新原 昭治(にいはら しょうじ、1931年 - 2024年1… 新原 昭治(にいはら しょうじ、1931年 - 2024年11月21日)は、国際問題研究者、ジャーナリスト、政治活動家。 福岡市生まれ。九州大学に進み、1952年日本共産党に入党、1954年3月文学部(心理学)卒業。 同年長崎放送に記者として入社、ビキニ事件や1956年の第2回原水爆禁止世界大会の取材や番組制作もおこなった。 1961年赤旗編集局に入局。党中央機関紙編集委員、1973年准中央委員、1977年中央委員、1981年幹部会委員等を経て、1994年-2000年、常任幹部会員を務めた。この間、平和問題対策委員会責任者、国際委員会責任者、書記局員などを併任した。 非核の政府を求める会世話人、日本平和委員会理事。
水尾 比呂志(みずお ひろし、本名・博、1930年11月7日… 水尾 比呂志(みずお ひろし、本名・博、1930年11月7日 - 2022年1月3日)は、日本の美術史家、民藝運動家、武蔵野美術大学名誉教授・元学長。 大阪府出身。高校時代から詩を書き、詩誌「櫂」同人。柳宗悦に師事し、旧制福岡高等学校を経て東京大学文学部卒業、1955年(昭和30年)同大学院美術史学科修士課程修了。舞台・放送作家でもあった。 日本民藝館館員を経て、1963年(昭和38年)武蔵野美術大学助教授、1970年(昭和40年)に教授、1986年(昭和61年)学長、1994年(平成6年)退任し名誉教授。2003年(平成15年)5月に日本民藝協会会長(2011年6月まで)。講師として晩年まで、毎年各地で行われた日本民藝協会の全国大会・講座、また柳宗悦をめぐる講演・シンポジウムに多く参加していた。
大野 明男(おおの あきお、1930年〈昭和5年〉9月12日… 大野 明男(おおの あきお、1930年〈昭和5年〉9月12日 - )は、日本の思想家、社会運動家。社会評論家。 東京生まれ。旧制東京都立第三中学校、東京陸軍幼年学校、旧制群馬県立桐生中学校、旧制浦和高等学校を経て、東京大学に入学。東京大学教養学部の学生自治会委員長としてレッドパージ反対闘争を指揮し、退学処分を受ける。東大を中退後、東大生協、業界紙記者を経てフリーになる。自らの全学連(全日本学生自治会総連合)の経験を踏まえた学生運動や世代論に関する発言を中心に新中間層、経済、経営の分野に及ぶ幅ひろい評論活動を展開する。兄の評論家・大野力と共に思想の科学研究会を活動の拠点とし、思想の科学研究会の事務局長、会長もつとめた。
澤地 久枝(さわち ひさえ、1930年9月3日 - )は、日… 澤地 久枝(さわち ひさえ、1930年9月3日 - )は、日本のノンフィクション作家、社会運動家。東京都港区青山出身。 編集者を経て『妻たちの二・二六事件』(1972年)で作家に。綿密な取材で、真実に迫る作品を執筆。作品に『火はわが胸中にあり』(1978年)、『もうひとつの満州』(1982年)、『滄海よ眠れ』(1985~86年)など。 大工の長女として生まれる(下に妹と弟)。父親は小学校卒業後伊豆での見習修業を経て大工となり、久枝が4歳の時、家族で満洲へ移住し、吉林市の満鉄社宅で暮らした。1945年、吉林で敗戦を迎え1年間の難民生活の後に日本に引き揚げ山口県立防府高等学校に編入した。1947年夏に東京に移り焼野原の原宿に建てた6畳のバラックで育つ。
影山 健(かげやま けん、1930年8月1日 - 2016年… 影山 健(かげやま けん、1930年8月1日 - 2016年6月16日)は、日本の体育学者、市民活動家。愛知教育大学名誉教授。 管理教育に反対し、様々な市民運動を牽引したことで知られる。学究生活のかたわら、名古屋オリンピック招致反対運動や愛知万博反対運動などにも深く関わった。 静岡県静岡市生まれ。師範学校の教師だった父親の異動に伴い、3歳で静岡市を離れ、福島県、長野県などを転々とした。福島県少年スキー大会で滑降3位を記録した。 6度目の引っ越しとなる16歳のときに愛知県に移住。豊橋中学校(現・愛知県立時習館高等学校)に入学。1951年(昭和26年)、岡崎高等師範学校卒業。1953年(昭和28年)3月、東京教育大学体育学部卒業。
高田 がん(たかだ がん、1930年〈昭和5年〉5月23日 … 高田 がん(たかだ がん、1930年〈昭和5年〉5月23日 - 2021年〈令和3年〉12月25日)は、日本の政治運動家、特殊株主。「反共全国遊説隊」隊長、元自称「参議院比例代表研究家」。広義の街宣右翼に該当するが任侠系人士ではない。愛媛県八幡浜市出身。 17歳で中学校代用教員に採用される。敗戦直後の動乱期に新聞配達から日雇労働まで多彩な職業を変転し、その中でアプレゲール的信念としての反共主義に基づく「赤狩り」志向が醸成された模様[要出典]。 1960年前後の安保闘争期に翼賛院外団活動を本格化させ、1963年4月の統一地方選挙で注目された東京都知事選挙に、「(誇り高き)選挙屋」と嘯き無差別大量立候補で社会的批判を浴びていた、肥後亨グループの公認(この時は団体名が『肥後亨』)で初立候補。
五十嵐 良雄(いがらし よしお、1930年5月20日 - 2… 五十嵐 良雄(いがらし よしお、1930年5月20日 - 2011年6月8日)は、日本の教育評論家、政治活動家。 東京府南葛飾郡小松川(のち東京都江戸川区小松川)生まれ。1948年に日本共産党員となる。早稲田専門学校卒、東京都立江戸川高等学校卒、1949年中央労働学園大学に入学、全学連書記局で働く。1955年東京学芸大学英語専修課程修了、清水書院編集部に入社、1958-1963年東京大学教育学部研究生、1963年世界経済研究所(英語版、ロシア語版)アジア=アフリカ研究所員。インド、ベオグラード、モスクワなどアジア・アフリカ諸国の大学などに留学。1966-1967年和光大学教務学生課職員。大学闘争に際して日本教育学会を退会し、「反教育シリーズ」を主催。
小林 トミ(こばやし トミ、1930年5月15日 - 200… 小林 トミ(こばやし トミ、1930年5月15日 - 2003年1月2日)は、日本の市民運動家、画家。市民グループ「声なき声の会」の中心メンバーとして安保闘争、反戦活動に従事し、鶴見俊輔や高畠通敏らとベ平連スタイルの市民運動の原型をつくった。 茨城県土浦市に生まれる。父親はパン屋を営んでいたが、米相場に手を出して事業不振に陥り、1934年(昭和9年)に一家で千葉県浦安町(現・浦安市)に移って下駄と鼻緒の行商を始めた。 東京都立葛飾高等女学校(現・東京都立南葛飾高等学校)に進学するも、1944年(昭和19年)11月以降は授業はなかった。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲後、一家は浦安も危ないと判断し、土浦市に疎開。
山田 精吾(やまだ せいご、1930年 <昭和5年> 3月1… 山田 精吾(やまだ せいご、1930年 <昭和5年> 3月18日 - 1996年 <平成8年> 2月10日)は、昭和から平成時代の労働運動家。日本労働組合総連合会(連合)初代事務局長。位階は従四位。 宮崎県延岡市生まれ。1946年旧制延岡中学校卒。1948年旭化成工業(現旭化成)ダイナマイト工場に入社、全旭化成労働組合連合会(全旭連)ダイナマイト労組書記長。同年の旭化成争議では青年行動隊長として活躍し、ダイナマイトを腹に括りつけて経営側と対峙したことから「ダイナマイト男」の愛称が生まれた。1950年全旭連ダイナマイト労組執行委員。1951年同労組書記長、副委員長に選出され、全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟)化繊連合会に書記として出向。
有田 光雄(ありた みつお、1930年2月22日 - )は、… 有田 光雄(ありた みつお、1930年2月22日 - )は、日本の労働運動家。島根県出身。子息は立憲民主党の衆議院議員で、参議院議員(2期)・ジャーナリストの有田芳生。 著作の一部はデジタル化されており、国立国会図書館デジタルコレクションなどで公開されている。
小森 香子(こもり きょうこ、1930年2月1日 - 20… 小森 香子(こもり きょうこ、1930年2月1日 - 2023年6月28日)は、詩人、社会運動家。旧姓・相本。代表作は『母の友 2012年 02月号』 『青い空は青いままで子どもらに伝えたい―母と子で語る昭和といま』 『陽子』などがある。 東京雑司ヶ谷生まれ。父は相本修平、母は桂島ふじ(桂島不二の名で雑誌に投稿していた)で、三女として生まれる。東京都立第十高等女学校在学中に学徒動員を経験。空襲で関西へ疎開したが、再び動員される。 神戸女学院家政学部卒業後、大日本紡績本店に勤務するが、レッドパージに遭う。社会主義者の小森良夫(1926年 - 2008年)と結婚し、新日本文学会で詩や小説を発表。1961年から、夫が世界労働本部の常駐スタッフに就任したため4年間プラハに住む。
城戸 嘉世子(きど かよこ、1930年1月23日 - 没年不… 城戸 嘉世子(きど かよこ、1930年1月23日 - 没年不明)は、日本の政治運動家。教育評論家。実業家。教育党元党首。
辻 奎子(つじ けいこ、1930年〈昭和5年〉 - 1985… 辻 奎子(つじ けいこ、1930年〈昭和5年〉 - 1985年〈昭和60年〉8月2日)は、日本の平和運動家。広島市への原子爆弾投下での被爆者の1人であり、国際平和運動の10フィート運動にボランティアで参加した後、同運動による映画を世界各国へ送る運動を続け、大きな反響を呼んだ。 1930年に広島県で誕生した。広島県立第一高等女学校に在学中の1945年(昭和20年)8月6日、広島原爆により自宅で被爆した。自身の被爆に加えて、実父を喪った。それまでは平凡な主婦であったが、このことで反核に対する強い思いを抱くようになった。 1980年(昭和55年)に10フィート運動が開始されると、ボランティアとして参加。
高畑 敬一(たかはた けいいち、1929年12月8日 - 2… 高畑 敬一(たかはた けいいち、1929年12月8日 - 2020年2月8日)は、日本の実業家、労働運動家。松下電器産業常務取締役、松下電器産業労働組合中央執行委員長。 1929年(昭和4年)富山県出身。 1950年(昭和25年)、金沢高等工業学校 (現・金沢大学理工学域)機械工学科卒業。同年、松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)に入社。同社入社後、関西大学第二部(夜間部)に編入し、1953年関西大学経済学部を卒業。1953年(昭和28年)労組委員長。1983年(昭和58年)松下電器取締役を経て、1990年(平成2年)取締役常務に就任した。 2020年 6月4日、老衰のため死去。90歳没。
服部 一敏(はっとり かずとし、1929年10月14日 - … 服部 一敏(はっとり かずとし、1929年10月14日 - )は、図書館員、著述家。図書館情報学者。 東京市(現文京区)出身。1953年東京教育大学理学部卒。国立国会図書館勤務、専門資料部科学技術資料課課長補佐。1976-1977年イリノイ大学アジア資料センター客員講師。
伊東 壮(伊東 壯、いとう たけし、1929年10月5日 -… 伊東 壮(伊東 壯、いとう たけし、1929年10月5日 - 2000年3月3日)は、日本の経済学者、平和運動家。山梨大学学長、日本原水爆被害者団体協議会代表委員、東京都原爆被害者団体協議会会長等を歴任した。 広島市に生まれる。旧制県立広島一中3年の時に被爆。1959年、一橋大学大学院経済学研究科修了。大川一司ゼミ出身。 都立高校教諭を経て1965年より山梨大学の教員をつとめた。山梨大学教育学部長、山梨大学学長(1992-98年)のほか、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員(1981-2000年)、東京都原爆被害者団体協議会(東友会)会長、大規模小売店舗審議会特別委員(通商産業省)などを歴任した。
加藤 日出男(かとう ひでお、1929年8月31日 - 20… 加藤 日出男(かとう ひでお、1929年8月31日 - 2019年12月22日)は、日本の社会運動家、随筆家。 日本の高度経済成長期、地方から集団就職した勤労青年たちの交流サークル「若い根っこの会」を創設し、亡くなるまで会長を務めた。 秋田県秋田市出身。秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)を経て、1946年に秋田鉱山専門学校(現・秋田大学)に入学するが翌年中退、しばらく住み込みで農業に従事。1953年、東京農業大学農学部農業経済学科卒業。在学中、青山ほとりに合わせ大根を持って応援を行う「大根踊り」を考案したという説がある(異説あり。詳細は青山ほとり#大根踊りを参照)。 1952年から1958年にかけ、東農大在学生のサークル「あすなろ会」、および若者の交流サークル「経堂青年会」「雑草の会」「東京青年の会」を立ち上げる。
山岸 章(やまぎし あきら、1929年(昭和4年)7月18日… 山岸 章(やまぎし あきら、1929年(昭和4年)7月18日 - 2016年(平成28年)4月10日)は、日本の労働運動家。従三位。勲一等瑞宝章受章。 日本労働組合総連合会初代会長、国際郵便電信電話労働組合連盟(PTTI)会長、情報通信産業労働組合連合会委員長、全国電気通信労働組合(全電通)委員長を歴任した。 大阪市出身。行商人の子として生まれる。父親は仕事が長続きせず職を転々としており、さらに病気を患ったため、幼少期は貧しい生活を送った。啓発第二小学校を経て旧制大阪中学に進学するも、1944年(昭和19年)4月に母の実家へと疎開。同地の旧制豊岡中学に転校した。在学中の9月に海軍甲種予科練習生に志願(甲種14期生)し、防府海軍通信学校を経て1945年(昭和20年)4月15日に宇佐の第九三一海軍航空隊に配属された。
岩崎 馨(いわさき かおる、1929年5月29日 - 202… 岩崎 馨(いわさき かおる、1929年5月29日 - 2025年2月22日 )は、日本の労働運動家。 京都市生まれ。1948年12月日本鋼管に入社し、電機課に配属となる。1953年明治学院大学経済学部卒業。1964年9月日本鋼管製鉄労働組合連合会中央執行委員調査担当を経て、のち同労組調査部長。1976年政策推進労組会議事務局次長。1978年日本鉄鋼産業労働組合連合会(鉄鋼労連)調査部長。1978年4月明治学院大学経済学部講師(1981年3月まで)。1982年全日本民間労働組合協議会(全民労協)調査局長(2002年まで)。1985年社団法人国際産業・労働研究センター事務局長。2000年財団法人社会経済生産性本部(2009年より日本生産性本部)社会労働部参与、労働研究センター事務局長。
好並 隆司(よしなみ たかし、1929年4月19日 - 20… 好並 隆司(よしなみ たかし、1929年4月19日 - 2010年9月23日 )は日本の歴史学者、社会運動家。専門は中国古代史。 京都府京都市生まれ。高校時代、平和運動に目覚める。1947年、岡山大学法文学部文学科1期生入学。1948年日本共産党入党。開学期の岡山大学学生運動を指導する。 岡山大学卒業後は広島大学大学院文化研究科を経て岡山大学文学部教官となる。 1961年、春日庄次郎らとともに日本共産党を批判、除名される。社会主義革新運動創設に参加し、その後共産主義労働者党に参加。 1969年、岡山大学闘争に際しては入試拒否27教官に名前を連ねる。 1973年、岡山大学教養部教官坂本守信の解雇処分に反対する教養部バリケード封鎖では学生らとともに教養部構内に立てこもる。
真柄 栄吉(眞柄 栄吉、まがら えいきち、1929年4月15… 真柄 栄吉(眞柄 栄吉、まがら えいきち、1929年4月15日 - )は、日本の労働運動家。日本労働組合総評議会(総評)最後の事務局長。 新潟県生まれ。1953年早稲田大学法学部卒業、新潟県庁に入庁。1954年新潟県職員労働組合長岡支部執行委員。1955年全日本自治団体労働組合(自治労)新潟県本部書記長。1958年自治労中央執行委員。組織部員、調査部長、賃金部長を歴任し、1964年書記次長、1966年財政局長。1975年自治労書記長。1983年富塚三夫の後を受けて日本労働組合総評議会(総評)事務局長。就任直後、「ヨーロッパ各国を歴訪し、西欧型労働組合をめざす立場を表明」した。総評・官公労の側から民間連合と交渉し、官民統一の日本労働組合総連合会(連合)結成に貢献。
富塚 三夫(とみづか みつお、1929年2月27日 - 20… 富塚 三夫(とみづか みつお、1929年2月27日 - 2016年2月20日)は、日本の労働運動家、政治家。元日本労働組合総評議会(総評)事務局長、日本社会党衆議院議員(2期)。 福島県伊達郡国見町出身。1943年、国有鉄道に就職。1955年3月、明治大学政治経済学部(二部)卒。 1966年に国労東京地方本部委員長、1973年に国労本部書記長となる。 1975年の統一ストライキ(スト権スト)においては、公労協代表幹事として取り組んだ。 1976年7月から1983年7月まで7年間総評事務局長を務めた。 1983年12月の衆議院議員総選挙に旧神奈川5区より日本社会党公認で立候補し当選。1986年の総選挙は落選したが、1990年に返り咲く。
名越 操(なごや みさお、1929年(昭和4年)- 1986… 名越 操(なごや みさお、1929年(昭和4年)- 1986年(昭和61年)6月14日)は、日本の平和運動家である。 広島県広島市に生まれる。広島市立高等女学校(現在の広島市立舟入高等学校)に在学中、広島市への原子爆弾投下により被爆し、原爆症を患った。卒業後は原爆症に苦しみながらも、1948年(昭和28年)に国鉄労働組合に加入し速記を身に着けた事から書記を担当する。 その後結婚し子供に恵まれたが、1964年(昭和39年)頃に次男が体調を崩し、翌1965年(昭和40年)に白血病の診断とされた。その次男は1968年(昭和43年)に死去するが、以降もその人生を描いた書籍の執筆を行い、後に刊行される。晩年は自身が被爆者となった事がきっかけで入退院を繰り返しながら、原子爆弾や水素爆弾等の核兵器の製作及び使用禁止といった平和活動を行った。
西田 勝(にしだ まさる、1928年11月10日 - 202… 西田 勝(にしだ まさる、1928年11月10日 - 2021年7月31日 )は、日本の文芸評論家、平和運動家。 1928年11月10日、静岡県清水市(現・静岡市清水区)に生まれる。1945年3月、県立清水中学校(現・清水東高)卒業。1947年3月、浜松工業専門学校応用化学科(現・静岡大学工学部)中退。1950年3月、旧制静岡高等学校文科甲類を卒業。1953年3月、東京大学文学部国文学科卒業、1955年3月、同大大学院(旧制)を退学。法政大学文学部非常勤講師を経て1971年4月、同学部助教授、1973年4月、教授となる。1994年3月、退職。同年4月、「西田勝・平和研究室」を設立。 1953年4月、新たな日本近代文学像を求めて小田切秀雄らと日本近代文学研究所を創立、「幻の雑誌」といわれた『驢馬』や『種蒔く人』などの散逸していた号冊を収集しての復刻版を出し、その延長として「近代文学図書館」の構想を立て、日本近代文学館の創設に尽力した。
牟田 悌三(むた ていぞう、1928年10月3日 - 200… 牟田 悌三(むた ていぞう、1928年10月3日 - 2009年1月8日)は、日本の俳優、社会福祉活動家である。東京都出身。麻布高校、北海道大学農学部卒業。村上事務所所属。劇団テアトル・エコーの創設メンバー。
佐藤 芳夫(さとう よしお、1928年9月13日 - 200… 佐藤 芳夫(さとう よしお、1928年9月13日 - 2006年11月25日)は、昭和から平成時代の労働運動家。全国労働組合交流センター代表運営委員。元全造船機械労組石川島分会執行委員長、中立労連議長。 東京、浅草生まれ。1948年石川島重工業に管理工として入社。1951年中央大学専門部経済学科(二部)卒業。1950年頃は組合の青年協議会副議長をしていたが、共産党員ではなかったためレッドパージを免れた。パージに賛成した柳沢錬造、金杉秀信ら愛国労働運動派に対抗し、1952年春に左派社会党に入党。同年6月全造船石川島分会執行委員に初当選。1961年11月全造船石川島分会執行委員長に初当選(1期)。1963年10月同執行委員長、石川島播磨重工労働組合連合会中央執行委員長(それぞれ2期)。
佐藤 昭子(さとう あきこ、旧名:佐藤 昭〈さとう あき〉、… 佐藤 昭子(さとう あきこ、旧名:佐藤 昭〈さとう あき〉、1928年〈昭和3年〉8月5日 - 2010年〈平成22年〉3月11日、女性)は、日本の政治家秘書、政治運動家。33年間にわたって田中角栄の秘書を務め、その愛人であったといわれ「越山会の女王」と称された。後に「政経調査会」を主宰した。 新潟県刈羽郡枇杷島村(現・柏崎市)に生まれる。両親は雑貨店を営んでいた。6人きょうだいの末っ子であったが、1人の姉は昭の出生前に死亡しており、1944年(昭和19年)までに父母、2人の兄、2人の姉と死別した。枇杷島小学校3年からそろばん塾に通って1級を取得し、数学・習字・体育が得意であった。1941年(昭和16年)小学校卒業後に進学した新潟県立柏崎高等女学校(5年制、のち4年制に変更。
黒川 武(くろかわ たけし、1928年〈昭和3年〉4月1日 … 黒川 武(くろかわ たけし、1928年〈昭和3年〉4月1日 - 2021年〈令和3年〉7月28日)は、日本の労働運動家。位階は従三位。日本労働組合総評議会(総評)最後の議長。 群馬県館林市出身。1945年旧制館林中学校卒業。1946年帝都高速度交通営団(現東京地下鉄)に入社。1950年中央大学専門部卒業。神田駅助役を経て、1957年帝都高速度交通営団労働組合(営団地下鉄労組)執行委員、1962年同労組委員長。1974年日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)副委員長、1980年同委員長。1983年日本労働組合総評議会(総評)議長。1987年11月の全日本民間労働組合連合会(民間連合)結成に貢献。1988年私鉄総連会長。
野底 武彦(のか たけひこ、1928年3月27日 - 200… 野底 武彦(のか たけひこ、1928年3月27日 - 2007年8月10日)は、琉球政府および沖縄県の政治活動家。 琉球独立党(現・かりゆしクラブ)の前党首で、2005年以降は「名誉党首」。沖縄県与那国町出身。ペンネームは「野底 土南(ぬか どなん)」。 1928年(昭和3年)3月27日生まれ。沖縄本島に渡り沖縄県立首里第一中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)入学する。その後台湾に移住し、台北州立基隆中学校(現在の国立基隆高級中学)に転校する。 終戦後、台湾から島づたいで北上し、法政大学経済学部に進学する。在学中には沖縄県出身者では初の公認会計士の資格を取得した。卒業後はアメリカ統治下であった沖縄県に戻り、沖縄大学の講師に就任した。
助川 弘之(すけがわ ひろゆき、1928年〈昭和3年〉3月2… 助川 弘之(すけがわ ひろゆき、1928年〈昭和3年〉3月22日 - 2013年〈平成25年〉9月8日)は、日本の政治家、教育者、医師、市民運動家。 霞ケ浦の再生を考える会会長でいのちの水・霞ヶ浦を守る市民ネットワーク代表、筑波メディカルセンター病院理事長、第16・17・18・19代茨城県土浦市長、茨城県公安委員長を歴任した。旭日小綬章受章者。 助川喜四郎の三男として、茨城県新治郡土浦町敷島町(現・土浦市桜町)で生まれた。その後、東京大空襲に遭遇したが生き延びる。東京慈恵会医科大学医学部を卒業し、医師免許を取得。長じて政治を志し、箱根宏の死去にともなう1987年の土浦市長選挙に立候補し初当選。以後、1991年・1995年・1999年の市長選にも当選し、4選を果たした。
樋口 篤三(ひぐち とくぞう、1928年3月8日 - 200… 樋口 篤三(ひぐち とくぞう、1928年3月8日 - 2009年12月26日)は、日本の労働運動家、社会運動家、ジャーナリスト。 静岡県沼津市出身。旧制静岡県沼津商業学校、 海軍甲種飛行予科練習生を経て、横浜高等商業学校を卒業。1947年から労働運動に参加し、産別会議東芝堀川町労組書記や日本共産党専従などを務めた。権力・資本からは五回首を切られ、共産党からは二回除名(1951年3月、1965年2月)されたとされる。 ベトナム反戦運動期には共産主義労働者党の中心メンバーであり、1971年の分裂時には春日庄次郎などと労働者革命派(後の労働者党全国委員会)を結成して議長に就任した。 1975年から1986年、雑誌『季刊労働運動』代表を務めた。
新島 淳良(にいじま あつよし、1928年2月7日 - 20… 新島 淳良(にいじま あつよし、1928年2月7日 - 2002年1月12日)は、日本の中国文学者、コミュニティー活動家。
碓田 のぼる(うすだ のぼる、1928年2月5日 - )は、… 碓田 のぼる(うすだ のぼる、1928年2月5日 - )は、歌人、教育運動家。長野県生まれ。本名・登(教育関係の著作には本名を用いる)。 17歳で国鉄長野工場の見習工となり、夜間中学を経て東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業。高校教諭を経て、全国私教連委員長、全教副議長などを歴任。渡辺順三に師事。新日本歌人協会全国幹事、日本民主主義文学会員、国際啄木学会会員。歌集『花どき』で多喜二・百合子賞受賞。左翼的な立場から短歌、石川啄木についての文芸評論を行う。 日本共産党の党員でもあり、1992年・1995年の参院選に比例区から出馬した。
中村 卓彦(なかむら たくひこ、1928年1月31日 - 1… 中村 卓彦(なかむら たくひこ、1928年1月31日 - 1995年3月10日)は、昭和から平成時代の労働運動家。日本鉄鋼産業労働組合連合会(鉄鋼労連)委員長。福岡県北九州市生まれ。 1945年4月陸軍幼年学校卒業、陸軍予科士官学校に入学、在学中に敗戦。1947年2月日本製鐵に入社、八幡製鐵所化工部に勤務。1951年3月明治工業専門学校二部卒業。1955年2月八幡製鉄労組専従執行委員。同年に八幡製鉄労組内のインフォーマルグループ・盟友会に入会。先輩の宮田義二が自宅で開いていた「宮田学校」の門下生にもなった。1960年8月同志会の蔀充にかわり八幡製鉄労組書記長に選出。1968年IMF-JC事務局次長。
山田 善二郎(やまだ ぜんじろう、1928年1月 - 202… 山田 善二郎(やまだ ぜんじろう、1928年1月 - 2022年1月20日)は、日本の社会運動家。 新潟県南蒲原郡(現三条市)生まれ。父親は陸軍省の下級職員であった。尋常小学校の同級生にのちの法学者江藤价泰がいた。担任の勧めで第一東京市立中学校夜間部を受験し合格、昼間は給仕を務め家計を助けながら通学した。1943年、軍国少年として憂国の思いから、海軍飛行予科練習生(予科練)を親に隠れて志願し合格。三重海軍航空隊に入り、1945年、日本の敗戦により除隊。 戦後、連合国軍最高司令官総司令部通信資材部隊、同対敵諜報部隊、キャノン機関、中央情報局(CIA)横須賀海軍施設拠点などに日本人従業員として勤務。
佐藤 保(さとう たもつ、1928年 - )は、日本の政治運… 佐藤 保(さとう たもつ、1928年 - )は、日本の政治運動家、社会運動家。 大分県に生まれる。1945年福岡県中学修猷館を第4学年卒業し、工業専門学校を経て、1953年九州大学経済学部を卒業。1958年九州大学大学院経済学研究科を修了。大学院では向坂逸郎教授のもとでマルクス経済学を研究し、向坂が中心となって発足した社会主義協会九州支部(後に支局)の事務も行った。 大学院在学中の1957年から総評本部に勤務し、1965年社会主義協会全国オルグとなり、1967年同事務局長を経て、1998年同代表に就任する。 1979年にソ連から米国へ亡命した、元KGBのスパイであるスタニスラフ・レフチェンコの証言により、佐藤は「アトス(ATOS)」というコードネームを持つKGBのエージェント(協力者)であったとされた。
岩山光男(いわやま みつお、1927年11月 - 2006年… 岩山光男(いわやま みつお、1927年11月 - 2006年1月16日)は日本の社会事業家、鍼灸師、編集者。視覚障害当事者として名古屋ライトハウス点字図書館を創設。 愛知県名古屋市瑞穂区に生まれる。 1938(昭和13)年、満10歳で愛知県立盲学校初等部に入学。 第二次世界大戦中は日本点字図書館から郵送で借りた明石海人の『白描』を指で読みながらB29の爆音から心を守り精神的飢餓を補っていた。1948(昭和23)年、20歳で4年制の愛知県立盲学校旧制中等部を卒業。 社会に出てマッサージ師として患者を治療する傍ら、南山大学教授の神父が視覚障害者に布教を始めた名古屋のカトリック教会に通う中で、学問を続けたいという気持ちが芽生え、大学進学を決意。
三好 達(みよし とおる、1927年(昭和2年)10月31日… 三好 達(みよし とおる、1927年(昭和2年)10月31日 - 2023年(令和5年)3月6日)は、日本の裁判官、政治活動家。海軍兵学校75期。位階は従二位。最高裁判所長官、法曹会会長、日本会議会長、皇室の伝統を守る国民の会会長、美しい日本の憲法をつくる国民の会共同代表などを歴任した。 東京府生まれ。日本中学校卒業。海軍兵学校(第75期)に進む。海兵在校中に終戦。海兵ではリベラルとして知られた井上成美校長の薫陶を受けた最後の卒業生の一人となった。旧制東京高等学校卒業。昭和28年(1953年)、東京大学法学部卒業。 1952年、24歳で司法試験合格。司法修習7期。1955年、裁判官任官。東京地方裁判所を振り出しに各地の裁判所等で勤務。
石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年(昭和2年)3月1… 石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年(昭和2年)3月11日 - 2018年(平成30年)2月10日)は、日本の小説家・詩人・環境運動家。 主婦として参加した研究会で水俣病に関心を抱き、患者の魂の訴えをまとめた『苦海浄土ーわが水俣病』(1969年)を発表。ルポルタージュのほか、自伝的な作品『おえん遊行』(1984年)、詩画集『祖さまの草の邑』(2014年)などがある。 石牟礼道子は1927年3月11日白石亀太郎(当時34歳)と吉田ハルノ(当時24歳)の長女として、熊本県天草郡河浦町(現・天草市)に生まれる。父や祖父は石工であり、道子という名は道路が完成することを予祝して、 家族全員が考えて、名付けられた。
土井 大助(どい だいすけ、1927年(昭和2年)2月20日… 土井 大助(どい だいすけ、1927年(昭和2年)2月20日 - 2014年(平成26年)7月30日 )は、日本の詩人・劇作家・社会運動家。本名:吉沢四郎(旧姓堀井)。 山形県鶴岡市出身。陸軍航空士官学校在校中に終戦を迎え、復員して、旧制新潟高等学校に編入、そこから東京大学法学部卒。1962年(昭和37年)、詩「十年たったら」でデビューした。この詩は、20歳代の日本共産党員を語り手とした詩だったので、それを読んだ壺井繁治が、作者も主人公と同じ境遇だと勘違いしたというエピソードがある。その後、詩人会議運営委員長、同顧問を歴任した。 1964(昭和39)年9月より1966(昭和41)年9月まで、中国 遼寧省大連市 大連日本語専科学校(現大連外国語大学)にて日本語教師を勤めた。
役山 礼子(やくやま れいこ、1927年(昭和2年)1月25… 役山 礼子(やくやま れいこ、1927年(昭和2年)1月25日 - 1987年(昭和62年)3月25日)は、日本の社会事業家である。 群馬県に生まれ、同県初の女子校であった群馬県高崎高等女学校(現在は群馬県立高崎女子高等学校に改称)に入学する。卒業から約25年後の1968年(昭和43年)に日本リウマチ友の会の理事長に就任した。 これによって日本国内におけるリウマチを持病に持つ人々のために難病手帳の交付にあたり患者の救済に尽力し、1974年(昭和49年)に理事長を辞任するまでその活動に携わった。
福本 邦雄(ふくもと くにお、1927年1月5日 - 201… 福本 邦雄(ふくもと くにお、1927年1月5日 - 2010年11月1日)は日本の実業家、画商、政治活動家、元日本共産党員。第2次岸内閣の内閣官房長官秘書官、自由民主党政調会長秘書等を務める。戦前の日本共産党指導者・福本和夫の長男。絵画商人という表の顔から政界や財界や暴力団といった裏社会の深部に入りこんで暗躍した。「政界最後のフィクサー」とも呼ばれた。 神奈川県鎌倉市出身。20代で共産党に入党するが党内対立で除名となる。東京大学経済学部卒業。1951年に産業経済新聞社入社。政治部記者となるはずだったが、前歴を考慮され、調査研究室に配属となり特集ページの編集を担当。またその傍ら、社命で軍事評論家の天川勇のもとに赴き、「天川機関」の収集した国際情報の翻訳作業にもあたる。
塩路 一郎(しおじ いちろう、1927年〈昭和2年〉1月1日… 塩路 一郎(しおじ いちろう、1927年〈昭和2年〉1月1日 - 2013年〈平成25年〉2月1日)は、日本の労働運動家。東京出身で明治大学法学部夜間部卒。1953年(昭和28年)の日産争議における活動で日産自動車社内で権力を得て、日産自動車労働組合書記長として、1986年(昭和61年)の失脚まで経営陣よりも日産の経営や人事を牛耳る絶対的権力者・独裁者であった 。自動車労連(日本自動車産業労働組合連合会)会長(1962年〈昭和37年〉就任)、ILO(国際労働機関)理事(1969年〈昭和44年〉就任)、自動車総連会長(1972年〈昭和47年〉の結成時に就任)も務めた。 東京市神田(現・東京都千代田区北東部)生まれ。
大和田 幸治(おおわだ こうじ、1927年 - 2012年3… 大和田 幸治(おおわだ こうじ、1927年 - 2012年3月17日)は、昭和から平成時代の労働運動家。全国金属機械労働組合港合同事務局長、同田中機械支部執行委員長。 大阪市天王寺区生まれ。実家は小さな鉄工所。1944年大阪市立都島工業学校在学中に桜島の住友プロペラに動員される。父親は戦死、母親は乳児を連れて疎開。1946年2月三菱化工機(1949年から田中機械)に仕上げ・組み立て工として入社。労働組合に加盟し、職場代議員、執行委員、副組合長、青年婦人対策部などを歴任。1964年3月に組合が同盟金属を脱退、全金に加盟し、全金田中機械支部委員長に就任。臨時工60人の正社員化、男女賃金差別撤廃などを実現。
松永 照正(まつなが てるまさ、1927年 - 2008年1… 松永 照正(まつなが てるまさ、1927年 - 2008年1月27日)は、日本の平和運動家。国際文化会館(現・長崎原爆資料館)館長など数々の経歴を持つ。 長崎県立佐世保中学校、長崎経済専門学校(現・長崎大学経済学部)、九州大学経済学部(現役)卒業。英国海軍通訳から長崎県庁職員に就き、長崎県立工業高校、東高校教員を経て、長崎市教育委員会指導部次長に抜擢された。 第一回世界平和連帯都市市長会議・初代事務局長(現・平和市長会議、127か国・2028都市加盟、ノーベル平和賞推薦)、財団法人・長崎平和推進協会初代事務局長(会員数約860人)、国際文化会館(長崎原爆資料館)館長、平和会館館長、長崎市平和宣言文起草委員、長崎高校生平和大使(ノーベル平和賞候補)創設、長崎市民平和大集会代表委員、長崎市教育委員会指導部次長、学校法人宝珠幼稚園理事、活水学院嘱託などを務めた。
胡暁子(おう あきこ、1927年(昭和2年) - 2011年… 胡暁子(おう あきこ、1927年(昭和2年) - 2011年(平成23年) 10月31日)は、実業家・慈善活動家。タイガーバームを率いる胡一虎の配偶者。シンガポール赤十字副総裁などを歴任。 東京都千代田区に生まれる。生家は長瀬商店(花王)一族。番町小学校、文化学院卒。 昭和22年に日本で中国人男性と結婚するが、3人の子をもうけた後離婚。その後、昭和33年にアジア最大の財閥タイガーバーム3代目総裁、胡一虎に嫁ぐ。結婚式は香港・シンガポール・東京の三か所で行われた。 結婚後はシンガポールに移住し、主婦業の傍ら星虎公司社長や役員などを歴任。銀行、新聞社、建築、レジャー施設や旅行会社、スーパーマーケットから高級ブティック等におよぶ数十の会社をシンガポールを拠点に経営する。
加藤 万吉(加藤萬吉、かとう まんきち、1926年12月11… 加藤 万吉(加藤萬吉、かとう まんきち、1926年12月11日 - 2008年9月12日)は、日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(8期)。 神奈川県茅ヶ崎市出身。東京電機学校(現在の東京電機大学)を卒業。 日本労働組合総評議会(総評)常任幹事を務めるなどした後、1967年の第31回衆議院議員総選挙旧神奈川3区に日本社会党公認候補として出馬し、初当選。以後8回連続当選を果たす。 代議士としては1986年に衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会委員長を務め、社会党では選挙対策委員長を務めた。 1996年の第41回衆議院議員総選挙には出馬せず、政界を引退した。 1997年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章。
西風 勲(にしかぜ いさお、1926年12月2日 - 202… 西風 勲(にしかぜ いさお、1926年12月2日 - 2023年5月16日)は、日本の政治家、社会運動家。元衆議院議員(1期)。関西大学卒業。 父・金之助は鉄工所勤務から1947年の第一回統一地方選挙で大阪市議会議員に当選(日本社会党→右派社会党→日本社会党→民主社会党→日本社会党)、7期務めた。 勲は1926年(大正15年)に大阪府で生まれ、大阪貿易学院を卒業。1950年代から大阪を基盤に社会党青年部で活動し、左派社会党青年部時代は社会主義協会色の強い左社綱領草案に反対し清水私案支持で論陣を張った。1954年(昭和29年)左派社会党本部青年部長に当選し上京、両社合同に二年遅れて青年部が統一すると、本部青年部長に選出される。
達田 龍彦(たつた たつひこ、1926年(大正15年)10月… 達田 龍彦(たつた たつひこ、1926年(大正15年)10月27日 - )は、昭和期の労働運動家、平和運動家、政治家。参議院議員(1期)。 長崎県 長崎市出身。1945年(昭和20年)長崎市立商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を卒業した。 労働運動に加わり、全逓信労働組合(後の日本郵政公社労働組合)長崎県本部執行委員長、長崎県労働組合会議会長、原水爆禁止長崎県民会議会長、日本社会党長崎県本部副委員長などを務めた。 1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙で長崎県地方区から社会党公認で出馬し次点で落選したが、当選者の田浦直蔵が死去したため、同年8月24日に繰り上げ当選し、参議院議員に1期在任した。
千葉 利雄(ちば としお、1926年10月4日 - 2009… 千葉 利雄(ちば としお、1926年10月4日 - 2009年2月5日)は、昭和から平成時代の労働運動家。日本鉄鋼産業労働組合連合会(鉄鋼労連)副委員長。宮田義二鉄鋼労連委員長の政策ブレーン。 東京生まれ。1945年武蔵高等学校卒業、東京帝国大学経済学部に入学。文学青年であったが在学中に左傾化し、全日本石炭産業労働組合(全石炭)の工作員として石炭復興会議の事務局に勤務。1949年東京大学経済学部卒業。4月に共産党の指示もあって人事院事務官となるが、レッド・パージにあい退官。10月に共産党の指示で日本労働組合総同盟(総同盟)書記局調査部に入るが、総主事の高野実に傾倒して次第に共産党と距離をとった。