高垣 眸(たかがき ひとみ、1898年〈明治31年〉1月20… 高垣 眸(たかがき ひとみ、1898年〈明治31年〉1月20日 - 1983年〈昭和58年〉4月2日)は、日本の児童文学作家、大衆小説作家、小説家。男性。本名・末男。別筆名に田川緑、青海、小野迪夫がある。 幼少期から軍艦に憧れ、海に情憬を持ち育った。このため海を舞台にした作品が多い。 広島県尾道市土堂生まれ。先祖は備後一宮城主で、生家は酢と醤油の醸造業を営んでいた。1902年(明治35年)、4歳のときに父親が赤痢で死去。翌年、尾道幼稚園に第一回生として入園する。またこの年、祖母より箏曲を習う。1904年(明治37年)、土堂小学校に入学、級長を務めた。1906年(明治39年)の夏に屋根から落ちて頭を打撲し京都府立病院に半年ほど入院。
岩松 五良(いわまつ ごろう、1898年1月20日 - 19… 岩松 五良(いわまつ ごろう、1898年1月20日 - 1964年12月15日)は、日本の文部官僚。文部省実業学務局長等を経て、長崎高等商業学校校長を務めた。 東京府東京市杉並区生まれ。1918年第一高等学校大学予科文科志望卒業。1921年東京帝国大学文学部東洋史科卒業。1924年東京帝国大学法学部法律学科卒業。 1928年海軍兵学校文官教授。1932年文部省社会教育官。1938年文部大臣秘書官、文部大臣官房会計課長、文部大臣官房秘書課長、文部省普通学務局学務課長。 1939年文部省実業学務局長兼企画院参与。同年拓務省拓務局参与。1940年関東局在満教務部長。1942年長崎高等商業学校長。同年退官。
金関 丈夫(かなせき たけお、1897年2月18日 - 19… 金関 丈夫(かなせき たけお、1897年2月18日 - 1983年2月27日)は、日本の解剖学者、人類学者。 1897年、香川県仲多度郡榎井村(現:琴平町)に生まれた。幼少期を四国で過ごしたが、小学6年の時に岡山に移った。松江中学校を経て、第三高等学校に進んだ。西洋文学や日本の古典文学に関心を持っていたが、父の反対もあり文系ではなく医学部進学を目指すようになった。1919年7月に卒業し、京都帝国大学医学部解剖学科に入学。1923年7月に卒業した。 卒業後は、足立文太郎教授が率いる解剖学教室助手に採用された。足立は日本における軟部人類学の先駆け的な存在であり、その助手を務めつつ、足立の勧めにより同大学の病理学者清野謙次や文学部考古学教室の濱田耕作の指導も受けた。
猪原 大華(いのはら たいか、1897年(明治30年)2月1… 猪原 大華(いのはら たいか、1897年(明治30年)2月17日 - 1980年(昭和55年)2月5日)は日本画家。広島県深安郡(現・福山市)出身。本名は寿(ひさし)。花鳥草木を得意とした。 自然観照に基づいた穏健な画風と枯淡な色彩で知られており、写実を越えた現代花鳥画の方向性を導く物として期待され、装飾的画題を荒いタッチで処理した独特の画風を展開した。 1897年(明治30年)2月17日、広島県深安郡八尋村(現・福山市)にて地主農家の生家に生まれる。 1915年、18歳のとき画家を志し広陵中学校(現・私立広陵高校)を中退。伯父を頼って大阪に出た折に金島桂華を知る。1918年京都市立絵画専門学校別科(現・京都市立芸術大学)入学。
平井 昌平(1897年〈明治30年〉2月16日 - 1957… 平井 昌平(1897年〈明治30年〉2月16日 - 1957年〈昭和29年〉4月3日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校46期生。最終階級は海軍少将。終戦時は呉海軍工廠総務部長。 1897年(明治30年)2月16日に山梨県北都留郡広里村(現:大月市大月町)で、父・保太郎、母・いちの四男として生まれる。 真木尋常小学校、広里高等小学校を卒業後、長兄の薦めもあり、東京に出ていた別の兄を頼って麻布中学へ進学する。麻布中学卒業後は、海軍兵学校へ進学し、1918年(大正7年)に46期生として卒業する。 1927年(昭和2年)には井上良馨元帥の副官となる。 1934年(昭和9年)には少佐に昇進しており、軍の特命を受けてアメリカ合衆国へ実情偵察を目的として出張する。
片山 金章(かたやま きんしょう、1897年2月15日 - … 片山 金章(かたやま きんしょう、1897年2月15日 - 1983年12月29日)は、日本の法学者(商法・民法・英米法)。学位は、法学博士(中央大学)。中央大学学長を務めた。 学部時代は兼任講師として教えに来てたローマ法の春木一郎の薫陶を受け、助手時代に学外指導教授として松本烝治及び田中耕太郎に民法、商法の薫陶を受けた。
稲垣 巌(いながき いわお、1897年(明治30年)2月15… 稲垣 巌(いながき いわお、1897年(明治30年)2月15日 - 1937年(昭和12年)8月15日)は、日本の教育者。元京都府立桃山中学校(現:京都府立桃山高等学校)の英語科教員。 明治の文豪小泉八雲の次男。
大神 一(おおがみ はじめ、1897年2月15日 - 197… 大神 一(おおがみ はじめ、1897年2月15日 - 1970年10月12日)は、日本の経営者。 長崎県長崎市出身。1921年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に山一合資(のちの山一證券)に入社。1935年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1954年11月に社長に就任。1964年から1965年までに会長を務めた。 1963年に藍綬褒章を受章。 1970年10月12日慢性腎炎と腸狭窄で死去。73歳没。
野田 岩次郎(のだ いわじろう、1897年(明治30年)2月… 野田 岩次郎(のだ いわじろう、1897年(明治30年)2月15日 - 1988年(昭和63年)12月15日)は長崎県長崎市出身の実業家。第二次世界大戦後、連合国占領統治下の日本に於いて、持株会社整理委員会(HCLC)常務委員・委員長として財閥解体に当たり、HCLC解散後はホテルオークラの立ち上げに参加。日本ホテルの国際化の礎を築いた。 生家は三菱長崎造船所御用達の洋服商。外交官を目指し東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、当時活況にあった貿易業に興味を持ち進路を転換。1918年の卒業とともに三井物産に入社。英語が得意だったことから、すぐシアトル出張所に配属された。 1922年、現地の弁護士の娘で米国の三井物産でタイピストをしていたアリス・カリタ・コーストン(愛称はカリタ)と結婚するが、人種偏見が強い当時の国際結婚は双方の家族や社内の抵抗を受け、これが原因となって翌年三井物産を退社する。
松本 健一(まつもと けんいち、1897年(明治30年)2月… 松本 健一(まつもと けんいち、1897年(明治30年)2月15日 - 1957年(昭和32年)1月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。功四級。 1897年(明治30年)に長崎県で生まれた。陸軍経理学校第12期主計候補生として1918年(大正7年)5月20日に卒業した。1934年(昭和9年)4月から1936年(昭和12年)3月まで東京帝国大学経済学部で陸軍派遣員外学生として聴講し、大学院にも進んだ。1939年(昭和14年)8月に北支那方面軍参謀部附となり日中戦争に出動した。1940年(昭和15年)8月1日に陸軍主計大佐進級と同時に関東軍司令部附となった。1941年(昭和16年)11月に陸軍経理学校附となり、1943年(昭和18年)2月に大阪陸軍糧秣支廠長に就任した。
氏家 彦太郎(うじいえ ひこたろう、明治30年(1897年)… 氏家 彦太郎(うじいえ ひこたろう、明治30年(1897年)2月14日- 昭和57年(1982年)11月30日)は、日本の刀剣鑑定家、(株)松ヶ岡製作所社長、致道博物館理事、日本美術刀剣保存協会評議員、山形県銃砲刀剣登録審査員。栄典は勲五等・瑞宝章。
水田 直昌(みずた なおまさ、1897年(明治30年)2月1… 水田 直昌(みずた なおまさ、1897年(明治30年)2月14日 - 1985年)は、大正から昭和にかけての大蔵・朝鮮総督府官僚。 愛知県愛知郡鳴海町で水田直温の長男として生まれ、1921年に東京帝国大学卒業。大蔵省に入り、理財局に勤めたのち、1922年7月司税官に任じられて福岡税務署長、大阪南税務署長を歴任した。これまでに、高等文官試験行政科に合格している。1925年、朝鮮総督府に移って朝鮮総督府事務官に任じられた。1928年4月に朝鮮総督府財務局司計課長、1937年10月30日に朝鮮総督府財務局長に就任。1945年9月の日本による朝鮮統治終了まで務めた。 敗戦直後から、京城にあった日本資本の民間銀行で日本人預金者による取り付け騒ぎが発生したが、8月16日から月末までに朝鮮書籍株式会社の印刷工場で千円札高額紙幣70億円分、近澤印刷株式会社で百円札紙幣21億円分の朝鮮銀行券を発行し、また同月17日には「朝鮮内通帳を日本にもっていけば、毎月500円の限度内で預金を引き出すことができ、日本に本店がある銀行の送金小切手は日本でも有効」とする談話を発表することで、金融モラトリアム発生に備えた。
北村 初雄(きたむら はつお、 1897年〈明治30年〉2月… 北村 初雄(きたむら はつお、 1897年〈明治30年〉2月13日 - 1922年〈大正11年〉12月2日)は、大正期の日本の詩人。 東京市麹町区飯田町(現・東京都千代田区飯田橋)で、北村七郎の長男として生まれる。 横浜市南太田町(現・南区内)で育ち、1903年に横浜市老松小学校(現・横浜市立本町小学校)に入学した。 1912年に神奈川県立第一横浜中学校(現・神奈川県立希望ケ丘高等学校)に進む。中学校在学中から三木露風に師事した。 1917年に中学校を卒業し、東京高等商業学校(現・一橋大学)予科に入学した。1921年に同校本科を卒業して、三井物産に入社したが、1922年に結核のため鵠沼の旅館東屋に転地療養し、同年死去した。
上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - … 上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - 1951年5月14日)は、日本の劇作家、新聞記者。 山形県米沢市生まれ。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)時代は浜田廣介や大熊信行と同人誌を発行。 早稲田大学中退。大正初期から短歌、戯曲を発表。都新聞学芸部長として、尾崎士郎の『人生劇場』を連載させた。 1935年発表の「村道」は4幕の舞台として創作座にて上演。1938年発表の「ふるさと紀行」も、翌1939年に4幕の舞台として新築地劇団により築地小劇場で上演された。 戦時中は大政翼賛会文化副部長。 戦後は福島県に疎開。「わが山河「鯉」(1946年)、「節分の客」(1948年)などを執筆。
大石 ヨシエ(おおいし ヨシエ、1897年〈明治30年〉2月… 大石 ヨシエ(おおいし ヨシエ、1897年〈明治30年〉2月12日 – 1971年〈昭和46年〉6月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(5期)。日本初の女性代議士の一人。 京都府出身。1915年(大正4年)、私立信愛高等女学校(現大阪信愛学院高等学校)卒業。卒業後、故郷の舞鶴市で参政権獲得など婦人運動に加わった。のちに国民同志会に入り、1931年(昭和6年)から2年間渡米した。帰国後に満洲国へ渡り、新聞社の顧問などをしたが、間もなく日本に戻った。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙では京都府から無所属で立候補し当選し、日本初の女性代議士の一人となった。当選後は日本社会党に入り、社会革新党を経て右派社会党で活動した。
板倉 勝宣(いたくら かつのぶ、1897年2月12日 - 1… 板倉 勝宣(いたくら かつのぶ、1897年2月12日 - 1923年1月17日)は、東京出身の登山家。日本登山界草創期に活躍、山岳地におけるスキー利用の先駆者にもなったが、25歳で遭難死した。子爵板倉勝弼の庶子。 1897年(明治30年)2月12日、備中松山藩最後の藩主板倉勝弼(前年10月に死去)の七男(庶子)として生まれる。学習院初等科、中等科を経て学習院高等科を卒業(松方三郎と同級生)。中等科より登山を始めた。1919年に北海道帝国大学農学部に入学、大学時代にはスキー部に所属した。在学中の1921(大正10)年に、加納一郎らと日本最初の山岳雑誌「山とスキー」を発刊。 1922年に佐幌岳にスキー登山、大雪山系の旭岳に初登頂したほか、槍ヶ岳北鎌尾根を松方三郎らと登攀、新聞には初登頂(実際の初登頂はウォルター・ウェストン)と報道され、新進気鋭の登山家として知られるところとなった。
徐 相国(ソ・サングク、朝鮮語: 서상국/徐相國、1897年… 徐 相国(ソ・サングク、朝鮮語: 서상국/徐相國、1897年2月11日または3月11日 - 1977年1月4日)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 現在の全羅南道咸平郡出身。早稲田大学専門部政経科卒。1925年には長城郡の精米所で約5か月間勤めていた。中央中学校、中央大学校の教員を務めた後、1950年の第2代総選挙に咸平選挙区から民主国民党所属で出馬し、国会議員を務めた。政界では民主国民党中央執行委員を務めた。
吉田 謙吉(よしだ けんきち、1897年2月10日 - 19… 吉田 謙吉(よしだ けんきち、1897年2月10日 - 1982年5月1日)は、日本の舞台美術家・舞台装置家、映画の美術監督、衣裳デザイナー、タイポグラフィ作家である。 1897年(明治30年)2月10日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。京橋小学校では同級生に歌舞伎役者の坂東三津之丞、先輩に松竹社長の城戸四郎、後輩に築地小劇場系の劇作家久保栄らがいた。1909年(明治42年)、府立一中に入学するが3年生進級の際、父の倒産により中退。1911年(明治44年)、府立工芸学校金属科鋳金科に入学。1915年(大正4年)に卒業後、海軍造兵廠鋳金工場に勤務する傍ら、葵橋洋画研究所に学び、また、土岐善麿に師事し生活歌を学ぶ。
除村 吉太郎(よけむら よしたろう、1897年〈明治30年〉… 除村 吉太郎(よけむら よしたろう、1897年〈明治30年〉2月10日 - 1975年〈昭和50年〉11月3日)は、ロシア・ソビエト文学者。東京外国語学校教授、早稲田大学文学部客員教授。 1897年(明治30年)、群馬県多野郡美土里村(現・藤岡市)に生まれる。旧制藤岡中学校(群馬県立藤岡高等学校、現・群馬県立藤岡中央高等学校)を経て、1918年(大正7年)東京外国語学校(現・東京外国語大学)ロシア語科を卒業。 深井英五の紹介により、一時日本銀行調査部に勤務するが退職。駐日ロシア大使館に勤務した後、1922年(大正11年)にハルビンの日露協会学校助教授となった。1924年(大正13年)、母校である東京外国語学校助教授に就任し、1930年(昭和5年)教授に昇任。
松平 斉光(まつだいら なりみつ、1897年2月10日 - … 松平 斉光(まつだいら なりみつ、1897年2月10日 - 1979年5月14日)は、政治思想史学者。
二見 貴知雄(ふたみ きちお、1897年(明治30年)2月9… 二見 貴知雄(ふたみ きちお、1897年(明治30年)2月9日 - 1957年(昭和32年)3月23日)は、日本の銀行家。日本銀行副総裁、東京銀行頭取を務めた。 京都府京都市出身。京都府立一中、三高を経て、1921年に東京帝国大学法科を卒業。同年に日本銀行に入行。 計算局を振り出しに、ニューヨーク監督官付、審査部、大阪支店、営業局次長を歴任後、再び海外に出て、ロンドン代理店監督役となり、国際決済銀行理事を兼任し、ロンドンとジュネーブの間を往復した。帰国後の1941年、日銀参事となり、資金調整局調査役を経て、故郷の京都支店長、神戸、名古屋の各支店長を歴任した。その後、本店に戻り考査局長、統制局長をやっているうちに終戦を迎える。
縄田 尚門(なわた ひさと/しょうもん、1897年(明治30… 縄田 尚門(なわた ひさと/しょうもん、1897年(明治30年)2月8日 - 1968年(昭和43年)4月29日)は、大正・昭和期の日本の陸上競技(中距離走・長距離走)選手・指導者。現在の山口県宇部市出身。選手としては大正末期に800m走・1500m走・5000m走で当時の日本記録を保持した。第二次世界大戦後はマラソン選手の育成に当たるとともに、日本陸上競技連盟常務理事などを務めた。 現在の山口県宇部市中野に生まれる。旧制興風中学校(現在の山口県立小野田高等学校)を経て、早稲田大学に入学。 早稲田大学在学中の1923年(大正12年)5月25日、極東公開競技会(大阪)男子5000mで日本記録を更新した(16分11秒0)。
有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日… 有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日 - 1943年(昭和18年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の息子として生まれる。上川中学を経て、陸軍士官学校(31期)、陸軍大学校(41期)を卒業。 参謀本部作戦班長・教育課長などを経て、1940年に関東軍作戦課長となり、ノモンハン事件後の関東軍の建て直しに当たった。日米開戦には反対の立場をとり、1941年、大本営陸軍参謀部第20班長として戦争回避を唱えたが阻止できなかった。 太平洋戦争開戦後は第17軍高級参謀などを経て、1942年、第8方面軍作戦課長としてラバウルに赴任し、翌1943年には陸軍少将・同方面軍参謀副長となり今村均大将を補佐する。
由良 哲次(ゆら てつじ、1897年2月7日 - 1979年… 由良 哲次(ゆら てつじ、1897年2月7日 - 1979年3月28日)は、日本の歴史哲学者、日本史家、美術史家、浮世絵蒐集家。横光利一の『旅愁』のモデル。 1897年、奈良県添上郡柳生村(現・奈良市)にて、丹生神社の神官の家系に生まれた。旧制の三重県立第三中学校(現在の三重県立上野高等学校)に在学中、1級下の横光利一と親交を結ぶ。父の事業の失敗により経済的に困窮し、滋賀県立師範学校に進学。教員となり、大津市南尋常小学校で2年間の教員生活を送った後、1918年に上京し、東京高等師範学校に入学した。 東京高等師範学校では、三宅米吉と峰岸米造のもとで古代史と考古学を修めた。1924年、京都帝国大学哲学科に入学。
大脇 義一(おおわき よしかず、1897年2月7日 - 19… 大脇 義一(おおわき よしかず、1897年2月7日 - 1976年1月23日)は、日本の心理学者。 1897年、京都府生まれ。1920年京都帝国大学文学部心理学科を卒業。1940年に「表象体験ノ研究」を東北帝国大学に提出して文学博士号を取得。京都帝大助手、東北帝国大学法文学部助教授を経て、1941年に教授となった。 戦後は東北大学教授となる。1960年に定年退官し、名誉教授となった。その後は和光大学教授、関西大学教授を務めた。心理学の研究者として、日本心理学会理事を務めた。
向坂 逸郎(さきさか いつろう、1897年2月6日 - 19… 向坂 逸郎(さきさか いつろう、1897年2月6日 - 1985年1月22日)は、日本のマルクス経済学者・社会主義思想家。九州大学教授・社会主義協会代表を歴任。 福岡県大牟田市に会社員の息子として生まれる。弟に向坂正男、山崎八郎がいる。福岡県立八女中学校(1年夏から3年夏までは北海道庁立小樽中学校に転校。)、同県立小倉中学校、第五高等学校を経て、1921年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業すると、同学部の助手となった。五高在学中、ドイツ語の勉強のために、カール・マルクスの著作を読んだことからマルクス主義に傾倒するようになったという。 1922年11月より1925年5月までドイツ・ベルリンに留学。
鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年〈明治30年〉2月6日… 鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年〈明治30年〉2月6日 - 1967年〈昭和42年〉9月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。1941年から1942年にかけて存在したビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とする日本軍の特務機関「南機関」の機関長。この経歴から「日本版アラビアのロレンス」と称される。 静岡県出身。鈴木房蔵の長男として生まれる。浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、翌月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。
平山 孝(ひらやま たかし、1897年2月6日 - 1979… 平山 孝(ひらやま たかし、1897年2月6日 - 1979年7月8日)は、日本の鉄道官僚。東京急行電鉄社長。 東京府出身。1920年高等文官試験に合格。翌年東京帝国大学法学部独法科を卒業する。卒業後は鉄道省に入り、欧米に出張、帰国後は仙台鉄道局経理、庶務の各課長、鉄道書記官、監督局業務課長、鉄道大臣書記官、文書課長、名古屋鉄道局長、東京鉄道局長、鉄道局経理局長を経て、1945年東京急行電鉄社長に就任する。同年、運輸次官となる。運輸次官は1947年まで務め、その後は「東京急行社長」のため公職追放となった。 追放解除後は交通道徳協会会長に就任した。戦後は観光事業に注力して、1951年(昭和26年)6月に株式会社国際観光会館を設立、1954年(昭和29年)に東京駅八重洲口に「国際観光会館」を建設した。
高橋 新次郎(たかはし しんじろう、1897年(明治30年)… 高橋 新次郎(たかはし しんじろう、1897年(明治30年)2月4日 - 1973年(昭和48年)10月5日)は、日本の歯学者、歯科医師、矯正歯科医。埼玉県出身。 東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)矯正歯科学教室教授、東京医科歯科大学教授、東京医科歯科大学歯学部長、東京医科歯科大学附属病院院長、東京医科歯科大学附属歯科技工士学校長を歴任。日本矯正歯科学会会長、国際歯科研究学会日本部会会長も務めた。 息子は植物学者の高橋信孝、孫は内分泌学者の高橋伸一郎。
金光 邦三(かねみつ くにぞう、1897年〈明治30年〉2月… 金光 邦三(かねみつ くにぞう、1897年〈明治30年〉2月4日 - 2001年〈平成13年〉11月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。初代魚津市長(1期)。弁護士。 富山県下新川郡魚津町(現魚津市)で生まれた。1918年立命館大学法律科卒。弁護士となり、神戸市議、兵庫県議を経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で兵庫1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。 戦後の1946年(昭和21年)1月19日に魚津町長に就任するが、推薦議員のため、公職追放となったため、同年10月2日に町長職を退いた。その後は富山県下新川郡下野方村(現:魚津市)で弁護士を営んでいた。
坊城 俊賢(ぼうじょう としよし、1897年(明治30年)2… 坊城 俊賢(ぼうじょう としよし、1897年(明治30年)2月2日 - 1984年(昭和59年)6月5日)は、大正末から昭和期の農林技師、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府で伯爵・坊城俊章の五男として生まれ、はとこの男爵・坊城俊延の養子となる。養父の死去に伴い1910年(明治43年)6月4日、男爵を襲爵。学習院高等科を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学農学部を卒業。1924年(大正13年)以降、東京市技手、埼玉県技手、農林技手、富山県農林技師などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
若松 有次郎(わかまつ ゆうじろう、1897年(明治30年)… 若松 有次郎(わかまつ ゆうじろう、1897年(明治30年)2月1日 - 1977年(昭和52年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、獣医師。最終階級は陸軍獣医少将。旧姓・池田。 香川県出身。農業・池田仲三郎の息子として生まれ、官吏・若松八郎の養子となる。慶應義塾普通部、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)4月、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。同年7月、二等獣医に任官し騎兵第13連隊付となる。1924年(大正13年)11月、サガレン州派遣軍軍政部付となり、電信第1連隊付を経て、1926年(大正15年)3月、一等獣医に昇進し騎兵第12連隊付となる。 1928年(昭和3年)4月、東京大学伝染病研究所員に就任し、陸軍士官学校付兼馬術教官、ドイツ駐在、陸軍獣医学校防疫学教官を務め、1934年(昭和9年)8月、三等獣医正に進級した。
德川 喜翰(とくがわ のぶもと、1897年〈明治30年〉1月… 德川 喜翰(とくがわ のぶもと、1897年〈明治30年〉1月31日 - 1938年〈昭和13年〉5月10日)は、日本の政治家・華族(男爵)。貴族院男爵議員。新字体で徳川 喜翰とも表記される。 男爵・徳川厚の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1927年(昭和2年)10月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)京都帝国大学法学部を卒業し、さらに同大学院を修了した。1925年、宮内省図書寮嘱託となる。以後、貴族院嘱託、日本大学講師などを務めた。 1932年(昭和7年)1月22日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し死去するまで1期在任した。墓所は谷中霊園の寛永寺墓地。
坪井 良平(つぼい りょうへい、1897年〈明治30年〉1月… 坪井 良平(つぼい りょうへい、1897年〈明治30年〉1月30日 - 1984年〈昭和59年〉8月4日)は、大阪府大阪市出身の考古学者。奈良国立文化財研究所所長などを務めた考古学者の坪井清足は息子。 在野の考古学者として梵鐘などを研究した。太平洋戦争時には金属類回収令によって全国の寺院から梵鐘が供出されたが、坪井の論文が参考となって慶長年間以前鋳造の梵鐘は供出を免れた。 1897年(明治30年)1月30日、大阪府大阪市東区淡路町1丁目に生まれた。父親は古美術愛好家であり、幼少期から金石文の拓本採取などを手伝った。 高等小学校を卒業後、1914年(大正3年)3月に大阪大倉商業学校を卒業したが、卒業後に就職した大倉組大阪支店は1915年(大正4年)に解雇された。
中島 武市(なかしま ぶいち、1897年1月30日 - 19… 中島 武市(なかしま ぶいち、1897年1月30日 - 1978年7月16日)は、日本の実業家・政治家。岐阜県本巣郡土貴野村(現在:本巣市)出身。岐阜市立岐阜商業学校(現在の岐阜県立岐阜商業高等学校の前身)卒業。シンガーソングライターの中島みゆきは孫(武市の長男の第一子)。 実父は大垣藩士の家系の士族であったが早世し、母の再婚先の商家・中島家で育てられた。母の兄は初代大蔵次官を務めた男爵・郷純造。純造の次男が日商会頭の郷誠之助。武市と誠之助は従兄弟同士にあたる。「拓聖 依田勉三傳」に中島武市の伝記も収録されている。 幼少期は貧しく小学校卒業後に村役場で用務員を務めていたこともある。1914年に岐阜商業学校を卒業した後、大阪の呉服問屋に丁稚奉公に出る。
山田 盛太郎(やまだ もりたろう、1897年(明治30年)1… 山田 盛太郎(やまだ もりたろう、1897年(明治30年)1月29日 - 1980年(昭和55年)12月27日)は、昭和期日本のマルクス経済学者。東京大学名誉教授。愛知県出身。東京帝国大学卒業。
朴 瓚熙(パク・チャニ、朝鮮語: 박찬희、1897年1月29… 朴 瓚熙(パク・チャニ、朝鮮語: 박찬희、1897年1月29日 - 1972年3月2日または4月2日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、政治家。参議員。 漢字表記は朴讚熙とも。 漢城府出身。本籍地は忠清北道鎮川郡鎮川面。早稲田大学経済学部卒。1919年には出版法と保安法違反により起訴されたが、免訴放免の処分を受けた。時代日報記者、東亜日報地方部長を務めた後、韓国民主党結党に参加し、同党情報部長・運動部長・労働部長・調査部長を歴任した。その後は民主国民党と民主党の結党にも参加し、民主党中央常任委員を務めた。1950年の第2代総選挙と1954年の第3代総選挙ではいずれも落選したが、四月革命以後の第5代総選挙では民主党所属の参議員に当選し、国会交通逓信委員会委員長を務めた。
尾津 喜之助(おづ きのすけ、1897年〈明治30年〉1月2… 尾津 喜之助(おづ きのすけ、1897年〈明治30年〉1月28日 - 1977年〈昭和52年〉6月28日)は、昭和期の露天商、関東尾津組組長。 東京府本所相生町(現在の東京都墨田区)に鍛冶職人の子として生まれる。母は水戸藩の士族の娘であったが、尾津が2歳のときに出奔し消息不明になる。 独力で府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)に合格するが、継母の反対により入学を許されず、激怒した尾津は家を飛び出した。 職を転々とした後、的屋組織飯島一家に属す。右翼団体「皇国決心団」を組織し、摂政宮(後の昭和天皇)の車列警備を妨害したブラジル公使に抗議しブラジル公使館に殴り込みをかけるなどの売名行為を行った後、新宿で関東尾津組を結成。
田山 利三郎(たやま りさぶろう、1897年1月26日 - … 田山 利三郎(たやま りさぶろう、1897年1月26日 - 1952年9月24日)は、日本の地質学者。 宮城県柴田郡村田町生まれ。父は村田町長、宮城県会議員、城南軌道社長等を歴任した田山孫八。1916年、宮城県師範学校を卒業。1921年、東京高等師範学校を卒業。札幌中学校の教員となり、教え子に佐々保雄などがいた。その後は師範学校などでの訓導を勤めた。 1924年、東北帝国大学理学科地質学古生物学教室にすすみ、矢部長克のもとで学び、1927年、同教室を卒業した。卒業後東北大学で働き、1937年に南洋庁技師兼東北大学助教授、1944年依願免兼官、1945年東北大学講師、1949年に同大学教授となった。
山口 進(やまぐち すすむ、1897年1月25日 - 198… 山口 進(やまぐち すすむ、1897年1月25日 - 1983年11月25日)は、日本の版画家。 長野県上伊那郡箕輪町出身。1916年に長野中学を卒業した。1920年から1926年まで白馬会葵橋洋画研究所に学び、黒田清輝や中川紀元に師事した。日本美術学校にも通ったが、1922年に中退した。 1923年に日本創作版画展、日本漫画展に初入選した。1925年に旧制第一高等学校訓務部事務職員となり、一高画会で絵を指導した。 1928年には油絵で第6回春陽会展で初入選し、1937年まで同会に油絵の出品を続けた。 1932年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技と1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に出品した。
富田 彬(とみた あきら、1897年1月25日 - 1971… 富田 彬(とみた あきら、1897年1月25日 - 1971年3月26日)は、日本の英文学者、翻訳家。立教大学名誉教授。 栃木県出身。東京帝国大学英文科卒。1926年に立教大学教授。アメリカ文学研究の先駆者の一人で、立教大学において同研究の基礎をつくり、エマソンやメルヴィル、ジェイン・オースティンなどの作品を翻訳した。 1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)には立教大学野球部長を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
佐々 弘雄(さっさ ひろお、1897年〈明治30年〉1月23… 佐々 弘雄(さっさ ひろお、1897年〈明治30年〉1月23日 - 1948年〈昭和23年〉10月9日)は、日本の政治学者、ジャーナリスト、参議院議員。 1897年(明治30年)1月23日、衆議院議員佐々友房の三男として東京府東京市四谷区四谷箪笥町に生まれる。 東京府立第四中学校・第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学。吉野作造や美濃部達吉の薫陶を受け法学者・政治学者として将来を嘱望される。東京帝大では新人会に参加した。1920年(大正9年)卒業。 卒業後は直ちに東京帝国大学法学部副手・助手を経て、外務省欧米局の嘱託となり英仏独に2年間留学。特にドイツにおいては、ハイパーインフレの惨状やヴァイマル共和国の行き詰まり、そしてナチス勃興を目の当たりにし、反ヒトラー派となって帰国した。
大塚 有章(おおつか ゆうしょう、1897年1月22日 - … 大塚 有章(おおつか ゆうしょう、1897年1月22日 - 1979年9月8日)は、日本の社会運動家。教育家。戦前、日本共産党に入党して日本最初の銀行強盗事件である赤色ギャング事件の実行犯となるも出獄後は満洲国に渡り、満洲映画協会で巡映課長となる。戦後、日中友好運動に尽力し、日中友好協会(正統)の会長などを務める。また毛沢東思想学院を設立する。兄に大塚武松、姉に河上秀(河上肇の妻)、妹に末川八重(末川博の妻)がおり、姪の河上芳子をハウスキーパーとしていた。 元岩国藩士・衆議院議員の大塚慊三郎の子として生まれる。1920年早稲田大学卒業、同年南満洲鉄道に入社するも、1922年病気で退職。療養を経て、藤本ビルブローカー銀行に入社。
佐伯 松三郎(さえき まつさぶろう、1897年1月21日 -… 佐伯 松三郎(さえき まつさぶろう、1897年1月21日 - 没年不詳)は、日本の実業家、日本サーモコン株式会社元代表取締役社長、会長。東京鋼管代表取締役社長。立教学院元理事、立教大学校友会元副会長。戦時中の国の理科系強化施策の中で、文科系の閉鎖や統合が進む中、立教理科専門学校(現・立教大学理学部)の設立に尽力し、立教大学の閉鎖を防ぎ存続・継続させ、立教の名を現在に残した立役者の一人。 岐阜県出身。1921年(大正10年)、立教大学商学部を卒業。学生時代は創部まもない体育会テニス部(1916年創部)に所属した。 実業家として活躍しつつ、立教学院の理事としても学院の運営に深く携わり、戦時中には後述の立教理科専門学校(現・立教大学理学部)の設立に尽力した。
有賀 喜左衛門(あるが きざえもん、 1897年1月20日 … 有賀 喜左衛門(あるが きざえもん、 1897年1月20日 - 1979年12月20日 )は、日本の社会学者。日本の農村社会を独自のイエ・ムラ理論によって考究し、農村社会学の理論的確立を行なった。 1897年、長野県上伊那郡朝日村平出(現在の辰野町)の地主・六世有賀喜左衛門の長男として生まれた。幼名は道夫。1909年(明治42年)、朝日尋常高等小学校を卒業後、長野県諏訪中学校に入学し、寄宿生活を送った。1918年(大正7年)、第二高等学校文科乙類を卒業。同年9月、京都帝国大学法学部に進学。 1919年、京都帝国大学を中退し、同年7月東京帝国大学文学部に入学し、美術史学を専攻。当時の朝鮮に対する民族文化抑圧政策に強く抗議していた柳宗悦の影響を受け、朝鮮美術の研究に取り組み、卒業論文『新羅の仏教美術』としてまとめた。
桜田 常久(さくらだ つねひさ、1897年〈明治30年〉1月… 桜田 常久(さくらだ つねひさ、1897年〈明治30年〉1月20日 - 1980年〈昭和55年〉3月25日)は、日本の小説家。並木 宋之介の筆名も持つ。 大阪市生まれ。旧制郡山中学校から第四高等学校を経て、1923年東京帝国大学文学部独文科卒。在学中から同人雑誌に関わり、小説や戯曲を発表、戯作に関心を抱いた。大学では川端康成と同窓であった。郡山中学時代の漢文の先生であった中島田人は作家中島敦の父。 卒業後は大学で教え、ドイツ戯曲を翻訳した。1932年から半農生活を志し東京市町田町に居住。1936年独文科の仲間である豊田三郎、高木卓、高橋義孝、および福田恆存、野口冨士男らと『作家精神』を創刊。1941年、同誌掲載の「平賀源内」で芥川賞(1940年度下半期)を受賞。
本田 正次(ほんだ まさじ、1897年1月20日 - 198… 本田 正次(ほんだ まさじ、1897年1月20日 - 1984年7月1日)は、日本の植物学者。東京大学名誉教授。昭和天皇の植物研究の相手も務め、伊豆や那須に同行した。熊本県熊本市出身。 1897年(明治30年)1月20日、熊本県熊本市に生まれた。熊本県立熊本中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)5月に東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、同時に東京帝国大学助手に任じられた。 1931年(昭和6年)3月に博士(理学)の学位を授与され、1934年(昭和9年)4月に東京帝国大学助教授に就任した。1940年(昭和15年)7月には史蹟名勝天然紀念物調査会臨時委員となり、1942年(昭和17年)9月には史蹟名勝天然紀念物調査会委員となった。
桜田 常久(さくらだ つねひさ、1897年1月20日 - 1… 桜田 常久(さくらだ つねひさ、1897年1月20日 - 1980年3月25日)は、日本の小説家。並木宋之介の筆名も持つ。
幡谷 正雄(はたや まさお、1897年1月20日 - 193… 幡谷 正雄(はたや まさお、1897年1月20日 - 1933年6月17日)は、日本の英文学者。 島根県浜田市顕正寺生まれ。1920年早稲田大学文学部英文科卒。坪内逍遙、島村抱月の指導を受ける。のち千葉師範学校で5年間教え、辞任後は雑誌「文芸研究」(1928)「イギリス文学」(バイロン社、1929)「日本女性」を編集した。
久田 慶三(ひさだ けいぞう、1897年(明治30年)1月2… 久田 慶三(ひさだ けいぞう、1897年(明治30年)1月20日 - 1983年(昭和58年)7月29日)は、日本の政治家、実業家。愛知県常滑市長(5期)、西浦町長、西浦町議会議員、常滑市名誉市民。 愛知県常滑市出身。1911年(明治44年)、西浦町立第一尋常高等小学校卒業。西浦町議会議員、西浦町長、常滑市参与、常滑市助役などの公職を歴任した。 1959年(昭和34年)常滑市長に初当選。1979年(昭和54年)まで5期20年にわたり市政を担った。 市長在職中、老朽校舎解消のため4中学校、8小学校のすべてを鉄筋構造に改築し、さらに屋内運動場やプールも積極的に建設した。1968年(昭和43年)9月に愛知県陶磁器試験場(現在の「あいち産業科学技術総合センター 産業技術センター 常滑窯業試験場」)を移転新築、1970年(昭和45年)に常滑市陶磁器会館を建設し、業界の振興と発展に大きく寄与した。