胎中 楠右衛門(たいなか くすえもん、1876年(明治9年)… 胎中 楠右衛門(たいなか くすえもん、1876年(明治9年)9月20日 - 1947年(昭和22年)3月22日)は、日本の大正・昭和期の政治家、実業家、自由民権運動家。農林審議会議員、米穀統制調査会委員、大日本国粋会幹事長、藤原製材会社社長。 明治9年(1876年)9月20日、旅館業を営む胎中弥平の次男として、高知県安芸郡安芸町(現安芸市)に生れる。母は芳子。 この明治9年(1876年)9月は、折しも明治天皇が国憲草案起創の詔勅を元老院へ御下賜された時にあたり、楠右衛門はことあるごとにそれを深く認識するようになり、晩年「憲政碑」の建立へもその思いがつながっている。 明治23年(1890年)、上京し、神奈川県愛甲郡厚木町(現・厚木市)に居を定めた。
相馬 黒光(そうま こっこう、1876年(明治9年)9月12… 相馬 黒光(そうま こっこう、1876年(明治9年)9月12日 - 1955年(昭和30年)3月2日)は、夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家である。旧姓は星、本名は良(りょう)。 旧仙台藩士・星喜四郎、巳之治(みのじ)の三女として仙台に生まれた。星家の婿養子だった父は仕事のため別居していた。8歳のときに一家の柱であった漢学者の祖父が死去、十代前半には姉の発狂、父親の癌発病、弟の病気による右足切断が立て続けて一家を襲い、笑わない子となる。少女期より横浜バンド出身である押川方義の教会「仙台日本基督教会」へ通い、14歳で洗礼を受けた。 小学校初等科卒業後、裁縫学校に進むが、進学を強く希望し、1891年に、学費の安かったミッションスクール宮城女学校(現・宮城学院中学校・高等学校)に入学が叶った。
伊藤 証信(いとう しょうしん、1876年(明治9年)9月1… 伊藤 証信(いとう しょうしん、1876年(明治9年)9月10日 - 1963年(昭和38年)1月14日)は、日本の仏教思想家、社会運動家。青年期には出家した僧であった。 三重県員弁郡久米村坂井(後の桑名市坂井)の農家に生まれ、幼名を清九郎といった。 13歳で出家して真宗大谷派円授寺で得度し、僧となって、名を証信とした。岐阜県大垣の美濃教校、京都市の真宗中学校を経て、真宗大学(大谷大学の前身)に学ぶ。在学中から清沢満之に師事し、大学の東京への移転を機に上京する。大学卒業後は、清沢が唱えた「精神主義」の運動に加わった。 1904年、父の看病のために久米村へ帰郷した際、霊感体験をし「無我の愛」を悟ったという。
野口 多内(のぐち たない、1876年〈明治9年〉8月7日 … 野口 多内(のぐち たない、1876年〈明治9年〉8月7日 - 1949年)は、明治・大正・昭和の外交官・教育者・社会活動家。名は茂温、別号は三山。外務省留学生及び外交官として中国で各事案に対処し、後に奉天居留民会長として現地の顔役となった。 新潟県北蒲原郡佐々木村(現:新発田市)に生まれる。実家は代々里正の家柄で、農業を営みながらも士分待遇であったという。1892年(明治25年)に上京し、三島中洲の漢学塾・二松学舎で学びながら、早稲田東京専門学校でも法律・政治を修学した。1896年(明治29年)、二松学舎尋常科を卒業し、中等学校漢文教師の資格を得た。 まもなく野口は外務省留学生試験を受験し、1897年(明治30年)、在北京留学生を命じられ、中国語を修学する。
麻生 イト(あそう いと、1876年〈明治9年〉7月3日 -… 麻生 イト(あそう いと、1876年〈明治9年〉7月3日 - 1956年〈昭和31年〉7月20日)は、広島県尾道市出身の実業家・慈善家。麻生 以登とも。教育分野・社会インフラ事業・文化事業などに私財を投じた。因島の麻生旅館主。侠客「因島の女親分」として、勝新太郎主演のヒット映画『悪名シリーズ』で唯一実名で出てくることで知られる。原作の小説『悪名』(今東光)には実在した親分衆が数名登場する。 尾道十四日町、現在の十四日元町から長江のあたりで煙草屋あるいは宿屋を営んでいた麻生家の三女として生まれる。小学校を卒業後、神戸に養女に出される。これ以降しばらくイトの詳細はわかっておらず、関西で住み込み女中や工事現場の事務員、また北海道に移り住んでいたなど、転々としていた。
石川 三四郎(いしかわ さんしろう、1876年5月23日 -… 石川 三四郎(いしかわ さんしろう、1876年5月23日 - 1956年11月28日)は、日本の社会運動家・アナキスト・作家。筆名の「旭山」も使用する。 1876年5月23日、埼玉県児玉郡山王堂村に、戸長であった五十嵐九十郎・シゲの三男として生まれる。生家は、利根川沿岸で江戸時代から船着き問屋を営み、名主も務めてきた家であった。父は三四郎が兵役にとられるのを嫌い、「一家の主人」には兵役免除が適用されるため、1880年に同村の石川半三郎の養子とした。 本庄小学校高等科卒業後、茂木虎次郎の勧めで1890年に上京し、茂木とその友人橋本義三らが住む家の玄関番として1年ほど住み込み、初めて社会主義や無政府主義などを知る。
山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)… 山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)5月18日 - 1960年(昭和35年)2月18日)は日本の革命運動家、大陸浪人。孫文の革命活動に参加した山田良政の実弟である。 青森県弘前生まれ。伯父・菊池九郎が創立した東奥義塾を卒業後、室蘭炭礦汽船を経て上京、青森リンゴ販売商となる。東亜同文会の清国派遣留学生選考に合格して上海に渡り、その後南京同文書院(後の東亜同文書院)に入学した。この頃、兄に孫文を紹介されている。卒業後は同院教員、日露戦争での通訳従軍を経て南満州鉄道に入社した。 兄の遺志を継いで孫文を支援し続け、第一次世界大戦中の第2次大隈内閣による対華21か条要求など日本政府と袁世凱政権の関係悪化による孫文の対日不信の中にあっても山田は信頼を受けた。
竹内 賀久治(たけうち かくじ、明治8年(1875年)10月… 竹内 賀久治(たけうち かくじ、明治8年(1875年)10月3日 - 昭和21年(1946年)11月18日)は、日本の弁護士、教育者、政治活動家。法政大学総長、第二東京弁護士会会長、国本社専務理事。学位は法学博士。 岡山県窪屋郡白楽市村(現在の倉敷市)に生まれる。苦学して、明治26年(1893年)に陸軍教導団に合格。明治30年(1897年)に二等軍曹となり、歩兵第21連隊(広島)に配属。翌年陸軍士官学校に入学する(11期) 。しかし上官と喧嘩をし、陸軍を退職。その後、麻布中学の体操教師をしながら和仏法律学校夜間部に通う。 明治37年(1904年)日露戦争に出征、砲兵少尉として能美島砲台に配属され、翌年大連に上陸するも病により内地送還、召集解除となる。
赤羽 巌穴(あかはね がんけつ、1875年4月5日 - 19… 赤羽 巌穴(あかはね がんけつ、1875年4月5日 - 1912年3月1日)は明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者。本名は赤羽一(あかはね はじめ)。巌穴は号。 長野県筑摩郡広丘村(現塩尻市)の郷原宿に生まれる。父の名は赤羽無事、母は京。家は下問屋と呼ばれている旧家で、代々郷原宿の問屋場を務めていた。弁護士で衆議院議員まで務めた森山儀文治は叔父に当たる。 郷原宿下問屋の長男に生まれ、16歳で祖父源蔵から家督を相続したが、1893 年(明治26年)家督を弟宜十に譲って、翌1894年(明治27年)上京した。1898年(明治31年)7月、東京法学院(現在の中央大学)を卒業して、神戸新聞社に就職し神戸新聞の記者となり神戸に移るも、1899年東京に戻り、島田三郎の『革新』、松村介石の『警世』の記者となる。
細木 之伴(ほそき ゆきとも、1875年〈明治8年〉 - 1… 細木 之伴(ほそき ゆきとも、1875年〈明治8年〉 - 1945年〈昭和20年〉2月)は、日本の実業家、政治運動家、民政党院外団の壮士。占術家・細木数子の父。 高知県幡多郡八束村(現・四万十市)出身。実母は小野藤で、小野家は土佐国(現・高知県)で代々代官をしていた名家であった。父方の細木姓を名乗った。 十代の頃東京に出て、神田神保町にあった永易弁護士事務所というところに書生のような形で入り込んだ。1906年、明治大学卒業、明法学士である。身の上その他判断を行う(商号は月桂堂)。 民政党院外団の壮士として活動した。新聞沙汰になるような事件を起こして東京を離れ、富山へ逃げた。 落合の家では一時、高島易断支部の看板をかけ、本部から文句が出てやめてからは、生命保険会社の代理店を始めた。
田畑 染(たはた そめ、1875年 - 1952年)は、日本… 田畑 染(たはた そめ、1875年 - 1952年)は、日本の婦人運動家。旧姓:斎藤。 山形県八幡町(現在の酒田市)出身。1911年に草木尋常小学校の代用教員となり、1913年に夫の良吉とともに七滝尋常小学校に勤務した。1920年に良吉の転勤で秋田市に転居した。 1930年に婦選獲得同盟秋田支部を結成し、幹事を務めた(このときの幹部には和崎ハルなどがいた)。全日本婦選大会にも参加し、軍事予算反対などの発言を行った。 1952年、岩手県で死去した。
山室 機恵子(やまむろ きえこ、1874年(明治7年)12月… 山室 機恵子(やまむろ きえこ、1874年(明治7年)12月5日 - 1916年(大正5年(7月12日)は、山室軍平の最初の妻で、明治時代の社会事業家である。 岩手県花巻の川口村(市町村制施行後は花巻川口町)に開明的な素封家の佐藤庄五郎の長女として生まれる。佐藤家は代々豪農で、庄五郎は農村改良指導者として天皇から奨励金を授与されたこともあった。 地元の高等小学校を卒業後、家業の養蚕を手伝っていたが、『女学雑誌』でキリスト教に触れ、1892年に上京、明治女学院に入学する。在学中、一番町教会に通い、1891年植村正久より洗礼を受ける。 1893年明治女学校普通科を卒業し、継いで高等文科に進み、1895年に卒業後は東京婦人矯風会の書記を経て、下田歌子らの大日本婦人教育会が設立した女紅場で教壇に立つ傍ら、『女学雑誌』の事務仕事にも携わった。
留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874… 留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874年(明治7年)10月4日 - 1933年(昭和8年)4月19日)は留岡幸助の妻。社会福祉活動家。愛媛県喜多郡内子町出身[信頼性要検証]。 愛媛県喜多郡天神村(現在の内子町)に寺尾家の長女として誕生した。その後、設立したばかりの岡山県上房郡高梁町(現在の高梁市)にあった順正女学校(現在の岡山県立高梁高等学校)に学び、東京に出て巣鴨家庭学校の保母となる。1901年(明治34年)6月1日に留岡幸助と結婚した。菊子が26歳のときだった。 結婚した年の10月に菊子は慈善事業師範学校を開設して従事者の養成をはかるなど事業を拡大し、1906年7月には財団法人なった。
坪川 洹平(つぼかわ かんぺい、1874年(明治7年)6月2… 坪川 洹平(つぼかわ かんぺい、1874年(明治7年)6月29日 - 1958年(昭和33年)11月7日)は、日本の実業家・慈善家。1952年(昭和27年)には新発田市名誉市民に推挙された(名誉市民第1号)。新発田町立図書館(新発田市立中央図書館の前身)の寄贈者である。新潟県北蒲原郡新発田本村外ヶ輪(現・新発田市城北町)出身。 1874年(明治7年)6月29日、新潟県北蒲原郡新発田本村外ヶ輪(現・新発田市城北町)に生まれた。父親は坪川瀬平、母親はウイである。洹平は5人兄弟姉妹の三男であり、兄には英吉と雄二、姉にはレンとキイがいた。父の瀬平は新発田藩の茶道家である田宮休斎の次男であり、坪川家を嗣いで同家7代目となった。
沖 禎介(おき ていすけ、1874年(明治7年)6月8日 -… 沖 禎介(おき ていすけ、1874年(明治7年)6月8日 - 1904年(明治37年)4月21日)は、明治期の諜報活動家(スパイ)。長崎県平戸市出身。 東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後、横浜で貿易業に従事。1901年(明治34年)に中国に渡り、北京の東文学社の教師となる。1903年(明治36年)には文明学社を設立した。 1904年(明治37年)、日露戦争開戦に際しては民間人ながら陸軍の特務機関に協力し、ロシア軍の輸送路破壊工作に従事する。横川省三とともにラマ僧に変装して満州に潜伏しているところをロシア兵に捕獲され、ハルピン郊外で処刑される。 処刑に際して当初は絞首刑を予定されていたが、彼らの態度が立派だったため現地の司令官がロシア皇帝ニコライ2世に請願し、銃殺刑に変更されたと言われている。
内山 愚童(うちやま ぐどう、1874年〈明治7年〉5月17… 内山 愚童(うちやま ぐどう、1874年〈明治7年〉5月17日 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義運動家、仏教者。 僧侶として曹洞宗林泉寺の住職を務め、幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。 1874年(明治7年)5月17日 に新潟県北魚沼郡小千谷町(現:新潟県小千谷市)において、宮大工で木形職人であった父・直吉、母・カヅの長男として生まれる。幼名は慶吉で、1885年(明治18年)に小千谷市立小千谷小学校を卒業する。 1890年(明治23年)10月に父が死去すると、内山は長男として家業を継ぐはずだったが、1893年(明治26年)頃に小千谷を離れた。井上円了の住み込みもしていたとの説もある。
岸上 克己(きしがみ かつみ、1873年11月26日 - 1… 岸上 克己(きしがみ かつみ、1873年11月26日 - 1962年6月21日)は明治時代から昭和時代中期にかけて活動した日本のジャーナリスト、労働運動家。 筆名は香摘(こうてき)。栃木県出身。 栃木県河内郡宇都宮町(現在の宇都宮市)で元宇都宮藩の士族・岸上安敬の四男として生まれる。尋常小学校の頃は成績優秀であったが、教師に吃音をからかわれたことが原因で不登校となったため、従兄を頼って埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市浦和区)へ移り住んだ。 従兄は印刷工を営んでいたが、ここで知り合った高木旭山の誘いにより劣悪な環境での労働を強いられていた工員の待遇改善活動へ身を投じ、活版工懇話会の設立に参加して機関紙の編集委員となった。
萱野 長知(かやの ながとも、1873年(明治6年)10月1… 萱野 長知(かやの ながとも、1873年(明治6年)10月12日 - 1947年(昭和22年)4月14日 )は、日本の政治運動家・民間外交家で大陸浪人・アジア主義者の代表的人物のひとり。高知県出身。玄洋社社員。別名・鳳梨、無膓庵、微笑。 高知県土佐郡高知北門筋(現高知市永国寺町)で、萱野新作、糸の長男として生まれた。海南学校(現高知県立高知小津高等学校)、高知共立学校で学んだがいずれも中退。自由民権運動に傾倒する。1889年(明治22年)母方の従兄・深尾重亮が経営する大阪時事通信社の社員となる。1892年(明治25年)東京日日新聞に転じ上海通信員となり、佐世保時事新聞の経営も担った。中国語を学び、広東・香港でも新聞通信員を務めた。
桝本 卯平(ますもと うへい、1873年4月18日 - 19… 桝本 卯平(ますもと うへい、1873年4月18日 - 1931年4月10日)は、造船技術者、労働運動家。 宮崎県南那珂郡油津(現・日南市)出身。第一高等学校、東京帝国大学工科大学造船科卒業。小村寿太郎の愛顧を受け、米国・英国で10年間造船学を学ぶ。帰国後、三菱造船所、鳥羽造船所の技師長となる。1919年、第1回国際労働会議に労働者代表として出席したが、政府による代表の選定に対して労働団体から反対運動が起こった(国際労働会議代表反対運動)。娘は桝本セツ。
城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10… 城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10月18日)- 1959年(昭和34年)12月20日)は、日本のキリスト教徒、社会事業家である。愛称は「愛媛のマザー・テレサ」。 愛媛県温泉郡川上村(現在の東温市)にてフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの弟子であった城謙三の次女として生まれる。松山女学校(現在の松山東雲中学校・高等学校)に入学し、在学中は漢学塾でも学ぶ。1890年(明治23年)に卒業後は宣教師だったデュークス(Oscar A. Dukes)から洗礼を受けキリスト教徒となるが、父から勘当された事により独立した。1893年(明治26年)には横浜に居住し聖経女学校神学部(のち青山学院神学部女子部等を経て現在は東京神学大学)に入学し、卒業後は弘前に移住し来徳女学校(現在の弘前学院大学)にて教鞭を執り養老院勤務の傍らキリスト教の伝道活動にも携わる。
土井 八郎兵衛(どい はちろうべえ、1872年11月10日〈… 土井 八郎兵衛(どい はちろうべえ、1872年11月10日〈明治5年10月10日〉 - 1954年〈昭和29年〉8月12日)は、明治 - 昭和時代の日本の林業家・実業家・三重県多額納税者・慈善家。土井林業代表取締役。尾鷲索道社長。尾鷲銀行頭取。百五銀行、三重共同貯蓄銀行、北山索道各取締役。族籍は三重県平民。三重県立尾鷲高等女学校校舎建築・関東大震災救援・三重県立尾鷲中学校建設のために寄附を行なった。 三重県牟婁郡尾鷲に生まれる。土井嘉八郎の長男。4歳の時に父・嘉八郎が病のため早世する。 専修大学理財科を卒業する。祖業の山林業及び林産物製出販売業を継承し、三重県多額納税者に列し、傍ら銀行会社の重役を兼ねる。
菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19… 菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19日- 昭和31年(1956年)5月27日)は、日本の僧侶、政治活動家。大正・昭和期の社会主義者、後に国家社会主義に転向。 井上円了の東京哲学館、東京神学院で学び、西本願寺北海道開教の僧侶として渡道。本山特命布教使として各地で布教講演を行う。日露戦争で従軍布教使として従軍し、乃木希典陸軍大将に講話を披露。以後、シベリア出兵などで中国、ロシアへ度々渡る。勇払郡安平村(現・安平町)安立寺住職に就いてからは、言論出版に精を出す。 個人雑誌「同志」「浄土」「他力」などを発行し、新聞雑誌への論文投稿も数多い。交友関係は広く、本願寺の改革運動で知り合った赤松克麿と親しく、赤松のすすめで社会民衆党公認で衆議院議員選挙に戦前だけで3度立候補している。
和田 三郎(わだ さぶろう、1872年7月27日(明治5年6… 和田 三郎(わだ さぶろう、1872年7月27日(明治5年6月22日) - 1926年(大正15年)11月1日)は、明治・大正時代の自由民権活動家、アジア主義者。板垣退助の秘書。辛亥革命の支援者。 和田三郎の生家は、祖父・和田波治、父・和田千秋が自宅を提供して夜学会を開いた場所で、のちに高知市土佐山地区(旧 土佐山村)の西川集落における自由民権運動の拠点となった『山嶽社』が創始された場所として、1991年(平成3年)、文化財として修復管理されている。
西田 天香(にしだ てんこう、1872年3月18日(明治5年… 西田 天香(にしだ てんこう、1872年3月18日(明治5年2月10日) - 1968年(昭和43年)2月29日)は、滋賀県長浜市生まれの宗教家・社会事業家、政治家。一燈園の創始者。参議院議員。本名は市太郎。 明治5年(1872年) 滋賀県長浜の紙問屋「玉屋」に生まれる。杉蔭塾で杉本善朗氏から漢籍、珠算等を習う。また長浜キリスト教会の堀貞一牧師から西洋史、英語等を習う。 明治19年(1886年) 長浜旧開知学校高等科を卒業する。翌20年に義母を亡くす。 明治24年(1891年) 父、保三の死亡により家督を継ぐ。同年結婚。小川のぶ(15歳)と結婚。青年団の幹事長に選ばれその後、二宮尊徳の信奉者であった県知事の大越亨に見込まれる。
金子 おなじ(かねこ おなじ、1872年(明治5年) - 1… 金子 おなじ(かねこ おなじ、1872年(明治5年) - 1964年(昭和39年)5月17日)は、日本の社会事業家である。旧姓は伊藤。愛称は「お母さん」。 仙台藩付の儒学者だった伊藤祐順の長女として、東京府(現在の東京都)に生まれる。名の「おなじ」の由来は、彼女の実兄と同じ誕生日であった事から祖父(祐順の父)が命名したといわれている。共立女子職業学校(現在の共立女子大学)に入学し、造花の研究に携わった。卒業後に18歳で私立女子工芸学校(現在の実践女子大学)にて教鞭を執る。 1894年(明治27年)に上毛孤児院(現在の上毛愛隣社)の設立者であった金子尚雄と結婚し、夫が務めた院長の秘書を務めた。その後は夫の補助として孤児への資金やその賛同者集め、後に孤児たちが通園した前橋幼稚園の創設や北海道にて開拓農業の経営も携わった。
幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治… 幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治4年9月23日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者である。
高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(… 高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日(明治4年9月2日) - 1949年(昭和24年)4月5日)は、日本の社会統計学者、社会運動家。
宮崎 滔天(みやざき とうてん、1871年1月23日〈明治3… 宮崎 滔天(みやざき とうてん、1871年1月23日〈明治3年12月3日〉 - 1922年〈大正11年〉12月6日)は、自由民権思想を根幹とする世界革命を目指し活動した近代日本の社会運動家。孫文ら中国の革命家たちを支援した日本人の代表格として知られ、孫文の自伝「志有れば竟に成る」で「革命の為に奔走して終始おこたらざりし者」 としてその名が挙げられている。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。 荒尾宮崎家は1647年、宮崎弥次兵衛正之が荒尾村の有力武士の娘を嫁に迎え、定住したことに始まる。肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に遠祖を菅原道真とする郷士の家柄に、その9代目となる宮崎政賢と佐喜夫妻の八男として、1871年(明治3年)に生まれる。
今幡 西衛(いまはた にしえ、1870年11月19日(明治3… 今幡 西衛(いまはた にしえ、1870年11月19日(明治3年10月26日)– 1952年(昭和27年)3月16日[要出典])は、高知県出身の自由民権運動家。自由党員、実業家、作家。 1870年11月19日(明治3年10月26日)、竹村九十九(つくも)の次男として高知県幡多郡中村町(現 高知県四万十市)に生まれる。のち今幡西衛(初代)の養子となり、その名を襲う。 1890年(明治23年)、自由党に入党して林有造、片岡健吉らに連れられ上京。代議士・三崎亀之助の書生となる。 1893年(明治26年)、中央大学を卒業。 竹内鉱業株式会社に入社して、北海道夕張炭鉱の取締役支配人となる。 1915年(大正4年)3月、竹内明太郎が立憲政友会の推薦を受けて、衆議院議員選挙(第12回)に立候補すると、故郷高知県に戻って選挙活動に奔走した。
相馬 愛蔵(そうま・あいぞう、明治3年10月15日(1870… 相馬 愛蔵(そうま・あいぞう、明治3年10月15日(1870年11月8日) - 昭和29年(1954年)2月14日)は、長野県出身の社会事業家、実業家。妻の相馬黒光とともに東京新宿中村屋を創業した。
竹越 竹代(たけこし たけよ、明治3年10月12日(1870… 竹越 竹代(たけこし たけよ、明治3年10月12日(1870年11月5日)-昭和19年(1944年)12月19日)は、明治時代の婦人運動家である。日本初の女性記者として『國民新聞』で取材し記事を書いた。 明治3年(1870年)10月12日に岡山に生まれる。父は岡山藩の士族である中村秀人だったが、竹代が9歳時に死去。母である中村静子に育てられた。 女学校入学後の明治16年(1883年)に金森通倫から洗礼を受け、キリスト教徒となった。岡山の山陽女学校を卒業し、明治20年(1887年)に大阪の梅花女学校に入学した。 明治22年(1889年)に、新聞記者の竹越 與三郎と結婚した。同年に、夫とともに徳富蘇峰の民友社に招かれて上京し、明治23年(1990年)の『國民新聞』の創刊に参画した。
土居 純橘(どい じゅんきち、1870年6月24日(明治3年… 土居 純橘(どい じゅんきち、1870年6月24日(明治3年5月26日)- 1937年(昭和12年)11月23日)は、日本の民権運動家・社会活動家。高知県生まれ。 1870年5月26日、高知県長岡郡大篠村大埇字関(現南国市)において、土居積盛と加免の長男として生まれる。為人剛毅、膽力に富み、仁義に厚く、人情豊かであった。青壮年の頃から身を政界に投じ、長陵の壮士として活躍した。1888年、保安条例発布に際し東京より退去を命ぜられ帰来、更に政界にあって同志武市安哉を国会におくるなど奮闘大いにつとめた。後断然志を決して、雄図を大陸にはせ活躍すること三十余年、この間日清・日露の両役に際しては民間の志士としてはたらいた。
石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年… 石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年3月6日) - 1940年(昭和15年))は、日本の実業家・教育家・慈善家・社会事業家。台湾で活躍。台湾初となる私立の図書館「石坂文庫」を創設し、台北州議會議員、基隆夜學會の校長を務めた。「基隆の聖人」とか「台湾図書館の父」と呼ばれる。自著『臺灣古代文化の謎』では「圖南」(読みは「となん」であろう)と号した。 石坂荘作は、1870年(明治3年)に日本の群馬県吾妻郡原町(現東吾妻町)で生まれた。原町小学校を卒業後、同地や水戸で漢学を学ぶ。原町小学校教員、近衛工兵中隊隊員を経験する。1896年(明治29年)3月にフィリピンへ向かう途中に立ち寄った台湾で、創刊間もない『台湾日日新報』の記者になった。
木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2… 木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2年9月8日)- 1937年(昭和12年)11月5日)は、日本の社会運動家、作家。尚江は本名。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩に代々仕えた下級武士であった木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。生来病弱で、5歳の時には重い熱病を患い生死の間をさまよった。父は1876年(明治7年)には巡査となっている。開智学校に入学し、啓蒙主義教育を受ける。1877年に松本で自由民権運動が始まり、祖母に連れられて演説会を聞いていた。また在学中には福沢諭吉『学問のすゝめ』を読んで感動する。1881年に長野県中学校松本支校入学。この頃オリバー・クロムウェルを知って革命を意識、また飯田事件の被告が裁判所に送られる姿を見て怒りを覚える。
小山 豊太郎(こやま とよたろう、明治2年3月10日〈186… 小山 豊太郎(こやま とよたろう、明治2年3月10日〈1869年4月21日〉 - 昭和22年〈1947年〉8月4日)は日本のテロリスト。別名に六之助/録之助(ろくのすけ)。日清戦争の講和会議に際して清国全権大使・李鴻章を狙撃したことで知られる(李鴻章狙撃事件)。 現在の群馬県館林市大島町に生まれる。父・孝八郎は県会議員を務めた村の名士であった。 館林で高橋渡に3年ほど理学の教えを受け、さらに栃木県中学校に学ぶ。栃木県中学校を中退。1884年(明治17年)ごろに上京して慶應義塾に学ぶが1886年(明治19年)に脚気で退塾し故郷へ帰る。放蕩のため父から勘当され、1888年(明治21年)に廃嫡された。
柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1… 柏原 文太郎(かしわばら ぶんたろう、明治2年1月18日(1869年2月28日) - 昭和11年(1936年)8月10日)は、日本の教育家、社会事業家。千葉県出身。 日中問題の権威で東亜同文会設立の功労者であるとともに、目白中学の創設からその実質的な校長職務を歴任した。さらに衆議院議員(1912年 - 1920年)として日中関係と私学教育の改善に功績を残した。 1869年1月、柏原七兵衛の子として千葉県成田市寺台の農家に生まれる。1893年、東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。 1895年、朝鮮国政府農商務省の招聘により渡韓し駐日朝鮮政府公使館顧問となり帰国。 1896年、東京専門学校の講師となり、支那研究会を組織。
湯浅 勘兵衛(ゆあさ かんべえ、1869年(明治2年) - … 湯浅 勘兵衛(ゆあさ かんべえ、1869年(明治2年) - 1917年(大正6年))は、日本の農民・慈善家。奨学資金を寄付した。 福井県大飯郡高浜町宮崎出身。父祖の農業に没頭し、斯業の改善と公共の利益に多大の貢献があった。1899年、卒先して耕地整理の実行につとめ、労費を悋まず、遂に10数町歩を完了した。奨学資金5000円を義捐した。高浜町に尽くした事は枚挙にいとまがない。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
澤田 半之助(さわだ はんのすけ、1868年7月27日(慶応… 澤田 半之助(さわだ はんのすけ、1868年7月27日(慶応4年6月8日) - 1934年6月17日)は日本の実業家、労働運動家。洋服の仕立職人としてアメリカ合衆国に在住中に高野房太郎と知り合い、帰国後の1897年に高野らとともに労働組合期成会を結成した。また、銀座に洋服店を開いた。のち、米友協会幹事として横須賀市久里浜のペリー上陸記念碑の建立に関わった。 1868年に現在の福島県須賀川市で生まれる。後述する在米時代以来の友人だった米山梅吉によれば、生家は須賀川でも有数の資産家の本家で、父は澤田喜兵衛だった。しかし、幼少期に父と死別し、遺産を欲する親族の意向から彼らの後見を受け、進学できずに寺子屋に学ぶなど不遇な環境に置かれた。
須永 元(すなが はじめ、1868年7月20日〈慶応4年6月… 須永 元(すなが はじめ、1868年7月20日〈慶応4年6月1日〉 - 1942年〈昭和17年〉7月1日)は、明治時代の漢学者、実業家、朝鮮独立運動を支援した活動家。輹斎と号した。 下野国安蘇郡天明町(現・栃木県佐野市)に豪農の子として生まれる。幼名を平十郎または平重郎という。明治19年(1886年)頃上京し、二松学舎に入り、三島中洲、岡本黄石に師事し、漢籍を修める。続いて1889年(明治22年)3月22日、慶應義塾別科独仏科に入り、大学部を卒業する。1895年(明治28年)に帰郷し、金玉均亡き後の朝鮮壮士を支援し、東邦協会や玄洋社、黒龍会の活動に没頭する。1895年(明治28年)には朝鮮に渡り、朴泳孝の旧宅に寄寓する。
桑原 羊次郎(くわばら ようじろう、慶応4年4月18日(18… 桑原 羊次郎(くわばら ようじろう、慶応4年4月18日(1868年5月10日) - 昭和30年(1955年)7月21日)は、明治後期から昭和前期にかけての美術工芸研究家、社会事業家、政治家(衆議院議員)。号は双蛙(そうあ)。 肉筆浮世絵コレクター、装剣金工研究家として知られる。1910年の日英博覧会では日本美術部門委員を務めた。 慶応4年4月18日(1868年5月10日)、代々松江藩両替商を務めた「桑屋太助」本家の6代目・愛三郎の次男(第4子)として生まれた。明治9年(1876年)より内村友輔(鱸香)の私塾「相長舎」に通う。明治14年(1881年)5月、本町小学校上等科を卒業し、同年9月に松江中学校へ入学した。
山田 良政(やまだ よしまさ、慶応4年1月1日(1868年1… 山田 良政(やまだ よしまさ、慶応4年1月1日(1868年1月25日) - 明治33年(1900年)10月22日?)は、日本の革命運動家、大陸浪人である。熊本の宮崎滔天らと共に孫文の支援者となり辛亥革命に参加。実弟の山田純三郎も兄の遺志を継いで孫文を支援した。 陸奥国弘前(後の青森県弘前市)に津軽藩士の子として生まれる。山田家は思想家の陸羯南の実家と真向かいにあったこともあり、良政は少年時代から羯南の影響を受けていたとされる。伯父の菊池九郎が経営する東奥義塾で学んだ後に地元の青森師範学校へ進学したが、2年時に全寮制の寮内での賄経費を巡る騒動(賄征伐)が発生した際に、騒動の首謀者となった友人をかばう形で退学処分を受けた。
清水 紫琴(しみず しきん、1868年1月(慶応3年12月)… 清水 紫琴(しみず しきん、1868年1月(慶応3年12月)下旬 - 1933年(昭和8年)7月31日)は、明治期の女性作家、自由民権運動の女性活動家。出生届出は1868年1月。 出身地は岡山県、出生地は京都府。本名は清水豊子、筆名は生野ふみ子、つゆ子。戦前の興信録では名を「トヨ」としているものもある。 京都府立第一高等女学校卒。1885年(明治18年)、自由民権派の弁護士・岡崎晴正と結婚。晴正とともに自由民権運動に携わるが、晴正は結婚前から交際していた女性を紫琴と結婚後も妾として囲っていたため、1888年(明治21年)自由民権運動家でありながら晴正と異なり男女同権の立場を取っていた植木枝盛と出会い、その後は女権運動に携わるようになる。
岩瀬 弥助(いわせ やすけ、旧字:岩瀨彌助。1867年11月… 岩瀬 弥助(いわせ やすけ、旧字:岩瀨彌助。1867年11月1日(慶応3年10月6日) - 1930年(昭和5年)1月3日)は、日本の実業家・慈善家。幼名は吉太郎。西尾鉄道初代社長を務めたほか、私財を投じて岩瀬文庫をも創設した。 三河国西尾城下の須田町(現・愛知県西尾市)にて、肥料商を営む岩瀬弥蔵の長男として生まれる。小学校を卒業すると家業を継いだ。1887年(明治20年)20歳の時に本家の猪代治が亡くなったため、本家の山本屋へ養子に入る。その際、猪代治の長女と結婚し、祖父の名を襲名して四代目弥助を名乗る。同年、旧西尾藩士・矢島貞廉(やじま ていれん)が中心となって結成した、法律、経済、社会問題について学ぶ「談話会」に入会し幹事となる。
矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年10月3日(慶応3… 矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年10月3日(慶応3年9月6日) - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の実業家・銀行経営者・慈善家。先祖は嵯峨天皇の第12皇子・源融にまで遡る矢橋家・本家の出身。国会議事堂などの日本の近代建築史に残る建造物・高層ビル・ホテル・豪華列車の床材・海外の航空会社のラウンジから自動運転技術・EV・新幹線などまで関わってきた、矢橋グループの一翼を担う矢橋大理石の創業者。 1867年に美濃赤坂で生まれる。明治維新の廃藩置県の時に、徳川家康が織田信長の岐阜城千畳敷御殿を移築し造営させた将軍家専用休泊所であるお茶屋屋敷の払下げを受けた矢橋本家・宗太郎の三男。 実父である矢橋本家・宗太郎の二女で姉の勝(後改幾世)の三男である、大蔵省営繕官僚として中心となって国会議事堂の設計をまとめた甥矢橋賢吉(矢橋惣本家)と上京。
石井 亮一(いしい りょういち、慶応3年5月25日(1867… 石井 亮一(いしい りょういち、慶応3年5月25日(1867年6月27日) - 昭和12年(1937年)6月14日)は、明治時代から昭和時代初期にかけての心理学者・教育学者・社会事業家である。位階勲等は、従六位勲六等。 日本における知的障害児者教育・福祉の創始者として知られ、現在の社会福祉法人滝乃川学園および公益財団法人日本知的障害者福祉協会の創設者でもある。 「日本の知的障害児者教育・福祉の父」と称され、石井の業績は、知的障害児者教育・福祉の嚆矢として、現代に至るまで極めて高い評価を受けている。石井がいなければ、日本の知的障害に関する研究は、大幅に遅れていたと言われている。また、この障害を抱える多く人々にとって、それは不治の障害ではなく、発達の遅滞であるということを日本で初めて主張し、彼らへの教育や治療の必要性を訴えた。
金子 角之助(かねこ かくのすけ、旧姓・武藤、1867年1月… 金子 角之助(かねこ かくのすけ、旧姓・武藤、1867年1月30日〈慶應2年12月25日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月24日)は、日本の政治家、自由民権運動家、会社重役。神奈川県高座郡藤沢町長(第2代)。関東興信銀行、神奈川県農工銀行各取締役。高座郡農会長。全国町村長会会長。中央報徳会理事。 相模国(のち神奈川県高座郡綾瀬村本蓼川、現・綾瀬市)出身。農民・武藤卯左衛門の三男。大庭の金子小左衛門の嗣子となる。耕余塾に学んだ。 横浜中学校卒業後は一時教職に就いた。1885年、有一館の館長・磯山清兵衛の誘いで大井憲太郎らの大阪事件に加わり、投獄され、軽懲役2年の刑をうける。1890年、保安条例に触れて東京を逐われ、同志と共に神奈川県倶楽部同青年会等を組織する。
富井 於菟(とみい おと、慶応2年6月7日〈1866年7月1… 富井 於菟(とみい おと、慶応2年6月7日〈1866年7月18日〉 - 明治18年〈1885年〉12月2日)は、日本の社会運動家、教師。婦人解放運動のさきがけとしてその名を知られる。別名に富井とら(虎子)。 播磨国龍野の醤油問屋の娘として生まれる。兄一人、姉三人、妹一人いる。幼い頃から学問が好きで、1878年に公立龍野中学校入学、1881年(明治14年)同校を卒業し、翌年小学高等科教員免許を受ける。京都にのぼり岸田俊子のもとで学ぶ、その後上京し、自由燈の校正係となり、その後絵入自由新聞の記者として奉職。日本で最初の女性新聞記者と呼ばれる。新聞記者従事中に、福田英子と知り合い、婦人解放運動を活動させる。
島崎 猪十馬(しまざき いそま、1866年6月24日(慶応2… 島崎 猪十馬(しまざき いそま、1866年6月24日(慶応2年5月12日)- 1952年(昭和27年)3月21日)は、自由民権運動家・歴史家、自由民権運動高知旧各社記念会・世話人。板垣伯銅像記念碑建設同志会理事。 慶応2年5月12日(1866年6月24日)、土佐藩士・島崎善七の次男として、高知城下に生まれる。 明治10年(1877年)10月5日、高知県土佐国高知市第八大区四小区築屋敷38番地より高知市小高坂村越前町22番屋敷(現・高知市桜馬場)に転住。 高知市九反田の旧開成館に開校した立志学舎に学び、同年12月、自由民権運動の少年結社「活動舎」に加盟し、のち「嶽洋社」の活動に加わる。 明治15年(1882年)3月25日、高知第一中学校高等科(現・高知県立高知追手前高等学校)を卒業。
石川 伍一(いしかわ ごいち、慶応2年(1866年)5月 -… 石川 伍一(いしかわ ごいち、慶応2年(1866年)5月 - 明治27年(1894年)9月19日)は、日清戦争期の海軍関連の民間人諜報活動家、大陸浪人の先覚者。清軍により29歳で銃殺された。甥は小説家の石川達三。 陸奥国鹿角郡毛馬内に生まれる。南部藩祐筆で毛馬内戸長の父・石川儀平に伴い9歳で盛岡に出て仁王小学校に学び、明治12年(1879年)に東京に出て攻玉社中学校・高等学校に入るも、転じて島田篁村について漢学を修め、次いで興亜会支那語学校に入って中国語を学ぶ。 明治17年(1884年)に上海に渡り、海軍大尉・曽根俊虎に従い清の情勢を研究。次いで、荒尾精らと共に漢口楽善堂の立ち上げに参加。北京、天津、四川方面までを幅広く調査にあたる。
西巻 開耶(にしまき さくや、慶応2年2月8日(1866年3… 西巻 開耶(にしまき さくや、慶応2年2月8日(1866年3月24日) - 1908年(明治41年)12月31日)は、日本の女性運動家。現在の新潟県柏崎市出身。 小学校教員となったのち自由民権運動に加わり、1881年に柏崎での集まりで男女同権を訴える演説を行った。1882年に教員でありながら政治集会に参加したことが集会条例違反等に問われ、翌年に罰金刑を受けた。このことで「日本初の女性政治犯」とされる一人である。その後は民権運動から離れたものの、女性の経済的自立や政治的自立を国権論の立場から支持していた社会活動家の北畠道龍と行動をともにし、婦人組織の結成や女子教育の実践にたずさわった。のちに北畠道龍の妻となる。