塩入 松三郎(しおいり まつさぶろう、1889年11月12日… 塩入 松三郎(しおいり まつさぶろう、1889年11月12日 - 1962年10月1日)は、土壌学者。東京大学名誉教授。土壌学、肥料学の権威で、水田土壌、畑土壌化学、休閑期の土壌乾燥効果等の研究に於いて業績を残した。 長野県上水内郡水内村(現・長野市)の酒造業の家に生まれる。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1911年(明治44年)第二高等学校二部乙類卒業、1914年(大正3年)東京帝国大学農芸科学科卒業。農商務省農事試験場に勤務。1922年(大正11年)に農芸化学部長となり、1926年(大正15年)から1年間イギリス、アメリカ、フランス、ドイツに留学。 1942年(昭和17年)「土壤及肥料の無機主成分の微量定量法に就て」により農学博士(東京帝国大学)。
原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日… 原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日 - 1976年3月22日)は官僚、政治家。第12代神戸市長。工学博士、参議院議員。
徐 禹錫(ソ・ウソク、朝鮮語: 서우석、1889年11月12… 徐 禹錫(ソ・ウソク、朝鮮語: 서우석、1889年11月12日または12月6日 - 1966年)は、日本統治時代の朝鮮、満洲および大韓民国の実業家、教員、政治家。制憲韓国国会議員。 号は夢撨(モンチョ、몽초)。 全羅南道光州(現・光州広域市)または谷城出身。京畿工業伝習所応用化学科を経て、朴賛翊と共に西間島へ渡満し、私立敦校教員を務めた後、帰国し中央大学専門部法学部卒。抱川郡青城第七学校教員を務めた後、吉林省延吉府和龍県にイムソン学校を設立し、東興学校校長を務めた。以後講演家、朝鮮民立大学期成会光州地方部創立総会執行委員、新幹会光州支部会員、在満同胞擁護同盟準備委員、光州商民大会執行委員、湖南銀行本店嘱託、海南興産株式会社支配人、煉瓦製造工場経営者、韓国建国準備委員会光州府委員会委員・副委員長、韓国民主党光州支部総務、大韓独立促成国民会光州支部副委員長、光州国民協同組合理事長、南朝鮮過渡立法議員、制憲国会議員、国会法制司法委員・麗順事件調査収拾対策委員、弾劾裁判官正裁判官を歴任した。
原 菊太郎(はら きくたろう、1889年(明治22年)11月… 原 菊太郎(はら きくたろう、1889年(明治22年)11月10日 - 1972年(昭和47年)5月7日)は政治家。徳島県知事、徳島市長。徳島県徳島市出身。 1889年、徳島市佐古普請町(現佐古一番町)に生まれる。旧制徳島中学校を経て盛岡高等農林学校中退、家業の木材商を営む。 1942年、徳島市会議員に当選後、1948年、徳島市長を経て、1955年、徳島県知事に就任する(三選、在任期間1955年 - 1965年)。1965年地方自治功労により勲二等瑞宝章を受章した。 知事以外にも徳島県地方木材株式会社社長、徳島市商工会議所会頭、徳島県体育協会長、徳島県美術家協会長、徳島日独会長を歴任した。1972年に没する。
杤木 嘉郎(とちぎ よしお、1889年(明治22年)11月1… 杤木 嘉郎(とちぎ よしお、1889年(明治22年)11月10日 - 1969年(昭和44年)5月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。杤木汽船社長、貴族院勅選議員。「栃木」と表記される場合がある。 福岡県で実業家・杤木順作の長男として生まれる。1915年(大正4年)早稲田大学商科を卒業した。 1915年、杤木慎作商店に入社。同年、杤木商事を設立し取締役に就任。以後、杤木合名会社代表社員、杤木商事社長、杤木化学工業取締役、全国沿岸タンカー組合理事長、九州造船社長、船舶運営会評議員、船舶管理委員会専門委員、海事審議会専門委員、福岡県若松市会議員などを務めた。1945年(昭和20年)杤木商事が杤木汽船に名称を変更し引き続き社長に在任した。
前田 稔靖(まえだ としやす、1889年(明治22年)11月… 前田 稔靖(まえだ としやす、1889年(明治22年)11月9日 - 1945年(昭和20年)12月4日)は、日本の内務官僚。小倉市助役。九州帝国大学学生主事、講師。九州法学校設立者。福岡県出身。 福岡県企救郡足立村(現北九州市小倉北区)の素封家に生まれる。旧制豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)、第一高等学校を経て、1915年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格し、大阪市役所を経て台湾総督府に移り、1922年、台湾総督府財務局事務官で退官し、その後、長崎高等商業学校教授に就任した。 1926年から1929年まで小倉市助役を務めた。また時の市長・神崎慶次郎と共に陸軍造兵廠を誘致した。
横山 白虹(よこやま はっこう、1889年(明治22年)11… 横山 白虹(よこやま はっこう、1889年(明治22年)11月8日 - 1983年(昭和58年)11月18日)は、俳人、医師。本名は健夫(たけお)。 本籍地は山口県大津郡深川町(現・長門市)。
久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年〈明治22年〉… 久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年〈明治22年〉11月7日 - 1963年〈昭和38年〉5月6日)は、日本の小説家、劇作家、俳人。俳号はじめ暮雨。のち傘雨。他に筆名千野菊次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。 浅草生まれ。耽美派(三田派)の新進作家として登場。劇作でも慶大在学中から注目され、築地座を経て文学座創立に参加。新派、新劇、歌舞伎の脚色・演出と多方面に活動を展開。日本演劇協会会長を務め、文壇・劇壇に重きをなした。小説戯曲共に多くは浅草が舞台で、江戸情緒を盛り込んだ情話で長く活躍。文人俳句の代表作家 としても知られ、俳誌「春燈」を創刊・主宰した。
藤田 欽哉(ふじた きんや、1889年11月7日 - 197… 藤田 欽哉(ふじた きんや、1889年11月7日 - 1970年)は、日本のゴルフ場設計技術者。 霞ヶ関カンツリー倶楽部の設計を担当したことで知られ、日本におけるゴルフ場設計の「レジェンド」とも評される。 1889年(明治22年)、東京市駒込五丁目910番地、岩崎家の染井墓地内別邸にて豊川小太郎の次男として生まれる。この時, 母方の祖母の藤田家(初代六兵衛道真)を継ぐため7代目になるための約束を交わされる。[要出典]三菱銀行部長を務めた豊川良平の甥に当たる。六義園の邸内で育ったことが、広い土地の判断力を養ったとされる。 早稲田大学(当時は旧制専門学校)に進学し、1910年(明治43年)卒業。しかし、チフスに罹患して入院生活を送る。
稲葉嶽 光之助(いなばだけ みつのすけ、1889年11月7日… 稲葉嶽 光之助(いなばだけ みつのすけ、1889年11月7日 - 1978年5月7日)は、現在の千葉県市川市河原出身で濱風部屋、千田川(大阪相撲)に所属した力士。本名は雪吹 光之助(旧姓:及川)。身長173cm、体重94kg。東京相撲での最高位は東前頭14枚目(1916年5月場所)。 1911年2月に初土俵を踏み、1915年6月十両昇進。1916年5月に入幕したが1勝8敗1預の大負けだった。翌場所(1917年1月場所)は十両に落ち、2場所とも十両にあったが不振が続いた。場所後の巡業では出羽海部屋一行に加わったが、同年12月巡業先の埼玉県大宮で酒の席で暴行事件を起こした。一行の組長の入間川(元小結両國のち6代出羽海)は稲葉嶽をその場で破門を宣言した。
三神 吾朗(みかみ ごろう、1889年〈明治22年〉11月6… 三神 吾朗(みかみ ごろう、1889年〈明治22年〉11月6日 - 1958年〈昭和33年〉6月24日)は、日本のプロ野球選手。日本にまだプロ野球が存在していない時代に、アメリカのプロ野球チーム「オール・ネイションズ」でプレーした。守備位置は外野手、遊撃手、投手、一塁手。 アマチュアテニス選手で、早稲田大学の「三神記念コート」にその名前を残す三神八四郎は兄。姪に医学者の三神美和、甥に英文学者の三神勲(美和の弟)、妻の美代子の父は石黒五十二[要出典] 山梨県中巨摩郡大鎌田村(現・甲府市)出身。豪族で甲府電灯会社(後に東京電力が吸収合併)の創業者である父・三神有長、母・三神とよの間に、11人兄弟の五男として生まれる。
大野 熊雄(大野 久磨夫、おおの くまお、1889年〈明治2… 大野 熊雄(大野 久磨夫、おおの くまお、1889年〈明治22年〉11月6日 - 1981年〈昭和56年〉6月1日)は、日本の武道家、弁護士。 熊本市生まれ。大野家は熊本藩藩主細川氏の家臣であった。熊雄は幼時より熊本藩伝の新陰流剣術、伯耆流居合術を修行し免許皆伝を授かる。熊本県中学済々黌、京都帝国大学経済学部、法学部を卒業。 東亜同文書院教授、大阪毎日新聞記者、京都帝国大学学生主事を歴任。大日本武徳会で武道の修練、大映京都撮影所で剣戟映画指導も行った。著書に『剣士内藤高治』、『剣士一代』、『日本名刀伝』がある。 1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬したが落選した。
笠原 幸雄(かさはら ゆきお、1889年(明治22年)11月… 笠原 幸雄(かさはら ゆきお、1889年(明治22年)11月6日 - 1988年(昭和63年)1月2日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。ロシア通の参謀として知られていた。
米倉 久子(よねくら ひさこ、1889年〈明治22年〉11月… 米倉 久子(よねくら ひさこ、1889年〈明治22年〉11月6日 - 1938年〈昭和13年〉2月9日)は、日本の歌人。夫は同じく歌人の小田観螢。結婚後の本名は小田 久子。病気療養の身で、夫の手厚い看病を受けて、互いに心を通わせたことで、「現代の比翼歌人」と賞された。 山梨県東八代郡米倉村(現・笛吹市)で誕生した。1904年(明治37年)、17歳のときに作家を志した。1915年(大正4年)に短歌雑誌「潮音」の創刊に参画し、創刊と共に幹部同人として活躍した。 1918年(大正7年)、小田観螢と結婚した。夫の教員としての任地である北海道に移住し、二児をもうけた。しかし生来より病弱の身であり、先妻の子の養育、自身の出産、北海道の厳しい気候で体を患ったことで、1926年(大正15年)、子供を観螢のもとに残して山梨に帰り、療養生活を送った。
長野 祐一郎(ながの ゆういちろう、1889年(明治22年)… 長野 祐一郎(ながの ゆういちろう、1889年(明治22年)11月5日 - 1950年(昭和25年)1月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 島根県出身。松江中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第41連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業。 歩兵第41連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官などを経て、1930年(昭和5年)12月、陸大専攻学生となった。1931年(昭和6年)11月、歩兵学校教官に就任、関東軍司令部付、第19師団参謀などを歴任し、1936年(昭和11年)8月、陸軍大佐に昇進し歩兵学校教官となった。
福士幸次郎(ふくし こうじろう、1889年11月5日 - 1… 福士幸次郎(ふくし こうじろう、1889年11月5日 - 1946年10月11日)は、日本の詩人。
雨宮 育作(あめみや/あまみや いくさく、1889年(明治2… 雨宮 育作(あめみや/あまみや いくさく、1889年(明治22年)11月5日 - 1984年(昭和59年)2月14日)は、日本の水産学者である。妻は「つ祢よ」。長兄は山梨英和女学校(現山梨英和学院)校長・理事長を務め,日下部村長・日下部町長にもなった雨宮敬作。次兄は海軍兵学校第 33 期で,戦艦霧島・戦艦日向の砲術長等を務め,海軍大佐を務めた雨宮厚作。敬作の上に,長女「くま」,三女「と美」,四女 「まさじ」がいる。 山梨県東山梨郡日下部村(現山梨市)に,日下部村会議員を務めた父「景通」と母「じつ」の四男として生まれる。東京帝国大学農科大学(現在の東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)に入学し、1914年(大正3年)に卒業。
柳澤 健(やなぎさわ たけし、1889年(明治22年)11月… 柳澤 健(やなぎさわ たけし、1889年(明治22年)11月3日 - 1953年(昭和28年)5月29日)は、日本の外交官、詩人。 旧会津藩士で女学校校長柳澤良三の長男として福島県会津若松市に生まれる。会津中学校(のち福島県立会津高等学校)から一高、東京帝国大学仏法科に学び、1915年(大正4年)5月卒業。逓信省に入り同年10月文官高等試験に合格。横浜郵便局長心得在職中の1919年(大正8年)4月辞職。大阪朝日新聞社に入社し論説班に所属した。 その後外務省に勤務し、フランス、イタリア、メキシコなどに駐在。外務省文化事業部第2課長や、新設された第3課(国際文化事業担当)の初代課長を務めた。上司にあたる文化事業部長は、のちに初代駐タイ大使となった坪上貞二。
高橋 雄豺(たかはし ゆうさい、明治22年(1889年)11… 高橋 雄豺(たかはし ゆうさい、明治22年(1889年)11月3日 - 昭和54年(1979年)8月26日)は、内務官僚、実業家、ジャーナリスト。香川県知事。 愛媛県西条市出身。高橋岩吉の長男として生まれる。明治40年(1907年)3月、北予中学(現松山北高校)卒業。明治42年(1909年)11月、警視庁巡査となる。 1909年12月、神田警察署勤務となり、深川警察署、三ノ橋警察署、本所相生警察署、早稲田警察署で勤務。大正4年(1915年)2月、警察官練習所を卒業。同年3月、内務省に転じ、内務属として警保局保安課に配属され、さらに同局図書課に異動。同年10月、文官高等試験行政科試験に首席で合格。
11代目右近 権左衛門(うこん ごんざえもん、前名・義太郎、… 11代目右近 権左衛門(うこん ごんざえもん、前名・義太郎、1889年〈明治22年〉11月3日 - 1966年〈昭和41年〉4月27日)は、日本の実業家、資産家、福井県多額納税者。右近商事社長。日本火災海上保険の会長。 福井県・右近権左衛門の長男。1914年3月、慶應義塾大学部理財科卒業。1917年、家督を相続し義太郎を改め襲名した。海運業を営み会社重役である。 趣味は洋画、園芸。宗教は真宗。住所は兵庫県芦屋市、大阪市西区西長堀北通5丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
井村 荒喜(いむら / こうき、1889年(明治22年)11… 井村 荒喜(いむら / こうき、1889年(明治22年)11月3日 - 1971年(昭和46年)5月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、富山市名誉市民 、不二越創業者。 長崎県南高来郡北有馬村今福(北有馬町を経て現南島原市)で、農業・井村庄太郎、きく の五男一女の末子として生まれる。有馬高等小学校を卒業し、1907年(明治40年)医師を目指して長崎の行余学舎に入学したが、実家の家計が傾き学舎を中退。長崎に残り、新聞配達、新聞記者見習いなどに従事。1913年(大正2年)11月、台湾に渡り台中の帝国製糖に入社。倉庫係、農場係、鉄道建設係で勤務。 1919年(大正8年)中越水電に招かれ支配人に就任。
福田 良三(ふくだ りょうぞう、1889年(明治22年)11… 福田 良三(ふくだ りょうぞう、1889年(明治22年)11月1日 - 1980年(昭和55年)3月26日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 熊本県玉名市出身。旧制熊本県立玉名中学校より海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中第122位、卒業成績順位は149名中第50位。 福田は海軍大学校甲種課程修了後も艦船乗組ばかりで、本省勤務や在外公館駐在勤務の類が全く無く、特に目立った経歴は見出せない。海軍中佐に任官した頃から中国方面の勤務が多くなる。昭和14年に海南島根拠地隊司令官に就任した際に、同島の治安状態が極めて悪く、高級士官が狙い撃ちされ作戦遂行への懸念から、周囲が猛反対する中で指揮官先頭の精神を自ら発揮して渡名喜守定参謀長と共に匪賊討伐に当る。
金森 次郎(かなもり じろう、1889年(明治22年)10月… 金森 次郎(かなもり じろう、1889年(明治22年)10月31日 - 1983年(昭和58年)8月14日)は日本の実業家。東京光学機械元社長。山之内製薬(現:アステラス製薬)元顧問。宗教家金森通倫の二男。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
安達 幸雄(あだち ゆきお、1889年〈明治22年〉10月2… 安達 幸雄(あだち ゆきお、1889年〈明治22年〉10月29日 - 没年不明)は、日本の弁護士、弁理士。安達兄弟法律事務所長。東京相互利殖監査役。人事興信所法律顧問。 鳥取県東伯郡三朝村(現・三朝町)出身。安達幸男の長男。生家は豊かではなかったので父母に学資を仰ぐことを避け、16歳の頃、旅費10円を懐にして、単身上京する。以来職をもとめて学資を得、研学につとめ1908年に順天中学校の編入試験を受けてその4学年に入学し、同校を卒業後添田増男の法律事務所に仕えて苦学研鑚する。 1916年に日本大学法律科を卒業し、同年に判検事登用試験・弁護士試験に合格する。東京市牛込区下宮比町に独立して弁護士事務所を開業する。
依田 養七(よだ ようしち、1889年〈明治22年〉10月2… 依田 養七(よだ ようしち、1889年〈明治22年〉10月28日 - 1976年〈昭和51年〉10月22日)は、岩手県の政治家。初代江刺市(現在の奥州市)長(1期)を歴任。 江刺郡岩谷堂町(のち江刺郡江刺町→江刺市、現在の奥州市)の味噌醤油醸造業の家に生まれる。1921年〈大正10年〉岩谷堂町会議員となり、3期務めたほか、学務委員となった。1934年〈昭和9年〉岩谷堂町長に当選する。1938年〈昭和13年〉まで務めた後、1945年〈昭和20年〉に再任。翌年まで務めた。 戦後、公職追放となり、追放解除後の1954年〈昭和29年〉岩谷堂町長に復帰。当時、「昭和の大合併」による岩手県が進めていた町村合併計画を実現するにあたり、江刺郡内では各町村の利害が対立し、その意向が極度にそろわない状態だった。
河原 利明(かわはら としあき、1889年(明治22年)10… 河原 利明(かわはら としあき、1889年(明治22年)10月28日 - 1942年(昭和17年)10月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功二級 鹿児島県、現在の鹿児島市で生まれた。陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第34期卒業卒業。1935年(昭和10年)12月に飛行第9連隊長に就任し、1936年(昭和11年)8月に陸軍航空兵大佐に進級した。1937年(昭和12年)に陸軍士官学校分校幹事に転じ、1938年(昭和13年)に陸軍航空士官学校幹事に就任。 1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将に進級し、8月1日に東京陸軍航空学校長に着任。1940年(昭和15年)12月に第4飛行団長に転じ、1942年(昭和17年)8月15日に南方航空輸送司令官(南方軍)に就任。
藤澤 清造(ふじさわ せいぞう、1889年〈明治22年〉10… 藤澤 清造(ふじさわ せいぞう、1889年〈明治22年〉10月28日 - 1932年〈昭和7年〉1月29日)は、日本の小説家、劇作家、演劇評論家である。 石川県鹿島郡藤橋村ハ部37番地(現在の七尾市馬出町)に、藤澤庄三郎・古への次男として出生。長姉とよ、兄信治郎、次姉よねにつづく第4子であった。1900年、七尾尋常高等小学校男子尋常科第4学年を卒業。卒業後、七尾町内の活版印刷所に勤め、印刷所が新聞取次を兼業していたことから新聞配達を担当していたが、右足が骨髄炎に罹り手術を受け自宅療養。以降、生涯にわたり骨髄炎の後遺症に苦しめられた。恢復後は、阿良町の足袋屋「大野木屋」、次いで、鋲屋、代書屋に勤めた。
函館 孫作(はこだて まごさく、旧姓:千歳〈ちとせ〉、188… 函館 孫作(はこだて まごさく、旧姓:千歳〈ちとせ〉、1889年10月28日 - 1959年4月12日。)は日本の競馬の騎手・調教師。北海道茅部郡森村(現在の茅部郡森町)出身。主戦を勤めていたワカタカに騎乗して、第1回東京優駿大競走(現・東京優駿〈日本ダービー〉)に優勝したことが知られている。 実家は宿屋を営んでおり、使役馬が2 - 3頭いた。孫作の父が「日本馬術の英雄」や「北海道の三士」のひとりとして知られた函館大経の弟子だった関係で16歳のとき、大経に弟子入りし翌年騎手デビューする。 21歳のころ大次の妻の姪(兄の娘)と結婚し、函館家へ養子として入った。代々函館家は養子で成り立っていた家系で大経の跡を継いで養子となったのは実弟の大次で、その跡を継いだのは大次の甥(次兄・藤八の息子)の大政であった。
金澤 正夫(かなざわ まさお、1889年(明治22年)10月… 金澤 正夫(かなざわ まさお、1889年(明治22年)10月25日 - 1969年(昭和44年)6月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 山口県出身。神職百済忠敬の二男として生れ、金沢家に養子に入った。山口中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年12月、海軍少尉に任官。1918年12月、海軍砲術学校高等科を卒業。「山城」分隊長、「樫」乗組、砲術学校教官などを経て、1923年10月、海軍大学校(甲種21期)を卒業した。 その後、「比叡」副砲長、「浅間」砲術長、「多摩」砲術長、軍令部参謀を歴任し、1927年12月、海軍省副官兼海相秘書官となり岡田啓介大臣に仕えた。
西沢 義徴(にしざわ ぎちょう、1888年(明治21年)11… 西沢 義徴(にしざわ ぎちょう、1888年(明治21年)11月21日 - 1967年〈昭和42年〉7月28日)は、日本の外交官。台湾総督府官僚。台北市尹、高雄州知事。 高知県、のちの安芸市出身。1913年(大正2年)、京都帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格。神奈川県属、同理事官、外務事務官、大使館三等書記官、同二等書記官、安東領事・関東庁事務官・朝鮮総督府事務官、福州総領事・台湾総督府事務官を歴任した。1929年(昭和4年)、台湾総督府税関長に転じ、台北市尹、高雄州知事を務めた。 1935年(昭和10年)に退官した後は、台湾合同鳳梨株式会社常任監査役を務めた。戦後は、安芸高等学校東京同窓会長を務めた。
白倉 司馬太(しろくら しばた、1888年(明治21年)11… 白倉 司馬太(しろくら しばた、1888年(明治21年)11月20日 - 1972年(昭和47年)8月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1888年(明治21年)に広島県で生まれた。陸軍士官学校第22期、東京帝国大学機械工学科卒業。1934年(昭和9年)3月に関東軍野戦兵器廠長に就任し、8月に陸軍砲兵大佐に進級した。1936年(昭和11年)に陸軍兵器廠附を経て、1937年(昭和12年)に第1野戦化学実験部長に就任した。 1938年(昭和13年)3月に陸軍少将に進級し、陸軍砲工学校砲兵科長に就任。7月には陸軍造兵廠小倉工廠長に転じ、1940年(昭和15年)4月に名古屋陸軍造兵廠長となり、12月に陸軍中将に進級。
深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月… 深尾 須磨子(ふかお すまこ、1888年〈明治21年〉11月18日 - 1974年〈昭和49年〉3月31日)は、日本の詩人、作家、翻訳家。本名は荻野志げの(おぎの しげの)。 兵庫県氷上郡大路村(現・丹波市)の旧家の生まれ。京都師範学校中退、1907年京都菊花高等女学校卒。与謝野晶子に師事する。大正元年(1912年)詩人で技師の深尾贇之焏と結婚するが、大正9年(1920年)に死別。夫の遺稿集『天の鍵』を出版、その附録に深尾須磨子作として掲載した詩54篇と散文「最終の旅」が処女作となる。 大正14年(1925年)詩集『斑猫』を上梓すると神戸港から箱根丸で初めてフランスに渡り、シドニー=ガブリエル・コレットの知遇を得ている。
月野木 正雄(つきのき まさお、1888年(明治21年)11… 月野木 正雄(つきのき まさお、1888年(明治21年)11月17日 - 1972年(昭和47年)4月15日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級 鹿児島県出水郡、のちの出水市で生まれた。陸軍士官学校第22期卒業。1936年(昭和11年)8月に独立山砲兵第3連隊長に就任し、1937年(昭和12年)8月2日に陸軍砲兵大佐に進級した。盧溝橋事件発生後に戦線が拡大する中、日中戦争に出動。1938年(昭和13年)7月に近衛野砲兵連隊長に転じ、8月に南寧に出動した。 1941年(昭和16年)3月に陸軍少将に進級と同時に第13軍兵器部長に就任し、1942年(昭和17年)10月に長崎要塞司令官に転じた。
石田 退三(いしだ たいぞう、1888年11月16日 - 1… 石田 退三(いしだ たいぞう、1888年11月16日 - 1979年9月18日)は、日本の実業家。位階は従三位。勲等は勲一等。旧姓は澤田(さわだ)。 豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)及びトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長・会長・相談役。戦後のトヨタ自動車の建て直しをし、「トヨタの大番頭」と呼ばれる。また、豊田英二と共に「トヨタ中興の祖」とも呼ばれる。 愛知県知多郡小鈴谷村字大谷(現常滑市)に生まれた。澤田徳三郎の五男。家は農家で男の兄弟が五人あった。 父親を早くになくし、進学できず丁稚奉公に出されるところに遠戚に当たる児玉一造(豊田佐吉と親交があり、弟は佐吉の婿養子となる豊田利三郎)の支援で滋賀県立第一中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)を卒業し、しばらくは代用教員として働く。
小崎 道雄(こざき みちお、1888年11月16日 - 19… 小崎 道雄(こざき みちお、1888年11月16日 - 1973年6月18日)は、日本基督教団牧師、神学者。エキュメニカル運動の指導者。
児玉 九十(こだま くじゅう、1888年(明治21年)11月… 児玉 九十(こだま くじゅう、1888年(明治21年)11月15日 - 1989年(平成元年)12月15日)は、日本の教育者。学校法人明星学苑創立者。 静岡県田方郡中郷村(現・三島市)出身。1911年第四高等学校卒業。1914年東京帝国大学文科大学卒業。1915年同大学大学院修了。 その後、名教中学校教諭 成蹊実務学校教諭、1917年同主事となる。1920年から1925年まで成蹊中学校校長を務める傍ら、1922年に明星実務学校創立に参画し、1923年同理事に就任する。1924年から翌年まで成蹊小学校校長も兼任した。1925年欧米教育視察のため学校法人成蹊学園を退職し、1926年明星実務学校校長となる。
儀我 誠也(ぎが せいや、1888年〈明治21年〉11月11… 儀我 誠也(ぎが せいや、1888年〈明治21年〉11月11日 - 1938年〈昭和13年〉1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 東京都出身。技師・儀我克次郎の長男として生まれる。旧制洲本中学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業、石原莞爾と同期である。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 1919年(大正8年)10月、第16師団司令部付となり、浦塩派遣軍司令部付、関東軍司令部付(ハルビン特務機関)、参謀本部員を歴任。1923年(大正12年)12月、参謀本部付仰付として張作霖軍事顧問となった。
石濱 純太郎(いしはま じゅんたろう、1888年〈明治21年… 石濱 純太郎(いしはま じゅんたろう、1888年〈明治21年〉11月10日 - 1968年〈昭和43年〉2月11日)は、日本の東洋史学者、関西大学名誉教授。石浜、石濱など、複数の漢字表記が見られるが、正式には「石濵」である。 1888年(明治21年)、大阪府で生まれた。堂島で製薬業を営んでいた石濵豊蔵の長男として生まれ、大阪市住吉区墨江二丁目に住んだ。1897年に漢学塾泊園書院(現・ 関西大学)へ10歳で入って、藤沢南岳の下で学んだ。大阪府立市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)に進み、中学校では画家の小出楢重、作曲家の信時潔らと同級であった。 1908年、大学は東京へ出て、東京帝国大学文科大学支那文学科に入学。
西村 直(にしむら なおし、1888年11月10日 - 19… 西村 直(にしむら なおし、1888年11月10日 - 1982年2月25日)は、日本の実業家。化学磁器・工業用セラミックスメーカーの西村工業(現 ニッカトー)の創業者である。 1888年(明治21年)11月10日、実業家の西村勝三の五男として東京に生まれる。慶應義塾普通部卒業後、東京高等工業学校応用化学科に進学。校長の手島精一は、勝三とは旧知の間柄であったが、直の進学を見届けるように1907年に死去した。東京高等工業学校では、直は染料化学に強い関心を持つ。1909年に卒業。その頃には品川白煉瓦は業績不振の時期にあり、日本皮革も合併後の主導権争いのさなかにあった。直は、父の事業を世襲として継ぐより自らが関心を持つ染料化学を生かした事業を望み、東京瓦斯に入社した。
大井 伊助(おおい いすけ、前名・蒼生治、1888年(明治2… 大井 伊助(おおい いすけ、前名・蒼生治、1888年(明治21年)11月9日 - 没年不明)は、日本の資産家、家主、大阪府多額納税者。族籍は大阪府平民。 大阪府・先代伊助の長男。府立市岡中学卒業。1938年に家督を相続し、蒼生治を改め襲名する。貸家業を営む。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。紺綬褒章を賜る。趣味は読書、旅行。宗教は真宗。住所は大阪市大正区北泉尾町1丁目。
奥田 剛郎(おくだ たけろう、1888年(明治21年)11月… 奥田 剛郎(おくだ たけろう、1888年(明治21年)11月9日 - 1981年(昭和56年)3月24日)は、大正から昭和期の検察官、政治家、法学者、華族。貴族院男爵議員。 農商務省官僚・奥田義人の長男として生まれる。父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月1日、男爵を襲爵した。 1914年(大正2年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年、三菱造船に入社。1923年(大正12年)検事に任官し、新潟区裁判所、横浜地方裁判所兼区裁判所、浦和地方裁判所兼区裁判所、東京刑事地方裁判所、東京控訴院の各検事を歴任した。 1936年(昭和11年)3月14日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
小出 源吉(こいで げんきち、旧姓:酒井、1888年〈明治2… 小出 源吉(こいで げんきち、旧姓:酒井、1888年〈明治21年〉11月8日 - 1977年〈昭和52年〉5月31日)は、日本の耳鼻咽喉科学者、耳鼻咽喉科医、実業家、政治家。医学博士。長崎医学専門学校耳鼻咽喉科学教室教授、新潟県医師会副会長、越後天然ガス取締役、新津市議会第5代議長。趣味は楽焼の制作。 新潟県中蒲原郡吉沢村(現 五泉市吉沢)の機業家・酒井準治郎の次男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1910年(明治43年)7月に第四高等学校を卒業、1914年(大正3年)11月に京都帝国大学医科大学医学科を卒業。 1914年(大正3年)12月に京都帝国大学医科大学外科学教室助手に就任、1915年(大正4年)2月に退職、6月に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室副手に就任、8月に助手に就任、1916年(大正5年)6月に退職、同月に小倉記念病院耳鼻咽喉科部長に就任、1917年(大正6年)12月に退職、1918年(大正7年)1月から京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室および解剖学教室で研究、9月に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室助手に就任、11月に助教授に就任、1919年(大正8年)6月から新潟医学専門学校耳鼻咽喉科学教室講師を兼任したが翌7月に辞任、12月に長崎医学専門学校耳鼻咽喉科学教室教授に就任、1922年(大正11年)4月に依願退官。
尹 白南(いん はくなん、1888年11月7日 - 1954… 尹 白南(いん はくなん、1888年11月7日 - 1954年9月29日)は、日本統治時代の朝鮮・大韓民国の俳優、脚本家、映画監督、小説家、ジャーナリスト、演劇演出家。本名は尹 教重。本貫は坡平尹氏。 李氏朝鮮忠清南道公州府出身。大韓帝国国費留学生として早稲田大学に入学したのち、東京高等商業学校(現一橋大学)に移り、同校を卒業した。日韓併合後毎日新報記者となり、のち俳優、映画製作などに携わるようになる。1930年に東亜日報に朝鮮初の大衆小説「大盜傳」を連載し人気を博す。1931年には劇芸術研究会を創立し新劇場運動の先駆者としての役割を果たした。1937年満州国に移住し、歴史小説を執筆。日本の降伏後帰国し、朝鮮映画建設本部本部長兼代表委員長に就任。
栗田 敏(くりた とし、1888年(明治21年)11月6日 … 栗田 敏(くりた とし、1888年(明治21年)11月6日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の公吏。東京市蒲田区長。 茨城県出身。1913年(大正2年)中央大学を卒業し、東京市に奉職する。文書課文書係長、本郷区会計課長、同税務課長兼戸籍兵事課長、同庶務課長、日本橋区庶務課長などを経て、1940年(昭和15年)12月、蒲田区長に就任し、1942年(昭和17年)9月まで務めた。
杉 宜陳(すぎ よしのぶ、1888年(明治21年)11月6日… 杉 宜陳(すぎ よしのぶ、1888年(明治21年)11月6日 - 1949年(昭和24年)4月2日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→立憲政友会)、弁護士。 愛媛県周桑郡三芳村(現在西条市)出身。第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。高等文官試験に合格して逓信書記官補となり、1916年(大正5年)には朝鮮銀行書記・勝田主計総裁秘書となった。寺内内閣が成立して、勝田が大蔵大臣に就任すると、引き続き秘書官となり、大蔵参事官も兼ねた。1924年(大正13年)に清浦内閣が成立して再び勝田が大蔵大臣となると、杉もまた秘書官となった。 同年、第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
鈴木 ひでる(すずき ひでる、1888年〈明治21年〉11月… 鈴木 ひでる(すずき ひでる、1888年〈明治21年〉11月6日 - 1944年〈昭和19年〉12月27日)は、日本の化学者。日本の女性で初めて薬学博士となった人物である。愛知県碧海郡富士松村字逢見(現・刈谷市)に生まれ、日本女子大学校を卒業後に、母校の化学助手としての研究、日本女子大と東京帝国大学の薬学科での長年の研究を経て、揮発性有機オイルであるペリレンの研究により、薬学博士の学位を取得した。56歳で急逝するまで、教育と研究一筋の生涯を送り続けた。下の名は「秀」「秀留」との表記もある。 愛知県碧海郡富士松村字逢見で誕生した。家は塩問屋であったが、父親は向学心に富み、自身が勉学の機会を得られなかったことから、子供たちの修学に努めた。
宍戸 左行(ししど さこう、1888年11月5日 - 196… 宍戸 左行(ししど さこう、1888年11月5日 - 1969年2月3日)は日本の漫画家。本名は宍戸 嘉兵衛。 1888年、福島県に生まれる。旧制福島中学校(のちの福島県立福島高等学校)卒業。 1907年、絵の勉強のためアメリカ合衆国のシアトルに渡り、キャノン画塾で洋画を、通信教育で漫画の技術を学んだ。9年間のアメリカ滞在中、毎日のように映画を見たと回想しており、これがのちの漫画制作に活かされたとされる。 1923年に帰国。東京毎夕新聞社に入社し政治漫画を手掛けた。その後、東京日日新聞、やまと新聞にも寄稿。左行というペンネームは、アメリカからの帰国後に見た「左側通行」の立て札から。1926年、村山知義、柳瀬正夢らとともに「日本漫画家連盟」の結成に参画する。
植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年 <明治21年… 植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年 <明治21年> 11月3日 - 1968年 <昭和43年> 5月9日)は、日本の精神医学者。位階は正四位。 長野県諏訪郡本郷村(現富士見町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1915年東京帝国大学医科大学卒業。同大学三浦内科、精神科に勤務。1918年渡米し、マサチューセッツ州立精神病院病理研究所員、ダンバース精神病院病理研究所員、ボストン精神病院病理研究所員、ハーバード大学医学部神経病理部講師。1923年論文「プルキンエ細胞樹枝突起と軸索における限局性腫脹について」で医学博士。慶應義塾大学医学部神経科講師。1925年同大学助教授、1926年同大学教授。
平山 復二郎(ひらやま ふくじろう、1888年(明治21年)… 平山 復二郎(ひらやま ふくじろう、1888年(明治21年)11月3日- 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の鉄道省官僚、土木工学者(工学博士)。鉄道省建設局長を最後に退官し、第44代土木学会会長や日本技術士会会長、パシフィックコンサルタンツ社長、ピーエス・コンクリート社長などを歴任。1957年の技術士法制定に奔走し、建設コンサルタント制度の確立に貢献。また、新幹線計画では幹線調査委員会委員としてその実現に貢献した。勲三等。墓地は谷中霊園[3]。
木島 義夫(きじま よしお、1888年11月2日 - 197… 木島 義夫(きじま よしお、1888年11月2日 - 1979年12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。参議院議員(3期)。 千葉県出身。1914年、東京高等商業学校専攻部(現一橋大学)卒。卒業後は長柄村長、千葉県議を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙で千葉県から立候補して当選。翌1947年、公職追放となる(衆議院議員を1期務める)。追放解除後の1960年の参院補選で千葉県選挙区から自由民主党公認で立候補して当選。参議院議員を3期務めた。この間、参議院法務委員長、北海道開発庁政務次官などを歴任する。このほか千葉郊外自動車(のちの千葉中央バス)や東洋バスを設立。東洋交通、東洋観光、東洋バス、長平不動産の各社長も務めた。