青木 行義(あおき ゆきよし 1934年9月15日 - 19… 青木 行義(あおき ゆきよし 1934年9月15日 - 1996年4月19日)は、日本の競泳選手。種目は自由形。熊本県出身。 熊本県立鹿本高等学校在学中の1952年のヘルシンキオリンピックの1500m自由形では19分27秒0で予選敗退、日本大学に在学中の1956年のメルボルンオリンピック1500m自由形では18分38秒3で7位となった。 また1954年アジア競技大会1500m自由形では金メダルを獲得した。 菊鹿町の名誉町民となっている。1996年、61歳で死去した。 1972年ミュンヘンオリンピックの女子100mバタフライで金メダルを獲得した青木まゆみはいとこにあたる。
宮本 まさみ(みやもと まさみ、1934年(昭和9年)9月2… 宮本 まさみ(みやもと まさみ、1934年(昭和9年)9月2日 - )とは、日本の飛込競技選手。1952年ヘルシンキオリンピックに出場した。 1934年9月2日、石川県金沢市に生まれる。石川県立金沢桜丘高等学校に入学後、1950年の第5回国民体育大会、1951年の全国高校選手権に出場した。1952年6月19日から行われた日本選手権では飛板飛込で104.98点を獲得し優勝、ヘルシンキオリンピックへの出場権を手にした。当時は大沢姉妹に次ぐ飛込界の新星と目された。高校3年生で迎えたヘルシンキオリンピックでは飛込競技の日本代表として参加し、飛板飛込では15位(46.88点)で予選敗退、高飛込では11位(36.24点)で予選敗退となった。
後藤 暢(ごとう とおる、1934年〈昭和9年〉6月26日 … 後藤 暢(ごとう とおる、1934年〈昭和9年〉6月26日 - )は、福岡県出身の元競泳選手。 高校3年生のときに1952年ヘルシンキオリンピックに出場し、男子800m自由形リレーで銀メダルを獲得した。のちに西日本新聞社に入社してスポーツ記者として活動、運動部長を務める。 福岡県朝倉郡朝倉村恵蘇宿(現在の朝倉市山田)に生まれる。 父の後藤均は村長も務めるとともに地域の水泳の発展に貢献した人物で、本人含め2男4女(暢は次男)が水泳の達者という水泳一家であった(とくに長男の龍美、次女の美智子は全国大会で成績を残し、オリンピック選手候補として名が挙がるレベルであったという)。1940年には均が中心となり、有志の協力・村民の理解のもとで、朝倉村立朝倉小学校に福岡県の小学校では最初に25mプールが設けられた。
坂口 文子(さかぐち ふみこ、1934年(昭和9年)4月27… 坂口 文子(さかぐち ふみこ、1934年(昭和9年)4月27日 - )は、日本の元競泳選手。現姓は西。 奈良県宇智郡南宇智村(現五條市)出身。奈良県立五條高等学校在学中、1952年ヘルシンキオリンピックで競泳日本代表として女子100m自由形に出場したが予選落ちに終わった。女子4×100mフリーリレーでは6位に入賞した。 現役引退後は、奈良県水泳連盟副会長を務めた。ほか、翠香という雅号でかな書を能くした。
田村 美佐子(たむら みさこ、1934年(昭和9年)4月8日… 田村 美佐子(たむら みさこ、1934年(昭和9年)4月8日 - )は、日本の元競泳選手。現姓は斉藤。 和歌山県伊都郡妙寺町(現かつらぎ町)出身。 和歌山県立伊都高等学校在学中、1952年ヘルシンキオリンピックで競泳日本代表として女子400m自由形に出場したが予選落ちに終わった。女子4×100m自由形リレーでは6位に入賞した。1954年アジア競技大会では女子400m自由形に出場し優勝した。 のちに、天理短期大学保健体育科に進学。 現役引退後は、トータル・オリンピック・レディース会の会計監査を務めた。
梶川 孝義(かじかわ たかよし、1934年3月10日 - )… 梶川 孝義(かじかわ たかよし、1934年3月10日 - )は、日本の元競泳選手。早稲田大学出身。第15回ヘルシンキオリンピック競技大会代表選手選考会を兼ねた第28回日本選手権水泳競技大会の100m平泳ぎで優勝し、200m平泳ぎで3位となり、オリンピック代表選手に選出された。その後1952年ヘルシンキオリンピックの競泳競技・男子200m平泳ぎに出場し、5位入賞した。 日本選手権水泳競技大会においては、前述のように1952年の100m平泳ぎで優勝しているほか、1951年・53年の200m平泳ぎで優勝している。
馬場 豊(ばば ゆたか、1933年11月30日 または 19… 馬場 豊(ばば ゆたか、1933年11月30日 または 1934年1月18日 - )は、日本の飛込競技選手、指導者。元飛び込み日本代表。 兵庫県立神戸高等学校を経て、早稲田大学水泳部に所属、1953年から1955年まで日本学生選手権水泳競技大会の男子飛び板飛び込みで3連覇。マニラで行われた1954年アジア競技大会の同種目で銅メダルを獲得、1955年の日本選手権水泳競技大会でも同種目で優勝している。 早稲田大学理工学部卒業後は株式会社天御津に就職し、1956年の日本選手権水泳競技大会の3m飛び板飛び込みで2連覇を達成。1956年メルボルンオリンピックに出場するも、大会中、現地の五輪プールで練習中に負傷し、高飛び込みで11位、板飛び込みで12位に終わり入賞を逃した。
谷 䚮(たに あつし、1933年11月19日 - )は、日本… 谷 䚮(たに あつし、1933年11月19日 - )は、日本の元競泳選手。愛知県海部郡弥富町前ヶ須出身。1956年メルボルンオリンピック日本代表。100m自由形の元日本記録保持者。 愛知県立津島高等学校併設中学校、早稲田大学高等学院、早稲田大学商学部卒業。 1954年8月8日、早稲田大学対愛知の100m自由形で19年ぶりに遊佐正憲の日本記録を更新した。1955年8月23日、日米対抗戦奈良大会において日本初となる100m自由形で56秒台となる56秒8の日本記録を樹立した。決勝ではさらに記録を更新する56秒4を出した。 1956年のオリンピック選考会で100m自由形で2位に入り、メルボルンオリンピック日本代表に選出された。
平山 綽保(ひらやま のぶやす、1933年10月9日 - )… 平山 綽保(ひらやま のぶやす、1933年10月9日 - )は、日本の元競泳選手。日本大学出身。1951年(昭和26年)の日本学生選手権男子100m平泳ぎで優勝している。第15回ヘルシンキオリンピック競技大会代表選手選考会を兼ねた第28回日本選手権水泳競技大会の100m平泳ぎで2位となり、オリンピック代表選手に選出された。その後1952年ヘルシンキオリンピックの競泳競技・男子200m平泳ぎに出場し、4位入賞した。
鈴木 弘(すずき ひろし、1933年〈昭和8年〉9月18日 … 鈴木 弘(すずき ひろし、1933年〈昭和8年〉9月18日 - )は、日本の元競泳選手。1952年ヘルシンキオリンピック競泳男子100m自由形、男子800m自由形リレー銀メダリスト。 愛知県岡崎市元能見町に生まれる。原点は友人と泳いだ大平川(乙川の別称)という。遊びであっても夢中で泳ぎを磨いた。高校時代は、1936年(昭和11年)に岡崎市連尺尋常小学校(現・岡崎市立連尺小学校)につくられた市内最初のプール(長さ25メートル、幅9メートル)で練習を行った。 愛知県立岡崎北高等学校在学中の1950年(昭和25年)8月、東西対抗高校水泳大会で100メートル自由形で3位を記録。同年9月、第5回国民体育大会の100メートル自由形で3位を記録(1分2秒2)。
馬淵 良(まぶち りょう、1933年3月12日 - 2021… 馬淵 良(まぶち りょう、1933年3月12日 - 2021年11月22日)は、石川県出身の元飛込競技選手。 石川県出身。金沢市立工業高等学校を経て、日本大学経済学部卒。 1958年のアジア大会飛込競技10m高飛込みで金メダルを獲得。 1956年と1960年の夏季オリンピックでは、妻の馬淵かの子(旧名:津谷鹿乃子)とともに出場し、12〜18位。 娘の馬淵よしのもオリンピック選手。 現役引退後は妻・かの子と共にJSS宝塚スイミングスクールを立ち上げ、同スクールからは数多くの選手を輩出している。 2021年11月22日死去。88歳没。
谷川 禎次郎(たにかわ ていじろう、1932年〈昭和7年〉1… 谷川 禎次郎(たにかわ ていじろう、1932年〈昭和7年〉12月20日 - 2025年5月13日)は、日本の元競泳選手。1952年ヘルシンキオリンピック男子800mフリーリレー銀メダリスト。大分県出身。メディアによっては谷川 禎治郎とも表記される。日本大学経済学部卒業。 1952年のヘルシンキオリンピック男子800mフリーリレーで鈴木弘、浜口喜博、後藤暢とともに銀メダルを獲得。 2025年5月13日、急性大動脈解離により死去。92歳没。
山下 貞子(やました さだこ、1932年(昭和7年)11月5… 山下 貞子(やました さだこ、1932年(昭和7年)11月5日 - 没年不明)は、昭和時代の競泳選手。新姓は沢。 奈良県宇智郡野原町(現五條市)出身。奈良県立五條高等学校を卒業後、東洋レーヨンに入社。 1952年ヘルシンキオリンピックに競泳日本代表として女子100m自由形と400m自由形に出場したがいずれも予選落ちに終わった。女子4×100m自由形リレーでは6位に入賞した。
北村 康雄(きたむら やすお、1932年10月14日 - )… 北村 康雄(きたむら やすお、1932年10月14日 - )は、日本の元競泳選手。兄は1932年ロサンゼルスオリンピック1500m自由形金メダリストの北村久寿雄。高知市立高知商業高等学校、早稲田大学政治経済学部卒業。第15回ヘルシンキオリンピック競技大会代表選手選考会を兼ねた第28回日本選手権水泳競技大会の1500m自由形で2位となり、オリンピック代表選手に選出された。その後1952年ヘルシンキオリンピックの競泳競技・男子1500m自由形に出場し、6位入賞した。
田中 寧夫(たなか やすお、1932年〈昭和7年〉2月24日… 田中 寧夫(たなか やすお、1932年〈昭和7年〉2月24日 - )は、日本の元競泳選手。 福岡県久留米市のあけぼの商店街の森恒呉服店の子として生まれる。福岡県立明善高等学校を経て、早稲田大学に入学する。 大学在学中、1952年ヘルシンキオリンピックに競泳日本代表として男子400m自由形に出場。準決勝で9位となり、決勝進出はならなかった。
長沢 二郎(ながさわ じろう, 1932年(昭和7年)2月2… 長沢 二郎(ながさわ じろう, 1932年(昭和7年)2月2日 - 2010年(平成22年)3月23日)は、日本の競泳選手。 静岡県沼津市出身。静岡県立沼津東高等学校から早稲田大学高等学院に編入し、早稲田大学政治経済学部卒業。早大では水泳部に所属した。 早大在学中の1952年ヘルシンキオリンピックに出場し、200メートル平泳ぎで6位。1954年5月にバタフライが平泳ぎから分離する形で考案され、同年6月に長沢が「ドルフィンキック」を発明、当時の200メートルバタフライの世界新記録を更新した。同年には第4回日本スポーツ賞を受賞。引退後の1964年には、第18回夏季オリンピック東京大会において競泳日本代表のコーチを務めた。
田中 純夫(たなか よしお、1930年〈昭和5年〉5月5日 … 田中 純夫(たなか よしお、1930年〈昭和5年〉5月5日 - )は、日本の元競泳選手。 広島市に生まれる。5歳頃から水泳を始めた。広島市立広瀬小学校、広島県立広島第二中学校を経て、1949年(昭和24年)早稲田大学に入学する。 大学在学中、1952年ヘルシンキオリンピックに競泳日本代表として男子400m自由形に出場し14位に終わった。
橋爪 四郎(はしづめ しろう、1928年〈昭和3年〉9月20… 橋爪 四郎(はしづめ しろう、1928年〈昭和3年〉9月20日 - 2023年〈令和5年〉3月9日)は、日本の競泳選手、スポーツ指導者。ヘルシンキオリンピック競泳男子1500m自由形銀メダリスト。和歌山県和歌山市出身。日本大学卒業。 終戦直後の1946年、古橋廣之進に誘われて日本大学に進学。その後、世界トップレベルの記録を連発。1948年のロンドンオリンピックではメダル獲得が確実視されたが、日本の参加は認められなかった。ロンドン五輪の代わりとして日本水泳連盟が開催した全日本水上選手権大会では1500m自由形で当時の世界記録を上回る18分37秒8を記録した(当時の日本は敗戦国であったことから国際水泳連盟(FINA)から除名されていたため、世界記録としては公認されなかった)。
浜口 喜博(はまぐち よしひろ、1926年〈大正15年〉6月… 浜口 喜博(はまぐち よしひろ、1926年〈大正15年〉6月23日 - 2011年〈平成23年〉8月10日)は、香川県出身の競泳選手、俳優。 1952年ヘルシンキオリンピック男子800m自由形リレー銀メダリスト。引退後は俳優に転向するも、その後は日本水泳連盟役員を歴任、死去時は顧問を務めていた。 1926年6月13日、香川県香川郡雌雄島村大字男木(男木島、現・香川県高松市男木町)にて出生。香川県立大川中学校(現・香川県立三本松高等学校)、日本大学卒業。 1952年のヘルシンキオリンピック男子800m自由形リレーで鈴木弘、後藤暢、谷川禎次郎とともに銀メダルを獲得。自由形100mでも準決勝に進出し、わずかの差で決勝進出を逃している。
松村 昶子(まつむら しょうこ、1920年(大正9年)7月1… 松村 昶子(まつむら しょうこ、1920年(大正9年)7月10日 - 1945年(昭和20年))は、昭和時代の競泳選手。 山口県吉敷郡大歳村矢原高畑(現山口市矢原町高畑)の医師松村章の二女として生まれる。1927年(昭和2年)大歳小学校に入学し、椹野川の八光面(石津橋の下)で泳ぎを覚えた。 山口高等女学校在学中、100m自由形で1936年ベルリンオリンピック競泳日本代表に選出されたが、本大会では出場しなかった。
奥田 精一郎(おくだ せいいちろう、1920年 - 2020… 奥田 精一郎(おくだ せいいちろう、1920年 - 2020年11月13日)は、競泳コーチ。オリンピック選手を多く輩出しているイトマンスイミングスクール名誉会長。 大阪府生まれ。旧制茨木中学(現大阪府立茨木高等学校)卒業。中学5年時には水球日本代表にも選出された。早稲田第二高等学院を経て、早稲田大学に入学、水泳部である「稲泳会」に入部。1942年9月末の繰上卒業で従軍。愛知県豊橋市の陸軍南方軍第2航空師団入隊。その後第7飛行師団司令部付きとなり、フィリピン、ビルマを転戦。鹿児島県知覧町(現南九州市)の知覧陸軍飛行場で終戦を迎え、戦後は家業の造り酒屋で働く。後に競泳コーチに転身。山田スイミングクラブを経て、イトマンスイミングスクール会長となった。
天野 富勝(あまの とみかつ、1919年9月14日 - 19… 天野 富勝(あまの とみかつ、1919年9月14日 - 1985年12月18日)は、日本の水泳選手。福岡県直方市出身。 1937年、福岡県立鞍手高等学校卒業。八幡製鐵を経て日本大学に入学。大学時代の1938年8月10日に神宮プールで行われた第14回関東水上選手権大会の1500m自由形で当時の世界新記録(18分58秒8。1000m通過タイム12分33秒8も当時の世界新記録)を樹立した。同記録は1949年8月の全米水上選手権予選で橋爪四郎に破られるまで11年間保持された。
竹村 令(たけむら れい、1919年(大正8年)4月29日 … 竹村 令(たけむら れい、1919年(大正8年)4月29日 - 生没不明)は、昭和時代の競泳選手。 京都府立第一高等女学校在学中、1936年ベルリンオリンピックに競泳日本代表として女子100m自由形に出場したが予選落ちに終わった。女子4×100mフリーリレーにも出場したが予選落ちに終わった。
吉田 喜一(よしだ きいち、1919年(大正8年)3月6日 … 吉田 喜一(よしだ きいち、1919年(大正8年)3月6日 - 1944年(昭和19年)12月21日)は、昭和時代戦前の競泳選手。 大分県出身。早稲田大学在学中、1936年ベルリンオリンピックに競泳日本代表として男子100m背泳ぎに出場し5位に入賞した。 太平洋戦争が勃発すると陸軍に召集され飛行第73戦隊に所属した。1944年(昭和19年)12月、ミンダナオ島にて特攻により戦死した。
鵜藤 俊平(うとう しゅんぺい、1918年12月1日 - )… 鵜藤 俊平(うとう しゅんぺい、1918年12月1日 - )は、日本の水泳選手。1936年ベルリンオリンピック400メートル自由形で銀メダル、1500メートル自由形で銅メダルを獲得している。立教大学出身。
児島 泰彦(こじま やすひこ、1918年(大正7年)9月1日… 児島 泰彦(こじま やすひこ、1918年(大正7年)9月1日 - 1945年(昭和20年)6月12日)は、日本の水泳選手。ベルリンオリンピック100メートル背泳ぎに出場。
壷井 宇乃子(つぼい うのこ、1917年(大正6年)12月1… 壷井 宇乃子(つぼい うのこ、1917年(大正6年)12月13日 - 1940年(昭和15年)11月4日)は、昭和時代の競泳選手。専門は平泳ぎ。 京都府京都市出身。幼少時代は心臓が悪く、医師から「激しい運動をさせていけない」と言われていた子だったという。このため宇乃子の両親は娘が水泳をすることを快く思わなかったという。宇乃子自身は「水泳を始めたおかげで五尺三寸の体躯となり、精神力が強くなった」ことを後に語っている。 学童時代に大日本武徳会遊泳部(京都武徳会、現在の京都踏水会スイミングクラブ)に入り、本格的に競泳に取り組む。京都武徳会所属で京都府立京都第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)時代の1934年(昭和9年)の全日本選手権水上競技大会女子200m平泳ぎにて優勝した前畑秀子(椙山女学園)に次いで2位に入賞している。
寺田 登(てらだ のぼる、1917年(大正6年)11月25日… 寺田 登(てらだ のぼる、1917年(大正6年)11月25日 - 1986年(昭和61年)9月26日)は、日本の水泳選手。静岡県磐田郡福島村中島(現磐田市福田中島)出身。慶應義塾大学出身。1936年ベルリンオリンピック1500m自由形で金メダルを獲得した。 静岡見付中(現在の静岡県立磐田南高等学校)から慶應義塾大学に進学。1936年ベルリンオリンピック競泳男子1500m自由形に出場し金メダルを獲得した。引退後は慶應義塾大学水泳部監督などの要職を歴任した。なお、結婚後は伊藤姓を名乗った。1986年、68歳で没した。 水泳選手には珍しい、筋肉質のずんぐりした体形であった。小学校時代に見にいった水泳大会で、人数が足りないからと飛び入り出場し1位になったのが縁で競泳と出会う。
北村 久寿雄(きたむら くすお、1917年(大正6年)10月… 北村 久寿雄(きたむら くすお、1917年(大正6年)10月9日 - 1996年(平成8年)6月6日)は、日本の競泳選手、労働省官僚。1932年ロサンゼルスオリンピックの1500m自由形金メダリスト。1952年ヘルシンキオリンピック競泳日本代表の北村康雄は実弟。 出身地は高知市菜園場町(はりまや橋の東)。指導にあたったのは溝渕治助だった。練習には板垣退助や坂本龍馬も泳いだという鏡川を流れに逆らって泳ぐ方法を採用した。[要出典] 1932年(昭和7年)、旧制高知市立高知商業学校3年生のときに開催された第10回のロサンゼルスオリンピックの水泳1500m自由形でそれまでのオリンピック記録を40秒近く縮める19分12秒4のタイムでわずか14歳290日で金メダルを獲得、これは1988年ソウルオリンピックでハンガリーのクリスティーナ・エゲルセギ(当時14歳1か月9日)に破られるまで競泳世界最年少金メダリストであった。
葉室 鐵夫(はむろ てつお、1917年(大正6年)9月7日 … 葉室 鐵夫(はむろ てつお、1917年(大正6年)9月7日 - 2005年(平成17年)10月30日)は、福岡県福岡市出身の日本の元競泳選手。日本競泳界黎明期の選手のひとりで、亡くなるまでは大阪府高石市に在住していた。
杉浦 重雄(すぎうら しげお、1917年(大正6年)5月10… 杉浦 重雄(すぎうら しげお、1917年(大正6年)5月10日 - 1988年(昭和63年)4月10日)は、日本の競泳選手。静岡県浜松市出身。旧制静岡見付中(現在の静岡県立磐田南高等学校)、早稲田大学専門部政治経済科卒業。1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレー金メダリスト。
横田 みさを(よこた みさお、1917年2月3日 - 200… 横田 みさを(よこた みさお、1917年2月3日 - 2003年6月13日)は、日本の水泳選手、女優。同志社高等女学校在学中に女子100m背泳ぎの日本記録を更新し、1932年ロサンゼルスオリンピックに15歳で出場した。その後は芸能界に転身し、松竹歌劇団と宝塚歌劇団に入団、さらに映画女優となった。夫は作曲家の竹岡信幸。 京都市出身。同志社高等女学校(現在の同志社女子中学校・高等学校)に学ぶ。横田在学中の同志社高女は、団体優勝を重ねる水泳の強豪校であった。もっとも学校にはプールがなかったため、スイミングクラブである大日本武徳会遊泳部(のちの京都踏水会)に属し、夷川ダム(琵琶湖疏水)で練習を重ねていたという。
小島 一枝(こじま かずえ、1916年10月30日 - 19… 小島 一枝(こじま かずえ、1916年10月30日 - 1992年)は、日本の水泳選手。 和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)出身。紀の川で泳いだ。近代水泳黎明期を代表する名選手として知られた。ロサンゼルスオリンピック、ベルリンオリンピックの競泳日本代表として活躍した。ベルリンでは400メートル自由形で6位入賞。この順位は、自由形女子としては千葉すずが後に並ぶまで日本選手団の最高位だった(のちにアテネオリンピックにて柴田亜衣が800メートル自由形で優勝したことで最高位を更新)。 日本選手権では女学校時代に200メートル自由形で7-9回大会まで3連覇、100メートル自由形でも7回大会に勝っている。同郷の前畑秀子と親交が厚かった。
宮崎 康二(みやざき やすじ、1916年(大正5年)10月1… 宮崎 康二(みやざき やすじ、1916年(大正5年)10月15日 - 1989年(平成元年)12月30日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100m自由形、800mリレーの金メダリスト。元・日本水泳連盟理事。 静岡県浜名郡吉津村(現在の湖西市)の出身。吉津尋常小学校を経て浜松一中(現・静岡県立浜松北高等学校)時代に15歳で1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。身長179cm、体重66kgの恵まれた体躯を生かし、100m自由形の予選で58秒7の日本新記録を樹立し、準決勝ではジョニー・ワイズミュラーの記録を破る58秒0の五輪新記録・日本新記録を打ち立てる。決勝では58秒2で金メダルを獲得、アメリカのこの種目の連勝を6でストップさせた。
新井 茂雄(あらい しげお、1916年〈大正5年〉8月8日 … 新井 茂雄(あらい しげお、1916年〈大正5年〉8月8日 - 1944年〈昭和19年〉7月19日)は、静岡県出身の日本の男子競泳選手。1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレー金メダリスト、100m自由形銅メダリスト。戦前の日本競泳界を牽引した選手のひとり。1941年に佐藤宣子と結婚したため、自身は「佐藤茂雄」とも名乗っていた。なお2人の間に一女が生まれているが、早世している。 静岡県沼津市出身。静岡県立浜松農蚕学校から立教大学へと進学し、1936年ベルリンオリンピック800メートルリレーで金メダルを、100メートル自由形で銅メダルを獲得した。特に800メートルリレーでは遊佐正憲、田口正治、杉浦重雄とチームを組み、新井はアンカーで泳ぎ2位のアメリカを大きく引き離して8分51秒5の世界新記録をマークするなどの圧勝ぶりでもあった。
小柳 富男(こやなぎ とみお、1916年(大正5年)8月2日… 小柳 富男(こやなぎ とみお、1916年(大正5年)8月2日 - 1971年(昭和46年)12月14日)は、日本の飛込競技選手。1936年ベルリンオリンピックに出場した。 1916年8月2日、福岡県に生まれる。大阪府立今宮中学校(現在の大阪府立今宮高等学校)を卒業し、早稲田大学に進学する。早稲田大学では競泳が一般的であった中で飛込競技の実力を大いに伸ばし、1935年8月6日にベルリンオリンピック飛込競技の日本代表となることが発表された。ベルリンオリンピックでは飛板飛込と高飛込の両方に出場し、飛板飛込で133.07点、高飛込で94.54点を獲得しいずれも8位となった。その後、1939年の日本選手権では高飛込で優勝、1940年の日本選手権では飛板飛込で優勝、1946年の日本選手権では再び高飛込で優勝した。
田口 正治(たぐち まさはる、1916年(大正5年)1月9日… 田口 正治(たぐち まさはる、1916年(大正5年)1月9日 - 1982年(昭和57年)6月29日)は、日本の水泳選手。専門は自由形。1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレー金メダリスト。 1916年(大正5年)1月9日、京都府出身。同志社大学在学時の昭和8年度第7回明治神宮体育大会水上競技大会の新人競技の部・男子100m自由形に出場して1分1秒6のタイムで優勝し、注目を集める。 同志社大学から立教大学へ転じて、立教大学在学中の1936年(昭和11年)日本選手権水泳競技大会の競泳男子200m自由形で2分14秒8のタイムで優勝。その年のベルリンオリンピック日本代表選手に選出される。 ベルリンオリンピックでは100メートル自由形で4位入賞を果たし、男子800メートルリレーで、遊佐正憲・杉浦重雄・新井茂雄と共に金メダルを獲得。
小池 禮三(こいけ れいぞう、1915年(大正4年)12月1… 小池 禮三(こいけ れいぞう、1915年(大正4年)12月12日 - 1998年(平成10年)8月3日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎの銀メダリスト。1936年ベルリンオリンピックの200m平泳ぎの銅メダリスト。オリンピック2大会連続でメダルを獲得。 静岡県沼津市出身。沼津商業時代に頭角を現した。 1932年ロサンゼルスオリンピックでは本命視されるも、体調を崩していたこともあり鶴田義行に次いで銀メダルを獲得した。 慶應義塾大学法学部政治学科に進学。200m平泳ぎで世界最高記録を樹立した。 1936年ベルリンオリンピックでは、葉室鐵夫、エルヴィン・ジータス(ドイツ)に次いで銅メダルを獲得した。
伊藤 三郎(いとう さぶろう、1915年7月18日 - 19… 伊藤 三郎(いとう さぶろう、1915年7月18日 - 1978年1月19日)は、日本の競泳選手。現役時代の種目は平泳ぎで、明治大学在学中に1936年ベルリンオリンピック日本代表のひとりとなり、男子200m平泳ぎ決勝で2分47秒6のタイムを出し、5位に入賞した。 静岡県磐田郡豊浜村(後の磐田市の南東部)出身。中泉農学校(後の静岡県立磐田農業高等学校の前身)から、明治大学に進んだ。 1938年に明治大学を卒業し、昭和製鋼所に入社と報じられた。 1941年、陸軍少尉となっていた伊藤は、第23軍第38師団の一員として香港島の戦いに参加した。そして、12月22日、戦闘中に銃創を負ったと報道された。 明治大学水泳部監督、日本水泳連盟常務理事、埼玉県水泳連盟副会長を歴任。
牧野 正蔵(まきの しょうぞう、1915年(大正4年)5月1… 牧野 正蔵(まきの しょうぞう、1915年(大正4年)5月15日 - 1987年(昭和62年)2月12日)は、日本の競泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの1500m自由形銀メダリスト、1936年ベルリンオリンピックの400m自由形銅メダリスト。400mおよび800m自由形で世界記録を更新した。 静岡県浜名郡鷲津町(現在の湖西市)出身。吉津尋常小学校(現 湖西市立鷲津小学校)に入学。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、男子100m自由形で金メダルを獲得した宮崎康二は吉津尋常小学校で牧野の1年後輩である。旧制静岡県立見付中学校(現在の静岡県立磐田南高等学校)から早稲田大学に進学する。
石原田 愿(いしはらだ すなお、1915年(大正4年)3月2… 石原田 愿(いしはらだ すなお、1915年(大正4年)3月24日 - 1987年(昭和62年)3月19日)は、昭和時代の競泳選手。 鹿児島県姶良郡福山村(福山町を経て現霧島市)に生まれる。旧制福山中学校(現 鹿児島県立福山高等学校)出身。 明治大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに競泳日本代表として男子1500m自由形に出場し4位に入賞した。つづく1936年ベルリンオリンピックでは前大会と同じく男子1500m自由形に出場し4位に入賞した。
遊佐 正憲(ゆさ まさのり、1915年(大正4年)1月20日… 遊佐 正憲(ゆさ まさのり、1915年(大正4年)1月20日 - 1975年(昭和50年)3月8日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの800mリレーで金メダル、1936年ベルリンオリンピックの800mリレーで金メダル、100m自由形で銀メダルを獲得した。 香川県仲多度郡多度津町の出身。旧制多度津中学校(現・香川県立多度津高等学校)から日本大学に進学、日大1年次の17歳で出場した1932年ロサンゼルスオリンピック800メートルリレーで宮崎康二、横山隆志、豊田久吉とチームを組んで金メダルを獲得する。この800mリレーの優勝を讃えられ、遊佐は宮崎、横山、豊田と共に1932年度の朝日賞体育部門(現・朝日スポーツ賞)を受賞した。
河津 憲太郎(かわつ けんたろう、1914年(大正3年)9月… 河津 憲太郎(かわつ けんたろう、1914年(大正3年)9月26日 - 1970年(昭和45年)3月24日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100メートル背泳ぎで銅メダルを獲得。明治大学出身。
長岡 三重子(ながおか みえこ、1914年〈大正3年〉7月3… 長岡 三重子(ながおか みえこ、1914年〈大正3年〉7月31日 - 2021年〈令和3年〉1月19日)は、日本の女子水泳選手、実業家、能楽師。 1914年7月31日、山口県徳山市(現在の周南市)で、商家の7人兄弟の次女として生まれる。勉強熱心な家庭で山口県立徳山高等女学校(現在の山口県立徳山高等学校)に進学。同校を卒業したのち、1938年(昭和13年)、23歳の時に長岡守治と結婚し、藁工品の卸問屋「田布施長岡本店」に嫁ぐ。その後、守治との間に2人の子(二男)を授かり、専業主婦として一家を支え続けた。 1968年(昭和43年)、夫・守治が56歳で死去。53歳で家業を継ぐこととなったが、当時藁工品から化学製品への移行期で藁工品は斜陽になりつつあった。
前畑 秀子(まえはた ひでこ、1914年〈大正3年〉5月20… 前畑 秀子(まえはた ひでこ、1914年〈大正3年〉5月20日 - 1995年〈平成7年〉2月24日)は、日本の水泳選手、日本初のオリンピック女子金メダリスト(1936年 ベルリンオリンピック)。位階は従四位勲三等、栄典は瑞宝章、紫綬褒章、文化功労者。和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)出身、結婚後は兵藤 秀子(ひょうどう ひでこ)として活動。戸籍名は「兵藤 ヒデ子」。橋本市名誉市民。 1914年(大正3年)和歌山県伊都郡橋本町で豆腐屋を営む家に生まれ、紀ノ川で泳ぎを覚える。尋常小学校5年生のとき女子50メートル (m) 平泳ぎで学童新記録を出し、高等小学校2年生のとき汎太平洋女子オリンピックに出場し100m平泳ぎで優勝、200m平泳ぎで準優勝した。
杉本 盛(すぎもと のぼる、1914年(大正3年)4月6日 … 杉本 盛(すぎもと のぼる、1914年(大正3年)4月6日 - 生没不明)は、昭和時代の競泳選手。 高知県に生まれる。日本大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに競泳日本代表として男子400m自由形に出場し5位に入賞した。
竹村 公良(たけむら きみよし、1914年(大正3年)1月2… 竹村 公良(たけむら きみよし、1914年(大正3年)1月21日 - )は、日本の競泳選手。 1914年1月21日、京都府に生まれる。早稲田大学政治経済学部在学中は東京府中野区に暮らした。1933年に50メートル自由形を26秒で泳ぎ、当時の日本記録を打ち立てた。1934年に開催された第10回極東選手権競技大会では50メートル自由形で26秒7の記録を出し優勝した。この年には26秒4の記録も出している。体形は痩せていたが、体を浮き気味にすることによって作り出す滑りやすい姿勢が持ち味であった。1938年に早稲田大学を卒業し、宝塚第一ホテルに就職した。その後、取締役企画部長、常務営業部長を経て、1954年に常務に就任した。
松澤 初穂(まつざわ はつほ、1914年1月8日 - 201… 松澤 初穂(まつざわ はつほ、1914年1月8日 - 2011年1月1日)は、京都府出身の元女子水泳選手。1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックに競泳女子代表として出場した。 舞鶴市に生まれる。父は大日本帝国海軍の軍人であり、一時横須賀市に移ったが、関東大震災のため舞鶴に戻った。水泳に取り組むきっかけは、高等女学校3年のときに訪れた。父の退役に伴い転校した市岡高等女学校(現在の大阪府立港高等学校)には、プールと水泳部があり、当時の水泳部顧問にクロール泳法を習ってめざましい進歩を見せた。翌年、大阪府立女子校の水泳大会に出場して50メートル自由形で日本記録に並ぶ好記録を出し、さらに次の年には50メートル自由形及び100メートル自由形で日本新記録を出していた。
鎌倉 悦子(かまくら えつこ、1914年(大正3年) - )… 鎌倉 悦子(かまくら えつこ、1914年(大正3年) - )とは、日本の飛込競技選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1914年、大阪府に生まれる。大阪府立清水谷高等女学校(現在の大阪府立清水谷高等学校)在学中の1932年、全日本水上選手権の女子飛板飛込・高飛込で優勝し、ロサンゼルスオリンピックの飛込競技の日本代表となり、女子飛板飛込・女子高飛込に出場した。日本人の女子がオリンピックの飛込競技に出場するのは初めてのことであった。予選を通過した後の決勝では、前飛込・後飛込で好成績を残した一方、前半捻りや選択飛込の得点が伸び悩んだため、入賞を逃した。結果は飛板飛込が60.78点で7位、高飛込が31.36点で6位であった。
横山 隆志(よこやま たかし、1913年(大正2年)12月2… 横山 隆志(よこやま たかし、1913年(大正2年)12月24日 - 1945年(昭和20年)4月14日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック800メートルリレーで金メダルを獲得した選手である。 1913年、高知県高知市出身。1931年に高知市立高知商業学校(現・高知市立高知商業高等学校)を卒業し、早稲田大学商学部に進学。 1931年8月、日本で開催された日米対抗水上競技大会では800m自由形で10分25秒2のタイムで牧野正蔵らを抑えて優勝。 1932年ロサンゼルスオリンピック代表に選出され、大会本番では400メートル自由形では4位入賞を果たし、男子800メートルリレーで宮崎康二、遊佐正憲、豊田久吉と共に金メダルを獲得した。