掛川 源一郎(かけがわ げんいちろう、1913年〈大正2年〉… 掛川 源一郎(かけがわ げんいちろう、1913年〈大正2年〉11月17日 - 2007年〈平成19年〉12月26日)は、日本の写真家。北海道室蘭町(現・室蘭市)生まれ。 中学在学中にカメラを始める。室蘭中学校(現北海道室蘭栄高等学校)、千葉高等園芸学校(現千葉大学園芸学部)卒業。誠文堂新光社『実際園芸』編集所に勤務。編集記者兼カメラマンとして活躍。 1950年代に土門拳が提唱したリアリズム写真(絶対非演出の絶対スナップ)の影響を受ける。戦後は伊達高校に教員として勤務するかたわら、北海道における社会派カメラマンとして、貧しい漁村や開拓農家の暮らし、アイヌ民族、伊達発電所建設反対運動、ポリオ(小児マヒ)の子どもたち、有珠山噴火などを長期にわたって撮影。
植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 20… 植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 2000年7月4日)は、日本の写真家。 出生地である鳥取県境港市を拠点に70年近く活動。前衛的な演出写真は「植田調」として知られ、写真誕生の地であるフランスでも日本語表記そのままに「Ueda-cho」として紹介されている。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)に生まれる。生家は履物店(商号は「下駄屋」)である。 小学生の頃に写真をはじめ、米子写友会、日本光画協会、中国写真家集団、銀龍社などに参加。写真雑誌のコンテストでも、多数の入選を得るなど、戦前、戦中、戦後にかけて活躍。特に1980年代以降、多数の展覧会開催や写真集出版を行った。数ある作品の中でも、鳥取砂丘を舞台にした「砂丘シリーズ」はよく知られている。
松島 進(まつしますすむ、1913年1月5日 - 2009年… 松島 進(まつしますすむ、1913年1月5日 - 2009年)は 女性、ファッション写真、およびヌード肖像画で有名であった日本人写真家。 東京の牛込生まれ。1930年、東京高等工芸学校(後の千葉大学工学部画像工学科、現総合工学科デザインコース情報コミュニケーション教育研究領域)に入学し、写真を学ぶ。そこでは、大束元がフェロー学生であった。1933年に卒業後、時事新報社に入社したが、間もなく退社して日活に移り、多摩川撮影所でスチルカメラマンを務める。女性写真の第一人者として活躍した。写真家として雑誌「写真タイムズ」や写真雑誌などに投稿していた。 1948年、「写真家集団」を松木不二夫、尾崎三吉らと創立し、精力的に活動を続けた。
中村 立行(なかむら りっこう、1912年7月31日 - 1… 中村 立行(なかむら りっこう、1912年7月31日 - 1995年3月30日)は日本の写真家である。本名は中村立行(なかむらたつゆき)。 神戸市出身。東京美術学校(現東京芸術大学)卒業後小学校の図画の先生をしていて、「毎晩1升近く飲んでいた酒を減らせれば」と夜できる道楽を探していて、飲み屋で誰かが借金の支払いとして置いて行った六櫻社(コニカを経て現コニカミノルタ)製のパーレットオプターF6.3付きを安価に入手したのが写真を始めたきっかけになった。ただ押し入れで現像をするようになっても押し入れにコップを持ち込み酒量は減らなかったという。 パーレットはヴェスト・ポケット・コダックのコピー品で撮影範囲を見当で決めなければならず構図を考えるのが難しかったため、厳密に構図を決められる二眼レフカメラのローライが欲しくなったが、月給が60円の時代に数百円したため高価で到底購入できず、1943年末にミノルタ(現コニカミノルタ)製のミノルタフレックスI型プロマーF3.5付きを購入した。
藤本 四八(ふじもと しはち、1911年(明治44年)7月2… 藤本 四八(ふじもと しはち、1911年(明治44年)7月25日 - 2006年8月19日)は、日本の写真家。古美術を撮影した写真作品で知られる。兄は美術雑誌・美術本編集者の藤本韶三。
瑛九(えいきゅう、1911年4月28日 - 1960年3月1… 瑛九(えいきゅう、1911年4月28日 - 1960年3月10日)は、日本の画家、版画家、写真家。前衛的な作品、抽象的な作品(抽象絵画)が多い。本名、杉田 秀夫。QEiとも自署した。浦和画家として有名。 宮崎県宮崎市に生まれる。瑛九の生家は宮崎市内で眼科医院を営んでいるが、極度の近視のため家業を継ぐことはできなかった。1925年、宮崎中学校(現宮崎県立宮崎大宮高等学校)を中退して上京。日本美術学校卒業。 1934年に生涯の友人となる画家の山田光春(当時は教員)と出会う。1935年に中央美術展に初入選した。山田らと芸術家クラブふるさと社を結成した。この頃より美術評論家の外山卯三郎や、画家の長谷川三郎と親交を深める。
杉山 吉良(すぎやま きら、本名すぎやま よしろう(漢字同じ… 杉山 吉良(すぎやま きら、本名すぎやま よしろう(漢字同じ)、1910年10月17日-1988年12月12日)は、日本の写真家。報道写真およびヌード写真に長ける。 1923年、早稲田中学在学中に関東大震災にあい、その後中学を中退。 映画のカメラマンとして出発し、1934年に写真家に転身。 1934年に創刊された雑誌『NIPPON (グラフ誌)』にも作品が掲載された(日本工房に所属していたわけではない)。 1938年7月に、土門拳、藤本四八、濱谷浩、田村茂、林忠彦、光墨弘、加藤恭平 (写真家)、梅本忠男らとともに青年報道写真研究会を設立し、活躍した。例えば、1939年4月30日から10月31日まで開催されたニューヨーク万国博覧会(前期)の国際館カヴァードスペース日本部に展示された写真壁画4つのうちの1つ「躍進日本」には、同会の土門拳、若松不二夫、山川益男、溝口宗博とともに杉山吉良の写真作品も使用された。
土門 拳(どもん けん、1909年〈明治42年〉10月25日… 土門 拳(どもん けん、1909年〈明治42年〉10月25日 - 1990年〈平成2年〉9月15日)は昭和時代に活躍した日本の写真家。 リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界屈指の名文家としても知られた。 土門は、1950年代の前半頃から「社会的リアリズム」を標榜(後年本人が告白したところでは、実質的には社会主義リアリズムであったという)、「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、日本の写真界に一時期を画した。当時、リアリズム系の写真家としては、木村伊兵衛と双璧をなした。
熊谷元一(くまがい もといち、1909年7月12日 - 20… 熊谷元一(くまがい もといち、1909年7月12日 - 2010年11月6日)は、日本の写真家、童画家。
高田 静雄(たかだ しずお、1909年(明治42年)3月5日… 高田 静雄(たかだ しずお、1909年(明治42年)3月5日 - 1963年(昭和38年)12月10日)は、日本の砲丸投選手、写真家。 広島県広島市出身。旧制広陵中学校中退。日本陸上競技選手権大会では、1927年から1935年までの間に砲丸投げで6回優勝。1934年(昭和9年)に大連で開催された日米対抗陸上競技大会において14m13の日本記録を樹立した。この記録は1953年まで保持された。通称「砲丸王」と呼ばれた。 1936年ベルリンオリンピックに砲丸投げで出場したが予選で失格。 1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下の際、爆心地から約680メートルの中国配電(現中国電力)本店で被爆。
加藤 恭平(かとう きょうへい、1909年 - 1983年)… 加藤 恭平(かとう きょうへい、1909年 - 1983年)とは、日本の報道写真系統の写真家。栃木県に生まれる。慶應義塾大学卒業。 なお、回顧展などの加藤恭平を紹介する企画は開催されていない。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
柴田 隆二(しばた りゅうじ、1909年(明治42年) - … 柴田 隆二(しばた りゅうじ、1909年(明治42年) - 1984年(昭和59年))は、静岡県掛川市出身の写真家。国画会会員。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
渡辺 勉(わたなべ つとむ、1908年5月9日 - 1978… 渡辺 勉(わたなべ つとむ、1908年5月9日 - 1978年1月17日)は、日本の写真評論家、写真家。 岐阜県出身。中津商業を卒業。 写真評論、アマチュア写真家の啓蒙、雑誌編集などで、戦前から戦後にかけて活躍。著書多数。評論書のみならず技法書も執筆。 戦前には報道写真家としても作品を発表した。東方社にも参加した。 戦後の活動としては、「世界画報」(1946年創刊)の編集長となったり、木村伊兵衛賞の最初期の選考委員も務めた(具体的には、第2回、第3回および第4回、木村伊兵衛写真賞の受賞者リスト年表)。 晩年は写真誌『アサヒカメラ』で写真批評を行ったほか、社団法人日本写真協会の理事も務めた。 1978年1月17日、胃がんにより東京都新宿区の東京厚生年金病院にて死去。
影山 光洋(かげやま こうよう、本名:影山 正雄、1907年… 影山 光洋(かげやま こうよう、本名:影山 正雄、1907年5月23日 - 1981年3月1日)は、日本の報道写真家である。 静岡県浜松市に生まれ、若い頃から写真撮影に親しむ。浜松商業卒業後、画光舎に勤める。その後、東京高等工芸学校(現・千葉大学)に進み(一期生)、卒業後朝日新聞社写真部に勤める。報道写真を中心に、戦前から戦後にかけて、日本の世相を写し続けた。作品の対象となった事件性のある出来事としては、例えば、二・二六事件、南京陥落、山下・パーシバル会談などを挙げることができる。写真の記録性を著しく重視し、その点を徹底したことから「記録の鬼」と呼ばれ、戦後はフリーカメラマンとして活動した。
渡辺 義雄(わたなべ よしお、1907年4月21日 - 20… 渡辺 義雄(わたなべ よしお、1907年4月21日 - 2000年7月21日)は、日本の写真家である。 戦前はライカなどの小型写真機を駆使したスナップ写真で著名となった。フリーランスとなってからは、対外宣伝グラフ誌『NIPPON』に参加。また国際文化振興財団や木村伊兵衛らの中央工房に関係した国際報道写真協会で活躍。報道写真家の草分けとなる。戦後には大型カメラを使用する建築写真界の第一人者、そして優れた写真教育者となった。写真家としては日本で最初の文化功労者。三条市名誉市民。 新潟県南蒲原郡三条町(現在の三条市)に呉服商の家に生まれる。1925年小西写真専門学校(のちの東京写真専門学校)に入学。在学中より『写真月報』に作品を発表。
小関 庄太郎(こせき しょうたろう、1907年(明治40年)… 小関 庄太郎(こせき しょうたろう、1907年(明治40年)1月25日 - 2003年(平成15年)3月20日)は、戦前日本を代表するピクトリアリスム・芸術写真の写真家。 福島県福島市生まれ。1924年より写真を撮り始め、亡くなった2003年まで80年近い写歴をもつ、「最後の芸術写真家」の一人。 福島商業学校卒業後、家業(小関屋、古着等を扱う)を手伝いながら、写真同好会・二葉会(1921年 - 1944年頃)に入会し、佐藤信(さとう まこと、1897年 - 1987年)、本田仙花(ほんだ せんか、1897年 - 1951年)の薫陶を受ける。 二葉会のメンバーには他に、菊田蝶秋、伊藤晨水、伊東松葉、伊藤弥十郎、川村重和、吹澤龍一、本間第一郎、三瓶秀三、金澤治男、三浦通庸、木村長雄、氏家健吉、村山俊吾、島崎得三郎、山崎金三郎などがいた。
堀野 正雄(ほりの まさお、1907年1月22日 - 199… 堀野 正雄(ほりの まさお、1907年1月22日 - 1998年12月24日)は、日本の写真家である。新興写真の主要な担い手の一人。 1907年 (明治40年) 1月22日、東京市京橋区木挽町(現・東京都中央区銀座)生まれ。父・寛次郎、母・千代の四男三女の三男として生まれた。父親は仁和印刷株式会社と質店を合わせて経営しており、堀野の回想によれば非常に新しもの好きだったという。父親が、当時としてはかなり高価なカメラを持っていてアマチュア写真家として熱心に撮影しており、その影響を受けた。 1919年 (大正8年) 築地尋常小学校を卒業、同年芝中学校に入学、この頃から写真に興味を持ち始める。 1923年 (大正12年)、東京・赤坂の演技座で上演された高田雅夫舞踊団の新帰朝第1回舞踊公演を、舞台上の照明のみで、上演の様子をそのまま撮影することに成功、それを高田に見せたところ写真のできを賞賛された縁で、同舞踊団の撮影を続けることになった。
石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) -… 石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) - 昭和61年(1986年))は、日本の写真家。ファッションデザイナー・石津謙介の兄。 岡山県岡山市片瀬町(現・岡山市北区天瀬)の老舗紙問屋「紙石津」の長男として生まれる。慶應義塾大学経済学部に入学。在学中に家業を継がないことを宣言し、これにより弟の謙介が家業を継ぐ羽目になった。昭和7年(1932年)大学を中退。帰郷し写真家を志す。 一時期、松竹キネマに入社。昭和9年(1934年)岡山在住の写真家・大森一夫、山崎治雄らと県下で初の写真家集団「光ト影の会」を結成(のちの岡山県知事・長野士郎が旧制第六高等学校時代、石津に憧れ同会に入会している)。
本庄 光郎(ほんじょう こうろう、1907年 - 1995年… 本庄 光郎(ほんじょう こうろう、1907年 - 1995年6月7日)は、大阪府出身の写真家。シュルレアリスムなど前衛芸術に強く影響され、あらゆる技法を駆使したヌード作品を多く制作したことで知られる。大阪大倉商業学校(現・関西大倉高等学校)出身。
中森 三彌(なかもり さんや、1907年(明治40年)- 2… 中森 三彌(なかもり さんや、1907年(明治40年)- 2002年(平成14年)7月16日)は、日本の写真家である。 大阪新橋の染物屋に生まれる。関西大学専門部中退。大阪光芸倶楽部、銀影探光倶楽部を経て、1940年(昭和15年)、浪華写真倶楽部に入会。小石清、本庄光郎、花和銀吾らから指導を受ける。長く同倶楽部の幹事長や代表を務めた。中藤敦らと堺公共職業補導所写真科にて指導、なんばデザイナー学院写真科教授。サンフォトクラブを主宰する傍ら、他写真クラブを指導しアマチュア写真家の育成に携わった。他にくらぶ草土会、オール関西写真集団に属した。日赤大阪府支部写真奉仕団団長、大阪写真材料商業組合理事、全日本写真連盟関西本部顧問を務め、日本写真協会功労賞、全日本写真連盟関西本部表彰、日本赤十字社厚生大臣特別表彰など各方面から受賞。
佐伯 敏子(さえき としこ、1906年〈明治39年〉3月12… 佐伯 敏子(さえき としこ、1906年〈明治39年〉3月12日 - 1984年(昭和59年)10月11日)は、日本の写真家、歌人。熊本県熊本市出身、私立女子英学塾(後の津田塾大学)卒業。旧姓は梅村。 1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)まで桜蔭高等女学校(後の桜蔭学園)の教員を務めた後、1947年(昭和22年)、英語教室「津田英語会」創立共に、同会の講師となった。私生活では1928年(昭和3年)に結婚し、二男二女をもうけた。1942年(昭和17年)に東京都世田谷区に移住した。 1950年代頃より、世田谷の自宅を訪れる野鳥を寄せ親しみ、主婦としての家事の合間を縫って観察を続けた。1955年(昭和30年)に日本野鳥の会に入会した。
田淵 行男(たぶち ゆきお、1905年6月4日 - 1989… 田淵 行男(たぶち ゆきお、1905年6月4日 - 1989年5月30日)は、山岳写真家。高山蝶研究家。 「すべての昆虫少年にとってのヒーロー」。 鳥取県日野郡黒坂村(現日野町)に父吉弥、母阿又の次男(第四子)として誕生。 1909年 9月2日、母阿又、死去。1911年 3月、父吉弥、溝口町分署長になる。4月、行男、日野郡溝口尋常小学校入学。5月31日、父吉弥、足立よしと再婚。 1918年 3月、岩美郡岩美尋常小学校卒業。4月、境高等小学校入学。5月21日、父吉弥死去。その後、継母よしが実家に帰り、6月、台湾の台北市に住む実母の親戚一家に預けられる。 1919年 継母よし死去。叔母スイらと共に台湾から帰国し、東京滝野川に居住。
彭瑞麟(ほう ずいりん、Peng Ruey-lin,1904… 彭瑞麟(ほう ずいりん、Peng Ruey-lin,1904年11月4日 − 1984年2月3日)は、台湾の写真家。日本統治下で活動し台湾における写真家の先駆的な存在であったが、中国復帰と国民党による統治下で写真家としての活動を終え長く幻の写真家と言われていた。 新竹県出身。台北師範学校で石川欽一郎の下で水彩画を学び、1928年に東京写真専門学校(現東京工芸大学)に進学。写専在学中に東京写真研究会のコンクールに入選し、皇族の写真撮影にも携わった。 1931年に首席で卒業すると台北市太平町(現大同区延平北路)にアポロ写真館を開業。写真技師として生計を立てながら後進の指導にもあたる。1938年には大阪毎日新聞主催の日本写真美術展で「太魯閣の娘」が入選、また写真印刷でも業績を残した。
石川 光陽(いしかわ こうよう、本名:石川 武雄。1904年… 石川 光陽(いしかわ こうよう、本名:石川 武雄。1904年(明治37年)7月5日 - 1989年(平成元年)12月26日)は、日本の警察官・写真家。福井県福井市出身。 警視総監直々の命令を受けて東京大空襲の惨状などを撮影したことで知られる。 1904年(明治37年)7月5日、福井県で石川竹次郎、とく夫妻の息子として生まれる。幼少期は、国鉄職員であった父親の仕事の関係上、福井、沼津、松本と転居している。 1919年(大正8年)、松本駅長を最後に退職した父親が写真館を開きたいといったため、東京薬学校(現・東京薬科大学)を中退し東京九段下の蜂谷写真館において修行を積む。2年間の修行後、松本で父親とともに写真館を開く。
永田一脩(ながた いっしゅう、1903年11月11日 - 1… 永田一脩(ながた いっしゅう、1903年11月11日 - 1988年4月9日)は、日本戦前期の、前衛美術系およびプロレタリア美術系の画家、写真家、グラフィックデザイナー。演劇にも携わる。本名永田一脩(ながた かずなが)。 福岡県門司市生まれ。1927年東京美術学校洋画科卒。労働美術家連盟、前衛芸術家同盟、ナップに参加。1929年国際文化研究所に入り、『国際文化』を編集。1930年ナップの一斉検挙にあい、保釈後フリーで活動する。1941年東京日日新聞社入社、毎日新聞となり1958年まで勤務。 写真に関しては、1930年代に、写真評論などを『フォトタイムス』誌に執筆し、実作品も制作した。写真作品としては、フォトモンタージュを利用したシュルレアリスム的な作品が多い。
下村 兼史(しもむら けんじ、1903年2月10日 − 19… 下村 兼史(しもむら けんじ、1903年2月10日 − 1967年4月27日)は、日本の鳥類生態写真家、記録映画監督。 映画作品『或日の干潟』(理研科学映画、1940年)が文部大臣賞、皇紀2600年奉祝芸能祭文化映画コンクール首席、『ちどり』(東宝教育映画部、1947年9月公開)が映画世界賞受賞、文部省選定、『こんこん鳥物語』(東宝教育映画、1949年)が文部大臣賞、第4回毎日映画コンクール教育文化映画賞受賞。その他の作品でも受賞多数。鳥類を中心に、写真や映像に野生生物をフィルムに収め、日本初の鳥類生態写真集を刊行し、鳥類標本では得られない生態の研究に貢献した。 鳥類を撮影した写真は、財団法人山階鳥類研究所にかなりの数が収蔵されている。
ハナヤ勘兵衛(はなや かんべい、または、はなや かんべえ、1… ハナヤ勘兵衛(はなや かんべい、または、はなや かんべえ、1903年1月12日 - 1991年5月15日)は、日本の写真家。本名は桑田和雄。 1903年に大阪市西区江戸堀で生まれる。大阪府立堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)を卒業後、写真家になるために上海に渡り、その後香港やシンガポールにも渡る。1927年に帰国後、玉子と結婚。1929年に芦屋で写真材料店を開き、「ハナヤ勘兵衛」と名乗るようになった。 1930年に、中山岩太が中心となり結成された「芦屋カメラクラブ」に紅谷吉之助、高麗清治らとともに参加し、関西での新興写真運動の中心的存在の一人として活躍。その作品には、多重露光やフォトモンタージュを駆使したものが多く、強烈なモダニズムを感じさせ、1932年に創刊された雑誌『光画』にも、その作品が掲載された。
北園 克衛(きたぞの かつえ、1902年(明治35年)10月… 北園 克衛(きたぞの かつえ、1902年(明治35年)10月29日 - 1978年(昭和53年)6月6日)は、三重県出身の詩人、写真家、デザイナー。中央大学経済学部卒。本名は橋本健吉(はしもと けんきち)。実兄は彫刻家の橋本平八。代表的な詩集に『白のアルバム』『黒い火』などがある。「Kitasono」と署名していたことから<きたその>と表記されることが多いが<ぞの>が正しい(ローマ字ではなくフランス語の署名)。周辺からは「ゾノさん」と呼ばれていた。エズラ・パウンドは北園との往復書簡の中で「キットカット」(Kit Kat)と呼んだ。 1902年、現在の三重県伊勢市朝熊町に生まれる。上京し中央大学経済学部を卒業。
坂田 稔(さかた みのる、1902年 - 1974年)は、日… 坂田 稔(さかた みのる、1902年 - 1974年)は、日本の写真家。元石巻専修大学学長。坂田隆の父。
木村 伊兵衛(きむら いへい、1901年12月12日 - 1… 木村 伊兵衛(きむら いへい、1901年12月12日 - 1974年5月31日)は、20世紀に活動した日本の写真家。戦前・戦後を通じて活動した日本を代表する著名な写真家の一人。 報道・宣伝写真やストリートスナップ、ポートレート、舞台写真などさまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残している。特に同時代を生きた写真家、土門拳とはリアリズム写真において双璧をなす。 ことさらにテーマを強調するのではない、演出のない自然な写真を撮ることで知られ、こよなく愛したライカを使ったスナップショットにおいては、生まれ育った東京の下町や銀座周辺とそこに生きる人々の日常を、自然な形で切り取っている。こうした作風により、木村はフランスの世界的なスナップ写真の名手・アンリ・カルティエ=ブレッソンになぞらえられ"和製ブレッソン"と言われた。
島田 謹介(しまだ きんすけ、1900年6月28日 - 19… 島田 謹介(しまだ きんすけ、1900年6月28日 - 1994年6月30日)は、日本の写真家。 長野県埴科郡松代町(後の長野市松代)に、医師の息子として生まれ、旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)を卒業する。中学校時代は画家志望であったが、結核にかかり療養を余儀なくされる中で、病床で目にしたシベリア出兵の報道写真をきっかけに、報道カメラマンを志すようになり、1920年に中学校を卒業して上京した。 1920年、朝日新聞東京本社に入社して社会部写真係に所属する報道カメラマンとなり、1923年に『アサヒグラフ』が創刊されるとその写真班員となった。以降、関東大震災(1923年)、五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)などの取材にあたった。
高橋 渡(たかはし わたる、1900年〈明治33年〉5月11… 高橋 渡(たかはし わたる、1900年〈明治33年〉5月11日 - 1944年〈昭和19年〉7月8日)は、日本戦前期の写真家。弁護士でもあった。 1900年 (明治33年) 5月11日、福岡県生まれ。1924年に慶応義塾大学経済学部理財科を卒業したが、その後九州帝国大学に入学、同大学法文学部法律科を1932年 (昭和7年) に卒業した。 1935年 (昭和10年) 頃に「福岡写友会」に入り、本格的に写真撮影を始めた。いくつかの写真クラブを経て[要出典]、1939年 (昭和14年) に「ソシエテ・イルフ」を結成、中心メンバーとして活躍した。「イルフ(IRF)」は「フルイ(古い)」の逆並びで、「新しい」を意図していた。
鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年3月3日 - 198… 鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年3月3日 - 1985年9月14日)は、日本の写真家。写真雑誌編集者、カメラ文化史研究者。 北海道余市町に生まれた。早稲田工手学校(現早稲田大学芸術学校)建築科を中退する。東京芝にあった丸木利陽門下の前島英男の写真館に入門して、前島の義弟の金丸重嶺と同門になった。また『写真の趣味』『写真月報』を編集していた高桑勝男の紹介で、小野隆太郎に住込みで弟子入りし、ゴム印画法を習得した。その後大正から昭和にかけて、アルスより技法書を多数執筆した。戦前の『カメラクラブ』や戦後復刊の『写真サロン』編集長を務めた。ペンタックスギャラリー館長。古典カメラやカメラの歴史に関する記事を多く執筆した。
坂本万七(さかもと まんしち、1900年1月13日 - 19… 坂本万七(さかもと まんしち、1900年1月13日 - 1974年4月19日)は、日本の写真家。特に民藝品や仏像の撮影に才能を発揮した。その遺作「沖縄・昭和10年代」は戦前の沖縄各地で撮影した貴重な写真が掲載されており、テレビ放送等で資料として使用されている。 戦前では、築地小劇場の舞台写真が有名。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
手塚 粲(てづか ゆたか、1900年(明治33年) - 19… 手塚 粲(てづか ゆたか、1900年(明治33年) - 1986年(昭和61年)5月14日)は、日本の会社員、アマチュア写真家。丹平写真倶楽部のメンバー。手塚治虫の父としても知られる。 司法官・手塚太郎の子として東京に生まれる。 1921年(大正10年)、中央大学法学部を卒業後、大阪の住友倉庫に入社する。後に、住友伸銅鋼管(1935年〔昭和10年〕、住友金属工業となる)に異動となる。同社にて勤務する一方、当初は東京写真研究会関西支部に所属、その後、丹平写真倶楽部へと参加した。前衛的な写真家であったとされ、丹平写真倶楽部においては、その実験的作風によって台頭し、丹平十傑の一人とされた。 「写真家四十八宜(しゃしんをうつすひとよんじうはちよろし)」は、48ヶ条にわたって写真家の心得をまとめたもので、丹平写真倶楽部の会員であった安井仲治によって光芒亭主人の名で発表されたが、これは同じく同倶楽部の会員であった手塚とともに考え出したものとされる。
塩谷 定好(しおたに ていこう、本名:しおたに さだよし、1… 塩谷 定好(しおたに ていこう、本名:しおたに さだよし、1899年10月22日 - 1988年10月28日)は、日本の写真家。 鳥取県東伯郡赤崎村(現・琴浦町)に生まれる。生家は廻船問屋である。 明治初期の商家である生家は塩谷家により寄贈され、「NPO法人塩谷定好フォトプロジェクト」により、作品展示を行う記念館として整備され、塩谷定好写真記念館として2014年4月26日に開館した。
山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年2月19日 - 19… 山沢 栄子(やまざわ えいこ、1899年2月19日 - 1995年7月16日)は、大阪市出身の写真家。 女性写真家のパイオニアであり、関西を拠点にポートレートや広告写真の分野で活躍した。1960年以降は抽象的な形態のモティーフを組み合わせた「What I'm doing」のシリーズを制作した。「What I'm doing」のシリーズは大阪市中之島美術館に収蔵されている。 14歳から写真を始め、1918年女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科選科卒業。1926年カリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アーツ(後のサンフランシスコ芸術大学(英語版))に留学し油絵を学ぶ。その間、写真家コンソエロ・カネガの助手として、本格的に写真を学ぶ。
堺 時雄(さかい ときお、旧姓:金井〈かない〉、1898年〈… 堺 時雄(さかい ときお、旧姓:金井〈かない〉、1898年〈明治31年〉8月16日 - 1991年〈平成3年〉)は、日本の写真家。 新潟県新潟市南浜通2番町(現 新潟市中央区中大畑町)の金井写真館を経営する写真師・金井弥一の三男として出生。 1919年(大正8年)3月に新潟中学校を卒業、1922年(大正11年)3月に東京美術学校臨時写真科を卒業、帰郷して父の金井写真館を手伝う。 1922年(大正11年)12月に一年志願兵として岐阜県の各務原陸軍飛行場の飛行第2大隊偵察隊に入隊、1923年(大正12年)11月に陸軍航空兵軍曹に任官、12月に予備役に編入、1924年(大正13年)5月に飛行第2大隊に入隊、9月に召集解除、陸軍航空兵曹長に任官。
山脇 巌(やまわき いわお、1898年4月29日 - 198… 山脇 巌(やまわき いわお、1898年4月29日 - 1987年3月8日)は、戦前から戦後にかけて活躍した建築家、写真家。日本大学の名誉教授。バウハウスを日本へ紹介し、造形理論を教育に導入。日本のデザイン教育の方向に重要な役割を果たした。 1898年4月29日、藤田家の三男として長崎県対馬で生まれる。 1926年、東京美術学校 図案科第二部(建築科)卒業後、横河工務所に入所。横河工務所に入った頃から写真撮影を始める。また、舞台美術にも関心をもち、新興美術グループ「単位三科」にも同人として参加。 裏千家の茶人・山脇善五郎の娘で当時、東京女高師附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)生の山脇道子(1910-2000)とお見合い結婚し、山脇家の養子となる。
許斐 儀一郎(このみ ぎいちろう、1896年11月16日 -… 許斐 儀一郎(このみ ぎいちろう、1896年11月16日 - 1951年)は、日本戦前期の前衛写真家。 福岡市船町(現・中央区舞鶴)に生まれる。1915年福岡県立中学修猷館を経て、慶應義塾大学に学ぶが、結核療養のため中退し帰郷。療養中は古美術や絵画に親しむが、やがて写真にも興味を持つようになった。 快復後、実家の酒造業・許斐醸造所(のちの花関酒造)を手伝いながら撮影に没頭し、1934年頃に筑紫カメラクラブに入会。1939年には、高橋渡、久野久らと、前衛美術グループ「ソシエテ・イルフ」を結成し、写真雑誌などに作品を発表した。 身近のものを題材にとりながら、被写体の造形的な美を表現するのに優れ、戦前における前衛写真の代表的な作家として知られる。
岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 19… 岡田 紅陽(おかだ こうよう、1895年8月31日 - 1972年11月22日)は、日本の写真家。本名は賢治郎。 主に山岳写真、風景写真を撮影した。全国の国立公園の撮影にもあたり、海外にも知られた。富士山の撮影をライフワークとし、その作品は切手や紙幣にも採用されている。 新潟県中魚沼郡中条村(現在の十日町市)に、衆議院議員岡田龍松の三男として生まれる。兄に岡田正平(新潟県会議員・新潟県知事)がいる。曾祖父の喜兵衛(岡田香雪)、祖父の栄蔵(岡田雪洞)、父の龍松(耕雲)も書画に名を残している。 1914年、早稲田大学予科に入学。友人からカメラを借りて富士山を撮影したのが、ライフワークとなる富士山との付き合いはじめという。
小川 晴暘(おがわ せいよう、1894年3月7日 - 196… 小川 晴暘(おがわ せいよう、1894年3月7日 - 1960年3月18日)は日本の写真家。奈良を中心に各地の仏像を撮り、1922年(大正11年)、美術史家で書家・歌人としても名高い會津八一の勧めを受けて飛鳥園を創業。文化財写真の草分けとして知られる。美術史家小川光暘は次男、写真家小川光三は三男。 平成29年、晴暘が生前、朝鮮半島で撮影した写真の原版が飛鳥園で発見された。
長谷川 伝次郎(はせがわ でんじろう、1894年3月3日 -… 長谷川 伝次郎(はせがわ でんじろう、1894年3月3日 - 1976年1月15日)は、日本の写真家。日本人として初めてヒマラヤを撮影した。名は傳次郎とも書く。
花和 銀吾(はなわ ぎんご、1894年 - 1957年3月1… 花和 銀吾(はなわ ぎんご、1894年 - 1957年3月16日)は、日本の写真家である。東京生まれ。 1917年、東京帝国大学法学部卒業。大阪住友倉庫に入社。1928年、小石清らが所属した浪華写真倶楽部に入会し、会社員と写真家を兼業したほか、語学に長けていたことから海外の写真関連文献の翻訳紹介も行った。芦屋カメラクラブにも所属。 1938年(1937年とする資料もある)には、樽井芳雄(たるい・よしお、Yoshio TARUI、1902年-1977年)、本庄光郎(ほんじょう・こうろう、Kōrō HONJŌ、1907年-1995年)、平井輝七、服部義文(はっとり・よしふみ、Yoshifumi HATTORI、生没年不詳)、村田米太郎(むらた・よねたろう、 Yonetaro MURATA、1907年-1943年?)、小林基和らとともに「アヴァンギャルド造影集団」を創設。
鶴殿 家勝(つるどの いえかつ、 1891年〈明治24年〉1… 鶴殿 家勝(つるどの いえかつ、 1891年〈明治24年〉11月12日 - 1956年〈昭和31年〉6月26日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、写真家、華族。貴族院男爵議員。霞汀(かてい)と号した。位階は従三位。 男爵・鶴殿忠善の息子として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)4月5日に男爵を襲爵した。 学習院を経て、1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。梅田製鋼取締役、大阪無線監査役、日本造船監査役、鐘渕実業嘱託などを務めた。 1943年(昭和18年)5月6日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7… 恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7月2日 - 1955年(昭和30年)6月3日)は、東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家・写真家・詩人。長女は児童文学翻訳家の恩地三保子。 創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は高く評価されている。 木版画、装幀、写真など様々な分野で活躍した。版画においては、抽象絵画の創始者であるワシリー・カンディンスキーらの影響を受け、日本における最初期の抽象版画作品を制作している。大正期には具象・非具象問わず数々の版画の名作を生みだしたが、第二次世界大戦後はもっぱら抽象版画に傾倒し、葉や紐、木片などを用いる手法(マルチブロック)も編み出した。
小林 鳴村(こばやし めいそん、本名・彦次。1889年-?)… 小林 鳴村(こばやし めいそん、本名・彦次。1889年-?)は、日本戦前期に活躍した写真家。 芸術写真(ピクトリアリスム作品、ブロムオイル作品)からはじまり、花和銀吾などの影響を受け、前衛写真(主として、シュルレアリスム的表現)にいたる(特に1930年以降)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、カメラに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:写真/PJ:カメラ)。
福森 白洋(ふくもり はくよう、本名:憲一、1887年10月… 福森 白洋(ふくもり はくよう、本名:憲一、1887年10月20日 - 1942年3月3日)は、日本の写真家。芸術写真系統を代表する人物のひとり。 高知県香美郡赤岡町に生まれる。高知商業学校卒業(1904年)。 英語を生かして、大阪商船、米井商店、中島商会などで、それぞれ貿易に携わった。 1910年代後半に写真を始め、1921年に、浪華写真倶楽部に入会。1922年には、米谷紅浪らとともに、天弓会を結成。浪華写真倶楽部にとって、昭和戦前期における代表的な会員であり、小林鳴村など後進を多く育てた。 作品としては、ブロムオイル印画法による芸術写真が主ではあり(中でも特に風景写真)、ブロムオイル印画の名手とも言われた。
山端 祥玉(やまはた しょうぎょく、1887年4月4日 - … 山端 祥玉(やまはた しょうぎょく、1887年4月4日 - 1963年2月24日)は、日本の写真家、実業家。本名は啓之助。 1887年(明治20年)、福井県勝山市に生まれる。小学校を卒業後、1904年(明治37年)より東京・本郷の望月東涯に写真を学ぶ。その後、近衛歩兵第1連隊に入営し、 除隊後出張写真師となり、1910年(明治43年)、蘭領スマトラ島メダン市の朝日写真館技師長に就任する。1914年(大正3年)、英領シンガポールに写真材料商サン商会と写真館を設立する。帰国後、1927年(昭和2年)に東京・築地にG.T.サン商会(1943年(昭和18年)に山端写真科学研究所と改称)を創設し、1933年(昭和8年)に写真印画用の高速輪転機で特許を取得する。
福原 信三(ふくはら しんぞう、1883年(明治16年)7月… 福原 信三(ふくはら しんぞう、1883年(明治16年)7月25日 - 1948年(昭和23年)11月4日)は、日本の実業家、写真家。資生堂の創業者・福原有信の息子であり、株式会社資生堂の初代社長。弟に写真家の福原路草がいる。 東京府京橋区出雲町(現・東京都中央区銀座)で資生堂薬局(当時)の福原家に生まれる。名前の「三」が示す通り福原家の三男であるが、長男の信一は身体が弱く、また二男の信二も幼少期に他界してしまったため、後継ぎとして育てられた。 中学時代は画家を志し、日本画家の石井鼎湖に入門するなどしたが、父の希望に従い薬学の道に進んだ。千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)を卒業後、1908年(明治41年)に米国・コロンビア大学薬学部に留学。