石川 利光(いしかわ としみつ、1914年2月3日 - 20… 石川 利光(いしかわ としみつ、1914年2月3日 - 2001年7月14日)は、日本の作家。宮中研三名義の官能小説も発表した。 弁護士を父に持ち、三男として大分県日田市に生まれる。日田中学(現在の大分県立日田高等学校)を卒業し、1932年早稲田高等学院を経て早稲田大学に入るが、1937年近藤忠義に誘われて法政大学国文科に転学し、1940年に卒業。1941年に同人誌を統合した『文藝主潮』の編集委員となる。1944年に日本文学報国会会員となり、日本航空機工業に勤務。1946年に九州書院を興す。丹羽文雄を中心とした会合に参加し、『文学者』の刊行を引き受ける。 1951年に執筆活動に入り、第25回芥川賞を『春の草』で受賞した。
宮田 龍介(みやた りゅうすけ、1914年(大正3年)2月2… 宮田 龍介(みやた りゅうすけ、1914年(大正3年)2月2日 - 没年不詳)は、日本の実業家。民間企業に勤務した後、父である宮田重五郎が創業した宮田酒造場を相続し、宮田酒造を設立。その後、社名を三光正宗へ変更し、同社の社長・会長に就任する。1991年に岡山県三木記念賞を受賞。岡山県新見市出身。 1914年(大正3年)、岡山県阿哲郡哲西町矢田(現:新見市哲西町)にある宮田重五郎の長男として出生する。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1931年(昭和6年)同校を卒業し、岡山にある旧制第六高等学校文科乙類へ進学する。1934年(昭和9年)に同校を卒業し、東京帝国大学法学部へ進学する。
堀口 定義(ほりぐち さだよし、1914年2月1日 - 20… 堀口 定義(ほりぐち さだよし、1914年2月1日 - 2005年5月11日)は、日本の詩人、官僚、実業家。 埼玉県熊谷市生まれ。国鉄御徒町駅に勤めながら苦学して専門学校入学資格検定試験(専検)に合格し1934年 第一高等学校に入る。1940年、高等試験に合格。1941年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。大蔵省入省。管財局属。1959年、東京国税局総務部長。1960年、熊本国税局長。1961年、国税庁徴収部長。1962年調査査察部長、1964年、直税部長。1965年、原子燃料公団理事。1967年、動力炉核燃料事業団理事。1969年、忠勇社長。1975年、相談役。1976年、大阪証券金融社長。社業の傍ら、詩を書き、1978年「弾道」で日本詩人クラブ賞受賞。
矢沢 利彦(やざわ としひこ、1914年(大正3年)2月- … 矢沢 利彦(やざわ としひこ、1914年(大正3年)2月- 2008年(平成20年)4月11日)は、日本の東洋学者。 1914年生まれ。旧制山口高等学校を経て、1936年東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。在学時は、加藤繁や和田清の指導を受けた。 卒業後は埼玉大学助教授となり、後に教授昇進。1978年に埼玉大学を定年退官し、名誉教授。その後も群馬県立女子大学教授として教鞭をとり、また東洋文庫専任研究員として研究著述を行った。 近世中国(明清時代)の東西交渉の研究や「喫茶の歴史」が著名で、マテオ・リッチをはじめ、多くの原典史料の訳注解を行った。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
荒谷 正雄(あらや まさお、1914年1月31日 - 199… 荒谷 正雄(あらや まさお、1914年1月31日 - 1996年3月1日)は、日本の指揮者、ヴァイオリニスト。北海道札幌市出身。 1935年帝国音楽学校卒業後、1936年ヨーロッパに留学、ウィーン、ベルリンなどで学び、ヴァイオリンをヨゼフ・シゲティらに師事、ベルリン室内楽協会の団員として演奏活動を行い、1945年7月に帰国。1948年に札幌音楽院を開設、弦楽器のほか、ピアノ、声楽、作曲、美学、音楽史の講義を組み、1949年札幌音楽院管弦楽団を結成。1950年北海道文化賞受賞。1961年札幌交響楽団設立に参画、1968年まで初代常任指揮者を務めた。1986年北海道開発功労賞受賞。1997年札幌交響楽団から名誉創立指揮者の称号を贈られる。
冨樫 総一(とがし そういち、1914年1月31日(戸籍上は… 冨樫 総一(とがし そういち、1914年1月31日(戸籍上は2月1日) - 1973年1月17日)は労働官僚。労働事務次官を務めたのち退官し、中小企業退職金共済事業団理事長等を歴任。 秋田県秋田市大町五丁目に富樫総太郎の長男として出生。旧制東京商科大学(一橋大学の前身)で、日本で初めて労働法講義を開講した労働法学者孫田秀春のゼミナールに所属し労働法を学ぶ。妻の杜美子は、孫田の長女。大平正芳元総理大臣は大学の同期で、大平らと憲法の田上穣治講師や国際法の大平善梧教授が中心となっていた研究会で勉強し、高等試験行政科に上位の席次で合格した。 大学卒業後、内務省社会局に入り、以来、奈良県警務課長、長崎県警務課長を務めたほかは、一貫して労働行政にたずさわり、戦後は労働三法である労働組合法や労働関係調整法といった重要法案の立案も担当、著書も多数執筆し、労働行政において重きをなした。
中山 賀博(なかやま よしひろ、1914年(大正3年)1月3… 中山 賀博(なかやま よしひろ、1914年(大正3年)1月30日 - 2003年(平成15年)7月21日)は日本の外交官、元駐フランス特命全権大使。広島県出身。
但野 寛(ただの ひろし、1914年1月29日 - 1986… 但野 寛(ただの ひろし、1914年1月29日 - 1986年9月6日)は、北海道旭川市出身のクロスカントリースキー、アルペンスキー選手。 旧制旭川中学校 → 日本国有鉄道札幌鉄道管理局 1935年の第13回全日本スキー選手権大会クロスカントリースキー個人耐久(56km)で3位となり、翌1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックの代表に選出される。同オリンピックのクロスカントリースキー競技では、個人耐久(50km)で28位、個人長距離(18km)で59位、4x10kmリレーで12位の成績を残した。また、同オリンピックより採用されたアルペンスキー競技のアルペンスキー複合(滑降・回転)にも、同じ距離選手の関口勇・関戸力とともにエントリーしたが、後半の回転で全員失格した。
生源寺 美子(しょうげんじ はるこ、1914年1月29日 -… 生源寺 美子(しょうげんじ はるこ、1914年1月29日 - 2015年5月18日)は、日本の児童文学作家。 1914年、柏木三郎夫妻のもとに五人兄姉の末っ子として生まれる。出生地は奈良県だが、1歳になる前に師範学校の校長だった父の転任に伴い、福島に移る。その後、秋田、京都、朝鮮など各地を転々とした生活を送る。 京城第一女子公立高等学校、大邱公立高等女学校を経て、東京自由学園高等部(旧制)を卒業する。 主婦業の傍ら、童話を書き始め、1955年頃から『婦人朝日』の「私の童話欄」に投稿し何度も入選を果たす。童話欄の選者だった与田凖一の指導をうけ、同じ入選仲間である岩崎京子らと「童話の会」を結成。同人誌「童話」を作り創作に励む。
深沢 七郎(ふかざわ しちろう、1914年〈大正3年〉1月2… 深沢 七郎(ふかざわ しちろう、1914年〈大正3年〉1月29日 - 1987年〈昭和62年〉8月18日) は、日本の小説家、ギタリスト。 山梨県出身。職を転々とし、ギター奏者として日劇ミュージックホールに出演。『楢山節考』が正宗白鳥に激賞され、異色の新人として注目を集めた。「中央公論」に発表した『風流夢譚』に関わる右翼テロ事件(嶋中事件)後、筆を折った時期もあったが、土俗的な庶民のエネルギーを描いて独自の作品を発表し続けた。農場や今川焼屋を経営したり、ギター・リサイタルを開催したりと多くの話題を残した。他に代表作『笛吹川』『東京のプリンスたち』『庶民烈伝』『みちのくの人形たち』など。 1914年(大正3年)1月29日、印刷業の父・隣次郎、母さとじの四男として、山梨県東八代郡石和町(現笛吹市石和町)市部に生まれる。
菊島 隆三(きくしま りゅうぞう、本名:菊島 隆蔵、1914… 菊島 隆三(きくしま りゅうぞう、本名:菊島 隆蔵、1914年1月28日 - 1989年3月18日)は、日本の脚本家。山梨県甲府市出身。日本ペンクラブ、日本シナリオ作家協会、日本演劇協会、日本文芸家協会所属。 ★印は黒澤明監督作品。
三木 鶏郎(みき とりろう、1914年〈大正3年〉1月28日… 三木 鶏郎(みき とりろう、1914年〈大正3年〉1月28日 - 1994年〈平成6年〉10月7日)は、日本の作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家である。本名、繁田 裕司(しげた ひろし)。東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)出身。 昭和前期から平成前期まで活躍した。芸名は好きなミッキーマウスと(デビュー当初、朝川賞郎、秋元喜雄と3人で活動していたことから)「トリオ」をかけたものであり、本来の読み方は「みき とりお」であったが、アナウンサーから「とりろう」と誤読されたためそれが定着した。「三木トリロー」名義での活動歴もある。 ジャズ評論家・司会者の三木鮎郎は実弟。甥(鮎郎の長男)の三木睦郎は「笑点」の放送作家。
宮入 潔(みやいり きよし、1914年1月26日 - 200… 宮入 潔(みやいり きよし、1914年1月26日 - 2004年12月22日)は、日本の経営者。長野県長野市出身。 旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1934年に山梨高等工業学校機械工学科を卒業し、同年に久保田製作所に入社し、豊田自動織機製作所、トヨタ自動車工業での勤務を経て、1959年4月に豊田通商に移り、同年5月には常務に就任した。 1961年11月に専務に就任し、1968年5月に社長に昇格した。1977年7月から相談役を務めた。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2004年12月22日急性心不全のために死去。90歳没。
等々力 英男(とどりき ひでお、1914年 <大正3年> 1… 等々力 英男(とどりき ひでお、1914年 <大正3年> 1月25日 - 1992年 <平成4年> 5月6日)は、日本の経営者。位階は正五位。 新潟県新潟市出身。1936年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に新潟トヨタ自動車に入社。1951年に社長に就任し、1987年には会長に就任。1980年10月から1988年6月までにテレビ新潟放送網社長を務め、第四銀行顧問、新潟商工会議所会頭なども歴任。 1975年4月に藍綬褒章を受章し、1984年4月に勲二等瑞宝章を受章した。また馬主ともなり、1971年から1979年にかけて新潟馬主協会会長を務めた。 1992年5月6日肺気腫のために死去。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
谷村 まち子(たにむら まちこ、1914年1月25日 - 1… 谷村 まち子(たにむら まちこ、1914年1月25日 - 1987年7月2日)は、日本の児童文学作家、翻訳家。 本名・新谷 依枝(よりえ)。夫は新谷 藤楠。 東京に生まれる。津田英学塾卒業。自ら児童文学を創作するほか、多くの英米児童文学を翻訳、少女小説の翻訳が多い。真知子、満智子などの表記もある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
竹田 淳照(たけだ じゅんしょう、1914年1月24日 - … 竹田 淳照(たけだ じゅんしょう、1914年1月24日 - 1998年4月20日)は、日本の中国文学者・教育者・学校経営者。専門は中国文学。北海道夕張市出身。 1939年大谷大学文学部専門部卒業。1944年北京大学研究院修了。北京大学研究員。1945年日本に引揚げ。 大阪商科大学高等商業部教諭。1951年大阪市立大学法文学部専任講師。1960年大谷大学文学部専任講師。1962年大谷大学学監・学校法人真宗大谷学園事務局長。1965年京都産業大学学監・学校法人京都産業大学事務局長。1968年京都産業大学常務理事・同副学長・同外国語学部教授。1973年学校法人札幌大谷学園理事長。1974年札幌大谷短期大学学長。
林 翔(はやし しょう、1914年1月24日 - 2009年… 林 翔(はやし しょう、1914年1月24日 - 2009年11月9日)は、日本の俳人。本名は林 昭(はやし しょう)。 長野県長野市生まれ。生後10ヶ月で母と死別し、5歳まで祖母に養われる。國學院大學を卒業。大学在学中に能村登四郎と知り合い、登四郎とともに短歌雑誌「装填」の同人となるが、同誌の廃刊後ともに俳句に転じた。1939年から1982年まで旧制私立市川中学(現・市川高等学校)に勤務。1940年、水原秋櫻子の「馬酔木」に初入選。この頃から「翔」を俳号に用いた。1950年「馬酔木」同人となる。1962年、現代俳句協会を脱会し、俳人協会に加入する。1970年、登四郎が「沖」を創刊すると編集主幹に就く。
今井 道雄(いまい みちお、1914年1月24日 - 199… 今井 道雄(いまい みちお、1914年1月24日 - 1990年9月4日)は、日本の実業家。丸井今井代表取締役社長、札幌商工会議所会頭、札幌証券取引所理事長等を務めた。 北海道札幌市生まれ。1938年東京商科大学(現一橋大学)を卒業(同期に小泉明ら)。大阪の大丸百貨店で修業したのち、家業の丸井今井グループ入りし、1944年から丸井今井の三代目代表取締役社長を務めた。1973年から札幌商工会議所会頭を務め、北海道商工会議所連合会会頭、札幌観光協会会長、北海道百貨店協会会長、札幌証券取引所理事長なども歴任した。1974年北海道経済連合会設立発起人代表。1981年エフエム北海道発起人。1987年北海道立文学館建設期成会会長。
福田 宏一(ふくだ ひろいち、1914年〈大正3年〉1月23… 福田 宏一(ふくだ ひろいち、1914年〈大正3年〉1月23日 - 1999年〈平成11年〉3月18日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。親子2代で内閣総理大臣を務めた福田赳夫の実弟、福田康夫の叔父。小倉クラッチ監査役[要出典]。アントニオ猪木の格闘技の後援会会長を務めた[要出典]。 上州戦争下では、清和政策研究会候補として、群馬県選挙区で中曽根派の最上進や中曽根弘文らと激しい代理戦争を繰り広げた。 1914年(大正3年)群馬県群馬郡金古町足門(群馬町足門を経て現・高崎市足門町)に、金古町長を務めた福田善治の三男として生まれる。1932年(昭和7年)旧制渋川中学校(現・群馬県立渋川高等学校)を卒業。
文挾 夫佐恵(ふばさみ ふさえ、1914年1月23日 - 2… 文挾 夫佐恵(ふばさみ ふさえ、1914年1月23日 - 2014年5月19日)は、日本の俳人。 東京都生まれ、東京府立第五高等女学校卒。小学校時代より作句、1934年に上川井梨葉主宰の「愛吟」に入会。1944年に飯田蛇笏の「雲母」に入会。のちに同門の石原八束の家での三好達治を囲む文章会に参加した。1961年、八束とともに「秋」の創刊に参加、同人となる。1998年、八束の逝去により「秋」主宰。2006年まで務めたのち佐怒賀正美に主宰を譲り同誌の名誉主宰となる。1965年に第12回現代俳句協会賞、2007年に句集『青愛鷹』により第7回俳句四季大賞、2011年に第2回桂信子賞を受賞。2013年には句集『白駒』(はくく)により、史上最高齢となる99歳で第47回蛇笏賞を受賞した。
片山 醇之助(かたやま じゅんのすけ、1914年1月23日 … 片山 醇之助(かたやま じゅんのすけ、1914年1月23日 - 2000年3月5日)は、日本の外交官。元駐リベリア共和国大使。 香川県三豊郡高室村(現 観音寺市室本町)出身。旧制香川県立三豊中学校、ハルピン学院卒業。 外務省留学生として1936年(昭和11年)から3年間滞欧。ラトビアでロシア語を勉強中に古本を集め始め1万冊にもなった。読んでいては間に合わないから近くに住む少女に音読してもらった。のちにその女性が米国へ亡命して数十年後に突然片山邸へ電話し、片山が亡くなる数年前に単身訪米して再会した。 留学から帰国後、1939年(昭和14年)外務省入省。1943年(昭和18年)高等試験行政科試験合格。
大和久 彪(おおわく たけし、1914年1月23日 - 19… 大和久 彪(おおわく たけし、1914年1月23日 - 1956年8月25日)は、将棋棋士。贈八段。石井秀吉七段門下。千葉県千葉市出身。 この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
田畑 金光(たばた かねみつ、1914年(大正3年)1月22… 田畑 金光(たばた かねみつ、1914年(大正3年)1月22日 - 2013年(平成25年)4月22日)は、昭和期の政治家。民社党衆議院議員、いわき市長。 鹿児島県大島郡龍郷町芦徳出身。 1932年鹿児島県立大島中学校 (旧制)卒業。1936年大阪高等学校 (旧制)文科卒業。1939年東京帝国大学法学部法律学科卒業。 大学卒業後は満州国政府に勤めながら、大同学院を卒業。1940年に従軍し、1945年に陸軍主計大尉で復員。 戦後、福島県の現いわき市に移り、1946年大日本炭鉱勿来鉱業所勤務。1947年(昭和22年)福島県議会議員に当選。右派社会党公認で、1953年(昭和28年)に第3回参議院議員通常選挙福島県選挙区で初当選。
福村 虎治郎(ふくむら とらじろう、1914年1月22日 -… 福村 虎治郎(ふくむら とらじろう、1914年1月22日 - 2002年2月20日)は、日本の英語学者。 北海道出身。1939年東京帝国大学文学部英文科卒。1961年「英語態の研究」で東京大学文学博士。北海道大学文学部助教授、教授、78年定年退官、名誉教授、帝京大学文学部教授。85年退職。
竹村 公良(たけむら きみよし、1914年(大正3年)1月2… 竹村 公良(たけむら きみよし、1914年(大正3年)1月21日 - )は、日本の競泳選手。 1914年1月21日、京都府に生まれる。早稲田大学政治経済学部在学中は東京府中野区に暮らした。1933年に50メートル自由形を26秒で泳ぎ、当時の日本記録を打ち立てた。1934年に開催された第10回極東選手権競技大会では50メートル自由形で26秒7の記録を出し優勝した。この年には26秒4の記録も出している。体形は痩せていたが、体を浮き気味にすることによって作り出す滑りやすい姿勢が持ち味であった。1938年に早稲田大学を卒業し、宝塚第一ホテルに就職した。その後、取締役企画部長、常務営業部長を経て、1954年に常務に就任した。
丹羽 淑雄(にわ としお、1914年1月20日 - 没年不明… 丹羽 淑雄(にわ としお、1914年1月20日 - 没年不明)は、名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)に所属した野球選手。守備位置は投手。右投げ。名古屋軍で初めて背番号1を背負った選手である。
大久保 利春(おおくぼ としはる、1914年1月20日 - … 大久保 利春(おおくぼ としはる、1914年1月20日 - 1991年11月30日)は、日本の実業家。 1914年(大正3年)、大久保利賢(横浜正金銀行頭取、大久保利通八男)と和喜子(高橋是清次女)の長男として生まれた。大久保利通の孫、かつ、高橋是清の孫にあたる。妻は和子(事業家の坂内虎次の娘で、与謝野馨の叔母)。姉・百合子の夫は安田一(安田財閥当主)。 同姓同名の人物に、1946年設立の時計店・宝飾品店の経営者がいる。 1938年(昭和13年)東北帝国大学法科を卒業後、三和銀行に入行。 戦後の1949年(昭和24年)、日本海商事の代表取締役に就任し、朝鮮戦争のあいだ、児玉誉士夫設立の東京レアメタルの輸送部門を請け負っていた。
松岡利夫(まつおか としお、1914年1月18日ー1994年… 松岡利夫(まつおか としお、1914年1月18日ー1994年2月6日)は、日本の民俗学者。 奈良県出身。1947年広島文理科大学史学科卒、九州大学大学院修了(旧制)。公立学校教諭をへて、1951年山口大学人文学部助教授、教授、77年定年退官、名誉教授、山口女子大学教授、1979-89年岩国短期大学学長。89年秋、勲三等旭日中綬章受勲。
山田 伸三(やまだ しんぞう、1914年1月17日 - 20… 山田 伸三(やまだ しんぞう、1914年1月17日 - 2000年3月20日)は、日本のスキー選手・指導者。1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックにノルディック複合、クロスカントリースキーで出場。青森県出身。 青森県南津軽郡大鰐町出身。旧制弘前中学校を卒業。中学在学中の1928年、樺太の豊原で行われた大会に出場して複合で6位、距離で8位の成績を残し、将来を嘱望される。 中学卒業後は、青森営林局(青森林友)に入る。 1934年の第12回全日本スキー選手権大会ノルディック複合個人、翌年の同大会クロスカントリースキー個人長距離(17km)で優勝。 1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックでは、クロスカントリースキー個人長距離(18km)で49位、4x10kmリレーで12位、ノルディック複合個人で43位だった。
石原 繁三(いしはら しげぞう、1914年1月17日 - 1… 石原 繁三(いしはら しげぞう、1914年1月17日 - 1946年4月)は、千葉県出身のプロ野球選手(投手)。戦後東映フライヤーズで内野手として活躍した石原照夫は弟に当たる。 1930年に埼玉県の川越中学校から岩手県の遠野中学校へ転校。1932年に遠野中のエースとして東北大会を優勝し、第18回全国中等学校優勝野球大会へ出場した。卒業後に鉄道省へ入る。 1936年に東京セネタースへ入団。岩手県の学校卒業者として初のプロ野球選手となった。この年の春季リーグで9試合に登板し4勝を記録。翌年に召集されるが、1940年に復帰。1941年は大洋軍へ移籍し、同年すぐに黒鷲軍へ移籍。1942年に20勝を記録した。
川本 泰三(かわもと たいぞう、1914年1月17日 - 1… 川本 泰三(かわもと たいぞう、1914年1月17日 - 1985年9月20日)は、愛知県瀬戸市出身のサッカー選手、サッカー指導者、実業家。ポジションはフォワード。 小学校時代に大阪へ転居、大阪府立市岡中学からサッカーを始め、1930年に第12回全国中等学校蹴球選手権大会に出場してベスト4の成績を残した。1931年に市岡中学を卒業し、早稲田高等学院(予科に相当)を経て早稲田大学に入学。予科在学中からア式蹴球部で試合出場し、予科3年の1933年から早大の関東大学リーグ4連覇に貢献した。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されて、5月15日のオランダ領東インド代表戦で初出場し、初得点も決めた。
小山 清茂(こやま きよしげ、1914年〈大正3年〉1月15… 小山 清茂(こやま きよしげ、1914年〈大正3年〉1月15日 - 2009年〈平成21年〉6月6日)は、日本の作曲家。神楽や祭囃子をモチーフに、日本情緒に満ちた温和な作風に特徴がある。 長野県更級郡信里村(現在の長野市)の出身。生家は山深い里の農家で幼少期には西洋音楽に触れることがなかったという。その代わりに彼の周りには、村の祭礼音楽やさまざまな童歌、村人達がうたう即興の唄や民謡があふれていた。小学校の高学年のころ、近くの町で行われた陸軍戸山学校軍楽隊の演奏に触れ、極めて強い印象を受ける。後に彼はそのことについて、文章の中で「まるで夢のような体験だった」というような事を述べている。やがて旧制長野中学校(現在の長野県長野高等学校)に入学、ハーモニカ合奏や短歌に熱中するようになった。
奥原 次郎(おくはら じろう、1914年〈大正3年〉1月15… 奥原 次郎(おくはら じろう、1914年〈大正3年〉1月15日 - 2008年〈平成20年〉7月24日)は、日本の実業家。寿工業会長。呉商工会議所会頭。 広島県呉市出身。高小卒。1935年、広島県呉市阿賀町に奥原工作所を創設。1943年に奥原工作所を改組、東亜航空工業と改称。1952年、寿工業株式会社へ商号変更。東亜航空工業、呉繊維、寿工業各社長を務める。 1965年9月、トヨタカローラ山口取締役。1971年9月、サンデーサン(現・ジョリーパスタ)取締役。1974年8月、山口トヨペット取締役。1985年、郷原ゴルフ観光社長。黒瀬観光会長を務める。勲四等に叙せらる。トヨタオート広島代表取締役名誉会長となる。
浦野 幸男(うらの さちお、1914年1月14日 - 197… 浦野 幸男(うらの さちお、1914年1月14日 - 1977年1月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、労働大臣(第38代)。自由民主党では宏池会に所属した。 科学技術庁長官の浦野烋興は娘婿。 愛知県西加茂郡猿投村(現豊田市四郷町下古屋)出身。父親の浦野本一は米穀飼料商を営んでいた。猿投第二尋常高等小学校(現豊田市立青木小学校)卒業。1930年3月、東邦商業学校(現東邦高等学校)卒業。日本大学政経科中退後は家業の米穀飼料商に従事する。1935年1月、応召して中国北部へ出征した。1946年1月、食糧営団西加茂支所長に起用される。 1947年、父親の浦野本一は猿投村長選挙に立候補し初当選。
駒田 信二(こまだ しんじ、1914年1月14日 - 199… 駒田 信二(こまだ しんじ、1914年1月14日 - 1994年12月27日)は、日本の作家、文芸評論家、中国文学者。島根大学教授、桜美林大学教授、早稲田大学客員教授などを歴任した。 1914年1月14日、父の勤務地の大阪府大阪市に生まれる。本籍は三重県安濃郡多門村(現在は津市)で、家は明治23年(1890年)の名簿によると地価総額3036円余りの素封家だった。兄は父の姉の家を継いだ美術史家の谷信一。父の転勤で広島、金沢、東京と移動したのち、津で祖父母に育てられ、津中学校卒業、旧制山形高校を経て1940年東京帝国大学文学部支那文学科卒業。 1941年旧制松江高校教授となるが、1942年召集されて支那に出征、捕虜となり共産党の工作員と誤認されて死刑宣告を受けるが日本人と分かり釈放。
清原 康平(きよはら やすひら、1914年(大正3年)1月1… 清原 康平(きよはら やすひら、1914年(大正3年)1月14日 - 2001年(平成13年)4月7日)は、日本の陸軍軍人。歩兵少尉。歩兵第3連隊附。二・二六事件に参加、反逆罪(群衆指揮等)で無期禁固刑を受ける。その後恩赦により釈放、公職追放になるものの、恩赦の後も活躍した。2.26事件の直前、湯川智恵子と結婚して姓は、湯川康平となったが、軍関係では清原が使われている。 反乱部隊の指揮官の一人であった清原は、貴族院議員が集まり何事かを相談している華族会館を占拠し西園寺公望の秘書である原田熊雄を殺害せよとの命令を栗原安秀中尉から受け取った。逮捕後の清原の手記によると、華族会館の玄関で原田をみつけたが、その態度があまりに惨めだったので軍刀で切り捨てる気にもなれず見逃したと述べている。
西住 小次郎(にしずみ こじろう、1914年〈大正3年〉1月… 西住 小次郎(にしずみ こじろう、1914年〈大正3年〉1月13日 - 1938年〈昭和13年〉5月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人。陸士46期。最終階級は陸軍歩兵大尉。勲五等功四級。熊本県上益城郡甲佐町仁田子出身。 日中戦争(支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍。戦死後、軍部から公式に「軍神」として最初に指定された軍人として知られる。 1914年(大正3年)、父三作・母千代の間に、三男四女の二男として生まれた。父三作は退役軍人であり、明治期に陸軍教導団を経て台湾の抗日勢力の鎮圧、日露戦争に参加、曹長から中尉(予備役後大尉に昇進)まで上り詰めた人物だった。
神谷 美恵子(かみや みえこ、1914年(大正3年)1月12… 神谷 美恵子(かみや みえこ、1914年(大正3年)1月12日 - 1979年(昭和54年)10月22日)は、日本の精神科医。哲学書・文学書の翻訳やエッセイの著者としても知られる。 「戦時中の東大病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQと文部省の折衝を一手に引き受けていた」、「美智子皇后の相談役」などの逸話でも知られる。 神谷美恵子(結婚前は前田美恵子)は1914年(大正3年)1月12日に内務省職員である父前田多門とその妻房子の長女として岡山市に生まれた。兄弟には兄の陽一の他、後に一男二女が生まれている。父の多門はその年の4月に長崎県の理事官へと転任し、一家は長崎へと転居、翌年には内務省本省勤務となり東京へ転居している。
村崎 凡人(むらさき ただひと、1914年(大正3年)1月1… 村崎 凡人(むらさき ただひと、1914年(大正3年)1月12日 - 1989年(平成1年)5月10日)は、日本の国文学者・歌人・教育者。徳島文理大学等を経営する村崎学園の理事長。徳島県徳島市出身。息子は村崎学園理事長村崎正人、孫は村崎文彦。 徳島県徳島市出身。旧制徳島中学校、早稲田大学文学部卒業。窪田空穂に師事し、歌誌「槻の木」同人となる。大学卒業後は早稲田図書出版社で勤めた。 村崎学園の創業者であり祖母である村崎サイの「自立協同」の遺志を継ぎ、1949年に同学園の理事長に就任する。1961年に徳島女子短期大学(現・徳島文理大学短期大学部)、1966年に徳島女子大学(現・徳島文理大学)を創設するなど、村崎学園を幼稚園から大学院までを一貫する総合学園に成長させるなどの実績をあげた。
福沢 武一(ふくざわ ぶいち、1914年1月12日 - 20… 福沢 武一(ふくざわ ぶいち、1914年1月12日 - 2003年5月15日)は、日本の歌人、万葉学者、日本語学者。専門は万葉集、方言。 長野県上伊那郡伊那町(現伊那市)生まれ。東京大学文学部を卒業後、1941年から1973年まで長野県下各地の高等学校に勤務した。北信地方に赴任した際、言葉が奇異に感ぜられ方言に興味を抱くようになったという。1951年「万葉集」の研究に端を発して短歌の製作を始める。 1975年長野大学教授、1983年上田女子短期大学教授に就任。 2003年5月15日死去、89歳没。 詠風は独特であり、素材にも表現形式にも特異な趣があったという。 万葉集研究で知られた。 また戦後長野県方言の語彙研究をリードし、大橋敦夫からは「丹念に方言を収集し、方言語彙研究に独自の境地を開いた」と評されている。
佐藤 鉄章(さとう てっしょう、1914年1月9日 - 19… 佐藤 鉄章(さとう てっしょう、1914年1月9日 - 1990年3月20日)は、日本の小説家、古代史家。 秋田県大館市生まれ。本名・有次郎。1941年文部省中等教員検定合格。秋田県下で教育生活を送る傍ら、執筆をつづけ、1949年「北方文芸」主宰、1955年「奥羽文学」を興して主幹となる。1970年上京。息子に佐藤有文。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
岩下 密政(いわした みつまさ、1914年1月9日 - 19… 岩下 密政(いわした みつまさ、1914年1月9日 - 1972年7月8日)は、日本の騎手、競走馬調教師。東京競馬倶楽部、国営競馬、日本中央競馬会に所属。騎手時代にはトキノミノル、ゴールデンウエーブなどに騎乗した。 1914年、山梨県中巨摩郡玉幡村(現:甲斐市西八幡)に農家の三男として生まれる。幼少期から農耕馬の世話で馬に親しんだ。19歳の時に上京、東京競馬倶楽部の田中和一郎厩舎(目黒競馬場)に騎手見習いとして入門した。 1934年に正騎手となり、3月に初騎乗。同年9月3日、セイサンで初勝利を挙げた。以後「追える騎手」として徐々に頭角を現す。1940年春にはトキノチカラで帝室御賞典・春(阪神競馬場)を制し、特殊競走(重賞競走)初勝利を帝室御賞典で挙げた。
松澤 初穂(まつざわ はつほ、1914年1月8日 - 201… 松澤 初穂(まつざわ はつほ、1914年1月8日 - 2011年1月1日)は、京都府出身の元女子水泳選手。1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックに競泳女子代表として出場した。 舞鶴市に生まれる。父は大日本帝国海軍の軍人であり、一時横須賀市に移ったが、関東大震災のため舞鶴に戻った。水泳に取り組むきっかけは、高等女学校3年のときに訪れた。父の退役に伴い転校した市岡高等女学校(現在の大阪府立港高等学校)には、プールと水泳部があり、当時の水泳部顧問にクロール泳法を習ってめざましい進歩を見せた。翌年、大阪府立女子校の水泳大会に出場して50メートル自由形で日本記録に並ぶ好記録を出し、さらに次の年には50メートル自由形及び100メートル自由形で日本新記録を出していた。
大泉 隆司(おおいずみ たかし、1914年1月8日 - 没年… 大泉 隆司(おおいずみ たかし、1914年1月8日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋→武隈部屋所属。本名は真光 弁。最高位は十両15枚目。 大阪府岸和田市出身。1932年2月、「眞光」の四股名で初土俵を踏む。元両國の武隈が部屋を出羽海部屋から独立した際に移籍した。1942年5月に十両に昇進、四股名も「大和泉」から「大泉」に改めた。この場所6勝9敗と負け越し、幕下に落ちた。1年後の1943年5月に廃業した。
石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不… 石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不明)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 鹿児島商業では第15回全国中等学校優勝野球大会に出場。この大会では本塁打も記録している。卒業後は明治大学、門司鉄道局へ進み、1937年に名古屋軍へ入団。1938年春季リーグでリーグ3位となる打率.324を記録。俊足の選手であり、1940年の夏季シーズン途中に応召されるが、その時点で32盗塁を記録しており、そのまま追い抜かれることはなく盗塁王を獲得した。 1946年に復帰し、同年引退した。
朝隈 善郎(あさくま よしろう、1914年(大正3年)1月7… 朝隈 善郎(あさくま よしろう、1914年(大正3年)1月7日 - 2008年12月22日)は、日本の陸上競技選手及び陸上競技指導者。 1914年(大正3年)1月7日、広島県府中市出身。 1933年(昭和8年)に日本体育会体操学校高等師範科(現日本体育大学)を卒業した後、明治大学政治経済学部に入学し、1937年(昭和12年)に卒業した。学生時代より陸上競技の道に入り、走高跳の選手として活躍した。 1934年(昭和9年)、兵庫県西宮市の南甲子園運動場(阪神甲子園球場より南方に、阪神電鉄が建設した陸上競技場)で開催された日米対抗陸上競技大会に於いて、日本人として初めて走高跳の2メートルジャンパーとなった。
金 正淵(きん せいえん、キム・ジョンヨン、ハングル:김정연… 金 正淵(きん せいえん、キム・ジョンヨン、ハングル:김정연、1914年1月7日 - 1992年7月16日)は、日本統治時代の朝鮮の元スピードスケート選手。平安南道江西郡の出身。 公立平壌高等普通学校時代から大同江でスケートをおこなっていた。1932年に明治大学商学部に進学。1934年と1935年の全日本スピードスケート選手権大会を連覇。この当時は500m・1500m・5000m・10000mの総合得点で順位を決定していた。1934年2月に鴨緑江で行われた1934年大会では、金は500m3位、5000mと1000mで1位であった。1935年1月に日光で開かれた1935年大会では、500mは石原省三らに敗れたものの残る3種目はすべて1位となった。
武田 豊(たけだ ゆたか、1914年1月6日 - 2004年… 武田 豊(たけだ ゆたか、1914年1月6日 - 2004年2月15日)は、日本の実業家。宮城県高清水町出身。新日本製鐵(新日鉄)代表取締役会長、経済団体連合会(経団連)副会長、日本鉄鋼連盟会長などを歴任した。東京帝国大学法学部政治学科卒業。 宮城県仙台第一中学校 (現: 宮城県仙台第一高等学校 )、山形高等学校(現:山形大学)を経て1939年に東京帝国大学法学部政治学科(現:東京大学法学部政治学科)卒業後、同年4月日本製鐵(日鉄)入社。1950年同社解体により富士製鐵に移り、社長室秘書課長、人事部長などを経て、1970年3月八幡製鐵と合併し新日鉄が発足するとともに専務となり、1977年には副社長、1981年社長に昇格。
谷藤 正三(たにふじ しょうぞう、1914年1月6日 - 2… 谷藤 正三(たにふじ しょうぞう、1914年1月6日 - 2004年6月3日)は、日本の建設官僚。元北海道開発事務次官。工学博士(京都大学、1949年)(学位論文「路盤に関する土質力学的研究」)。秋田県河辺郡浜田村(のちの秋田市)出身。
峯岸 甲(みねぎし まさる、1914年1月6日 - 1982… 峯岸 甲(みねぎし まさる、1914年1月6日 - 1982年7月31日)は、日本の経営者。安藤建設社長、会長を務めた。 東京都出身。1937年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年に安藤組(のちの安藤建設)に入社。 1962年に取締役に就任し、1964年に常務、1970年に専務を経て、1972年に副社長に就任し、1976年6月には社長に昇格。1982年6月には会長に就任。 1982年7月31日急性腎不全のために死去。68歳没。