豊嶋 弥左衛門(てしま やざえもん、旧字体:豐嶋 彌左衞門、… 豊嶋 弥左衛門(てしま やざえもん、旧字体:豐嶋 彌左衞門、1899年(明治32年)5月1日 - 1978年(昭和53年)1月3日 )は、シテ方金剛流能楽師。重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は豊嶋 弥平(てしま やへい)、前名は豊嶋 一(てしま はじめ)。 ワキ方高安流豊嶋一松の長男として広島市上幟町に生れ厳島町に育つ。豊嶋家は旧広島藩浅野家お抱えの能楽師で、兄弟6人はみな能楽師となった。1904年(明治34年)『鞍馬天狗』の子方で初舞台。1913年(大正2年)正式にシテ方に転向するため、京都金剛家の内弟子となる。金剛謹之輔、初世金剛巌、金剛右京に師事。1948年(昭和23年)父と弟の追善能で家名の弥左衛門を襲名。
城戸 武男(きど たけお、1899年〈明治32年〉4月29日… 城戸 武男(きど たけお、1899年〈明治32年〉4月29日 - 1980年〈昭和55年〉5月5日)は、日本の建築家。戦前は表現主義やスパニッシュ風の作品を多く手がけ、戦後は機能主義建築と和風建築で秀作を残す。建築史家の城戸久は弟。 1899年(明治32年)4月29日、三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)字忍町12番屋敷に生まれた。城戸操の長男である。 三重県立第三中学校(現・三重県立上野高等学校)を経て、1920年(大正9年)3月に名古屋高等工業学校建築科(現・名古屋工業大学)を卒業した。教授の鈴木禎次に直接薫陶を受け、それが制作への強い源泉になったと回顧している。 卒業後は合名会社竹中工務店に入社し、1920年(大正9年)から1923年(大正12年)には本店設計部、1923年(大正12年)から1933年(昭和8年)には名古屋支店に勤務した。
木村 太郎(きむら たろう、1899年4月29日 - 198… 木村 太郎(きむら たろう、1899年4月29日 - 1989年11月6日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、画家、書家。南山大学名誉教授。 父・粂市は実業家、母・いつ(銉次)は永井家の出身で、永井荷風は従兄弟にあたる。叔父の大島久満次は台湾総督府民政長官、神奈川県知事、衆議院議員を歴任。 東京市中央区賽町(京橋)生まれ。1924年東京帝国大学文学部仏文科卒業。日本大学、法政大学、日仏学院などで教えた後、1947年南山外国語専門学校に赴任、南山大学創設に寄与。1971年まで南山大学仏文科教授、文学部長。 1950年、名古屋日仏文化協会を創設。敬虔なカトリック信者で、ジョルジュ・ベルナノス、ポール・ブールジェ(fr:Paul Bourget)などを多数翻訳した。
服部 英太郎(はっとり えいたろう、1899年4月29日-1… 服部 英太郎(はっとり えいたろう、1899年4月29日-1965年12月20日)は、日本のマルクス経済学者。 和歌山県出身。東京帝国大学経済学部卒。東北帝国大学経済学部助教授、1935年教授。42年治安維持法違反容疑で検挙、東京に予防拘禁される。1946年復職。1951年「ドイツ社会政策論史」で東北大学経済学博士。1962年福島大学経済短期大学部学長を兼任、東北大を定年退官、名誉教授。子に服部文男。戦後の社会政策論争で大河内一男の説を批判した。
久松 定武(ひさまつ さだたけ、1899年(明治32年)4月… 久松 定武(ひさまつ さだたけ、1899年(明治32年)4月29日 - 1995年(平成7年)6月7日)は、日本の政治家。愛媛県知事。位階は従三位。勲等は勲二等。爵位は伯爵。 1899年(明治32年)4月29日、伯爵久松定謨の次男として東京府東京市芝区芝栄町(現・東京都港区芝公園)の久松家本邸で生まれる。生家は旧伊予松山藩藩主・久松氏の嫡流である。学習院を経て東京帝国大学経済学部を卒業後、同大学院修了。 1924年(大正13年)に三菱銀行へ入行し、駒込支店や本店の預金係長、板橋支店長代理などを務めた後、1931年(昭和6年)からロンドン支店勤務。1934年(昭和9年)に帰国、1942年(昭和17年)に三菱銀行を退職した。
千田 正(ちだ ただし、1899年4月28日 - 1983年… 千田 正(ちだ ただし、1899年4月28日 - 1983年2月5日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位。勲等は勲一等。学位は商学士(早稲田大学)。金ケ崎町名誉町民。 参議院議員3期(1947年 - 1962年)、岩手県知事4期(1963年 - 1979年)を歴任した。 1899年(明治32年)、岩手県胆沢郡金ケ崎村(現・金ケ崎町)三ケ尻に父・政五郎と母・マサの長男として生まれる。千田家は水沢から三ケ尻に移り住み、北上川の舟運事業を行う地域有数の豪農だった。7歳で父を亡くした千田は、マサと養蚕と雑貨屋を始めた。 1905年(明治38年)、三ヶ尻小学校尋常科入学。1913年(大正2年)、胆沢郡立胆沢農業高等学校(現・岩手県立水沢農業高等学校)に進み、水沢の祖母宅から通った。
山本 敏雄(やままと としお、1899年(明治32年)4月2… 山本 敏雄(やままと としお、1899年(明治32年)4月27日 - 1971年(昭和46年)11月4日)は、日本の政治家。元茨城県水戸市長(5期)。 茨城県出身。1917年、茨城県立水戸中学校卒業。小学校代用教員を経て東京堂に勤務。水戸市会議員から水戸市助役となる。1947年、当時の水戸市長・風戸元愛が公職追放令により市長を辞職。市長選挙に立候補し、当選する。爾来5期20年に亘り市長の座にあった。水戸市から名誉市民を贈られた。
三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26… 三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26日 - 1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。海兵48期。最終階級は海軍少将。テニアン島で戦死。 1899年(明治32年)4月26日、岡山県に中学校長も勤めた教育者の息子として生まれる(本籍は岐阜県)。旧制北野中学を経て、1920年(大正9年)7月16日、海軍兵学校48期を171名中31番の席次で卒業、少尉候補生。 1921年(大正10年)6月、少尉任官。1923年(大正12年)6月、霞ヶ浦海軍航空隊に第9期航空術学生として入隊し、1924年(大正13年)5月に卒業。戦闘機搭乗員任命。1925年(大正14年)、霞ヶ浦海軍航空隊分隊長。
山村 久(やまむら ひさし、1899年4月25日 - 198… 山村 久(やまむら ひさし、1899年4月25日 - 1988年12月28日)は、日本の政治家。品川区議会議員(1期)、第4代品川区議会議長、東京都議会議員(7期)、第25代東京都議会議長を歴任した。 1899年4月25日、福井県に生まれる。1933年に金沢医学専門学校(現金沢大学医薬保健学域)卒業。1951年に荏原医師会長となる。また、同年から品川区議会議員を1期4年務める。この間、第4代品川区議会議長(1952年6月11日から1953年10月4日)を務めた。1955年、東京都議会議員選挙に品川区選挙区から立候補して、初当選する。その後、港湾委員会委員長(1956年)を務めた。1958年5月1日に衆議院選挙に立候補するため都議会議員を辞職した。
山本 利三郎(やまもと りさぶろう、1899年4月25日 -… 山本 利三郎(やまもと りさぶろう、1899年4月25日 - 1982年5月30日)は、日本の鉄道技術者。 東京急行電鉄(大東急)から分離した後の小田急電鉄に取締役運輸担当として就任し、同社3000形電車(SE車)の開発に尽力した。また、その後の小田急電鉄の車両における思想に影響を残した。 大阪府大阪市南区(現在の天王寺区)上汐に生まれる。旧制第四高等学校を経て、1924年3月に九州帝国大学工学部電気工学科を卒業し、鉄道省に入省。 鉄道省では電気局に配属となり、1931年までに品川電車庫、田町機関庫、東京機関庫、蒲田電車庫、国府津機関庫などの現業機関を経験する。田町機関庫では導入されたばかりのイギリス製電気機関車に故障が多く苦労したという。
小保内 虎夫(おぼない とらお、1899年4月25日 - 1… 小保内 虎夫(おぼない とらお、1899年4月25日 - 1968年12月21日)は、日本の心理学者。 岩手県二戸郡福岡町(現在の二戸市)出身。旧制福島中学、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年東京帝国大学文学部心理学科卒業。東京高等学校教授、日本大学教授、1945年東京文理科大学教授、1949年東京教育大学教授、1963年日本大学文理学部教授を歴任。 1952年「認識錯誤の法則に関する研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。視知覚の研究で小保内学説と呼ばれる感応理論を創設。
古村敏章(こむら としあき、1899年〈明治32年〉4月24… 古村敏章(こむら としあき、1899年〈明治32年〉4月24日 - 2000年〈平成12年〉1月1日)は、日本の実業家。位階は正六位。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身。長野県諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1931年丸興製糸(後の丸興工業)の創業に関わり、常任監査就任。専務を経て、1955年社長に就任。1962年長野県撚糸工業組合理事長。1964年市立岡谷蚕糸博物館初代館長。2000年死去。死没日付をもって正六位に叙された。
代田 稔(しろた みのる、1899年〈明治32年〉4月23日… 代田 稔(しろた みのる、1899年〈明治32年〉4月23日 - 1982年〈昭和57年〉3月10日)は、日本の医学博士、実業家。ヤクルトの開発者で実質的な創業者。長野県下伊那郡竜丘村(現:飯田市)出身。 貧しい人でも健康を手に入れられるよう「ハガキ1枚煙草1本の値段で買えるヤクルト」を経営標語とし、「健腸長寿」を理念とした。 「ヤクルトの父 代田稔物語」という伝記漫画が2004年の小学館『小学三年生』四月号に掲載され、2015年4月からはヤクルト80周年記念サイトにて配信されている(原案:久保田千太郎 漫画:ながいのりあき) 正五位、勲三等瑞宝章を受章。
水野 浩(みずの ひろし、1899年4月23日 - 1970… 水野 浩(みずの ひろし、1899年4月23日 - 1970年3月22日[要出典])は、日本の俳優である。本名は水野 浩一(みずの こういち)。青年期の舞台俳優から映画俳優に転向、老年期まで脇役に徹したことで知られる。 1899年(明治32年)4月23日、兵庫県神戸市に生まれる。 旧制・兵庫県第二神戸中学校(通称神戸二中、現在の兵庫県立兵庫高等学校)を卒業し、演劇を志して、佐藤紅緑が1915年(大正4年)に起こした劇団「日本座」に参加、その後、喜劇や歌劇(オペラ)、剣劇等の劇団を渡り歩く。満30歳を迎える1929年(昭和4年)、京都の松竹下加茂撮影所に入社、舞台俳優から映画俳優に転向する。その後、月形龍之介の月形プロダクション、尾上菊太郎の尾上菊太郎プロダクションに移籍したというが、出演記録は不明である。
倉島 丹浪(くらしま たんろう、1899年(明治32年)4月… 倉島 丹浪(くらしま たんろう、1899年(明治32年)4月22日 - 1992年(平成4年)12月23日)は、日本画家。河童の絵を多く手掛けた。 長野県埴科郡倉科村(現・千曲市)生まれ。旧制長野中学に進む。1921年(大正10年)、上京し、本郷絵画研究所に学び、橋本静水に師事。1926年(大正15年)、横山大観に入門。1930年(昭和5年)、野木逸子と結婚。「八代宗彦」の名で漫画家として活躍。戦後、屋代町(現・千曲市屋代)の芸術家集団白炎社設立に参加。1969年(昭和44年)、創作画協会の設立に尽力、特別理事に就任。1974年(昭和49年)、紺綬褒章受章。1980年(昭和55年)、更埴市長表彰。
水谷 一生(みずたに かずお、1899年(明治32年)4月2… 水谷 一生(みずたに かずお、1899年(明治32年)4月22日 - 1949年(昭和24年)11月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 三重県出身。農業・水谷専松の長男として生まれる。富田中学校を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第51連隊付となる。陸士付などを経て、1934年(昭和9年)8月から1937年(昭和12年)1月まで秩父宮雍仁親王付武官を務める。その後、陸士教官となり、1937年8月、歩兵少佐に昇進し、1938年(昭和13年)5月まで陸軍大学校で専科学生(5期)として学ぶ。同年5月、第16師団参謀に就任し、参謀本部員(大本営研究班)を経て、1940年(昭和15年)8月、歩兵中佐に進級。
正宗 厳敬(まさむね げんけい、1899年(明治32年)4月… 正宗 厳敬(まさむね げんけい、1899年(明治32年)4月22日 - 1993年(平成5年)6月18日)は、日本の植物学者。理学博士。 岡山県和気郡伊里村穂浪(現在の備前市穂浪)に生まれる。旧制第七高等学校を経て、1929年(昭和4年)、東京帝国大学理学部植物学科を卒業後、台北帝国大学理農学部助手となり、1934年(昭和9年)には同大助教授兼農林専門部教授となった。太平洋戦争後は、一時、横浜国立大学で勤務した後、1950年(昭和25年)金沢大学に赴任。金沢大学理学部(現・金沢大学理工学域)植物分類・地理学講座の初代教授を務めた。 ボルネオと台湾の植物誌の編纂、ラン科植物の分類などを行うと同時に、植物地理学的な研究も行った。
中西 其十(なかにし きじゅう、1899年(明治32年)4月… 中西 其十(なかにし きじゅう、1899年(明治32年)4月21日 - 1922年(大正11年)1月18日)は、京都府出身の俳人。京大三高俳句会設立会員、「京鹿子」創刊同人。本名、喜重郎。 京都府船井郡檜山村(ひのきやまむら)字八田第三番戸(現・船井郡京丹波町八田)に生まれる。父母の名は現在のところ不明。 1916年(大正5年)、同志社中学3年に中途編入。中学では小西米太という親友を得、島崎藤村の詩や古人の俳句について語り合い、また、芝居や浄瑠璃へも共に行った。 1919年(大正8年)3月、同志社中学校卒業。米太と共に、本格的に俳句を書き始める。当初の俳号は喜郎や西郎、坡十など。三高入学後に其十と名乗った。
岡安 彦三郎(おかやす ひこさぶろう、1899年4月20日 … 岡安 彦三郎(おかやす ひこさぶろう、1899年4月20日 - 1982年9月14日)は、日本の地方公務員。東京都副知事を務めた。 岡安六郎の五男として埼玉県に生まれる。父・六郎が生命保険会社の福岡支店長を務めていたため福岡市で育つ。1917年福岡県立中学修猷館、第五高等学校を経て、1925年京都帝国大学法学部法律学科を卒業。 東京市役所に入り、財務局地理課庶務掛長、同地理課長、経済局庶務課長、市長室企画部予算課長、1943年7月に東京市と東京府が廃止され東京都となると、その都長官官房用度課長、1946年5月日本橋区長、財務課長、財務部長、財務局長を歴任した後、1949年12月、東京都副知事に就任。
坂口 主税(さかぐち ちから、1899年(明治32年)4月2… 坂口 主税(さかぐち ちから、1899年(明治32年)4月20日 - 1981年(昭和56年)4月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、熊本市長(2期)を歴任した。 熊本県玉名郡賢木村(現・南関町)出身。1917年(大正6年)熊本県立玉名中学校、旧制第五高等学校を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。台湾総督府に入り、高雄、台北の各州の知事などを務め、台湾新報社社長に就任する。 帰国後、郷里の賢木村長に就任。1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に旧熊本1区(定数5)から民主党公認で立候補し、初当選した。1949年(昭和24年)に再選。1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙の旧熊本1区では改進党は坂口を含め5人の候補者を擁立。
武智 馨(たけち かおる、1899年4月20日 - 1987… 武智 馨(たけち かおる、1899年4月20日 - 1987年12月3日)は、日本の機械工学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(名古屋大学)。元広海軍工廠鋳物実験部長・海軍技術者。日本鋳造協会関西支部元顧問。鋳物工学研究の第一人者の一人。 専門は、鋳造工学・鋳物工学。 1899年愛媛県松山市生まれ。1923年京都帝国大学工学部機械工学科卒業。広海軍工廠・横須賀海軍工廠などで、鋳物砂の調査に携わる。1935年ドイツ留学(技術監督官)、国際鋳物会議へ出席。1940年広海軍工廠鋳物実験部所長、戦艦のプロペラ鋳造に従事。1944年東京軍儒省鋳造技術指導班班長(第1級鋳物工場の技術指導)を経て、広海軍工廠素材部長兼鋳物実験部長。
高岡 忠弘(たかおか ただひろ、1899年(明治32年)4月… 高岡 忠弘(たかおか ただひろ、1899年(明治32年)4月20日 - 1972年(昭和47年)10月23日)は、昭和期の林業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県中蒲原郡十全村長、同村松町長。 新潟県中蒲原郡十全村別所(村松町別所を経て現五泉市)で、高岡忠興の長男として生まれる。1922年(大正11年)家督を相続。1924年(大正13年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。農業を営む。 新潟県森林組合連合会長、同林業団体連絡協議会長、新潟木工 (有)専務取締役、北日本航空工業取締役社長、北越木材工業取締役社長などを務めた。 政界では、十全村長、新潟県会議員、同参事会員、大政翼賛会新潟県支部参与、新潟県社会教育委員長などを務めた。
山本 政喜(やまもと まさき、1899年〈明治32年〉4月2… 山本 政喜(やまもと まさき、1899年〈明治32年〉4月20日 - 1960年〈昭和35年〉4月7日)は、日本の英文学者・翻訳家。筆名・柾 不二夫(まさき ふじお)。息子にロシア文学者の川端香男里、娘に美術史家の若桑みどりがいる。 福岡県嘉穂郡幸袋町(現・飯塚市)出身。山本荒吉の四男。旧制第一高等学校を経て、1924年に東京帝国大学文学部英文学科を卒業。卒業後4年間滿洲において兵役を務め、その後、中等学校教員、講座編集のほか、雑誌寄稿、翻訳書等の出版に従事。1929年ごろから、「柾不二夫」のペンネームで『戦旗』『ナップ』にアメリカの左翼活動記事を翻訳紹介した。1932年、プロレタリア科学研究所マルクス主義芸術学研究会同人となった。
辻 兵太郎(つじ ひょうたろう、1899年(明治32年)4月… 辻 兵太郎(つじ ひょうたろう、1899年(明治32年)4月18日 - 1954年(昭和29年)6月24日)は、日本の政治家(秋田市会議員、同副議長)、商人(呉服商、秋田県呉服太物商組合長)、実業家。秋田土地社長。辻代表。秋田商工会議所副会頭。 秋田県・辻兵吉の長男。辻吟次郎の甥。1917年、秋田中学卒業。1919年、志願兵として入営し、陸軍中尉に進級した。呉服商を営み傍ら会社の重役であった。秋田市会議員に推され、1942年7月13日、副議長(第18代)に就任し、1945年3月10日、退任した。 趣味は囲碁、運動。宗教は浄土真宗。秋田県在籍。住所は秋田市大町、東京市麹町区永田町。
池田 源太(いけだ げんた、1899年4月18日 - 199… 池田 源太(いけだ げんた、1899年4月18日 - 1995年11月18日)は、日本の日本文化史学者、奈良教育大学名誉教授。 大分県宇佐市生まれ。1932年京都帝国大学文学部国史科卒業。西田直二郎に師事。京都市立第一商業学校、京都府立第一中学校教諭、龍谷大学講師、橿原文庫主事。1949年、奈良学芸大学教授、奈良教育大学教授。1961年、「歴史の始源と口誦伝承」で京都大学文学博士。1963年、定年退官、名誉教授、龍谷大学教授。1978年、勲三等瑞宝章を受章。
大久保 謙(おおくぼ けん、1899年4月18日 - 198… 大久保 謙(おおくぼ けん、1899年4月18日 - 1986年3月26日)は、日本の実業家。三菱電機代表取締役社長や、日本電機工業会会長、日本兵器工業会会長、日本電子機械工業会会長などを歴任した。正四位勲二等旭日重光章。 栃木県出身。1921年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)機械科卒業。1924年東北帝国大学工学部電気工学科卒業、三菱電機入社。姫路工場長、営業部長を経て、1954年取締役事業部長に昇格。 1964年から三菱電機社長を務め、兵器事業の強化にあたった。1965年藍綬褒章受章。 1970年三菱電機会長。1971年蔵前工業会理事長。日本電機工業会会長、日本兵器工業会会長、日本電子機械工業会会長も歴任。
小池 政恩(こいけ せいおん、1899年4月18日 - 19… 小池 政恩(こいけ せいおん、1899年4月18日 - 1963年12月20日)は、日蓮宗僧侶、衆議院議員(1期)。息子は三島市長の小池政臣、孫は衆議院議員の小池政就。 静岡県出身。1929年法政大学文学部英法科を卒業後、日蓮宗布教院で教学を学ぶ。沼津市の住本寺住職、三島市猛通寺住職、宗会議員を歴任した後に本山玉沢妙法華寺貫首に晋山。三島高等実科女学校で教鞭も執った。宗教活動のほか社会福祉活動にも力を注ぎ、境内に老人福祉施設「玉沢昭寿園」を作った。1959年、社会福祉法人静岡恵明学園の理事長に就任。 政治家としては第22回衆議院議員総選挙に日本自由党から静岡県選挙区で立候補し当選した。
小川 勝次(おがわ かつじ、1899年(明治32年))4月1… 小川 勝次(おがわ かつじ、1899年(明治32年))4月16日 - 1988年(昭和63年)9月7日)は、新潟県高田市(現・上越市)出身のスキー選手・指導者。第3代全日本スキー連盟会長。 1911年、郷里でレルヒ少佐の講習会を見学して以来、スキーに親しむようになる。旧制高田中学校を経て、1923年早稲田大学商学部卒。中学・大学を通じクロスカントリースキーの選手として活躍し、1923年の第1回全日本スキー選手権大会にも出場している。大学卒業後、安田銀行(現・みずほ銀行)に入行し、1937年まで勤務。この間、1923年に大日本体育協会のスキー部員となり、さらに1925年に全日本スキー連盟が設立されると常務委員となる。
松澤 靖介(松沢、まつざわ やすすけ、1899年(明治32年… 松澤 靖介(松沢、まつざわ やすすけ、1899年(明治32年)4月16日 - 1959年(昭和34年)6月8日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員(1期)、医学博士。 山形県北村山郡長瀞村(東根町を経て現東根市または河北町)で、松澤幾太郎(後年、敬之と改名)の長男として生まれる。1926年(大正15年)北海道帝国大学医学部を卒業した。同年、同大学附属病院で勤務した。 1934年(昭和9年)至誠堂病院第4代病院長に就任。その他、山形県保険医指導委員長、同県社会保険審査会審査委員長、日本医師会代議員、同理事、第2代山形県医師会長、山県市医師会長、秋田鉄道医会副会長、山形県医療機関整備審議会会長、国民健康保険審査会委員長、山形県教育委員会委員長、都道府県教育委員会連絡協議会副会長、山形県打毬会会長などを務めた。
川俣 清音(川俣 淸音、かわまた せいおん、1899年(明治… 川俣 清音(川俣 淸音、かわまた せいおん、1899年(明治32年)4月15日 - 1972年(昭和47年)12月7日)は、大正、昭和期の社会運動家、農民運動家、政治家。衆議院議員(8期) 1899年4月15日、北海道余市郡余市町に生まれる。1923年(大正12年)早稲田大学を卒業する。大学在学中から農民運動に参加し、1924年(大正13年)秋田県で日本農民組合(日農)支部を組織する。日農では中央委員を務め、小坂銅山争議では、加藤勘十、浅沼稲次郎、三輪寿壮らとともに現地に赴き争議を指導する。 1930年(昭和5年)地方無産党から衆議院選挙に立候補するものの落選。1936年(昭和11年)社会大衆党から衆議院議員に初当選する。
吉野 せい(よしの せい、1899年〈明治32年〉4月15日… 吉野 せい(よしの せい、1899年〈明治32年〉4月15日 - 1977年〈昭和52年〉11月4日)は、日本の文筆家。 福島県石城郡小名浜町(現・福島県いわき市)に生まれる。旧姓は若松。少女時代から文学に親しみ、雑誌や新聞に短歌や短編を投稿する。尋常高等小学校高等科を卒業後、独学で小学校准教員検定に合格し、1916年から2年ほど小学校に勤務する。このころ平で牧師をしていた山村暮鳥に出会い、文学の指導などを受ける。また鹿島村(現・いわき市鹿島町)の八代義定の書斎「静観室」に通い多くの書を読む。 1921年(大正10年)3月、詩人の三野混沌(本名:吉野義也)と結婚、原稿や日記をすべて焼いて、好間村(現・いわき市好間町)北好間の菊竹山で開墾生活に入る。
黒田 寿男(くろだ ひさお、1899年4月14日 - 198… 黒田 寿男(くろだ ひさお、1899年4月14日 - 1986年10月21日)は、日本の農民運動家、政治家、弁護士。1948年結成の労働者農民党の初代主席。元衆議院議員。 岡山県津高郡金川村(のち御津郡金川村→金川町→御津町、現・岡山市北区)出身。第六高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。在学中に新人会で活動し、学生連合会を結成、委員長となる。法曹資格を得て後は自由法曹団で労働運動・農民運動を支援。労農党、労農派に参加した。1929年(昭和4年)には東京無産党を結成して書記長に就任、翌年に全国大衆党に合流した。 1936年(昭和11年)に行われた第19回衆議院議員総選挙に岡山県第1区から全国農民組合の支援を受けて出馬。
権藤 花代(ごんどう はなよ、1899年(明治32年)4月1… 権藤 花代(ごんどう はなよ、1899年(明治32年)4月13日 - 1961年(昭和36年)11月3日)は、唱歌「たなばたさま」作詞者・童謡詩人。本名は権藤はなよ。結婚前は伊藤はなよの旧姓で作品を発表、結婚後はペンネーム権藤はな子を使っていた。2008年頃までは、「権藤花代」という漢字名が使用されていたが、その後は本名の「権藤はなよ」が一般的になっている。実兄の伊藤生更はアララギ派の歌人であり、短歌結社「美知思波」を創立している。 1899年(明治32年)山梨県北巨摩郡穴山村(現・韮崎市穴山町)に、父・伊藤友重(ともじゅう)、母・やよの次女として生まれる。 1919年(大正8年)山梨県師範学校(現・山梨大学)を卒業。
村田 五郎(むらた ごろう、1899年〈明治32年〉4月11… 村田 五郎(むらた ごろう、1899年〈明治32年〉4月11日 - 1982年〈昭和57年〉3月24日)は、日本の内務官僚。官選群馬県知事、情報局次長。 愛知県出身。実業家・村田義教の長男として生まれる。台北中学、第八高等学校を経て、1923年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年5月、内務省に入り富山県警部として警察部警務課に配属された。 以後、富山県氷見郡長、東京府内務部農林課長、同学務部社会課長、同知事官房主事兼秘書兼文書課長、東京府工業組合監督官、大分県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同庁官房主事、厚生省体力局体育課長、内務秘書官・警保局外事課長、福岡県総務部長、内務省地方局振興課長、兼平沼騏一郎国務大臣付秘書官、内務事務官・警保局保安課長などを歴任。
吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)… 吉野 源三郎(よしの げんざぶろう、1899年(明治32年)4月9日 - 1981年(昭和56年)5月23日)は、編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・反戦運動家・ジャーナリスト。昭和を代表する進歩的知識人。『君たちはどう生きるか』の著者として、また雑誌『世界』初代編集長としても知られている。岩波少年文庫の創設にも尽力した。明治大学教授、岩波書店常務取締役、日本ジャーナリスト会議初代議長、沖縄資料センター世話人などの要職を歴任した。
肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 … 肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 - 1981年(昭和56年)2月24日)は、日本の歴史学者。東京教育大学文理科教授を経て、東京教育大学名誉教授。日本古代史の重鎮であった。茨城県久慈郡大子町出身。従三位勲三等旭日中綬章。 茨城県久慈郡大子町生まれ。茨城県立下妻中学校、東京高等師範学校を卒業後、福岡県立東筑中学校、長野師範学校で教鞭をとる。1927年(昭和2年)京都帝国大学史学科(国史科専攻)卒業。同大学院入学。1932年(昭和7年)より東京文理科大学(後の東京教育大学)講師となり、1933年(昭和8年)同大助教授、1943年(昭和18年)同大教授。1946年(昭和21年)公職追放。
小山 元一(こやま もとかず、1899年(明治32年)4月8… 小山 元一(こやま もとかず、1899年(明治32年)4月8日 - 1973年(昭和48年)12月22日)は、日本の政治家。三郷村会議員、三郷村長(2期)、高田市議会議員(2期)、高田市長(2期)、上越市長(1期)。 新潟県中頸城郡三郷村(高田市を経て、現在の上越市)出身。1927年明治大学政経学科卒。1934年三郷村会議員となり、1947年まで務め、同年4月三郷村長に就任した。三郷村長は高田市に合併されるまでの1955年まで務め、同年5月に高田市議会議員に当選し、2期務めた。1963年高田市長選挙に立候補して当選、2期務めた。在職中、高田市は隣接の直江津市との合併が成立し、1971年に上越市が発足し、初代市長に就任した。
兵頭 精(ひょうどう ただし、1899年4月6日 - 198… 兵頭 精(ひょうどう ただし、1899年4月6日 - 1980年4月23日)は、日本で最初に飛行機操縦士免許を取得した女性である。愛媛県北宇和郡好藤村東仲(後の鬼北町)の出身。 四姉妹の末娘として生まれる。精が11歳の時、父が脳溢血のため53歳で亡くなる。子供の頃から英才で知られ、高等小学校卒業後に松山市の済美高等女学校(後の済美高等学校)3年に編入。亡父の林太郎が空に憧れ、飛行機の設計図を書いていたことを知った精もまた空に憧れてパイロットを志した。同校を卒業後、周囲から医師や教師を勧められた精は1919年(大正8年)1月に次姉の譲留と共に家を出る。そして大阪で薬剤師見習いを始めたものの、同年11月15日に上京。
瀬戸 直一(せと なおいち、1899年4月6日 - 1990… 瀬戸 直一(せと なおいち、1899年4月6日 - 1990年2月16日)は、日本の経営者。長野県出身。 1922年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に日出紡織に入社。 1941年に大和紡人絹(のちの大和紡績)に転じ、1948年に取締役に就任し、1952年に常務、1955年に専務を経て、1962年に副社長に就任し、1963年には社長に昇格。1974年6月に会長を経て、1977年6月には相談役に就任した。 1967年10月に藍綬褒章を受章し、1974年5月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年2月16日心不全のために死去。90歳没。
尾原 勝吉(おばら かつきち、1899年 <明治32年> 4… 尾原 勝吉(おばら かつきち、1899年 <明治32年> 4月5日 - 1981年 <昭和56年> 3月6日)は、日本の指揮者、ヴァイオリニスト。 島根県簸川郡久木村(現、出雲市斐川町美南)に生まれる。父の甚四郎は華道・池坊の宗匠、兄の定次郎は高等女学校の図画教師という芸術一家で育つ。幼少期から音楽を好み、5歳で横笛を吹きこなして周囲を驚かせた。一方、大社中学校(現・島根県立大社高等学校)に進学後はスポーツにも万能で、野球部の主将として、1917年(大正6年)の第3回全国中等学校優勝野球大会に出場し勇名を馳せた。 1919年(大正8年)、同中学校を卒業し明治大学商学部へ入学。在学中の同年、宮内庁音楽部の山井基清にヴァイオリンの手ほどきを受け習得する。
武野 藤介(たけの とうすけ、1899年4月3日 - 196… 武野 藤介(たけの とうすけ、1899年4月3日 - 1966年7月25日)は、日本の小説家。本名は武野真寿太。 岡山市生まれ。岡山中学校在学中、回覧雑誌などを作り文学に没頭。二度落第し、中学卒業に7年かかる。1919年上京、編入試験を受けて早稲田大学予科入学、ロシア文学科に進んだが、1923年中退。新聞記者、雑誌記者となり、文壇ゴシップやコントが評判となる。 戦時下は時局的な小説を書いたが、戦後1950年頃から『あまとりあ』などカストリ雑誌の常連となり、以後艶笑小説を専らとする。小説に「嘘」「ぬれつばめ」、ゴシップをもとにした「文壇余白」「武野藤介風流文学自選集」などがある。
関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ、1899年4… 関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ、1899年4月3日 - 1919年6月16日)は、日本の洋画家。 1899年、福島県西白河郡大沼村(現白河市)に屋根葺き職人の父のもとに生まれた。1908年、前年に発った父を追い上京、深川区東町に移る。江東区立東川小学校の同級生に伊東深水がおり、伊東の紹介で1914年に東京印刷株式会社に就職。そこでオスカー・ワイルドの作品を読み、ワイルドの思想に触れた。 1913年頃から絵画の勉強をはじめ、数ヶ月だけ太平洋画研究所に通ったものの、ほぼ独学で絵画を習得する。1915年、会社を辞めた関根は長野県へ放浪し、洋画家の河野通勢と出会う。同年10月、「死を思ふ日」が第2回二科展に入選。
有賀 鉄太郎(ありが てつたろう、1899年4月1日 - 1… 有賀 鉄太郎(ありが てつたろう、1899年4月1日 - 1977年5月25日)は、日本のプロテスタント神学者、教会史・教理史学者。 1899年、大阪府で生まれ、東京で育った。東京府立一中で学び、在学中の1917年に日本基督同胞教会原宿教会で受洗。一中を卒業後は同志社大学神学部に入学。卒業論文はシュライアマハーの宗教本質論に関するものであった。卒業後、1922年から1925年までニューヨークのユニオン神学校に留学し、修士号を取得。修士論文のテーマはトレルチの宗教本質論であった。 1925年に帰国し、翌1926年に同志社大学文学部神学科の講師に就任。1930年、文学部神学科教授に昇格。1931年より中国燕京大学客員教授。
城 英一郎(じょう えいいちろう、1899年(明治32年)4… 城 英一郎(じょう えいいちろう、1899年(明治32年)4月1日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵47期。最終階級は海軍少将。 1899年(明治32年)4月1日、熊本県熊本市東坪井町26番地に蚕糸業を営む城喜又と梅の4人兄弟姉妹の長男として生まれる。県立熊本中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第31期)を受験し、双方に合格している。1916年(大正5年)8月31日、海軍兵学校47期に151名中28位の成績で入校。1919年(大正8年)10月9日、海軍兵学校を成績順位115名中第28位で卒業、海軍少尉候補生となる。 1923年(大正12年)12月1日海軍大尉進級。
福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977… 福井 孝治(ふくい こうじ、1899年4月1日 - 1977年3月13日)は日本の経済学者・社会科学者。大阪経済大学、旧制大阪商科大学、大阪市立大学の学長を歴任。学位は経済学博士(大阪商科大学)。大阪市立大学名誉教授。 愛知県出身。第八高等学校を経て1922年京都帝国大学経済科卒、同大学院に進学、河上肇に師事した。1925年、福島高等商業学校(現・福島大学経済学部)教授。1929年に旧制大阪商科大学助教授に就任し1933年教授、経済学原論やドイツ語を講じた。戦後は学制改革に伴い1949年に大阪商科大などを母体に発足した大阪市立大学経済学部教授。翌1950年からは前年に急逝した黒正巌に代わり大阪経済大学の学長(第2代)も務めた(-1960年)。
深見 義一(ふかみ ぎいち、1899年4月1日 - 1972… 深見 義一(ふかみ ぎいち、1899年4月1日 - 1972年12月7日)は日本の経営学者、商業学者。一橋大学名誉教授。 マーケティング、小売政策、通信販売、切符制度研究等の先駆者とされる。 第1回日本商業学会賞受賞。元社団法人流通問題研究協会会長。 東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部卒業後、名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部)で教鞭をとったのち、東京商科大本科に入学し、1929年に同大学学部卒業。首席卒業生総代。同期に高橋泰蔵一橋大学名誉教授がいる。 大学で内池廉吉に師事し、内池の「市場論」を継ぐ。語学に堪能で、英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語に通じ、大学を卒業した1929年から1935年までアメリカ合衆国、ドイツ、イタリアに留学した。
永井 浩(ながい ひろし、1899年(明治32年)4月 - … 永井 浩(ながい ひろし、1899年(明治32年)4月 - 1960年(昭和35年)8月3日)は、日本の内務・文部官僚。官選熊本県知事。 青森県出身。永井武彦の長男として生まれる。第六高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し東京府属となる。 以後、地方警視、復興局事務官、滋賀県書記官・学務部長、石川県書記官・警察部長、愛知県書記官・学務部長、厚生省書記官などを歴任。1939年、文部省に転じ、同省書記官、東京美術学校校長事務取扱、専門学務局長を経て、学徒動員局長となる。 1946年1月、前任の平井章が公職追放で辞任したことに伴い熊本県知事に就任したが、同年7月、永井自身も公職追放となり知事を辞した。
板倉 乾(いたくら けん、明治32年(1899年)4月 - … 板倉 乾(いたくら けん、明治32年(1899年)4月 - 昭和58年(1983年)4月4日)は日本の実業家。元鳥取缶詰社長。元境港商工会議所副会頭。元鳥取県貿易振興会顧問。元境港水産加工団地顧問。 鳥取缶詰会長板倉周二の岳父。鳥取缶詰社長板倉良多の祖父。 鳥取県米子市西町出身。 大正10年(1921年)早稲田大学卒業後、合資会社板倉商店代表社員、鳥取合同缶詰社長を経て昭和29年(1954年)鳥取缶詰社長に就任。昭和57年(1982年)同社会長に就任。 県貿易振興会会長、日本いわし・あじ缶詰輸出水産業組合理事長などを歴任。
小沢 儀明(おざわ よしあき、1899年3月31日 - 19… 小沢 儀明(おざわ よしあき、1899年3月31日 - 1929年12月28日)は地質学者、古生物学者。東京帝大助教授。 1899年、山梨県東山梨郡日下部村の大地主の家に生まれた。1916年、日川中学校を卒業し、第一高等学校に入学。中学時代より地学に関心があり、高校では科学会に所属して坪井誠太郎と共に活動した。高校1年次にすでに東京地質学会創立第20周年記念総会に出席した記録が残っている。1920年、東京帝国大学地質学科に入学。トマス・ヘンリー・ハクスリーの『白亜の一片(On a piece of chalk)』を読んで、地史学・古生物学の道を志したという。在学中より第二講座の横山又次郎の指導を受け、山口県秋吉台周辺の化石層序を研究した。
小林 周蔵(こばやし しゅうぞう、1899年〈明治32年〉3… 小林 周蔵(こばやし しゅうぞう、1899年〈明治32年〉3月31日 - 1984年〈昭和59年〉10月9日)は、昭和時代の日本の実業家である。信越化学工業の第5代社長を務めた。現在の長野市出身。 1899年(明治32年)3月31日、小林太一郎の三男として生まれる。出身地は長野県上水内郡朝陽村(現・長野市)。長野中学校を卒業したのち、東京商科大学(現一橋大学)大学予科を経て1924年(大正13年)3月同大学本科を卒業した。 大学卒業後は前年に設立されたばかりの電機メーカー富士電機製造(現・富士電機)へと志願入社し、川崎工場に配属された。1931年(昭和6年)秋、富士電機製造から退社し、郷里長野県の電力会社信濃電気に入社する。