正宗 敦夫(まさむね あつお、明治14年(1881年)11月… 正宗 敦夫(まさむね あつお、明治14年(1881年)11月15日(戸籍上は11月30日) - 昭和33年(1958年)11月12日)は、日本の国文学者、歌人。 岡山県和気郡穂浪村(現・備前市穂浪)生まれ。兄に小説家で文学評論家の正宗白鳥がいる。東京を活動の拠点とした兄とは違い郷里で家業を営み、その傍ら作歌をし、国文学の研究を行った。1897年(明治30年)から井上通泰に師事し、島木赤彦、斎藤茂吉などとも親交を持った。1909年(明治42年)、歌文珍書保存会を主宰し、古書・稀少本を収集・刊行を行った。1925年(大正14年)与謝野寛・与謝野晶子夫妻と「日本古典全集」シリーズを刊行する。1927年(昭和2年)、株式会社日本古典全集刊行会を設立するが倒産する。
正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)… 正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)10月14日 - 1960年(昭和35年)12月7日)は、日本の華族、実業家、『白樺』初期の文学者。その文業は『明治文学全集 初期白樺派文学集』に収められている。 伯爵正親町実正の長男として東京に生まれた。弟の実慶も『白樺』の作家で、日下諗(くさか しん)の筆名を持った。学習院初等科に入り、高等科の時に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄と知り合う。『学習院輔仁会雑誌』の編輯委員となり小品を発表。1906年に高等科を卒業して東京帝国大学英文科に入るが中退。1908年、志賀らと回覧雑誌『望野』を始め、1910年には『白樺』創刊に参画、ほかに里見弴・園池公致・児島喜久雄らと交わる。
石倉 小三郎(いしくら こさぶろう、1881年6月15日 -… 石倉 小三郎(いしくら こさぶろう、1881年6月15日 - 1965年10月30日)は、日本の音楽家、ドイツ文学者。 1881年、東京生まれ。1898年、東京府尋常中学校(現・東京都立日比谷高等学校)を卒業。東京帝国大学を卒業。東京音楽学校講師、第四高等学校(金沢)教授、第八高等学校(名古屋)教授、第七高等学校(鹿児島)教授をつとめた後、高知高等学校校長、大阪高等学校校長、大阪理工科大学予科長。1953年からは相愛女子短期大学教授を務めた。 1903年(明治36年)、東京音楽学校での日本人最初のオペラ(クリストフ・ヴィリバルト・グルック作曲「オルフェオとエウリディーチェ」)の訳詞を、乙骨三郎、近藤朔風などと共に担当し、ラファエル・フォン・ケーベルのピアノ、ノエル・ペリの指揮、実業家の渡部朔(出演者の一人、渡部康三の兄)の資金援助による上演の成功に尽力した。
橋本 精次(はしもと せいじ、1881年6月-1944年5月… 橋本 精次(はしもと せいじ、1881年6月-1944年5月7日)は、日本の漢文学者。旧制第七高等学校教授。 1981年6月、東京府生まれ。士族・橋本自聽(よりさと)の二男。父自聽は鹿児島県の谷山小学校校長に招聘された人物。中学造士館を経て、1904年7月に第七高等学校造士館第一部文科を卒業(第1回卒業生)。第七高等学校での同級生に東郷茂徳外務大臣や池田俊彦第二鹿児島中学(旧制)校長らがいる。1909年、東京帝国大学文科大学支那文学科卒業。長崎県立島原中学校 (旧制)、福岡県立東筑中学校 (旧制)、福井県立大野中学校 (旧制)各教諭を務めた後、1922年から第七高等学校造士館の漢文学教授。卒業生から初の母校教授となる。
中村 古峡(なかむら こきょう、1881年2月20日-195… 中村 古峡(なかむら こきょう、1881年2月20日-1952年9月12日)は日本の文学者、心理学者。本名は蓊(しげる)。奈良県出身 一高を経て、東京帝国大学文学部に入学。心理学を専修する一方で、夏目漱石の門下生となった。1922年、41歳にして、東京医専に入学する。卒業後は、千葉医科大学の研究所に勤務する一方、弟が精神病であったことから心理学研究に関心を持ち、1917年5月日本精神医学会を設立して会長となり、雑誌『変態心理』を創刊した。同誌は1926年10月まで刊行された。1929年には自ら診療所を開業した。この診療所が現在の中村古峡記念病院である。心理学者としても、二重人格の研究などの業績がある。
松浦 一(まつうら はじめ、1881年1月25日 - 196… 松浦 一(まつうら はじめ、1881年1月25日 - 1966年8月13日)は、日本の英文学者。中央大学名誉教授。 東京生まれ。1905年東京帝国大学英文科卒。在学中は、小泉八雲・夏目漱石に学び、卒業後、同大学の講師を経て、1944年高千穂経済専門学校(現高千穂大学)教員、1951年中央大学文学部教授、64年定年退職、大正大学教授、駒澤大学教授を務めた。講師として東大文学部で行った講義は、仏教信仰を基礎とした文学論で知られ、芥川龍之介などがこれを聴講した。養子に松浦孝作(旧姓・小面、教育社会学、東京学芸大学名誉教授、1910-2001)がいる。孝作の長女も教育学者の山崖俊子(1944- )津田塾大学名誉教授。
厨川 白村(くりやがわ はくそん、1880年11月19日 -… 厨川 白村(くりやがわ はくそん、1880年11月19日 - 1923年9月2日)は、日本の英文学者・文芸評論家。本名・辰夫。 『近代の恋愛観』がベストセラーとなり、大正時代の恋愛論ブームを起こした。夏目漱石『虞美人草』の小野のモデルとも言われる。 1880年(明治13年)、京都市柳馬場押小路生まれ。養父の厨川磊三(らいぞう)は元津山藩士で蘭学を修め、維新後は京都府勧業課、大阪造幣局などに勤めた人物。子がなかったため、実弟の子だった白村を養子とした。 大阪市の滝川尋常小学校、盈進高等小学校を経て、大阪府第一尋常中学校から京都府立第一中学校に転校後、第三高等学校を経て1901年(明治34年)、東京帝国大学英文科入学。
野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月2… 野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月20日 - 1948年(昭和23年)7月26日)は、日本の英文学者、方言学研究者、民俗学者、教育者。 1880年(明治13年)、鹿児島県肝属郡高山町(現・肝付町)で生まれた。父伝之助は漢学者で槍の名人、文武両道に秀でていたというが、伝四が五歳の時、西南戦争の被弾がもとで没した。1900年(明治33年)、鹿児島県中学造士館卒業、一級上に橋口五葉がいた。1903年(明治36年)7月に第一高等学校卒業し同年9月、東京帝国大学英文学科に入学、1906年(明治39年)7月卒業。同級に中川芳太郎、森田草平、栗原古城らがいた。3年先輩に皆川正禧と野間真綱がおり、野間の熊本五高時代の1年先輩に寺田寅彦がいた。
吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 194… 吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 1940年3月26日)は、フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授。号は孤雁。
金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 196… 金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 1962年1月3日)は、日本の英文学者、翻訳者。 1880年(明治13年)、新潟県中頸城郡新井町に生まれる。高田中学校から東京の郁文館中学校、第四高等学校を経て1905年に東京帝国大学英文科を卒業した。 帝大在学中、一年の前半は小泉八雲、八雲退任後の三年間は夏目漱石の講義に出席して、その様子を詳しく日記に記している。日記の内容は著書『人間漱石』(いちろ社、1948。増補版は協同出版、1956)や、孫の金子三郎が編纂した『川渡り餅やい餅やい――金子健二日記抄』(上中下巻、私家版、1998)、『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(リーブ企画、2002)等に紹介されており、漱石研究者にとって非常に貴重な資料となっている。
櫻井 天壇(さくらい てんだん、1879年〈明治12年〉10… 櫻井 天壇(さくらい てんだん、1879年〈明治12年〉10月18日 - 1933年〈昭和8年〉9月10日)は、日本のドイツ文学者、文芸評論家。第八高等学校第二語学科主任教授。会津八一の先輩で義弟。本名は櫻井 政隆(さくらい まさたか)。 新潟県南蒲原郡中野原新田村(現 三条市中野原)出身。1893年(明治26年)4月に新潟県尋常中学校に入学、「九泉童子」と号し、文芸雑誌『文庫』に投稿。 1898年(明治31年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1901年(明治34年)7月に第一高等学校を卒業、9月に東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学、カール・フローレンツに師事。 1903年(明治36年)6月から「天壇」と号し、『帝國文學』に評論を発表、1904年(明治37年)7月に東京帝国大学文科大学を最優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
片山 孤村(かたやま こそん、1879年〈明治12年〉8月2… 片山 孤村(かたやま こそん、1879年〈明治12年〉8月29日 - 1933年〈昭和8年〉12月18日)は、明治から昭和前期にかけての日本のドイツ文学者・評論家。本名は正雄(まさお)。 1897年、山口県佐波郡八坂村(現:山口市)で生まれた。山口高等学校在学中に登張竹風の影響を受けてドイツ文学を志し、東京帝国大学文科大学独文科に進んだ。1902年に卒業。 卒業後は、第七高等学校造士館教授などを務めた。1905年に「神経質の文学」を発表して評論家として注目を集め、1907年にはオットー・ワイニンゲルの『男女と天才』の翻訳、1908年に『最近獨逸文学の研究』を著してドイツ文学の紹介にも努めた。1909年から1913年にかけてドイツに留学し、帰国後はドイツ語辞書の編纂に専念した。
青木 存義(あおき ながよし、1879年8月15日 - 19… 青木 存義(あおき ながよし、1879年8月15日 - 1935年4月19日)は、日本の国文学者、唱歌作詞家、小説家、教育者。童謡『どんぐりころころ』の作詞者として知られる。 宮城県宮城郡松島町幡谷新田出身。宮城県尋常中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)、東京帝国大学文科大学卒業(1906年)。1917年に東京音楽学校教授就任。その後は文部省図書編集部長(1924年)、旧制新潟高等学校校長(1934年)などを歴任。文部省在職中に『どんぐりころころ』などを始め、文部省唱歌を数多く作りあげた。また青木苫汀(せんてい)の名で『我や人妻』などの小説も書いている。 180cmの長身で温和な性格だったと伝わる。
坂元 雪鳥(さかもと せっちょう、1879年4月25日 - … 坂元 雪鳥(さかもと せっちょう、1879年4月25日 - 1938年2月5日)は、日本の能楽評論家、国文学者。号・天邪鬼。能楽評論で活躍した。 福岡県柳川出身。旧姓は白仁、本名は三郎。坂元家の養子となる。父は柳川藩士で、幼少から喜多流の能を学ぶ。第五高等学校で夏目漱石に師事、以後漱石の弟子格となる。1907年東京帝国大学文科大学を首席で卒業、東京朝日新聞社に入社。独協中学校教諭、1928年日本大学教授。昭和13年2月5日没。墓所は青山霊園立山墓地。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
物集 高量(もずめ たかかず、1879年4月3日 - 198… 物集 高量(もずめ たかかず、1879年4月3日 - 1985年10月25日)は、国文学者・作家。「物集 梧水」名義による著作もある。 1879年、国学者の物集高見と夏子(旧姓岩田)の長男として東京市神田区駿河台(東京都千代田区神田駿河台)に生まれた。同年7月、父が出羽三山の宮司に任命されたため、1882年夏まで山形県東田川郡手向村(現在の鶴岡市)に育つ。 1882年に帰京し、東京市本郷区弓町(東京都文京区本郷)に住んだ。1883年、父の高見が東京帝国大学講師に就任。1884年、父の教育方針で4歳9ヶ月にして本郷小学校に入れられるが、第1学年で落第を経験。1885年2月3日、はしかを患う。後遺症で骨膜炎となり、終生左脚の自由を失う。
日高 只一(ひだか ただいち、1879年〈明治12年〉3月2… 日高 只一(ひだか ただいち、1879年〈明治12年〉3月23日 - 1955年〈昭和30年〉1月12日)は、日本の英文学者。 広島県出身。号は未徹。早稲田大学文学部英文科卒。坪内逍遥に師事する。1908年早大講師。1921-23年英国、米国に学び、帰国後、早大文学部教授。文学部長を務め、1949年定年退任、名誉教授、立正大学教授、武蔵野女子学院短期大学教授。1944-45年日本英文学会会長。アメリカ文学を早い時期から研究した。墓所は多磨霊園
上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月2… 上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月23日 - 1957年(昭和32年)11月1日)は、日本のドイツ文学者。現代ドイツ文学を専攻。東洋文学・思想のドイツ文学への影響を研究。 鹿児島県徳之島の亀津(現大島郡徳之島町)出身。東京帝国大学独文科卒。1943年「近代独逸文学と東洋」で九州帝国大学文学博士。第七高等学校教授、第一高等学校教授、旧制浦和高等学校教授、日本大学教授。1950年定年退任。墓所は青山霊園(1イ3-1)。 帝大時代には小山内薫、武林無想庵、吉田白甲らと同人誌『七人』を創刊し、同人の川田順によると、上村は樋口一葉に傾倒し、「にごりえ」「たけくらべ」は全部暗記していた。
安藤 貫一(あんどう かんいち、1878年〈明治11年〉9月… 安藤 貫一(あんどう かんいち、1878年〈明治11年〉9月4日 - 1924年〈大正13年〉12月27日)は日本の英文学者。鹿児島県立第一中学校教諭、大阪高等商業学校教授。夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の英訳で知られる。 1878年(明治11年)9月4日、東京府深川西大工町(現:東京都江東区清澄二丁目)に生まれた。 1894年(明治27年)6月、ジェームス・サマーズの欧文正鵠学館を卒業した後、国民英学会に入学して磯辺弥一郎・岡倉由三郎等に学び、1895年(明治28年)11月正科、1896年(明治29年)11月英文科を共に首席で卒業した。同期には勝俣銓吉郎・菅野徳助・南日恒太郎・鷲見亀五郎・米田実・河上清・最上梅雄等がいた。
橋本 青雨(はしもと せいう、1878年9月1日 - 194… 橋本 青雨(はしもと せいう、1878年9月1日 - 1944年8月24日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家、ドイツ語学者。 宮城県出身。1902年小説と俳句を収めた『ほし草』を刊行。 1904年東京帝国大学文学部独文科卒。のち独文学を中心とする翻訳に従事。イプセン、シラー、ハウプトマンなどの翻訳を「帝国文学」「新小説」「新声」などに掲載し、明治末に最も活躍した。 のち第三高等学校教授、松本高等学校教授、海軍大学嘱託教授、中央大学講師となり研究に従事した。 孫は橋本和孝(関東学院大学名誉教授)。
一戸 直蔵(いちのへ なおぞう、1878年8月14日 - 1… 一戸 直蔵(いちのへ なおぞう、1878年8月14日 - 1920年11月26日)は、日本の天文学者・科学ジャーナリスト。日本で最初の変光星の観測者・研究者。ジャーナリストとしては『現代之科学』を創刊し、反アカデミズムの立場をとったことでも知られる。 青森県西津軽郡越水村吹原(現・つがる市)出身。学問を許さなかった父の理解を得られず、家出し、紆余曲折の後、東奥義塾などを経て旧制第二高等学校に進学。仕送りが途絶えたため、一時郷里で教員をし、1903年東京帝国大学理科大学星学科を卒業。その後東大大学院に進学して天文学を研究したが、私設天文台の建設を自らの使命とし、1905年私費で渡米しシカゴ大学ヤーキス天文台に入った。
昇 曙夢(のぼり しょむ、1878年7月17日 - 1958… 昇 曙夢(のぼり しょむ、1878年7月17日 - 1958年11月22日)は、日本のロシア文学者。正教会の信徒であり、ニコライ・カサートキンの門下生の一人としても知られる。晩年には奄美群島の本土復帰運動に尽力した。 奄美群島加計呂麻島実久村芝(現鹿児島県大島郡瀬戸内町)生まれ。本名・直隆。 島の小学校を出ると鹿児島に行き、鹿児島正教会に通い間もなく洗礼を受けた。聖名はパウェル。 1895年、上京。1896年、日本正教会の教育機関である東京の正教神学校に入学。1903年、同校を卒業。在学中から評伝『露国文豪 ゴーゴリ』を執筆し、明治37年(1904年)刊行。卒業と同時に正教神学校講師として心理学・論理学を講じた。
岩城 準太郎(いわき じゅんたろう、1878年3月12日 -… 岩城 準太郎(いわき じゅんたろう、1878年3月12日 - 1957年4月9日)は、日本の国文学者。 富山県上新川郡大広田村字大村(現富山市)出身。富山県尋常中学校(現富山県立富山高等学校)、第四高等学校を経て、1902年東京帝国大学文学部国文科卒。三重県立第一中学校教師、第四高等学校教授、1916年奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)教授。1906年『明治文学史』を刊行し、明治文学史を初めて文学史の対象とした。おもな著作に「明治大正の国文学」「新修日本文学史」などがある。
鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年〈明治11年〉1月18… 鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年〈明治11年〉1月18日 - 1963年〈昭和38年〉1月20日)は、日本の古典中国文学者。新潟県西蒲原郡粟生津村(のち吉田町、現在は燕市に合併)出身。燕市名誉市民。 父鈴木惕軒は、長善館二代館主、その八男(戸籍上は五男)。一時大橋家の養子となり、大橋姓を称したが、後に鈴木姓に復した。甥には岩手県知事(官選)を務めた鈴木脩蔵がいる。妻鶴代は陸羯南の次女。 幼少時は長善館で父惕軒に師事する。上京後、東京英語学校、東京府尋常中学、第一高等中学校で学び、1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学漢学科卒業。同大学院中退後、日本新聞社、台湾日日新報社、東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)講師・教授などを経て、1908年(明治41年)に新設間もない京都帝国大学文科大学助教授に就任する。
垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1… 垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1952年8月25日)は、日本の国語教育学者・国文学者。 岐阜県高山市出身。旧姓は代情(よせ)。6歳で分家の垣内雲嶙の養嗣子となった。1903年東京帝国大学国文科卒。 東京帝国大学講師、東京女子高等師範学校教授、1919年ヨーロッパ外遊、1920年東京高等師範学校講師、1924年教授。のち東洋大学教授。 筆名として「まつみ」とも読ませた[要出典]。墓所は雑司ヶ谷霊園。 垣内は国学を研究すると同時に、言語学・心理学・現象学といった西洋諸科学とを止揚する学術体系の構築を目指し、生涯をかけてこれに取り組んでいるが、その渉猟する学術領域の広さ、探究する対象群の深さ、そして独創的な発想と理想の高さは、いずれにおいても他の追随を許さないものとなっている。
沼波 瓊音(ぬなみ けいおん、1877年10月1日 - 19… 沼波 瓊音(ぬなみ けいおん、1877年10月1日 - 1927年7月19日)は、明治・大正期の国文学者・俳人・右翼。本名は武夫(たけお)。名古屋市出身。
窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日… 窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員。元早稲田大学教授。文化功労者。本名は窪田 通治。息子に、同じく歌人の窪田章一郎がいる。 草創期の「明星」に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。古典の評釈でも功績が大きい。詩歌集に『まひる野』(1905年)、歌集に『土を眺めて』(1918年)など。 長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)生まれ。長野県尋常中学校(現長野県松本深志高等学校)から東京専門学校文学科に進学するも、一度中退。代用教員として働いていたときに校長の影響で作歌を始める。
石田元季(いしだ もとすえ、1877年5月17日-1943年… 石田元季(いしだ もとすえ、1877年5月17日-1943年1月9日)は、日本の国文学者。 京都出身。号は春風。平安義黌卒。愛知医科大学教授、第八高等学校(現・名古屋大学)講師。研究誌「紙魚(しみ)」を主宰する。 尾張地方の文人や芸能人を研究し、1940年「俳文学考説」で帝国学士院賞を受賞。 1930年「名古屋市行進歌」を作詞(作曲:信時潔)。 死後、蔵書のほとんどは天理図書館に入ったが、一部の手沢本は愛知県立大学図書館に収められた。
皆川 正禧(みなかわ まさき、1877年(明治10年) - … 皆川 正禧(みなかわ まさき、1877年(明治10年) - 1949年(昭和24年))は、日本の英文学者、翻訳家、教育者。雅号は真拆。 1877年(明治10年)、福島県会津(現在は新潟県東蒲原郡阿賀町)に生まれた。皆川家は、土地の旧家で総鎮守西村八幡宮の神宮を務めていた大地主であったという。 1900年(明治33年)、第二高等学校を卒業し、東京帝国大学英文学科に入学。 在学中、小泉八雲の講義を2年半受けた。正禧が八雲の講義を筆記したノートが10冊残されており、1904年(明治37年)11月の『帝国文学』で追悼特集(八雲は9月に逝去)が組まれたとき、正禧は「蓬莱」という追悼文を寄せている。 1903年(明治36年)、最上級生のとき、八雲の後任として夏目漱石が赴任し、卒業までの3ヶ月間、「文学の一般概念」という講義を受けた。
太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日… 太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日 - 1955年(昭和30年)1月1日)は、明治期から昭和期の日本の歌人・国文学者。本名は太田貞一、別号・みづほのや。歌人・太田青丘は養子。 長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)に、太田億五郎の三男として生まれる。太田家は太田道灌の一族との伝がある。幼少から父より孝経の素読や百人一首の和歌を教えられる。 広丘高等小学校(現・塩尻市立広丘小学校)卒業後、長野県師範学校(現・信州大学教育学部)に進学。教師には高橋白山、浅井洌、高島平三郎がいた。在学中に詩歌に興味を持ち、文芸雑誌「文学界」に新体詩の投稿を始め、信濃毎日新聞に「和歌日抄」を掲載する。
石村 貞吉(いしむら ていきち、1876年(明治9年)11月… 石村 貞吉(いしむら ていきち、1876年(明治9年)11月27日 - 1973年(昭和48年)7月26日)は、大正時代から昭和時代の日本文学者。東京女子大学名誉教授。姓は石邨とも称した。号は平川。 東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に石村貞一の子として生まれる。父は長門国出身の儒学者であった。東京帝国大学文科大学史学科を1901年卒業する。大日本農会附属高等農学校の嘱託となる。1904年、愛知県立第一中学校の教諭となり、1917年から1920年の3年間同校の校長を務めた。1921年から大倉高等商業学校と東京女子大学の教授となった。日本基督教神学専門学校や武蔵高校の講師を兼務した。1923年の関東大震災が発生するまで塙保己一が開いた和学講談所の土蔵を改造した住宅に住んでいたが、貴重な経本と共に全て焼失した。
吉澤 義則(よしざわ よしのり、1876年8月22日 - 1… 吉澤 義則(よしざわ よしのり、1876年8月22日 - 1954年11月5日)は、日本の国語学者、国文学者、歌人。
尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月2… 尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月20日 - 1957年(昭和32年)1月13日)は、日本の詩人・歌人・書家・国文学者。文学博士。帝国芸術院会員。勲二等瑞宝章受章者。旧名は北郷八郎。 岡山県苫田郡津山町(現・津山市)出身。本名は尾上八郎。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ、同藩士・尾上動の養子となった。津山小学校高等科を卒業の後、父の転勤で兵庫県龍野(現・たつの市)に移住する。東京府尋常中学、一高を経て、東京帝国大学文科大学に進み1901年に卒業。哲学館(現・東洋大学)講師、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)講師・教授(1905年–)、高等官6等に叙せられて「第6臨時教員養成所」の教授を兼ねる(1906年–1907年度)。
志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 194… 志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 1946年1月17日)は、日本の国文学者・俳人。学位は、文学博士(1937年)(学位論文「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」)。元東洋大学教授。連歌俳諧研究、説話研究、歌謡研究、辞典の編纂など、多方面に業績を残した。 富山県上新川郡出身。旧姓は藤井。俳号は素琴。富山中学校[要出典]、第四高等学校を経て[要出典]、1903年東京帝国大学文学部国文科卒。第六高等学校教授、1925年旧制成蹊高等学校教授、東洋大学教授。1937年「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」で文学博士の学位を取得。日本で初めて俳文学によって文学博士の学位を取得した[要出典]。
高木 敏雄(たかぎ としお、1876年5月 - 1922年1… 高木 敏雄(たかぎ としお、1876年5月 - 1922年12月18日)は、日本の神話学者・民俗学者・ドイツ文学者。 熊本県生まれ。1900年東京帝国大学文学部独文科卒業、第五高等学校教授、1912年東京高等師範学校教授、愛媛師範学校教授、1922年大阪外国語大学教授。1913-14年柳田国男と共に『郷土研究』を編集。欧米 (特にドイツ) の方法によった神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
高野 辰之(たかの たつゆき、1876年〈明治9年〉4月13… 高野 辰之(たかの たつゆき、1876年〈明治9年〉4月13日 - 1947年〈昭和22年〉1月25日)は、日本の国文学者、作詞家。文学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)(学位論文「日本歌謡史」)。号は斑山(はんざん)。 1876年、長野県水内郡永江村(現・中野市永江)の豪農の家に生まれた。1887年、豊津学校永江支校小学中等科を卒業。1890年3月、下水内高等小学校高等小学科を卒業。 1890年5月、永田尋常小学校授業生(代用教員)となった。しかし3年後の1893年、長野県尋常師範学校に入学。1897年3月には同師範学校を卒業した。1897年4月からは下水内高等小学校訓導となった。1898年6月、国語科の師範学校・尋常中学校・高等女学校教員免許状を取得。
山川 丙三郎(やまかわ へいざぶろう、1876年3月3日 -… 山川 丙三郎(やまかわ へいざぶろう、1876年3月3日 - 1947年8月17日)は、イタリア文学者、翻訳家。日本で最初にダンテの『神曲』「地獄篇」を完訳した。 新潟県北蒲原郡(現・新潟県新発田市上館)生まれ。新潟市の北越学館に入学し受洗。1892年東北学院労働会に入って勤労学生として苦学し、20歳の同学院文科2年生のときに島崎藤村が教師として赴任し、交流する。バイオリニストを志して渡米し、カリフォルニア大学に学び、語学の才を発揮し、とくに中世英語ではアメリカ人を抜いてトップの成績を修めたという。 1914年から1922年にかけてダンテ・アリギエーリ『神曲』を邦訳。ダンテ研究家の大賀寿吉に絶賛される。
田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月2… 田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月20日 - 1957年(昭和32年)12月20日)は、日本の英文学者。 富山県の南日家に生まれ、生後まもなく田部家の養子となる。兄に英語教育者の南日恒太郎、弟に別の田部家へ養子に入った英文学者の田部重治がいる。村松剛・村松英子の母方の祖父。村松えりの曾祖父。 富山中学校、早稲田大学専門部を経て、東京帝国大学英文科でラフカディオ・ハーンに学び、後年ハーンの研究を行った。女子学習院教授を務め、第一書房の『小泉八雲全集』を大谷正信らと共訳した。 1921年学習院大学教授をしていた時に、近所付合いをしていた小泉一雄(ラフカディオ・ハーンと妻セツの長男)に見送られて横浜から一年間の留学に発った。
山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日… 山田 孝雄(やまだ よしお、1875年〈明治8年〉8月20日 - 1958年〈昭和33年〉11月20日)は、日本の国語学者、国文学者、歴史学者。東北帝国大学教授を歴任。文化勲章受章。 独学の人として知られる。「契沖、真淵、宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者」とも評される。 1873年、富山県富山市総曲輪(そうがわ)に於保多神社宮司山田方雄の次男として生れる。父は前田利保に歌を学んだ連歌の宗匠でもあった。履新小学校卒業。富山県尋常中学校を中退後、独学で小、中学校教員検定試験(文検)に合格。富山県内の小学校や兵庫、奈良、高知などの中学校で教員を務める。 1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員、1920年(大正9年)日本大学講師、1921年(大正10年)日本大学文学部国語科主任、1925年(大正14年)東北帝国大学講師、1927年(昭和2年)同教授に昇格。
林 古溪(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 … 林 古溪(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 - 1947年〈昭和22年〉2月20日)は歌人、作詞家、漢文学者、立正大学教授、東洋大学講師。本名は竹次郎。東京・神田出身。哲学館(現東洋大学)教育学部卒。 林羅山に連なる家系で、代々学者の家柄である。林家の次男として東京神田に生まれる。 幼少時代を神奈川県愛甲郡古沢村(現厚木市)で過ごし、古渓の筆名はこの古沢村から採ったという。 10歳の時に父を失って以来、池上本門寺に入って修行。さらに哲学館(現東洋大学)に入学すると国漢を学んだ。漢詩に非凡な才を見せたが、一方で新体詩のグループを作っては積極的に活動を始めた。卒業後、同校付属の京北中学校で国漢科教員となり、生徒たちから「達磨さん」と呼ばれて慕われたという。
五来 欣造(ごらい きんぞう、1875年(明治8年)6月 -… 五来 欣造(ごらい きんぞう、1875年(明治8年)6月 - 1944年(昭和19年)8月1日)は、日本の政治学者、文学者、読売新聞主筆、明治大学教授、早稲田大学教授、皇化連盟代表。茨城県出身。五来素川(ごらい そせん)や斬馬剣禅(ざんば けんぜん)の筆名での作品を残す。青年時代に植村正久の教えをうけた敬虔なクリスチャンであった。
藤村 作(ふじむら つくる、1875年(明治8年)5月6日 … 藤村 作(ふじむら つくる、1875年(明治8年)5月6日 - 1953年(昭和28年)12月1日)は、国文学者、東京帝国大学名誉教授。東洋大学第9代学長。 1875年、福岡県柳川で藤村順吉の次男として生まれた。橘蔭学館(のちの福岡県立伝習館高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学国文学科に進学。1901年に卒業。 卒業後は、第七高等学校造士館教授に就いた。1903年より広島高等師範学校教授を務め、1910年に東京帝国大学国文科助教授となった。1922年に教授昇格。1934年からは東洋大学学長を兼任。1936年に東京大学を定年退職。1940年からは、汪兆銘政権下の北京大学で教鞭を執った。
藤沢 周次(ふじさわ しゅうじ、1875年4月10日 - 1… 藤沢 周次(ふじさわ しゅうじ、1875年4月10日 - 1945年11月29日)は明治・大正期日本の英文学者、劇作家。学習院名誉教授。号は古雪(こせつ)。 1875年(明治8年)、新潟県士族(元佐渡奉行所幕臣)・藤沢親之の次男として東京府に生まれる。幼名は菊丸(きくまる)。東京帝国大学文学部英文科に入学し、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)から英語を学んだ。在学中、英作文の優秀者に与えられる賞を受賞しているが、その理由は英文の正確さ以上に「内容が優れている」と評されてのものであった。同期には森清(子爵、森有礼長男)、内ヶ崎作三郎(衆議院議員)、小日向定次郎(英文学者)、栗原基(同)、小島武雄(旧制第五高校教諭)らがいる。
大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明… 大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明治8年)3月22日 - 1933年(昭和8年)11月17日)は、日本の英文学者・俳人。本名は正信。 島根県松江市末次本町出身。島根県尋常中学校(後の島根県立松江北高等学校)在学中に、西田千太郎らの英語教師に教えを受けるとともに、1890年(明治23年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英語教師として同校に赴任すると、学生の中で最もハーンの信任を得た。 1892年(明治25年)、京都の第三高等学校へ入学し、1894年(明治27年)、学制改革のため仙台の第二高等学校へ転校した。第三高等学校、第二高等学校では、同級生に俳人高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃俳句への傾倒が始まった。
五十嵐 力(いがらし ちから、1874年(明治7年)11月2… 五十嵐 力(いがらし ちから、1874年(明治7年)11月22日 - 1947年(昭和22年)1月11日)は、日本の国文学者。号は巴千。修辞学・国文学・国語学の領域で多くの業績を残した。 日本の近代修辞学史上、最も多くの修辞学関係書を著した人物である。 山形県米沢市生まれ。米沢中学校を経て、1894年7月、東京専門学校卒業。翌年『早稲田文学』記者に就任。近松同人研究会の一員として、坪内逍遙の指導を受ける。卒業後10年ほどは国文学から離れるが、逍遙の勧めで国文学研究に戻る。1901年、東京専門学校講師。1920年、新たに設置された早稲田大学文学部国文科主任教授に就任。後に文学部学部長を勤めた。1945年、自宅の甲鳥園が空襲によって焼失し、早稲田大学文学部内の五十嵐記念文庫も焼失した。
上田 敏(うえだ びん、1874年(明治7年)10月30日 … 上田 敏(うえだ びん、1874年(明治7年)10月30日 - 1916年(大正5年)7月9日)は、日本の英文学者・詩人・翻訳家。学位は、文学博士。京都帝国大学文科大学教授。族籍は静岡県士族。「柳村」と号したため、上田柳村名義でも執筆活動を行った。 外国文学、とくに西欧の象徴詩の紹介と翻訳を精力的に行った。名訳詩集『海潮音』(1905年)は、日本の詩壇を覚醒させ、「パンの会」結成などに影響を与えた。作品に訳詩集『牧羊神』(1920年)など。 1905年(明治38年)に本郷書院で刊行された訳詩集『海潮音』で知られ、日本にベルギー文学や南仏プロヴァンス文学、象徴派や高踏派の詩を紹介した。 『海潮音』に収められたドイツの詩人カール・ブッセの詩『山のあなた』より「山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ。
平山 清次(ひらやま きよつぐ、1874年(明治7年)10月… 平山 清次(ひらやま きよつぐ、1874年(明治7年)10月13日 - 1943年(昭和18年)4月8日)は、日本の天文学者。 宮城県仙台市出身。寺尾寿の弟子で、天体力学及び古暦の研究で有名。小惑星の「族」を発見した功績により月の裏側のクレーターに「ヒラヤマ」と名づけられた。ヒラヤマは清次と同姓の天文学者・平山信(太陽の理論的な研究、小惑星の観測や発見及び軌道決定、日食観測、天体物理学・恒星天文学及び測地学に多大な業績を残した)の2人の名前に由来しているが、清次と信の間には血縁・姻戚関係はない。墓所は仙台市泰心院。 平山清次の門下生には萩原雄祐、鏑木政岐、広瀬秀雄らがいる。
公田 連太郎(こうた れんたろう、1874年10月3日 - … 公田 連太郎(こうた れんたろう、1874年10月3日 - 1963年7月27日)は、日本の漢文学者。 1874年、島根県出雲市古志町生まれ。21歳で上京し、根本通明に約十年師事。在野の漢学者として、多くの漢文の注釈を刊行した。1927年数え54歳で結婚。 1913年、下獄後の失意の北原白秋を勇気づけたことでも知られる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
久留島 武彦(くるしま たけひこ、1874年6月19日 - … 久留島 武彦(くるしま たけひこ、1874年6月19日 - 1960年6月27日)は、日本の児童文学者。 大分県玖珠郡森町(現・玖珠町)出身。童謡『夕やけ小やけ』の作詞者でもあり、中野忠八や忠八の弟で久留島の娘婿の久留島秀三郎らとともに日本のボーイスカウト運動の基礎作りにも参画した。運動の一環として訪れたアンデルセンの生地などでアンデルセンの復権を訴え、心を動かされたデンマークの人々から「日本のアンデルセン」と呼ばれた。出身地の玖珠町では、「くるしま童話名作選」をモチーフとしたクッキーが販売されている。 村上水軍の末裔である来島通総の子孫で、森藩9代の藩主・久留島通容の孫でもある。父・久留島通寛(みちひろ)(森藩10代藩主・久留島通明の弟)、母・恵喜の長男として森町に生まれた。
繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16… 繁野 天来(しげの てんらい、1874年〈明治7年〉2月16日 - 1933年〈昭和8年〉3月2日)は、日本の詩人、英文学者。早稲田大学で4人目となる博士号授与者。本名は繁野 政瑠(しげの まさる)、他の筆名に繁野 狂美がある。 1874年2月16日、現在の徳島市下助任町に、徳島藩士の繁野傑()・イサ夫妻の長男として生まれる。 徳島市立助任尋常小学校、川島尋常小学校、公立寺島小学校、徳島市立徳島高等小学校を経て、1889年に徳島県立徳島尋常中学校に入学。祖母の死を機に大阪に移り、1891年に大阪市立尋常中学校に転学。在学中に熊本謙二郎から英語を教わる。1893年9月に第三高等学校に入学するも、後に病気退学。
和田 信二郎(わだ しんじろう、1873年12月 - 195… 和田 信二郎(わだ しんじろう、1873年12月 - 1950年8月29日)は、日本の国文学者・文部官僚。 若狭国小浜藩士・和田義比の次男。弟は和田光石。父の弟は和田維四郎、その子で従弟に推理作家の大坪砂男がいる。妹の夫は正木直彦。和田謹吾は五男。1891年東京英語学校、国語伝習所卒。1895年國學院卒。芳賀矢一に師事。奈良県立第一中学校(現奈良県立郡山高等学校)に赴任、のち津に移り、古事類苑編纂部に勤める。1903年文部省に入り、中学校高等学校教科書編纂官。1943年退任。