長瀬 貞一(ながせ ていいち、1886年(明治19年)3月1… 長瀬 貞一(ながせ ていいち、1886年(明治19年)3月15日 – 1939年(昭和14年)11月14日)は、農商務官僚、農林官僚。 三重県桑名郡出身。第一高等学校を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。林務属、山林事務官、熊本大林区署詰、山林書記官、農商務省山林局林産課長、農林書記官、大臣官房文書課長を歴任。1927年(昭和2年)以降、水産局長、山林局長、米穀部長、農務局長を務めた。1936年(昭和11年)、農林次官に就任した。 退官後は飼料配給株式会社社長を務めた。
犬飼 恭平(いぬかい きょうへい、1886年(明治19年)3… 犬飼 恭平(いぬかい きょうへい、1886年(明治19年)3月15日 - 1954年(昭和29年))は、明治末期から昭和初期にかけてアメリカ合衆国で活動した日系人画家である。岡山県に生まれ、14歳の時に移民としてハワイに渡り、17歳でアメリカ本土へ移った後に、ジョン・ヴァンダーポールらに師事してシカゴ美術館附属美術大学を卒業し、画家としての制作活動を開始した。1926年(昭和元年)にはナショナル・アカデミー・オブ・デザインに自画像『制作中』を出品し、アイザーク・N.メイナード肖像画賞を受賞している。息子のアール・グデナウもまた犬飼の名を嗣ぎ、キョウヘイ・イヌカイ(英語版)という名義で画家として活動を行った。
澤田 柳吉(さわだ りゅうきち、1886年3月13日 - 1… 澤田 柳吉(さわだ りゅうきち、1886年3月13日 - 1936年9月16日)は、日本のピアニスト。一般聴衆を前に演奏会を開いた最初の日本人ピアニストと言われている。 東京都に生まれ、東京音楽学校でピアノを学ぶ。同期には久野久子や小松耕輔、大和田愛羅らがいる。浅草オペラの創設に携わり、幕間でピアノ演奏を行なった他、オペレッタなどの上演に参加した。 1923年、関東大震災によって浅草オペラが壊滅的打撃を受けると、大阪府へ移住。演奏活動の他、大阪洋楽研究所を主宰し、ピアノ・声楽・音楽理論などを教えた。黎明期の日本のレコード会社に、洋楽・邦楽を問わず数多くの伴奏や器楽の録音を遺したことで知られる。その中には、日本人初となるショパンやベートーヴェンのピアノ曲も含まれている。
桜内 辰郎(さくらうち たつろう、旧字体: 櫻內 辰郞、18… 桜内 辰郎(さくらうち たつろう、旧字体: 櫻內 辰郞、1886年〈明治19年〉3月13日 - 1954年〈昭和29年〉11月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 1928年、東京府1区から立憲民政党に属し衆院議員に選出され、次期選挙にも当選した。1947年には東京都から参院議員に当選、国民民主党最高委員を歴任。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)で生まれた。島根県士族・櫻内和一郎の二男。早稲田大学政治経済科で学んだ(1930年に推薦校友となる)。 亀崎銀行に入り、常務取締役に挙げられた。興國銀行取締役を経て、日本人造絹絲会社を創立し常務取締役に就任した。櫻組工業、日本コナミルク各会社取締役となった。
植田 寿蔵(うえだ じゅぞう、1886年〈明治19年〉3月1… 植田 寿蔵(うえだ じゅぞう、1886年〈明治19年〉3月11日 - 1973年〈昭和48年〉11月27日)は、日本の美学者、美術史家、京都帝国大学名誉教授。 京都府生まれ。1911年京都帝大文科大学卒、1919年同講師、1919年助教授、1925-1927年ヨーロッパ留学、帰国後九州帝国大学文学部教授、1929年京都帝大助教授、1932年教授、1946年退官し講師となり、1947年名誉教授。 西洋美術のみならず日本美術、文芸まで含めて多数の著作を著した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高 羲東(コ・ヒドン、朝鮮語: 고희동、1886年3月11日… 高 羲東(コ・ヒドン、朝鮮語: 고희동、1886年3月11日 - 1965年10月22日)は、日本統治時代の朝鮮と韓国の画家、韓国の政治家、参議員。本貫は済州高氏。別名は春谷(チュンゴク、춘곡)。 韓国最初の洋画家のほか、西洋画を朝鮮で広げた美術教育者でもあり、韓国初の近代的な美術団体である「書画協会」を創立した美術行政家でもある。また、1925年頃以降は韓国画をメインに、西洋画の色彩と明暗法を加味した新しい絵風を開拓した。 漢城府出身。開港期に博文局の主事、ジャーナリストを務めた高永喆の三男である。14歳の時に漢城仏語学校に入ってフランス語を学び、1904年に宮内府の主事となり、宮中のフランス語の通訳・翻訳を行った。
福井 利吉郎(ふくい りきちろう、1886年3月10日 - … 福井 利吉郎(ふくい りきちろう、1886年3月10日 - 1972年12月1日)は、日本の文学者、美術史家。東北大学名誉教授。 大学卒業後、50年以上にわたり文化財の調査、指定、保存に尽力。専門分野は仏教美術、尾形光琳、俵屋宗達、乾山、絵巻物、水墨画と多方面に及んだ。
鈴木 清太郎(すずき せいたろう、1886年(明治19年)3… 鈴木 清太郎(すずき せいたろう、1886年(明治19年)3月10日 - 1977年(昭和52年)3月3日)は、日本の物理学者。農業気象の研究者。 1886年(明治19年)3月10日、香川県生まれ。東京帝国大学を卒業し、欧米に留学。1925年(大正14年)に九州帝国大学の教授となる。1942年(昭和17年)から1957年(昭和32年)まで日本農業気象学会会長を務めた。 1961年(昭和36年)、日本気象学会岡田賞を受賞。 1962年(昭和37年)、日本農業気象学会 永年功労会員(フェロー)。 1977年(昭和52年)3月3日、死去。90歳没。
丸井 清泰(まるい きよやす、1886年(明治19年)3月1… 丸井 清泰(まるい きよやす、1886年(明治19年)3月10日 - 1953年(昭和28年)8月19日)は、日本の医学者、精神科学者。専門は精神分析学。元東北帝国大学医学部精神病学講座教授。弘前大学初代学長。医学博士。理学博士。東北大学名誉教授。 日本における精神分析学黎明期に活躍した人物である。アメリカでアドルフ・マイヤー教授に師事し、日本にひろく精神分析を紹介した。帰国後東北帝国大学にて精神分析学講義を始めた。またその精神分析的研究発表を巡っては森田正馬、下田光造らと激しい論争を繰り広げた。弟子に古沢平作、山村道雄、懸田克躬らがいる。 兵庫県人・丸井清太郎の7男として神戸市に生まれる。第四高等学校を経て、1913年、東京帝国大学医科大学を卒業し、青山胤通の東大青山内科に入った。
横田 卓二(よこた たくじ、1886年(明治19年)3月10… 横田 卓二(よこた たくじ、1886年(明治19年)3月10日 - 1971年(昭和46年)1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 長野県飯山市出身。陸軍士官学校第19期卒業。1925年(大正13年)3月、陸軍騎兵少佐に進級し、同年9月時点で陸軍騎兵学校附の任にあった。1924年(大正14年)9月時点で騎兵第13連隊附を発令され、成蹊高等学校兼成蹊実務学校配属となり、1928年(昭和3年)3月に近衛騎兵連隊附に転じ、1929年(昭和4年)8月に陸軍騎兵中佐進級と同時に騎兵第16連隊附に着任した。1931年(昭和6年)3月に軍馬補充部十勝支部長に就任し、1933年(昭和8年)8月に騎兵第9連隊長(第9師団)に転補され、1934年(昭和9年)8月に陸軍騎兵大佐に進級した。
川島 理一郎(かわしま りいちろう、1886年3月9日 - … 川島 理一郎(かわしま りいちろう、1886年3月9日 - 1971年10月6日)は、日本の洋画家。栃木県足利市出身。 1886年3月9日、栃木県足利市に生まれる。1890年、祖父母と共に東京へ転居。 1905年、アメリカへ渡り、ワシントンのコーコラン美術学校に入学、1910年に同校卒業。なお、同校在学中の1906年にはニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインへ特待生として学び、褒状を得ている。 1911年にはフランスへ渡って、まずはパリのアカデミー・ジュリアンへ、その後アカデミー・コラロッシに学ぶ。翌1912年にサロン・ドートンヌで入選した。この時期、フランス当地のフォーヴィスム、キュビスムの新運動隆盛に刺激を受け、藤田嗣治、パブロ・ピカソなどと交友を結んだ。
秋山 安三郎(あきやま やすさぶろう、1886年3月9日 -… 秋山 安三郎(あきやま やすさぶろう、1886年3月9日 - 1975年6月19日)は、日本の演劇評論家、随筆家。 東京市浅草生まれ。9歳で奉公に出され、のち少年記者となり、銀行、外人商館、郵便局、横浜市役所などで働き独学する。1909年「二六新報」に入社。その後国民新聞、報知新聞で演劇記者として活躍。1923年東京朝日新聞に入社。1941年朝日新聞定年後も劇評を担当した。 歌舞伎や大衆演劇に精通し、1961年日本演劇協会功労賞受賞(永年にわたって担当した「朝日新聞」の劇評により)。 1966年第1回長谷川伸賞受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
島田 卓二(しまだ たくじ、1886年3月6日 - 1946… 島田 卓二(しまだ たくじ、1886年3月6日 - 1946年8月24日)は、日本の洋画家。黒田清輝に師事し、第6回文展入選。 宝飯郡大木村(現在の豊川市)出身。1905年、愛知県第四中学校(現在の愛知県立時習館高等学校)を卒業。その後、上京して白馬会の葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝の書生となる。 1910年、第13回白馬会展。1912年、第6回文展に入選。1914年、第3回光風会(第5.6回も)出品。1920年、光蘭(本来は氵に蘭)社を文展・帝展入選者の岡常次、櫻井知足、川名博、宮島熊三、瀬野覚蔵、川上五郎らと7名で結成し、白木屋で第1回展を開催、数回の展覧会を経て1930年に解散。1921年、東海七州美術会第1回展覧会展を京橋の高島屋呉服店で開催。
中島 九郎(なかじま くろう、1886年3月5日 - 195… 中島 九郎(なかじま くろう、1886年3月5日 - 1959年)は、日本の農学者・経済学者。農学博士。北海道大学名誉教授。札幌短期大学学長事務取扱。佐賀県出身 1910年東北帝国大学農科大学助手、1912年同助教授を経て、1922年北海道帝国大学農学部教授(農政学・農業経済学を担当) この他、北海学院兼任教授も務めた。 大正から昭和前期にかけて農政学の第一人者。農業経済学にも精通。恩師は、上原轍三郎。また、北大史のパイオニアで、『北海道帝國大學沿革史』という北大の通史編集や『佐藤昌介』等の北大著名人の人物伝を執筆した。
池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 … 池部 鈞(いけべ ひとし、1886年(明治19年)3月3日 - 1969年(昭和44年)12月17日)は、東京府東京市本所区(現東京都墨田区本所)出身の日本の風刺漫画家、洋画家。旧姓・山下。 岡本一平の義弟(妻が岡本一平の妹)、岡本太郎の叔父にあたり、俳優の池部良は実子。 1886年(明治19年)3月3日、東京本所に生まれる。東京府人の山下覺之介の二男。叔父で芝区露月町で洋服商の池田屋を営む池部鍬吉の養子となる。台東区立下谷小学校に通った。 1898年(明治31年)頃、12歳時に神田の錦城中学に入学、翌1899年(明治32年)から1900年(明治33年)にかけての時期に白馬会展の展観作品に感動し画家を志す。
有本 芳水(ありもと ほうすい、1886年(明治19年)3月… 有本 芳水(ありもと ほうすい、1886年(明治19年)3月3日 - 1976年(昭和51年)1月21日)は、日本の詩人・歌人である。 本名歓之助、1886年(明治19年)3月3日、兵庫県飾西郡津田村(現・姫路市)に生まれる。 岡山市の関西中学校に入学。在学中から詩作をし、同人雑誌「白虹」に参加する。上京し、早稲田大学高等師範部を卒業後、実業之日本社に入り、「日本少年」主筆として活躍した。1905年に車前草社に入り、若山牧水、正富汪洋らと作歌。薄田泣菫、与謝野鉄幹、晶子らの先進を敬慕しつつ、「日本少年」に毎号発表した少年詩は少年の読者に愛誦され、文学者に多くの影響を与えた。 1913年(大正2年)4月、岡山県上道郡浮田村北方の井尻龍五郎・林夫妻の長女、清子と結婚。
倉田 信太郎(くらた のぶたろう、1886年〈明治19年〉3… 倉田 信太郎(くらた のぶたろう、1886年〈明治19年〉3月3日 - 1938年〈昭和13年〉3月27日)は、日本の商人(履物商)、実業家。広島瓦斯電軌社長。倉田商事代表社員。昭和証券、防石鉄道各取締役。芸備銀行監査役。 広島県広島市堺町・倉田幾蔵の長男。広島第一中学校に入学したが、家業に従事するため中途退学する。履物商を営み、傍ら会社重役であった。広島瓦斯電軌専務取締役、同副社長を経て社長。 趣味は絵画。住所は広島市大手町9丁目、同市堺町。 倉田家は安芸郡牛田村(現・広島市東区)より明治の初年に祖父・幾蔵が出広し荒物、下駄の販売を創めた。2代目幾蔵は賀茂郡西志和村(現・東広島市)出身で、門根木家より入婿し、家業に精励、明治24、25年頃より下駄の海外輸出を決行、莫大の利益を得る。
田中 秀央(たなか ひでなか、1886年〈明治19年〉3月2… 田中 秀央(たなか ひでなか、1886年〈明治19年〉3月2日 - 1974年〈昭和49年〉8月6日)は、日本の言語学者、翻訳家。日本における西洋古典学の開拓者の一人。 1886年、愛媛県北宇和郡三浦村(現・宇和島市)で生まれた。宇和島中学校を卒業後、京都の第三高等学校に進んだ。1906年に東京帝国大学言語学科に入学し、ラファエル・フォン・ケーベルの下でギリシア語、ラテン語を学んだ。1909年に卒業し、同大学大学院に進学。 1912年に卒業し、東京帝国大学講師として古典語を教えた。1920年7月より、京都帝国大学文学部講師を命じられ、同年10月には助教授昇格。1922年から文部省在外研究員としてオックスフォード大学に留学し、西洋古典学の研究を進めた。
山田川 清太郎(やまだがわ せいたろう、1886年3月2日 … 山田川 清太郎(やまだがわ せいたろう、1886年3月2日 - 1951年7月24日)は、現在の富山県高岡市出身で稲川部屋に所属した大相撲力士。本名は山田 清太郎。最高位は西前頭13枚目。168cm、92kg。 1908年1月、幕下付出で初土俵。1911年6月新十両。1912年5月場所、宇都宮新八郎と6勝1預かりと6戦全勝の土つかず同士で千秋楽に対戦、これに勝って7勝1預かりで十両優勝を果たす。翌1913年5月場所では宇都宮とともに新入幕となるが、直前の東西合併相撲で大坂相撲の力士2名に暴行され重傷を負ってしまう。このため新入幕場所は初日から休場、5日目から途中出場するも1勝2敗1預かりで9目から再休場。
山脇 正隆(やまわき まさたか、1886年(明治19年)3月… 山脇 正隆(やまわき まさたか、1886年(明治19年)3月2日 - 1974年(昭和49年)4月21日)は、日本の陸軍軍人、陸軍大将従三位勲一等功三級。 高知県高岡郡甲原村(現:土佐市)に於いて士族で、北原村の村長を務めた山脇豊正の長男として生まれる。生家は山内家に代々仕えた土器(かわらけ)師の家系だった。 1900年広島陸軍地方幼年学校、1905年陸軍士官学校18期、1914年陸軍大学校(26期)卒業、首席により天皇より軍刀を下賜。1927年参謀本部編成班長。1929年参謀本部編成動員課長。1931年歩兵第22連隊長。1932年教育総監部第一課長。1934年3月ポーランド大使館付武官、同年8月陸軍少将に。
倉田 主税(くらた ちから、1886年3月1日 - 1969… 倉田 主税(くらた ちから、1886年3月1日 - 1969年12月25日)は、日本の実業家。株式会社日立製作所元社長・会長、日本科学技術振興財団初代会長、毎日放送元取締役。 弟には俳人の神崎縷々、三井鉱山社長を務めた倉田興人がいる。 福岡県宗像郡神興村(現・福津市)出身。小倉工業を経て仙台高等工業学校(現東北大学工学部)卒業。久原鉱業所日立製作所に入社し、日立鉱山より産出される銅を用いての電線自主製造確立に成功。電線事業確立後は電線工場の工場長に就任し、以降20年に渡り電線製造に携わる。 その後着任した笠戸工場工場長時に、公職追放された初代社長小平浪平以下16名の後を継いで、1947年に日立製作所二代目社長に就任。
鵜沢 憲(うざわ けん、1886年(明治19年)3月1日 -… 鵜沢 憲(うざわ けん、1886年(明治19年)3月1日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。官選県知事。 千葉県出身。鵜沢信一の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1912年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し兵庫県警部となる。 以後、兵庫県警視、神戸水上警察署長、兵庫県警察部保安課長、同警務課長、高知県理事官、法制局参事官、朝鮮総督府事務官兼同府参事官、警察講習所教授、拓殖局書記官兼内務事務官、滋賀県書記官・内務部長、京都府書記官・内務部長、兵庫県書記官・内務部長など歴任。 1929年7月5日、岐阜県知事に就任。道路改良工事などに尽力。
高橋 数良(たかはし かずよし、1886年3月 - 1942… 高橋 数良(たかはし かずよし、1886年3月 - 1942年5月3日)は日本の柔道家(講道館8段)。 講道館四天王の1人である横山作次郎の直弟子であり、切れ味鋭い足技を駆使した返し技(裏技)の達人であった。後には警視庁や陸軍幼年学校、東京高等師範学校等の柔道師範を務めて多くの後進の指導に当たり、戦前の柔道界を牽引した大家と知られている。 旧高松藩の藩士であった父・五郎と母・マス夫妻の長男として香川県高松市に生まれる。父の五郎は水戸藩の星野家に仕えた頃から水府流を会得して高松藩時代には水任流で水術の達人と名を馳せ、また高松松平家の鉄砲組の頭領として門外不出と云われた新刀流(明治維新後に高松師範で教えた)の2代目師範も務めていた関係で、数良は幼少時より柔術・剣術・居合術の手解きを受けた。
山田 助作(やまだ すけさく、1886年2月28日 - 19… 山田 助作(やまだ すけさく、1886年2月28日 - 1947年9月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 新潟県出身。1908年、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)卒。農業を営み、西蒲原郡農会長、所得税調査委員、新潟県農工銀行監査役、北越商業銀行、新潟電鉄各(株)取締役、新潟新聞社長となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において新潟4区(小選挙区制)から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1932年の第18回衆議院議員総選挙では新潟1区から立憲民政党公認で立候補して(無投票)4年ぶりに復帰した。1936年の第19回衆議院議員総選挙には立候補せず引退した。
塩月 桃甫(しおつき とうほ、1886年2月27日 - 19… 塩月 桃甫(しおつき とうほ、1886年2月27日 - 1954年1月30日)は、宮崎県出身(出生地:宮崎県児湯郡三財村、現西都市)の画家である。本名は永野善吉。日本統治時代の台湾に、初めて西洋美術を広め、台湾美術展覧会を開くなど、台湾の美術界に大きく貢献したことで知られる。 宮崎師範学校、東京美術学校(図画師範科)卒業。台湾に渡ったのは1921年(35歳の時)であり、以後25年間にわたり台湾で活躍し、台北高等学校でも図画科教師を務めた。1953年、宮崎県文化賞受賞。 主な作品に「蕃人舞踊団」(宮内庁所蔵)「裸婦」「舞妓」(いずれも宮崎県立美術館所蔵)などがある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
上田 碩三(うえだ せきぞう、1886年2月27日 - 19… 上田 碩三(うえだ せきぞう、1886年2月27日 - 1949年1月30日)は日本のジャーナリスト、実業家。元電通社長。 熊本県八代郡宮原町(現・氷川町)出身。1909年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、日本電報通信社(のちの電通)入社。語学力を活かしパリ講和会議、ワシントン会議、ロンドン海軍軍縮会議で特派員を務め、「カミソリ上田」と呼ばれた。 電通で常務取締役通信部長等を務めたのち、同盟通信社編集局長、常務理事。日映専務理事。 1945年電通社長に就任。同年、大学の後輩で、結核の療養中だった田中寛治郎を再入社させた。田中は結核の療養を続けながら、電通の監査役兼渉外部長や秘書役等を歴任し、パブリック・リレーションズ(PR)研究・導入の日本における草分けとなった。
若山 治(わかやま おさむ、1886年2月25日 - 没年不… 若山 治(わかやま おさむ、1886年2月25日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名同じ。雅号を若山 南柯(わかやま なんか)とする。監督作はいっさい現存していないが、溝口健二の映画界入りのきっかけとなり、師となったことで名を残す。 1886年(明治19年)2月25日、栃木県足利郡足利町(現在の同県足利市)に生まれる。 最終学歴は旧制中学校卒業である。卒業後、薬局に勤務したり、弁護士の書生を務めたり、俳諧師の門下に入ったりといった経歴を経て、1919年(大正8年)6月、満33歳のときに日活向島撮影所に入社する。翌1920年(大正9年)には監督に昇進し、同年9月18日に公開された『罪の影』が、記録残るもっとも古い監督作である。
三島 弥彦(みしま やひこ、旧字体: 三島 彌彥、1886年… 三島 弥彦(みしま やひこ、旧字体: 三島 彌彥、1886年(明治19年)2月23日 - 1954年(昭和29年)2月1日)は、明治期の陸上選手、銀行家。日本初のオリンピック代表選手として1912年開催のストックホルムオリンピックにマラソンの金栗四三と共に参加した。父は警視総監の三島通庸、兄に銀行家の三島弥太郎、甥に三島通陽がいる。妻は鍋島直柔の五女・文子。 東京府三田四国町に、三島家6男6女の五男(女子を含めると11番目)として出生し、長兄・彌太郎とは19歳も離れていた。弥彦は妾の子で、父・通庸の正妻である和歌子は実子と分け隔てなく育てたとも言われるが、同居していた姪の梅子によると子供の目にもわかるほど扱いには各段の差があったという。
2代 石橋 徳次郎(いしばし とくじろう、1886年(明治1… 2代 石橋 徳次郎(いしばし とくじろう、1886年(明治19年)2月23日 - 1958年(昭和33年)8月19日)は、昭和時代前期の政治家、実業家。福岡県久留米市長。前名は重太郎。 先代・石橋徳次郎の長男として久留米城下荘島町に生まれる。家業の仕立て屋「しまや」をつぎ、弟正二郎とともに業容を拡大。1912年(大正元年)には「しまや足袋」の宣伝に九州初の自動車を使用して知名度を高めた。1918年(大正7年)「日本足袋株式会社」を発足、1922年(大正11年)貼付式ゴム底足袋、即ち、地下足袋を発明(1923年10月 実用新案登録番号第80594号)し発売。1936年(昭和11年)デパート旭屋(現.久留米井筒屋)を創立。
八田 與一(はった よいち、常用漢字:八田 与一、1886年… 八田 與一(はった よいち、常用漢字:八田 与一、1886年〈明治19年〉2月21日 - 1942年〈昭和17年〉5月8日)は、日本の水利技術者。 1886年(明治19年)に石川県河北郡花園村(現:金沢市今町)に生まれる。石川県尋常中学、第四高等学校(四高)を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。 日本統治時代の台湾では、初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義・台南・高雄など各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移り、1910年総督府土木部工務課で浜野弥四郎に仕えることになった。
石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年(明治19年)2月… 石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年(明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)は、日本の歌人、詩人。本名は石川 一(いしかわ はじめ)。
川瀬 徳太郎(かわせ とくたろう、1886年(明治19年)2… 川瀬 徳太郎(かわせ とくたろう、1886年(明治19年)2月20日 - 1964年(昭和39年)1月22日)は、日本福音ルーテル八幡教会創始者・名誉牧師。廃娼運動家。前名は入江徳太郎。 ジェームス・シェーラー ラファス・ピーリー 山内量平・山内幹枝 山内直丸 川瀬徳太郎 三浦豕 石松量蔵 佐藤繁彦 鍋谷堯爾
石田 礼助(いしだ れいすけ、1886年(明治19年)2月2… 石田 礼助(いしだ れいすけ、1886年(明治19年)2月20日 - 1978年(昭和53年)7月27日)は、日本の実業家。三井物産代表取締役社長・日本国有鉄道元総裁。本名・石田 禮助(読みは同じ)。
小須田 勝造(こすだ かつぞう、1886年2月20日 - 1… 小須田 勝造(こすだ かつぞう、1886年2月20日 - 1977年12月26日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。
久留島 通彦(くるしま みちひこ、1886年〈明治19年〉2… 久留島 通彦(くるしま みちひこ、1886年〈明治19年〉2月20日 - 1977年〈昭和52年〉10月2日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家である。戦前は主として電気事業に関わり矢作水力の支配人から副社長まで昇任。戦後は同社から派生した化学メーカー東亞合成化学工業(現・東亞合成)の会長を務めた。大分県出身。 久留島通彦は、1886年(明治19年)2月20日、大分県士族久留島通與の四男として生まれた。生家の久留島家は江戸時代に森藩家老を務めた家。また母の修は森藩8代藩主久留島通嘉の娘である。兄に東邦電力常務や揖斐川電気(現・イビデン)社長を務めた久留島政治がいる。 慶應義塾普通部を経て1910年(明治43年)3月に慶應義塾大学部理財科を卒業。
曽木 重貴(そぎ しげたか、1886年(明治19年)2月20… 曽木 重貴(そぎ しげたか、1886年(明治19年)2月20日 - 1957年(昭和32年)11月8日)は、日本の衆議院議員、都城市長。 宮崎県北諸県郡都城町(現在の都城市)出身。1912年(明治45年)、早稲田大学商科を卒業。都城町助役、都城町長、都城市会議員、都城市会議長等を経て、1934年(昭和9年)に都城市長に就任し、2期務めた。 1936年(昭和11年)、第20回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回衆議院議員総選挙でも再選された。 また1941年(昭和16年)より3期目の都城市長を務めたが、戦後、公職追放される。追放解除後の1953年に4期目の市長就任を果たした。 その他に都城電気株式会社支配人を務めた。
岡田 徳輔(おかだ とくすけ、1886年(明治19年)2月1… 岡田 徳輔(おかだ とくすけ、1886年(明治19年)2月19日 - 1971年(昭和46年))は、日本の政治家、実業家。埼玉県蕨市長。 第5代埼玉県蕨町長、蕨町会議員、埼玉県町村議会議長会会長、全国町村議会議長会会長、自治大学校運営審議会委員、地方制度審議会委員、町村合併促進審議会委員、自治庁参与をつとめたのち第二代蕨市長に就任した。ほか実業界でも秩父セメント連合会関東支部長、セメント共版会社常務取締役社長、埼北自動車取締役社長など歴任した。
市河 三喜(いちかわ さんき、1886年(明治19年)2月1… 市河 三喜(いちかわ さんき、1886年(明治19年)2月18日 - 1970年(昭和45年)3月17日)は、日本の英語学者・随筆家。学位は、文学博士。東京大学名誉教授、日本学士院会員、語学教育研究所所長。号は清庵。日本人としては初となる東京帝国大学英文科の教授となり、日本の英語学の礎を築いた。 英語学の新人賞として市河三喜賞が設けられていた。 1886年、東京府下谷区練塀町(現在の千代田区神田練塀町・外神田四丁目・台東区秋葉原に跨る地域)に書家である市河三兼(万庵)の次男として生まれる。5、6歳の頃より家業の書道を学び、また同じく幼年の頃より兄の三陽から漢文の素読を学ぶ。高等小学校1年時からは三陽により英語も学び始める。
松崎 寿(まつざき ひさし、明治19年(1886年)2月18… 松崎 寿(まつざき ひさし、明治19年(1886年)2月18日 - 昭和10年(1935年)9月11日)は、日本の経済学者。大阪商科大学(現・大阪公立大学)教授在任中、死去した。 静岡県駿東郡楊原村村上香貫生まれ。静岡県立韮山中学校(現・静岡県立韮山高等学校)を経て、1904年東京高等商業学校(現・一橋大学)予科入学。1910年同校専攻科卒業。關一に師事。 同年大阪高等商業学校(現・大阪公立大学)講師。1917年同校教授。1920年叙正七位。1922年叙従六位。1928年叙従五位。1929年大阪商科大学(現・大阪公立大学)教授兼同大学高等商業部教授兼務。1930年同大学評議員併任。 1932年叙正五位、商学博士。
石川 等(いしかわ ひとし、1886年2月18日 - 195… 石川 等(いしかわ ひとし、1886年2月18日 - 1953年5月27日)は、日本の技術者、実業家、工学博士。日本カーボン創立者・初代代表取締役社長。電気化学協会第11代会長。炭素協会初代会長。 長野県生まれ。1910年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科卒業。学科の1年先輩に冨山保(のちに初代横浜国立大学学長)がいた。同年設立された東京カーボン工業所に技師長として入り、電極の国産化に成功。1915年には原富太郎ら横浜財界の支援を得て独立して日本カーボンを設立。日本における安定的炭素工業企業の先駆けとなった。同社初代代表取締役社長。1930年工学博士(京都帝国大学)。1933年の電気化学協会創立に参画し、同協会関東支部長も務めた。
石塚 粂蔵(いしづか くめぞう、1886年〈明治19年〉2月… 石塚 粂蔵(いしづか くめぞう、1886年〈明治19年〉2月17日 - 1962年〈昭和37年〉7月15日)は、日本の実業家。日本製鋼所社長・会長や昭和飛行機工業社長、日本兵器工業会会長、日本機械工業連合会理事、旧・日経連理事、旧・経団連理事などを歴任した。 東京府麹町区出身。麹町小学校、府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。一中では同級生に、市河三喜や黒田鵬心がいた。卒業後の1908年(明治41年)日本製鋼所に入社。1911年(明治44年)、会計事務研究のためイギリスの兵器メーカーヴィッカースに出向。帰国後は経理会計部門に配属後、室蘭工場次長や事務部長などを経て、1945年(昭和20年)に同社社長に就任した。
鈴木 康四郎(すずき こうしろう、1886年(明治19年)2… 鈴木 康四郎(すずき こうしろう、1886年(明治19年)2月15日 - 1960年(昭和35年)3月14日)は、日本の官僚、政治家。第8代和歌山市長。 1886年(明治19年)2月15日、岡崎定治郎の次男として和歌山県西牟婁郡宇津木村(のち白浜町宇津木)で生まれ、後に西牟婁郡万呂村大字下万呂(現:田辺市下万呂)の鈴木まさゑと結婚して改姓。和歌山県立田辺中学校卒業後、1911年(明治44年)4月に西牟婁郡書記となり、1918年(大正7年)には和歌山県属に昇進したが、在任中の手腕が認められて内務属となり中央官界で活躍。 1926年(大正15年)10月、京都市の課長に就任し、累進して中京区長となって5年間務めた後、1938年(昭和13年)に和歌山市助役に迎えられた。
黒岩 義勝(くろいわ よしかつ、1886年(明治19年)2月… 黒岩 義勝(くろいわ よしかつ、1886年(明治19年)2月13日 - 1947年(昭和22年)8月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1886年(明治19年)2月、高知県香美郡山北村(現・香南市)に生まれた。1904年(明治37年)第一中学校卒を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉任官。 歩兵第78連隊(龍山)付などを経て、1932年(昭和7年)12月、歩兵大佐に昇進し福島連隊区司令官に就任。1934年(昭和9年)1月、歩兵第27連隊長(旭川)となり、陸軍士官学校予科生徒隊長を経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第22旅団長に就任、満州に赴任した。
風見 章(かざみ あきら、1886年〈明治19年〉2月12日… 風見 章(かざみ あきら、1886年〈明治19年〉2月12日 - 1961年〈昭和36年〉12月20日)は、日本の政治家。位階は正三位。立憲民政党、国民同盟、日本社会党に所属し、衆議院議員を9期務めた。第1次近衛内閣で内閣書記官長、第2次近衛内閣で司法大臣を歴任。茨城県豊田郡水海道町(現在の常総市)出身。水海道市名誉市民。 茨城県豊田郡水海道町高野の農家に、二男三女の末子として生まれる。1898年、旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)に入学(風見は入学者中最年少であり、周囲は年上ばかりだったという)。その後、家からの距離が遠かったため旧制下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に転入する。
中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月1… 中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は日本のジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。
郡山 智(こおりやま さとし、1886年(明治19年)2月1… 郡山 智(こおりやま さとし、1886年(明治19年)2月10日 – 1955年(昭和30年)12月21日)は、日本の拓務官僚。南満州鉄道理事。 宮城県仙台市出身。宮城県立第一中学校、第二高等学校を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格。朝鮮総督府試補、同事務官、同書記官、同税関長、賞勲局書記官、拓殖局書記官、拓殖事務局書記官、東洋拓殖株式会社監理官、関東庁事務官、内閣拓殖局書記官、拓務省拓務局長を歴任した。 1934年(昭和9年)から1938年(昭和13年)まで南満州鉄道株式会社理事を務め、退任後は海外移住組合聯合会理事長に就任した。その他、南洋協会理事を務めた。
平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年(明治19年… 平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年(明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、女性解放運動家。本名は平塚 明(ひらつか はる)。 大正から昭和にかけ、婦人参政権など、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られるが、結局、その実現は、第二次大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たなければならなかった。 しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌『青鞜』の創刊を祝い、自らが寄せた文章の表題「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である(大昔は女性は自らいきいきと輝いていたが、今は自分の力で輝けない)」は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった[要ページ番号]。
高野 忠衛(たかの ただえ、1886年(明治19年)2月7日… 高野 忠衛(たかの ただえ、1886年(明治19年)2月7日 - 1970年(昭和45年)12月15日)は、大正から昭和時代前期の政治家。長野県長野市長。 長野県上水内郡高岡村(現・飯綱町高岡地区)出身。1905年(明治38年)旧制長野県立長野中学校(長野県長野高等学校の前身)を卒業後、同郡中郷小学校で代用教員を務め、1910年(明治43年)長野県庁に奉職し、1914年(大正3年)高等文官試験に合格する。 下高井郡・上伊那郡各書記を経て、1918年(大正7年)7月に長野県下水内郡長、1922年(大正11年)3月に同県東筑摩郡長、1926年(大正15年)7月に地方事務官社会課長、地方課長を歴任し、1928年(昭和3年)4月に退官。
木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年〈明治19年〉2… 木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年〈明治19年〉2月7日 - 1982年〈昭和57年〉8月8日)は、日本の政治家、検察官、弁護士、剣道家である。 検事総長(第19代)、第一東京弁護士会会長(第16代)、法務大臣(初代)、保安庁長官(初代)、防衛庁長官(初代)、全日本剣道連盟会長(初代)等を歴任した。 太平洋戦争での日本の敗戦直後に政官界へ転じ、幣原喜重郎首相によって検事総長に登用され、続く吉田茂内閣では司法大臣として初入閣。1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法には、首相の吉田、無任所国務大臣の幣原に続き三番目に署名した。 その後、公職追放令により公職追放されるが、追放解除程無くして第3次吉田内閣の改造時に法務府初代総裁として再入閣。
安斎 桜磈子(あんざい おうかいし、1886年(明治19年)… 安斎 桜磈子(あんざい おうかいし、1886年(明治19年)2月7日 - 1953年(昭和28年)12月12日)は、宮城県登米市登米町出身の俳人。本名は千里(ちさと)である。 1886年(明治19年)2月7日に御機師の家柄に生まれ、高等小学校を卒業した後に家業を継いだ。 安斎と同じく宮城県登米町出身の俳人菅原師竹に師事し、17歳頃より俳句を作り始める。 1904年(明治37年)頃に従来の五七五調の形にとらわれない新しい新傾向俳句に惹かれる。その後、俳人、随筆家の河東碧梧桐が選者である新聞『日本』の俳句欄に投句し、新傾向派の俳人として注目された。 菅原と共に新傾向俳句を作り、一時期は新傾向俳句の重鎮として師竹・桜磈子時代と呼ばれ、東北の俳壇で称された。