泉 詩郎(いずみ しろう、1902年 - 1978年5月2日… 泉 詩郎(いずみ しろう、1902年 - 1978年5月2日)は、昭和初期から戦後にかけて活躍した活動弁士。岡山県岡山市出身。本名は姫路与四郎(ひめじ よしろう)。坊主頭に眼鏡をかけた姿であった。 8人兄弟の末っ子で、両親は荒物商を営んでいた。岡山商業高校(現在の岡山東商業高等学校)卒業後、来阪して活動弁士の泉浩一路に師事し、1924年に道頓堀朝日座で初舞台。無声映画時代の名弁士として活躍し、「東に夢声あり、西に詩郎あり」と称された。トーキー化以降は自身の名を冠した団員数30人近あまりの大所帯の泉詩郎歌謡楽団を結成。戦後はボーイズ物泉詩郎歌謡ショウと称して寄席や劇場に進出すると共に、映画・歌謡曲の解説をした。
赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉… 赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉7月9日 - 1962年〈昭和37年〉10月24日)は、岡山県岡山市出身の実業家。元赤沢農機具製作所代表取締役社長。元岡山県観光連盟会長。 1901年(明治34年)7月、岡山市に生まれる。関西中学(現・関西高校)へ進学するも中退する。 大正末期から昭和初期にかけて農機具製造工場を経営する。1943年(昭和18年)、三菱重工業水島航空機製作所の協力工場として治見工具製作所を設立する。1945年、設備を統合し、赤沢農機具製作所として発足し、社長を務めた。 その後、昭和倉庫、岡山糧肥、日本興油工業、岡山会館、光南台観光開発、岡山空港ビル社長、ニッコー産業会長を務め、当時、岡山県経済界の重鎮と呼ばれた。
中山 幸市(なかやま こういち、1900年12月5日 - 1… 中山 幸市(なかやま こういち、1900年12月5日 - 1968年10月27日)は、日本の実業家・教育者。太平住宅株式会社創業社長で、太平音響株式会社(のちのミノルフォン、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ)ほか10数社の「太平グループ」代表として知られる。岡山県岡山市出身。 1900年(明治33年)12月5日、岡山県吉備郡庭瀬町(現:岡山市)に生まれる。 1921年(大正10年)、大阪の関西大学専門部商科に入学、1924年(大正13年)、同校を卒業する。卒業後、兵庫県神戸市の神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)の実務指導教師となり、夜間の商業練習学校の教諭に転じた。 1930年(昭和5年)、神戸市に関西電話建物を創業、日本電話建物(後の日本電建、現・大東建設)と改称、1933年(昭和8年)、同社を東京に進出させた。
梶谷 忠二(かじたに ちゅうじ 1900年10月9日 - 2… 梶谷 忠二(かじたに ちゅうじ 1900年10月9日 - 2006年8月30日)は、岡山県岡山市生まれの実業家。岡山木村屋創業者、岡山商工会議所最高顧問。梶谷博則は息子。 その他、岡山県経営者協会会長(1960年~1968年、1981年~1988年)。岡山商工会議所会頭(1960年~1968年)。さらに、岡山県商工会議所連合会会長、岡山県観光連盟会長、日本赤十字社岡山県副支部長などを歴任。 木村屋総本店からの暖簾分けの際に、「一生、パン以外の事業はしない」と当時の会長に約束して、自身が死ぬまで約束を守り通した。 福祉に関心があり、社会福祉法人旭川荘の理事を40年務めた。また、1990年に1億円を投じて梶谷福祉基金を設立している。
岡田 包義(おかだ かねよし、1900年 <明治33年> 4… 岡田 包義(おかだ かねよし、1900年 <明治33年> 4月19日 - 2000年 <平成12年> 7月6日)は、日本の内務官僚。徳島県知事、北海道庁長官。位階は正四位。 岡山県岡山市出身。岡田吟平の五男として生まれる。第六高等学校を経て、1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、内務省に入り東京府属となる。以後、社会局勤務、茨城県事務官、静岡県経済部長、和歌山県総務部長、長崎県総務部長、福岡県書記官・総務部長、同内政部長などを歴任。 1945年6月、徳島県知事に就任。1947年2月、官選最後の北海道庁長官に就任し、同年4月に退任。1950年6月、北海道開発庁が発足すると、初代次長(事務次官)に就任し、1953年1月に退官した。
久安 博忠(ひさやす ひろただ、1900年〈明治33年〉2月… 久安 博忠(ひさやす ひろただ、1900年〈明治33年〉2月25日 - 1981年〈昭和56年〉9月4日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選秋田県知事。岡山県岡山市出身。 岡山県吉備郡大井村(現:岡山市)出身。久安平治郎の二男として生まれる。その後、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、第六高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し社会局属となる。 以後、地方警視として島根県警察部・神奈川県警察部・長崎県警察部・兵庫県警察部各勤務、警視庁警視として総監官房・特別高等部各勤務、宮城県書記官・学務部長、栃木県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、宮城県内政部長などを歴任。
浦上 衛門(うらがみ もりと、1899年(明治32年)6月1… 浦上 衛門(うらがみ もりと、1899年(明治32年)6月16日 - 詳細不明)は、日本の土木技師であり、実業家である。大阪市技師となり土木局長となった後、大阪地下街社長となる。土木学会名誉会員。岡山県岡山市出身。 1899年(明治32年)岡山県御津郡一宮村(現:岡山市)に生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て、1918年(大正7年)に旧制第六高等学校医科(3部)へ進学する。その後、1922年(大正11年)3月同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。1925年(大正14年)3月、工学部土木工学科を卒業する。 京大を卒業後、すぐに大阪市役所に入り、土木技師として働く。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)計画部長となり、翌年、土木部長となる。
武野 藤介(たけの とうすけ、1899年4月3日 - 196… 武野 藤介(たけの とうすけ、1899年4月3日 - 1966年7月25日)は、日本の小説家。本名は武野真寿太。 岡山市生まれ。岡山中学校在学中、回覧雑誌などを作り文学に没頭。二度落第し、中学卒業に7年かかる。1919年上京、編入試験を受けて早稲田大学予科入学、ロシア文学科に進んだが、1923年中退。新聞記者、雑誌記者となり、文壇ゴシップやコントが評判となる。 戦時下は時局的な小説を書いたが、戦後1950年頃から『あまとりあ』などカストリ雑誌の常連となり、以後艶笑小説を専らとする。小説に「嘘」「ぬれつばめ」、ゴシップをもとにした「文壇余白」「武野藤介風流文学自選集」などがある。
内田 吐夢(うちだ とむ、1898年4月26日 - 1970… 内田 吐夢(うちだ とむ、1898年4月26日 - 1970年8月7日)は、日本の映画監督。本名:内田 常次郎。 内田作品は近年では海外でも2005年のロッテルダム映画祭で特集上映されるなど、再評価が始まっている。 妻芳子は新聞記者碧川企救男の三女、映画カメラマン碧川道夫の妹。映画監督の内田一作は長男、元東映生田スタジオ所長の内田有作は次男。浮世絵研究家の内田千鶴子は次男有作の妻である。翻訳家の松田銑は甥。
横山 太喜夫(よこやま たきお、1897年〈明治30年〉9月… 横山 太喜夫(よこやま たきお、1897年〈明治30年〉9月1日 - 1969年〈昭和44年〉11月11日)は、日本の経営者。群馬銀行頭取を務めた。位階は正五位。 岡山県岡山市出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業。日本銀行での勤務を経て、1944年11月に群馬大同銀行に転じ、1948年から1968年まで頭取を務めた。 1958年に黄綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1969年11月11日心臓麻痺のために死去。72歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
相賀 武夫(おうが たけお/おおが たけお、1897年4月2… 相賀 武夫(おうが たけお/おおが たけお、1897年4月2日 - 1938年8月12日)は、日本の出版事業家、小学館及び集英社の創業者。1932年(昭和7年)7月に相賀祥宏と改名している。長男は小学館第2代社長の相賀徹夫。孫は小学館第3代社長の相賀昌宏(徹夫の長男)。 岡山県都窪郡加茂村(現在の岡山市北区加茂)出身。1897年(明治30年)4月2日、庄屋を営む相賀虎右衛門の長男として生まれる。祖父の春治は村会議員を務め、私財を投げうって村の発展に尽くしていた。 父・虎右衛門の時代には生家が没落して貧しかったため、1910年(明治43年)3月に加茂尋常小学校(現・岡山市立加茂小学校)卒業後は書記見習として県立高松農学校(現・岡山県立高松農業高等学校)に書記見習として就職(後に書記代理へ昇進)。
小崎 一男(おざき かずお、1896年1月1日 - ?)は、… 小崎 一男(おざき かずお、1896年1月1日 - ?)は、日本の発明家。 岡山県上道郡西大寺町(現・岡山市東区)出身。1914年(大正3年)に岡山県立工業学校機械科を優等で卒業した。その後、三菱造船株式会社神戸造船所に入り、1920年(大正9年)に技師となった。 1933年に全国発明表彰進歩賞を受賞している。
笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 19… 笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 1989年5月21日)は、日本の文学研究者、スペイン語学・文学者、翻訳家。東京外国語大学名誉教授。日本の怪異譚にも関心をもち、僖真 学人を名乗った。 岡山県岡山市出身。1919年東京外国語学校西語学科卒業。同年4月同校助教授。1929年同校教授。1949年東京外国語大学教授、同年7月から1951年まで同大学附属図書館長を兼任。1959年定年退官、名誉教授、南山大学教授、1972年退職。 日本とスペイン語圏文化の交流に尽力し、日本ボリビア協会理事、日本アルゼンチン協会評議員などを歴任。『西譯古今名句選』では、俳句のスペイン語訳を行った。 1965年6月、スペイン政府からイサベル・ラ・カトリカ勲章(スペイン語版、英語版)を受章。
大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - … 大森 尚則(おおもり しょうそく、1895年11月3日 - 1973年2月17日)は、日本の経営者。川崎製鉄会長を務めた。二女の夫は三菱レイヨン社長を務めた永井弥太郎。 岡山県岡山市出身。1920年に京都帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に第一銀行に入行。1947年に取締役を経て、翌年には常務に就任した。 1953年に川崎製鉄会長に就任。当時川崎製鉄は千葉製鉄所の建設中だったが、当時の日本銀行総裁・一万田尚登がこの方針に懐疑的で、メインバンクの第一銀行に対し人員の派遣を含むバックアップ体制の確立を求めていたため、第一銀行が大森を会長に送り込んだ背景がある(この際大森は岡田貢助を伴うことを求めたため、岡田も同社財務部長として出向した)。
有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日… 有松 潤一郎(ありまつ じゅんいちろう、1895年8月28日 - 1980年12月27日)は、日本の経営者、銀行家。大和銀行社長を務めた。岡山県岡山市出身。 1922年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に大和銀行に入行。1944年11月に専務に就任し、1947年1月に代表取締役を経て、1948年6月から1950年8月までに社長を務めた。 大阪銀行協会会長も務めた。 1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1980年12月27日に老衰のために死去。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
池田 禎政(いけだ ただまさ、1895年〈明治28年〉4月2… 池田 禎政(いけだ ただまさ、1895年〈明治28年〉4月22日 - 1920年〈大正9年〉1月18日)は、日本の華族(侯爵)。旧岡山藩池田家第14代当主。 父は池田詮政。母は久邇宮朝彦親王の三女安喜子女王。26歳で早世し、未婚により子供がいなかったため、弟の政鈞(後に宣政と改名)が家督を相続した。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
粕山 八郎治(かすやま はちろうじ、1892年(明治25年)… 粕山 八郎治(かすやま はちろうじ、1892年(明治25年)6月15日 - 不明 )は、日本の新聞記者であり、政治家である。岡山新聞(現:山陽新聞)の常務取締役、岡山交通取締役、岡山県議会議長を務めた。岡山県岡山市出身。 1892年(明治25年)岡山県御津郡大野村野田(現:岡山市)に粕山治三郎の次男として出生。その後、1905年(明治18年)に旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、同期には、映画監督となる中川紫郎がいた。1910年(明治43年)に同校を卒業し、17歳で山陽新報(現:山陽新聞)へ入社する。 山陽新報へ入社してから2年後の1912年(明治45年)、大日本帝国海軍に志願し入隊。
安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)… 安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の政治家。内務・厚生官僚、東京都長官(6・8代)、東京都知事(初・2・3代)、新潟県知事(34代)、衆議院議員(1期)を歴任した。位階は正三位。 参議院議長を務めた安井謙と、雪印食品副社長を務めた安井三郎は弟。 岡山県御津郡伊島村(現:岡山市北区津島)生まれ。岡山県立岡山中学校、旧制一高、東京帝国大学独法科を卒業後、内務省に入省。 1920年から茨城県庶務課長、稲敷郡長を務めた。休職後にドイツ視察留学を経て、東京市社会局長として関東大震災の復興にあたる。その間茨城県・神奈川県で警視を務めた。
瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治… 瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。音読みで「たきがわ こうしん」と呼ばれることもあった。 東京学派の小野清一郎とほぼ同時期にドイツ刑法学における構成要件の理論を日本に初めて紹介し、犯罪を構成要件に該当する違法有責な行為であるとする現在の日本の刑法学の基礎を築いた。 瀧川は違法性の実質について、当初M・E・マイヤーに倣って国家的条理違反としていたが、その後生活利益の侵害であると改説し、前期旧派・古典学派の立場を明らかにした。
宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日… 宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期・海大22期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。また終戦後に多数の部下を道連れに「特攻」を実施したことでも知られている。 1890年(明治23年)2月15日、岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町肩脊)の農家で教師の父・善蔵のもとに生まれる。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将は近郷同族だが、縁戚関係はない。岡山中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第24期)を受験し、双方に合格している。ちなみに陸士の合格成績は12番だった。1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校40期に成績順位150名中第9位で入校。
国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 - 195… 国吉 康雄(くによし やすお、1889年9月1日 - 1953年5月14日)は、日本の洋画家。岡山県岡山市中出石町(現・岡山市北区出石町一丁目)出身。 20世紀前半にアメリカ合衆国を拠点に活動した。
逢沢 寛(逢澤寛、あいざわ かん、1888年〈明治21年〉5… 逢沢 寛(逢澤寛、あいざわ かん、1888年〈明治21年〉5月15日 - 1982年〈昭和57年〉10月25日)は、昭和時代の日本の政治家、衆議院議員(9期)。 岡山県の農家に生まれる。 1899年臥竜高等小学校中退。1912年逢沢組を設立、1939年逢沢組を改組し中国土木(アイサワ工業の前身)を設立、同社社長に就任。その間、1937年の第20回衆議院議員総選挙で旧岡山1区から立憲民政党公認で立候補するが落選。1942年の翼賛選挙で非推薦候補として立候補し初当選。以後当選9回。通算25年代議士を務め、御津郡芳田村(現・岡山市)村長、運輸政務次官や岡山商工会議所会頭、岡山県遺族会会長、日本遺族会副会長などを歴任。
大林 千萬樹(おおばやし ちまき、1887年(明治20年)1… 大林 千萬樹(おおばやし ちまき、1887年(明治20年)1月‐1959年(昭和34年)4月26日)は、大正時代から昭和時代の日本画家で、主に再興院展にて活動し、江戸期の歴史風俗に取材した温和な美人画を多く描いた。娘の大林蘇乃(1910‐1971)は元日本工芸会正会員の桐塑人形作家。 1887年(明治20年) 1月5日、岡山県岡山市平野町(現在の岡山市北区天瀬南町)に生まれる。名は頼憲。若い時に東京へ出てまず富岡永洗、川合玉堂に師事した後、20歳頃に鏑木清方に入門。清方門下の郷土会展では1915年(大正4年) の第2回展《通い廊》と1916年(大正5年) の第3回展に出品している。 自身の初の出品作としては、1906年(明治39年) 日本美術院 絵画展覧会に《のべの土産》を、また1907年(明治40年) 東京勧業博覧会にも《歌舞》を出品している。
坂野 常善(さかの つねよし、1884年〈明治17年〉12月… 坂野 常善(さかの つねよし、1884年〈明治17年〉12月1日 - 1971年〈昭和46年〉9月21日)は、日本の海軍軍人。海兵33期。最終階級は海軍中将。岳父は宮原二郎(海軍機関中将、男爵)。 岡山県津高郡野谷村(現・岡山市)出身。岡山県士族・坂野半四郎の二男。 岡山県岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て海軍兵学校に入校(第33期)。入校時席次は180名中第84位、卒業時席次は171名中第22位。第一次世界大戦中は、第二特務艦隊参謀として地中海に遠征し、英国海軍との連絡業務にあたった。 坂野は海軍部内で対英米協調派(条約派)の1人に数えられていた。海軍軍事普及部部長在任中に、陸軍強硬派と海軍艦隊派から買収された報知新聞記者に『海軍は宇垣一成 内閣に反対ではない』と発言 したことが海軍大臣・大角峯生の怒りを買い、いわゆる「大角人事」により予備役に編入された。
中島 三郎(なかじま さぶろう、1882年(明治15年)4月… 中島 三郎(なかじま さぶろう、1882年(明治15年)4月15日 - 1952年(昭和27年)2月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。岡山県岡山市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上道郡字野村(現:岡山市)で生まれた。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、陸軍士官学校第13期として卒業する。1925年(大正14年)5月1日に陸軍重砲兵学校教育部長に就任し、8月7日に陸軍砲兵大佐に進級した。1928年(昭和3年)3月に横須賀陸軍重砲兵連隊長に転じ、1929年(昭和4年)8月に陸軍造兵廠総務部長に就任した。 1930年(昭和5年)8月1日に陸軍少将進級と同時に陸軍技術本部総務部長に着任し、1932年(昭和7年)8月に陸軍技術本部第1部長に転じた。
片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 194… 片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 1948年5月6日)は日本の実業家。野村證券初代社長や会長を務めた。 岡山県岡山市出身。大阪商業学校(後の大阪市立大学、現・大阪公立大学)を経て、1906年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 日本興業銀行貸付課長を務めていた際に、切れ者との評判をきいた野村徳七にスカウトされ、新設された大阪野村銀行の実権を担う取締役兼支配人に37歳で就任。 1920年大阪野村銀行に証券部が新設され、片岡は証券部部長に就任。1922年に、アメリカ合衆国に証券業界視察のため派遣され、1923年に帰国。 1925年に設立された野村證券の初代社長に就任。1926年に公社債専門業者として営業を開始、1927年にニューヨーク出張所を開設。
三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 -… 三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 - 1935年(昭和10年)5月23日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。 岡山県岡山市出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。大阪朝日新聞記者、東京日日新聞記者を経て、1909年(明治42年)、横浜市市政顧問に就任。1910年(明治43年)に横浜貿易新報社を創設し、初代社長に就任した。大正期に横浜市会議員、神奈川県会議員を経て、1927年(昭和2年)の衆議院補欠選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選回数を数えた。1932年(昭和7年)に発足した立憲民政党横浜支部の初代支部長に就任。党内では同じく新聞人出身の永井柳太郎と親しかった。
尾上 松之助(おのえ まつのすけ、1875年(明治8年)9月… 尾上 松之助(おのえ まつのすけ、1875年(明治8年)9月12日 - 1926年(大正15年)9月11日)は、日本の歌舞伎役者、映画俳優、映画監督。本名は中村 鶴三(なかむら かくぞう)。 日本映画草創期に活躍した時代劇スターであり、日本初の映画スターといわれる。旅役者から牧野省三に認められて映画界に入り、『碁盤忠信 源氏礎』でデビュー。牧野とのコンビで横田商会、日活の2社で1,000本以上の映画に出演、大きな目玉を向いて見得を切る演技が評判を呼び「目玉の松ちゃん」の愛称で大衆に親しまれた。立川文庫や講談でおなじみの英雄・豪傑・義人・侠客のほとんどに扮しており、トリック撮影を駆使した忍術映画では年少ファンのアイドル的存在となった。
三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 196… 三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 1966年7月12日)は、日本の裁判官。行政裁判所長官。岡山県岡山市出身。 岡山城下の友野家に生まれ、のち、下道郡岡田村(のち吉備郡岡田村→同大備村→同真備町、現・倉敷市)の三宅家の養子となる。旧制岡山中学、第三高等中学校を経て、1896年東京帝国大学法科卒。司法官試補として京橋区裁判所に勤務し、東京区裁判所判事となり、東京地方裁判所、東京控訴院などの判事となる。1907年行政裁判所評定官、同部長兼務、1939年行政裁判所長官に就任し、1942年まで務めた。墓所は多磨霊園。
岩本 熊雄(いわもと くまお、明治4年3月21日(1871年… 岩本 熊雄(いわもと くまお、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、鉄道官僚。一年志願兵を経て将校となり、鉄道会社勤務を経て帝国鉄道庁・鉄道省に出仕。札幌鉄道局苗穂工場長や北海道鉄道管理局旭川工場長等を歴任する。東京府士族で官位は陸軍歩兵少尉従五位勲四等。 岡山県岡山市富田町に生まれ、1893年(明治26年)に東京工業学校機械工芸部機械科を卒業、同年12月、一年志願兵として歩兵第2連隊に入隊。1895年(明治28年)7月、歩兵少尉任官と共に予備役となり日本鉄道株式会社に入社、汽車課に勤務する。同年10月、勲六等瑞宝章を受章。1896年(明治29年)2月、盛岡工場に転属。
江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9… 江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9月17日) - 昭和9年(1934年)11月3日)は、岡山市生まれの小説家、翻訳家、編集者、冒険家。本名:忠功(ただかつ)。 文学作品を皮切りに、通俗小説、推理小説、冒険小説、探検記など多岐に渡る分野に作品を残し、硯友社、博文館など数々の出版社で雑誌の編集発行に関わった。代表作に小説『女房殺し』、『地底探検記』、随筆『自己中心明治文壇史』、翻案戯曲『正劇 室鷲郎』など。 江見忠功は岡山の一番町一番屋敷に生れた。父の鋭馬は水蔭が幼少の頃死去。1881年、叔父の水原久雄の勧めで軍人を志して上京したが、次第に文学に惹かれるようになり、15歳のときに軍人を諦める。
大久保 重五郎(おおくぼ じゅうごろう、1867年9月10日… 大久保 重五郎(おおくぼ じゅうごろう、1867年9月10日(慶応3年8月13日) - 1944年(昭和19年)1月15日)は日本の篤農家である。白桃や大久保桃の作出で知られる。 1867年(慶応3年)、赤磐郡可真村弥上字山の池(現在の岡山市東区瀬戸町塩納)に生まれる。1879年(明治12年)に千種小学校を卒業すると、1880年(明治13年)に小山益太の門下生となり1886年(明治19年)より山の池にて桃の品種改良につとめる。1899年(明治32年)に恩師小山益太よりもらい受けた上海桃より白桃を発見、1901年(明治34年)結実する。なお、この発見年に関しては1890年(明治23年)とする資料も存在する。
池田 詮政(いけだ のりまさ、1866年2月9日〈慶応元年1… 池田 詮政(いけだ のりまさ、1866年2月9日〈慶応元年12月24日〉- 1909年〈明治42年〉6月1日)は、侯爵・貴族院議員。旧岡山藩池田家第13代当主。 1866年(慶応元年)、備前国岡山城下鴨方藩邸(現在の岡山県岡山市)生まれ。幼名銀三郎。明治維新後に鴨方藩池田家から池田宗家を継承し、備前岡山藩の最後の藩主となった池田章政(政詮)の三男(名前は父の初名を逆にしたようなものになっている)。母は大垣藩主戸田氏正の娘鑑子。 1882年(明治15年)、フランスに留学。公爵島津忠義の次女充子と結婚したが、1889年(明治22年)に離婚し、翌1890年(明治23年)に久邇宮朝彦親王の三女安喜子女王と再婚している。
内田 恒太郎(うちだ つねたろう、1864年(慶應2年)1月… 内田 恒太郎(うちだ つねたろう、1864年(慶應2年)1月1日 - 1936年(昭和11年)2月10日)は、日本の会社役員。大日本麦酒(現サッポロビール)監査役。岡山県岡山市出身であり、族籍は岡山県平民。 岡山県上道郡富山村(現:岡山市)の内田武壽の長男として出生する。。1873年、家督を相続する。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制横浜商業学校(現:横浜市立大学)を経て、三井物産へ入社する。三井物産横浜支店、山陽倉庫銀行、岡山銀行等に勤務して同郷の先輩馬越恭平の知遇を得て大日本麦酒に入り、以来累進して商務課長、名古屋出張所長及び東京出張所長、取締役、監査役等を歴任する。 妻は赤龍丸事件を起こした鹿児島士族江田(ごうだ)兼親の娘雪(俗名幾子)。
有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日〈文久3… 有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日〈文久3年6月10日〉- 1927年〈昭和2年〉10月24日)は、明治から昭和初期の官僚、政治家。寺内内閣の法制局長官を務めた。通称は梅次郎。字は子華。 備前国御野郡岡山城下に岡山藩士有松正義の長男として生まれる。1881年(明治14年)、岡山師範学校を卒業後、窪屋郡帯江小学校の教員をしながら漢学者西毅一の門下となる。陸奥宗光の著書を読んで上京して洋学を学ぶことを志した。相談を受けた同門の先輩である小松原英太郎は師である西が自由民権運動に没頭するのを憂慮して、1884年(明治17年)有松を獨逸学協会学校専修科に入学させた(小松原は同校の母体である獨逸学協会の会員であった)。
大鳴門 太三郎(おおなると たさぶろう、安政3年(1856年… 大鳴門 太三郎(おおなると たさぶろう、安政3年(1856年) - 1900年5月4日)は、備前国御野郡(現在の岡山県岡山市)出身で、明治年間の大相撲力士。本名は武田 太三郎。京都・大阪では関脇を務め、脱退して組織した広角組では大関と頭取(年寄)を兼務した。大阪協会との和解後は四股名のまま頭取初代大鳴門(現在の表記は大鳴戸)となり大鳴門部屋を立ち上げた。 初名は春日森と名乗り大阪から京都(松ヶ枝門人)に移籍して関脇を務める。1886年10月大阪に帰参。大鳴門と改め西に張り出される(三役格)。1887年9月関脇、1888年9月も同地位だったが、場所前に大阪協会の首脳陣と意見が対立、同志を募り「広角組」を結成した。
岡田 磐(おかだ いわお、1853年6月12日〈嘉永6年5月… 岡田 磐(おかだ いわお、1853年6月12日〈嘉永6年5月6日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月17日)は、明治から大正時代の政治家。警察官。銀行家。岡山市長。号は撫川。 備中撫川(現岡山市北区撫川)出身。犬飼松窓の門に学んだ。1873年(明治6年)小田県等外一等出仕、1875年(明治8年)岡山県十五等出仕、1878年(明治11年)岡山県警部、さらに西西条、西北条、東南条、苫田の各郡長を経て、1902年(明治35年)7月25日、岡山市長に就任した。この間、津山、岡山各警察署長を歴任した。 市長在任中は、前任の小田安正のあとを受けて1903年(明治36年)から上水道敷設工事に着手し1905年(明治38年)3月に全国で8番目の上水道を完成させたほか、電話開通、吉備線や宇野線の開通、西大寺鉄道の開通、市内電車の開通など近代化を進めた。
池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年2月27日(1853年… 池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年2月27日(1853年4月5日) - 大正2年(1913年)3月4日)は、岡山藩の家老。片桐池田家第11代当主。男爵。 父は岡山藩家老池田長常。妻は一条実良の娘福(亨子)。養子は池田長康。通称は競、主殿、采女助。初名は長知。 嘉永6年(1853年)岡山藩家老池田長常の次男として岡山に生まれる。明治3年(1870年)父長常の隠居により家督相続。閑谷学校で山田方谷に陽明学を学ぶ。英田郡長、磐梨郡長、二十二銀行取締役、二十二貯蓄銀行頭取を歴任。明治33年(1900年)男爵に叙され華族となる。大正2年(1913年)3月4日夜、妹婿・花房職居の訃報を聞いて、電話するために商業会議所に向かった際、誤って井戸に落ちて死去。
青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月… 青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月12日)- 1908年(明治41年)3月27日)は明治時代の日本の文部官僚、教育者。旧足守藩士。 嘉永4年12月12日(1852年1月3日)、青木元永の長子として備中国足守に生まれる。幼名は英之進。藩校・追琢舎を経て犬飼松窓、山田方谷らに漢学を学んだのち、明治3年(1870年)12月に足守藩選出の貢進生として大学南校に入学。貢進生制度が廃止され、校名が南校、第一大学区第一番中学と移り変わる中、英語専攻の学級に在籍して学業を続け、明治6年(1873年)4月に同校が専門学校である開成学校(ほどなく東京開成学校と改称)に改組されると法学科の予科に編入されている。
尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1… 尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1851年12月6日)- 昭和9年(1934年)1月4日)は、衆議院議員(憲政本党)、弁護士。 岡山藩士尾形徳蔵の長男として岡山城下上内田町(現在の岡山市北区)に生まれる。岡山藩藩学で漢学を学んだ後、1865年(元治2年)に岡山兵学館に入り、洋式兵学を学んだ。1870年(明治3年)、兵学三等教授に就任するが、翌年の廃藩置県で藩兵が廃止されるとともに、兵学館も閉鎖となった。1876年(明治9年)、代言人制度の発足とともに代言人の免許を取得し、岡山で開業した。翌年、神戸に移り、さらに1881年(明治14年)に大阪に移った。 憲政本党に入党し、機関紙『関西週報』の発行にあたった。
奥村 左近太(おくむら さこんた、1842年(天保13年)-… 奥村 左近太(おくむら さこんた、1842年(天保13年)- 1903年(明治36年)1月11日)は、幕末から明治の剣術家。流派は直心影流を学んだ後、奥村二刀流を創始した。称号は大日本武徳会精錬証。幼名は寅吉。 岡山藩士・奥村安心の子として生まれる。干支が壬寅であったことから寅吉と名付けられた。1855年(安政2年)、13歳で直心影流剣術の阿部右源次の道場に入門。同門に右源次の息子・阿部守衛がいた。剣術のほかに起倒流柔術や日置流印西派弓術、香取流槍術、砲術、馬術も学んだ。 1859年(安政6年)1月から回国修行の旅を繰り返す。この間に、伊予西条藩士・高橋筅次郎(田宮神剣流)が二刀を遣うのを見て、2年もの間、二刀を工夫し、左の大刀を横一文字に、右の小刀を大刀に交差し頭を庇いながら腰を引き、前かがみにする構えの奥村二刀流を編み出した。
岡崎 惟素(おかざき これもと、1840年(天保11年) -… 岡崎 惟素(おかざき これもと、1840年(天保11年) - 1905年(明治38年)5月20日)は、日本の武士(岡山藩士)、実業家(三菱商会本社副支配人、日本郵船長崎支店長、日本逓業取締役、東京株式取引所理事)、茶人(織部流)。幼名は滝吉、のち滝之助。号は淵冲、谷神。 1840年(天保11年) 、備前国御野郡内田村(現・岡山市)生まれ。1870年(明治3年)、30歳の時は、岡山藩家老で金川領主の日置健太郎支配の下級藩士(陪臣)であった。廃藩置県後は東京に出て、官吏となるも、1877年(明治10年)36歳の時に岩崎弥太郎が創設した三菱商会に書記係として入社。のちに本社副支配人となる。1887年(明治20年)、三菱の荘田平五郎・内田耕作・浅田正文・岡本健三郎らと共に日本郵船(共同運輸と三菱汽船との合併会社)を創立した。
香川 真一(かがわ しんいち、天保6年4月6日(1835年5… 香川 真一(かがわ しんいち、天保6年4月6日(1835年5月3日) - 1920年(大正9年)3月8日)は、日本の官僚、実業家。元備前岡山藩士。岩倉具視に随行して、欧米を視察。大分県令(現在の知事に相当)。大分県令を退いてのち、実業界に転じ、岡山殖産協会会頭や岡山商業会議所会頭などを歴任。岡山地方の産業の発展に尽力。本姓は岡。通称は英太郎。別名は忠武。 1835年、現・岡山市北区船頭町に、岡山藩士の家に生まれ、西洋式砲術を学んだ。明治2年(1869年)、権大参事。明治4年(1871年)、岩倉使節団に先立つ半年前に第1回欧米視察団に選ばれ、津田弘道らとともに欧米を視察した。翌年に帰国した後は、伊万里県参事、ついで静岡県参事に任じられた。
卯木 浩二 は、日本の俳優、元スタントマン。岡山県岡山市出身… 卯木 浩二 は、日本の俳優、元スタントマン。岡山県岡山市出身。本名同じ。現在の所属は、有限会社ビッグアンドエム 正木ルーム(客員所属)。
江田 三郎 は、日本の政治家。
おおした こうた は、日本の男性声優。Honey Rush所… おおした こうた は、日本の男性声優。Honey Rush所属。TRIALのメンバー。東京アニメーター学院卒業。本名および旧芸名は大下 孝太(読みは同じ)。
岩本 ナオ(いわもと ナオ、1月10日 - )は、日本の漫画… 岩本 ナオ(いわもと ナオ、1月10日 - )は、日本の漫画家。岡山県児島郡灘崎町(現:岡山市南区) 出身。血液型はO型。 子供のころ、赤石路代作品を読み、そのヨーロッパ描写に影響を受ける。また、『王家の紋章』にも夢中になる。特に両作のコスチュームに惹かれる。漫画の影響で、中学・高校時代に西洋史に興味を持ち、大学の専攻は、「古代ギリシャ・ローマ」。卒論テーマは「古代ギリシャ彫刻」。 2004年、『その彼女の存在』で第10回月刊フラワーズコミックオーディション金の花賞を受賞し、『月刊フラワーズ』(小学館)2004年5月号に掲載されデビュー。以降、同誌や『凛花』(小学館)で作品を発表。2007年から『月刊フラワーズ』で『町でうわさの天狗の子』を連載した。
井頭 政之(いがしら まさゆき) は、日本の原子力工学者。東… 井頭 政之(いがしら まさゆき) は、日本の原子力工学者。東京工業大学名誉教授。仁科記念賞受賞。 岡山市生まれ。1970年岡山県立岡山朝日高等学校卒業。1974年東京工業大学(のちの東京科学大学)理学部応用物理学科卒業。1976年同大学大学院理工学研究科原子核工学専攻修士課程修了。1978年同博士課程中退、同大学原子炉工学研究所助手。1987年工学博士。1990年東京工業大学原子炉工学研究所助教授。1997年手島記念研究賞(研究論文賞)受賞。2002年度仁科記念賞を永井泰樹と共同受賞。2009年東京工業大学原子炉工学研究所教授。2017年東京工業大学名誉教授。指導学生に堀順一京都大学複合原子力科学研究所教授など。
江田 憲司 は、日本の政治家、元通産官僚。
河本 準一 は、日本のお笑いタレント、YouTuber。お笑… 河本 準一 は、日本のお笑いタレント、YouTuber。お笑いコンビ次長課長のボケ(稀にツッコミ)を担当。相方は井上聡。愛知県名古屋市緑区生まれ、岡山県津山市育ち。吉本興業所属。吉本総合芸能学院(NSC)大阪校13期。身長162 cm、体重58 kg。血液型AB型。アイドルグループ吉本坂46のメンバーおよびキャプテンでもある。愛称は準ちゃん、ヌルヌル王子、もっち、じゅんを。