芹沢 昭三(せりざわ しょうぞう、1928年5月22日 - … 芹沢 昭三(せりざわ しょうぞう、1928年5月22日 - 1995年5月27日)は、日本の政治家、教諭。静岡県伊東市長(3期)、伊東市議会議員(4期)を歴任した。 静岡県田方郡伊東町(現・伊東市)生まれ。1949年、巣鴨経済専門学校を卒業。知人に「先生をやってみないか」と勧められ、1950年に熱海市立多賀中学校の教師となる。その後、伊東市立北中学校などで社会科を教えた。 1963年、勤評闘争や学力テスト闘争が激化するなか「単なる組合活動だけでは解決できない。自治体に議員を送るべきだ」と考えた芹沢は教員を退職。伊東市議会議員選挙に自ら立候補し初当選を果たした。1979年まで4期務めた。議員時代は日本社会党に所属した。
加藤 富夫(かとう とみお、1928年(昭和3年)4月3日 … 加藤 富夫(かとう とみお、1928年(昭和3年)4月3日 - 1977年(昭和52年)12月2日)は、日本の小説家、教員。 秋田県雄勝郡湯沢町(現・湯沢市)生まれ。1968年に文學界新人賞を受賞したほか、1971年から1975年にかけて四度芥川賞候補となった。 秋田県立横手中学校(現・横手高等学校)在学中に予科練に入隊し、土浦海軍航空隊で桜花特攻要員として訓練中、秋田県北秋田郡合川町(現・北秋田市)の大野岱で終戦を迎えた。復員後、秋田県立湯沢南高等学校(現・湯沢高等学校)から秋田大学学芸学部(現・教育文化学部)英語科に進み、1954年(昭和29年)3月に卒業。秋田県の高校英語科教員として、横手・湯沢北 ・湯沢高校などで教鞭を執った。
黒沢 智子 (くろさわ ともこ、旧姓:石井、1928年3月8… 黒沢 智子 (くろさわ ともこ、旧姓:石井、1928年3月8日 - ) は、東京都出身のバレエダンサー・バレエ教師。戦後の黎明期にバレリーナとして活躍した後、1954年から盛岡市内でバレエ教室を主宰して数多くの舞踊手を育てた。 青森師範学校卒の教育者の三女として東京・尾久町に生まれる。8歳でダンスを習いはじめ、武蔵野高等女学校ではダンス部に所属して石井小浪の指導を受ける。その後日本女子体専でダンスの専門教育を受けた。戦時中は日本にバレエ教師がほとんど存在しなかったため、黒沢が習ったのは素足による西洋舞踊であった。 戦後の1947年、小牧正英と谷桃子によるバレエ 『薔薇の精』 を見て初めてバレエを志す。
上杉 千年(うえすぎ ちとし、1928年 - 2009年8月… 上杉 千年(うえすぎ ちとし、1928年 - 2009年8月4日)は、日本の歴史研究家、高等学校教諭。新しい歴史教科書をつくる会理事や職能団体「日本教師会」代表を務めていた[要出典]。 岐阜県生まれ。1950年、國學院大學文学部史学科を卒業。高等学校の社会科教師として岐阜県・静岡県で教鞭をとる傍ら、歴史教科書問題の研究家として多くの論文を発表する。 2007年7月13日、在日アメリカ大使館に提出されたアメリカ合衆国下院121号決議全面撤回を求める抗議書にも賛同者として名を連ねた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小泉 功(こいずみ いさお、1927年9月15日 - 200… 小泉 功(こいずみ いさお、1927年9月15日 - 2009年9月1日 )は、日本の教師、考古学者。 東京に生まれる。1944年京北中学校卒業。同年、東洋大学専門部哲学科に入学。戦後、同大学史学科に転科し、和島誠一のもとで登呂遺跡の発掘調査に加わるなど、考古学を学ぶ。 1950年3月に東洋大学文学部史学科を卒業し、同年4月から1986年3月まで埼玉県立川越高等学校教諭を勤めた。同校では生徒と郷土部の活動を行い、同部の顧問として生徒の指導に当たった。教員の傍ら、水子貝塚などの発掘調査も行い、とりわけ1972年からは河越館の発掘調査にあたり、同遺跡の保存運動に取り組んだ。また、教員在職中から川越市史編纂委員や川越市文化財保護審議会委員の任にもあたり、1998年からは同審議会会長に任じられ、逝去するまで勤めた。
福井 芳男(ふくい よしお、1927年9月1日 - 2014… 福井 芳男(ふくい よしお、1927年9月1日 - 2014年10月21日 )は、日本のフランス文学者、フランス語教師。東京大学教養学部教授を経て、東京大学名誉教授。 東京生まれ。1952年、東京大学文学部仏文科卒、同年、特別研究生。1953年より1年間、パリ大学に留学。1960年、CNRS研修生。国際基督教大学助教授。1962年、中央大学助教授。1964年、パリ大学文学博士、1965年、「17世紀フランス詩の洗練」で辰野隆賞受賞、フランス教育功労章オフィシエ受章。1969年、中央大学教授、1971年、東京大学教養学部教授。1986年、放送教育開発センター教授、1988年、東京大学を定年退官し名誉教授、1989年、放送教育開発センター研究開発部長、1991年、同定年退職し、放送大学客員教授、のち、帝京平成大学教授。
佐藤 誼(さとう よしみ、1927年5月28日 - 2021… 佐藤 誼(さとう よしみ、1927年5月28日 - 2021年3月2日)は、日本の政治家、教諭。山形県高校教職員組合執行委員長を経て、衆議院議員を3期務めた。1998年勲三等旭日中綬章受章。 山形県鶴岡市出身。山形師範学校、東北大学を卒業。山形県立鶴岡工業高等学校教諭、県高校教職員組合執行委員長等を歴任。1971年・1974年・1977年の参院選落選を経て、1979年の第35回衆議院選挙で旧山形2区から、安宅常彦の引退を受け日本社会党公認で立候補。トップ当選した自由民主党の加藤紘一に400票弱に迫る僅差で、初当選。以後当選3回。 旧山形2区は、1967年の第31回衆議院選挙以降、定数4議席を自由民主党と野党(日本社会党、社会民主連合)とで2議席ずつ分け合ってきたが、1986年の公職選挙法の部分改正による8増7減で減員区となった。
尾山 令仁(おやま れいじ、1927年1月15日 - 202… 尾山 令仁(おやま れいじ、1927年1月15日 - 2023年5月16日)は、日本の牧師、神学者、聖書学者、神学校教師、神学博士。聖書キリスト教会元会長牧師。日韓親善宣教協力会会長、厚木聖書キリスト教会主任牧師。号は「唯人」。 陸軍経理学校、早稲田大学大学院博士課程修了。戦後、日本の福音派指導者として聖書信仰の確立のために働く。大学時代にキリスト者学生会を設立。日本プロテスタント聖書信仰同盟の3代目実行委員長として日本福音同盟の結成に関わる。第2回日本伝道会議京都宣言起草委員長。 長男の尾山謙仁は牧師。娘婿の岡野俊之は牧師。次男の尾山清仁は聖書キリスト教会会長牧師。孫の岡野義喜は牧師。 会社員の家庭に生まれた。
玉田 泰太郎(たまだ やすたろう、1927年1月10日 - … 玉田 泰太郎(たまだ やすたろう、1927年1月10日 - 2002年)は、日本の著作家、小学校理科教師。 愛媛県出身。東京理科大学数学科卒。渋谷区立長谷戸小学校など公立小学校の教員。科学教育研究協議会会員。
宮下 久夫(みやした ひさお、1927年〈昭和2年〉 - 1… 宮下 久夫(みやした ひさお、1927年〈昭和2年〉 - 1997年〈平成9年〉1月)は日本の教育者(国語教師)。太郎次郎社のロングセラー『漢字がたのしくなる本』シリーズの共著者の一人として知られる。群馬県生まれ。 利根郡沼田町(現在の沼田市)坊新田に生まれる。旧制沼田中学校を卒業後、東京第三師範学校(現在の東京学芸大学)を卒業。1949年(昭和24年)より群馬県内で小学校教諭としての道を歩み始める。のち、子どもの間違いからヒントを得た文部省の指導要領にはない独自の「漢字教科書」を使った授業が、次第に注目を集めるようになる。 宮下は子どもたちの「修学旅行のときの生き生きとした顔が、教室ではどうして死んでしまうのだろう。
伊藤 和夫(いとう かずお、1927年 - 1997年1月2… 伊藤 和夫(いとう かずお、1927年 - 1997年1月21日)は、日本の予備校講師。駿台予備学校英語科専任講師を約30年間務めた。「受験英語の神様」、「受験英語界の巨人」と称された。 1927年(昭和2年)長野県生まれ。1944年、東京都立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)卒業後、第一高等学校(旧制)を1944年(昭和19年)に受験した。なお、1941年とこの年は旧制高等学校入試にて受験科目から英語が除外された例外的な年だった。予備校で受験英語の教授に人生を捧げた伊藤だが、自らの旧制高等学校受験(新制大学受験に相当)では英語の試験が無かった。第一高等学校卒業を経て、1947年旧制東京大学哲学科入学後は病気療養を挟みつつ、1953年旧制東京大学哲学科を卒業した。
榊 莫山(さかき ばくざん、本名:榊 齊(さかき はじむ)、… 榊 莫山(さかき ばくざん、本名:榊 齊(さかき はじむ)、1926年2月1日 - 2010年10月3日)は、日本の書家・作家・元教諭。
羽鳥 純二(はとり じゅんじ、1926年 - 2012年)は… 羽鳥 純二(はとり じゅんじ、1926年 - 2012年)は日本の牧師、神学校の教師。羽鳥明は実兄。 1926年に、小学校教師を父として群馬県に生まれる。第二高等学校を経て東京帝国大学工学部火薬学科に入学、在学中に終戦を迎える。大学卒業後に日本鋼管に入社するも、共産党員になりオルグ活動をしたことによって解雇される。その後、土方や行商をしながら革命家として活動して、革命運動の指導者になる。 1954年に、4年間の米国留学を終えて帰国した兄・羽鳥明に誘われて復活祭の礼拝に出席し、安藤喜市の説教を聞いてキリスト教に入信した。後に、献身して神学校に入り、1954年に須賀川に開校した中央日本聖書学塾で塾長安藤喜市の下で訓練を受ける。
土師 政雄(はじ まさお、1925年9月27日 - 1998… 土師 政雄(はじ まさお、1925年9月27日 - 1998年6月9日)は、日本の政治運動家(市民運動)、予備校講師(数学)、評論家。野見隆介名義での著作もある。東京大学工学部卒業。 小田実、吉川勇一らとともに「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)で活動していたことでも知られる。また水道方式をめぐる算数・数学教育の評論、活動家としても有名。 同時期に代々木ゼミナール、河合塾、駿台予備学校の三大予備校を併任で教壇に立った稀有な経歴をもち、通信添削Z会の数学主任としても受験指導を行った。また、長年にわたり、代ゼミで「ベーシック数学ゼミ」を担当し、旺文社の「大学受験ラジオ講座」の講師も務めた。旺文社の『基礎問題精講』『標準問題精講』シリーズや、増進会出版社の『トレーニング』シリーズ、アレフ社の『微積分演習』『代数幾何演習』『行列』『積分』『整数』などを執筆。
黒川 正宏(くろかわ まさひろ 1925年7月19日-197… 黒川 正宏(くろかわ まさひろ 1925年7月19日-1974年2月28日)は、日本の教員、歴史家。 1947年に廣島高等師範学校卒業し、広島文理科大学に入学。1950年に卒業すると、京都大学大学院に入学。1954年に修了し、広島県立舟入高等学校教諭となる。教員を務める傍ら、研究を続け、広島県史編さん委員を委嘱される。1969年に退職し、尾道短期大学講師となり、翌1970年から同学助教授。 日本中世史を専攻し、若狭国の浦刀禰、山国荘、伏見荘などを題材に惣村の研究を進め、惣荘と地侍の関係を追究した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
岩崎 巌(いわさき いわお、旧字体: 岩崎 巖、1925年〈… 岩崎 巌(いわさき いわお、旧字体: 岩崎 巖、1925年〈大正14年〉2月9日 - 2020年〈令和2年〉4月16日)は、日本の作詞家、教員。早稲田大学学生歌『早稲田の栄光』(補作:西條八十/作曲:芥川也寸志)、応援歌『ひかる青雲』(作曲:古関裕而)ほか、神奈川県立高等学校校歌等を作詞した。 静岡県清水市宮加三(現・静岡市清水区宮加三)に、父大次郎、母そめの三男として生まれる。生後3カ月で母と、5歳の時に父と死別し、親戚に育てられる。その後、叔父の庄太郎・トシ夫妻の養子となる。 その後、庄太郎の仕事の関係で静岡県庵原郡富士川町(現・富士市)から横浜市へ転居する。横浜市立南吉田尋常小学校を経て関東学院中等部で学ぶ。
古川 清行(ふるかわ きよゆき、1925年(大正14年) -… 古川 清行(ふるかわ きよゆき、1925年(大正14年) - )は、日本の社会科教師。東京生まれ。1950年東京文理科大学史学科卒業。東京学芸大学附属竹早小学校教諭、豊島区教育委員会指導主事、東京都教育委員会指導主事、72年東京都立教育研究所主任指導主事、80年東京都中央区立城東小学校校長。教育活性化センター代表。文部省学習指導要領「社会科」作成協力者、社会科指導書作成委員、道徳指導書作成委員。
佐藤 陽二(さとう ようじ、1925年 - 2012年)は、… 佐藤 陽二(さとう ようじ、1925年 - 2012年)は、日本の牧師、神学校教師。神学博士。 福島県伊達郡伊達町(現伊達市)に生まれる。1943年、海軍兵学校75期生として学ぶ。1953年、日本基督神学専門学校に入学しながら、日本基督教団浅草橋教師の副牧師を勤める。1955年に結婚し、日本基督教団神楽坂伝道所を設立する。1966年に東京神学大学大学院を卒業する。1966年より1968年までアメリカン・バプテスト西部神学大学院に留学する。1974年、再渡米して、コビナ日系人教会を設立する。1983年に帰国する。カリフォルニア神学大学院を卒業する。 牛込キリスト教会牧師、カリフォルニア神学大学院日本校総長を務めた。
岡本 敦郎(おかもと あつお、1924年〈大正13年〉12月… 岡本 敦郎(おかもと あつお、1924年〈大正13年〉12月25日 - 2012年〈平成24年〉12月28日)は、日本の歌手、音楽教師。武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)声楽科卒業。日本コロムビア所属。 1924年12月25日、北海道小樽市に生まれる。学校の教員を務める父親がクラシック好きで、幼少期から音楽に親しむ環境で育つ。 父親の転勤で神奈川県に転居し、旧制川崎中学校(現・神奈川県立川崎高等学校)に進学する。 川崎中学校在学中の1940年、映画「熱砂の誓い」を鑑賞し、アトラクションで伊藤久男の歌う「建設の歌」に感銘を受け、歌手を志す。 1943年、武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)へ進学。
奥井 潔(おくい きよし、1924年11月10日 - 200… 奥井 潔(おくい きよし、1924年11月10日 - 2000年12月16日)は、日本の英文学者・英語教師。東洋大学名誉教授。駿台予備学校英語科講師。 1924年台湾生まれ。1943年学徒出陣。チモール島へ出征。海軍に所属し、回天要員の生き残りと自ら語っていた。復員後、東京大学文学部英文科にて中野好夫の指導を受け、1952年卒業。1954年から半世紀近くにわたって駿台で教鞭をとり続けた。文学的な文章の読解を得意としており、その講義はしばしば受験用の英文解釈の域を超えて、人生論・道徳論などに及び、多感な年齢の受験生への啓蒙的役割を果たした。駿台で授業を受けた四方田犬彦によれば、「旧制高校の教授はかくや」という独特の雰囲気を持ち、効率一点主義の講師陣の中にあって異彩を放っていたという。
木村 万平(きむら まんぺい、1924年(大正13年)3月9… 木村 万平(きむら まんぺい、1924年(大正13年)3月9日 - 2014年(平成26年)7月11日)は、日本の社会科教師、教育者、市民活動家である。大韓帝国・京城府(現在の大韓民国・ソウル特別市)出身。木村 萬平は旧字体表記。 下記の作品の監督をした記録がある。 コミンテルン( - 1943年5月)
鈴木敏子(すずき としこ、1924年 - )は、元多磨全生園… 鈴木敏子(すずき としこ、1924年 - )は、元多磨全生園教師。 福島県生れ。1940年県立福島高等女学校卒。1942年県立福島女子師範学校二部卒。1960年-1976年国立療養所多磨全生園、全生園分教室小学校勤務。日本文学協会会員として、各部会に出席、機関誌「日本文学」に論文等を発表。1972年宮原昭夫の小説「誰かが触った」が鈴木の協力を仰いでなったことに対して「朝日新聞」が盗作を匂わせるキャンペーンを張った。
佐伯 恵達(さえき えたつ、1924年 - 2007年)は、… 佐伯 恵達(さえき えたつ、1924年 - 2007年)は、日本の僧侶、浄土真宗本願寺派長昌寺住職、高校教諭。 宮崎県宮崎市の寺の家に生まれる。9歳で得度し仏門に入る。龍谷大学に入学するが、在学中に学徒出陣。陸軍少尉で終戦を迎える。終戦後龍谷大へ復学。1951年同大学大学院修了。 宮崎県立宮崎大宮高等学校・宮崎県立宮崎南高等学校・宮崎県立宮崎東高等学校などで教鞭をとる。定年後は宮崎女子短期大学講師を務める。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
森 一郎(もり いちろう、1923年4月19日 - 1991… 森 一郎(もり いちろう、1923年4月19日 - 1991年10月21日)は、日本の英語教師・俳人。 奈良県出身。奈良県立畝傍中学、東京文理科大学卒業。奈良女子高等師範学校附属高等女学校(現・奈良女子大学附属中等教育学校)英語科教諭、東京都立日比谷高等学校英語科教諭、関西学院大学教授、奈良産業大学教授、中央ゼミナール講師を歴任。 日比谷高校時代にまとめた入試頻出順の英単語集である『試験にでる英単語』(青春出版社)の初版の1967年以降、2006年現在までに累計1500万部を超える大ベストセラーとなり、大学受験参考書・英単語集の金字塔を打ち立てた。1975年に第一回目の改訂が行なわれ、当時社会問題化した環境問題等に関する単語を追加し、時事英語試験への対策を強化した。
玉井 美知子(たまい みちこ、1923年 - )は、教育・保… 玉井 美知子(たまい みちこ、1923年 - )は、教育・保育学者、教師。 東京生まれ。日本女子大学校家政学部卒業。神奈川県立横浜立野高等学校教諭、同県教育委員会指導主事・主幹。神奈川県立横浜幼稚園長、神奈川県立中原養護学校校長、神奈川県立藤沢高等学校校長、文教大学女子短期大学部教授、東京成徳短期大学講師、教育課程審議会委員、高等学校学習指導要領改訂協力者委員、幼稚園教育要領指導書作成委員、総理府「青少年の性意識調査」企画調査委員、NHK、文化放送、テレビ朝日番組審議会委員。全日本家庭教育研究会「文書による教育相談」の担当。
鄭 幹鎔(チョン・ガニョン、朝鮮語: 정간용、1922年5月… 鄭 幹鎔(チョン・ガニョン、朝鮮語: 정간용、1922年5月9日 - 2003年8月30日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の教員、実業家、政治家。第7・8代韓国国会議員。本貫は慶州鄭氏(朝鮮語版)。カトリック教徒。 日本統治時代の全羅南道莞島郡出身。莞島郡薬山初等学校、平安中学校(京都)、日本大学法科卒。上海臨時政府宣撫団参加。全羅南道光州西中学校・莞島中学校教員、莞島郡水産高等学校・長興高等学校校監を務めた後に政界入り、民主共和党結党メンバー・大統領選挙対策委員長・莞島地区党事務局長・全南地区組織部長・宣伝部長、韓国水産技術協会会長、三光物産重役などを務めた。また、1968年12月11日より第11代大韓バドミントン協会会長を務めた。
中込 八郎(なかごみ はちろう、1921年〈大正10年〉7月… 中込 八郎(なかごみ はちろう、1921年〈大正10年〉7月20日 - 1999年〈平成11年〉11月14日)は、日本の高等学校物理教師、科学写真家。 群馬県館林市生まれ。群馬師範学校を経て、1944年東京高等師範学校卒。東京都立竹早高等学校、東京都立西高等学校教諭として勤務。1986年定年退職。日本物理教育学会理事。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長島 喜平(ながしま きへい、1920年〈大正9年〉10月1… 長島 喜平(ながしま きへい、1920年〈大正9年〉10月11日 - 2001年〈平成13年〉3月11日)は、日本の教員、郷土史家。位階は正五位。 埼玉県生まれ。1942年埼玉師範学校を、1953年日本大学文理学部を卒業。埼玉県で高校教師を務めながら、郷土史研究を行った。1982年に埼玉県立坂戸高校校長をもって教員を退職した。その後、埼玉県郷土文化会会長、埼玉県文化振興基金幹事、嵐山町文化財保護委員長、嵐山町博物誌編さん委員会委員と同委員会中世部会部会長などを務めた。 1990年に勲四等瑞宝章受章。没日をもって正五位に叙せらる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
佐藤 敬治(さとう けいじ、1920年(大正9年)3月10日… 佐藤 敬治(さとう けいじ、1920年(大正9年)3月10日 - 2009年(平成21年)9月16日)は、昭和から平成期の政治家、教員。衆議院議員(6期)、大館市長。 秋田県大館市出身。1944年(昭和19年)東京帝国大学文学部社会学科を卒業。秋田県立大曲高等学校教諭を経て、1951年(昭和26年)大館市長に初当選。以降4期務めた。 1972年(昭和47年)日本社会党公認で第33回衆議院議員総選挙において旧秋田1区で初当選。6期務めた。1993年(平成5年)に政界から引退した。 2009年9月16日、死去。89歳没。死没日付をもって正八位から正四位に叙され、旭日重光章を追贈された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
小林 福子(こばやし ふくこ、1920年3月6日 - 201… 小林 福子(こばやし ふくこ、1920年3月6日 - 2012年8月9日)は日本の作曲家、音楽教師。桐朋学園大学附属子供のための音楽教室で長年教師としてソルフェージュを指導した。 1920年、東京に生まれる。成城小学校6年生のときに成城学園教師の岡本敏明から作曲の手ほどきを受けた。1938年に東京音楽学校予科に入学。橋本國彦、ヘルムート・フェルマー、井口基成に師事し、作曲とピアノを学んだ。1942年9月に同校本科作曲部を卒業。同年の『著作権者名簿』に、小林は「作曲」家として掲載され、1948年と1949年の紳士録にも「作曲家」として掲載されている。 小林はピアニストとしても活動し、1949年11月22日には声楽家柴田睦陸の伴奏者としてフォーレ、ショーソンなどの作品を演奏した。
小花波 平六(こばなわ へいろく、1920年〈大正9年〉1月… 小花波 平六(こばなわ へいろく、1920年〈大正9年〉1月20日 - 2007年〈平成19年〉6月4日)は、日本の教師、民俗学者。 群馬県に生まれる。群馬師範学校に学び、同校で担任であった千々和実の歴史の授業に「大きな感化を受けた」という。1931年に出征し、1946年に復員すると、東京・板橋で小学校教員になる。1956年に立正大学を卒業。卒業論文は「北魏王朝の経済政策」。1974年から1977年まで板橋区立の小学校校長を務める。教材研究として地域の石造物調査に取り組み、特に庚申塔の調査に焦点を当て、1959年に庚申懇話会を創立した。その後も庚申信仰の第一人者として研究を続けた。教員を退職した後には、板橋区立郷土資料館館長などを務めた。
舟喜 順一(ふなき じゅんいち、1920年 - 2010年4… 舟喜 順一(ふなき じゅんいち、1920年 - 2010年4月13日)は、日本の牧師、神学校教師。兵庫県神戸市まれ、群馬県前橋市育ち。福音派の神学教育者で福音派の指導者の一人。新改訳聖書の生みの親の1人とされる。元・聖書宣教会教師(晩年は常任顧問)、元・聖書同盟主事、元・新改訳聖書刊行会編集主事、同理事長。 父は舟喜麟一、弟に舟喜拓生、舟喜信、妻は翻訳者としても有名な舟喜晃子。 1920年、神戸平野教会の牧師であった舟喜麟一の長男として生まれる。生まれてすぐに、銚子福音伝道館の牧師に就任した父と共に転居する。(旧制)前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)で学ぶ。その時同級生だった羽鳥明をキリスト教に導く。
陸 寅修(ユク・インス、朝鮮語: 육인수、1919年12月3… 陸 寅修(ユク・インス、朝鮮語: 육인수、1919年12月3日 - 2001年6月25日)は、大韓民国の教員、政治家。第6・7・8・9・10代大韓民国国会議員。本貫は沃川陸氏。 1919年12月3日、日本統治時代の朝鮮で忠清北道の沃川に陸鍾寛と李氏のもとに生まれた。清州公立高等普通学校(現・清州高等学校)を卒業後に渡日し、東京の武蔵高等工科学校(現・東京都市大学)を卒業した。満洲国政府経済部水力電気建設局の技師を務めた後、帰国し中学校、高校などの教育機関において教員を務めた。1963年の第6代総選挙にて民主共和党の公認で立候補して国会議員に当選し、その後も4期連続当選した。 その後は国会文教公報委員長、民主共和党中央党政策委員、民主共和党中央委員会議長、民主共和党国会対策委員などの政界の要職を務め、2001年6月25日に持病により82歳で死去した。
細田 貴助(ほそだ きすけ、1919年(大正8年) - 没年… 細田 貴助(ほそだ きすけ、1919年(大正8年) - 没年不明)は、長野県茅野市出身の郷土史研究家、閉校した諏訪郡富士見町立落合小学校 の元校長。茅野市神長官守矢史料館初代館長。
田代 三良(たしろ さぶろう、1918年9月27日 - 19… 田代 三良(たしろ さぶろう、1918年9月27日 - 1999年4月21日)は、日本の教員・教育評論家。 福島県平市(現:いわき市)または栃木県・喜連川町生まれ。旧制水戸中学校、旧制第一高等学校、東京帝国大学文学部国文科(松尾芭蕉を研究)を卒業。学徒出陣し、インパール作戦に従軍した。 1941年(23歳)12月8日の開戦により12月31日付で繰り上げ卒業となり、1942年2月1日仙台第33師団輜重連隊(補充隊)自動車中隊に配属。軍隊内の非合理性に反抗的な態度であったためか幹部候補試験に不合格となり、本部指揮班・功績係助手となる。 上官に南方派遣を直訴し、11月補充交代要員として12月13日ジャワ派遣第4816部隊として出発。
谷口 五男(たにぐち かずお、1918年9月17日 - 19… 谷口 五男(たにぐち かずお、1918年9月17日 - 1986年6月30日)は、社会科中学・高校教諭。 横浜市生まれ。1940年東京高等師範学校卒、43年東京文理科大学国史学科卒、44年東京高等師範学校助手兼教諭、応召をへて46年東京高師附属中学校教諭、49年東京教育大学附属中学校教諭、59-64年教頭、64年同附属高等学校教諭、78年筑波大学附属高等学校に校名変更、82年定年退職。没後勲五等受勲。 数多くの副読本を書き、文部省の教育課程改訂調査研究協力者委員も務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
朴 基玎(パク・キジョン、朝鮮語: 박기정、1918年6月7… 朴 基玎(パク・キジョン、朝鮮語: 박기정、1918年6月7日 - 1993年5月9日)は、大韓民国の教員、政治家。第2代慶尚南道議会(朝鮮語版)議員、第5代韓国国会議員を歴任した。 東萊公立高等普通学校(現・東萊高等学校(朝鮮語版))、明治大学専門部法科卒。国民学校(現・初等学校)教員、昌寧公立初級中学校及び改編後の霊山中学校(朝鮮語版)教員、醸造業経営を経て、第2代慶尚南道議会議員を務めた。1960年の第5代総選挙では昌寧郡選挙区から民主党所属で出馬して当選し、国会議員を1期務めた。なお、開票中盤には対立候補の自由党の辛泳柱(朝鮮語版)の先行を許さない昌寧郡民が投票箱に火をつけ、辛陣営の運動員と乱闘した末、辛候補を捕まって「郡民裁判」を行ったという前代未聞の騒乱事件が発生した。
永瀬 隆(ながせ たかし、1918年2月20日 - 2011… 永瀬 隆(ながせ たかし、1918年2月20日 - 2011年6月21日)は、日本の英語教師、社会活動家、元陸軍通訳。 岡山県都窪郡福田村(現:岡山県岡山市南区福田地域)生まれ。 1941年青山学院文学部英語科を卒業。同年12月、英語通訳として陸軍省に入省する。1943年、婚約者を置いてタイに赴き泰緬鉄道の建設にあたり、『建設作戦要員』として通訳に従事する。6万2千人ちかくのうち約1万3千人が死んだといわれる連合軍捕虜(en:Far East prisoners of war)虐待(泰緬鉄道建設捕虜虐待事件)の現場に出くわし、戦後において、この一件についての証言活動に至る。1945年9月、イギリス軍の墓地捜索隊の通訳となる。
福田 隆(ふくだ たかし、1917年〈大正6年〉10月18日… 福田 隆(ふくだ たかし、1917年〈大正6年〉10月18日 - 1991年〈平成3年〉11月13日)は、岩手県出身の染絵作家、美術教師である。 1917年(大正6年)、岩手県遠野市に生まれ、翌年に家族で盛岡市に移り住んだ。1930年、旧制盛岡中学校に入学し、絵画部に入部。その当時に京都から赴任していた中井汲泉の薫陶を受けた。1939年に日本大学芸術科に進学し油絵を専攻したが、戦争のため繰上げ卒業となり、軍に入隊。満洲で終戦を迎えたのち、ソビエト連邦によりシベリアに抑留され、日本に帰国できたのは1948年であった。盛岡に戻ると実家のある法泉寺(現在の 北山)に居住し、盛岡高等学校の美術科の教員職に就いた。
広橋 百合子(廣橋 百合子、ひろはし ゆりこ、1916年5月… 広橋 百合子(廣橋 百合子、ひろはし ゆりこ、1916年5月12日 - 1977年4月26日)は、走高跳を専門とする日本の陸上競技選手、学校教師。結婚後の姓は長井(ながい)。石川県羽咋郡北荘村(現・宝達志水町)出身で、大島鎌吉と並ぶ石川県初のオリンピック選手である。元日本記録保持者。 黎明期の日本女子走高跳を支えた人物で、3度オリンピック出場を目指したが、実際に出場が叶ったのは1932年ロサンゼルスオリンピックの1度であった。 1916年(大正5年)5月12日、石川県羽咋郡北荘村小川(現・宝達志水町小川)にて5人きょうだい(1男4女)の三女として生まれる。実家は照覚寺という真宗大谷派の仏教寺院で、父は僧侶、母も羽咋の寺から嫁いだ人であった。
五十嵐 富夫(いがらし とみお、1916年〈大正5年〉1月3… 五十嵐 富夫(いがらし とみお、1916年〈大正5年〉1月31日 - 1998年〈平成10年〉12月16日)は、日本の歴史家、郷土史家、教員。文学博士。 1916年(大正5年)群馬県伊勢崎市生まれ。旧制渋川中学校(現・群馬県立渋川高等学校)を経て、1940年(昭和15年)東京高等師範学校研究科歴史科を修了。群馬県内の高等学校の教諭を歴任し、群馬県立吾妻高等学校、群馬県立館林高等学校、群馬県立太田女子高等学校の各校長を勤めた。1976年(昭和51年)3月に退職。 1970年(昭和50年)群馬女子短期大学講師となり、のち教授。 関東近世史研究会、交通史研究会、地方史研究協議会員。群馬県を中心とした近世の街道、女性史で業績があった。
峰島 秀(みねしま ひで、1916年 - 没年不詳)は、日本… 峰島 秀(みねしま ひで、1916年 - 没年不詳)は、日本の女子陸上競技選手、高等女学校教師。1936年ベルリンオリンピック陸上女子円盤投代表。元円盤投日本選手権覇者。女子スポーツ黎明期に欧米の選手の好敵手として五輪で入賞した名選手として知られる。 資料によっては「峯島秀」、「峰島秀子」と表記するものもある。 千葉県千葉市出身で、千葉第一尋常高等小学校(現・千葉市立新宿小学校)を経て千葉県立千葉高等女学校(現・千葉県立千葉女子高等学校)に進学する。千葉高女2年生の頃よりテニスをはじめ、1931年には県下女子庭球選手権大会で、1932年には関東女子競技大会で優勝を果たした。また投擲(とうてき)種目もこの頃より始め、高女3年には学友会誌に「スポーツ界の現状を直視して」と題した論文を寄せるなど文才も発揮し、「人見二世」と呼ばれた。
佐藤 俊明(さとう しゅんみょう、1916年 - 1997年… 佐藤 俊明(さとう しゅんみょう、1916年 - 1997年6月2日)は、日本の僧侶、曹洞宗大教師。 山形県生まれ。1936年、山形県宝泉寺の住職となる。1939年、駒澤大学文学部仏教学科を卒業。1974年から1981年まで、曹洞宗大本山總持寺の出版部長、布教師会事務局長、副監院を歴任。1985年、千葉県龍光寺住職。1988年、曹洞宗大教師に補任され、布教活動に専念。1995年、龍光寺住職を引退。 著書に『禅のはなし』『続・禅のはなし』『禅語と教育』『禅のこころ』『こころ自由自在』『心のお経』『修証義に学ぶ』『禅語百話』『古教照心』『とらわれない心』『心にのこる禅の名話』など多数。 1997年6月2日逝去、享年80。
白 亨南(ペク・ヒョンナム、朝鮮語: 백형남、1915年11… 白 亨南(ペク・ヒョンナム、朝鮮語: 백형남、1915年11月3日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮の教員、校長、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。本貫は水原白氏。 全羅北道益山郡黄登面(現・益山市)出身。咸羅公立普通学校(現・咸羅初等学校)、全州新興中学校を卒業後、日本大学文学部に入学した。これについて、3年次に中退したとも、修了したとも言われている。完州郡鳳東面私立永興学校の教員、黄登私立ケドン学校の教員と校長を務めたほか、黄登殉国青年同盟委員長、大韓独立促成国民会黄登支会副委員長、韓国光復青年会全北監察委員長と益山郡委員長、大同青年団益山軍団長、黄登軍団長などを務めた。1948年の初代総選挙に大同青年団の公認で益山郡甲選挙区から当選し、国会議員を1期務めた。
金 沃周(キム・オクチュ、朝鮮語: 김옥주、1915年6月3… 金 沃周(キム・オクチュ、朝鮮語: 김옥주、1915年6月3日 - 1980年9月12日)は、日本統治時代の朝鮮の労働運動家、独立運動家、大韓民国の教員、政治家。制憲韓国国会議員。 元国会議員の金善周(朝鮮語版)は兄。 全羅南道光陽郡津上面出身。光陽公立普通学校(現・光陽西初等学校(朝鮮語版))、ソウル養正高等普通学校、早稲田大学法科卒。朝鮮化学工業株式会社に入社したが、朝鮮人の労働者待遇改善を求めた運動および反日思想事件に関与したため、10ヶ月間投獄された。解放後は光陽津上国民学校教員、無所属の制憲国会議員、大韓民国憲法・政府組織法起草委員を務めた。国会議員在任中の1949年に国会フラクチ事件の連座により懲役6年を言い渡された。
村瀬 輝光(むらせ てるみつ、1915年 - 1985年5月… 村瀬 輝光(むらせ てるみつ、1915年 - 1985年5月9日)は、昭和時代後期日本の中等教育教員。神奈川県の2代目県民歌「光あらたに」の作詞者として知られる。 また、推理作家としてのペンネームに深草 蛍五(ふかくさ けいご)がある。 横浜市中区出身。旧制厚木中学校を経て神奈川師範学校を卒業した後、1945年(昭和20年)に旧制相洋中学校の国語教諭となり、1947年(昭和22年)の新制高等学校への改組に伴い校歌を作詞した。 1950年(昭和25年)、神奈川県が行った2代目県民歌の懸賞公募で応募作「光あらたに」が採用され、同年4月10日付で制定される。ところが、制定から15年余りを過ぎた1967年(昭和42年)に当時の津田文吾知事が4番の歌詞について「大気汚染が社会問題化する中で不適切な表現ではないか」として改訂を指示し、作曲者の飯田信夫と共に難色を示したが結論が出ないまま1968年(昭和43年)を以て知事から問題視された4番自体が廃止されることになった。
具 興南(ク・フンナム、朝鮮語: 구흥남/具興南、1914年… 具 興南(ク・フンナム、朝鮮語: 구흥남/具興南、1914年5月20日 - 1966年12月27日発見)は、大韓民国の教員、公務員、実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。本貫は綾州具氏(綾城具氏)。 日本統治時代の全羅南道和順郡生まれ、現在のソウル特別市西大門区出身。平壌崇実中学校、早稲田大学英文科卒。 ソウル公立農業学校の教員、交通部総務課長、ソウル大学校予科講師を経て、釜山に移り韓国通運の社長を務めた。外資モータープール協会会長を経て、1954年の第3代総選挙では自由党の候補として和順郡選挙区から国会議員に当選し、1958年の第4代総選挙でも同様に当選した。任期中の1956年に国会復興委員長を務め、和順郡綾州面一帯の干ばつを解消するために同郡寒泉面に貯水池の建設を主導した。
三戸サツヱ(みとさつえ、1914年4月21日 - 2012年… 三戸サツヱ(みとさつえ、1914年4月21日 - 2012年4月7日)は教師、研究者。小学校、中学校の教員をしながら、1948年から始まった京都大学の宮崎県串間市幸島(発音は本により、コウシマと、コージマがある)のサルの研究に加勢した。三戸はサル全数の個体識別を行い、戸籍を作り、サルがイモを洗って食べる習慣の発生と伝達など発見し、サル学の発展に貢献した。1970年から1984年にかけて、京都大学霊長類研究所研究員になった。著書の名義では三戸サツエの表記も使われる。
青山 良道(あおやま よしみち、1914年(大正3年)3月3… 青山 良道(あおやま よしみち、1914年(大正3年)3月31日 - 1986年(昭和61年)4月23日)は、日本の政治家、教諭。東京都中野区長(2期)、東京都議会議員(3期)を務めた。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 長男は石原慎太郎東京都知事の下で東京都副知事を務めた青山佾。 静岡県御殿場市生まれ。1943年立正大学専門部地理学科卒業。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)教諭、東京都高等学校教職員組合委員長を務めた。 1955年、日本社会党公認で東京都議会議員選挙に出馬し、初当選を果たした。3期目任期中の1965年に都議を辞職した。 1971年2月26日から1979年2月9日まで足掛け3期、中野区教育委員を務めた。
黒坂 周平(くろさか しゅうへい、1913年11月3日 - … 黒坂 周平(くろさか しゅうへい、1913年11月3日 - 2003年2月7日)は日本の地方史研究家、郷土史家、教師。 長野県小県郡西塩田村(現上田市)に生まれる。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て長野師範学校を卒業し、学校教師になる。1950年、『上田小県誌』史料編纂委員となる。1972年、上田市立第三中学校を退職し、郷土史研究に専念する。 1973年、東信史学会を創立し会長に就任、雑誌『千曲』を刊行。1979年、塩田平文化財研究所を設立し所長に就任。1990年喜寿を記念し論文選集(献呈論文集含む)『信濃の歴史と文化の研究』を刊行した。また平凡社の『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』の監修を務めた。