渡 干城(わたり たてき、1881年〈明治14年〉6月 - … 渡 干城(わたり たてき、1881年〈明治14年〉6月 - 没年不明)は、大正期から昭和初期の銀行家。武州銀行東京支店支配人を務めた。父は元老院議官や貴族院議員を務めた渡正元。 貴族院議員・錦鶏間祗候を務めた渡正元の次男として生まれる。早稲田大学を卒業後、1906年に日本銀行へ入行し、1921年に武州銀行東京支店の支配人となる。 弟の渡正監(上海共同租界警視総監)を養子に迎えた。
安藤 袈裟一(あんどう けさいち、1881年(明治14年)6… 安藤 袈裟一(あんどう けさいち、1881年(明治14年)6月 - 1931年(昭和6年)9月29日)は、朝鮮総督府官僚。従四位勲五等。 佐賀県出身。1912年(明治45年)、京都帝国大学法科大学法律科を卒業し、1915年(大正4年)に高等文官試験に合格した。埼玉県警部、同秩父郡長を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、黄海道警察部長、平安南道警察部長、平安北道警察部長、京畿道警察部長、鉄道局参事、忠清南道内務部長、全羅北道内務部長、京城府尹、咸鏡北道知事を歴任した。 1931年(昭和6年)9月29日、病気のため死去、50歳。死没日をもって正五位から従四位に叙される。
中川 維則(なかがわ これのり、1881年(明治14年)6月… 中川 維則(なかがわ これのり、1881年(明治14年)6月 - 1945年(昭和20年))は、日本の鉱物学者。 神奈川県中郡旭村(現在の平塚市)出身。出縄善太郎の二男として生まれ、中川隣之助の養子となった。1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学採鉱冶金科を卒業し、農商務省東京鉱務署に勤務した。1908年(明治41年)、ドイツに留学。1910年(明治43年)、私立明治専門学校(現在の九州工業大学)教授嘱託となり、1921年(大正10年)に同校が文部省に移管されると教授に就任した。採鉱冶金科長を経て、1933年(昭和8年)からは校長を務めた。1941年(昭和16年)、退官。 その他、九州帝国大学講師、戸畑商工会議所顧問、海外鉱業協会仏印研究所長を務めた。
橋本 精次(はしもと せいじ、1881年6月-1944年5月… 橋本 精次(はしもと せいじ、1881年6月-1944年5月7日)は、日本の漢文学者。旧制第七高等学校教授。 1981年6月、東京府生まれ。士族・橋本自聽(よりさと)の二男。父自聽は鹿児島県の谷山小学校校長に招聘された人物。中学造士館を経て、1904年7月に第七高等学校造士館第一部文科を卒業(第1回卒業生)。第七高等学校での同級生に東郷茂徳外務大臣や池田俊彦第二鹿児島中学(旧制)校長らがいる。1909年、東京帝国大学文科大学支那文学科卒業。長崎県立島原中学校 (旧制)、福岡県立東筑中学校 (旧制)、福井県立大野中学校 (旧制)各教諭を務めた後、1922年から第七高等学校造士館の漢文学教授。卒業生から初の母校教授となる。
岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月… 岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月29日 - 1946年(昭和21年)10月9日)は、日本の華族。貴族院男爵議員。 1881年岩倉具視の四男として生まれる。1896年分家して、同年12月3日、父の勲功により男爵を叙爵。学習院を経て、東京帝国大学文科大学修了。1909年欧米視察。1911年7月10日、貴族院議員となる。福徳生命保険、大成漁業各取締役、十五銀行監査役。1932年以降米穀対策調査会、石油業委員会、液体燃料委員会、帝国石油、台湾拓殖、樺太開発その他各設立委員、川崎造船所、千代田火災保険各取締役を務め、翼賛政治会常任総務を歴任した。 戦後の1946年5月8日に貴族院男爵議員を辞職し、その後公職追放となり、間もなく死去した。
山本 厚三(やまもと こうぞう、1881年(明治14年)5月… 山本 厚三(やまもと こうぞう、1881年(明治14年)5月29日 - 1950年(昭和25年)1月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・平沢。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)で平沢家に生まれる。1903年6月、東京高等商業学校を卒業。外交官を目指したが、同年8月、北海道松前郡福山町の富豪、3代山本久右衛門の養子となる。1906年、一年志願兵として入隊し、陸軍三等主計まで昇進して除隊。その後、養父が小樽区に移りその事業を補佐。小樽区会議員、小樽市会議員、小樽商工会議所顧問、小樽倉庫社長、小樽商船社長、北日本汽船取締役、北海道製綿取締役、大正製麻取締役、小樽新聞取締役、北海道練乳監査役、定山渓鉄道監査役、松前造林 (資) 社長などを歴任。
佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 19… 佐藤 三郎(さとう さぶろう、1881年5月28日 - 1964年10月5日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県南置賜郡三沢村赤芝(現・米沢市)出身。佐藤丑松の三男として生れる。米沢尋常中学興譲館を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。陸軍戸山学校付などを経て、1912年11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 陸士教官、参謀本部員、支那公使館付武官補佐官、参謀本部員、兼陸大教官、参謀本部付(上海駐在)、参謀本部課長、欧州出張、歩兵第46連隊長、第3師団司令部付(済南駐在)などを歴任し、1929年8月、陸軍少将に進級。
宇賀 四郎(うが しろう、1881年(明治14年)5月25日… 宇賀 四郎(うが しろう、1881年(明治14年)5月25日 - 1946年(昭和21年)7月10日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。大蔵官僚。 千葉県印旛郡、のちの白井村(白井町を経て現白井市)出身。宇賀平兵衛の四男として生まれた。1904年(明治37年)第一高等学校を卒業。1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省専売局で主事、副参事、参事、事業部塩脳課長を歴任した。1924年(大正13年)、台湾総督府専売局長に転じ、1928年(昭和3年)に退官した。1931年(昭和6年)には台北州知事に起用された。その後、台湾電力株式会社理事に就任した。
石田 友治(いしだ ともじ、1881年(明治14年)5月20… 石田 友治(いしだ ともじ、1881年(明治14年)5月20日 - 1942年(昭和17年)5月17日)は、日本の牧師、大正デモクラシーを代表する言論雑誌『第三帝国』の編集者。宗教家としても活躍した。望天と号す。 秋田県南秋田郡土崎港町(現・秋田市)生まれ。秋田中学中退後、聖学院神学校に入り、横手で牧師となったが、1年足らずでやめ、秋田魁新報社の記者となる。1912年(明治45年)に上京して『新公論』の編集にたずさわった。同年12月に第3次桂内閣が成立すると犬養毅や尾崎行雄を中心に第一次護憲運動が起こり、翌1913年(大正2年)1月25日には秋田県の県公園(いまの千秋公園)で秋田市青年会主催の憲政擁護の県民大会が開かれた時、この大会に参加している。
北田 正平(きただ まさひら、1881年(明治14年)5月2… 北田 正平(きただ まさひら、1881年(明治14年)5月20日 - 1939年(昭和14年)2月27日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(千葉県第三区選出、当選1回)。 東京府の弁護士北田正董の三男として生まれる。1906年(明治39年)、京都帝国大学法科大学英法科を卒業し、南満州鉄道株式会社に入社した。長春駅長などを務めた後、山東鉄道に聘せられ、運輸部長をつとめたが、1917年(大正6年)に辞した。 その後、満州で東亜貿易公司主となり、北満及び南満地方貿易業を創めた。また鉱山業に従事した。1927年(昭和2年)に弁護士登録をした。1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に千葉3区から出馬し、当選した。
石川 三郎(いしかわ さぶろう、1881年(明治14年)5月… 石川 三郎(いしかわ さぶろう、1881年(明治14年)5月19日 - 1940年(昭和15年)12月10日)は、明治後期から昭和前期の陸軍軍人、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員(立憲政友会)、佐賀県砥川村長。 佐賀県小城郡砥川村柳鶴(現在の江北町)出身。大地主・石川源蔵の三男として生まれる。砥川小学校、佐賀県立佐賀中学校を卒業。1900年(明治33年)、陸軍士官学校に入学し、1901年(明治34年)11月22日に卒業(13期)し、1902年(明治35年)6日23日に砲兵少尉に任じられた。日露戦争に従軍し、砲兵中尉に昇進。1906年(明治39年)陸軍砲工学校に入学し、1908年(明治41年)に同校高等科を卒業して砲兵大尉に任ぜられた。
南 鼎三(みなみ ていぞう、1881年5月18日 - 194… 南 鼎三(みなみ ていぞう、1881年5月18日 - 1943年9月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 大阪府出身。1907年、関西商工学校(現・関西大倉中学校・高等学校)土木科卒。大阪府土木工手、大阪府、東京市、京都市の各土木技手となる。のちに南工務所を開き、土木請負業に従事する。大阪府会議員、同参事会員、借地借家、金銭債務臨時各調停委員を務める。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において大阪10区(小選挙区制)から立候補して初当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙で落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙大阪6区(当時)から立候補して落選。1937年の第20回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して再選した。
乙骨 三郎(おつこつ さぶろう、1881年(明治14年)5月… 乙骨 三郎(おつこつ さぶろう、1881年(明治14年)5月17日 - 1934年9月19日)は、日本の作詞家・音楽教育者。 1881年、旧幕臣、英学者で沼津兵学校教授の父太郎乙と母つきの間に東京府牛込区牛込横寺町(現・東京都新宿区横寺町)で生まれた。太郎乙には5男5女(うち長男と四男は幼い頃に亡くなっている)がおり、三郎はその三男であった。 開成中学卒業後、1898年、第一高等学校一部文科に入学、ピアノやオルガンに親しんだ。卒業後の1901年には東京帝国大学文科大学哲学科に入学し、カール・フローレンツ、ラファエル・フォン・ケーベルらの薫陶を受ける一方、日本の音楽レベルを向上させるべく、歌劇研究を行う「ワグネル会」を結成。
松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15… 松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15日 - 1969年(昭和44年)2月7日)は、日本の政治家、実業家。徳島県阿波市出身。明治大学法学部卒業。 松島素敬の息子として板野郡土成村土成(現在の阿波市土成町土成)で生まれる。京都の中学校を卒業後、1901年(明治34年)に上京して明治大学法科に入学し、卒業後は同大学の学生部長を務めた。 1906年(明治39年)に共同火災保険会社(現在のあいおいニッセイ同和損害保険の前身)に入社し、1910年(明治43年)には早稲田大学校友会に推薦された。 昌栄貯蓄銀行、日本資金信託、第一倉庫、安全印刷、摂津煉瓦、大阪計器製作所、中央インキ、東海市場、東亜フェルト各株式会社の社長、美馬郡是製糸、カルチウム鉱泉、東亜織布、常盤商工、黒崎電機製作所、市岡電気工業、東京絹綿紡績、大阪造船所(現ダイゾー)各株式会社の取締役、東京リベット製造、日東炭鉱、日本鋼管シャフト、城南土地各株式会社の監査役などに就いた。
城戸 元亮(きど もとすけ、1881年5月12日 - 196… 城戸 元亮(きど もとすけ、1881年5月12日 - 1966年10月28日)は、日本の経営者、ジャーナリスト。熊本県出身。 1906年に京都帝国大学法学部法科を卒業。大阪毎日新聞社に入社し、東京日日新聞社編集主幹などを経て、1933年から1年間大阪毎日新聞社会長を務めた。 1966年10月28日老衰のために死去。85歳没。
川村 清一 (かわむら せいいち、1881年5月11日 - … 川村 清一 (かわむら せいいち、1881年5月11日 - 1946年3月11日)は日本の菌類分類学者。実弟は生物学者の川村多実二と生理学者の福田邦三。義兄は出隆。孫は建築家の川村純一。 岡山県津山市出身。旧制津山中学校卒業。日本における菌類分類学研究の草分けで、東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、帝室林野局を経て千葉高等園芸学校(現・千葉大学)教授に就任。松戸市辺りに分布する菌類相の調査・研究を行った。代表著作に「原色日本菌類図鑑」がある。「牧野日本植物図鑑」中の菌類各種を執筆したことでも知られる。 著作の一部はデジタル化され、国立国会図書館デジタルコレクションなどで公開されている。
塚崎 直義(つかさき なおよし、1881年〈明治14年〉5月… 塚崎 直義(つかさき なおよし、1881年〈明治14年〉5月10日 - 1957年〈昭和32年〉3月26日)は日本の弁護士、また大審院判事、最高裁判所判事。日本弁護士連合会会長。 1881年、大分県に生まれる。1903年旧制山口高等学校を卒業し、1908年(明治41年)4月、法学士として京都帝国大学法科大学を卒業。北浜銀行が設立した日本醤油醸造に秘書として入社し、副支配人に昇進して尼崎支店に勤務した。 日本醤油醸造は品質不正の発覚により株価が暴落するが、時期を同じくして1909年に弁護士となり、1910年2月、中央弁護士会で開業、同年8月には東京弁護士として登録した。日本弁護士協会にも所属した。
高木 君(たかぎ きみ、1881年5月9日-1960年6月2… 高木 君(たかぎ きみ、1881年5月9日-1960年6月24日)は日本の教育者。高木学園(現・英理女子学院高等学校)を創設し初代校長を務めた。 1881年(明治14年)5月9日、横浜区住吉町(現在の横浜市中区)に生まれる。実家は横浜桜木町の染物屋であった。七男六女の長女として幼い弟妹の世話をした。1896年、15歳のときに横浜市本町一丁目の町会所(のちの横浜市開港記念会館)で福沢諭吉の講演を聞いて「独立自尊」の言葉に感銘を受け、裁縫の技術で独立し、世に役立つ女性を育てたいという目標を持った。 父に頼みこんで東京裁縫女学校への入学を果たし、寄宿生活を送りながら本科二年、師範科一年の課程を修了し1904年7月に卒業した。
沢藤 幸治(澤藤 幸治、さわふじ こうじ、1881年(明治1… 沢藤 幸治(澤藤 幸治、さわふじ こうじ、1881年(明治14年)5月6日 - 1960年(昭和35年)6月9日)は、日本の政治家。岩手県和賀郡黒沢尻町(現:北上市)長。岩手県会議員。北上市の観光名所展勝地の生みの親として知られる。 岩手県和賀郡黒沢尻町に生まれる。東京法学院(現・中央大学)修了。修了後は金原明善に植林業を学ぶ。大阪毎日新聞に入り、風見章を知る。政友会院外団鉄心会に入り、中野正剛・緒方竹虎や大陸浪人達と交わる。 一旦帰郷し、1920年(大正9年)和賀展勝会を結成し、北上川沿いに桜の木を植え始める。上京し、出版業を始めるが、関東大震災で帰郷する。1926年(大正15年)に雑誌「共存共栄」を創刊する。
西松 唯一(にしまつ ただいち、1881年<明治14年>5月… 西松 唯一(にしまつ ただいち、1881年<明治14年>5月6日 - 1951年<昭和26年>9月16日)は、明治時代から昭和時代の科学者。火薬学の権威として知られ、「火薬博士」と呼ばれた。位階は従三位、勲等は勲二等旭日重光章。 1881年5月6日、愛媛県下浮穴郡麻生村(原町村を経て現在は砥部町麻生)で西松和十郎とカツ(愛媛県白形熊治の二女)の長男として生まれる。 1892年、麻生小学校を卒業。1900年、松山中学校を卒業。岡山県の第六高等学校を経て、1907年に東京帝国大学工科大学火薬科を卒業する。 卒業後は東京砲兵工廠火薬試験所に入所したが、間もなく東京帝大に移り、1908年から1942年の35年間、東京帝大火薬学教室に在籍した。
橋本 策(はしもと はかる、1881年5月5日 - 1934… 橋本 策(はしもと はかる、1881年5月5日 - 1934年1月9日)は、日本の医師、病理学者。橋本病、Hashimoto's thyroiditisを初めて記載した。 三重県阿拝郡西柘植村(現伊賀市)御代の医家に生まれる。旧制津中学校、旧制第三高等学校をへて、京都帝国大福岡医科大学(現九州大学医学部)1907年第1回卒業生として卒業。第一外科に入局。1911年4月“甲状腺ノリンパ腫様変化ニ関スル組織的並ビニ臨床的知見ニ就キテ”を福岡医科大学第17回集談会にて発表、1年後の1912年にまとめてArchiv für klinische Chirurgieに掲載した。今日では橋本病という疾患名が与えられている。
柏木 清治(かしわぎ せいじ、1881年(明治14年)5月5… 柏木 清治(かしわぎ せいじ、1881年(明治14年)5月5日 - 1950年(昭和25年)5月2日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。教育者。 兵庫県加西郡西在田村(現在の加西市)出身。兵庫県御影師範学校を卒業後、小学校訓導、美嚢郡視学、兵庫県視学を歴任した。その後、加西郡教育会長、西在田村長、兵庫県会議員、同副議長に選出された。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
山本 唯次(やまもと ただじ、1881年(明治14年)5月4… 山本 唯次(やまもと ただじ、1881年(明治14年)5月4日 - 1934年(昭和9年)1月31日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 兵庫県印南郡大塩村(現在の姫路市)出身。1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、一年志願兵として三等主計に任じられた。台湾銀行に入社し、台北支店、上海支店に勤務した。1918年(大正7年)より弁護士を開業した。また東洋拓殖の傍系事業として、日中合弁事業設立に従事した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
金子 大榮(かねこ だいえい、1881年〈明治14年〉5月3… 金子 大榮(かねこ だいえい、1881年〈明治14年〉5月3日 - 1976年〈昭和51年〉10月20日)は、日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。前近代における仏教・浄土真宗の伝統的な教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した。 1881年、新潟県高田の真宗大谷派最賢寺に生まれる。1899年、真宗京都中学(現・大谷高等学校)を卒業。1901年、京都より東京に移転開校した真宗大学(現・大谷大学)予科に入学、初代学長であった清沢満之の影響を受ける。1904年、同卒業。以後、新潟に帰郷し、寺務に従事しつつ処女作『真宗の教義と其の歴史』を執筆。
林 寿夫(はやし としお / ひさお、1881年(明治14年… 林 寿夫(はやし としお / ひさお、1881年(明治14年)5月2日 - 1963年(昭和38年)12月21日)は、実業家、官僚、南洋庁長官、第4代埼玉県川越市長。 岡山県出身。林源一の弟。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格して、愛媛県属となり、同県警視、宮崎県理事官、鹿児島県・山口県・北海道各警察部長、埼玉県書記官・同内務部長、北海道庁内務部長を歴任し、1930年(昭和5年)に退官した。 1931年(昭和6年)、川越市長に就任するが、翌年1月に関東庁警務局長に転じた。 1933年(昭和8年)8月に南洋庁長官に任ぜられ、1936年(昭和11年)9月までその職にあった。
土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年)5月1日 … 土屋 操(つちや みさお、明治14年(1881年)5月1日 - 昭和22年(1947年)4月20日)は、山梨県出身の郷土史家。号は節堂。 山梨県東山梨郡七里村(現・甲州市塩山)に、父「作甫」、母「ただ」の長男として生まれる。土屋昌次の子孫。明治28年(1895年)4月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学し、明治33年に卒業とともに早稲田大学に進学し坪内逍遥に師事。明治37年(1904年)3月に卒業した。 卒業後、山梨県立高等女学校(現・山梨県立甲府西高等学校)に勤務、明治38年12月には一年志願兵として近衛歩兵第2連隊に入隊。除隊後の明治40年5月に甲府市立商業学校(現在の甲府市立甲府商業高等学校)、大正13年5月に山梨県女子師範学校、大正15年10月に山梨県立山梨高等女学校(現在の山梨県立山梨高等学校)に勤務し、昭和15年(1940年)3月の退職後も山梨県立農林学校、山梨県立日川中学校において嘱託講師として勤務するなど、40年にわたり歴史の教員を務めている。
和田 一郎(わだ いちろう、1881年(明治14年)5月1日… 和田 一郎(わだ いちろう、1881年(明治14年)5月1日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 新潟県出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵書記官、税務監督局長、朝鮮総督府事務官、土地調査局総務課長、理財課長、鉄道部長、同参事官、同監察官、財務局長を歴任した。また1923年(大正12年)には法学博士号を受けた。 退官後は朝鮮商業銀行頭取に就任し、1931年(昭和6年)まで在任した。
大和田 正吉(おおわだ しょうきち、1881年〈明治14年〉… 大和田 正吉(おおわだ しょうきち、1881年〈明治14年〉5月 - 没年不明)は、日本の実業家、福井県多額納税者。大和田家3代目。大和田銀行専務取締役。族籍は福井県平民。 福井県敦賀郡敦賀町(現敦賀市)出身。大和田荘七の長男。大阪高等商業学校卒業。大和田銀行に入り専務取締役として業務に専念する。また大和田貯蓄銀行、大和田炭鉱、東洋硫化工業各取締役、敦賀築港倉庫監査役をつとめる。 大和田勇の養弟。大和田金之助の養甥である。 銀行会社の重役で、県下の金融界に重きをなした。 割合に世情に明るく、何かにつけて知見豊富であった。 住所は福井県敦賀市蓬莱、同市松島、敦賀郡松原村。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
上原 太一(うえはら たいち、1881年(明治14年)5月 … 上原 太一(うえはら たいち、1881年(明治14年)5月 - 1917年(大正6年)6月11日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で戦死した「榊」の艦長である。最終階級は海軍中佐。 山口県出身。鴻城義塾を経て1900年(明治33年)海軍兵学校に進み、1903年(明治36年)卒業(31期)。同期に加藤隆義、長谷川清、及川古志郎らがいる。 兵学校卒業後、遠洋航海の前段である内地航海に出発したが、日露戦争の開戦により急遽「八島」乗組みとなり実戦に参加。しかし「八島」は旅順港外において触雷し沈没。上原は「富士」に転乗となる。海軍少尉に任官し、「赤城」を経て、「厳島」乗組みとして日本海海戦に参戦した。
坂東 幸太郎(ばんどう こうたろう、1881年(明治14年)… 坂東 幸太郎(ばんどう こうたろう、1881年(明治14年)4月30日 - 1974年(昭和49年)10月20日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(9期)、旭川市長。旭川市名誉市民。 香川県大内郡相生村(のち大川郡相生村→引田町、現・東かがわ市)出身。10歳の時に両親とともに旭川村(のち旭川町→旭川区、現・旭川市)に移住した。早稲田大学邦語政治科、同大学政治経済科卒。卒業後は旭川商業会議所の設立に力を尽くし、初代書記長となった。旭川区会議員、同市会議員に当選。同副議長、議長を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で北海道第4区から衆議院議員に初当選し、連続9期務めた。
川手 甫雄(かわて すけお、1881年(明治14年)4月30… 川手 甫雄(かわて すけお、1881年(明治14年)4月30日 - 1947年(昭和22年)1月9日 )は、日本の政治家、農業経営者。衆議院議員(立憲政友会)、山梨県 北巨摩郡若神子村長。 山梨県北巨摩郡多麻村(須玉町を経て現在の北杜市)で篠原俾孝の二男として生まれ、1900年(明治33年)に若神子村(現:北杜市)の川手四郎兵衛の婿養子として迎えられた。農業を営んだ。 北巨摩郡会議員、若神子村会議員、若神子村長を務めた後、1919年(大正8年)に山梨県会議員に当選し4期在任し、県参事会員、県会議長に在任した。1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に立憲政友会から立候補して当選し、衆議院議員を1期務め、政友会山梨支部幹事長兼相談役となった。
松井 勝二(まつい かつじ、1881年(明治14年)4月29… 松井 勝二(まつい かつじ、1881年(明治14年)4月29日 - 1964年(昭和39年)2月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 岐阜県本巣郡船木村出身。陸軍士官学校第16期卒業。1905年(明治38年)には工兵第11大隊副官として日露戦争に出征。1909年(明治42年)には陸軍砲工学校高等科を卒業し、1915年(大正4年)から1917年(大正7年)まで東京帝国大学工学部電気科で聴講生として学んだ。1920年(大正9年)8月に陸軍工兵少佐に進級し、東京砲兵工廠廠員兼陸軍省兵器局御用掛の任にあった。1923年(大正12年)9月時点で陸軍造兵廠廠員陸軍技術本部部員陸軍省兵器局御用掛となり、1924年(大正13年)8月、陸軍歩兵中佐に進級し、陸軍技術本部附兼陸軍歩兵学校研究部部員陸軍省兵器局御用掛を発令された。
宮下 友雄(みやした ともお、1881年〈明治14年〉4月2… 宮下 友雄(みやした ともお、1881年〈明治14年〉4月27日 - 1954年〈昭和29年〉3月15日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家である。長野県長野市の人物で、家業の金物商を営みつつ会社経営にも関わり長野信用金庫(旧・長野市庶民信用組合)理事長を長く務めた。また剣道を趣味とし大日本武徳会長野支部教師を務めた経験もある。 宮下友雄は、1881年(明治14年)4月27日、長野県民・宮下太七郎の長男として生まれた。宮下家は長野市内随一の旧家で、善光寺町に移り住んだのは寛保2年(1742年)のことという。家業として天明8年(1788年)より金物商(屋号は「増太」)を営んだ。父の太七郎は長野町会議員に選出(1889年の第1回町会議員選挙にて)されたほか、長野市所在の長野貯蔵銀行や長野電灯で取締役を務めた人物である。
植村 東彦(うえむら はるひこ、1881年(明治14年)4月… 植村 東彦(うえむら はるひこ、1881年(明治14年)4月25日 - 1964年(昭和39年)5月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。植村茂の長男として生れる。1899年(明治32年)7月、学習院中等科を首席で卒業し、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1907年(明治40年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。さらに1908年(明治41年)9月、陸軍派遣学生として東京帝国大学に入学し、1911年(明治44年)7月、同大工科大学応用化学科を卒業し東京砲兵工廠付となった。 1916年(大正5年)5月から翌年1月まで欧米に出張。
武部 欽一(たけべ きんいち、1881年(明治14年)4月2… 武部 欽一(たけべ きんいち、1881年(明治14年)4月25日 - 1955年(昭和30年)8月2日)は、日本の文部官僚。教育者。 金沢市出身。旧制第四高等学校を経て、1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に山口県事務官に任官した。1911年(明治44年)、文部省参事官に転じ、宗教局長、実業学務局長、普通学務局長、資源局参与を歴任した。1929年(昭和4年)、朝鮮総督府学務局長に就任。再び文部省普通学務局長を務めた後、1934年(昭和9年)に広島文理科大学学長・教授に就任するが、数日で辞任を余儀なくされた。 その後、日本青年館理事、帝国教育会専務理事、社会教育協会理事、共立女子学園理事、東京帝国大学講師、慶應義塾大学講師を務めた。
藤巻 太一(ふじまき たいち、1881年(明治14年)4月2… 藤巻 太一(ふじまき たいち、1881年(明治14年)4月23日 - 没年不明)は、日本の実業家。甲子不動産、佐賀炭鉱各元取締役。大阪港湾土地元監査役。朝鮮銀行総裁席外国為替元課長・初代ニューヨーク支店長。元参議院議員の藤巻健史と藤巻幸夫は孫。 新潟県出身。農業・藤巻伊三郎の次男として生まれる。兄が亡くなったため、戸主を継いだ甥・敏太郎から1930年(昭和5年)に分家する。1904年(明治37年)、旧制東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、第一銀行に入行。5年後の1909年(明治42年)、朝鮮銀行に転じ大連支店支配人、東京支店助役、東京総裁席課長を経て大阪支店の支配人に就任。一方で大阪港湾土地監査役に挙げらる。
西園寺 八郎(さいおんじ はちろう、1881年〈明治14年〉… 西園寺 八郎(さいおんじ はちろう、1881年〈明治14年〉4月22日 - 1946年〈昭和21年〉7月1日)は、日本の宮内官僚、政治家。位階・勲等・爵位は従二位勲一等公爵。 旧長州藩主・公爵毛利元徳の八男として誕生する。1899年(明治32年)7月、学習院中等科を卒業。同年、伊藤博文、井上馨らの仲介により、公爵西園寺公望の養子となった。西園寺家と毛利家には、西園寺実輔の生母が長州藩主・毛利秀就の娘であったり、西園寺賞季の娘が長府藩主・毛利匡芳に嫁いだなどの関係があった。その後、ドイツのボン大学に留学した。ドイツではヨハネス・ユストゥス・ライン家に寄宿した。1906年(明治39年)公望の長女・新子と結婚した。
遠藤 嘉右衛門(えんどう かうえもん、1881年〈明治14年… 遠藤 嘉右衛門(えんどう かうえもん、1881年〈明治14年〉4月22日 - 1945年〈昭和20年〉9月4日)は、日本の地主、政治家。衆議院議員(1期)。幼名・要三郎。 島根県神門郡今市町(現出雲市)で先代遠藤嘉右衛門の二男として生まれ、1914年(大正3年)家督を相続し嘉右衛門を襲名した。 1901年(明治34年)東京専門学校政治経済科を卒業。今市町長、簸川郡町村会長、今市商工会顧問、今市町農会長、簸川郡青年団長、同自治協会長、同衛生会頭、雲陽実業銀行頭取、出雲製織(株)取締役となる。 1916年(大正5年)の島根県郡部の第12回衆議院議員総選挙補欠選挙で立憲同志会から立候補して当選する。衆議院議員は1期務めた。
中村 新太郎(なかむら しんたろう 1881年4月21日 -… 中村 新太郎(なかむら しんたろう 1881年4月21日 - 1941年12月8日)は、日本の地質学者。
島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治… 島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治14年)4月20日 - 1926年(大正15年)11月10日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・相良、旧名・基直。 旧人吉藩主・相良頼基の六男として生まれる。1896年(明治29年)加治木島津家当主・島津健(とし、前当主・故島津久宝夫人、島津久徴六女)の養子となり、同年8月14日に家督を継承。1897年(明治30年)10月27日、久宝の戊辰戦争の功により特旨をもって男爵を叙爵した。 錦城中学校を経て、1906年(明治39年)早稲田大学政治経済科を卒業。1909年(明治42年)イギリスに留学し、政治学・法律学を学び、1910年(明治43年)10月に帰国した。
畠山 一清(はたけやま いっせい、1881年(明治14年)4… 畠山 一清(はたけやま いっせい、1881年(明治14年)4月20日 - 1971年(昭和46年)11月17日)は、日本の実業家・機械工学者。株式会社荏原製作所の創立者。石川県金沢市出身。機械工学者・井口在屋の「渦巻ポンプに関する理論」をもとに「うずまきポンプ」を発明した。 1881年(明治14年)、金沢で能登の守護大名・能登畠山氏の血筋を引く家系に生まれる。東京帝国大学機械工学科を卒業後、1912年に恩師の井口在屋と共同でゐのくち式機械事務所を創業した。1920年(大正9年)にはポンプ販売の事業を発展させて荏原製作所を設立した。 畠山の発明は渦巻ポンプにとどまらず、発電用車、送風機、水中モーターポンプなど数十種の製品に及ぶ。
朝比奈 泰彦(あさひな やすひこ、1881年〈明治14年〉4… 朝比奈 泰彦(あさひな やすひこ、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、日本の薬学者、薬化学者。東京大学名誉教授。薬学博士。帝国学士院会員、文化勲章受章者。 東京市本所区(現・東京都墨田区)生まれ。東京府士族・朝比奈和四郎の長男。旧制府立一中、旧制第一高校を経て、東京帝国大学医科大学薬学科卒業。大学院に入り助手となる。 1909年、ヨーロッパに渡り、リヒャルト・ヴィルシュテッター、エミール・フィッシャーに師事する。1910年、薬学博士の学位取得。1912年、東京帝国大学助教授、1918年、教授。 1923年、「漢薬成分の化学的研究」で帝国学士院恩賜賞、1943年、文化勲章受章。
永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1881年〈明治14年〉… 永井 柳太郎(ながい りゅうたろう、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1944年〈昭和19年〉12月4日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の政党政治家。憲政会・立憲民政党所属。大日本育英会(現:日本学生支援機構)創立者。族籍は東京府士族(旧加賀藩士)。 石川県金沢の貧しい小学教員の家庭に生まれる。石川県士族・永井登の長男。 新堅町尋常小学校、長町高等小学校を経て旧制石川県尋常中学(現:石川県立金沢泉丘高等学校)に入学するも喧嘩が原因で中退し、1897年(明治30年)に同志社尋常中学校3学年に編入するもストライキを起こして中退。関西学院普通学部を経て1905年(明治38年)に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業する。
沢田 豊丈(さわだ とよたけ、1881年(明治14年)4月1… 沢田 豊丈(さわだ とよたけ、1881年(明治14年)4月16日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 岡山県久米郡里方村(現:久米南町)に国塩与三郎の二男として生まれ、岡山県会議員の沢田正泰の養子となった。妻は正泰の四女。赤坂高等尋常小学校、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第三高等学校を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。山形県事務官、朝鮮総督府書記官、同道事務官、監察官、慶尚南道知事、慶尚北道知事を歴任した。 退官後は、東洋拓殖株式会社理事、朝鮮電気興業株式会社取締役、朝鮮電力株式会社監査役などを務めた。
後藤 朝太郎(ごとう あさたろう、1881年〈明治14年〉4… 後藤 朝太郎(ごとう あさたろう、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1945年〈昭和20年〉8月9日)は、日本の明治時代後期から昭和時代前期の言語学者。東京帝国大学講師。日本大学教授。号は「石農」。「支那通」として知られた。 愛媛県に生まれた。広島県人・後藤榮太郎の二男。1903年(明治36年)、第五高等学校大学予科第一部(文科)を卒業。1907年(明治40年)、東京帝国大学文科大学言語学科を卒業。同年の卒業生には言語学者の金田一京助がいた。 著述業を営み、文部省、台湾総督府、朝鮮総督府嘱託。東京帝国大学、東京高等造園学校各講師、日本大学教授、日本庭園協会、東京家庭学院各理事、日本文明協会、東洋協会各評議員などをつとめた。
桜井 三郎右衛門(さくらい さぶろうえもん、1881年〈明治… 桜井 三郎右衛門(さくらい さぶろうえもん、1881年〈明治14年〉4月15日 - 没年不明)は、日本の実業家、島根県多額納税者、島根県の大地主。族籍は島根県平民。 島根県・桜井三郎右衛門の長男。1908年、家督を相続し、旧名・直養を改め襲名する。農業を営む。八雲銀行、出雲館製糸所各取締役、松江銀行監査役をつとめる。 住所は島根県仁多郡阿井村(現・奥出雲町)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
小山 令之(おやま よしゆき、1881年(明治14年)4月1… 小山 令之(おやま よしゆき、1881年(明治14年)4月14日 - 1938年(昭和13年)10月25日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 熊本県飽田郡奥古閑村(天明村、天明町を経て現熊本市南区)出身。熊本中学校、第五高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。卒業後は熊本中学の教諭兼舎監となったが、辞して熊本市で弁護士を開業した。 熊本県会議員を2期務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 その後、満州に渡り、弁護士業のかたわら熊本海外協会満洲本部長に就任した。奉天市で客死。
林 連(はやし れん、1881年(明治14年)4月14日 -… 林 連(はやし れん、1881年(明治14年)4月14日 - 1950年(昭和25年)3月26日)は、衆議院議員(日本進歩党→民主党)、内務政務次官。弁護士。 福岡県上座郡朝倉村(現在の朝倉市)出身。1910年(明治43年)、明治大学法科を卒業し、弁護士試験に合格した。弁護士業務のかたわら、南千住町会議員、南千住町長、東京府会議員、同郡部会副議長、同参事会員、東京市会議員、同副議長、東京都議会議員、同副議長を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に東京都第1区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙でも東京都第6区から出馬して再選された。
久保田 敬一(くぼた けいいち、1881年(明治14年)4月… 久保田 敬一(くぼた けいいち、1881年(明治14年)4月13日 - 1976年(昭和51年)1月27日)は、日本の鉄道官僚。工学博士。貴族院男爵議員。 男爵・文部大臣久保田譲の長男として生まれ、1936年(昭和11年)に襲爵した。1905年(明治38年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。アメリカ合衆国に留学し、鉄道・橋梁建築を学んだ。帰国後、鉄道院雇、同技師、東京建設事務所長、鉄道省建設局線路調査課長、同工事課長、名古屋鉄道局長、東京鉄道局長、鉄道省運輸局長、鉄道次官などを歴任した。運輸局長の時には外国産のバスに押されていたところ、国産バスの開発推進を菅健次郎に指示した。 1934年(昭和9年)に退官した後は、鉄道協会理事、大日本体育協会専務理事、東京オリンピック組織委員会事務局長などを務めた。
高橋 弥左衛門(たかはし やざえもん、1881年〈明治14年… 高橋 弥左衛門(たかはし やざえもん、1881年〈明治14年〉4月12日 - 没年不明)は、日本の実業家、青森県多額納税者、地主。金木商事代表取締役。金木銀行取締役。族籍は青森県平民。 青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市)出身。高橋彌左衛門の養孫。高橋清吉の二男。1904年、家督を相続し、前名・徳三郎を改める。農業を営み、傍ら銀行会社の重役を兼ねる。 住所は青森県北津軽郡金木町。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。