伊豆川 浅吉(いずかわ あさきち、1903年(明治36年)1… 伊豆川 浅吉(いずかわ あさきち、1903年(明治36年)11月3日 - 1968年(昭和43年)8月24日)は、日本の水産学者、歴史学者。元東京水産大学教授。専門は漁業史、水産経済学。 1903年11月3日、神奈川県小田原市に生まれる。1922年4月に横浜高等工業学校応用化学科に入学し、1925年3月に卒業。1927年に旭水産に入社し、1928年に小田原市場に入社する。 1935年、法政大学経済学部を卒業し、1937年に法政大学大学院を修了、小野武夫に師事する。アチック・ミューゼアム研究所員、東京帝国大学助手を経て、1948年に鹿児島水産専門学校教授(後の鹿児島大学水産学部)に就任する。1950年、『日本鯨漁業の経済的研究』で農学博士(九州大学)を取得する。
森 克己(もり かつみ、1903年9月26日 - 1981年… 森 克己(もり かつみ、1903年9月26日 - 1981年4月26日)は、日本の歴史学者。専門は対外関係史。中央大学文学部教授などを歴任した。 1903年、長野県下高井郡豊郷村(現:野沢温泉村)生まれ。旧制麻布中学校、第二高等学校を経て、1929年に東京帝国大学文学部国史学科卒業。 1941年から史料編纂官を務めた後、満洲建国大学助教授となり、1943年同教授。1945年敗戦により帰国。 1945年に『日宋貿易の研究』によって東京帝国大学文学博士号を取得。1947年から九州帝国大学法文学部教授を務めた。1952年からは横浜市立大学文理学部教授、1953年東京都立大学人文学部教授、1959年より中央大学文学部教授。
喜田 新六(きた しんろく、1903年6月24日 - 196… 喜田 新六(きた しんろく、1903年6月24日 - 1964年7月4日)は、日本の歴史学者。中央大学文学部教授。専門は日本古代史。 1903年(明治36年)6月、歴史学者である喜田貞吉の長男として、東京にて生まれる。なお「新六」の名は、彼の生誕地である「新宿六丁目」に由来する。東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属中学校・高等学校)、第一高等学校文科乙類を経て、1926年(大正15年)、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1929年(昭和4年)、東京帝国大学卒業ののち、同大学大学院に入学し、併せて同大学副手になった。1934年(昭和9年)、京城帝国大学法文学部教授に就任し、1942年(昭和17年)、神宮皇學館大學学部教授に就任した。
森 嘉兵衛(もり かへえ、1903年6月15日 - 1981… 森 嘉兵衛(もり かへえ、1903年6月15日 - 1981年4月8日)は、日本の歴史学者、岩手大学名誉教授、経済学博士。主な研究テーマは南部藩を中心とする近世史だが、中尊寺金色堂の調査にも参加するなど、活動分野は多岐にわたった。 岩手県盛岡市の豪商の家に生まれる。盛岡中学から法政大学経済学部に進み、小野武夫の下で近世日本経済史を研究した。1929年卒業。岩手県教育会書記を務め、岩手師範学校教授。 1947年、昭和天皇が岩手県に戦後巡幸された際に拝謁し、岩手県の開拓史について奏上する。その後、1949年に岩手大学教授、1969年定年退官。学内では学芸学部長、教育学部長を歴任した。退官後は、盛岡短期大学講師や富士大学教授を務めた。
秋山 謙蔵(あきやま けんぞう、1903年(明治36年)2月… 秋山 謙蔵(あきやま けんぞう、1903年(明治36年)2月1日 - 1978年(昭和53年)3月5日)は、日本の歴史学者。号は一石。日中関係史、琉球貿易などの研究で知られる。大正大学教授、國學院大學教授、女子美術大学教授などを歴任した。大日本言論報国会理事。主著に『日支交渉史話』『日支交渉史研究』。 広島県比婆郡西城町(現・庄原市)に生まれる。旧姓は江木。1925年に第七高等学校造士館を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科に入学、1928年に卒業、同大学院に入学。 国史学科卒業後すぐに史学会委員となり、東洋史学者の中山久四郎や日本歌謡史研究者の高野辰之のところに出入りする。国史学科の1年後輩にあたる森克己によれば、当時、高野辰之は「秋山は近年国史学界の生んだ鬼才ではないか?」と評していたという。
深谷 博治(ふかや ひろはる、1903年1月27日 - 19… 深谷 博治(ふかや ひろはる、1903年1月27日 - 1975年12月15日)は、日本の歴史学者。早稲田大学教授。福島県出身。 1928年に早稲田大学文学部史学科を卒業。宮内省臨時帝室編修局に勤務。1933年に同局廃止の後は、公刊明治天皇御紀編修委員会書記を1938年までつとめる一方で尾佐竹猛に誘われ明治文化研究会に参加。その後、同様に尾佐竹の推薦で貴族院嘱託となって『貴族院五十年史』編纂に関与。1941年から43年まで早稲田大学文学部講師を兼任し、続いて同大学大隈研究室で大隈文書整理にあたる。1949年に早稲田大学第一・第二文学部専任講師、1952年助教授、1955年教授、1973年定年退職。
西内 雅(にしうち ただし、1903年 - 1993年4月1… 西内 雅(にしうち ただし、1903年 - 1993年4月19日)は、日本の歴史学者。 高知県生まれ。高知第一中学校卒業。一時期マルクス主義やアナーキズムに傾倒。代用教員を経て、広島文理科大学数学科卒業。和暦および暦法研究の過程で、谷秦山(渋川春海の弟子)の土佐勤皇思想(土佐南学)に接し、皇国史観にのめり込む。平泉澄(当時東京帝国大学教授)が開いた青々塾の門下生となり、皇国史観で著名な「平泉学派」のイデオローグの一人とみなされるに至る。 広島文理大研究生、陸軍士官学校嘱託教官を経て陸軍教授(1933年以降青々塾門下生が次々に陸海軍学校の教官に迎え入れられている)。のち、総力戦研究所所員(思想担当教官)として同所研究生等に「皇国思想」を教授するが、当時の日本の各界の若手エリートからなる同所研究生の間では時代錯誤的であるとして評判が悪かったといわれる。
玉城 肇(たまき はじめ、1902年11月25日 - 198… 玉城 肇(たまき はじめ、1902年11月25日 - 1980年1月11日)は、日本の経済学者、歴史学者。 専門は家族史、経済史。 宮城県出身。第二高等学校卒、東北帝国大学経済学科卒。東北学院大学教授、愛知大学第6代学長、法経学部教授。1957年「近代日本における家族構造」で関西学院大学文学博士。1960年中日文化賞受賞。 長男・徹は歌人、次男・哲は農業経済学者・専修大学教授、三男・素は現代コリア研究所理事長。歌人花山多佳子は孫、花山周子は曾孫。
高倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日… 高倉 新一郎(たかくら しんいちろう、1902年11月23日 - 1990年6月7日)は、日本の農業経済学者・歴史学者。北海道大学名誉教授。農業経済学・北海道史・アイヌ文化史で業績がある。 1902年、北海道帯広市で実業家・高倉安次郎の子として生まれた。札幌中学校(現北海道札幌南高等学校)で学び、1920年に北海道帝国大学入学した。農学部教授であった高岡熊雄に師事し、農政学植民学を学んだ。1926年、北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業。 卒業後は同年より、北海道帝国大学農学部副手に就き、1927年に助手、1936年に植民学講座の助教授に就任した。1945年、北海道帝国大学に学位論文『アイヌ政策史』を提出して農学博士号を取得。
桑田 忠親(くわた ただちか、1902年11月21日 - 1… 桑田 忠親(くわた ただちか、1902年11月21日 - 1987年5月5日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。勲三等瑞宝章受章。 1902年、東京市麹町区で生まれた。國學院大學国文学科に学び、卒業論文『明治時代の小説に表われた自然主義の研究』をまとめ、1926年卒業。1927年より東京帝国大学史料編纂所に勤務し、1945年に退官。この間、1942年に國學院大學講師に就任した。 埼玉県立川越高等女学校教諭を経て、1946年に母校の國學院大學文学部教授に就いた。戦国時代史を研究テーマとし、千利休などの茶人を研究。1952年、学位論文『茶道の大成』で國學院大學より文学博士の学位を取得。1973年に國學院大學を定年退職し、以降は客員教授として教鞭を執った。
三品 彰英(みしな あきひで、みしな しょうえい、1902年… 三品 彰英(みしな あきひで、みしな しょうえい、1902年7月5日 - 1971年12月19日)は、日本の歴史学者、神話学者。海軍教授、大谷大学教授、同志社大学教授、大阪市立博物館館長、佛教大学教授などを歴任。 1928年、京都帝国大学文学部史学科を卒業。戦前は、智山大学講師、京都帝国大学講師、海軍教授などを務めた。 戦後の1945年、海軍教授を退職して大谷大学講師となり、1946年に同教授、1955年から同志社大学教授を1960年まで務める。退職後は大阪市立博物館館長・佛教大学教授など歴任。朝鮮古代史で著名な東北大学名誉教授の井上秀雄などを指導したほかに、1960年から日本書紀研究会を主宰するなどして関西の日本古代史研究者を多く育てた。
猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 19… 猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 1979年1月7日)は、日本の歴史学者、国学者。京都大学名誉教授。専門は日本法制史。 京都府京都市生まれ。父は有職故実学者の猪熊浅麻呂。祖父の猪熊夏樹は白鳥神社の10代宮司・宮中進講(皇族のための教師)。兄に猪熊兼幹。妻は吉村伊助の娘。子に猪熊兼勝。甥に猪熊兼年。孫に猪熊兼樹。 旧制第三高等学校文科乙類を経て、1928年に京都帝国大学法学部を卒業。1962年「倭国法研究序説」で京都大学より法学博士の学位を取得。 1947年京都大学法学部教授となり、1966年退官。 家学である有識故実の研究にも従事。京都の葵祭や時代祭、都をどりなどの時代考証を行った。
中村 栄孝(なかむら ひでたか、1902年5月1日-1984… 中村 栄孝(なかむら ひでたか、1902年5月1日-1984年1月4日)は、大正・昭和期の歴史学者。
赤星 直忠(あかほし なおただ、1902年4月17日 - 1… 赤星 直忠(あかほし なおただ、1902年4月17日 - 1991年3月11日)は、大正・昭和期の考古学者、歴史学者、民俗学者、郷土史研究者。教員等の職業に就き、研究機関等に所属することはなかったが、生涯で500本近い論文を発表して横須賀考古学会を設立するなど、主に神奈川県下で活躍し、三浦半島の考古学研究の基礎を築いた。研究内容は、縄文時代早期の関東地方の土器型式の分類、弥生時代から古墳時代の海蝕洞窟遺跡や横穴墓、古代・中世の寺院ややぐら、城郭など多岐に及んだ。 神奈川県三浦郡横須賀町(現・横須賀市)に生まれる。神奈川県立横須賀中学校(現・神奈川県立横須賀高等学校)の生徒であった時、学校の敷地内で古い時代の寺院の遺物が発見されたのを契機として、考古学に興味を持ち始めた。
吉田 小五郎(よしだ こごろう、1902年1月26日 - 1… 吉田 小五郎(よしだ こごろう、1902年1月26日 - 1983年8月20日)は、日本の歴史学者、教育者。 新潟県柏崎市出身。1924年、慶應義塾大学文学部史学科卒。大学では幸田成友に師事。慶應義塾幼稚舎職員を1965年まで務める。幼稚舎長、慶大講師などを務め、東西交渉史などに業績を残す。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
舟越 康寿(ふなこし やすじゅ、1901年12月13日 - … 舟越 康寿(ふなこし やすじゅ、1901年12月13日 - 1971年6月27日)は、日本の経済学者、歴史学者。 鳥取県日野郡生まれ。1921年、鳥取師範学校卒。1925年3月に廣島高等師範学校を卒業。このころ、名字を岡と改める。同年、岐阜県立大垣高等女学校教諭、1927年広島県立府中中学校教諭、1929年から1933年3月まで熊本県立御船中学校教諭。同年4月に廣島文理科大学入学。卒業論文「メロヴィング朝に於ける土地制度の発達」をまとめ、1936年3月同大学西洋史学科を卒業し、同大学副手として西洋史学教室勤務ののち、1940年文部省図書監修官補となる。その後、文部省民族研究所嘱託を経て、1945年に立命館専門学校講師、1946年に同校教授。
服部 之総(はっとり しそう、1901年(明治34年)9月2… 服部 之総(はっとり しそう、1901年(明治34年)9月24日 - 1956年(昭和31年)3月4日)は、日本の歴史学者(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。島根県浜田市金城町出身。
小川 裕人(おがわ ひろと、1901年5月14日 - 197… 小川 裕人(おがわ ひろと、1901年5月14日 - 1974年10月27日)は、日本の歴史学者。専門は東洋史。東方文化学院研究員(東亜研究所委託事業嘱託、1939年1月 - 1944年)、大谷大学教授、大阪商業大学教授。 長野県出身。京都帝国大学文学部卒業。1933年に外務省の文化事業部は満蒙文化研究事業という名目で助成金を出し、東京帝国大学と京都帝国大学に委託したが、京都帝国大学では羽田亨を中心に、田村実造、若城久治郎、外山軍治、小川裕人らが研究を行った。 京都帝国大学は1938年から『満蒙史論叢』を刊行したが、小川裕人が第2巻の編集を担当している。 関西大学講師、大谷大学教授、大阪商業大学教授を務めた。
小島 鉦作(こじま しょうさく、1901年(明治34年)4月… 小島 鉦作(こじま しょうさく、1901年(明治34年)4月13日 - 1996年(平成8年)8月29日)は、日本の歴史学者。成蹊大学名誉教授。愛知県出身。 1901年(明治34年)、愛知県愛知郡天白村(現在の名古屋市天白区)に小島万太郎の子として生れる。1919年(大正8年)に愛知県立第五中学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)卒業、1923年(大正12年)3月に神宮皇學館本科を卒業と同時に神宮文庫司書兼神宮皇學館助手に任じられる。同年12月、一年志願兵として名古屋歩兵第六連隊に入隊、終えて東京帝國大學史料編纂業務嘱託、その後同大学史料編纂官補。 小島家は代々、熱田神宮大宮司領の庄屋として村方役をつとめ、父も鉦作が熱田神宮の神職になることを期待していた。
山口 正之(やまぐち まさゆき、1901年2月26日 - 1… 山口 正之(やまぐち まさゆき、1901年2月26日 - 1964年10月22日[要出典])は、日本の歴史学者。 福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)出身。明善中等学校、佐賀高等学校卒、1929年京城帝国大学法文学部史学科卒。平壌高等女学校教諭。1931年京城中学校教諭。1933年李正職編修官兼務。1945年日本へ帰国。1947年滋賀県大津高等女学校教諭。1949年大津市教育委員会教育長。1956年滋賀県立甲賀高等学校長。1958年滋賀県立虎姫高等学校長。1960年彦根市教育委員会教育長。1964年退職。 教職のかたわら、日本キリシタン史などの著作をものした。
梅田 良忠(うめだ りょうちゅう、ポーランド語:Ryochu… 梅田 良忠(うめだ りょうちゅう、ポーランド語:Ryochu Umeda、1900年9月25日 - 1961年12月7日)は日本の僧、歴史学者。 1922年(大正11年)駒澤大学卒業後、ポーランドに留学し、ワルシャワ大学卒業。同大学講師。同国の「東洋学院」の教授にも任命され、日本語、日本文化を担当した。日本大使館の文化関係の委託業務を行った。戦時中は朝日新聞社ソフィア駐在嘱託。東欧諸国語の権威。1955年関西学院大学教授。1960年「ヴォルグ・ブルガール史の研究」で関西学院大学 文学博士。 梅田良忠は日本橋槙町で弁護士、梅田貞次の長男として生まれた。生まれた時の名前は梅田芳穂であったが、これは彼の長男と同じ名前である。
石川 恒太郎(いしかわ つねたろう、1900年8月25日 -… 石川 恒太郎(いしかわ つねたろう、1900年8月25日 - 1990年10月30日)は、日本の歴史学者。 宮崎県日向市生まれ。宮崎県立延岡中学校、専修大学卒業。「日州新聞」「大阪毎日新聞」などの記者を経て1940年、宮崎県立上代日向研究所特別委員となる。戦後は宮崎県文化財専門委員として考古学や地方史研究に携わる。歴史研究のかたわらラジオ番組で郷土史の講義を行う。1960年宮崎県文化賞を受賞。
岩生 成一(いわお せいいち、1900年(明治33年)6月2… 岩生 成一(いわお せいいち、1900年(明治33年)6月2日 - 1988年3月21日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。東京大学文学部教授、日本大学文理学部教授、法政大学文学部教授を歴任。日本学士院会員。 1900年(明治33年)、東京で生まれた。東京帝国大学文学部国史学科で学び、1925年(大正14年)に卒業。 卒業後は東京帝国大学史料編纂掛に勤務。のち台北帝国大学教授となり、南洋史講座を担当した。 戦後の1948年(昭和23年)、東京大学文学部教授となった。1951年(昭和26年)、学位論文『南洋日本町の研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。1961年(昭和36年)に東京大学を定年退官し。
岡本 良知(おかもと よしとも、1900年2月20日 - 1… 岡本 良知(おかもと よしとも、1900年2月20日 - 1972年8月6日)は、日本の歴史学者。専門は、南蛮時代日欧交渉史、キリシタン史など。 富山県富山市出身。1922年東京外国語学校ポルトガル語部卒業、スペイン語部専修科修了。同年、日本産業協会ブラジル国独立100年記念万国博覧会臨時出品部書記として、リオデジャネイロに着任する。1925年日葡協会主事、1930-31年まで資料調査のためにヨーロッパに滞在し、1933年東京高等拓殖学校教授となる。1938年宮崎高等農林学校講師、1942年法政大学高等師範部講師、1943年東洋堂常務取締役、1952年立正大学専任講師、1955年別府大学教授、1957年亜細亜大学教授、1965年上智大学兼任教授をそれぞれ務めた。
大久保 利謙(おおくぼ としあき、1900年〈明治33年〉1… 大久保 利謙(おおくぼ としあき、1900年〈明治33年〉1月25日 - 1995年〈平成7年〉12月31日)は、日本の歴史学者、華族(侯爵)。維新の三傑の一人・大久保利通の孫で、大久保家第3代当主。父は利通の三男・大久保利武。母は近藤廉平の長女・栄。妻は子爵米田国臣の長女・八重子。長男は大久保利泰。 東京帝国大学卒業の際の論文は、近世史をテーマにしたものであった。理由は、当時の歴史学界においては、維新以後の歴史については、歴史家は触れてはいけないという空気が強かったからである。 戦時下では皇国史観に対して批判的立場を採り、東京帝国大学を中心とした官学アカデミズム歴史学や、戦後流行したマルクス主義歴史学とも異なる、実証主義を本領とした独自の近代史研究を構築した。
赤木 志津子(あかぎ しづこ、1900年 - 1990年12… 赤木 志津子(あかぎ しづこ、1900年 - 1990年12月8日)は、日本の歴史学者。日本史、特に平安時代の文化史を専門とし、日本文学研究との学際的な研究を行い、お茶の水女子大学、都留文科大学などの教員を務めた。 大学を卒業した女性の歴史学者としては、最初期の先駆的存在であった。 福井県今立郡神明村(後の鯖江市)に生まれた。父は陸軍主計将校、母は御家人の家の娘で、志津子は、夭折した長男に続いて生まれた三姉妹の次女であった。父の転任にともない石川県金沢市へ移り、次いで父の台湾への派遣にともない、母の実家のあった静岡県静岡市へ移った後、1905年以降は父の転任に従って広島県広島市に定住した。このため、出身地は広島市とされることもある。
丸山 二郎(まるやま じろう、1899年12月15日 - 1… 丸山 二郎(まるやま じろう、1899年12月15日 - 1972年6月30日)は、日本の歴史学者。千葉大学教授。専門は日本古代史。 1899年(明治32年)12月、福島県耶麻郡千里村(現在の耶麻郡猪苗代町)に生まれる。福島県立会津中学校、第三高等学校を経て、1924年(大正13年)、東京帝国大学文学部国史学科を卒業。同時に東京帝国大学文学部副手となる。 1926年(大正15年)、姫路高等学校教授となるが、1929年(昭和4年)に辞職し、黒板勝美の要請によって『新訂増補国史大系』(以下国史大系と略記)編纂の事務局長となった。以後、黒板をたすけて国史大系の編纂に従事し、1936年(昭和11年)11月に黒板が病で倒れたのちは、同書編纂の中心的役割を果たした。
上原 専禄(旧字体:上原 專祿、うえはら せんろく、1899… 上原 専禄(旧字体:上原 專祿、うえはら せんろく、1899年5月21日 - 1975年10月28日)は、日本の歴史学者。専門は中世ヨーロッパ史。東京商科大学学長(就任時は東京産業大学:現一橋大学)であり、戦後の一橋大学新制大学化にあたり指導的役割を果たした。このため一橋大学の新制大学構想は別名を「上原構想」とも呼ばれている。学長退任後は構想の核となった初代一橋大学社会学部長を務めた。 1899年、京都市西陣にあった日蓮宗檀家の商家に生まれた。小学校3年から松山市大街道商店街の薬種商であった叔父の家に住む。旧制愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1915年、東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学した。
肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 … 肥後 和男(ひご かずお、1899年(明治32年)4月8日 - 1981年(昭和56年)2月24日)は、日本の歴史学者。東京教育大学文理科教授を経て、東京教育大学名誉教授。日本古代史の重鎮であった。茨城県久慈郡大子町出身。従三位勲三等旭日中綬章。 茨城県久慈郡大子町生まれ。茨城県立下妻中学校、東京高等師範学校を卒業後、福岡県立東筑中学校、長野師範学校で教鞭をとる。1927年(昭和2年)京都帝国大学史学科(国史科専攻)卒業。同大学院入学。1932年(昭和7年)より東京文理科大学(後の東京教育大学)講師となり、1933年(昭和8年)同大助教授、1943年(昭和18年)同大教授。1946年(昭和21年)公職追放。
恒松 安夫(つねまつ やすお、1899年(明治32年)3月1… 恒松 安夫(つねまつ やすお、1899年(明治32年)3月18日 - 1963年(昭和38年)5月20日)は、日本の政治家・歴史学者。島根県知事(2期)、大田市名誉市民。政治家・恒松隆慶の孫。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 島根県安濃郡長久村(現大田市長久町)で、恒松嘉吉・ケン夫妻の二男として生まれる。杵築中学校(現島根県立大社高等学校)在学中は剣道に励んだ。祖父隆慶と岡本かの子の父・大貫寅吉が親しかったことから、慶應義塾大学予科に進学後、岡本一平・かの子の家に寄宿していた。岡本夫妻はともに家事家計が苦手であり、見るに見かねて手伝っているうちに家事一切や幼い息子太郎の世話、夫妻の給金や原稿料の貯蓄、かの子の執筆のための資料集めや原稿の清書までやる羽目になったという。
矢島 恭介(やじま きょうすけ、1898年10月10日 - … 矢島 恭介(やじま きょうすけ、1898年10月10日 - 1979年11月11日)は、 帝室博物館調査官、歴史学者。 1898年に長野県に生まれる。1925年、早稲田大学文学部を卒業。同年 帝室博物館勤務。1938年、帝室博物館鑑査官。1954年、東京国立博館考古課長。1961年、同館退職。 1979年から東京芸術大学、明治大学、国学院大学、立教大学講師、文化庁文化財保護審議会専門委員をつとめた。 1972年、勲四等瑞宝章。
足立 康(あだち こう、1898年(明治31年)7月10日 … 足立 康(あだち こう、1898年(明治31年)7月10日 - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の歴史学者。建築史家。 神奈川県中郡城島村(現・平塚市)に生まれる。1928年(昭和3年)、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、大学院へ進んでから、東京帝国大学工学部建築学教室で日本建築史を専攻。 1934年(昭和9年) 日本古文化研究所理事就任、建築史研究会を設立。1934年、「薬師寺塔婆の研究」で工学博士。 1938年(昭和13年) 建築史研究会機関誌『建築史』を創刊、その主幹となる。 藤原宮趾に始まる綿密な遺跡調査、法隆寺非再建論(法隆寺再建非再建論争)に代表される学説論争によって、古代建築史の研究に多くの功績を残す。
田保橋 潔(たぼはし きよし、1897年10月14日 - 1… 田保橋 潔(たぼはし きよし、1897年10月14日 - 1945年2月26日)は、日本の歴史学者。 1897年、北海道函館市で生まれた。本籍は石川県。東京帝国大学文学部国史学科で学び、1921年に卒業。 1924年に京城帝国大学予科講師となった。ヨーロッパ留学ののち、1927年に京城帝国大学教授となり、国史学の担当教授となった。1933年から朝鮮総督府の朝鮮史編修会第6編修主任も務め、ついで同会編纂主任を兼任した。1945年に死去。 専門は東洋史で、日本近代外交史、朝鮮近代史の研究を行った。 1882年の壬午軍乱の鎮圧に際して、呉長慶は「遼東三省と左堤右挈し、実に東方の一大塀障」と述べており、つまり清の東三省と朝鮮半島で守りを固めれば怖いものなし、と考えており、張謇は『朝鮮善後六策』を作成して、朝鮮は漢の時代は中国の植民地(漢四郡)であったから、李氏朝鮮王を廃止して監国にして属藩とし、清の東三省に朝鮮省を含めて「東四省」にすることで李氏朝鮮を併合し、「内政の自己改革と新軍の訓練を、我が東三省とつらねて、一気と為す」べきとする意見を上申した。
森谷 秀亮(もりや ひですけ、1897年(明治30年)5月1… 森谷 秀亮(もりや ひですけ、1897年(明治30年)5月17日 - 1986年(昭和61年))は、日本の歴史学者。北海道出身。 北海道庁の官吏であった森谷秀一郎の長男として、北海道空知郡沼貝村(現・美唄市)に生まれる。札幌中学校、第一高等学校、東京帝国大学文学部国史学科を経て、1922年(大正11年)に三上参次の推薦で維新史料編纂官補となり、1929年(昭和4年)には編纂官に昇格した。1942年(昭和17年)には官制廃止により維新史料編纂官を免ぜられ、文部省嘱託として紀元二千六百年記念事業の一つであった日本文化大観の編纂に従事した。 1945年(昭和20年)に福島師範学校教授となり、1949年には福島大学教授、1950年には新潟大学人文学部教授に就任した。
相田 二郎(あいだ にろう、1897年(明治30年)5月12… 相田 二郎(あいだ にろう、1897年(明治30年)5月12日 - 1945年(昭和20年)6月22日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学史料編纂官。専門は日本中世史、日本古文書学で、生涯にわたって古文書学の研究・教育につとめた。 神奈川県足柄下郡早川村(現在の神奈川県小田原市)に生まれる。神奈川県立小田原中学校、第四高等学校を経て、1923年、卒業論文「土地沽却上の支拂品より見たる銭貨の流通状態 王朝時代鎌倉時代」をまとめ、東京帝国大学文学部国史学科を卒業。同大大学院進学とともに、同大学文学部史料編纂掛嘱託となる。1927年に史料編纂官補(同年、有栖川宮奨学金を受ける)、1930年から、東京帝国大学文学部講師として古文書学を講義、1933年に史料編纂官となった。
粟野 頼之祐(あわの らいのすけ、1896年11月3日 - … 粟野 頼之祐(あわの らいのすけ、1896年11月3日 - 1970年8月23日)は、ボストン美術館東洋部員、歴史学者、関西学院大学教授。 兵庫県川辺郡六瀬村出身。1896年、川辺郡猪名川町島に生まれる。猪名川町六瀬第二小学校、大阪府立北野中学校、青山学院高等学部卒業後、1927年米国オハイオ州ウェスリアン大学でB.A.、コロンビア大学大学院史学科でM.Aを取得。その後1939年までハーバード大学にて碑文およびパピルス文書などの史料にもとづくヘレニズム史の研究を継続し、一時期ボストン美術館東洋部にも勤務。1939年に帰国後、神戸女学院講師を経て、1951年に招かれて関西学院大学文学部教授に就任し史学科を開設し1967年の定年まで、その充実・発展のために尽力。
座間 美都治(ざま みつじ、1896年〈明治29年〉11月2… 座間 美都治(ざま みつじ、1896年〈明治29年〉11月2日 - ?)は、日本の歴史学者。神奈川県相模原市地域の郷土史家として知られる。神奈川県師範学校本科卒業。神奈川県商工実商学校教諭、相模原市立旭中学校校長、相模原市史編纂委員等を歴任。 現在の神奈川県相模原市南区に出生。1974年(昭和49年)の『相模原の歴史』を初めとして複数の郷土史書を著し、『相模原市史第7巻』を著述した。 1980年(昭和55年11月2日)の84歳の折、教え子や有志により相模原市麻溝台字はの原1894番地に肖像が建設された。敷地提供者は座間末治嗣子及び座間功。同像は1989年(平成元年)道路拡幅のため相模原市南区下溝3256-9に移された。
森 銑三(もり せんぞう、1895年(明治28年)9月11日… 森 銑三(もり せんぞう、1895年(明治28年)9月11日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は、昭和期日本の在野の歴史学者、書誌学者。愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身。 高等教育を経験しなかったにもかかわらず、図書館臨時職員、代用教員、雑誌社勤務など様々な職につきながら、独学で文学・国史の研究にいそしみ、図書館・資料館等に保管された資料の発掘と、それらを元に人物伝や典籍について精密に記した膨大な量の執筆活動を通じ、近世日本の文化・文芸関係の人物研究の分野で多大な業績を残した。 愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に出生。生家は呉服商。沢山の小説本を買い与えられ、文学に親しむ。刈谷尋常小学校時代は利発で学業に秀でていたが、刈谷には旧制中学校が設立されておらず、中学校進学を希望するならば近隣の岡崎で下宿する以外になかった。
西岡 虎之助(にしおか とらのすけ、1895年5月17日 -… 西岡 虎之助(にしおか とらのすけ、1895年5月17日 - 1970年2月26日)は、日本の歴史学者。早稲田大学名誉教授。 和歌山県伊都郡見好村(現在のかつらぎ町)教良寺の生まれであり、三谷尋常高等小学校を卒業している。1916年和歌山県師範学校卒業。尋常小学校訓導を勤めたのち、1918年東京帝国大学文科大学選科史学科に入学し、1921年卒業。同年、東京帝大史料編纂掛補助嘱託、1924年史料編纂官補、1933年史料編纂官。1946年から1954年まで東京大学史料編纂所事務官を務めたのち、同年早稲田大学教授。1966年に定年退任し、名誉教授。 荘園制を研究、農民など民衆生活の研究をおこなった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
板沢 武雄(いたざわ たけお、1895年1月5日 - 196… 板沢 武雄(いたざわ たけお、1895年1月5日 - 1962年7月15日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授・法政大学教授を歴任。専門は、日本近世史・日蘭貿易史。 1895年(明治28年)1月5日に岩手県南閉伊郡釜石町(現・釜石市)の天台寺門宗の名刹観音寺住持・板沢真小雄と喜智の五男として生まれた。旧制遠野中学校に入学し、中学時代に『台湾文化志』の著者・伊能嘉矩の家に寄寓してその感化を受け、これがのちに歴史学を志す契機となった。中学卒業後に第二高等学校に進学し、1916年7月に同校大学予科第一部英文科卒業。同年9月に東京帝国大学文科大学国史学科に進んだ。1919年7月に卒業。 その後、宮内省図書寮勤務を経て、1921年に学習院講師となり、翌年教授に就任した。
三尾 良次郎(みお りょうじろう、1894年(明治27年)5… 三尾 良次郎(みお りょうじろう、1894年(明治27年)5月28日 - 1978年(昭和53年))は、日本の歴史学者、政治家。 宮崎県日向市生まれ。広島高等師範学校を卒業。京都大学経済学部卒業。中国や台湾に渡り教鞭をとる。終戦後宮崎へ引き揚げる。町長・市長を歴任。日向市名誉市民に選ばれる。 著書に『黒田の家臣物語』『日知屋物語 三尾良次郎作品集』がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
竹岡 勝也(たけおか かつや、1893年11月10日 - 1… 竹岡 勝也(たけおか かつや、1893年11月10日 - 1958年9月30日)は、国学研究を中心に、日本思想史を専門とする日本の歴史学者で、九州帝国大学教授などを歴任した。 阿部 勝也として、山形県飽海郡上郷村山寺(後の松山町→酒田市)に生まれる。阿部一郎(阿部襄の父)、阿部次郎、堀三也、阿部余四男は兄、阿部六郎は弟である。 地元の山寺尋常高等小学校から、1907年に山形県立山形中学校(山形県立山形東高等学校の前身)に進み、さらに1912年には仙台の旧制・第二高等学校第一部乙類に入学した。二高では、土井晩翠、登張竹風らの薫陶を受けた。 1915年7月には東京帝国大学に進み、1918年に文科大学史学科を卒業した。
松本 芳夫(まつもと よしお、1893年8月25日 - 19… 松本 芳夫(まつもと よしお、1893年8月25日 - 1982年12月8日)は、日本の歴史学者。慶應義塾大学名誉教授。別名南国天[要出典]。 和歌山県東牟婁郡下里村(現・那智勝浦町)出身。1914年郁文館中学校卒業。1919年慶應義塾大学文学部史学科卒業、1950年「古代日本人の政治思想」で慶大文学博士。1919年慶應義塾商工学校教員、1923年慶應義塾大学予科教員兼高等部教員、1927年に文学部講師、1931年助教授を経て、1933年教授。1953年文学部長。1959年、義塾賞受賞。1960年斯道文庫長、1961年名誉教授。
白鳥 清(白鳥 淸、しらとり きよし、1893年3月21日 … 白鳥 清(白鳥 淸、しらとり きよし、1893年3月21日 - 1972年8月9日)は、日本の歴史学者。学習院教授、立教大学文学部教授、聖心女子大学教授。専門は東洋史学。 1893年(明治26年)、千葉県市原郡戸田村(現・市原市)生まれ。旧姓は鈴木。 1916年(大正5年)、第六高等学校一部英法科卒業。1917年(大正6年)、叔父の八代国治の媒酌により、白鳥庫吉(東洋史学者、邪馬台国九州説の代表的論者)の長女と結婚し、その嗣子となる。1920年(大正9年)、東京帝国大学文学部史学科(東洋史専攻)卒業。 1925年(大正14年)4月に、立教大学文学部に史学科が創設され、最初の教授陣の一人として東洋史を講じた。
郭 沫若(クオ・モールオ、かく まつじゃく、1892年11月… 郭 沫若(クオ・モールオ、かく まつじゃく、1892年11月16日 - 1978年6月12日)は、中華民国・中華人民共和国の政治家・文学者・考古学者・歴史学者。中国の近代文学・歴史学の開拓者の一人。 原名は郭開貞で、開貞は諱、沫若は号にあたる。字は「鼎堂」。執筆時に用いた筆名は多く、高汝鴻・麦克昂・易坎人・杜頑庶・杜衎などである。 1892年11月16日、当時は嘉定(路)と呼ばれていた大肚河沿いの沙湾という小さな町で生まれた。この町は現在、四川省楽山市の中心市街地となっている。郭が生まれた当時、沙湾は約180世帯が住む町であった。地主である郭家の8番目の子として四川省嘉定府楽山県に生まれる。郭沫若には出生にまつわる一つの逸話があり、母親が彼を身篭った際に不思議な豹の夢を見た経験から、「豹の生まれ変わり」として「文豹」と名付けられた。
金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 -… 金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 - 1951年5月7日)は、日本の歴史学者。東京商科大学(現一橋大学)教授を務めたが、日本の降伏後、教職追放令により免官された。 京都市出身。京都府立第二中学校(のちの京都府立鳥羽高等学校)卒業後、1915年東京高等商業学校(のちの一橋大学)本科卒業。1917年同専攻部貿易科を総代で卒業し、同校講師に就任。上田貞次郎門下。1919年同校教授。 1920年東京商科大学附属商学専門部教授。同年から1923年までイギリス、フランス、ドイツに留学。のち、東京商科大学教授兼附属商学部教授となり、1938年に全国高商文化聯合会が設立されると会長に就任。
高柳 光寿(たかやなぎ みつとし、1892年3月11日 - … 高柳 光寿(たかやなぎ みつとし、1892年3月11日 - 1969年12月1日)は、日本の歴史学者。高柳 光壽とも。自身で「髙柳」と署名しているものもある。國學院大學教授。大正大学教授。静岡県出身。専門は日本中世史、特に戦国時代史。足利尊氏研究、戦国史研究の権威。 静岡県敷知郡浜松町(現在の浜松市)に神主高柳喜一郎の長男として生まれる。1914年、國學院大學国史科を優等の成績で卒業。1916年に東京帝国大学史料編纂所に勤務、1926年には史料編纂官となって、『大日本史料』安土桃山時代の編纂を担当。また、1921年から1944年まで國學院大學教授を、1947年から1969年まで大正大学教授を兼任。
石田 幹之助(いしだ みきのすけ、1891年12月28日 -… 石田 幹之助(いしだ みきのすけ、1891年12月28日 - 1974年5月25日)は、日本の歴史学者、東洋学者。國學院大學や大正大学、日本大学などで教授をつとめた。芥川龍之介とは、一高同級生の友人だった。
中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 19… 中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 1976年2月23日)は、大正・昭和期の日本の歴史学者。 滋賀県滋賀郡大津町(現在の大津市)にある長等神社の社家の家に生まれる。膳所中学校・第三高等学校 を経て京都帝国大学に入る。三浦周行の門下で古文書学などを研究する。卒業論文「皇室制度」をまとめ、1915年7月に京都帝国大学文科大学卒業。さらに、古文書学の研究のため、大学院に進む。1919年9月より第三高等学校で歴史学を講じ、1920年に同校教授となる。1927年7月からは京都帝国大学助教授として古文書学を担当した他、南朝や荘園・皇室領・座・供御人などの研究を行った。1946年に「荘園の研究」を提出して京都大学から文学博士の学位を授与される。
龍 粛(りょう すすむ、1890年4月29日 - 1964年… 龍 粛(りょう すすむ、1890年4月29日 - 1964年2月25日)は、大正・昭和期の歴史学者。専攻は中世史。元東京大学史料編纂所長。萩野由之は舅に当たる。