堀田 健男(ほった たけお、1903年(明治36年)2月23… 堀田 健男(ほった たけお、1903年(明治36年)2月23日 - 1966年(昭和41年)11月28日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。勲三等旭日中綬章。 大阪府出身。堀田勇次の三男として生まれる。第三高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業。内務省に入省し土木局属となる。 以後、岩手県書記官・警察部長、内務省社会局書記官、厚生書記官などを歴任。 1942年7月、奈良県知事に就任し、戦時下の対応に尽力。1943年7月、企画院第三部長に転任。新潟県参事官、内務省国土局長を歴任。1945年9月、静岡県知事に転任し、戦災の復興に尽力した。
中島 道雄(なかじま みちお、1903年2月22日 - 19… 中島 道雄(なかじま みちお、1903年2月22日 - 1983年5月10日)は、日本の経営者。RKB毎日放送社長、会長を務めた。 東京都出身。1927年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年5月に毎日新聞社に入社。1958年9月にRKB毎日放送に転じ、1961年1月に取締役に就任し、1965年11月に常務、1967年11月に専務を経て、1969年11月には社長に就任した。1973年5月に会長を経て、1975年5月には相談役に就任。 1983年5月10日、心不全のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
若杉 末雪(わかすぎ すえゆき、1903年2月22日 - 1… 若杉 末雪(わかすぎ すえゆき、1903年2月22日 - 1973年5月10日)は、日本の実業家。第3代三井物産代表取締役社長や、初代三井広報委員会会長を務めた。 長崎県出身。1925年長崎高等商業学校(現長崎大学)卒業。米国三井物産社長などを経て、1969年から三井物産社長を務め、イラン石油化学開発の設立などを行った。1972年初代三井広報委員会会長。
中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月… 中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月21日 - 1979年(昭和54年)6月11日)は、フランス文学者、文芸評論家。ヴァレリーやボードレールなどを翻訳紹介する一方、当時まだ無名だった宮澤賢治の作品に光を当て、戦後はいわゆる進歩的知識人の一人として反戦平和運動に貢献すると共に、日本文芸家協会の再建や著作権保護、日中の文化交流に尽力した。中国切手の世界的なコレクターとしても有名である。
功力 金二郎(くぬぎ きんじろう、1903年2月20日 - … 功力 金二郎(くぬぎ きんじろう、1903年2月20日 - 1975年12月19日)は、日本の数学者。専門は集合論、位相空間論、関数論で、特に複素関数論。 山梨県韮崎市神山町武田出身。旧制甲府中学、松本高等学校 (旧制)を経て、1926年東京帝国大学理学部数学科卒業、旧制東京高等学校教授となる。1927年に北海道帝国大学への1930年理学部設置が決まり、数学関係の創立委員となった師の吉江琢児の指名により教授候補者の1人として内定したのは東京帝国大学卒業後1年余であった。 北海道帝国大学理学部数学科開講までの準備期間3年の内、教授候補者は約2年間を海外留学することとなっており、1928年3月よりフランスに留学、パリ大学のモーリス・ルネ・フレシェに師事し、Docteur ès Science(フランス政府理学博士号)を取得、1930年9月に帰国。
筒井 嘉隆(つつい よしたか、1903年2月19日 - 19… 筒井 嘉隆(つつい よしたか、1903年2月19日 - 1989年4月17日)は、日本の動物学者で自然保護活動家。血液型はA型。 藍問屋の三男として大阪府大阪市西区北堀江に生まれ育つ。旧制桃山学院中学校から旧制第三高等学校理科甲類を経て、1924年、京都帝国大学理学部動物学科に入学。京都帝国大学大学院修了まで川村多実二教授に師事する。 1932年から大阪市の吏員として大阪市天王寺動物園に勤務する。「(動物園は)興行師的立場を捨て去り、一般大衆に迎合することなく動物学的な高所に立って、市民を導いてゆかなければならない」という1936年の発言に、学者としての筒井の姿勢がよくあらわれている。1945年から1946年まで天王寺動物園園長。
錦小路 頼孝(にしきこうじ / にしきのこうじ よりたか、1… 錦小路 頼孝(にしきこうじ / にしきのこうじ よりたか、1903年〈明治36年〉2月19日 - 1950年〈昭和25年〉6月13日)は、昭和期の教員、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・在孝。 子爵・唐橋在正の五男として生まれる。叔父、子爵・錦小路在明の死去に伴い、その家督を継承して頼孝と改名し、1912年(明治45年)6月10日に子爵を襲爵した。 1927年(昭和2年)東京帝国大学文学部を卒業した。1928年(昭和3年)東京府立園芸学校教諭に就任。その他、逓信省委員、運輸通信省委員、歌会始講頌などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
若瀬川 栄蔵(わかせがわ えいぞう、1903年2月19日 -… 若瀬川 栄蔵(わかせがわ えいぞう、1903年2月19日 - 1990年3月20日)は、秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は楯山部屋)に所属した大相撲力士。本名は佐藤 永藏(さとう えいぞう)→ 中川 永藏(なかがわ えいぞう)。身長167cm、体重90kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は左四つ、突き、押し。引退後は一時期、年寄として後進の指導に尽力した。 同郷の縁で清瀬川敬之助のもとに入門、1921年5月場所に初土俵を踏む。丁度この場所より、清瀬川が所属していた熊ヶ谷部屋を出て、楯山部屋預かりの状態になっていたため、書類上は楯山部屋所属となっていた。 1925年1月には三段目で全勝するなど、下位でも力を発揮し、幕下では少しもたつくも1929年1月に十両昇進、1930年の1月場所に新入幕を果たした。
渡部 喜十郎(わたなべ きじゅうろう、1902年(明治35年… 渡部 喜十郎(わたなべ きじゅうろう、1902年(明治35年)3月20日 – 2004年(平成16年)10月11日)は、日本の弁護士、第22代日本弁護士連合会会長。 1902年、愛媛県温泉郡難波村(現・松山市)にて出生。 1920年、北予中学卒業後、上京し働きながら明治大学にて学ぶ。 1929年、高等試験司法科に合格。弁護士となる。 1966年、東京弁護士連合会会長に就任。 1968年、東京都弁護士協同組合の設立を提唱し、初代理事長に就任。 1971年、日本弁護士連合会会長に就任。 1984年、全国弁護士協同組合連合会の初代理事長に就任。 2004年、死去。102歳。
門田 勲(かどた いさお、1902年3月20日 - 1984… 門田 勲(かどた いさお、1902年3月20日 - 1984年10月27日)は、ジャーナリスト。 東京生まれ。1927年京都帝国大学法学部卒。東京朝日新聞入社、社会部長、学芸部長、1950年大阪本社編集局長。学生時代は、京大教授・厨川白村の息子(厨川文夫)の家庭教師をしていた。鎌倉に住んでおり、『外国拝見』には川端康成の推薦文がついた。
虎尾ハルシア(とらお はるしあ、1902年〈明治35年〉3月… 虎尾ハルシア(とらお はるしあ、1902年〈明治35年〉3月20日 - 1991年〈平成3年〉3月4日)はアイヌの口承文芸ユカㇻとウエペケレの伝承者。出生名である虎尾ハルとしても知られる。 北海道静内郡静内町(現在の日高郡新ひだか町)農屋(旧ノヤサㇽコタン)のオプスケ川の近くで生まれ育つ。父・虎尾桃太郞(とうたろう、アイヌ名イコㇽパ)はハルシアが4歳の時に亡くなり、その後は母ムメ(アイヌ名シケヌカㇻ)に育てられた。父方の祖父は南部衆であり、母方の祖母である福島タノペトからウエペケㇾを伝えられている。9歳の時に学校へ通ったが、一年も行かなかったという。15~16歳の頃に畑作や道路工事の日雇いで働くようになり、川船で船を漕いだり、鱒漁の網を馬で引いたりできるようになった。
荒尾 興功(あらお おきかつ、1902年(明治35年)3月1… 荒尾 興功(あらお おきかつ、1902年(明治35年)3月18日 - 1974年(昭和49年)8月22日)は、日本の陸軍軍人、官僚。最終階級は陸軍大佐。 高知県出身。荒尾大吉海軍大尉の長男として生まれる。 横須賀中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1923年(大正12年)7月、陸軍士官学校(第35期)を卒業。 同年10月、陸軍少尉に任官し歩兵第61連隊付となる。 1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を優等で卒業した。 1931年(昭和6年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員(徴募課)を経て、1934年(昭和9年)11月からソ連駐在。 1936年(昭和11年)3月から1937年(昭和12年)5月までポーランド公使館附武官補佐官に在任。
根井 三郎(ねい さぶろう、1902年〈明治35年〉3月18… 根井 三郎(ねい さぶろう、1902年〈明治35年〉3月18日 - 1992年〈平成4年〉3月31日)は、日本の外交官、法務官僚。杉原千畝が発行した通称「命のビザ」を利用してウラジオストクへ逃れてきたユダヤ難民に対して、在ウラジオストク総領事代理として外務省の訓令に抗議し日本行の船に乗船許可を与えた人物として知られる。2017年以降に、彼自身も命のビザ(根井ビザ)を発行していたことも判明した。 1902年(明治35年)、宮崎県宮崎郡廣瀬村福島(現在の宮崎市佐土原町)出身。1908年(明治41年)、広瀬尋常高等小学校入学、同校尋常科(現在の宮崎市立広瀬小学校)を卒業する。1916年(大正5年)、長崎県立中学玖島学館に入学。
橋井 真(はしい まこと、1902年3月18日 - 1977… 橋井 真(はしい まこと、1902年3月18日 - 1977年11月11日)は、日本の商工官僚。
月形 龍之介(つきがた りゅうのすけ、1902年(明治35年… 月形 龍之介(つきがた りゅうのすけ、1902年(明治35年)3月18日 - 1970年(昭和45年)8月30日)は、日本の俳優。本名は門田 潔人(もんでん きよと)。俳優の月形哲之介は息子。 戦前から戦後の約半世紀の間時代劇スターとして活躍し、阪東妻三郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「七剣聖」と呼ばれた。戦前期はニヒルな剣士役で人気を得、伊藤大輔監督の『斬人斬馬剣』などの名作に主演した。戦後は渋みと風格のある脇役となり、悪役も演じた。戦後の当たり役は水戸光圀で、14本のシリーズ作品がある。晩年はテレビドラマにも出演。生涯に出演した映画は約500本以上に上る。
郡 祐一(こおり ゆういち、1902年(明治35年)3月16… 郡 祐一(こおり ゆういち、1902年(明治35年)3月16日 - 1983年(昭和58年)12月28日)は、日本の政治家、官僚。
片岡 武修(かたおか たけのぶ、1902年3月16日 - 1… 片岡 武修(かたおか たけのぶ、1902年3月16日 - 1978年5月16日)は、日本の経営者。熊本県出身。 1928年に慶應義塾大学法学部独法科を卒業し、同年に旭絹織(のちの旭化成工業)に入社。取締役、専務を経て、1949年2月に社長に就任。1961年7月には会長に就任。。 1963年に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1978年5月16日肺炎のために死去。76歳没。
東 勇路(あずま ゆうじ、1902年3月15日 - 没年不詳… 東 勇路(あずま ゆうじ、1902年3月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名中島 勇(なかじま いさむ)、芸名を東 勇治、東 勇二とクレジットされた時期もあった。小笠原明峰率いる小笠原プロダクション創立時のスター俳優であり、日活に移籍後は、現代劇のバイプレイヤーとして知られた。 1902年(明治35年)3月15日、福岡県八女郡北山村(現在の同県八女市立花町北山)に生まれる。 旧制・福岡県立八女中学校(現在の福岡県立八女高等学校)を卒業し、旧制・西南学院高等学部(現在の西南学院大学)に進学するが、中途退学し、1923年(大正12年)の小笠原プロダクションの設立に参加した。学歴については、『世界のキネマスター』(報知新聞社)には、明治大学を卒業した旨の記述がみられる。
山本 嘉次郎(やまもと かじろう、1902年(明治35年)3… 山本 嘉次郎(やまもと かじろう、1902年(明治35年)3月15日 - 1974年(昭和49年)9月21日)は、日本の映画監督、俳優、脚本家、随筆家である。脚本を書く際や、俳優としてデビューした当初は、平戸延介、平田延介名義を使用することも多かった。 東京市銀座采女町で生まれる。父の嘉太郎は天狗タバコの総支配人であった。 慶應義塾大学部理財科時代に偶然から映画に出演することとなり、1920年に製作された『真夏の夜の夢』で岡田嘉子と共演して俳優デビュー。慶應義塾を中退して映画界入りをする。しかし、このことが原因で親から勘当され、その手切金で[要出典]1922年「無名映画協会」を設立し、自ら出演した。
栗島 すみ子(くりしま すみこ、明治35年〈1902年〉3月… 栗島 すみ子(くりしま すみこ、明治35年〈1902年〉3月15日 - 昭和62年〈1987年〉8月16日)は、明治・大正・昭和期の女優。日本映画界初期の人気女優である。日本舞踊水木流家元水木歌紅でもある。 東京府豊多摩郡渋谷村大字中渋谷(現在の東京都渋谷区道玄坂)に生まれた。父の死後、母の再婚先である川村家を経て新派俳優栗島狭衣の養女となった。 明治40年(1907年)、5歳のとき狭衣の師である水木歌橘に入門し、日本舞踊を習い始めた。同年父の主宰するお伽劇『うそつき爺い』で初舞台を踏んだ。また、明治42年(1909年)には狭衣と共にM・パテー商会製作・公開の映画『新桃太郎』に出演した。 大正2年(1913年)、栗島狭衣一座の座員となり、巡業生活を送った。
嘉数 昇(かかず のぼる、1902年3月15日 - 1974… 嘉数 昇(かかず のぼる、1902年3月15日 - 1974年7月23日)は、沖縄県の実業家。琉球生命保険の設立に携わり、沖縄大学の母体である嘉数学園を設立する。沖縄県那覇市出身。 明治35年(1902年)3月15日生まれ。大正4年(1915年)に真和志尋常高等小学校を卒業後、昭和7年(1932年)に日本生命保険に入社し沖縄支部長を務めた。 戦後、琉球列島米国軍政府より保険会社設立に関する相談を受け、保険業に精通している嘉数が中心となって1948年に琉球生命保険を創設した。その後、キャラウェイ旋風のあおりを受け、一時琉球生命の経営から身を引いたが、まもなく復帰した。 1956年に嘉数学園を設立し、沖縄大学などを運営した。
清水 一(しみず はじめ、1902年3月13日 - 1972… 清水 一(しみず はじめ、1902年3月13日 - 1972年3月17日)は、日本の建築家。 総合建設会社の設計部要職にあって、和風様式や伝統技術に精通した建築家として輻広い交友を築いた。また、職人仕事や日本の住まいに関する一般向けの軽妙な随筆に健筆をふるった。 東京府出身。1926年、東京帝国大学工学部を卒業し、大倉土木(現・大成建設)に入社。1963年まで設計に従事し、ホテルオークラやホテルニューオータニなどを手がけた。ほか建築作品に大倉集古舘 (1938)、サンフランシスコ博覧会日本館 (1939) など。 1950年、大成建設取締役建築技師長。1953年取締役、1959年常務取締役、1963年退任、顧問。
里村 欣三(さとむら きんぞう、1902年3月13日 - 1… 里村 欣三(さとむら きんぞう、1902年3月13日 - 1945年2月23日)は、日本の小説家。 岡山県和気郡福河村(現在の備前市)生まれ。本名: 前川 二享(にきょう)。谷周平(昌武)ら新選組の谷三兄弟は母方の家系である。関西中学校中退。1922年、徴兵検査で甲種合格、岡山の歩兵第10連隊に入営したが脱走、水死を装って逃亡し、満洲を放浪する。 のち上京し『文藝戦線』に投稿、1924年に深川貧民窟のルポルタージュ『富川町から』を発表して注目される。1925年に中国での体験をもとにした小説「苦力頭の肖像」を発表し、プロレタリア文学の新進作家として認められる。この時代は、脱走兵であることを知られぬために、写真の公表を拒んでいた。
木倉 和一郎(きくら わいちろう、1902年(明治35年)3… 木倉 和一郎(きくら わいちろう、1902年(明治35年)3月12日 - 1994年(平成6年)1月10日)は、日本の政治家(衆議院議員・千葉県議会議員)、初代佐倉市長、千葉県弓道連盟初代会長。経済界でも活躍。 1902年(明治35年)、現在の千葉県佐倉市に生まれる。1920年(大正9年)に旧制佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を卒業。1929年(昭和4年)に東京帝国大学経済学部(現在の東京大学経済学部)を卒業。 1929年、千葉県の佐倉町会議員となり、1932年(昭和7年)には千葉県会議員となった。1934年には32歳の若さで佐倉町長に就任。 1940年に召集され陸軍高射学校に入隊し、千葉陸軍高射学校の将校として配属された。
銚子灘 傳右エ門(ちょうしなだ でんえもん、1902年3月1… 銚子灘 傳右エ門(ちょうしなだ でんえもん、1902年3月12日 - 1935年1月5日)は、千葉県銚子市出身で出羽海部屋(入門時は中立部屋)に所属した大相撲力士。本名は網中 仙太郎(あみなか せんたろう)。最高位は西前頭14枚目。 1902年3月12日に千葉県銚子市で生まれ、1922年1月場所において中立部屋から千ヶ岩の四股名で初土俵を踏む。1928年1月場所で新十両昇進を果たすが、師匠の死によって二子山部屋を経て出羽海部屋へ転籍した。幕下に陥落していた1930年1月場所から銚子灘と改名し、同年5月場所で十両に復帰し、1931年1月場所で新入幕を果たした。翌年に勃発した春秋園事件によって脱退するも1933年1月場所で復帰、十両格別席となり、翌年5月場所を最後に現役を引退、年寄・稲川を襲名した。
国島 荘一(くにじま そういち、1902年3月11日 - 1… 国島 荘一(くにじま そういち、1902年3月11日 - 1932年9月1日)は、日本の俳優である。國島 莊一と表記されることもある。本名は比佐 良夫(ひさ よしお)。旧芸名は國島 昇(くにじま のぼる)。大正末期に松竹蒲田撮影所などで活躍した二枚目俳優であったが、早世した。 1902年(明治35年)3月11日、福島県福島市に生まれる。 1914年(大正3年)、福島県福島中学校(現在の福島県立安積高等学校)に入学するが、同年7月3日に中退して井上正夫一座に入り、本郷座で初舞台を踏む。1922年(大正11年)、松竹蒲田撮影所へ入社し、国島昇を名乗って、1923年(大正12年)7月1日に公開された池田義信監督映画『水藻の花』などに出演、同作で映画デビューとされている。
中村 威(なかむら たけし、1902年3月11日 - 198… 中村 威(なかむら たけし、1902年3月11日 - 1986年3月27日)は、日本の生物学者、植物学者。京都学芸大学教授、関西女子短期大学教授を歴任。理学博士。専門は植物細胞学。 熊本県飽託郡内田村(後の天明村、天明町、熊本市南区の一部)出身。1912年から鹿児島県鹿児島市に住み、1914年に旧制 鹿児島県立第二鹿児島中学校(現 鹿児島県立甲南高等学校)へ入学。1919年に、第二鹿児島中学校から鹿児島高等農林学校(現 鹿児島大学)へ進学。専門学科では、動植物学を主とする農学科第三部で、岡嶋銀次、河越重紀、中村治房らに師事。1922年3月に鹿児島高等農林学校農学科を卒業し、ただちに京都帝国大学理学部植物学教室助手となり、桑田義備教授に師事して細胞学の研究に従事。
久邇 邦久(くに くにひさ、1902年〈明治35年〉3月10… 久邇 邦久(くに くにひさ、1902年〈明治35年〉3月10日 - 1935年〈昭和10年〉3月4日)は、日本の華族、陸軍軍人。陸軍歩兵大尉。侯爵。久邇宮邦彦王の第二王子。香淳皇后の兄(次兄)、第125代天皇・明仁(上皇)の伯父、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の大伯父にあたる。 学習院初等科を経て学習院中等科在学途中の1918年(大正7年)4月の17歳のとき、東京府立一中2年次に入学。1920年(大正9年)12月1日の府立一中4年次だったとき、当時の皇族の慣例に従って士官候補生として近衛歩兵第4連隊に入隊した。1921年(大正10年)10月1日の20歳のとき、陸軍士官学校に入学。1922年(大正11年)3月10日、貴族院皇族議員に就任。
東野辺 薫(とうのべ かおる、1902年〈明治35年〉3月9… 東野辺 薫(とうのべ かおる、1902年〈明治35年〉3月9日 - 1962年〈昭和37年〉6月25日)は、日本の小説家・劇作家。本名、野辺 慎一。福島県在住者として、初めて芥川賞を受賞した。 福島県二本松出身。旧制安積中学校を経て、1923年早稲田大学高等師範部国漢文科卒業、長野県立大町中学校教諭となる。1925年福島県立安達中学校教諭、1930年、戯曲集『黎明を待つ人々』を自費出版、1940年福島県立会津中学校教諭、1941年、懸賞小説当選作「国土」が『サンデー毎日』に掲載される。1943年福島県立保原中学校教諭。1943年、「和紙」で芥川賞を受賞。 1948年福島県立福島女子高等学校教諭、1949年福島県立福島商業高等学校夜間部教諭を経て、1952年に教員を退職。
倉野 憲司(くらの けんじ、1902年3月9日 - 1991… 倉野 憲司(くらの けんじ、1902年3月9日 - 1991年2月28日)は、日本の国文学者。福岡女子大学名誉教授。学位は文学博士(東京大学・論文博士・1951年)。 福岡県遠賀郡芦屋町に生まれる。1926年に東京帝國大学文学部国文学科を卒業後、ただちに成城高等学校教授となり、以後、東京女子大学教授、広島文理科大学助教授、文部省図書監修官、神宮皇學館大學教授を歴任。 戦後は鈴鹿高等学校教諭等を経て、1950年に福岡女子大学教授に就任。同大学において1952年に学生部長、1956年に文学部長、1962年に図書館長など要職を歴任し、1964年には学長となり、1972年まで3期8年間つとめた。同年退職して同大学名誉教授、また勲二等瑞宝章を受章。
大塚 末子(おおつか すえこ、1902年3月9日 - 199… 大塚 末子(おおつか すえこ、1902年3月9日 - 1998年11月25日)は、日本のファッションデザイナー。 福井県敦賀市出身。実業学校中退後、呉服屋のお針子となり、上京して1932年結婚。夫の勧めで文化服装学院に入学して洋裁を学び、1935年に卒業。 『暮しの手帖』第5号(1949年)に、考案した「もんぺスーツ」が掲載される。1948年に夫と死別し、『装苑』の編集者を務めていたとき、仕事で出会ったイサム・ノグチに、着用していたもんぺスーツの素晴らしさを指摘されて退社、ファッションデザイナーとなる。 1952年から銀座の「たくみ工芸店」に勤務するかたわら、本来は洋裁のものである型紙や洋服地を和服に導入して、機能的な和装デザインを次々と考案した。
東 隆(あずま たかし、1902年(明治35年)3月8日 -… 東 隆(あずま たかし、1902年(明治35年)3月8日 - 1964年(昭和39年)7月18日)は、日本の農協運動家、政治家。衆議院議員、参議院議員。 北海道上川郡東旭川村下兵村(現旭川市)で大分県から入植した屯田兵・東晋吾の三男として生まれる。旭川中学校を卒業し農業を継いだが、その後、勉学の道に進み北海道帝国大学予科に入学。1926年、同大学農学部農業経済学科を卒業。北海道庁技手に任官し、以後、農林主事、経済更生主任官、金融主任官、産業組合主任官、北海道農会幹事、同農業会専務理事、日本輸出農産物会社理事、同札幌支店長、肥料配給公団札幌支部長、北海道農業復興会議副議長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に北海道第一区から日本協同党所属で立候補して当選し衆議院議員を一期務め、国民協同党政策調査会副会長となった。
山本 栄一郎(やまもと えいいちろう、1902年(明治35年… 山本 栄一郎(やまもと えいいちろう、1902年(明治35年)3月8日 - 1979年(昭和54年)12月15日)は、日本のプロ野球選手。日本初のプロ野球球団である日本運動協会で主将を務め、後に東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)にも入団した。右投げ右打ちで、守備位置は投手を中心に捕手以外のほぼ全て。投法はサイドスローであった。 大の餅好きであったことから、チームメイトからは「バブさん」(バブは島根の方言で餅のこと)のあだ名で呼ばれた。 島根県松江市出身。島根商業(現・島根県立松江商業高等学校)卒業後、神戸で働いていたが、1920年(大正9年)、早稲田大学野球部OBである加藤吉兵衛(後に山陽クラウンズの総監督)の紹介で日本運動協会の入団テストを受け合格。
梅溪 通虎(梅渓、うめたに みちとら、1902年(明治35年… 梅溪 通虎(梅渓、うめたに みちとら、1902年(明治35年)3月8日 - 1984年(昭和59年)8月9日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・松平。梅溪家12代当主。 三重県で、実業家・松平家晃、則子夫妻の二男として生まれる。生まれてすぐ母方の梅溪家当主・梅溪通魯の養子となり、養父の死去に伴い、1920年(大正9年)6月21日に子爵を襲爵した。 1925年(大正14年)3月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。さらに同大学院を修了した。日本鉱業監査役、日本水産本店庶務課長、日本海洋漁業統制(株)理事などを務めた。 1945年(昭和20年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
圭室 諦成(たまむろ たいじょう 1902年3月8日 - 1… 圭室 諦成(たまむろ たいじょう 1902年3月8日 - 1966年5月15日 )は、日本の歴史家。 熊本県出身。1923年東京帝国大学文学部選科に入学。1927年に同学部国史学科に竹内理三、藤木邦彦、宝月圭吾らとともに入学し、1928年に卒業。東京帝国大学史料編纂所に入所し、史料編纂官補となり、1935年に退官。その後、駒澤大学教授に転じた。この間、寺院経済史研究に努めた。戦時中、熊本に疎開し、熊本女子大学(現・熊本県立大学)が創立されると、1950年に同大学文家政学部教授になり、熊本の地域史研究に努めた。1960年に明治大学文学部教授に転じたのちも、熊本県史、熊本県議会史の編さんに携わりながら、再び仏教史研究に努めた。
木梨 鷹一(きなし たかかず、1902年(明治35年)3月7… 木梨 鷹一(きなし たかかず、1902年(明治35年)3月7日 - 1944年(昭和19年)7月26日)は、日本の海軍軍人。海兵51期。伊19潜水艦長として、アメリカ海軍の正規空母ワスプを撃沈した武勲で知られる。最終階級は海軍少将。 大分県出身。臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)を経て海軍兵学校(51期)に入校。海兵51期の同期生には、クラスヘッドの樋端久利雄・大井篤・実松譲・井浦祥二郎・稲葉通宗ら著名な者が多い。木梨の兵学校入校席次は150番であったが、1923年(大正12年)7月の卒業時の席次は255名中255番と最下位であった。1924年(大正13年)12月、海軍少尉に任官。 帝国海軍では、兵学校卒業席次を基礎とする「ハンモックナンバー」が進級・補職に大きく影響した。
伊藤 英夫(いとう ひでお、1902年3月7日 - 1977… 伊藤 英夫(いとう ひでお、1902年3月7日 - 1977年9月1日)は、日本の経営者。稲畑産業社長を務めた。 富山県高岡市出身。1925年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に稲畑産業に入社。 1941年に取締役に就任し、1944年に常務、1951年10月に専務、1963年4月に副社長を経て、1969年5月には社長に就任。1972年12月には会長に就任した。 1977年9月1日、脳血栓のために死去。75歳没。
吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月… 吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月7日 - 1976年 <昭和51年> 3月1日)は、日本の経営者。電源開発総裁を務めた。位階は正四位。 岡山県倉敷市出身。倉敷天城中学、第六高等学校を経て、1926年に東京帝国大学工学部電気科を卒業。富士紡績、富士電力の勤務を経て、1942年に関東配電(のちの東京電力)に転じ、1951年に取締役に就任し、1953年9月に常務、1961年6月に副社長を経て、1964年8月から1966年8月までに電源開発総裁を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等旭日重光章を受章。1976年3月1日、死去。73歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
加藤 秀次郎(かとう ひでじろう、1902年3月7日 - 1… 加藤 秀次郎(かとう ひでじろう、1902年3月7日 - 1977年8月29日)は、日本の文学者。関西学院高等商業学部教授、同学院第8代院長(1956年から1958年まで)などを歴任した。専門は、アメリカ文学。 北海道函館市出身。1921年(大正10年)慶應義塾商工学校卒業。1929年(昭和4年)6月、米国オーバリン大学卒。1930年(昭和5年)4月、関西学院高等商業学部専任講師に就任し、1931年(昭和6年)4月に同学部教授に昇任。1938年(昭和13年)4月から同学院商経学部講師を兼任、1947年(昭和22年)5月から関西学院専門学校高等商業学部部長となり、1949年(昭和25年)4月同学院短大科長、1933年(昭和29年)に短大学長に就任。
深川 正一郎(ふかがわ しょういちろう、1902年3月6日 … 深川 正一郎(ふかがわ しょういちろう、1902年3月6日 - 1987年8月12日)は、愛媛県出身の俳人。 宇摩郡上山村(現・四国中央市)に生まれる。11歳で両親と死別し祖父母に育てられる。川之江二洲学舎(戦後は愛媛県立川之江高等学校定時制に引き継がれる)を卒業。在学中より俳句・短歌をたしなむ。 1924年、文藝春秋に入社。1930年、日本コロムビア編集長に就任。翌年、俳句朗読の録音で高浜虚子と知り合い師事する。のち「ホトトギス」同人。1949年「冬扇」を創刊・主宰。1973年、妻の健康のため「冬扇」を終刊。 1987年、「ホトトギス」同人会長となり、また日本伝統俳句協会設立に伴い初代副会長に就任。
沖 不可止(おき ふかし、1902年3月6日 - 1976年… 沖 不可止(おき ふかし、1902年3月6日 - 1976年3月15日または3月31日)は、日本の昭和期の作曲家、指揮者、チェロ奏者。東京府出身。ハインリヒ・ヴェルクマイスターと信時潔に師事し、1926年(大正15年)3月に東京音楽学校本科器楽部チェロ専攻を卒業。妻は日本舞踊家の藤蔭絃枝(2代目藤蔭静枝、本名:沖カツ子)。数多くの学校の校歌を作曲している。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
馬越 晃(うまごし / うまこし あきら、1902年(明治3… 馬越 晃(うまごし / うまこし あきら、1902年(明治35年)3月6日 - 1971年(昭和46年)7月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。旧姓は山口。 愛媛県北宇和郡岩松村(岩松町、津島町を経て現宇和島市)の山口家に生まれ、越智郡今治町今治(現今治市)の馬越大吉の養子となる。1924年(大正13年)愛媛県立弓削商船学校(現弓削商船高等専門学校)を卒業し、1930年(昭和5年)甲種船長に合格した。 その後、家業の魚問屋を継承して会社組織に変更。1932年(昭和7年)今治市会議員に当選。1933年(昭和8年)11月の補欠選挙で愛媛県会議員に選出され、1946年(昭和21年)まで3期在任し、同参事会員、同副議長を務めた。
吉田 英三(よしだ ひでみ/えいぞう、1902年(明治35年… 吉田 英三(よしだ ひでみ/えいぞう、1902年(明治35年)3月5日 - 1978年(昭和53年)4月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。初代自衛艦隊司令。最終階級は海軍大佐、海将。 農業を営む吉田蔵之介の三男として生まれる。旧制福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)を経て、海軍兵学校第50期入校。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校卒業。海軍大学校(甲種32期)卒業。海軍での最終階級は海軍大佐(軍務局第三課長)。 終戦に伴い旧海軍省は解体されたが、復員に必要な人事情報に精通していたため、第二復員局に引き続き勤務。この頃から、職務上接していた情報と人脈を用い、勤務時間外に「新海軍」再建計画を画策する。
飯島 正(いいじま ただし、1902年3月5日 - 1996… 飯島 正(いいじま ただし、1902年3月5日 - 1996年1月5日)は、日本の映画評論家・詩人。旧姓:吉田。 東京府生まれ。父の吉田平太郎は豊後国出身で日露戦争で活躍した陸軍中将だったが、退役後に毛皮商として一旗揚げるべくモンゴルに渡り、そこで部下に騙されて零落し日本に帰国、持ち家を手放し、都内を転々とした。のち茨城県の愛人の元に移り、釣りに明け暮れ、肝臓病で亡くなった。母方の祖父の池上正路は銀座の大手広告代理店「正路喜社」(しょうじきしゃ)の創立者。平太郎には離婚した先妻との間に子がいたため、正の実母ヤス(安子)は先妻の子に気を遣い、正を自分の兄(正の母方の伯父)の養子に入れ、飯島姓とした。
安永 良徳(やすなが よしのり、1902年3月5日 - 19… 安永 良徳(やすなが よしのり、1902年3月5日 - 1970年9月12日)は、昭和時代の彫刻家。福岡県美術協会理事長。
増永 霊鳳(ますなが れいほう、1902年(明治35年)3月… 増永 霊鳳(ますなが れいほう、1902年(明治35年)3月5日 - 1981年(昭和56年)12月29日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。駒澤大学名誉教授。仏教学専攻。 福井県福井市出身。駒澤大学仏教学部卒。同研究科卒。文学博士。駒澤大学仏教学部教授、駒澤大学短期大学部長を歴任。
鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 19… 鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 1972年6月11日)は、日本の洋画家。神奈川県中郡須馬村(現在の平塚市)生まれ。本名は正夫。 茶色を基調とした渋い色調の絵具を多用し、土壁のような絵肌の単純化された構図の作品を数多く制作した。 砂を混ぜた渋い色調の絵具を厚く盛り上げたのち、それをノミで削り取る技法を好んで用い、単純な構成とざらざらとした絵肌の重厚な質感により、雅趣に富む味わいと気品を湛える画風を確立した。この技法には、鳥海がたびたびアジア諸国へ旅行した際に見た土が影響しているとも考えられる。また彼の茶を基調にした作品は、日本の油彩画の一典型とも見なされている。
一瀬 正巳(いちのせ まさみ、1902年〈明治35年〉3月4… 一瀬 正巳(いちのせ まさみ、1902年〈明治35年〉3月4日 - 1953年〈昭和28年〉ごろ)は、日本の物理学者。 1902年、熊本県玉名郡小田村に生まれる。熊本県立玉名中学校(1919年卒業、同級生に宮崎世民がいる)、旧制第五高等学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業した。 京大卒業後は南満洲鉄道に勤務し、1927年より旧制名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の教授となり、1941年に従五位に叙された。 主著に『誤差論』(培風館、1953年)がある。
高羅 芳光(こうら よしみつ、1902年3月4日 - 198… 高羅 芳光(こうら よしみつ、1902年3月4日 - 1984年5月14日)は、日本の経営者。富士通社長、会長を務めた。山口県出身。 1929年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に富士電機製造に入社。1947年に富士通信機製造に転じ、1949年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1970年5月に社長に就任した。1974年11月から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1978年に勲二等瑞宝章を受章。 1984年5月14日、脳梗塞のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35… 久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35年)3月2日 - 1977年(昭和52年)7月14日)は、日本の外交官。外務省参与やカンボジア国最高顧問、駐南ベトナム大使を務めた。 和歌山県出身。進路に海軍兵学校か外交官か悩んだ末に外交官を志し、1924年に東京商科大学(一橋大学の前身)に入学。同校を中退し、外務省入省。 1953年(昭和28年)に日韓会談で日本側首席代表を務めた。その後、在メキシコ特命全権大使を務め、1957年(昭和32年)の帰任時には、メキシコ国内の事情を昭和天皇に進講した。さらに在南ベトナム特命全権大使等を務めた。 妻清子は石井菊次郎(元外務大臣)の子。 日韓基本条約に向けての日韓会談で、韓国併合が結果的にインフラ投資等で韓国の生活水準向上に貢献したと発言し、韓国から「久保田妄言」として反発された。