじ、1887年(明治20年)8月6日 - 1927年(昭和2年)2月23日)は、衆議院議員、弁護士。 埼玉県比企郡小見野村(現在の川島町)に山口喜一郎の二男として生まれる。1910年7月に第一高等学校大学予科を、1914年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。高等文官試験に合格し、同年、朝鮮総督府試補に任ぜられ、翌1915年朝鮮総督府道事務官。その後、陸軍省御用掛、青島守備軍民政部事務官を歴任した後、1921年10月に弁護士登録し、開業した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から立候補し、当選した。無所属であったが、1924年5月30日に中正倶楽部設立に参加し、同年10月23日に立憲政友会に移るも、1925年6月1日には新正倶楽部設立に参加した。
山野 平一(やまの ひらかず、1887年〈明治20年〉8月4… 山野 平一(やまの ひらかず、1887年〈明治20年〉8月4日 - 1971年〈昭和46年〉12月31日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府、現在の大阪市で山野助四郎の三男として生まれる。1905年(明治38年)大阪府立八尾中学校(現大阪府立八尾高等学校)を卒業。1914年(大正3年)家督を相続した。 実業界では、都島商事社長、大阪地下街監査役などを務めた。 政界では、大阪市会議員、同副議長を務めた。その他、都島警防団長、都島教育会長、帝国在郷軍人会都島分会顧問、軍事援護会北区連合会理事長、大政翼賛会大阪支部常務委員、借家借地調停委員、北区町会連合会長、都島簡易裁判所調停委員、大阪調停協会長、大阪市社会福祉協議会副会長などを務めた。
瀬古 保次(せこ やすつぐ、1887年(明治20年)8月3日… 瀬古 保次(せこ やすつぐ、1887年(明治20年)8月3日 - 1964年(昭和39年)6月9日)は、貴族院書記官長、賞勲局総裁、貴族院勅選議員。 神奈川県三浦郡逗子町(現在の逗子市)で、瀬古保次郎の長男として生まれた。1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、文官高等試験行政科試験に合格した。東京府属、同豊多摩郡長を経て、貴族院書記官となり、内務参事官、同事務官、行政裁判所評定官を兼ねた。貴族院事務局議事課長を経て、貴族院書記官長に就任した。 1940年(昭和15年)からは賞勲局総裁に転じた。 1946年(昭和21年)2月5日には貴族院議員に勅選され、同成会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
江崎 浮山(えざき ふざん、1887年(明治20年)8月2日… 江崎 浮山(えざき ふざん、1887年(明治20年)8月2日 - 1984年(昭和59年)1月17日)は、愛知県東春日井郡小牧町(現在の小牧市)出身の実業家(藤枝江﨑新聞店経営者・興行師)・併立写真収集家。本名は江崎 千代吉(えざき ちよきち)。浮山という号の名付け親は評論家の徳富蘇峰であり、静岡市の浮月楼で歓談していた際に命名された。 1887年(明治20年)8月2日に愛知県東春日井郡小牧町(現在の小牧市)に生まれた。出生名は江崎千代吉。父親は江崎友吉であり、千代吉は五男である。 地元の小学校を卒業した後、名古屋市に出て米屋で働き始めた。20歳の時に独立してメリケン粉卸商となり、30歳になると芝居屋という趣味店も開店させた。
土佐林 義雄(とさばやし よしお、1887年〈明治20年〉8… 土佐林 義雄(とさばやし よしお、1887年〈明治20年〉8月 - 1957年〈昭和32年〉11月28日)は、 日本のアイヌ民族研究者。北海道大学教授。 1887年8月、山形県米沢市に生まれる。 米沢中学校を経て、1909年4月に早稲田大学理工科予科入学。1911年9月に家事都合で中退後、1912年6月から同大理工科建築学研究室の佐藤功一の助手となり工芸美術を専攻。1915年1月から建築学会の書記となり、『建築雑誌』の編輯にあたる。 1922年4月から北海道大学予科の講師となり、図画を担当する。1940年9月から教授となり、高等官六等に叙される。1943年に従六位に叙される。1949年5月に同大教授を退官。
牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(… 牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。陸士20期恩賜・陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進)。 日本陸軍の大将に昇進した最後の軍人。温厚な性格で知られ教育畑を歴任し、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として漢口及び南京攻略戦に参加。沖縄戦においては第32軍を指揮し、最期は自決した。これをもって日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日は、沖縄県の慰霊の日に制定されている。 牛島満は1887年7月31日、薩摩藩士出身の陸軍中尉の父牛島実満と、同じく薩摩藩の武家の出である母牛島竹子との間に四男として生まれた。
重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29… 重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29日 - 1957年〈昭和32年〉1月26日)は、日本の外交官・政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。造船工学者の重光蔟は兄。外交官の重光晶は甥。 大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に旧杵築藩士で大野郡長を務める父・重光直愿と母・松子(重光立平景行の末娘)の次男として生まれた。父は速見郡八坂村の代官の家に生まれたが、10歳で藩に召し出され、維新後初代郡長として赴任し、養蚕の振興に努めた。しかし、母の実家である南安岐村山口の重光本家に子供がなかったため養子となり、重光本家26代目の当主となった。旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法科大学を卒業する。
河村 重治郎(かわむら じゅうじろう、1887年7月28日-… 河村 重治郎(かわむら じゅうじろう、1887年7月28日-1974年3月13日)は、英語学者、辞書編纂者。 南秋田郡楢山牛島橋通町50(現秋田市楢山共和町)生まれ。1894年、築山小学校に入学。秋田中学校を中退し、検定試験で英語教員免許を取得。聖学院中学校、福井県立福井中学校(のち福井県立藤島高等学校)教諭をへて、1924年横浜高等商業学校教授。岡倉由三郎『新英和大辞典』の原稿を執筆。44年横浜高商を辞し、46年善隣外事専門学校教授。49年これを辞し、明治学院大学、東洋英和女学院短期大学などで講師を務める。 研究社『英和大辞典』の改訂、『クラウン』などの辞書の編纂に生涯を捧げた。墓所は多磨霊園。
高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 195… 高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 1954年10月5日)は、日本の実業家、町会議員、中学校教諭。正式な表記は髙瀨 彌一。莫大な土地を相続し、藤沢市の大地主として、住宅地開発、自動車道路、上水道敷設に功労した。和辻哲郎、林達夫の義兄に当たる。 江之島電氣鐵道が開通して間もなく、現在の柳小路駅と鵠沼駅の中間にあった藤ヶ谷停車場から東の百両山砂丘一帯に2万坪を超す敷地と巨大な冠木門、豪壮な建物で「鵠沼御殿」と噂される高瀬邸が完成した。電車が藤ヶ谷停車場に近づくと、車掌が「次は藤ヶ谷、高瀬邸前」と叫んだという。邸内には少なくとも4軒の離れがあり、大正時代初期に高瀬弥一の先輩に当たる阿部次郎、安倍能成、そして高瀬家の長女・照と結婚した和辻哲郎、さらに茅野雅子が借家して居を構えた。
片山 哲(かたやま てつ、1887年〈明治20年〉7月28日… 片山 哲(かたやま てつ、1887年〈明治20年〉7月28日 - 1978年〈昭和53年〉5月30日)は、日本の弁護士、政治家。栄典は従二位勲一等。クリスチャン。内閣総理大臣 (46代)。 社会民衆党書記長(初代)、衆議院議員(10期)、社会大衆党執行委員、日本社会党書記長(初代)、日本社会党委員長(初代)、民主社会党常任顧問、日本中国文化交流協会会長(初代)を歴任した。 和歌山県西牟婁郡田辺に生まれる。和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)、第三高等学校(現・京都大学)を経て、一家で同郷の人物で「軍艦行進曲」の作詞者・鳥山啓宅に寄宿、東京帝国大学法学部独法科卒業。卒業後、YMCA寄宿舎の一室を借りて「簡易法律相談所」を開設、弁護士として活動した。
山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月… 山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月27日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、政治家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉三鷹市民。本名は山本 勇造。 人道的な社会劇作家として名を成し、『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』などを発表。その後、小説に転じて『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、理想主義の立場から人生の意味を平明な文体で問いかけた作風で広く読まれた。 第二次世界大戦後は貴族院勅選議員。のち参議院議員として新仮名遣い制定など国語国字問題に尽力した。 呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれる。
三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月2… 三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月27日 - 1953年(昭和28年)7月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 石川県生まれ。1905年(明治38年)3月、金沢第一中学校(12回)を経て、同級生の役山久義らとともに陸軍士官学校(陸士)へ合格。同級生83名から陸海軍の軍人を選んだものが、20名に及ぶ。 1907年(明治40年)5月、陸士(19期)歩兵科を卒業。19期は、日露戦争における下級将校の不足を補うため、一般中学から大量採用された珍しいクラスである。このクラスから後に5人の大将(塚田攻、今村均、田中静壱、河辺正三、喜多誠一)が誕生する。三浦の卒業成績は62番/1,068名。
武部 鷹雄(たけべ たかお、1887年(明治20年)7月27… 武部 鷹雄(たけべ たかお、1887年(明治20年)7月27日 - 1915年(大正4年)3月6日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。第一次世界大戦において、日本海軍機の初出撃を行った五名のうちの一人である。のち試験飛行中に殉職。最終階級は海軍大尉。 鳥取県東伯郡三徳村にて武部真貫、たか子夫妻の次男として生まれる。1893年4月1日三徳村立鼎尋常小学校三徳分教場に入学、1897年3月に卒業し補修科へ進み、1899年に河南高等小学校へ入学、1901年3月卒業後、同年4月5日鳥取県立第一中学校へ入学し、1906年3月に抜群の成績で卒業する。卒業後、海軍兵学校の試験を受け、同年9月1日海兵37期生として入校する。
河田 重(かわだ しげ、1887年 <明治20年> 7月25… 河田 重(かわだ しげ、1887年 <明治20年> 7月25日 - 1974年 <昭和49年> 2月17日)は、日本の経営者。日本鋼管社長を務めた。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 現在の茨城県龍ケ崎市出身。1916年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 太陽生命保険での勤務を経て、1919年に日本鋼管に転じ、1942年に監査役に就任し、取締役、常務を経て、1947年5月に社長に就任した。1963年11月から1966年11月まで会長を務めた。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1958年に藍綬褒章を受章し、1964年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1974年2月17日、急性肺炎で死去した。
値賀 忠治(ちが ちゅうじ、1887年(明治20年)7月25… 値賀 忠治(ちが ちゅうじ、1887年(明治20年)7月25日 - 1981年(昭和56年)12月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・前田。 山形県、現在の山形市で、前田保の二男として生まれ値賀勇雄の養子となる。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官した。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 1922年(大正11年)8月、歩兵少佐に進級し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵少佐となった。1926年(大正15年)8月、航空兵中佐に昇進。1928年(昭和3年)8月、下志津陸軍飛行学校教官兼同校研究部部員に就任。
膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月2… 膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月21日 - 1951年〈昭和26年〉11月25日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。位階は従三位。勲等は勲三等。日本工業倶楽部理事、日本団体生命保険社長、経済安定本部総務長官(初代)、物価庁長官(初代)、貴族院議員を歴任した。 1887年(明治20年)、群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)で、薬商・膳浅次郎(好孝)の三男として生まれる。伊勢崎尋常小学校に学んだ。1896年(明治29年)に父が脳溢血で死去。1900年(明治33年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学するが、同盟休校(ストアイキ)の首謀者として退学となり、1903年(明治36年)に上京した。
大本 寅治郎(おおもと とらじろう、1887年7月21日 -… 大本 寅治郎(おおもと とらじろう、1887年7月21日 - 1961年9月25日)は、日本の発明家、実業家。妻・フサは樽井藤吉の長女。 機械式計算機である「タイガー計算器」を発明した。 広島県深安郡出身。岡山紡績株式会社鉄工部の見習工となり、備前紡績株式会社鉄工部、神戸湊川川上鉄工所、大阪府下稻畑染工場鉄工所、大阪府下毛斯綸紡織株式会社鉄工部、大阪砲兵工廠火砲第一工場などに勤務した。明治38年(1905年)に大阪府西成郡豊崎村本庄(現・大阪市北区)において共同経営において鉄工業を創設した。 大正元年(1912年)に鉄工業を合意解散し、西成郡豊崎村南濱に個人経営において大本鉄工業を創始し、機械の製作販売を行う。
石井 茂吉(いしい もきち、1887年(明治20年)7月21… 石井 茂吉(いしい もきち、1887年(明治20年)7月21日 - 1963年(昭和38年)4月5日)は、写真植字機の共同発明者。写研の設立者で、石井翁とも呼ばれた。東京都北区堀船町出身。 1887年、東京府北豊島郡王子村(現在の東京都北区王子)に生まれる。京北中学で井上円了の薫陶を受ける。第一高等学校を経て東京帝国大学工科大学へ入学し、1912年(明治45年)機械工学科卒業。同年神戸製鋼所に入社し技師として働いていたが、1923年(大正12年)秋、星製薬に高級技師として転職。そこで印刷部主任をしていた森澤信夫(のちにモリサワを創業)と出会い、ともに写真植字機の実現を目指すことを誓う。1924年7月に2人で装置の特許を出願。