山内 登(やまうち のぼる、1957年(昭和32年)9月3日… 山内 登(やまうち のぼる、1957年(昭和32年)9月3日 - )は、日本の政治家、警察官。岐阜県下呂市長(2期)。 岐阜県大垣市出身。岐阜県立大垣北高等学校卒業。1980年(昭和55年)3月、立教大学経済学部経営学科卒業。同年4月、岐阜県警察に採用される。1991年(平成3年)から1996年(平成8年)まで外務省に出向し、ニカラグア大使館やバルセロナ総領事館に勤務した。 2015年(平成27年)から2016年(平成28年)まで下呂警察署長を務めた。2018年(平成30年)、定年退職。 2019年(令和元年)12月9日、任期満了に伴う下呂市長選挙に立候補する意向を表明した。 2020年(令和2年)4月5日に告示された市長選挙は、新型コロナウイルス感染拡大のため講演や集会が開けず異例の選挙戦となった。
高木 智見(たかぎ さとみ、1955年 - )は、日本の中国… 高木 智見(たかぎ さとみ、1955年 - )は、日本の中国哲学、歴史学者。山口大学名誉教授。博士(歴史学)(名古屋大学・2002年)。専門は中国先秦文化史・中国古代思想。 1955年、岐阜県大垣市生まれ。名古屋大学文学部史学科に入学し、東洋史を専攻した。1978年、同大学を卒業。卒業後は同大学大学院文学研究科史学地理学に進んだ。在学中の1979年から1982年まで、文化大革命終結まもない中国へ留学し、天津の南開大学、上海の復旦大学で学んだ。上海では楊寛の知己を得た。1986年、同科を満期退学。 1989年、山口大学人文学部助教授に就いた。2002年、学位論文『先秦の社会と思想 中国文化の核心』を名古屋大学に提出して博士号を取得。
柘植 康英(つげ こうえい、1953年8月6日 - )は会社… 柘植 康英(つげ こうえい、1953年8月6日 - )は会社経営者で、東海旅客鉄道(JR東海)第5代代表取締役社長。岐阜県大垣市出身、岐阜県立岐阜高等学校卒、東京大学経済学部卒。
山田 兼士(やまだ けんじ、1953年7月4日 - 2022… 山田 兼士(やまだ けんじ、1953年7月4日 - 2022年12月6日)は、日本のフランス文学者、評論家、詩人。妻は歌人の山下泉。 1953年、岐阜県大垣市生まれ。岐阜県立大垣北高等学校、関西学院大学文学部仏文科卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。 1986年大阪芸術大学に着任し、2004年より教授。大阪文学学校講師。大阪文学協会理事。日本フランス語フランス文学会、日本近代文学会、京都フランス歌曲協会、中原中也の会、ボードレール研究会の会員。詩誌「別冊・詩の発見」主宰。高階杞一、四元康祐、細見和之らとともに季刊詩誌「びーぐる-詩の海へ」編集同人。 フランス近代詩を専門とするが、中原中也、福永武彦、小野十三郎、谷川俊太郎など日本の近現代詩人も研究対象とした。
早野 龍五(はやの りゅうご、1952年1月3日 - )は、… 早野 龍五(はやの りゅうご、1952年1月3日 - )は、日本の物理学者、原子物理学者。専門はエキゾチック原子研究。東京大学名誉教授。2017年4月より株式会社ほぼ日のサイエンスフェロー。また2016年から公益社団法人才能教育研究会(スズキ・メソードを普及する組織)会長。 岐阜県大垣市生まれ。父は名古屋帝国大学医学部出身の眼科医で岐阜大学名誉教授の早野三郎。母は専業主婦だったが大阪女子高等医学専門学校(現:関西医科大学)の卒業生で医師免許を持っていた。父が信州大学医学部に赴任して松本に在住、松本音楽院(鈴木鎮一が1946年に創設)でヴァイオリンを習う。 長野県松本深志高等学校、東京大学理学部物理学科、東京大学大学院理学系研究科を経て1979年より東京大学理学部付属中間子科学実験施設助手。
小川 敏(おがわ びん、本名の読み:おがわ さとし、1950… 小川 敏(おがわ びん、本名の読み:おがわ さとし、1950年〈昭和25年〉11月15日 - )は、日本の政治家。元大垣市長(5期)。岐阜経済大学理事。 岐阜県大垣市出身。岐阜県立大垣北高等学校卒業。1974年(昭和49年)3月、東京大学法学部卒業。同年4月、伊藤忠商事に就職。 1980年(昭和55年)2月、伊藤忠商事を退職。同年4月、大垣市で家業(小川紙店)を継ぐ。以降、大垣市商工会、大垣市PTA連合会などで会長などを務める。 2001年(平成13年)3月3日、大垣市長の小倉満が在任中に死去。これに伴って行われた大垣市長選挙に立候補し初当選。以後5期務めた。 2021年(令和3年)2月、任期満了に伴う大垣市長選挙に立候補せず5期で退任する意向を示した。
成松 義文(なりまつ よしふみ、1950年6月30日 - )… 成松 義文(なりまつ よしふみ、1950年6月30日 - )は日本の実業家。ファンケル代表取締役社長や、同社相談役、日本健康・栄養食品協会評議員等を務めた。 岐阜県大垣市生まれ。岐阜県立大垣北高等学校を経て、1974年横浜市立大学商学部卒業、蛇の目ミシン工業入社。主に営業を担当し、ファンケルと蛇の目ミシン工業の提携後、ファンケル創業者池森賢二の誘いを受け、1993年ファンケルに入社。サプリメント事業の立ち上げなどにあたり、1999年ファンケル執行役員フード事業部長に就任。 2000年ファンケル取締役店舗販売事業部長に昇格。2002年ファンケル常務取締役第二営業本部長兼第二営業本部化粧品事業部長。
稲葉 伸道(いなば のぶみち、 1950年4月30日 - )… 稲葉 伸道(いなば のぶみち、 1950年4月30日 - )は、日本の歴史学者。名古屋大学名誉教授。専門は日本中世史。寺社組織の研究に関する論考が多い。 岐阜県大垣市生まれ。1973年、早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。1978年、名古屋大学大学院文学研究科史学地理学専攻博士課程満期退学。1979年、日本学術振興会奨励研究員。1980年名古屋大学文学部助手、1982年同講師、1987年同助教授、1997年同教授。2000年、名古屋大学大学院文学研究科教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
安田 隆夫(やすだ たかお、1949年(昭和24年)5月7日… 安田 隆夫(やすだ たかお、1949年(昭和24年)5月7日 - )は、日本の実業家。総合ディスカウントストア「ドン・キホーテ」の創業者。 1949年5月7日、岐阜県大垣市生まれ。 父親は工業高校の技術科の教師で、テレビはNHK以外見ないようにと言われるような堅い家庭であった。その後、保守的な地元や実家から抜け出したい思いで慶應義塾大学に進学する。しかし、裕福な家庭出身の「慶応ボーイ」たちとのそりが合わず、入学後2週間ほどで大学に行かなくなり、沖仲仕(港湾労働)などで収入を得た。 1973年、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。 大学卒業後は経営者になるノウハウを得ようと小規模な不動産会社に入社したが、そこは原野商法を手掛ける悪徳企業で、さらに安田が入社した10か月後に倒産した。
五島 君子(ごしま きみこ、旧姓・小林、1949年4月23日… 五島 君子(ごしま きみこ、旧姓・小林、1949年4月23日 - )は、日本の学校心理士。東海中央病院子育て・相談センタースーパーバイザー。岐阜県大垣市出身。血液型O型。三人姉妹の次女。 1972年、日本福祉大学卒業。養護学校勤務の後、公立小学校の難聴学級と言語学級、通級指導教室(言語)で23年間、親子通級指導を行う。2006年、第38回中日教育賞受賞。 この項目は、教育に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:教育)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
黒谷 研一(くろや けんいち、1946年12月19日 - )… 黒谷 研一(くろや けんいち、1946年12月19日 - )は、日本の海事実業家。川崎汽船代表取締役社長を務めた。 岐阜県大垣市出身。1969年関西学院大学経済学部卒業、川崎汽船入社。1997年定航部担当役員付部長。1998年コンテナ船事業担当役員付部長。1999年理事。2003年からシンガポール子会社の“K”LINE PTE LTDのマネージング ダイレクターを務めた。2010年に本社取締役を経ない異例の人事で川崎汽船の代表取締役社長に抜擢され、赤字のコンテナ船の立て直しにあたったが、2011年に「一身上の都合」を理由に退任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
土屋嶢(つちや たかし、1946年(昭和21年)8月9日 -… 土屋嶢(つちや たかし、1946年(昭和21年)8月9日 - )は、日本の銀行家。大垣共立銀行頭取。大垣商工会議所名誉顧問。2008年(平成20年)藍綬褒章。
清水 義和(しみず よしかず、1946年7月 - )は、日本… 清水 義和(しみず よしかず、1946年7月 - )は、日本の演劇研究・評論家、愛知学院大学名誉教授。 岐阜県大垣市生まれ。1969年東洋大学英文科卒、77年立正大学大学院英文学博士課程満期退学。愛知学院大学教養部助教授、教授、客員教授を経て現在は名誉教授。国際寺山修司学会会長。日本英語音声学会副会長。韓国音声学会終身会員。名古屋演劇ペンクラブ会員。松原英治・若尾正也記念演劇賞審査委員。88年日本英語音声学会賞受賞。98年韓国音声学会奨励賞受賞。
大野 正己(おおの まさみ、1946年(昭和21年)1月2日… 大野 正己(おおの まさみ、1946年(昭和21年)1月2日 - 2013年(平成25年)7月24日)は、ソフトテニス選手。 岐阜県大垣市出身。岐阜県立大垣商業高等学校、愛知学院大学卒業。大鹿印刷所。ポジションは後衛。 1969年、1971年の亜細亜軟式庭球選手権大会男子団体金メダル。1981年の全日本社会人選手権成年個人で優勝した。
平本 一雄(ひらもと かずお、1944年9月29日- )は、… 平本 一雄(ひらもと かずお、1944年9月29日- )は、日本の都市計画家・都市工学者。東京都市大学名誉教授。総務省地域づくり懇談会元委員。日本都市計画学会元評議員。日本観光計画学会元理事。日本建築学会建築物の社会的責任小委員会2006委員。元三菱総合研究所取締役。 岐阜県大垣市出身。1968年大阪工業大学工学部建築学科卒業。1970年京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了。1986年「都市総合計画の策定支援手法に関する研究」で工学博士(京都大学)。三菱総合研究所で都市経営部長、取締役・人間環境研究本部長を歴任。2000年東京大学先端科学技術研究センター都市環境システム分野客員研究員、2003年東京工科大学メディア学部教授などを経て、武蔵工業大学(現:東京都市大学)に着任し、2009年東京都市大学都市生活学部教授・学部長などを歴任。
和泉 節子(いずみ せつこ、本名:山脇 節子、1942年6月… 和泉 節子(いずみ せつこ、本名:山脇 節子、1942年6月11日 - )は、和泉元彌の母。狂言プロデューサー、和泉宗家代表取締役、和泉流宗家宗家会理事長、和泉宗家後援会理事長、和泉流宗家記念館理事長。マスコミに付けられた通称は「セッチー」。 岐阜県大垣市出身。父は鉄工会社を経営する二代目社長。母の実家は造り酒屋を営む大地主であった。大垣市立の小学校・中学校に学ぶ。中学3年の3学期を前に、金城学院中学校の欠員補充に合格し編入し卒業。金城学院高等学校、金城学院大学短期大学部卒業。 元・大垣藩家老家の紹介による見合いで狂言和泉流19世宗家和泉元秀に嫁ぐ。挙式の媒酌人はかつて和泉宗家を召抱えていた尾張徳川家の19代当主で、元・華族(侯爵・貴族院議員)の徳川義親である。
安田 善次(やすだ ぜんじ、1942年4月19日 - )は、… 安田 善次(やすだ ぜんじ、1942年4月19日 - )は、日本の実業家。元関東自動車工業相談役。学校法人名城大学理事。藍綬褒章受章。 岐阜県大垣市出身。1965年、名古屋大学経済学部卒業。同年、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)入社。同社米州事業部部長、専務取締役等を経て、2004年関東自動車代表取締役社長、2008年代表取締役会長、2010年相談役。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中西 重忠(なかにし しげただ、1942年1月7日 - )は… 中西 重忠(なかにし しげただ、1942年1月7日 - )は、日本の生化学者、分子神経科学者。京都大学名誉教授、大阪バイオサイエンス研究所所長。Gタンパク質共役受容体に関する世界的権威として知られる。岐阜県大垣市出身。2015年文化勲章受章。 沼正作と共に、多ホルモン前駆体の構造、遺伝子、進化に関する研究を発表して有名となり、「記憶のもと」と考えられるタンパク質のNMDA型グルタミン酸受容体の構造を世界で初めて解明した。 京都大学医学部の同期である本庶佑とは、学生時代からの親友であり、互いに切磋琢磨するライバル関係にある。2015年に中西が文化勲章を受章した際のインタビューでは、本庶について「学生時代、自分はあまり勉強しなかったが、中西君は非常に熱心に実験をしていた」という本庶側の回想に対し、中西は「お互いに『勉強は好きじゃない』と言い合いながら、自由な校風の中で自由にやらせてもらった」と語っている。
川島 豪(かわしま つよし[要出典]、1941年5月1日 -… 川島 豪(かわしま つよし[要出典]、1941年5月1日 - 1990年12月9日)は、新左翼活動家。日本共産党(革命左派)神奈川県委員会議長。岐阜県大垣市出身。 癌で死去。1990年12月9日 1960年、岐阜県立大垣北高等学校卒業、岐阜大学入学。60年安保闘争に参加。1962年、東京水産大学に再入学。1964年に大学自治会会長に就任。党派としては社学同マル戦派に属していたが、大学卒業後、社学同ML派議長だった河北三男と「警鐘」グループを結成する。 「警鐘」はやがて毛沢東思想を掲げるようになり、1968年には日本共産党(左派)神奈川県委員会に合流するが、武装闘争に否定的な左派党員とは意見が合わず、河北・川島らは1969年3月に分裂し日本共産党(革命左派)神奈川県委員会を結成する。
高木 一巳(たかぎ かずみ、1941年1月9日 - )は、岐… 高木 一巳(たかぎ かずみ、1941年1月9日 - )は、岐阜県大垣市出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)。 大垣商業高等学校では、捕手として1959年夏の甲子園県予選を勝ち抜き三岐大会決勝に進出するが、鈴木正のいた松阪商に敗退し、甲子園出場はならなかった[要ページ番号]。 大型捕手として注目され、1960年に中日ドラゴンズに入団。しかし二軍暮らしが長く、1963年に野手転向。1964年は20試合に起用され、一塁手として先発出場も果たすが、その後はあまり出場機会に恵まれなかった。1966年から捕手に戻り、地味ながら控えをこなす。1972年限りで引退した。
安藤 宏三(あんどう こうぞう、1940年6月20日 - 2… 安藤 宏三(あんどう こうぞう、1940年6月20日 - 2003年10月8日)は、日本の剣道家。段位は教士八段。早稲田大学卒業。岐阜県大垣市生まれ。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
立川 敬二(たちかわ けいじ、1939年5月27日 - )は… 立川 敬二(たちかわ けいじ、1939年5月27日 - )は、日本の実業家。学位は、工学博士(東京大学・論文博士・1982年)。独立行政法人宇宙航空研究開発機構理事長(第2代)・NTTアメリカ最高経営責任者・エヌ・ティ・ティ移動通信網株式会社代表取締役社長・株式会社エヌ・ティ・ティ・ドコモ代表取締役社長などを歴任。2017年4月旭日重光章受章。 岐阜県大垣市に生まれる。岐阜県立大垣北高校卒業。1962年3月、東京大学工学部電気工学科を卒業後、日本電信電話公社に入社。 1977年にマサチューセッツ工科大学に留学し、翌年経営学部の修士コースを修了する。1982年には、工学博士(東京大学)の学位を受ける。
田口 義嘉壽(たぐち よしかず、1938年3月1日 - 20… 田口 義嘉壽(たぐち よしかず、1938年3月1日 - 2016年9月22日)は、日本の経営者。西濃運輸社長、会長を務めた。創業者田口利八の次男、田口利夫の弟 岐阜県大垣市出身。1960年に慶應義塾大学法学部を卒業。在学中でも、夏休みなどで必ず実家に帰省し、会社で働いていた。中部生産性本部での勤務を経て、同年10月に西濃運輸入社。 1968年に取締役に就任し、1973年に常務、1976年度日本青年会議所会頭、1981年7月に専務を経て、1987年7月には社長に就任。社長時代は、国内拠点の充実に取り組み、輸送網を国内外で拡大させて、同社を日本有数の物流企業に育て上げた。2003年6月に会長に就任し、2005年10月からは代表取締役を務めた。
松岡 憲治(まつおか けんじ、1936年1月30日- 201… 松岡 憲治(まつおか けんじ、1936年1月30日- 2019年12月8日)は、日本のタレント、俳優。岐阜県大垣市出身。岐阜県立大垣南高等学校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。 早稲田大学卒業後、ラジオ東京(現在のTBS)に入社。以後、1996年の定年退職までスポーツ局員のち制作局員として番組制作に従事。在職時に「モーニングEye」で人生相談コーナーを担当。定年退職後に田辺エージェンシーに所属、タレント、俳優活動を開始した。 2019年12月8日に83歳で死去した。本人の意思により、葬儀は執り行われず、墓も持たないこととなった。供花、香料の義は固く辞退している。本人の辞世の言葉によれば、「思えば愉快な一生でありました。
服部 勉(はっとり つとむ、1932年7月8日 - )は、日… 服部 勉(はっとり つとむ、1932年7月8日 - )は、日本の微生物学者、農学者、東北大学名誉教授。妻は渋沢敬三の次女・服部黎子。渋沢家当主の渋沢雅英は義兄。 岐阜県大垣市生まれ。名古屋大学理学部卒業、1960年東北大学大学院学農学研究科農芸化学専攻博士課程修了、「界面に吸着せる細菌の研究」で農学博士。土壌微生物の研究を始める。東北大学農学研究所助教授、遺伝生態研究センター教授を務め、1996年定年退官、名誉教授、東京農業大学教授を務めた。水田、畑、草地、山林など、身近な環境にすむ土壌微生物の生態が研究テーマ。日本微生物生態学会会長を務めた。
稲葉 宏雄(いなば ひろお、1931年8月16日 - )は、… 稲葉 宏雄(いなば ひろお、1931年8月16日 - )は、教育学者、京都大学名誉教授。 岐阜県大垣市生まれ。1954年京都大学教育学部卒業。59年同大学院教育学研究科博士課程単位取得退学、京都女子大学文学部専任講師、65年助教授。1972年京都大学教育学部助教授、79年教授。88年教育学部長、95年定年退官、名誉教授、近畿大学生物理工学部教授。2000年龍谷大学文学部教授。2003年退職。
国嶋 一則(くにじま かずのり、1930年2月13日 - 2… 国嶋 一則(くにじま かずのり、1930年2月13日 - 2020年5月1日)は、日本の倫理学者。駒澤大学名誉教授。「伊吹 浄」の筆名をもつ。 1930年、岐阜県大垣市生まれ。愛知県立旭丘高等学校を卒業し、金沢大学法文学部に入学した。しかし、1952年に東京大学文学部倫理学科に転じ、1956年に卒業。同大学大学院に進み、金子武蔵に師事した。1959年、大学院比較文学比較文化課程に転じた。1965年、同博士課程を中退。 その後は、東京農業大学助教授に就いた。1969年より駒澤大学助教授。1970年に教授昇進。2000年に駒澤大学を定年退任し、名誉教授となった。
竹中 恵美子(たけなか えみこ、1929年11月19日 - … 竹中 恵美子(たけなか えみこ、1929年11月19日 - 2025年7月1日)は、日本の経済学者、大阪市立大学名誉教授。専門は労働経済学。戦後の女性労働研究のパイオニアとして知られる。 岐阜県大垣市出身。大阪商科大学(現・大阪市立大)卒。甲南大学助教授、1972年「現代労働市場の理論」で大阪市大経済学博士。1974大阪市立大教授。1993年定年退官、花園大学教授、龍谷大学教授。2001年 - 2007年ドーンセンター館長。2024年、瑞宝中綬章受章。 戦後日本の女子労働について研究。女性運動、自治体の政策立案にも参加。夫は姜在彦、長男は社会学者・早稲田大学教授の竹中均。 2025年7月1日、多臓器不全のため東京都内の病院で死去。
伊藤 勝彦(いとう かつひこ、1929年〈昭和4年〉7月13… 伊藤 勝彦(いとう かつひこ、1929年〈昭和4年〉7月13日 - 2015年〈平成27年〉1月14日)は、日本の哲学者、評論家。埼玉大学名誉教授。文学博士。 岐阜県大垣市生まれ。1953年(昭和28年)に東京大学文学部哲学科を卒業。1960年(昭和35年)、同大学院博士課程中退、東大文学部助手。1963年(昭和38年)、北海道大学文学部助教授。1972年(昭和47年)、埼玉大学教養学部教授。1988年(昭和63年)、埼玉大学名誉教授。東京女子大学文理学部教授、1998年(平成10年)退任。 1972年(昭和47年)「デカルトの人間像」で東大文学博士。デカルト、パスカル哲学専攻ながら文学への関心が強く、三島由紀夫に心酔し、文芸評論も書く。
子安 勝(こやす まさる、1927年(昭和2年)5月18日 … 子安 勝(こやす まさる、1927年(昭和2年)5月18日 - 2008年(平成20年)4月8日)は、日本の学者。専門は騒音。 1927年5月18日、岐阜県大垣市生まれ。1947年、静岡高等学校理科卒業。1950年3月、東京大学第二工学部物理工学科卒業。同年4月、小林理学研究所入所。1952年4月、東京大学理工学研究所助手。1956年7月、再び小林理学研究所に入所。1965年8月、同所主任研究員。1971年10月、同所所長。1983年10月、音響工学研究所代表取締役。1992年4月から1998年3月まで、千葉工業大学教授。 1984年から1986年まで日本騒音制御工学会会長を、1987年から1989年まで日本音響学会会長を、それぞれ務めた。
南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月2… 南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月23日 ‐ 1976年11月5日)は、日本の漫画家。昭和20年代の関西漫画界の第一人者で、代表作に焼け跡派の4コマ漫画「ヤネウラ3ちゃん」がある。生前は大阪読売新聞夕刊の「マンガアンデパンダン」選者、日本漫画家協会関西支部所属。 1918年11月23日、岐阜県大垣市生まれ。すぐ大阪府高槻市に移住。 1937年、都島工業学校建築科卒業後、大阪の建築事務所で働きはじめる。一時的に大映京都撮影所で助監督を務めるが、建築事務所に復帰。 1945年、勤めていた建築事務所が解散。漫画を描きはじめ、大阪新聞社の雑誌『漫画日本』や『読物と漫画』(『大阪パック』改題)で作品を発表。
守屋 多々志(もりや ただし、1912年(大正元年)8月10… 守屋 多々志(もりや ただし、1912年(大正元年)8月10日 - 2003年(平成15年)12月22日)は、岐阜県大垣市出身の日本画家。本名は守屋 正(もりや ただし)。元愛知県立芸術大学教授。文化功労者。文化勲章受章。 1912年(大正元年)、岐阜県大垣市船町の味噌たまり製造元「四代目孫八」の四男(11人兄弟の8番目)として生まれる。生後100日目、分家守屋貞吉(大垣市桐ヶ崎町の米穀商)へ養子に出される。1930年(昭和5年)、岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業。上京し、同郷の前田青邨に師事。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科に入学。在学中に特待生となる。
花村 奨(はなむら すすむ、1911年8月12日 - 199… 花村 奨(はなむら すすむ、1911年8月12日 - 1992年10月31日)は、日本の詩人、作家。別名・土岐愛作。 岐阜県大垣市生まれ。東洋大学東洋文学科卒。岐阜県土岐市で小学校教師を務め、詩集を刊行する。1939年「首途」でサンデー毎日大衆文芸選外佳作、直木賞候補。「美しき首途」として映画化される。ほか『雑草夫人』も1940年映画化。宝文館に入社し、『令女界』『若草』を編集。長谷川伸、土師清二に師事し、新鷹会会員。戦後は花村の名で子供読物、歴史小説を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
柳田 知常(やなぎだ ともつね、1908年5月26日 - 1… 柳田 知常(やなぎだ ともつね、1908年5月26日 - 1995年1月25日)は、日本の国文学者、俳人。 岐阜県大垣市出身。別名読み・ちじょう。1930年東京帝国大学文学部国文学科卒。各地の中学教諭を経て、1947年金城女子専門学校教授、72年から金城学院大学学長、79年定年退任、名誉教授となる。1925年キリスト教入信。倉田百三主宰の「生活者」に参加。また俳誌「橋」を主宰する。
村井 正誠(むらい まさなり、明治38年(1905年)3月2… 村井 正誠(むらい まさなり、明治38年(1905年)3月29日 - 平成11年(1999年)2月5日)は、明治 - 平成時代の洋画家。岐阜県大垣市出身。新宮市名誉市民。武蔵野美術大学名誉教授。閉校した文化学院および文化学院芸術専門学校(埼玉県庄和町)講師。元日本美術家連盟理事長。 抽象絵画の草分けの一人として活躍した。作品にシリーズ「URBAIN」などがある。 岐阜県に生まれ、村井昌澄と、とみゑの次男。眼科医のであった父の転勤によって、幼少期を和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)で過ごす。新宮第一尋常小学校3年生の頃にスケッチをしている西村伊作(後に入学する文化学院の創設者)に出逢う。西村の作品を後ろから覗き見た経験が美術に対して興味を持つきっかけの一つになる。
内藤 吐天(ないとう とてん、1900年2月5日 - 197… 内藤 吐天(ないとう とてん、1900年2月5日 - 1976年5月12日)は、岐阜県出身の俳人、薬学者。本名は多喜夫。別名に龍膽寺旻、別号に萱雨亭(けんうてい)がある。 岐阜県大垣市生まれ。東京帝国大学薬学科卒。のち名古屋市立大学薬学部長、名城大学薬学部教授などを歴任。岡山六高時代より志田素琴、大須賀乙字に俳句を学び、「獺祭」「草上」「東炎」などに関わる。1946年に「早蕨」を創刊・主宰。「野薊にぴしりぴしりと夕立来ぬ」「あたたかな案山子を抱いて捨てにゆく」など、格調の高い句風で知られたが、晩年はより自由な作風になった。句集に『落葉松』『雨滴声』『早蕨』『鳴海抄』『点心』『臘八』など。また詩を日夏耿之介に師事し、海外の小説や詩集の翻訳もある。
吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年(明治32年)7月… 吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年(明治32年)7月11日 - 1974年(昭和49年)7月14日)は、日本の医学者・精神科医。犯罪学や精神鑑定など幅広く活用されている犯罪生活曲線の開発者である。 岐阜県大垣市出身。大垣中学校、第六高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学医学部卒業。呉秀三門下となり、同大学精神病学教室助手、東京府立松沢病院に勤務。1925年(大正14年)東京帝国大学文学部大学院へ入学し、1931年(昭和6年)同大学大学院心理学専攻卒業。在学中、市ヶ谷刑務所精神考査嘱託を始めとし、豊多摩刑務所、小菅刑務所にて犯罪学研究に従事する。1936年(昭和11年)東京帝国大学脳研究室創設に際し、講師として着任。
高橋 信司(たかはし のぶし、1899年6月6日 - 197… 高橋 信司(たかはし のぶし、1899年6月6日 - 1971年11月15日)は、日本の社会科学者。同志社大学法学部卒業、高知短期大学名誉教授。専門は政治史・政治思想史・比較憲法。 岐阜県大垣市出身。同志社大学法学部で、高木庄太郎に政治史を学ぶ。1924年(大正13年)、法学部を卒業。同志社大学法学部で政治史の講師を務める。 1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)にかけ、同志社で法学部教授会と理事会(津下紋太郎、西村金三郎ら)との対立が生じた際に、高橋貞三講師とともに学生新聞で理事会を激しい言葉で批判した。理事会から「自発的辞表」提出を要求され、能勢克雄教授とともに解任させられた。これに対して法学部教授会は連名で理事会を批判した。
安田 桑次(やすだ くわじ、1897年(明治30年)5月21… 安田 桑次(やすだ くわじ、1897年(明治30年)5月21日 - 1968年(昭和43年)5月31日)は、大正から昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岐阜県安八郡和合村長。 岐阜県安八郡和合村大字津(現大垣市)で生まれる。1917年(大正6年)小野補修農業学校研究科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し、農業を営む。 和合村書記に就任。和合村会議員、同村長、岐阜県会議員、同参事会員、同副議長などを務めた。その他、大政翼賛会岐阜県支部常務委員、同安八郡協力会議長、同翼賛壮年団長、岐阜県翼賛壮年団協力委員などを務めた。 実業界では、岐阜県蛍石鉱業会長、同県鉱業会理事、岐阜県種苗社長、東海農事社長、安田商店社長、共栄百貨店社長などを務めた。
棚橋 真作(たなはし しんさく、1894年3月7日 - 19… 棚橋 真作(たなはし しんさく、1894年3月7日 - 1946年2月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。終戦時に自決。 1894年(明治27年)3月7日、現在の岐阜県大垣市に生まれる。旧制中学を卒業後、陸軍士官学校28期で入学した。卒業後には歩兵第35連隊に配属され、シベリア出兵を経験する。後に歩兵第36連隊付き配属将校として旧制三国中学校へ赴任する。歩兵第7連隊第三大隊長も歴任する。第7連隊時代には、上海付近及び南京付近の戦闘に参加し、武功抜群により上海派遣軍司令官である松井石根大将より個人感状を授与され、金鵄勲章を叙勲される。 1940年(昭和15年)8月には陸軍大佐に任ぜられ、1941年(昭和16年)3月には歩兵第112連隊(丸亀連隊)連隊長を拝命する。
奥村 千蔵(おくむら せんぞう、1884年〈明治17年〉11… 奥村 千蔵(おくむら せんぞう、1884年〈明治17年〉11月18日 - 1934年〈昭和9年〉5月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県、現在の大垣市出身。中国語を学ぶ。日露戦争に従軍し、満州、蒙古、朝鮮に10年間滞在する。帰国後、西濃飲料水(株)社長となり、大垣市議、大垣商業会議所特別議員、営業税調査委員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において岐阜2区(小選挙区)から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では岐阜2区(中選挙区)から立憲民政党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。所属会派はその後第一控室会となり、1930年の第17回衆議院議員総選挙では無所属で出馬したが落選した。
水野 利八(みずの りはち 1884年(明治17年)5月15… 水野 利八(みずの りはち 1884年(明治17年)5月15日 - 1970年(昭和45年)3月9日)は、日本の実業家。ミズノ創業者。紺綬褒章、勲四等瑞宝章受章。二男は水野健次郎。水野正人、水野明人は孫。 岐阜県大垣市に生まれる。興文小高等科中退。9歳の時に棟梁をしていた父が死去したため、大阪・京都へ丁稚奉公へ出た。 1903年(明治36年)に京都・三高野球クラブの試合を見て、野球の魅力に惹かれ運動用品の商売を志す。1906年(明治39年)に弟の水野利三と大阪市北区で水野兄弟商会を創業。当初は運動服を扱っていたが、1913年(大正2年)からは野球用のグラブ、ボールの製造を始めた。 1916年(大正5年)に全国統一の標準球を完成。
後藤 瑞巌(ごとう ずいがん、1879年10月18日 - 1… 後藤 瑞巌(ごとう ずいがん、1879年10月18日 - 1965年3月20日)は、明治から昭和にかけての臨済宗の僧。岐阜県大垣市生まれ。道号は瑞巌、法名は宗頑。室号は蔭涼軒。俗姓は後藤。臨済宗円覚寺派の釈宗活の法嗣。臨済宗大学学長、妙心寺派管長、大徳寺派管長を歴任。その後は龍安寺山内の大珠院に隠棲。 1879年(明治12年)10月18日、岐阜県安八郡南一色村四番戸(現大垣市南一条町803番地2)、父・後藤吉左衛門、母・なおの五男として生まれる。1895年(明治28年)7月28日、岐阜県安八郡大垣町字南寺内145番戸、内藤宗越方(大悲院14世)に移籍し従弟となる。 1900年(明治33年)3月には、東京中学校を卒業し、その後第二高等学校に進学して1903年(明治36年)に東京帝国大学に入学。
安藤 又三郎(あんどう またさぶろう、1877年(明治10年… 安藤 又三郎(あんどう またさぶろう、1877年(明治10年)6月1日 – 1955年(昭和30年)2月4日[要出典])は、日本の鉄道官僚。岐阜県大垣市長。 大垣市出身。教育者、漢学者であった安東老山の次男。高等文官試験(行政科)に合格、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。学生時代、佐竹三吾らとともに濃飛学寮(現・岐阜県学寮)の前身とも言うべき西濃出身学生の寄宿舎「到道館」を設けた。鉄道作業局書記、統監府鉄道管理局参事、朝鮮総督府鉄道局参事を歴任。 1916年に濃飛学寮が創立されるとその運営に携わり、1928年から1937年まで理事、1937年からは第2代理事長を務めた(初代は満鉄総裁などを歴任した野村龍太郎)。
安野 譲(やすの じょう、1872年 - 没年不明)は岐阜県… 安野 譲(やすの じょう、1872年 - 没年不明)は岐阜県大垣出身の実業家、貿易商。大阪を本拠地とする岩井財閥の大番頭として岩井商店(後の双日)専務取締役をはじめ、関西ペイントの初代社長など傘下企業の役員を歴任した。 1872年(明治5年)10月18日、士族・安野芳三郎の長男として大垣に生まれる。幼くして両親を亡くし、1885年(明治18年)岩井文助を主人とする大阪の加賀屋に入店。当時は石油と西洋雑貨が主な取り扱い品で、店員は総数20名もいなかったが既に大阪では名の通った店であった。1889年(明治22年)には文助の長女・栄子と結婚した甥・蔭山勝次郎が岩井家の婿養子となる。岩井勝次郎は1896年(明治29年)7月に義父・文助より二十万円の貸与を受けて独立すると、大坂東区南久太郎町に店を開いた。
大場 竹次郎(おおば たけじろう、1865年10月4日(慶応… 大場 竹次郎(おおば たけじろう、1865年10月4日(慶応元年8月15日)- 1932年(昭和7年)12月15日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員。 美濃国安八郡、のちの岐阜県安八郡南平野村(現大垣市、神戸町)で生まれる。滋賀県師範学校を卒業し、小学校訓導を務めた。一年志願兵として陸軍に入隊し、歩兵少尉に任官し日清戦争に従軍して歩兵中尉に進んだ。日露戦争に参戦し歩兵大尉に進み、中隊長として旅順攻囲戦に従軍した。 政界では安八郡会議員、岐阜県農会議員、岐阜県会議員、同参事会員、大垣輪中水害予防組合議員などを務め、地主と小作人間の調整、農村改良などに尽力した。1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙に岐阜県郡部から立憲同志会所属で出馬して当選し、その後憲政会に所属し衆議院議員に1期在任した。
大橋 翠石(おおはし すいせき、慶応元年4月22日〈1865… 大橋 翠石(おおはし すいせき、慶応元年4月22日〈1865年5月16日〉- 1945年〈昭和20年〉8月31日)は、明治中期から昭和前期にかけて日本で活動した日本画家。虎の絵を多く描き、パリ万国博覧会 (1900年)において日本人で唯一の金牌を受けるなど欧米でも高く評価された。 出身地は美濃国安八郡大垣町内(現・岐阜県大垣市新町2丁目)。本名は 大橋 卯三郎( - うさぶろう)。通称として宇一郎(ういちろう)を用いた。著名な親族として、大橋万峰こと実兄の大橋鎌三郎(日本画家)と娘婿で弟子の大橋翠邦(大橋翠峰)がいる。 世に「虎の翠石」として名高い。特に長い冬毛が美しいアムールトラを多く画題に選び、その描くところの虎は毛の描写の細かさ、威風堂々とした体躯、生きているように鋭い眼光や動きを表現していると評価されている。
金森 吉次郎(かなもり きちじろう、1864年12月27日(… 金森 吉次郎(かなもり きちじろう、1864年12月27日(元治元年11月29日) - 1930年(昭和5年)10月13日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 美濃国安八郡大垣町(現・岐阜県大垣市)生まれ。大垣町会議員、安八郡会議員、岐阜県会議員、水害予防組合議員、所得税調査委員、岐阜県山林会副会頭、地方森林会議員、大日本山林会評議員となる。 1900年、片野篤二の死去による岐阜6区の補欠選挙に立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1930年に死去した。
高橋 義信(たかはし よしのぶ、1864年6月4日(元治元年… 高橋 義信(たかはし よしのぶ、1864年6月4日(元治元年5月1日) - 1929年(昭和4年)12月23日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員。 高橋敬吾の弟として、美濃国安八郡、のちの岐阜県安八郡川並村(現大垣市)に生まれる。1902年(明治35年)10月、分家する。漢学を修めた。また、日清戦争に従軍した。 上京し、下谷区会議員、同議長、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員を務めた。ほか、揖斐川電力監査役となった。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から選出された大熊三之助の刑確定に伴い実施された補欠選挙に出馬して当選。つづく第11回総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選した。
松野 祐次郎(まつの ゆうじろう、万延元年12月5日(186… 松野 祐次郎(まつの ゆうじろう、万延元年12月5日(1861年1月15日) - 大正3年(1914年)11月22日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 美濃国不破郡青野村(現在の岐阜県大垣市)に栗田武兵衛の長男として生まれ、松野清之助の養子となった。1878年(明治11年)、岐阜県立師範学校を卒業。明治法律学校(現在の明治大学)に学び、弁護士試験に合格。弁護士の業務に従事する傍ら、岐阜県会議員、同副議長、同議長に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙で当選を果たした。