篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1… 篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1986年)は、日本の通信技術者、実業家。 篠原多一郎の三男として福岡市に生まれる。1918年福岡県立中学修猷館を経て、1922年7月東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科を卒業。 卒業後、朝鮮総督府逓信局の技手となる。同局において放送用無線電話(ラジオ放送)の調査研究と知識普及のために、官営の実験用無線電話局を開設することが計画され、篠原にその任務が命ぜられる。1924年1月に東京に赴き、技術修得と共に、通信機器を調達、京城に戻り、通信設備工事と機器調整を行い、同年11月、朝鮮半島最初の放送電波を発射した。1926年11月京城放送局(コールサイン「JODK」)が設立され、篠原はその技術責任者として通信設備を構築し、1927年2月16日、1kw放送設備での本放送が開始された。
兼岩 伝一(かねいわ でんいち、1899年2月5日 - 19… 兼岩 伝一(かねいわ でんいち、1899年2月5日 - 1970年9月15日)は、日本の都市計画家、土木技術者、政治家。1935年に創刊された雑誌「区画整理」の表紙を飾った標語として知られる「土地区画整理は都市計画の母」の造語を生み出した。 1899年、愛知県丹羽郡布袋町(現・江南市)の中小製紙工場の家に生まれる。 岐阜市立岐阜商業、名古屋中学校、第八高等学校を経て、1925年東京帝国大学工学部土木工学科卒。内務省に入り復興局技師となる。その後、愛知県都市計画技師に転出。1936年、三重県に移り、都市計画課長となる。巨大コンビナートを生み出す四日市市などの都市計画を立案。 1942年には東京府道路課長に、1943年には埼玉県土木課長に就任する。
野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月1… 野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月19日 - 昭和53年(1978年))は、日本の土木技術者、都市計画家。内務官僚として都市計画事業に手腕を揮い、戦後には新潟県副知事を務めた。息子は直木賞作家の野坂昭如。孫は作家、エッセイストの野坂麻央、女優の愛耀子(共に元宝塚歌劇団娘役)、株式会社ジャパンダイニングリンク(英語表記:Japan Dining Link Co., ltd.)代表取締役の野坂龍。
三橋 八次郎(みつはし はちじろう、1898年〈明治31年〉… 三橋 八次郎(みつはし はちじろう、1898年〈明治31年〉10月10日 - 1984年〈昭和59年〉12月27日) は、大正から昭和期の農業技術者、政治家。参議院議員(1期)。 青森県北津軽郡飯詰村(現五所川原市)の農家に生まれた。農村生活の向上を目指して、1921年(大正10年)東京農業大学高等科を卒業。さらに、1924年(大正13年)東京帝国大学農学部農学科第1部全科目選科を修了した。 1924年、愛媛県産業技手となり県立農事試験場(現:愛媛県農業試験場)に配属された。以後、農業技師、農事試験場長、県経済部農業改良課長兼農事試験場長、農事講習所長などを務めた。30年間、愛媛県下の農家の指導に従事し、県農業祭を考案し、農作物の品種改良などに尽力した。
成重 光真(光眞、なりしげ みつま、1898年(明治31年)… 成重 光真(光眞、なりしげ みつま、1898年(明治31年)9月23日 - 1980年(昭和55年)10月4日)は、大正から昭和期の鉄道技術者、労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員、小倉市会議長。 大分県西国東郡、のちの真玉村(真玉町を経て現豊後高田市)で、代々庄屋を務めた成重家に生まれる。実家が破産し一家で小倉市に移った。1918年(大正7年)小倉工業学校(現福岡県立小倉工業高等学校)機械科を卒業した。 大連に渡り、大連機械、山東鉄道(膠済線)で勤務し、同鉄道従業員組合長を務め、1923年(大正12年)山東鉄道が中国に還付され帰国した。鉄道省門司鉄道局技手に任官し小倉工場に配属された。現業委員会小倉支部長に3期在任。
浅見 義弘(あさみ よしひろ、1898年(明治31年)6月2… 浅見 義弘(あさみ よしひろ、1898年(明治31年)6月28日 - 1991年(平成3年)5月6日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。 浅見竹三郎の三男として埼玉県深谷市に生まれる。1931年(昭和6年)分家する。旧制熊谷中学、旧制第一高校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、逓信省電気試験所研究員となる。1925年(大正14年)北海道帝国大学教授となり、12余年に渡り欧米各地に駐在し、帰国後の1936年(昭和11年)10月、工学博士となる。同年9月、北海道に行幸した昭和天皇に帯広市にて「高周波電気現象と其の応用」と題する進講を行った。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)9月、同大学応用電気研究所長、のち1960年(昭和35年)同大工学部長を経て、1962年(昭和37年)退官し、成蹊大学主任教授、1969年(昭和44年)同大工学部長となる。
守屋 富次郎(もりや とみじろう、1898年6月10日 - … 守屋 富次郎(もりや とみじろう、1898年6月10日 - 1974年3月2日)は、日本の航空技術者。東京帝国大学、名古屋帝国大学、旅順工科大学教授、防衛庁技術研究所本部長、日本航空学会(現・日本航空宇宙学会)会長などを務めた。東京大学名誉教授。航空機の翼理論の権威。 岐阜県本巣郡真桑村上真桑に生誕。静岡県立静岡中学校に学ぶ。中学時代は野球部に所属。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学に入学。新設された同大工学部航空学科の第1期生。1923年3月、卒業論文「Die Tragflügeltheorie.」(翼理論)を提出して卒業。東京帝国大学の講師、助教授を経て、1934年、教授。1938年、万国応用力学会議に日本代表として参加、ヨーロッパの航空事情の調査・研究を行った。
橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月… 橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月11日 - 1972年(昭和47年)9月12日)は、日本の政治家、技術者。熊本県水俣市長(4期)。日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)水俣工場勤務時代、水銀触媒を用いたアセトアルデヒドと酢酸の合成法を発明。1938年(昭和6年)から1946年(昭和21年)まで水俣工場長を務めた。 現在の北海道札幌市に南部家の四男として生まれる。旧制札幌第一中学校卒業後、1916年(大正5年)、東京市日本橋在住の橋本家の養子となる。1919年(大正8年)、東京高等工業学校電気化学科(現・東京工業大学)卒業。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)に入社。 1931年(昭和6年)、橋本らは、カーバイトからアセチレンを作り,これを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明し、特許原簿に登録した。
加賀 操(かが みさお、1897年(明治30年)7月25日 … 加賀 操(かが みさお、1897年(明治30年)7月25日 - 1986年(昭和61年)2月3日)は、大正末から昭和期の農業技術者、政治家。位階は正五位。参議院議員(1期)。北海道内初の本格的ハッカ工場に係わり「ハッカの神様」と称された。 岡山県出身。1924年(大正13年)北海道帝国大学農学部を卒業し、同年、北海道庁技手に任官し、その後、同技師となる。 その後、北海道信用購買販売組合聯合会(北聯、現・ホクレン農業協同組合連合会)北見薄荷工場長に就任。北聯理事、北海道農業会理事、全農政協会理事、北海道薬農工業会社社長、上川生果物出荷組合長、日本除虫菊協会理事長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で北海道地方区に無所属で出馬して当選し、緑風会に所属し参議院議員に1期在任した。
生越 三郎(おごし さぶろう、1897年(明治30年)4月1… 生越 三郎(おごし さぶろう、1897年(明治30年)4月1日 - 1969年(昭和44年)12月2日)は、大正から昭和期の技術者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 島根県那賀郡、現在の浜田市で生まれる。1919年(大正8年)大阪工業専門学校機械科を卒業。 三菱造船に技師として入社した。1935年(昭和10年)に日本機械車両工業を設立し社長に就任。その他、東京大同商会代表社員、日本電気漂白専務取締役、三星工業取締役社長、日本化機工業取締役などを務めた。 1940年(昭和15年)財団法人石見工業専修学校を設立し理事長に就任。同校は石見工業学校、益田商工高等学校を経て益田工業高等学校(現益田東高等学校)となり各理事長を務めた。
坊城 俊賢(ぼうじょう としよし、1897年(明治30年)2… 坊城 俊賢(ぼうじょう としよし、1897年(明治30年)2月2日 - 1984年(昭和59年)6月5日)は、大正末から昭和期の農林技師、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府で伯爵・坊城俊章の五男として生まれ、はとこの男爵・坊城俊延の養子となる。養父の死去に伴い1910年(明治43年)6月4日、男爵を襲爵。学習院高等科を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学農学部を卒業。1924年(大正13年)以降、東京市技手、埼玉県技手、農林技手、富山県農林技師などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
河野 文彦(こうの ふみひこ、1896年(明治29年)11月… 河野 文彦(こうの ふみひこ、1896年(明治29年)11月22日 - 1982年(昭和57年)8月11日)は、日本の航空技術者、実業家。三菱重工業社長。栃木県大田原市生まれ。次女は岩倉具忠の夫人。 1921年、東京帝国大学工学部機械科を卒業し、三菱内燃機製造に入社する。 三菱内燃機製造では機体設計を担当した。 1937年、陸軍九七式司令部偵察機の主任設計技師を務める(同機の試作機の1機は朝日新聞社に払い下げられ、ロンドンへの飛行を実施した「神風号」として著名になった)。このほか、海軍の九六式艦上戦闘機や零式艦上戦闘機などの軍用機の設計に関与した。 三菱重工第一製作所、川崎機器製作所各所長を経て、1950年に三菱日本重工取締役となる(同年、三菱重工業は財閥解体により3社に分割)。
土光 敏夫(どこう としお、1896年〈明治29年〉9月15… 土光 敏夫(どこう としお、1896年〈明治29年〉9月15日 - 1988年〈昭和63年〉8月4日)は、昭和時代の日本のエンジニア、実業家。位階勲等は従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。岡山県名誉県民、岡山市名誉市民。 石川島重工業・石川島播磨重工業 社長、東芝社長・会長を歴任、日本経済団体連合会第4代会長に就任し、「ミスター合理化」として「土光臨調」と称されている第二次臨時行政調査会でも辣腕を振るった。他方、橘学苑の理事長、校長を創設者の母から引き継いだ。また、質素な暮らしぶりで「メザシの土光さん」としても親しまれた。次男の土光哲夫は東芝タンガロイの元役員。
大西 定彦(おおにし さだひこ、1896年9月13日 - 1… 大西 定彦(おおにし さだひこ、1896年9月13日 - 1969年4月27日)は日本の電気技術者、実業家。日立製作所副社長を務めたほか、電気学会第47代会長、日本オペレーションズ・リサーチ学会第2代会長などを歴任した。 1896年(明治29年)9月13日、当時東京専門学校の教員であった哲学者大西祝の長男として東京府で生まれた。岡山で小中学校に通い、同期に岸信介がいた。1918年(大正7年)第六高等学校二部甲を卒業し、東京帝国大学工科大学電気工学科へ進学した。1921年(大正10年)に同大学を卒業し、日立製作所に入社。 日立製作所副社長を務めた高尾直三郎の海外渡航に随行するなど、経営を学んだ。日立での工場勤務のかたわら、1931年(昭和6年)7月には東北帝国大学工学部講師に任じられた。
井谷 正吉(いたに まさきち / まさよし、1896年(明治… 井谷 正吉(いたに まさきち / まさよし、1896年(明治29年)4月29日 - 1976年(昭和51年)2月10日)は、大正から昭和期の農民運動家、農業技術者、政治家。衆議院議員(4期)。 愛媛県北宇和郡日吉村下鍵山(現鬼北町下鍵山)で、井谷正命の長男として生まれる。1914年(大正3年)郡立宇和農蚕学校(現愛媛県立宇和高等学校)を卒業した。 兵役後の1918年(大正7年)に家出して大阪、奈良、三重などを巡り、帰郷して北宇和郡役所土木科に勤務した。1919年(大正8年)から1922年(大正11年)まで三重県度会郡七保村(現大紀町)の農業補習学校教師を務めた。この間、地元青年と土民協会を設け農村問題の研究を行う。
田沼 実(たぬま みのる、1895年8月25日 - 1974… 田沼 実(たぬま みのる、1895年8月25日 - 1974年8月)は、日本の都市計画家、土木技術者。東京生まれ。 1921年(大正10年)に東京帝国大学工学部土木工学科卒。内務省阿賀川改修事務所に勤務した。1924年から内務省復興局技師に転じる。その後東京府をへて1929年(昭和4年)、内務省土木部工務課長。その間に九段坂に共同溝の試作を試みている。1930年に東京府土木道路技師。 1937年、滋賀県土木課長、1939年、茨城県土木課長、1942年、山口県士木部長。 1945年に神奈川県土木部長となり、敗戦後の同県都市計画の作成に取り組む。道路、河川、公園、住宅、港湾などの総合整備を図った。 1951年から1960年までは、神奈川県土地収用委員会委員をつとめた。
石毛 郁治(いしげ いくじ、1895年5月18日 - 198… 石毛 郁治(いしげ いくじ、1895年5月18日 - 1981年9月1日)は、日本の化学技術者、実業家。東洋高圧工業(現三井化学)社長や、三井化学工業社長を務めた。 千葉県海上郡飯岡町(現旭市)生まれ。1912年飯岡小学校代用教員。1917年東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科卒業、三井鉱山入社。肥料用尿素の大量生産法の開発に成功し、1947年から東洋高圧工業社長を務め、1963年には会長に就任。1964年蔵前工業会理事長。1965年飯岡町名誉町民第1号。1966年からは三井化学工業社長を務め、1968年には東洋高圧工業と三井化学工業の合併にあたった。紺綬褒章、藍綬褒章、勲二等旭日重光章受章。
戸上 信文(とがみ のぶふみ、1895年(明治28年)5月1… 戸上 信文(とがみ のぶふみ、1895年(明治28年)5月13日 - 1967年(昭和42年)8月9日)は、日本の技術者、実業家、経営者、戸上電機製作所創業者、日本タングステン創業者。 1895年(明治28年)熊本県に生まれる。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、佐賀市の日本電機鉄工(製麺機の発明で知られる真崎照郷が設立した真崎鉄工場から製麺機以外の電気機械や高圧タービンポンプ部門を引き継いだ企業。社長は藤山雷太。真崎照郷も相談役に就任していた。)の技師時代に自動開閉器配電装置を開発したことで1919年(大正8年)に自動開閉器部を社内に設える事となり、これが戸上電機の源流となった。 1923年(大正12年)に交流電磁石実用化を契機に、1本の回線から昼間線と夜間線を自動的に切り替える「戸上式自動配線装置」と呼ばれる配電装置を考案した。
矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没… 矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没年不明)は、日本の技術者。 熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、九州帝国大学工学部を卒業した。その後、八幡製鉄所に入所し、1933年化工課長となる。 1946年には自らタール製品工業会を立ち上げ、その後、日本タール協会と改組し専務理事を務めた。
織本 道三郎(おりもと みちさぶろう、1895年 - 197… 織本 道三郎(おりもと みちさぶろう、1895年 - 1974年)は、日本の構造家・構造設計技術者・発明家・全国建築士事務所連合会(現:日本建築士事務所協会連合会)初代会長・織本建築設計計算事務所創立者。織本匠は義子。 1895年、栃木県南河内町(現宇都宮市)に生まれる。 1916年に、東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科を卒業し、鉄道省に入省した。 1923年に織本建築設計計算事務所(現・織本総合建築設計)を下根岸に開設した。日本で最初の建築構造体の設計監理を業務とする建築事務所といわれる 1952年に鉄骨大張間の特殊組方・木造接手の改良およびその他の発表考案により藍綬褒章を受章。 1962年に全国建築士事務所連合会初代会長に就任した。
槙尾 栄(まきお さかえ、1895年 – 1980年9月)は… 槙尾 栄(まきお さかえ、1895年 – 1980年9月)は、日本の作家、技術者。 広島県に生まれる。早稲田大学電気工学科を卒業後逓信省に入省、技官として勤務の傍ら、余技として小説の執筆、歌謡曲の作詞等を手がけた。 当時のいわゆる空想科学小説に興味を持ち、海野十三とも交流があったという。1928年、雑誌「キング」に槙尾赤霧の筆名で「透明の人間」を発表。自らの発明した技術によって透明人間となった少壮の科学者が辿る運命を描いたこの作品は、日本における「透明人間もの」としては最も早いものの一つである。他に技術書や科学啓蒙書も執筆している。
内藤 友明(ないとう ともあき、1894年(明治27年)12… 内藤 友明(ないとう ともあき、1894年(明治27年)12月8日 - 1992年(平成4年)3月14日)は、大正から昭和期の農業技術者、政治家。衆議院議員、富山県新湊市長。 富山県射水郡新湊町(新湊市を経て現射水市)出身。1917年(大正6年)東京帝国大学農科大学実科を卒業した。 1932年(昭和7年)1月、新湊町会議員に選出され1期在任。帝国農会参事、富山県農会技師兼幹事、産業組合中央金庫(現農林中央金庫)秘書課長、石黒忠篤農林大臣秘書官、農地開発営団常任幹事、農村更生協会常任理事、農山漁村文化協会監事などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で富山県第2区に国民協同党公認で出馬して初当選し、以後1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続5期在任した。
坂本 大造(さかもと だいぞう、1894年(明治27年)12… 坂本 大造(さかもと だいぞう、1894年(明治27年)12月8日 - 1964年(昭和39年)7月29日)は、大正から昭和期の造船技術者、政治家、華族。貴族院男爵議員。 本籍・長野県。海軍士官・坂本俊篤の長男として生まれる。父の死去に伴い、1941年(昭和16年)6月2日、男爵を襲爵した。 1916年(大正5年)早稲田大学理工科を卒業した。同年、横浜船渠に入社。その後、石川島造船所に移り、工作部鍛錬工場長、鋳鍛部部長代理などを務めた。 1946年(昭和21年)6月29日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、18… 豊田 喜一郎(とよだ きいちろう、旧字体: 豐田喜一郞、1894年(明治27年)6月11日 - 1952年(昭和27年)3月27日)は、日本の経営者、技術者、トヨタ自動車創業者。位階は従五位。勲等は勲四等。豊田佐吉の長男。 トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)などを歴任した。 豊田佐吉と佐原たみ(佐吉の妹の友人で最初の妻)の長男として生まれる。1892年(明治25年)から夫婦は東京市浅草外(当時の浅草区千束町)に住んでおり、里帰り出産のため静岡県敷知郡吉津村山口(現在の湖西市山口)で生まれるが、出生3か月のとき、貧困の中家庭を顧みることなく発明に没頭する夫に愛想を尽かした母親が家出したため祖父母の家で育つ。
服部 譲次(はっとり じょうじ、1893年〈明治26年〉11… 服部 譲次(はっとり じょうじ、1893年〈明治26年〉11月8日 - 没年不詳)は、日本の航空技術者。三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所技術部部長、新三菱重工業専務取締役などを歴任した。 愛知県名古屋市にて育った。旧制愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)、旧制第八高等学校を経て、1918年、東京帝国大学工科大学を卒業する。大学卒業後は三菱造船に入社し、神戸造船所に配属される。 1920年に三菱造船の名古屋航空機製作所に入る。1921年にドイツに出張し、1924年に帰国。1923年より、名古屋航空機製作所にて設計課と研究課の課長に就任する。その後、三菱造船は三菱重工業に衣替えする。三菱重工業の名古屋航空機製作所にて技術部の部長などを歴任した。
永井 英修(ながい えいしゅう、1893年(明治26年)11… 永井 英修(ながい えいしゅう、1893年(明治26年)11月7日 - 1967年(昭和42年)2月19日)は、大正から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家。衆議院議員。戦後の炭鉱開発を担った。 佐賀県小城郡多久村(現多久市多久町西ノ原)で永井英迅の長男として生れる。1920年(大正9年)東京帝国大学工学部採鉱学科を卒業した。 1920年、高取鉱業(佐賀県)に入社し、杵島炭鉱長、大鶴炭鉱長、鉱業部長、常務取締役を歴任。その他、湘南製作所取締役、住ノ江造船取締役、西日本坑木取締役、大日鉱業常務取締役、杵島炭礦専務取締役、大日鉱業社長、佐賀相互銀行社長、花菱商事社長、自由文化出版社代表者などを務めた。
柳生 六郎(やぎゅう ろくろう、1893年8月28日 - 1… 柳生 六郎(やぎゅう ろくろう、1893年8月28日 - 1983年5月26日)は、日本の鉱床探査技術者。愛知県名古屋市生まれ。 第八高等学校を経て、1919年東京帝国大学理科大学地質学科を卒業。日本鉱業(現JX金属)の前身である久原鉱業に入社、調査課に勤務。1929年日本鉱業の創立から同社の鉱山部勤務となり、調査部門の業務を担当。この間、長年にわたって傘下の諸鉱山の地質調査・探査・探鉱・開発などを行った。特に福島県高玉鉱山の金鉱床については、鉱床の生成と母岩の変質に関する多くの事実を明らかにし、鉱化初期の珪化作用と後期のアルカリ化(氷長石化作用)の関係を論じた。これらの研究により、東京大学より理学博士の学位を取得。
肝付 兼英(きもつき かねふさ、1893年(明治26年)7月… 肝付 兼英(きもつき かねふさ、1893年(明治26年)7月29日 - 1974年(昭和49年)11月22日)は、大正から昭和期の農林技師、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・肝付兼行の長男として生まれる。父の死去に伴い、1922年(大正11年)2月10日、男爵を襲爵した。 1923年(大正12年)早稲田大学理工学部を卒業した。同年、農商務技手に就任。以後、商工技手、資源局技師などを務めた。 1929年(昭和4年)4月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した。同年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補したが落選した。
榊原 郁三(さかきばら いくぞう、1893年〈明治26年〉6… 榊原 郁三(さかきばら いくぞう、1893年〈明治26年〉6月28日 - 1974年〈昭和49年〉9月25日) は、日本の自動車実業家、自動車技術者。位階は正五位。 榊原はアート商会を創業し、後にアート金属工業へと改組し、同社をピストン製造の大手企業へと発展させた。本田技研工業の創業者である本田宗一郎の若い時分の雇い主だったことでも知られる。(→#本田宗一郎との関係) 榊原家は武士の家系で、上田藩領主の藤井松平家に出仕し、特に財務家としての能力を代々評価され、勘定方を拝命していた。しかし、明治維新に伴い失業し、榊原郁三の父である泰一郎は手先の器用さを活かして家具職人に転身して暮らしていた。 泰一郎は「これからの世の中、科学で身を立てるがよい」を口癖としており、子である榊原も子供の頃からまず木工に親しみ、小学生の時に木製の自転車を自作して村の人々を驚かせてしまうような子供だった。
江熊 哲翁(えぐま / えくま てつお、1893年(明治26… 江熊 哲翁(えぐま / えくま てつお、1893年(明治26年)4月25日 – 1974年(昭和49年)5月20日)は、大正から昭和期の水産技術者、政治家。参議院議員。 大分県宇佐郡、現在の宇佐市で生まれる。1916年(大正5年)農商務省水産講習所(現東京海洋大学)本科養殖科を卒業した。 1918年(大正7年)大分県水産技手に就任。以後、水産試験場技手、台湾総督府技手、滋賀県技手、地方農林技師・佐賀県水産課長兼水産試験場長・水産製品検査所長、愛媛県水産課長、山口県水産課長、下関漁港事務所長事務取扱などを歴任した。その後、山口県健民対策審議会専門委員、同水産業会長、同漁業組合連合会長、山口漁村振興協議会長、福石商会会長、天山商事社長などを務め、山口県の水産業界の振興に尽力した。
丹羽 保次郎(にわ やすじろう、1893年(明治26年)4月… 丹羽 保次郎(にわ やすじろう、1893年(明治26年)4月1日 - 1975年(昭和50年)2月28日)は、NE式写真電送装置(ファクシミリ)を開発した技術者。東京電機大学初代学長。日本の十大発明家の一人として数えられることもある。工学博士。三重県松阪市名誉市民(第1号)[要出典]。 三重県松阪市出身。旧制八高を経て1916年(大正5年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。逓信省電気試験所を経て、1924年(大正13年)6月に日本電気に入社する。同年から翌年末にかけ欧米へ最新の通信技術を学びに視察。1926年(大正15年)2月に学位論文の「矩形枠捲線輪特ニ其誘導系数ノ計算方法ニ関スル研究」で帝大より工学博士を授与される。
時國 益夫(ときくに ますお、1893年(明治26年)3月2… 時國 益夫(ときくに ますお、1893年(明治26年)3月23日 - 1989年(平成元年)9月1日)は、日本の実業家、技術者。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。 第四高等学校を経て、1917年東京帝国大学工学部応用化学科卒業、キリンビール入社。1933年仙台工場長。1940年取締役。1942年取締役横浜工場長。1943年監査役。1946年監査役兼企業部長。1951年取締役。1953年常務取締役。1956年常務取締役製造部長。1958年専務取締役。1966年から代表取締役社長を務め、創業家として長年君臨した磯野長蔵亡きあとの経営を担い、ラガービールの品質本位路線などを進めた。
神部 満之助(かんべ まんのすけ、1893年〈明治26年〉1… 神部 満之助(かんべ まんのすけ、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉9月10日)は、日本の土木工事技術者、経営者。間組社長を務めた。 神奈川県足柄上郡南足柄村で裕福な家庭に生まれる。南足柄小学校高等科を経て、1909年(明治42年)に岩倉鉄道学校建設科を卒業し、同年10月に間組に入社した。約10年にわたって朝鮮半島で道路建設に従事した。 1923年(大正12年)6月、山梨県南巨摩郡で榑坪発電所(後の早川第一発電所)の工事を管轄していた早川出張所の主任が急死し、神部がその後任に就いた。1925年7月、当時50歳の松永安左エ門が大井川水系の電源調査のために赤石山脈を縦走することになり、神部が案内役として先導した。
紀 俊忠(きい としただ、1892年(明治25年)12月5日… 紀 俊忠(きい としただ、1892年(明治25年)12月5日 - 1970年(昭和45年)1月22日)は、大正から昭和期の技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・今園。 男爵・今園国映の二男として生まれ、男爵・紀俊秀の養子となる。養父の死去に伴い、1940年(昭和15年)11月1日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)京都帝国大学理工科大学機械科を卒業。三井鉱山に入社。1936年(昭和11年)石炭液化工業の視察のためドイツに出張。1937年(昭和12年)満州合成燃料錦州工場の設計・建設に従事。1942年(昭和17年)朝鮮飛行機製作所長に就任。1944年(昭和19年)日本人造石油取締役に出向した。
秋山 俊一郎(あきやま しゅんいちろう、1892年〈明治25… 秋山 俊一郎(あきやま しゅんいちろう、1892年〈明治25年〉10月22日 - 1972年〈昭和47年〉12月3日)は、大正から昭和期の水産技術者、実業家、政治家。参議院議員。 高知県長岡郡東豊永村(大豊村を経て現大豊町怒田)で、秋山紋弥、春女の長男として生まれる。1912年(明治45年)高知県立第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)を卒業。1915年(大正4年)農商務省水産講習所(現東京海洋大学)漁撈科を卒業。 台湾宜蘭庁技手に任官し、1916年(大正5年)台湾総督府に転任。1920年(大正9年)長崎県に転じた。1928年(昭和3年)高知県水産課長に就任。その後、佐賀県水産課長を経て、長崎県水産試験場長となった。
松尾 守治(まつお もりじ / もりはる、1892年(明治2… 松尾 守治(まつお もりじ / もりはる、1892年(明治25年)10月9日 - 1973年(昭和48年)8月19日)は、大正から昭和期の土木技術者、内務技官、政治家。山口県下関市長。旧姓・市川。 山口県で市川直彦の七男として生まれ、松尾琢三(衆議院議員松尾寅三の長男、馬関電灯取締役)の養子となる。1913年(大正2年)旧制第三高等学校を卒業[要出典]。1917年(大正6年)九州帝国大学工科大学土木工学科を卒業。一年志願兵として入隊した。 1919年(大正8年)内務省に入省し、下関土木出張所、神戸土木出張所で勤務。1924年(大正13年)欧米に出張し港湾施設を視察。帰国後、下関土木出張所に配属され、下関港、門司港の修築工事を担当した。
春藤 真三(しゅんどう しんぞう、1892年9月13日 - … 春藤 真三(しゅんどう しんぞう、1892年9月13日 - 1964年10月29日)は、日本の都市計画家、土木技術者。大分県生まれ。 旧制第一高等学校を経て、1918年(大正7年)に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。同級に青木楠男、石川栄耀らがいた。卒業後、民間会社勤務の後に工務所を自営。1923年(大正12年)の関東大地震を機に帝都復興院技師となる。土木部道路課勤務。 1925年(大正14年)には東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1927(昭和2)年 欧米視察。1928年(昭和3年)、内務省復興局長官官房計画課に勤務する。1929年(昭和4年)から1938年(昭和13年)まで、神奈川県土木部道路課長を振出し、富山県、栃木県、岐阜県の上水課長を歴任。
金森 誠之(かなもり しげゆき、1892年7月27日 - 1… 金森 誠之(かなもり しげゆき、1892年7月27日 - 1959年8月19日)は、日本の河川技術者、内務官僚。発明家、映画人でもあった。 土木の仕事を、「地球芸術」と称していた。 和歌山県有田郡出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省。東京土木出張所に勤務し、利根川第二期改修工事に従事した。1927年、「煉瓦積ノ改善、特二其ノ補強二関スル研究」(『土木学会誌』)で工学博士号を得ている。 1918年(大正7年)から1921年(大正10年)までは、多摩川改修事務所に勤務。その後、1924年(大正13年)から1929年(昭和4年)まで、1年間の欧米諸国出張を挟んで、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)までの2度にわたり、同事務所の所長を務めた。
関 義長(せき よしなが、1892年〈明治25年〉6月20日… 関 義長(せき よしなが、1892年〈明治25年〉6月20日 - 1970年〈昭和45年〉7月12日)は、日本の技術者、実業家。三菱電機会長を務めた。 徳島県知事、山形県知事等を務めた関義臣男爵の次男(庶子)として生まれる。貴族院議員関義寿男爵は異母兄。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
阿部 清(あべ きよし、1892年(明治25年)6月1日 -… 阿部 清(あべ きよし、1892年(明治25年)6月1日 - 1979年(昭和54年)5月24日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。工学博士。京都大学名誉教授。 徳島県徳島市蔵本元町に生まれる。徳島県立徳島中学校(現:徳島県立城南高等学校)、第六高等学校を経て京都帝国大学工科大学電気工学科に入学。1918年(大正7年)同校を卒業後、財団法人青柳研究所(現:公益財団法人応用科学研究所)に入る。のち京都大学講師、助教授を経て1940年(昭和15年)教授となった。この間の1935年(昭和10年)に学位論文「特別高圧回路自働遮断器」により 工学博士 (京都帝国大学)の学位を取得している。1955年(昭和30年)退官後は、同志社大学工学部教授、日本放送協会経営委員会委員などを歴任した。
佐藤 一男(さとう かずお、1892年5月23日 - 195… 佐藤 一男(さとう かずお、1892年5月23日 - 1959年10月29日)は、日本の鉄道技術者、実業家。 広島県福山市出身。1918年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、京阪電気鉄道に入社。 車両技術部門で活躍し、全鋼製ロマンスカー京阪1550型電車の設計、製作に携わり、欧米での留学で得た知識を生かして、日本最初の連接車である京阪60型電車(びわこ号)を立案、建造した。 取締役、常務、専務を経て、1943年に陸上交通事業調整法による阪神急行電鉄との統合により、京阪神急行電鉄副社長に就任した。 1946年11月に公職追放を受け、副社長を辞任し、相談役に就任した。 1959年10月29日死去。
長口 宮吉(おさぐち みやきち、1892年4月22日 - 1… 長口 宮吉(おさぐち みやきち、1892年4月22日 - 1962年4月10日)は、日本の写真化学技術者。 1892年(明治25年)4月22日、現在の静岡県伊豆市小下田[要出典]に生まれる。東京薬学校(東京薬科大学の前身の一つ)を1914年に卒業した。その後、東京美術学校(現在の東京芸術大学)助手を経て[要出典]、東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)教授を務めた。1933年(昭和8年)、日本最初の色彩写真を完成する。この方式は長口式天然写真として特許となり現代カラー写真の礎を築く。[要出典] 1939年(昭和14年)、富士写真フイルムに入社する。同社では技師を務め、カラーフィルム(フジカラー)の開発に成功した。
藤本 虎喜(ふじもと とらき、1892年2月16日 - 19… 藤本 虎喜(ふじもと とらき、1892年2月16日 - 1981年11月11日)は、日本の政治家、農業技術者。衆議院議員(1期)、国民協同党所属。 熊本県上益城郡甲佐町出身。鹿児島高等農林学校農学科卒業。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
宮本 武之輔(みやもと たけのすけ、1892年(明治25年)… 宮本 武之輔(みやもと たけのすけ、1892年(明治25年)1月5日 - 1941年(昭和16年)12月24日)は、日本の工学者・土木技術者。内務官僚・企画院次長。 愛媛県松山市興居島出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務技手となった。1919年(大正8年)、内務技師となり、東京第一土木出張所、東京土木出張所、新潟土木出張所・土木試験所、内務省土木局に勤務した。1910年代には、当時待遇が文官に比べて冷遇されていた土木官僚たちによる待遇改善をめざした「技術者水平運動」のリーダー的存在であった。その間、1928年(昭和3年)に工学博士号を受けた。1937年(昭和12年)から東京帝国大学工学部教授を兼任。
伊部 貞吉(いべ さだきち、別名ていきち、さだよしなど。18… 伊部 貞吉(いべ さだきち、別名ていきち、さだよしなど。1892年-1947年)は、日本の都市計画家、区画整理技術者。 東京生まれ。関東大震災後の帝都復興事業の特に土地区画整理事業の基準作りに多くの功績を遺す。また戦前の建築学会で各種の委員会で委員として活躍。 1916年、東京帝国大学工学部建築科を卒業。佐野利器に師事し、佐野にとってもお気に入りの弟子のひとりであったという。高橋貞太郎、小林政一とともに佐野利器門下の三羽烏と呼ばれた。卒業後は陸軍技手になり、その後は警視庁技師を経て1922年から内務省技師。大震災後に発足した帝都復興院技師を兼務した。復興院が復興局改組後も復興局技師を兼任し、東京と横浜の震災復興を師の佐野、笠原敏郎、野田俊彦らと土地区画整理事業に邁進。
浅原 源七(あさはら げんしち、1891年9月1日 - 19… 浅原 源七(あさはら げんしち、1891年9月1日 - 1970年8月23日)は、日本の実業家、技術者である。日産自動車社長や自動車技術会会長を務め、日本の自動車産業発展の礎を築いた人物の一人である。なお、正確な氏名は旧字体の「淺原源七」であるが、ここでは「浅原」で統一する。 大阪市東区出身。東京帝国大学理学部化学科を卒業後、理化学研究所に勤務。主任研究員として研究を進める。1931年、戸畑鋳物に入社。1933年に同社は日産自動車となり、浅原は民生・軍用トラックの生産を中心とした同社の中心的人物として、日産コンツェルン創始者の鮎川義介を助けた。1942年から1944年までは同社の第3代社長となった。
宇敷 赳夫(うしき たけお、1891年(明治24年)7月24… 宇敷 赳夫(うしき たけお、1891年(明治24年)7月24日 - 没年不明)は兵庫県出身の土木技術者。台湾総督府の技師として、日本統治時代の台湾で様々な公共建築物を手がけた。 明治24年に姫路市で出生、本籍地は同県神戸市上筒井通。兵庫県立第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を経て、その後の経歴は以下のとおり。 総督府の技師として以外にも当時の民間組織『台湾建築會』で井手薫などとともに常議員を務めていた。 関東大震災(1923年)や新竹台中地震(1935年)を経た耐震強化など、当時の設計思想の変化を盛り込んだ簡素な設計を多く採用している。多くの建築物が木造建築から鉄筋コンクリートで再建される課程で宇敷が担当した物件は以下の通り。
柳沢 光治(柳澤、やなぎさわ みつはる、1891年(明治24… 柳沢 光治(柳澤、やなぎさわ みつはる、1891年(明治24年)6月22日 - 1957年(昭和32年)11月7日)は、大正から昭和期の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧黒川藩主、子爵・柳沢光邦の三男として生まれる。父の死去に伴い、1923年(大正12年)12月20日、子爵を襲爵した。 1915年(大正4年)7月、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。同年、日本醋酸製造技手となる。以後、同技術部主任、東京府工業技師、同産業技師、同商工技師、府立東京商工奨励館委員、同化学部主任などを務めた。 1939年(昭和14年)11月4日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
山本 卯太郎(やまもと うたろう、1891年(明治24年)6… 山本 卯太郎(やまもと うたろう、1891年(明治24年)6月15日 - 1934年(昭和9年)4月20日)は、大正末期から昭和初期の橋梁技術者。複雑な構造をもつ可動橋を得意とし、多数の跳上橋を設計。数学の手法を用いて、可動橋の動的なメカニズムを解析。新技術を開発し、独自の発展を遂げた可動橋分野を牽引した人物。 1891年(明治24年)6月に大阪で生まれる。1914年(大正3年)、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)土木科を卒業。 1915年(大正4年)に米国に渡航して、アメリカンブリッジカンパニーに入社。シカゴを中心とする各地の可動橋の設計や製作に従事するかたわら、イリノイ大学やアーマー大学で橋梁を研究。
山川 良一(やまかわ りょういち、1891年〈明治24年〉6… 山川 良一(やまかわ りょういち、1891年〈明治24年〉6月5日 - 1982年〈昭和57年〉8月19日)は、大正から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家。参議院議員。 長崎県出身。1915年(大正4年)九州帝国大学工科大学採鉱学科を卒業した。 卒業後、三井鉱山(現日本コークス工業)に入社し、山野鉱業所長、砂川鉱業所長、同社常務取締役などを歴任し、1947年(昭和22年)同社長に就任。その他、初代日本石炭協会長、同顧問、全国石炭復興会議議長、全国炭鉱管理委員会委員、経済復興計画委員会委員、北海道総合開発審議会委員、日本産業協議会理事、経済団体連合会(現日本経済団体連合会)理事、日本経営者団体連盟(現:日本経済団体連合会)理事、東京商工会議所議員などを務めた。