高橋 甚也(たかはし じんや、1884年 - 1975年)は… 高橋 甚也(たかはし じんや、1884年 - 1975年)は、台湾総督府や東京市上下水道、戦後の仙台市復興などで活躍した都市計画家、土木技術者。 1912年に京都帝国大学工学部を卒業後すぐに台湾総督府に就職するが、1913年に帝都復興事業を担うため東京市役所に移籍。1939年まで在籍しその間に下水道課長や土木局技師長、水道局長や下水道局長を歴任。東京オリンピック開催のための給水対策などに参画。1946年以降は岡崎栄松に招かれ仙台市助役として市の戦災復興事業や上下水道網整備に関わる。当初の復興計画にあった5千坪ほどの公園内を国道が貫通する計画を曲げさせて変則的な交差をつくったり、復興事業での街路計画変更で電力や電話局との関係者移転補償協議で、電柱を無くさせて30から50メートルの広幅員道路がケヤキ並木の大樹林帯となって建設大臣表彰をもたらした。
周徳鴻(しゅう とくほう/チャオ・デーホン、1884年 - … 周徳鴻(しゅう とくほう/チャオ・デーホン、1884年 - ?)は、清末民初の技術者、官僚。字は伯彬。四川省巴県(現重慶市巴南区)出身。東京高等工業学校機械科卒業。 航空技師として北洋政府軍に加わり、奉天派に属する。国民政府でも空軍軍属として参加。 成都より官費生として日本に留学。1911年(宣統三年)9月、学部(中国語版)(文部省に相当)の試験を受け最優等となり、工科進士の賞給を受ける。 辛亥革命後の1913年(民國二年)の間、四川公立工業專門学校(現四川大学)教員として機械工学や製図を教えていた。1921年(民國十年)5月、北洋政府に加わり、郭世綰、盛紹章、黄耀栄らとともに北京航空署(署長:丁錦)附技師。
鷲尾 勇平(わしお ゆうへい、別名:鷲尾 雅史、1883年〈… 鷲尾 勇平(わしお ゆうへい、別名:鷲尾 雅史、1883年〈明治16年〉12月10日 - 1952年〈昭和27年〉9月10日)は、日本の紡績技術者、実業家。日清紡績第3代社長。 新潟県新潟市本町通14番町(現 新潟市中央区本町通14番町)の鷲尾甚平の長男として出生。 1901年(明治34年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に第一高等学校を卒業、1908年(明治41年)7月に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。 1908年(明治41年)9月に日清紡績に技師として入社、見習生、主任を経て、1915年(大正4年)12月に高岡工場長に就任、1917年(大正6年)2月から東京紡績の創立とともに工務部長として工場建設に従事。
宮長 平作(みやなが へいさく、1883年〈明治16年〉12… 宮長 平作(みやなが へいさく、1883年〈明治16年〉12月 - 1956年〈昭和31年〉4月24日)は、日本の土木技術者、実業家である。 1883年(明治13年)12月、富山県射水郡水口村の豪農として名を馳せた父・宮長平六の次男として誕生。第四高等学校(後の金沢大学)を経て、1908年(明治41年)7月、東京帝国大学土木工学科を卒業。同月、久原鉱業所に入社し日立鉱山にて技師として従事、当時高さ世界一を誇る煙突の建設に関わるなどした。 1924年(大正13年)2月24日、個人名義で屋号を久原工事部となし土木建築請負業を開設。同社が1930年(昭和5年)9月に日本産業株式会社の直系子会社、中央土木(後の日産土木、日産建設、現・RN建設)株式会社として改組・発足の運びとなってはその専務取締役に就任、1939年(昭和14年)6月より同社取締役社長。
鈴川 貫一(すずかわ かんいち、1883年(明治16年)11… 鈴川 貫一(すずかわ かんいち、1883年(明治16年)11月24日 - 1963年(昭和38年)1月22日)は、日本の電気技術者、実業家。中国配電(現・中国電力)社長。鈴川合資会社代表社員。 広島県・鈴川源三郎の男。段原村(のちの段原町)生まれ。1885年、家督を相続する。広島一中から1902年に岡山第六高等学校に入学、1906年に二部甲類を卒業。1909年、京都帝国大学工科大学電気工学科卒業。 旧鹿児島藩の島津家が経営する芹ヶ野金山に赴任、島津公爵家電気事業主任技師となる。1912年、広島呉電力技師長、支配人、取締役、広島電気取締役、技師長、支配人、常務取締役を経て副社長。 また木ノ江電気、境電気、東洋合成化学工業、瀬戸内海横断電力、広電証券、中国塗料、太田川水力各取締役、白石工業、日本電熱器製造各監査役等を務めた。
村井 信平(むらい しんぺい、1883年11月 - 1969… 村井 信平(むらい しんぺい、1883年11月 - 1969年3月24日)は岩手県釜石出身の機械技術者。父は日本近代製鉄の原点とも言える釜石鉱山田中製鉄所をその立ち上げ時から支えた村井源兵衛であり、信平自らも明治・大正・昭和にかけて父と同じ釜石製鉄所に長く勤めた。第十四期・釜石町会議員。 村井信平は日本で3番目に鉄道が走った釜石の地で1883年(明治16年)11月に生まれた。父・源兵衛は1875年(明治8年)17歳の時に工部省鉱山局の釜石支局に採用され、1880年(明治13年)9月より同地で稼働した日本初の官営製鉄所でも働いたが、操業開始から実働わずか97日で現場は頓挫。1882年3月に再開するもやはり上手くいかず、政府は1883年(明治16年)に製鉄所廃止の判断を下した。
花岡 正庸(はなおか まさつね、1883年〈明治16年〉10… 花岡 正庸(はなおか まさつね、1883年〈明治16年〉10月24日 - 1953年〈昭和28年〉2月15日)は、日本の酒造技術者。秋田清酒の父、秋田の酒造りの父、秋田吟醸酒の父などとされる人物である。 長野県中野市出身。1907年に大阪高等工業学校酒造科を卒業した。卒業後、実家の家業であった酒造に従事したが火災のため実家が廃業した。その後、1913年より丸亀税務監督局に勤務し、仙台税務監督局に転じ、1918年から秋田県醸造技師を兼任した。 酵母の硝酸銀応用や酒の低音長期保存法などの新技術を導入・普及させ、秋田における酒造業を牽引した。 1922年に秋田県酒造組合連合会長の伊藤恭之助や県内の有力者、企業家とともに秋田銘醸を創立し顧問となった。
増田 淳(ますだ じゅん、1883年〈明治16年〉9月25日… 増田 淳(ますだ じゅん、1883年〈明治16年〉9月25日 - 1947年〈昭和22年〉7月26日)は、日本の橋梁技術者。全国各地で多数の橋梁を設計した。 当時の橋梁設計は主に内務省や鉄道省などの組織の内部で行っていた。一方で米国で約15年間、設計技術を学んだ増田は、東京に設計事務所を開設し、自治体の嘱託として橋梁を設計する。事務所での約20年間に設計した橋は約80橋である。また、桁橋、トラス橋、アーチ橋、吊り橋など、様々な形式の橋を設計している。 昭和初期、戦時色が強まり橋梁建設事業も少なくなると、ドック、水門、地下鉄などの設計も手がけていたようだがその後の活動は不詳。 増田が手がけた代表的な橋は、信夫橋(福島県)、荒川橋(埼玉県)、白鬚橋(東京都)、伊勢大橋(三重県)、鳥羽大橋(京都府)、十三大橋(大阪府)、武庫大橋(兵庫県)、霞橋(岡山県)、吉野川橋(徳島県)、長浜大橋(愛媛県)、美々津橋(宮崎県)など全国各地に及ぶ。
岩井 喜一郎(いわい きいちろう、明治16年(1883年)8… 岩井 喜一郎(いわい きいちろう、明治16年(1883年)8月17日 - 昭和41年(1966年)4月7日)は、日本の醸造技術者、実業家。京都府平民。 1909(明治42)年に、摂津酒造(現:宝ホールディングス)においてアルコール連続蒸留装置を考案。岩井式アルコール連続蒸留装置としての地位を確立。明治45年に新式焼酎(焼酎甲類)並びに、酒精含有飲料を全国に率先して製造開始、大正8年に合成清酒を開発し、工業的大量生産の創始となった。 明治35年(1902年)、大阪高等工業学校醸造学科卒業。明治42年(1909年)、合資会社摂津酒精醸造所に入社(後の摂津酒造)。大正9年(1920年)、摂津酒造 常務取締役兼技師長に就任。
今西 卓(いまにし たく、1883年〈明治16年〉8月7日 … 今西 卓(いまにし たく、1883年〈明治16年〉8月7日 - 1933年〈昭和8年〉4月23日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。愛知県豊橋市の電力会社豊橋電気に技師長として入社し、後に支配人へと昇進。同社が解散した後は東三河地方の電気・鉄道事業に関わった。岐阜県出身。 今西卓は、1883年(明治16年)8月7日、岐阜県池田郡池野村(現・揖斐郡池田町池野)の豪農今西文造の長男として生まれた。幼少時より俊才で、温知学校を経て岐阜県大垣中学校へ入学、開学以来となる好成績で卒業した。次いで京都の第三高等学校へ進み、1905年(明治35年)7月第二部工科を卒業。最終的に1908年(明治41年)7月、京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。
阿部 美樹志(あべ みきし、1883年5月4日 - 1965… 阿部 美樹志(あべ みきし、1883年5月4日 - 1965年2月20日)は、日本の建築家および土木技術者。旧姓は菅原。大正から昭和時代にかけて活躍した。日本最初の鉄筋コンクリート高架鉄道の設計者。通称コンクリート博士。日本の鉄筋コンクリート工学の開祖。また、阪急阪神東宝グループの建物、RC造の多くの構造物、建築物をつくり続けた。アメリカで鉄筋コンクリート構造学を修めた後も研究を続け、鉄道省での仕事、旧日比谷映画などの娯楽施設、工場建築などの設計に活かす。戦後は戦災復興院総裁として、住宅供給の甚本施策を提示した。勲二等瑞宝章受章。 岩手県一関市生まれ。岩手県一関尋常中学校(一回生)時代には、一関尋常高小学校から岩手県一関尋常中学校二年に編入を許され、三段跳びで三年生に進んだ浅利三朗と首席を争う。
朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 19… 朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 1978年4月20日)は、明治から昭和期の機械工学者、鉄道技術者。
米津 政賢(よねきつ まさただ、1883年(明治16年)3月… 米津 政賢(よねきつ まさただ、1883年(明治16年)3月8日 - 1941年(昭和16年)8月19日)は、明治から昭和期の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員。位階および勲等は正三位・勲二等。 旧長瀞藩主・米津政敏の長男として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)11月22日、子爵を襲爵した。 学習院中等科、第六高等学校を経て、1908年(明治28年)7月、東京帝国大学農科大学を卒業。同年、農商務省嘱託となる。以後、農商務省種畜牧場嘱託、農林省嘱託、同畜産試験場嘱託、畜産博覧会審査官、第2回神奈川県有畜農業経営共進会審査長などを務めた。 1915年(大正4年)6月12日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
真野 正雄(まの まさお、1883年〈明治16年〉3月 - … 真野 正雄(まの まさお、1883年〈明治16年〉3月 - 1939年〈昭和14年〉2月7日)は、明治末期から昭和戦前期にかけての日本の電気技術者・実業家である。逓信省の技師を経て中部電力(岡崎)常務取締役を務めた。父は機械工学者の真野文二。 真野正雄は、1883年(明治16年)3月、当時工部大学校助教授であった真野文二(のち東京帝国大学教授・貴族院勅選議員)の長男として生まれた。1906年(明治39年)7月、岡山市の第六高等学校工科を卒業し、次いで1910年(明治43年)7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 大学卒業後は一旦三井物産に入社するが1911年(明治44年)5月退社して逓信省へ入り、8月逓信技手に任ぜられる。
保原 元二(ほばら もとじ、1883年〈明治16年〉2月2日… 保原 元二(ほばら もとじ、1883年〈明治16年〉2月2日 - 1968年〈昭和43年〉12月23日)は日本の治水技術者。北海道庁の技師として、在任中に立案された北海道の河川計画のすべてに関与していたと言われる。 また後半生においては、美術商としても活動した。 1883年(明治16年)2月2日、宮城県仙台市大町5丁目で畳商を営む旧家にて、父・千代吉と母・タネの次男として生まれる。 小学校卒業後は商業学校を経て、第二高等学校に進学。在籍中には土井晩翠から英語を教わったという。 1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学へ進学し、広井勇のもとで橋梁工学を学ぶ。 1910年(明治43年)7月25日、広井の勧めを受けて北海道庁に就職し、札幌市に転居する。
牧野 雅楽之丞(まきの うたのじょう、1883年〈明治16年… 牧野 雅楽之丞(まきの うたのじょう、1883年〈明治16年〉1月2日 - 1967年〈昭和42年〉8月14日)は、日本の道路技術者。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鳥居 信平(とりい のぶへい、明治16年(1883年) - … 鳥居 信平(とりい のぶへい、明治16年(1883年) - 昭和21年(1946年))は、台湾で活動した農業土木技術者。 1883年、静岡県周智郡上山梨村(現・袋井市)に生まれる。1900年静岡県静岡中学校卒業。第四高等学校(四高)、東京帝国大学農科大学を卒業後、農商務省などを経て、1914年に農業土木の専門家として台湾製糖へ入社する。四高では八田與一の3年先輩にあたる。台湾南部一帯でサトウキビなど農業生産を高めるための工事を指揮した。現在も屏東県には鳥居が工事に携わった二峰圳などの地下ダムや農業用水路が現存している。
石神 球一郎(いしがみ きゅういちろう、1883年〈明治16… 石神 球一郎(いしがみ きゅういちろう、1883年〈明治16年〉- 1932年〈昭和7年〉)は甑島出身の技術者。金瓜石鉱山所長及び台湾鉱業会理事を務めた。本項では甑島における鹿の子百合球根輸出の先駆けとなった父の石神弘志についても併せて記述する。 石神家は鹿児島県上甑島の士族であり、1862年(文久2年)の文久の法難の際に地頭の石神萬兵衛を派遣したという記録が残っている。その後明治維新を経て父・弘志は東京の警視庁に警部として勤める。1873年(明治6年)に西郷隆盛が官職を辞し鹿児島へ帰ると、多くの同調者がそれに倣った。弘志もまた職を辞し故郷の鹿児島に戻ったが、私学校の生徒らに官軍のスパイと疑われ捕らえられてしまう。
高石 弁治(高石 辨治、たかいし べんじ、1882年〈明治1… 高石 弁治(高石 辨治、たかいし べんじ、1882年〈明治15年〉12月17日 - 1940年〈昭和15年〉3月8日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者・実業家である。愛知県岡崎市の電力会社岡崎電灯に技師として入社し、技師長・常務取締役と昇進、後身の中部電力(岡崎)では副社長を経て社長まで昇った。愛媛県出身。 高石弁治は1882年(明治15年)12月17日、愛媛県宇摩郡寒川村(現・四国中央市)に高石佐吉の長男として生まれた。愛媛県立西条中学校を経て京都の第三高等学校へ進み、1906年(明治36年)7月第二部工科を卒業。次いで1909年(明治42年)7月京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。
関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年… 関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年〉11月21日 - 没年不詳)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省の技官を経て実業界入りし、大阪電灯技師長や大同電力常務取締役、日本揮発油(現・日揮ホールディングス)初代専務取締役などを務めた。 関口寿は1882年(明治15年)11月21日、東京府関口慶吉の長男として生まれた。1901年(明治34年)7月東京の第一高等学校第二部工科を卒業、次いで1904年(明治37年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業する。卒業後は逓信省に入り通信技手となる。翌年時点の職員録には逓信省通信局所属の通信技手とある。
池田 謙三(いけだ けんぞう、1882年9月20日 - 19… 池田 謙三(いけだ けんぞう、1882年9月20日 - 1953年11月9日)は、日本の冶金学者で鉱山技術者。前半生は藤田組(現・DOWAホールディングス)で製錬技術改良を手がけ、学術に転じた後半生は秋田鉱山専門学校 (旧制)校長を務めた後、同校を母体とした秋田大学の事実上の初代学長となった。 現在の秋田市南通亀の町(旧中亀ノ町)に生まれる。父の孫一は県内の田子内鉱山の経営者となる。孫一は元は仙北郡の出身で、謙三が生まれた年に秋田に出て企業の経営に加わり、1886年に田子内鉱山の運営を始めた。 秋田師範附属小学校(現・秋田大学教育文化学部附属小学校)から旧制秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に進む。
北村 政治郎(きたむら まさじろう、1882年(明治15年)… 北村 政治郎(きたむら まさじろう、1882年(明治15年)4月14日 - 1933年(昭和8年)3月28日)は、日本の通信技術者である。 滋賀県大津市の生まれ。幼年のころに北村斎一郎の養子となり、新潟県に移住する。後に上京し逓信省が運営する東京郵便電信学校を経て、卒業後の1904年(明治37年)に同省に入り電気試験所に勤務した。 その後は同僚の丸毛登らと共に、多くの電話や通信の接続装置、電線の発明に携わった。1924年(大正13年)に逓信省を離れ、翌1925年(大正14年)に東京放送局(現在の日本放送協会)が開局したのと同時に同局の技師長に就任し、放送事業の向上に貢献した。子にジャズ・クラリネット奏者の北村英治らがいる。
安倍 邦衛(あべ くにえ、1882年〈明治15年〉3月10日… 安倍 邦衛(あべ くにえ、1882年〈明治15年〉3月10日 - 1950年〈昭和25年〉10月19日)は、日本の鉄道官僚、鉄道技術者、土木技術者。位階は正五位。学位は工学博士。 元鉄道省東京鉄道局工務課技師、東京地下鉄道初代技師長、元帝都復興院勅任技師、東京市電気局第4代技術長、元東京高速鉄道顧問技師。日本で最初の地下鉄の設計者。 新潟県中蒲原郡流作場新田(現 新潟市中央区三和町)出身。1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業、1903年(明治36年)7月に第四高等学校を卒業、1906年(明治39年)7月に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1906年(明治39年)7月に鉄道作業局に技手として入局、1909年(明治42年)12月28日に鉄道院技師に任官、中部鉄道管理局工務課に配属、東海道線の東京 - 横浜間の鉄道の改良工事に従事、以後、東京の国有鉄道の工事を担当。
高橋 保(たかはし たもつ、1882年〈明治15年〉3月8日… 高橋 保(たかはし たもつ、1882年〈明治15年〉3月8日 - 1972年〈昭和47年〉12月9日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者・実業家である。 郷里長野県の電力会社長野電灯・東信電気で技師長を務めたのち、東信電気が起業した肥料会社昭和肥料の常務取締役に転身。姉妹会社としてレーヨンメーカー昭和人絹(クレハの母体)を起業して初代社長となり、1939年(昭和14年)には昭和肥料の後身にあたる昭和電工の初代副社長に就任した。衆議院議員を務めた時期もある(当選1回)。 高橋保は、1882年(明治15年)3月8日、長野県人・高橋澄弥の長男として生まれた。出身地は長野県東筑摩郡上川手村(現・安曇野市)。
辰馬 鎌藏(辰馬 鎌蔵、たつうま けんぞう、旧姓・中尾、18… 辰馬 鎌藏(辰馬 鎌蔵、たつうま けんぞう、旧姓・中尾、1882年〈明治15年〉2月 - 1959年〈昭和34年〉5月11日)は、日本の土木技術者、内務技監、実業家。土木学会会長。 大阪府・中尾又一郎の五男。兵庫県西宮の酒造家辰馬悦蔵先々代悦叟の養子となり、1912年、分家する。 1907年、京都帝国大学理工科大学土木工学科卒業。内務技手となり1909年、内務技師に任じ、大阪、下関、東京各土木出張所勤務を経て1924年、欧米各国へ出張を命ぜられる。帰朝後名古屋土木出張所長、東京土木出張所長を経て1936年、内務技監に任ぜられ、1939年、退官する。 退官後、広島工業港、東京都水道、鳥取市、兵庫県等の顧問として指導にあたる。
杉村信近(すぎむら のぶちか、1882年(明治15年) - … 杉村信近(すぎむら のぶちか、1882年(明治15年) - 1973年(昭和48年)4月15日)は、日本の技術者、発明家、弁理士。日本弁理士会の初代理事長(現在の会長職相当)。 東京帝国大学を卒業後、芝浦製作所に技術者として入社。在職中に12件の日本国特許出願を行い、米国でも特許を取得した。 1920年(大正8年)に弁理士資格を取得し、日本初の企業内弁理士として芝浦製作所特許部に勤務する。 1923年(大正11年)に、芝浦製作所を退職し、杉村萬国特許事務所を創立する。 原子力エネルギー発生装置事件の出願及び審決取消訴訟の代理人を務める。 1961年(昭和36年)に藍綬褒章を受章する。墓所は多磨霊園(13-1-22)
国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11… 国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11月17日 - 1960年〈昭和35年〉10月17日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。新潟県上越市(旧・高田市)の電力会社中央電気にて技師長および専務取締役を務め、同社の電源開発に携わった。京都市出身。 1881年(明治14年)11月17日、京都の三条通白川橋にて国友藤九郎の四男として生まれた。国友家は戦国時代から近江国坂田郡国友村(現・滋賀県長浜市)で鉄砲を生産していた鉄砲鍛冶の家だが、父・藤九郎は明治維新後京都へ移り活版印刷機の生産にあたっていた。国友は京都府立第一中学校を経て京都の第三高等学校へ進学し、1903年(明治36年)7月に卒業。
張 忠一(ちょう ただかず、1881年7月3日 - 没年不詳… 張 忠一(ちょう ただかず、1881年7月3日 - 没年不詳)は、日本の鉄道技術者。 山口県士族張至誠の長男として生まれる。1901年福岡県立中学修猷館を経て、1908年7月東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。 四日市製紙、富士製紙などに勤務した後、1912年鉄道院の技手となり、鉄道技師に進み、鉄道大臣官房研究所兼経理局第二課勤務を経て、1929年鉄道大臣官房研究所第一科長に就任。1935年5月退官する。
太田 圓三 (おおた えんぞう、太田円三、1881年(明治1… 太田 圓三 (おおた えんぞう、太田円三、1881年(明治14年)3月10日 - 1926年(大正15年)3月21日)は明治・大正期の土木技術者・鉄道技師。詩人・木下杢太郎の実兄。動物学者である太田嘉四夫の叔父。 静岡県田方郡伊東町(現在の伊東市)出身。東京府立一中、一高を経て、1904年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。大学では広井勇に師事。逓信省鉄道作業局(後の鉄道院→鉄道省)に入省。1910年から2年間、欧米に留学。1923年の関東大震災後、帝都復興院土木局長に抜擢される。 帝都復興院では、隅田川六大橋(下流から相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋)をはじめとする「震災復興橋梁」の建設を、橋梁課長の田中豊と共に主導した。
杉山 栄(杉山 榮、すぎやま さかえ、1881年〈明治14年… 杉山 栄(杉山 榮、すぎやま さかえ、1881年〈明治14年〉3月6日 - 1938年〈昭和13年〉10月7日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の土木技術者、実業家。主に電気事業に関与し、矢作水力副社長・大同電力取締役などを務めた。岐阜県出身。 杉山栄は1881年(明治14年)3月6日、岐阜県士族杉山斧吉の長男として生まれた。本籍地は岐阜県稲葉郡加納町(現・岐阜市)。1901年(明治34年)7月金沢の第四高等学校第二部工科を卒業、次いで1905年(明治38年)7月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業する。その後は電力界に入り、まず箱根水力電気に入社して同社の土木課長となる。箱根水力電気は箱根早川の開発と横浜市への電力供給を目的に1906年(明治39年)12月に設立された電力会社で、1909年(明治42年)5月に塔之沢発電所を完成させた。
金古 久次(かねこ ひさつぐ、1881年 - 1945年)は… 金古 久次(かねこ ひさつぐ、1881年 - 1945年)は、日本の土木技術者、都市計画家 福島県に生まれる。1909年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。内務省東京土木出張所に入り、利根川第二期改修工事、ついで荒川上流改修工事に従事。 1926年から2年間欧米各国へ出張。 1929年、下関土木出張所長、34年、名古屋土木出張所長となる。1938年、退任した。 1938年、中国上海の都市計画を実現するため設立した日中合弁の上海恒産会社技術部長に招請される。 1940年、同長を退任。 その後、和歌山市顧問、都市計画和歌山地方委員会委員などをつとめた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
羽島 金三郎(はしま きんざぶろう、1880年11月25日 … 羽島 金三郎(はしま きんざぶろう、1880年11月25日 - 1962年3月22日)は、日本の鉄道技術者。現在の山形県上山市出身。次男には国鉄浜松工場・大宮工場長、川崎電機製造常務取締役を務めた羽島進。 山形県南村山郡上山裏町(現・上山市裏町)にて羽島栄造・はなの長男として生まれ、明新学校・上山尋常高等小学校(現・上山市立上山小学校)、山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)、第二高等学校(現・東北大学)、帝国大学工科大学(現・東京大学大学院工学系研究科・工学部)機械工学科を経て1905年に川崎造船所に就職した。同年には松平信安の長女・賀満(かま)と結婚した。 1907年12月に帝国鉄道庁へ移り大宮工場で勤務、1910年に鉄道院技技師、1919年に盛岡工場長、1922年に札幌鉄道局工作課車両係長を経て、その後工作課長となる。
久村 清太(くむら せいた、1880年(明治13年)10月3… 久村 清太(くむら せいた、1880年(明治13年)10月3日 - 1951年(昭和26年)9月1日)は、日本の実業家、科学技術者である。帝人の創業者の一人として知られる。 山形県酒田市に生まれる。父の名は金蔵で、名匠といわれた表具師だった。琢成小学校から旧制荘内中学、旧制二高を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学工科大学(現在の東京大学大学院工学系研究科・工学部)応用化学科に入学する。在学中に太陽レザー製造所でヴィスコースのレザークロスの試作研究にあたり、1907年(明治40年)につや消しレザーの特許取得やヴィスコース製造法の開発に専念するため中退した。その後はその出資によって、東京レザー合資会社の設立に携わる。
百木 三郎(ももき さぶろう、1880年8月12日 - 19… 百木 三郎(ももき さぶろう、1880年8月12日 - 1940年12月3日)は、日本の技術者、実業家。東洋陶器(現TOTO)取締役社長を務めた。 窯業家河原徳立の三男として東京深川に生まれる。順天求合社(現順天高等学校)を経て、1899年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業後、農商務省海外窯業練習生としてアメリカ合衆国に留学し、1903年コーネル大学大学院修了。父の親友だった大倉孫兵衛に雇われ、1904年の日本陶器設立時に同社入社。 日本陶器では解任された飛鳥井孝太郎の後任として技師長となり、同窓の西山貞を招聘するなどして衛生陶器の開発にあたり、"sanitary ware"の訳語として「衛生陶器」の語を考案するなどもした。
雑賀 信三郎(雜賀、さいか しんざぶろう / のぶさぶろう、… 雑賀 信三郎(雜賀、さいか しんざぶろう / のぶさぶろう、1880年(明治13年)7月16日 - 1956年(昭和31年)8月3日)は、明治末から昭和前期の農業技術者、政治家、実業家。衆議院議員、山口県豊浦郡豊東村長。 山口県豊浦郡上保木村(豊東村上保木、菊川町を経て現下関市菊川町大字上保木)で、雑賀敬二郎の息子として生まれる。山口高等学校を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学農科大学を卒業した。1908年(明治41)12月、一年志願兵として入営し、1911年(明治44年)4月、陸軍歩兵少尉に任じられ、のち歩兵中尉に昇進。 島根県農業技師に任官。熊本県農業技師に転じ、同県農商課長、熊本県農会幹事、同県産牛馬組合連合会副組長、同県茶業組合連合会顧問、熊本商業会議所特別議員、大日本産業組合熊本支部理事、大日本蚕糸業組合熊本支会商議員、同県実業団体連合会顧問などを務めた。
高橋 新八(たかはし しんはち / しんぱち、1880年(明… 高橋 新八(たかはし しんはち / しんぱち、1880年(明治13年)6月28日 - 1923年(大正12年)4月9日)は、明治から大正期の造船技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧名・新作。 英学者・高橋新吉の長男として生まれる。父の死去に伴い、1918年(大正7年)12月20日、男爵を襲爵した。 1909年7月(明治42年)東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。神戸川崎造船所技師を経て、1917年(大正6年)八千代生命保険監査役に就任。その他、南国護謨監査役、輸出水産取締役、墨田川造船所社長などを務めた。 1922年(大正11年)5月13日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1923年4月8日まで在任した。
山田博愛(やまだ ひろよし(はくあい)、1880年 - 19… 山田博愛(やまだ ひろよし(はくあい)、1880年 - 1958年)は、日本の内務官僚・都市計画家・土木技術者。旧都市計画法、関東大震災後の帝都復興計画を立案した。新潟県出身。 新潟県高田で長男として生まれる。高田中から第四高等学校 (旧制)を経て、1905年、東京帝国大学工科大学土木工学科を7月卒業。同年9月、東京市に入る。1906年12月に技師、1908年には土木局道路課長となる。 1908年7月からの埼玉県の、1915年3月からの滋賀県の土木課長を経て、1918年に内務省大臣官房局に都市計画課が創設されると、土木分野の主任技師に抜擢され、都市計画課長池田宏や建築主任技師の笠原敏郎らと協力して都市計画法と市街地建築物法の立案と制定に関し中心的役割を果たす。
藤木 吉松(ふじき きちまつ、1880年(明治13年)- 1… 藤木 吉松(ふじき きちまつ、1880年(明治13年)- 1965年(昭和40年)8月10日)は、日本の技術者である。 兵庫県小野に生まれる。後に大阪市内で島根県で製造されている雲州そろばんの技術を学んだり、製造にも携わった。 これによって、1903年(明治36年)に故郷の小野で雲州そろばんの改良したそろばんの製造を始める。後にこのそろばんは「播州そろばん」呼ばれ、知名度の上昇及び普及に貢献した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、兵庫県に関連した書きかけの項目です。
八田 嘉明(はった よしあき、1879年9月14日 - 19… 八田 嘉明(はった よしあき、1879年9月14日 - 1964年4月26日)は、日本の鉄道技術者、官僚、実業家、政治家。工学博士。東京府生まれ。
米沢 与三七(よねざわ よそしち、1879年(明治12年)8… 米沢 与三七(よねざわ よそしち、1879年(明治12年)8月1日 - 1966年(昭和41年)5月9日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。子に電電公社総裁を務めた米沢滋がいる。 富山県に生まれる。1906年(明治39年)東京帝国大学電気工学科卒業後、逓信省に入り、通信技手、同技師、名古屋郵便局電話課長、鹿児島郵便局工務課長などを経て、1920年(大正9年)逓信省臨時電話局第3課長、工務局電話課長、工務局長となる。この間欧米留学、1932年(昭和7年)にはマドリードの万国無線会議に政府代表委員として出席した。1934年(昭和9年)退官すると、日本放送協会理事、技術局長、電波技術協会会長などを歴任した。
新庄 直知(しんじょう なおとし、1879年(明治12年)3… 新庄 直知(しんじょう なおとし、1879年(明治12年)3月16日 - 1945年(昭和20年)8月28日)は、明治から昭和期の鉄道技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員。新荘と表記される場合がある。元常陸国の麻生藩主の家系。 本籍・茨城県行方郡麻生町。司法官・新庄直陳の長男として生まれた。父の死去に伴い、1913年(大正2年)6月20日、子爵を襲爵した。 1908年(明治41年)7月、東京帝国大学工科大学造兵学科を卒業。1910年(明治43年)鉄道院(後の日本国有鉄道の前身)技手に就任。その後、同技師、同嘱託などを務めた。 1917年(大正6年)3月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1939年(昭和14年)7月9日まで4期在任した。
岸原 重治(きしはら しげはる、1878年9月 - 没年不詳… 岸原 重治(きしはら しげはる、1878年9月 - 没年不詳)は、日本の電気技術者・実業家。官営八幡製鐵所の草創期から電気技師を務め、鉄鋼電気技術の基礎を築いた。 福岡県士族岸原義路の長男として生まれる。1896年福岡県立尋常中学修猷館、1899年7月第五高等学校工科を経て、1903年7月京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業。 1905年、創立間もない官営八幡製鐵所の電気工事嘱託となり、1909年技師に任ぜられる。1910年に開設された、青少年未経験工の技術教育を行う「製鉄所幼年職工養成所」の教科書編纂委員を命ぜられ、「電気学大意」を作成した。その後、工務部電気科長を経て、1923年動力部長に就任。
川原 五郎(かわはら ごろう、1878年(明治11年)4月 … 川原 五郎(かわはら ごろう、1878年(明治11年)4月 - 没年不明)は、日本の造船技術者。横浜高等工業学校教授。日本鋼管顧問。族籍は東京府平民。作家の藤島泰輔は孫。ジャニーズ事務所代表取締役の藤島ジュリー景子は曽孫。 佐賀県士族・川原道種の四男。海軍中将川原袈裟太郎の弟。1901年、東京帝国大学工科大学造船科を卒業。 三菱長崎造船所に入り、1905年、英国に出張し帰朝後同所設計課長、造船部助役を経て、三菱造船参事に進み、1929年、横浜高等工業学校教授に任ぜられ、日本鋼管顧問を兼ねた。 趣味は読書、散歩。宗教は真宗。1920年、分家。東京府在籍で、住所は東京市豊島区駒込1丁目。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年… 生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年)2月1日 - 1973年(昭和48年)3月1日)は、日本の鉄道官僚・技師、土木技術者、鉄道実業家。台湾総督府交通局総長、京浜電気鉄道社長。 大分県大分郡、のちの稙田村(大分村、大分町を経て現大分市)で生野米蔵の長男として生まれる。大分尋常高等小学校、京都府立中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 逓信省に入省し鉄道作業局に配属された。1909年(明治42年)欧米に留学し1911年(明治44年)に帰国。鉄道院運輸局に配属され、1912年(明治45年)3月のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現日本交通公社)創立に際して幹事に就任。
樺島 正義(かばしま まさよし、1878年1月15日 - 1… 樺島 正義(かばしま まさよし、1878年1月15日 - 1949年)は、日本の橋梁技術者。構造家。 設計思想のうち橋梁については「橋梁外観に配慮することが経済的にマイナスとなっても配慮すべきで、よく練られた外観からもたらされるものは大きく、都市の風格を整えることになる」と、外観の重要性を強調している。 新常盤橋、一石橋、神宮橋、三原橋、鍛冶橋、今川橋、九道橋、高橋、二ノ橋、猫俣橋、羽衣橋、荒川鉄管橋、中川鉄管橋、安倍川橋、犬山橋、大井川橋、南旨橋、鼎岩橋、水郷大橋、境橋、南洋町パラオの橋梁、日本橋呉服橋、大阪四ツ橋、富士川橋など、後世に残る著名橋梁の設計や、日本製鉄工場貯炭場起重機設計など、多くの構造設計に関わったことで知られる。
有田 延(ありた のぶ、1878年1月2日 - 1944年1… 有田 延(ありた のぶ、1878年1月2日 - 1944年10月19日)は、日本の造船技術者。海軍造船少将。 福岡県出身。1896年福岡県立尋常中学修猷館、1899年7月第五高等学校工科を経て、1902年7月東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。東大在学中の1901年2月、海軍造船学生試験に合格。 1902年呉海軍造船廠に入り、その後、造船廠と造兵廠が合併し、呉海軍工廠が設立されると、その造船部部員となる。1907年佐世保海軍工廠造船部部員となる。ここで筑摩型防護巡洋艦の設計を行い、この型の巡洋艦として、筑摩、 矢矧、平戸の3隻が建造された。 1911年造船監督官として英国に出張。ヴィッカース社による戦艦金剛の建造を監督し、竣工まで立ち会っている。
貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)… 貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)10月12日 - 1937年(昭和12年)11月2日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・野田。 郡長、税務署長、細川家顧問などを務めた熊本県人・野田慶幸の三男として生まれる。1900年(明治33年)貝谷弥三の養子となり、その長女・多美と結婚し貝谷に改姓。 小学校を卒業後に上京し、1899年(明治32年)7月、東京鉄道学校鉄道建設科を卒業し、鉄道作業局建設部、東京市土木技手、熊本県飽託郡道路組合嘱託、同県水力電気調査助手、天草郡吏員を歴任。 1905年(明治38年)4月、三池炭鉱に入社し、工手長心得、工手長、鉱務技士心得、鉱務技士、建築技師、庶務事務員などを務め、1926年(大正15年)10月に退職した。
太刀川 平治(たちかわ へいじ、1877年〈明治10年〉4月… 太刀川 平治(たちかわ へいじ、1877年〈明治10年〉4月7日 - 1966年〈昭和41年〉2月15日)は、日本の電気技術者。工学博士。東京電燈研究所長・技師長・工務部長・常務取締役、東京電力顧問。電気学会名誉員。 新潟県古志郡長岡表五ノ町(現 長岡市表町4丁目)の薬種商・太刀川善蔵の四男として出生。 新潟県尋常中学校を経て、1899年(明治32年)7月に第一高等学校を卒業、1902年(明治35年)7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。 1902年(明治35年)7月に逓信省電気試験所に技手として入所、1903年(明治36年)12月に一年志願兵として陸軍歩兵第1連隊に入隊、日露戦争に応召、1905年(明治38年)6月に陸軍歩兵少尉に任官、戦後、逓信省を退官。
直木 倫太郎(なおき りんたろう、1876年(明治9年)12… 直木 倫太郎(なおき りんたろう、1876年(明治9年)12月1日 - 1943年(昭和18年)2月11日)は、日本の土木技術者・土木工学者、都市計画家。元帝都復興院技監。大陸科学院初代院長。元大阪市都市計画部長。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)の創設時協力者。元大林組取締役。 新聞に投稿して入選した俳句から燕洋と号した。技術者の地位向上分野の先駆をなした「日本工人倶楽部」の活動でも活躍した技術官僚。 1876年、兵庫県で真島顕蔵の長男として生まれ、17歳で実業家・直木政之介(日本燐寸製造創業者)の養子となる。 姫路中学校、第三高等学校、第二高等学校を経て、1899年7月、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。
奥山 亀蔵(旧字体: 奧山 龜藏、おくやま かめぞう、187… 奥山 亀蔵(旧字体: 奧山 龜藏、おくやま かめぞう、1876年(明治9年)9月10日 - 1941年(昭和16年)5月17日)は、日本の土木技術者、内務技官、実業家、政治家。衆議院議員。 1876年(明治9年)9月10日、山形県田川郡古関村(東田川郡大和村、余目町を経て現庄内町)において、豪農・奥山重右衛門の三男として生まれた。 22歳の時に荘内中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)を卒業し、翌年に石川県金沢市の第四高等学校大学予科二部に入学した。1年間の旧額なども経て、1902年(明治35年)7月に第四高等学校を卒業した。その後は東京府土木課の雇員として、多摩川工区や墨田川工区の現場監督を務めた。