遠藤 光徳(えんどう みつのり、1881年〈明治14年〉2月… 遠藤 光徳(えんどう みつのり、1881年〈明治14年〉2月4日 - 1973年〈昭和48年〉4月24日)は、日本の実業家、政治家。鳥取県米子市名誉市民。 鳥取県西伯郡外江村(現在の境港市外江町)出身。遠藤久壽の長男。1895年、弓ケ浜高等小学校を卒業。 少年時代に米子の坂口平兵衛本店に入店、店員となる。3年はただ働きだった。忠実に奉公しているうちに坂口平兵衛に認められ、同家の大番頭に挙げられる。1924年、坂口合名会社の支配人となる。 1921年、米子町会議員に当選後、米子市議会議員・鳥取県議会議員などの公職をつとめ、米子市議会議長に15年8ケ月にわたり在職する。 鋳物諸工具製造業を営む。幾多の事業に関係し、米子製鋼所、大谷オフセット印刷各社長、米子電車軌道、皆生温泉土地各取締役、山陰農具監査役などをつとめる。
神保 重吉(じんぼ じゅうきち、1881年(明治14年)2月… 神保 重吉(じんぼ じゅうきち、1881年(明治14年)2月3日 - 1957年(昭和32年)12月31日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 石川県珠洲郡正院村字川尻(現在の珠洲市)に、樋谷内助右衛門の三男に生まれ、神保康治の養子となった。1902年(明治35年)に石川県師範学校を卒業し、1915年(大正5年)に日本大学法律科を卒業した。1920年(大正9年)に判事検事登用試験に合格し、司法官試補に任ぜられるまでの10数年の間、小学校訓導・校長、金沢市書記などを務めた。1922年(大正11年)、官を辞して金沢市で弁護士事務所を開業。その後石川県会議員、同参事会員、金沢市会議員を歴任した。
香坂 昌康(こうさか まさやす 1881年2月2日 - 19… 香坂 昌康(こうさか まさやす 1881年2月2日 - 1967年12月21日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 東京生まれ。本籍・山形県。東京府立一中、錦城中学、一高を経て、1908年(明治41年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科仏法科卒業。同年同月、千葉県属、同年11月、文官高等試験合格、42年8月、内務省入省。愛媛県理事官・視学官、岡山県警察部長、熊本県警察部長、秋田県内務部長、埼玉県内務部長などを経て、1923年(大正12年)に福島県知事となる。 以後、愛媛県・岡山県・愛知県各知事を歴任。1932年(昭和7年)2月5日、依願免本官となり退官。同年5月、東京府知事に復帰。1935年(昭和10年)に依願退職。
片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 194… 片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 1948年5月6日)は日本の実業家。野村證券初代社長や会長を務めた。 岡山県岡山市出身。大阪商業学校(後の大阪市立大学、現・大阪公立大学)を経て、1906年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 日本興業銀行貸付課長を務めていた際に、切れ者との評判をきいた野村徳七にスカウトされ、新設された大阪野村銀行の実権を担う取締役兼支配人に37歳で就任。 1920年大阪野村銀行に証券部が新設され、片岡は証券部部長に就任。1922年に、アメリカ合衆国に証券業界視察のため派遣され、1923年に帰国。 1925年に設立された野村證券の初代社長に就任。1926年に公社債専門業者として営業を開始、1927年にニューヨーク出張所を開設。
加計 正文(かけ まさふみ、1881年〈明治14年〉2月2日… 加計 正文(かけ まさふみ、1881年〈明治14年〉2月2日 - 1969年〈昭和44年〉)は、日本の政治家、実業家、地主、広島県多額納税者。広島県山県郡加計町長。加計銀行頭取。加計隅屋22代当主。 広島県山県郡加計町(現安芸太田町)出身。加計八右衛門の長男。1898年、あるいは1906年、第六高等学校一部甲類を卒業。東京帝国大学文科に修学。夏目漱石の講義を熱心に聴講していたが、1905年時点で家業を継ぐため帝大を中退している。1917年、正式に家督を相続した。 加計銀行頭取、加計町長2期、郡教育会長、1913年以来広島地方森林会議員、県山林会理事、県産業調査会委員等に選ばれ、加計銀行が芸備銀行と合併後芸備銀行加計支店長、山林会副会頭。
田中 千代松(たなか ちよまつ、1881年(明治14年)2月… 田中 千代松(たなか ちよまつ、1881年(明治14年)2月2日 - 1929年(昭和4年)12月2日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 埼玉県北足立郡北谷村(安行村大字北谷、川口市、草加町を経て現草加市)で田中平十郎の六男として生まれる。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となった。1913年(大正2年)、判事となって、青森地方裁判所と大阪地方裁判所で勤務した。しかし兄の衆議院議員田中左司馬の死により退官し、郷里で弁護士事務所を開業するかたわら、兄の政治活動を引き継いだ。 埼玉県会議員を経て、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
堀口 満貞(ほりぐち みつさだ、1881年〈明治14年〉2月… 堀口 満貞(ほりぐち みつさだ、1881年〈明治14年〉2月2日 - 1939年〈昭和14年〉8月)は、日本の内務官僚、南洋庁長官。長野県出身。 1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格。和歌山県警視、徳島県事務官、同理事官、沖縄県警察部長、海軍事務官、臨時南洋群島防備隊民政署長、南洋庁書記官、同長官官房庶務課長を歴任。 1931年10月、南洋庁長官に任命され、翌月に退官した。
近江冨士 初太郎(おうみふじ はつたろう、1881年2月2日… 近江冨士 初太郎(おうみふじ はつたろう、1881年2月2日 - 1940年10月30日)は、現在の滋賀県彦根市出身で枝川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は徳田 初次郎(とくだ はつじろう)。身長173cm、体重90kg。最高位は西小結。得意技は右四つ、下手投げ。 初め大阪相撲の枝川部屋に入り、のちに上京し出羽ノ海部屋に入門し、1903年1月場所に三段目格で土俵に上がる。1907年に横綱・常陸山谷右エ門の外遊に同行するなど常陸山の信頼を得た。翌1908年1月場所は新十両だったが、全休し1場所で幕下に落ちた。1910年6月場所に入幕し、1912年1月場所には7勝1分で優勝旗手になり、1913年5月に横綱梅ヶ谷に勝ち、翌1914年1月場所には小結に昇進した。
酒井 幾造(さかい いくぞう、1881年(明治14年)2月2… 酒井 幾造(さかい いくぞう、1881年(明治14年)2月2日 - 1944年(昭和19年)8月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 岡山県久米郡西川村(現:久米郡美咲町)出身。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。 1926年(大正15年)3月に新発田連隊区司令官、同年7月に陸軍歩兵大佐を経て、1927年(昭和2年)7月に第7師団司令部附・北海道帝国大学配属将校となる。 ついで、1929年(昭和4年)8月に歩兵第12連隊長を経て、1931年(昭和6年)8月1日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月29日に予備役に編入した。
小嶋 時久(こじま ときひさ、1881年2月1日 - 196… 小嶋 時久(こじま ときひさ、1881年2月1日 - 1962年4月13日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。
田崎 武男(たざき たけお、1881年2月1日 - 1963… 田崎 武男(たざき たけお、1881年2月1日 - 1963年9月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1909年、東京帝国大学政治科卒。東京府農工銀行常務取締役、立山電力(株)取締役、渡辺商事理事となる。のちにアルゼンチンブエノスアイレスで園芸場を経営した。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において長崎1区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙では次点で落選した。1963年死去。
中上 友三郎(なかがみ ともさぶろう、1881年2月 - 没… 中上 友三郎(なかがみ ともさぶろう、1881年2月 - 没年不詳)は、日本、台湾の裁判官。 中上代八郎の三男として福岡県に生まれる。1900年福岡県中学修猷館を経て、1907年7月京都帝国大学法科大学を卒業。 1909年判事に任じ、長崎地方裁判所判事を経て、台湾総督府法院に転じ、台北地方法院、覆審法院、高等法院の判官を務める。長崎控訴院小倉区判事、同宮崎区監督判事、那覇地方裁判所部長判事、川内区裁判所判事を経て、1931年熊本区監督判事、長崎控訴院部長判事を歴任後、1934年2月退官し、福岡地方裁判所所属の公証人となる。 1940年11月、西南学院高等学部(現・西南学院大学)講師となる。
森 啓蔵(もり けいぞう、1881年〈明治14年〉2月 - … 森 啓蔵(もり けいぞう、1881年〈明治14年〉2月 - 没年不明)は、日本の実業家。 鳥取県西伯郡夜見村(現・米子市夜見町)出身。森磯吉の二男。1905年、東亜同文書院政治科(第2期生)を卒業。陸軍通訳官、満鉄奉天駅貨物主任、山東鉄道事務官等を歴職、1922年(大正11年)に辞す。 銀行会社の重役である。洞海汽船、昭和商事各社長、洞海汽船専務、山陰銀行代表取締役・同専務、山九運輸取締役、日本産業貯蓄銀行、山陰製糸所各監査役などをつとめる。 日本産業貯蓄銀行専務の門脇孝一、その妹婿で同行監査役の森啓蔵らにかかる産貯行金横領、背任事件で、1933年(昭和8年)9月に森啓蔵は検事の取り調べを受け勾引状を発せられ、刑務所へ収容された。
竹垣 純信(たけがき すみのぶ/じゅんしん、1881年(明治… 竹垣 純信(たけがき すみのぶ/じゅんしん、1881年(明治14年)2月 - 1917年(大正6年)6月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関中佐。第一次世界大戦で地中海に派遣された第二特務艦隊の第11駆逐隊機関長として戦死した。 新潟県出身。父・竹垣純一は越後長岡藩士で、戊辰戦争で武名があった。長岡中学在学中、父が事業に失敗し竹垣家は経済的苦境に陥る。竹垣は苦学団を頼ることとなり徒歩で東京へ向かった。逓信省雇いとなって自ら学資を稼ぎ、成城学校から海軍機関学校へ進む。1904年(明治37年)卒業(12期)。 海軍少機関士(少尉相当官)に任官し、「吾妻」乗組みとして日露戦争に参戦。第3艇隊附、「須磨」・「厳島」乗組み、「橋立」・「香取」・「吾妻」の各分隊長を務めたほか、海軍水雷学校を修了している。
小杉 重治(こすぎ しげはる、1881年(明治14年)2月 … 小杉 重治(こすぎ しげはる、1881年(明治14年)2月 - 没年不明)は、日本の政治家。東京目黒区会議員、資産家。 東京府・小杉半之丞の長男。1929年、家督を相続した。衾第一耕地整理組合の責任者だった。住所は東京目黒区柿ノ木坂。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
黒田 長和(くろだ ながとし、1881年(明治14年)1月3… 黒田 長和(くろだ ながとし、1881年(明治14年)1月30日 - 1944年(昭和19年)3月8日)は、明治から昭和前期の華族、政治家。男爵、貴族院議員。幼名は峯太郎。 福岡藩最後の藩主・黒田長知の四男。母は側室・田代園子。異母兄に侯爵黒田長成がいる。 1896年(明治29年)断絶した黒田直方家の再興という形で分家し、1896年(明治29年)12月3日、男爵を叙爵し、同月、長和と改名した。1904年(明治37年)7月、学習院高等科を卒業し、東京帝国大学法科大学に入学した。1906年(明治39年)イギリス、ケンブリッジ大学に留学した。 1899年(明治32年)東宮職出仕。宗秩寮審議官、衆議院議員選挙革正審議会委員、内閣制度審議会委員、議会制度審議会委員、議院制度調査会委員、貴族院制度調査会委員などを務めた。
岩崎 俊弥(いわさき としや、明治14年(1881年)1月2… 岩崎 俊弥(いわさき としや、明治14年(1881年)1月28日 - 昭和5年(1930年)10月16日)は日本の実業家で、旭硝子の創業者。
松浦 一(まつうら はじめ、1881年1月25日 - 196… 松浦 一(まつうら はじめ、1881年1月25日 - 1966年8月13日)は、日本の英文学者。中央大学名誉教授。 東京生まれ。1905年東京帝国大学英文科卒。在学中は、小泉八雲・夏目漱石に学び、卒業後、同大学の講師を経て、1944年高千穂経済専門学校(現高千穂大学)教員、1951年中央大学文学部教授、64年定年退職、大正大学教授、駒澤大学教授を務めた。講師として東大文学部で行った講義は、仏教信仰を基礎とした文学論で知られ、芥川龍之介などがこれを聴講した。養子に松浦孝作(旧姓・小面、教育社会学、東京学芸大学名誉教授、1910-2001)がいる。孝作の長女も教育学者の山崖俊子(1944- )津田塾大学名誉教授。
吉松 憲郎(よしまつ のりお、1881年(明治14年)1月2… 吉松 憲郎(よしまつ のりお、1881年(明治14年)1月25日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 高知県出身。第一高等学校を経て、1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、1907年(明治40年)統監府財政監査庁に入り、書記官となった。その後朝鮮総督府道事務官となり、平安北道第二部長、慶尚北道第一部長、仁川府尹を歴任し、1921年(大正10年)から京城府尹を務めた。
香椎 浩平(かしい こうへい、1881年(明治14年)1月2… 香椎 浩平(かしい こうへい、1881年(明治14年)1月25日 - 1954年(昭和29年)12月3日)は、日本陸軍の軍人。陸士12期、陸大21期。最終階級は陸軍中将。栄典は正四位勲一等功四級。陸軍中将・香椎秀一の弟。皇道派。 福岡県嘉穂郡大隈町(現:嘉麻市)出身。士族・香椎昌の次男として生まれる。市ヶ谷の陸軍幼年学校を経て1900年11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。同期に杉山元、畑俊六、小磯国昭、二宮治重、柳川平助らがいる。 1904年、日露戦争に中隊長として参加し負傷する。帰国後陸軍大尉に昇進。1909年、陸軍大学校(21期)を卒業。寺内寿一、植田謙吉、中村孝太郎、西義一、古荘幹郎、建川美次、多門二郎らが同期。
副島 綱雄(そえじま つなお、1881年〈明治14年〉1月2… 副島 綱雄(そえじま つなお、1881年〈明治14年〉1月24日 - 1941年〈昭和16年〉11月27日)は、日本の実業家。元大阪三品取引所常務理事。佐賀県多久市出身。 上皇后美智子の祖父で、今上天皇の曽祖父にあたる。 1881年(明治14年)1月24日、佐賀県士族の副島哲吾の次男として同県多久市で生まれる。1896年(明治29年)に副島富五郎の養子となる。1902年(明治35年)大阪高等商業学校(現在の大阪市立大学)を卒業。 その後、1917年(大正6年)から1923年(大正12年)まで江商(現在の兼松)上海支店長を務める。また日本が上海に作った国策企業である中支那復興の常務理事も務めた。その他にも天満織物監査役や1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)までは大阪三品取引所常務理事を歴任。
石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 -… 石割 松太郎(いしわり まつたろう、1881年1月24日 - 1936年6月29日)は、演劇および演芸研究家・評論家。ジャーナリスト。 大阪府堺出身(生家跡は堺市立青少年センターになっており、碑が建立されている)。 1905年早稲田大学文学部卒業。国書刊行会、日本新聞、都新聞、帝国新聞、大阪新報各社を経て1917年大阪毎日新聞社に入り、劇評を担当した。 1922年、『サンデー毎日』の発刊に参加したが、白井喬二の『新撰組』を同紙に掲載する際、初めて「大衆文芸」と銘打った人物とされる。 1929年大毎を退社、1932年に早大講師となり、浄瑠璃・江戸文芸を教えた。 主として人形浄瑠璃の歴史について著作がある。
篠崎 清次(しのざき せいじ、1881年〈明治14年〉1月2… 篠崎 清次(しのざき せいじ、1881年〈明治14年〉1月24日 - 1917年〈大正6年〉6月20日)は、日本の盲教育者、聾唖教育者。北海道で最初に聾唖教育を行なった人物であり、北海道の聾唖教育の父といわれる。東京市本所区松坂町(後の東京都墨田区両国)出身。 幼少時の眼病により、ほぼ失明に近いほどの極度の弱視となった。愛知県西加茂郡挙母の外四ヶ村立小学校高等科を卒業後、眼病のために仕事が長続きせず、姉の嫁ぎ先を頼って北海道函館区(後の函館市)へ渡るなどして職を転々としていたところ、視覚障害児のための教育団体である函館訓盲会(後の北海道函館聾学校)の存在を知った。1897年(明治30年)より勉学に励み、翌1898年(明治31年)に同会の教員となり、盲教育の道に入った。
片山 秀太郎(かたやま ひでたろう、1881年(明治14年)… 片山 秀太郎(かたやま ひでたろう、1881年(明治14年)1月21日 – 1959年(昭和34年)12月9日)は、明治末から昭和前期の台湾総督府官僚、弁護士、政治家。衆議院議員(立憲政友会)。 福岡県企救郡曽根村(現:北九州市小倉南区)で片山勝太郎の長男として生まれた。1899年(明治32年)豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)を首席で卒業。1905年(明治38年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。文官高等試験に合格し、台湾総督府税務官、専売局事務官、参事官、総督官房調査課長、内務局学務課長、台湾総督府高等商業学校長を歴任した。その後、弁護士を開業した。 1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙(福岡県第4区、立憲政友会公認)に出馬し、当選を果たした。
平山 慎英(ひらやま のりひで、1881年1月20日 - 1… 平山 慎英(ひらやま のりひで、1881年1月20日 - 1950年12月10日)は、日本の裁判官。 広渡寺住職、飯能学校教員を務めた平山鳳琳の長男。母は飯能焼の絵付師腰塚小四郎の娘。埼玉県入間郡飯能町(現・飯能市)出身。飯能小学校高等科、麻布中学校、第一高等学校、東京帝国大学法科を経て、裁判官になった。 浦和地方裁判所判事、那覇地方裁判所長、横浜地方裁判所長、鳥取地方裁判所長、松江地方裁判所長などを勤めた。高等官一等正四位勲三等。69歳で死去した。
森近 運平(もりちか うんぺい、1881年〈明治14年〉1月… 森近 運平(もりちか うんぺい、1881年〈明治14年〉1月20日 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義活動家。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。 岡山県後月郡高屋村(現:岡山県井原市高屋町)出身で、岡山県立農事講習所を卒業後に岡山県職員に採用される。ある日行われた会議の場で戦時国債の不買を呼びかける演説を行ったとして免官となり、1906年(明治39年)2月に日本社会党の結成に参加する。翌年にはジャーナリストの宮武外骨の支援によって「大阪平民新聞」を創刊して社会主義運動に加わるが、1909年(明治42年)に幸徳秋水ら同志と倫理観で意見が対立し、岡山に帰郷した。
稲岡 孝治郎(いなおか こうじろう、1881年〈明治14年〉… 稲岡 孝治郎(いなおか こうじろう、1881年〈明治14年〉1月16日 - 没年不明)は、日本の実業家。稲岡商店合名会社代表社員、イカリ印タオル製造業。族籍は兵庫県平民。 兵庫県印南郡西志方村(現・加古川市)・稲岡九平の二男。早くからタオル製造業に着眼し、斯業の要諦を具に研鑽する。1906年、組織を資本金30万円の合名会社に変更する。後に分家する。 西志方村本工場及び宝殿、天神、池尻、田原の四分工場を有し、大阪、岡山、別府の三ヶ所に出張所を設け、月産優に15万ダースを超え、タオル製造にては本邦首位を占め、その製品のイカリ印タオルは全国業界に最優秀品として喧伝される。 趣味はスポーツ、読書。宗教は真宗本願寺派。
小川 恒三郎(おがわ つねさぶろう、1881年(明治14年)… 小川 恒三郎(おがわ つねさぶろう、1881年(明治14年)1月16日 - 1929年(昭和4年)8月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 新潟県中頸城郡、のちの原通村中島(現妙高市)で、小川又三郎、さい夫妻の息子として生まれる。陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。1904年(明治37年)4月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業した。 1911年12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、近衛師団参謀、イタリア駐在を務め、1916年(大正5年)5月、歩兵少佐に昇進した。
石原 純(いしわら あつし(じゅん)、1881年1月15日 … 石原 純(いしわら あつし(じゅん)、1881年1月15日 - 1947年1月19日)は、日本の理論物理学者・科学啓蒙家・歌人。弟は石原謙。歌人としての名義は石原 阿都志(あつし)。歌人の原阿佐緒との不倫が報じられ、東北帝国大学を辞職したことでも知られる。 東京府出身。日本基督教会本郷教会牧師石原量と、ちせの長男として生まれる。キリスト教学者・石原謙は弟。郁文館中学、一高を経て、1906年7月 東京帝国大学理科大学を卒業し、同学大学院で長岡半太郎に学ぶ。1908年4月に陸軍砲工学校教授、1911年5月に東北帝国大学助教授となる。1912年3月から1914年5月にかけてヨーロッパに留学し、アルノルト・ゾンマーフェルト、マックス・プランク、アルベルト・アインシュタインらのもとで学ぶ。
川越 茂(かわごえ しげる、1881年〈明治14年〉1月14… 川越 茂(かわごえ しげる、1881年〈明治14年〉1月14日 - 1969年〈昭和44年〉12月10日)は、日本の外交官。 宮崎県北那珂郡赤江村(現宮崎市)で、衆議院議員を務めた川越進の長男として生まれる。宮崎県立宮崎中学校、第七高等学校、東京帝国大学法学部を卒業後外務省に入省。亜細亜局第3課長、吉林総領事を経て、青島総領事(1929年)、満洲国参事官(1932年)、広東総領事(1933年)、天津総領事(1934年)を歴任。 1936年(昭和11年)5月、駐華大使に就任。同年9月から12月まで国民政府との国交調整のため、南京総領事須磨弥吉郎と共に国民政府の外交部長張群、政務次長徐謨、亜州司長高宗武らと交渉を重ねたが、日本陸軍諜報機関の妨害工作により決裂した。
神社 柳吉(かんじゃ りゅうきち、1881年(明治14年)1… 神社 柳吉(かんじゃ りゅうきち、1881年(明治14年)1月6日 - 1966年(昭和41年)3月24日)は事業家。倉敷紡績(クラボウ)の代表取締役を務めた。岡山県総社市出身。 岡山県都窪郡清音村(現在の総社市)に神社與平の二男として生まれる。珍しい名字でもある神社(読み:かんじゃ)姓は総社市清音上中島や古地に多い。1895年(明治28年)閑谷黌へ入学し、ここで同級生の大原孫三郎と知り合う。これが後に倉敷紡績へ転職するきっかけとなった。 その後、1898年に旧制岡山県立高梁中学(現在の岡山県立高梁高等学校)へ進学した。同校には、清水比庵が同級生として在籍しており、親交があった。その後、第六高等学校へ入学、1905年(明治38年)7月、同高校を卒業し、京都帝国大学法律学科へ入学した。
山県 治郎(やまがた じろう、1881年1月6日 - 193… 山県 治郎(やまがた じろう、1881年1月6日 - 1936年1月9日)は、日本の内務官僚。県知事。 山口県出身。庄屋・山県政吉の長男として生まれる。山口高等学校(旧旧山高)を経て、1907年月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等文官試験行政科試験に合格。内務省に入り警保局属となる。石川県事務官・警察部長、神奈川県事務官・警察部長、福岡県警察部長、兵庫県警察部長などを経て、1915年に内務監察官に就任。内務省参事官・大臣官房会計課長兼地理課長を経て、1922年、都市計画局長となる。 1922年10月、石川県知事に就任。広島県知事、兵庫県知事を歴任し休職。1929年7月、神奈川県知事として復帰。
藤岡 直平衛(ふじおか なおべえ、1881年(明治14年)1… 藤岡 直平衛(ふじおか なおべえ、1881年(明治14年)1月2日 - 1965年(昭和40年)4月25日)は、日本の政治家。元徳島市長。徳島県東みよし町出身。号は楽山。 旧三好郡三好町足代(現在の東みよし町)生まれ。後に徳島市福島に移り住む。徳島師範学校卒業。師範学校卒業後、小学校教員・郡視学・県視学・郡長を経て徳島県学務課長・社寺兵事課長・農林課長を歴任。 1927年(昭和2年)、徳島市助役に就任。1933年(昭和8年)に徳島市長に就任、1937年(昭和12年)まで務めた。第二次世界大戦後、一時的に徳島新聞社社長に就任、徳島県選挙管理委員長を歴任した。 1965年(昭和40年)4月25日、85歳で没する。
押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日… 押川 清(おしかわ きよし、1881年〈明治14年〉1月1日 - 1944年〈昭和19年〉3月18日)は、日本のアマチュア野球選手、編集者、起業家。 早稲田大学野球部の三代目主将を務め、日本初のプロ野球チームである「日本運動協会」(芝浦協会)や、「名古屋軍」(中日ドラゴンズの前身)、「後楽園イーグルス」などの創設者としても知られる。 父は牧師で東北学院創設者でもある押川方義、兄は冒険小説家の押川春浪。長男は劇作家の押川昌一。 現在の宮城県仙台市出身(愛媛県松山市出身と書いてある資料もあるが、押川家は1880年から仙台在住である)。 仙台では1887年(明治20年)9月に、米国聖公会の宣教医であったフランク・ハレルが、第二高等中学校(後の旧制二高、現・東北大学)の教師の就任すると、ハレルは野球道具を持ち込み学生たちに野球を教え、仙台に野球が伝えられた。
池邊 龍一(いけべ りゅういち、1881年(明治14年)1月… 池邊 龍一(いけべ りゅういち、1881年(明治14年)1月1日 - 1960年(昭和35年)1月11日)は、日本の外交官。内閣総理大臣秘書官等を経て、東洋拓殖総裁として大日本帝国下における植民地経営にあたった。第二次世界大戦後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により公職追放された。 長崎県出身。池邊政五郎の三男。私立商工中学校を経て、1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 外務省入省。1907年韓国統監府属。外交官及領事官試験合格の同期に吉田茂(のちに内閣総理大臣)、広田弘毅(のちに内閣総理大臣、外務大臣)、武者小路公共(のちに駐ドイツ大使)、平田知夫(第一次世界大戦でモスクワ総領事在任中、39歳で夭逝)、林久治郎(のちに駐ブラジル大使)、尾崎洵盛(のちに陶磁器研究家)などがいる。
入江 海平(いりえ かいへい、1881年(明治14年)1月1… 入江 海平(いりえ かいへい、1881年(明治14年)1月1日 – 1938年(昭和13年)1月17日)は、日本の朝鮮総督府官僚。南満洲鉄道理事。拓務次官。玄洋社社員。 福岡県宗像郡(現・宗像市)出身。1900年(明治33年)福岡県中学修猷館、1904年(明治37年)7月第七高等学校造士館法科を経て、1908年(明治41年)7月東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、統監府嘱託となった。翌年に高等文官試験に合格し、統監府書記官、朝鮮総督府書記官、総務部会計局経理課長、総督官房会計課長、度支部理財課長を歴任した。1917年(大正6年)、内閣拓殖局書記官に転じ、第一課長、南満洲鉄道株式会社監理官、東洋拓殖株式会社監理官などを務めた。
平野 光雄(ひらの みつお、1881年(明治14年)1月1日… 平野 光雄(ひらの みつお、1881年(明治14年)1月1日 - 1958年(昭和33年)7月26日)は、日本のジャーナリスト・政治家。政治家としては憲政会→立憲民政党に所属し、衆議院議員選挙に通算6回当選し逓信参与官を務めた。 静岡県庵原郡由比町(現在の静岡市清水区)出身。1910年(明治43年)、慶應義塾大学部政治科を卒業。『時事新報』記者を務めた。 1922年(大正11年)、衆議院議員補欠選挙に出馬し当選。第20回衆議院議員総選挙に至るまで6回当選を果たした。その間、岡田内閣で逓信参与官を務めた。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。 戦後、公職追放となる。
益田 玉城 (ますだ ぎょくじょう、1881年(明治14年)… 益田 玉城 (ますだ ぎょくじょう、1881年(明治14年)1月1日 - 1955年(昭和30年)4月22日)は、明治 - 昭和前期の日本画家。「玉城」は雅号。本名は「珠城」(たまき)と表記される。宮崎県都城生まれ。 同郷の山内多門とともに上京し、川端玉章(川端画学校)に入門の後、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科選科修了。川端画学校・ 女子美術学校(現・女子美術大学)で後進を育成し、銀座3丁目にあった美術工芸品店㈱生秀館の図案部長も務める。 大正4年第9回文展にて《かの子屋の娘》が初入選、1920年・1921年・1928年・1929年の各年に帝展入選を果たし、1931年(昭和6年)には《姫街道》で無鑑査推薦となる。
横山 運平(よこやま うんぺい、1881年〈明治14年〉1月… 横山 運平(よこやま うんぺい、1881年〈明治14年〉1月1日 - 1967年〈昭和42年〉4月3日)は、日本の俳優。滋賀県犬上郡彦根町(現在の同県彦根市)出身。日本初の劇映画に出演したことで、日本の映画俳優第一号となった。本名は横山 弥太郎(よこやま やたろう)。 1881年(明治14年)1月1日、滋賀県犬上郡彦根町(現在の同県彦根市)に生れる。 1893年(明治26年)、新派劇の草分けである、角藤定憲の一座に入り、子役として舞台に立つ。1899年(明治32年)、上京して、「赤坂演技座」で書生芝居に出演。同年、駒田好洋の「日本率先活動写真会」が日本での活動写真制作を開始。三越写真部の柴田恒吉と共同で、同年に実際に起こった脱獄事件を題材に、日本最初の劇映画『ピストル強盗清水定吉』を製作。
石田 誠(いしだ まこと、1881年〈明治14年〉- 195… 石田 誠(いしだ まこと、1881年〈明治14年〉- 1959年〈昭和34年〉)は、日本の細菌学者、耳鼻咽喉科医師、富田浜病院初代院長。妻の石田マサヲについても記述する。 岡山県苫田郡奥津村細田生まれ。旧制津山中学校・関西中学校を経て、1896年(明治29年)に上京して第一高等学校独法科に入学したが、翌年胸部を患い、北里療養所に入院した。その後、郷里の兵庫県赤穂市で静養を続けた。その後、1901年(明治34年)に京都府立医学専門学校へ入学して、1907年(明治40年)に卒業して医師免許を得た。 その後、京都帝国大学医学部へ入学し、京都帝国大学の耳鼻咽喉科で和辻春次教授の指導を受けて、細菌学や血清学の研究に従事した。
田中 長一郎(たなか ちょういちろう、1881年 - 196… 田中 長一郎(たなか ちょういちろう、1881年 - 1969年)は、日本近代製鉄の礎を築いた二代目・田中長兵衛の長男。父を補佐し家業である製鉄・鉱山業を支えた。 東京は京橋区にて二代目長兵衛と母・よきの間に長男として生まれる。弟・長五郎(1883年生)あり。1896年(明治29年)4月に慶應義塾入社、幼稚舎を経て大学部に進む。1つ年上の従兄弟・横山長次郎と共に1901年(明治34年)の慶應大学庭球部創立メンバーの一人となり、同年秋に一橋大学と行った対抗戦にも出場。学業よりも実地を重んずる厳格な祖父(初代長兵衛)の方針に従い慶應義塾を退学すると、1907年(明治40年)頃から佐渡や生野、足尾、別子など全国の鉱山を視察して回った。
許 修直(きょ しゅうちょく、1881年〈光緒7年〉 - 1… 許 修直(きょ しゅうちょく、1881年〈光緒7年〉 - 1954年)は、中華民国の官僚・文物収集家。旧名は卓然。字は西渓。北京政府・国民政府で官職を歴任し、後者では対日交渉に関わった。中華民国臨時政府など親日政権にも参与した。 日本に留学、中央大学法科を卒業した。なお留学中に中国同盟会に加入している。帰国後は、江蘇提法司科長、蘇州私立法政学堂教習、浙江高等審判庁推事、同代理庁長、浙江官立法政学堂教習、大理院推事を歴任した。 1924年(民国13年)11月、黄郛に起用されて国務院印鋳局局長となる。以後、黄の腹心として活動することになった。1927年(民国16年)、国民政府に転じ上海市法制室主任となる。
金古 久次(かねこ ひさつぐ、1881年 - 1945年)は… 金古 久次(かねこ ひさつぐ、1881年 - 1945年)は、日本の土木技術者、都市計画家 福島県に生まれる。1909年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。内務省東京土木出張所に入り、利根川第二期改修工事、ついで荒川上流改修工事に従事。 1926年から2年間欧米各国へ出張。 1929年、下関土木出張所長、34年、名古屋土木出張所長となる。1938年、退任した。 1938年、中国上海の都市計画を実現するため設立した日中合弁の上海恒産会社技術部長に招請される。 1940年、同長を退任。 その後、和歌山市顧問、都市計画和歌山地方委員会委員などをつとめた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
諸 青来(しょ せいらい、1881年〈光緒7年〉 - 没年不… 諸 青来(しょ せいらい、1881年〈光緒7年〉 - 没年不明)は、清末民初の政治家・官僚。名は翔だが、号の青来で知られる。祖籍は浙江省紹興市。中国国家社会党の有力幹部で、後に南京国民政府(汪兆銘政権)の要人となった。 清末に日本に留学し、商工や経済を学んだ。帰国後は、清朝の農商部・財政部に任官する。後に、上海で神州大学を創設し、総務長となる。また、雑誌『銀行周報』編輯となり、上海大夏大学・持志大学・光華大学・中国公学で教授をつとめた。1934年(民国23年)、中国国家社会党に加入する。1937年(民国26年)の日中戦争(抗日戦争)勃発後は、上海の雑誌『新学識』において、国共合作反対の主張を展開した。
東 勝熊(ひがし かつくま、1881年〈明治14年〉 - ?… 東 勝熊(ひがし かつくま、1881年〈明治14年〉 - ?)とは、アメリカ合衆国、フランス、ドイツを渡り歩き、柔術の伝播に貢献した柔術家である。 薩摩国串木野の生まれである。衆議院議長や文部大臣を務めた政治家、長谷場純孝の甥。 9歳から柔術を学び始めたが、流派は不明。東の師は「ホシノ」と「ツツミマサオ」である。「ホシノ」は、四天流の星野九門とする説がある。 故郷を出て同志社英学校(現在の同志社大学)に入学し、卒業。その後、アメリカに渡ってマサチューセッツ州のモンソンアカデミー、さらにイェール大学に進む。当時のアメリカでは柔術が注目を集めており、有名人になった東はアーヴィング・ハンコック(H. Irving Hancock)との共著で柔術解説書『The Complete Kano Jiu-Jitsu』を刊行する。
陳 則民(ちん そくみん、1881年〈清光緒7年〉 - 19… 陳 則民(ちん そくみん、1881年〈清光緒7年〉 - 1951年)は、中華民国の政治家・弁護士。中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人である。 日本留学経験を持ち、日本大学法科を卒業している。帰国後は参議院議員に選出され、政治討論会副会長にもなっている。また、北京政府の大総統府顧問もつとめた。1920年(民国9年)から3年間、蘇州電気公司董事長となっている。その後は上海で弁護士を開業する。律師(弁護士)公会会長、上海各路商会連合会会長、納税華人理事会理事、蘇州電気廠総弁をつとめた。 日中戦争(抗日戦争)勃発後に蘇州が日本軍により陥落すると、陳則民は蘇州地方自治委員会会長となった。1938年(民国27年)3月、中華民国維新政府に参加し、教育部部長に任じられた。
袁 永廉(えん えいれん、1881年 – 1942年〈民国3… 袁 永廉(えん えいれん、1881年 – 1942年〈民国31年〉)は、清末民初の財務官僚。字は履卿。清朝と北京政府で財務関連各職を歴任し、中華民国臨時政府でも財政部の要職に就いた。 1904年(光緒30年)、甲辰恩科進士。その後日本に留学し、1908年(光緒34年/明治41年)11月に法政大学清国留学生法政速成科補習科を卒業した。清朝では度支部主事や山西清理財政副監理官をつとめた。 中華民国成立後の1912年(民国元年)には、財政部で籌備処弁事や財政調査委員会委員、幣制委員会委員、僉事を歴任した。翌1913年(民国2年)、山西省に赴任し、国税庁籌備処処長や官銭局監理官、普勝銀行監理官をつとめている。
張 孝栘(ちょう こうい、1881年 - 没年不詳)は、清末… 張 孝栘(ちょう こうい、1881年 - 没年不詳)は、清末民初の司法官・法学者。字は棣生。別号は逖省。 日本に留学し、1906年(光緒32年・明治39年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。帰国後は京師法政学堂及び京師法律学堂の教習(教官)となる。以後、修訂法律館纂修、憲法編査館科員、北京政府大理院推事を歴任した。1915年(民国4年)、総検察庁首席検察官に任命される。1928年(民国17年)4月、総検察庁検察長暫定代理となった。その後、国立北平大学法学院教授、国立北京大学法律系講師、河北省立法商学院法律系教授を歴任している。 1937年(民国26年)12月、北京に中華民国臨時政府が成立すると、張孝栘もこれに参与する。
徳田 平市(とくだ へいいち、明治14年〈1881年〉 - … 徳田 平市(とくだ へいいち、明治14年〈1881年〉 - 昭和19年〈1944年〉)は、日本の実業家・漁業家。兄の奥田亀造とともに角輪組を設立(二代目社長)。旧制鳥取第二中学校(現・鳥取県立鳥取東高等学校)の創立功労者。 1881年、 鳥取県岩井郡大谷村(現・岩美郡岩美町大谷)の地引き網の網元・奥田周蔵、きよの四男として生まれる。長じて兄・亀造らと朝鮮沿岸の漁場開拓に乗り出したが、日露戦争が始まったため従軍、沙河会戦の功績により金鵄勲章を授与された。 1908年、東京に遠洋漁業角輪商会を合資会社で設立。翌年、単身カムチャツカに渡り、流木で立てた小屋に仮泊しながら、鮭・鱒の漁場調査を行う。1910年、気高郡豊実村宮谷(現・鳥取市宮谷)の豪農・徳田家の養子となり、長女かねと結婚。
井上好三郎(いのうえ こうざぶろう、1881年(明治14年)… 井上好三郎(いのうえ こうざぶろう、1881年(明治14年) - 1943年(昭和18年))は日本の商人、実業家。井上好三郎商店(現:井上鋲螺工業株式会社)創業者。滋賀県甲賀市水口町出身。