蘆原 英了(あしはら えいりょう、1907年1月9日 - 1… 蘆原 英了(あしはら えいりょう、1907年1月9日 - 1981年3月2日)は、日本の音楽・舞踊評論家。本名は敏信。 昭和20年代から40年代にかけて、バレエ評論家の第一人者として活躍した。藤田嗣治の甥。 滋賀県大津市で軍医の四男として生れ、1931年慶應義塾大学文学部フランス文学科卒業。1932年、フランスに留学し、バレエ、シャンソン、演劇を学ぶ。 帰国後、中央公論社に入社。戦後は雑誌「婦人公論」の編集長となる。また、バレエ、シャンソン、演劇の評論家となる。1957年、大宅壮一が創設した「ノンフィクションクラブ」に参加する。 1957年『巴里のシャンソン』で毎日出版文化賞受賞。1962年にフランス政府から芸術文化勲章をうける。
岩上 順一(いわかみ じゅんいち、1907年(明治40年)1… 岩上 順一(いわかみ じゅんいち、1907年(明治40年)1月2日 - 1958年(昭和33年)8月14日)は、日本の文芸評論家。 山口県吉敷郡小郡町(現山口市)に生まれる。家が貧しいため、中学進学ができなかったので、小郡の変電所に勤務するが、学業への意志は強く、鴻城中学校の編入試験に合格した。卒業後は早稲田大学に進み、英文科に所属するも、そのころから社会運動にかかわり、何度か検挙され、結局大学は中退という形になった。 その後、会社勤めをしながら評論を書くことを志し、1938年に評論家としての最初の文章が『中央公論』に掲載される。この時期、活発に評論活動を行い、1941年5月3日の『朝日新聞』には「全国民を動かす政治的指導が絶対に必要である。
山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)1… 山室 静(やまむろ しずか、男性、1906年(明治39年)12月15日 - 2000年(平成12年)3月23日)は、日本の詩人・文芸評論家・翻訳家。 教師であった父茂次郎、母いまの第5子として、赴任先の鳥取県鳥取市に生まれる。兄に中部日本新聞社社長となった山室次郎、九州大学教授・中国哲学者の山室三良がいる。母も断続的に教師として勤務していた。7歳から父母の郷里である長野県北佐久郡岩村田町(現佐久市)で育ち、旧制野沢中学(現在の長野県野沢北高等学校)卒業後、代用教員などを務め) 1927年に岩波書店に入社、東洋大学夜間部、日本大学夜間部に通い、1930年に労働争議により岩波書店を退社、アンドリュウス商会に勤めたが、1937年に同社の解散により失業している。
長沼 弘毅(ながぬま こうき、1906年11月21日 - 1… 長沼 弘毅(ながぬま こうき、1906年11月21日 - 1977年4月27日)は、日本の大蔵官僚、実業家、文芸評論家である。東京出身。経済学博士であり、柔道家(講道館七段)であった。孫に俳優の平沼成基など。
大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月… 大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月18日 - 1987年(昭和62年)7月13日)は、日本の陸軍軍人、実業家、経営評論家。 軍人として第53軍参謀・東部軍参謀等を務め、階級は陸軍中佐に至る。戦後東洋精密工業社長、同社相談役や偕行社副会長を歴任する。愛知県蒲郡市出身。 明治39年11月陸軍中佐大橋崧次郎の四男として生まれ、愛知四中・名古屋陸軍幼年学校・陸軍士官学校予科を経て昭和2年7月19日に陸軍士官学校を卒業。同年10月25日、陸軍砲兵少尉に任官され、野戦重砲兵第2連隊附を命ぜられる。士官候補生第39期の大橋の同期には陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、関東軍作戦主任参謀の草地貞吾大佐がいる。
竹田 道太郎(たけだ みちたろう、1906年(明治39年)1… 竹田 道太郎(たけだ みちたろう、1906年(明治39年)11月6日 - 1997年(平成9年)12月10日)は、日本の美術評論家。 新潟県柏崎市出身。早稲田大学文学部ドイツ文学科卒業。都新聞社の記者を経て、1936年2月から朝日新聞社記者。社会部、学芸部、雑誌編集室で美術関係の記事を担当した。近代日本の日本画家を対象として評論活動をおこなった。1961年朝日新聞社を定年退社。定年後は女子美術大学教授、武蔵野美術大学教授を務めた。
吉田 留三郎(よしだ とめさぶろう、1906年11月3日 -… 吉田 留三郎(よしだ とめさぶろう、1906年11月3日 - 1978年5月25日)は、日本の評論家、上方芸能評論家。愛称は「留サン」。 大阪府大阪市出身。旧制大阪府立生野中学校、松江高等学校を経て、京都帝国大学文科卒業。 学生時代から寄席に通い詰め、戦前は吉本興業、戦後は松竹芸能に在籍。織田作之助、秋田實らとともに、上方芸能の発展に寄与した。 1977年、秋田が死去した後、秋田が育てた漫才師のミヤコ蝶々、夢路いとし・喜味こいしらに呼び掛け、玉造稲荷神社に記念碑を建設した。 1978年に死去。生前の業績を讃え、雑誌『上方芸能』第58号で「吉田留三郎の死と総合芸能時代の終焉」と題する特集が組まれた。
新名 丈夫(しんみょう たけお、1906年(明治39年)11… 新名 丈夫(しんみょう たけお、1906年(明治39年)11月3日 - 1981年(昭和56年)4月30日)は、日本の評論家、元毎日新聞記者。 香川県高松市に生まれる。1932年(昭和7年)、慶應義塾大学法学部卒。慶應義塾大学では弁論部に所属した。同年、東京日日新聞(現、毎日新聞)に入社した。 太平洋戦争中、黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であった新名は、1944年(昭和19年)2月23日付東京日日新聞(現・毎日新聞)一面に、「勝利か滅亡か、戦局は茲(ここ)まできた」、「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」という記事を執筆、これに東條英機首相が反発し二等兵として陸軍に懲罰召集を受けることになった。
坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月… 坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。 第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人である。純文学のみならず、歴史小説や推理小説、文芸や時代風俗から古代史まで広範に材を採る随筆、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記などの多彩な活動を通し、無頼派、新戯作派と呼ばれる地歩を築いた。 新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科(現・文学部 東洋思想文化学科)卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。 戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、太宰治、織田作之助、石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれ地歩を築いた。
池田 寿夫(いけだ ひさお、1906年〈明治39年〉8月15… 池田 寿夫(いけだ ひさお、1906年〈明治39年〉8月15日 - 1944年〈昭和19年〉11月9日)は、日本のプロレタリア文学評論家。本名は横山 敏男(よこやま としお)。 新潟県新潟市旭町通2番町出身。1913年(大正2年)4月に新潟尋常高等小学校に入学、坂口安吾は同級生、1920年(大正9年)4月に新潟中学校に入学、坂口安吾は同級生、1924年(大正13年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)。 1924年(大正13年)4月に新潟高等学校に入学、左傾化、1927年(昭和2年)3月に卒業、4月に東京帝国大学農学部農業経済学科に入学、駒場社会科学研究会に入会、帝大同人雑誌連盟を結成、1928年(昭和3年)7月に『大學左派』を創刊。
岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 19… 岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 1935年5月14日)は、日本の社会活動家、フェミニスト、評論家である。 日本女子大学校卒業後、大阪府庁の社会課に委託職員として勤める。日本共産党の秘密党員であった川上貫一は上司であり、その影響で岩崎も日本共産党に秘密入党して社会運動に携わりつつ、女性や児童についての評論活動を行った。1933年、昭和8年大阪共産党大検挙事件で治安維持法の容疑で逮捕、1935年5月に結核に罹患して病死した。享年29歳。病死する直前に評論集「婦人と児童の問題」を刊行した。岩崎の評論集は1995年に久山社から再版されている。友人に松本員枝がいる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
高沖 陽造(たかおき ようぞう、1906年4月25日 - 1… 高沖 陽造(たかおき ようぞう、1906年4月25日 - 1999年10月15日)は、日本の文芸評論家、翻訳家。 広島県生まれ。正則英語学校卒業。1933年から西洋の文芸思想の紹介を始める。戦後は民主主義科学者協会に所属、マルクス主義芸術理論を研究、紹介した。
和田 芳恵(わだ よしえ、1906年4月6日 - 1977年… 和田 芳恵(わだ よしえ、1906年4月6日 - 1977年10月5日 男性)は、日本の小説家・文芸評論家。編集者の傍ら樋口一葉研究に没頭。多くの伝記・研究をまとめた。私小説作家としても知られ、晩年には老人の性愛を描いた短編で注目された。 北海道山越郡長万部町出身。北海中学(現北海高等学校)、中央大学法学部独法学科卒業。新潮社勤務のかたわら同人誌に小説を執筆。樋口一葉研究を行い、第二次世界大戦中に『樋口一葉研究』(1942年)などを刊行した。 1935年から1949年にかけて市川市八幡・市川地区在住であった。1952年に発表された「塵の中」には戦争前後の市川から八幡の様子が随所に描かれている。 戦後は大地書房に勤務、小説雑誌『日本小説』を創刊(「中間小説」を創始したと評される)。
具 本雄(ク・ボヌン、朝鮮語: 구본웅、1906年3月7日 … 具 本雄(ク・ボヌン、朝鮮語: 구본웅、1906年3月7日 - 1952年2月2日)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の画家、彫刻家、美術評論家。 本貫は綾城具氏。号は西山(ソサン、서산)。 漢城府生まれ。幼少の頃使用人の不手際により脊椎を傷め、肢体障害者となった。儆新高等普通学校(現・儆新高等学校)在学中高羲東より洋画を学び、その後金復鎮により彫刻を学んだ。朝鮮美術展覧会で彫刻部門に『顔習作』が特選で入賞した。その後日本に留学し、川端画学校、日本大学、太平洋美術学校(現・太平洋画会研究所)で学び、太平洋美術学校在学中2度個展を開いた。1933年に帰国し、1934年に牧日会を創設し、1938年に総合文芸誌『青色誌』を創刊し李箱、李陸史などの作品を掲載した。
成瀬 正勝(なるせ まさかつ、1906年2月25日 - 19… 成瀬 正勝(なるせ まさかつ、1906年2月25日 - 1973年11月17日)は、日本の作家、文芸評論家、国文学者。筆名は雅川 滉(つねかわ ひろし)。 尾張藩付家老・犬山藩主成瀬正成の末裔で(同名の旗本成瀬正勝は正成の弟)、成瀬家11代当主、華族であった。10代当主・成瀬正雄(1869年9月9日 - 1949年8月23日)の長男。称号(現 学位)は文学士(東京帝国大学)。 東京府東京市麹町区生まれ。1926年、東京帝国大学国文科入学、雅川滉の名で評論を書き始める。1929年卒業。第9次、第10次『新思潮』同人。ついで『文藝都市』、『近代生活』の同人、1930年、新興芸術派の立場から「藝術派宣言」を『新潮』4月に発表した。
山根 銀二(やまね ぎんじ、1906年1月27日 - 198… 山根 銀二(やまね ぎんじ、1906年1月27日 - 1982年9月14日)は日本の音楽評論家。ベートーヴェン研究家として知られる。1934年から『朝日新聞』に音楽批評を執筆し、続いて『東京日日新聞』、1946年から再び『東京新聞』『讀賣新聞』の音楽批評を担当。『東京新聞』での批評は1961年まで続いた。
水田 文雄(みずた ふみお、1906年1月23日 - 199… 水田 文雄(みずた ふみお、1906年1月23日 - 1994年 9月30日)は日本の小説家、広告評論家。 サラリーマンのかたわら書いたベストセラーを含み著作は多数で、マルチ広報活動エッセイストとしても活躍した。 第七高等学校造士館文科卒業。1930年東京大学文学部支那哲学科卒業、文学博士。 ベルリン及びミユンヘン大学留学 - 新聞研究室に在籍。 1930年朝日新聞入社。 南京、上海、欧州主にドイツ駐在で、ロシアを含み欧州各国を取材で回る。 自由言論弾圧にあい朝日新聞退社。 東宝(株)入社、宣伝部長。 後楽園スタヂアム支配人。 花王石鹸入社、中国駐在となり、上海公司取締役社長、天津支社長兼工場長。
杉 靖三郎(すぎ やすさぶろう、1906年1月6日 - 20… 杉 靖三郎(すぎ やすさぶろう、1906年1月6日 - 2002年5月29日)は、日本の生理学者、性評論家、翻訳家、医師。医学博士(東京帝国大学・1940年)。文部省国民精神文化研究所文化部主任、東京教育大学・専修大学教授を歴任。旧姓は渡辺。 大阪府堺市生まれ。第二高等学校卒業。1928年、東京帝国大学医学部卒業。橋田邦彦の下で電気生理学を専攻。1940年、「筋負傷電位の電源の座に関する研究」にて東京帝国大学医学博士。 日本的科学に賛同し1941年国民精神文化研究所文化部主任。1947年3月 - 1951年8月 公職追放。1946年 - 1951年『医学書院』編集長、1952年 - 1969年東京教育大学教授、1956年『人間の科学』で毎日出版文化賞受賞。
唐島 基智三(からしま きちぞう、1906年1月1日 - 1… 唐島 基智三(からしま きちぞう、1906年1月1日 - 1976年7月30日)は、政治評論家、ジャーナリスト。 広島県竹原市(当時は竹原町)出身で三男として生まれる。旧制忠海中学校(現在の広島県立忠海高等学校)、第六高等学校、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した(1928年)。 東京帝国大学卒業後、国民新聞社に入社した。編集局長などを経て、1940年に退社した。1943年、東京新聞社(現在の中日新聞東京本社)に移り理事、論説委員長を務めた。 一時占領軍の公職追放令で一線を退いたが1950年の解除後、同社に復帰した。復社後は東京新聞の1面コラムに筆名・武原敏として「筆洗」を長きにわたり書き続けた。
尾崎 庄太郎(おざき しょうたろう、1906年 - 1991… 尾崎 庄太郎(おざき しょうたろう、1906年 - 1991年)は、日本の評論家、中国評論家。 徳島県生まれ。東亜同文書院卒業。南満州鉄道調査部勤務ののち、中国国内で反戦運動を行うが、日本の敗戦後、旧法下で思想犯として懲役十年の判決を受け下獄、しかし1945年10月釈放。 46年中国研究所の創立メンバーとなり、論文・翻訳を発表。『毛沢東選集』の翻訳を行う。はじめ尾崎五郎の名を用いた。文化大革命以後は、中共礼讃から離れてほぼ沈黙、80年代に入り、民主化運動を支持する方向へ向かった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
並河 亮(なみかわ りょう、1905年12月26日 - 19… 並河 亮(なみかわ りょう、1905年12月26日 - 1984年5月8日)は、日本の翻訳家、放送作家、放送・文芸・美術・ジャズ評論家、英文学者。 写真家の並河萬里の父。 島根県生まれ。東京帝国大学法学部卒。NHK国際部、毎日放送に勤務。日本大学で文学博士取得。その後同大学旧文学部で教授を務めた。 ドス・パソス『U.S.A.』を唯一完訳。そのほかにアプトン・シンクレアなどの翻訳、放送台本、評論活動がある。 生涯にわたり『華厳経』の研究著作を行った。
川崎 巳三郎(かわさき みさぶろう、1905年11月29日 … 川崎 巳三郎(かわさき みさぶろう、1905年11月29日 - 1982年12月2日)は、日本の評論家。ペンネームは河本 勝男。 千葉県東金市出身。1931年東京商科大学(現一橋大学)卒業。マルクス経済学者大塚金之助の門下。 大学卒業後は、企画院嘱託を経て、満鉄調査部員となり、満鉄調査部事件で石堂清倫、中西功、野々村一雄らとともに検挙された。 日本共産党自治体部副部長や、プロレタリア科学研究所常任中央委員も務め、左翼の理論家として知られた。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
藤田 圭雄(ふじた たまお、1905年11月11日 - 19… 藤田 圭雄(ふじた たまお、1905年11月11日 - 1999年11月7日)は、日本の編集者・児童文学作家・評論家。 孫は俳優・劇作家・脚本家・プロデューサーの岩瀬顕子。 東京牛込生まれ。父は歴史家(東大史料編纂所編纂官)の藤田明(1877 - 1915)。伯父に正木直彦。11歳で父を亡くす。 開成中学校卒、1930年早稲田大学独文科卒。 平凡社に勤務、滝沢修らと演劇運動に関わる。1933年中央公論社に入社、児童文化関係の出版に携わる。戦後、サトウ・ハチローと協力して童謡運動を展開、実業之日本社で『赤とんぼ』を編集、1948年同誌休刊により中央公論社に復帰。1950年理事、取締役、婦人公論編集部長、1953年中央公論編集部長、1960年定年。
薗田 誠一(そのだ せいいち、1905年〈明治38年〉10月… 薗田 誠一(そのだ せいいち、1905年〈明治38年〉10月5日 - 1986年〈昭和61年〉8月3日)は、日本の声楽家(テノール)、オペラ歌手、音楽教育者、音楽評論家、音楽学者、合唱指揮者。お茶の水女子大学名誉教授。 千葉県出身。1930年(昭和5年)東京音楽学校(現: 東京藝術大学音楽学部)卒業。マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 卒業後、戦前からリサイタル、コンサートで活動し、特にドイツ歌曲を得意とした。 戦後まもなく演奏活動に復帰。門下生の柴田睦陸が結成し、二期会の母体となった東京藝術大学歌劇研究部 ベルリオーズ『ファウストの劫罰』の主役ファウストを務めている。
金珖燮(キム・グァンソプ、朝鮮語: 김광섭、1905年9月2… 金珖燮(キム・グァンソプ、朝鮮語: 김광섭、1905年9月22日 - 1977年5月23日)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の詩人、翻訳家、評論家、独立運動家。本貫は全州金氏。号は怡山(イサン、이산)。 死後、氏の精神と文学を称えるために1989年、怡山文学賞が作られ文学と知性社主管で施行されている。 咸鏡北道鏡城生まれ。鏡城公立普通学校を経て、1920年鏡城中央高等普通学校から転入し1924年に中東学校を卒業。同年、早稲田大学英語英文学科に入学し、1928年修了。1927年に同窓会誌に詩『蚊帳』を発表し、創作活動と文壇での活動を始めた。その後、中東学校の英語の教師を務め、1933年に劇芸術研究会に参加し、徐恒錫、咸大勲、毛允淑、盧天命らと知り合った。
有坂 愛彦(ありさか よしひこ、1905年(明治38年)9月… 有坂 愛彦(ありさか よしひこ、1905年(明治38年)9月17日 - 1986年(昭和61年)10月7日)は、音楽評論家。軍人・有坂鉊蔵の四男として生まれる。弟に有坂秀世。1930年東京帝国大学文学部美学美術史美学専攻卒。1946年(昭和21年)1月22日、第二次世界大戦後の混乱期に日本音楽連盟結成に参加し、理事長に就任した。 1970年代前半には、TBSテレビが制作放映していた日本レコード大賞の審査員を務めた。
田中 忠雄(たなか ただお、1905年9月13日 - 199… 田中 忠雄(たなか ただお、1905年9月13日 - 1991年5月30日)は、日本の保守評論家。 佐賀県出身。旧制佐賀中学、旧制佐賀高校を経て、1929年京都帝国大学文学部哲学科卒業。西田幾多郎に師事。京都市立第一工業学校で英語教師をするが(同僚に下村寅太郎、北川桃雄)、1937年主催誌『リアル』が治安維持法違反の嫌疑をかけられ二年投獄。その間澤木興道に傾倒、禅思想を研究。1939年上京し上智大学でカトリック大辞典を編纂。 戦後、保守思想に共鳴して生長の家関連の出版社である日本教文社に入社、編集局長。谷口雅春に帰依し、生長の家政治連合会長として政界で活動。1955年公職を離れる。1974年に自由民主党から第10回参院選に出馬するも落選。
田鶴浜 弘(たづはま ひろし、1905年8月29日 - 19… 田鶴浜 弘(たづはま ひろし、1905年8月29日 - 1991年8月15日)は、日本のスポーツライター、プロレス評論家。 日本ボディビル協会の副会長も務めた。 早稲田大学卒業。報知新聞記者を皮切りにスポーツ記者として広く活躍し、とりわけプロレスでは「プロレス評論家の草分け的存在」と称される。日本初のプロレス専門誌『月刊プロレス』の創刊にも携わった。 1972年の全日本プロレス創立から1985年頃まで、日本テレビの『全日本プロレス中継』で解説者を務める。なおメインの解説者は田鶴浜より28歳若い山田隆で、田鶴浜は二番手のポジションだった。1975年に全日本で行われたオープン選手権では準備委員会の委員を務めた。
須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 -… 須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 - 1975年4月17日)は、漫画家、洋画家、美術評論家、漫画評論家、社会運動家。昭和初期のプロレタリア美術運動に参加。生前、日本における漫画評論の第一人者として知られた。生前は一水会、草炎会および日本美術会会員。別名義は宇野圭。 明治38年(1905年)、長野県下伊那郡鼎村(鼎町を経て、現・飯田市)に生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、昭和5年(1930年)、東京美術学校西洋画科卒業。『文章倶楽部』(新潮社)、『戦旗』(戦旗社)などに漫画を執筆。『無産者新聞』に漫画「アジ太プロ吉」を連載。 昭和6年、日本プロレタリア美術家同盟の中央委員および書記長に就任。
藤原 定(ふじわら さだむ、1905年7月17日 - 199… 藤原 定(ふじわら さだむ、1905年7月17日 - 1990年9月17日)は、日本の詩人、評論家、翻訳家。 福井県敦賀市に生まれる。法政大学文学部哲学科で三木清・谷川徹三に師事する。大学時代から「生活者」に小説・詩を投稿し、1936年(昭和11年)に草野心平に誘われ『歴程』の同人となる。その後、南満州鉄道調査部に勤務し、評論を上梓する。 1944年に第一詩集『天地の間』を刊行、戦後は法政大教授となる。1957年(昭和32年)に山室静らと詩雑誌『花粉』を発行する。1964年(昭和39年)には山梨県北巨摩郡大泉村西井出(現・北杜市大泉町西井出)に山荘を所有し、夏季の間は同地で詩作を行う。1979年(昭和54年)には第五詩集『環』を刊行し、『環』には「甲斐駒のうしろから」などの八ヶ岳山麓を題材とした詩も含まれている。
臼井 吉見(うすい よしみ、1905年(明治38年)6月17… 臼井 吉見(うすい よしみ、1905年(明治38年)6月17日 - 1987年(昭和62年)7月12日)は、日本の編集者、評論家、小説家、日本藝術院会員。息子は映像作家の臼井高瀬。 長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市)に、父貞吉・母きちの次男として生まれる。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校(現・信州大学)文科甲類を経て、1929年東京帝国大学文学部卒業。松本中学での同級生に筑摩書房の創業者となる古田晁、俳優・演劇評論家の松本克平がいる。 旧制伊那中学(現・長野県伊那北高等学校)、松本女子師範学校などで教員を務めた後、上京して東京女子大学でも教え、さらに1946年に創刊した筑摩書房の総合雑誌『展望』編集長を務め、文芸評論家としても活躍した。
沙羅 双樹(さら そうじゅ、1905年5月6日 - 1983… 沙羅 双樹(さら そうじゅ、1905年5月6日 - 1983年1月20日)は、日本の小説家、経済評論家。本名、大野兤(おおの ひろし)。 埼玉県越谷市出身、日本大学専門部法科中退。 時代小説を主に執筆した。 1936年、『天鼓』で第1回千葉亀雄賞受賞。※田中平六名義 1938年、『兜町』が第8回直木賞候補作となる。 1940年、「白狼」及び「花影」が第11回直木賞候補作となる。 1952年、「獄門帳」が第28回直木賞候補作となる。 1954年、「帰らぬ人々」が第31回直木賞候補作となる。 映像化された作品に「獄門帳」鶴田浩二、「大江戸喧嘩纏」大友柳太朗、「雪姫七変化」松島トモ子、「伊達六十二万石」(映画名「伊達騒動 風雲六十二万石」大友柳太朗)、「妻恋い獅子」(映画名「胡蝶かげろう剣」里見浩太郎)がある。
大久保 泰(おおくぼ たい、1905年3月28日 - 198… 大久保 泰(おおくぼ たい、1905年3月28日 - 1989年1月29日)は、日本の洋画家、美術評論家。愛知県出身。早稲田大学卒。山本鼎に油絵を学び、1931年、ヨーロッパ留学。帰国後国画会展、春陽会展に出品。1939年以後、独立展に出品、「裸婦」で岡田賞を受賞。風景画を得意とした。
佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日 - 1989年… 佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日 - 1989年4月4日)は、日本の社会主義運動家、評論家。田中清玄とともに、いわゆる「武装共産党」時代の日本共産党(第二次共産党)の指導部を組織した。佐野学の甥で、共産党系演劇人で革命歌「インターナショナル」訳詞者の佐野碩、社会学者鶴見和子・哲学者鶴見俊輔姉弟は従妹弟にあたる。 1905年、大分県速見郡杵築町(現・杵築市)に生まれる。旧制第七高等学校在学中に、学生サークル「鶴鳴会(かくめいかい)」に参加。1923年(大正12年)9月、鹿児島港にソ連の船が入港した折に佐野を含む鶴鳴会のメンバー数人は手漕ぎのボートで接近、「インターナショナル」を歌って乗船を許され、身振り手振り(メンバーにはロシア語に通じたものがいなかった)で船長と意思疎通を図り、パンフレットなどを渡されて戻るという事件を起こす。
渋川 驍(しぶかわ ぎょう、1905年3月1日 - 1993… 渋川 驍(しぶかわ ぎょう、1905年3月1日 - 1993年1月24日)は、日本の小説家、文芸評論家。福岡県福岡市生まれ。本名・山崎武雄。東京帝国大学倫理学科卒。同人誌『日暦』、『人民文庫』などに参加して小説家として立つ。1938年、『龍源寺』で第7回芥川龍之介賞候補。戦後は評論にも進出した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
佐藤 信衛(さとう のぶえ、1905年2月8日 - 1989… 佐藤 信衛(さとう のぶえ、1905年2月8日 - 1989年5月20日)は、日本の哲学者、文芸評論家・同人作家。 茨城県生まれ。1928年東京帝国大学哲学科卒。1937年法政大学講師。三木清とともに『文學界』同人となる。 戦後1951年法政大学教授。1973年退任。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:哲学)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 … 伊藤 整(いとう せい、1905年(明治38年)1月16日 - 1969年(昭和44年)11月15日)は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。位階は正五位。勲等は勲三等。 本名は伊藤整(いとう ひとし)。社団法人日本文藝家協会理事、東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。日本芸術院会員。 抒情派詩人として出発したが、その後詩作を離れて小説・評論に重心を移し、ジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。私小説的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行い、評論では『小説の方法』「近代日本人の発想の諸形式」「近代日本における『愛』の虚偽」『日本文壇史』などがあり、『氾濫』『変容』『発掘』は、夏目漱石の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。
奥平 英雄(おくだいら ひでお、1905年 -2000年 )… 奥平 英雄(おくだいら ひでお、1905年 -2000年 )は、日本ほ日本美術史家・日本美術評論家。 1905年、広島県呉市で生まれた。江田島の海軍兵学校への登竜門としても有名な呉第一中学校(現広島県立呉三津田高等学校)を経て、旧制広島高等学校に1期生として入学。卒業後、京都帝国大学哲学科に進学したが中退し、東京帝国大学文学部美学科美術史に転じた。1932年に東京帝国大学文学部を卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院修了後、東京国立博物館に技官として勤務。在任中は資料課長を務めた。東京国立博物館を退任後、名誉館員。その後は和光大学教授、共立女子大学教授を務め、同大学文芸学部の設立に携わった。2000年に死去。
井上 甚之助(いのうえ じんのすけ、1905年(明治38年)… 井上 甚之助(いのうえ じんのすけ、1905年(明治38年) - 1973年(昭和48年)3月19日)は、日本の演劇評論家、随筆家。京都府出身。 大丸創業一族の分家に生まれる。慶應義塾大学経済学部卒業後、京都大丸に勤務の傍ら、演劇評論家としても活動し、歌舞伎役者 七代目坂東三津五郎、京舞井上流の舞踊家 松本佐多の聞き書きを著した。自らも南座で素人歌舞伎の舞台に立つ粋人で、京都での暮らしを綴ったエッセイも残している。 文化部門の担当であった関係で画壇とも交流が深く、著作の装丁や挿絵は小野竹喬、堂本印象、川合玉堂、川端龍子、福田平八郎、上村松篁といった錚々たる大家が手掛けている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - … 土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - 1980年12月23日)は、昭和期に活動した日本の美術評論家、美術史家。 岐阜県生まれ。水戸高等学校時代から文学活動を開始し、東京帝国大学を卒業。1930年にドイツに留学。1935年詩誌『歴程』発足とともに同人となり、美術批評を執筆。1938年興亜院嘱託となり、1942年燕京大学華北総合調査研究所所員。 戦後の1949年、千葉工業大学教授に就任。1951年神奈川県立近代美術館(鎌倉市)副館長、1954年美術評論家連盟会長、1963年『ブリューゲル』で毎日出版文化賞受賞、1965年神奈川県立近代美術館館長、1968年芸術選奨文部大臣賞、1973年菊池寛賞受賞。
福田 清人(ふくだ きよと、1904年〈明治37年〉11月2… 福田 清人(ふくだ きよと、1904年〈明治37年〉11月29日 - 1995年〈平成7年〉6月13日)は、日本の小説家、児童文学作家、近代文学研究者、文芸評論家。立教大学教授、立教女学院短期大学教授、実践女子大学教授。 日本児童文芸家協会を結成して理事長・会長を歴任したほか、滑川道夫らと日本児童文学学会を設立した。日本近代文学館常任理事、波佐見町名誉町民。勲四等旭日小綬章受章。 1904年(明治37年)11月29日、長崎県東彼杵郡波佐見町宿郷鹿山で、父「和一朗」(医師)と母「すい」の長男として誕生。5歳までは同町鬼木郷にあった母親の実家で育てられる。村長となった祖父、村医として開業した医師の父に連れられて、少年時代を西彼杵郡土井首村(現長崎市土井首)で過ごす。
青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 … 青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 - 1983年4月30日)は、日本の劇作家、評論家。本名は大嶋長三郎。秋田県秋田市生まれ。 1904年(明治37年)11月26日、薬卸小売商「衛生堂」の長男として茶町梅ノ丁(現在の大町四丁目)に誕生。衛一と命名されるが、1915年(大正4年)、父が逝去したため、その名前を継いで以後は長三郎を名乗る。旧制秋田中学(現在の秋田県立秋田高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1929年(昭和4年)東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。 大学在学中、第九次「新思潮」同人となり、同誌に掲載された戯曲『火』『見物教育』が小山内薫に認められ、師事する。大学卒業後、香川県社会教育主事として高松に赴任するが、劇作に専念するため4年後に再度上京。
光吉 夏弥(みつよし なつや、1904年〈明治37年〉11月… 光吉 夏弥(みつよし なつや、1904年〈明治37年〉11月20日 - 1989年〈平成元年〉3月7日)は、日本の翻訳家、絵本研究家、舞踊評論家。本名・積男。 大阪府北区北野茶屋町で生まれる。1929年慶應義塾大学経済学部卒業。専門は児童文学・写真・舞踊。 1953年岩波書店で「岩波の子どもの本」絵本シリーズを石井桃子とともに創立する。ほか児童書の翻訳、バレエの入門書など多数がある。1990年『絵本図書館(世界の絵本作家たち)』で日本児童文学学会賞特別賞受賞。 岩波書店刊の絵本『ちびくろ・さんぼ』(1953年初版)の翻訳者として知られる。同絵本は、1988年に人種差別の指摘を受け、絶版となったが(いわゆるサンボ一斉絶版問題)、2005年に瑞雲舎からほぼそっくりそのままの形で復刊された。
瀬沼 茂樹(せぬま しげき、1904年10月6日 - 198… 瀬沼 茂樹(せぬま しげき、1904年10月6日 - 1988年8月14日)は、日本の文芸評論家、翻訳家。本名は鈴木忠直。 東京府生まれ。1929年、東京商科大学(現一橋大学)卒。金子鷹之助ゼミでノヴァーリスを学んだ。在学中伊藤整と知り合い終生の親友となる。出版社に勤め、1930年、伊藤の『文芸レビュー』同人となり、谷川徹三の知遇を得て評論活動を始める。1932年、イポリット・テーヌの『文学史の方法』を翻訳、岩波文庫から刊行。唐木順三、藤原定らと季刊『理論』を創刊、1933年、最初の著書『現代文学』を上梓、1934年、埼玉県立商業学校教師、1935年、川越中学校教師、1937年から化粧品会社に勤め、執筆活動を一時休止。
牧野 吉晴(まきの よしはる、1904年9月25日 - 19… 牧野 吉晴(まきの よしはる、1904年9月25日 - 1957年12月21日)は、日本の美術評論家・小説家。 愛知県名古屋市生まれ。本名・勝彦。父は軍人。東海中学校(現∶東海中学校・高等学校)卒。冨澤有爲男が中学の先輩にいた。さらに東京植民貿易語学校、川端画学校に学ぶ。 金子光晴、赤松月船に師事して詩作、ついで小茂田清樹に師事して日本画を描く。1930年「猿猴図」が聖徳太子奉賛展で入選。また、正岡容と浪曲の巡業をし、吉井勇に師事してともに関西北陸を放浪。 1936年に放浪生活をやめ、中西悟堂の推薦で美術雑誌『東陽』を編集、美術評論を書く。同誌の創作欄に掲載された冨澤有爲男「地中海」が同1936年、芥川賞を受賞。
生島 遼一(いくしま りょういち、1904年9月2日 - 1… 生島 遼一(いくしま りょういち、1904年9月2日 - 1991年8月23日)は、日本のフランス文学者、文芸評論家、翻訳家。京都大学名誉教授。 大阪市生まれ。旧制松江高等学校を経て1929年京都帝国大学文学部仏文科卒、神戸商業大学予科講師、教授、戦後1947年第三高等学校教授、1949年京都大学教養部教授、1964年京都大学文学部教授を務め、1968年定年退官。 若くしてスタンダールの『赤と黒』を翻訳。以後バルザック、フローベール、プルーストら19世紀フランス文学の作家を紹介し、ラファイエット夫人の「クレーブの奥方」、フローベールの「感情教育」では文章の美しさで翻訳の世界に新境地を開いた。また、1953年に日本国内で出版されたボーヴォワール『第二の性』の訳でも知られ、桑原武夫、伊吹武彦とともに京大フランス学を形成した。
大山 功(おおやま いさお、1904年8月5日 - 1993… 大山 功(おおやま いさお、1904年8月5日 - 1993年8月)は、日本の演劇評論家。 岡山市生まれ。1932年早稲田大学文学部演劇学科卒、『藝術殿』『東宝』『日本演劇』『演劇界』などの雑誌編集のかたわら演劇評論を行う。1945年戦災で山形県へ疎開。 文筆活動を続け、1974年『近代日本戯曲史』で第6回河竹賞受賞。山形県嘱託。
山岸 外史(やまぎし がいし、1904年(明治37年)7月1… 山岸 外史(やまぎし がいし、1904年(明治37年)7月16日 - 1977年(昭和52年)5月7日)は日本の評論家。 東京出身。大倉喜八郎の片腕で日本製靴(現在のリーガルコーポレーション)社長などを歴任した山岸覺太郎(1867年-1937年; 米国留学後、山岸藪鶯の筆名でダグラス・フォウセット『空中軍艦』などの翻訳もおこなった)の息子。第七高等学校を経て、東京帝国大学文学部哲学科で出隆に師事。1931年(昭和6年)、同人誌『アカデモス』を主宰。1934年(昭和9年)に『散文』を創刊。創刊号掲載の「『紋章』と『禽獣』の作家たち」で川端康成に、「佐藤春夫論」で佐藤春夫にそれぞれ認められた。 1934年、太宰治や檀一雄たちと共に同人誌『青い花』に参加。
北村 謙次郎(きたむら けんじろう、1904年7月5日 - … 北村 謙次郎(きたむら けんじろう、1904年7月5日 - 1982年6月30日)は、日本の作家、評論家。本名は北村謙二郎。別名に喜多謙。 東京市麹町生まれ。本籍は山形県米沢市。父は逓信省の判任官だった。兄は造園家の北村徳太郎。 1912年に一家で満洲に移住し、大連の小学校と大連一中に通う。大連一中時代に、同級生と文芸同人誌「アンジェラス」を出す。卒業後は東京に帰り、青山学院高等科、國學院大學文学部予科に学ぶが、卒業はしていない。1930年に赤松月船の協力で文芸雑誌「文芸プランニング」を創刊し、宮沢賢治と文通を交わした。太宰治や今官一をはじめ井伏鱒二の家に集う若い作家たちとも交友を持つようになり、「青い花」の創刊に参加し、大半のメンバーが引き継がれた「日本浪曼派」同人となって、小説を発表する。
桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月1… 桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。芸術・思想・社会・教育など文化全般に通じ、共同研究を推進。その成果は『ルソー研究』(1951年)などの著作に結実した。『第二芸術ー現代俳句について』(1946年)での俳句批判は物議を醸した。 1904年、福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(現・敦賀市)で生まれた。父は京都帝国大学教授で東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は里帰り出産(両親とも同地の出身)の地であり、このような場合は京都生まれと称するのが通例だが、本人は敦賀に愛着を持っており、出身地として記載を続けた。