志村 正順(しむら せいじゅん 本名:表記同じく「しむら ま… 志村 正順(しむら せいじゅん 本名:表記同じく「しむら まさより」、1913年10月2日 - 2007年12月1日)は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。NHKで主に大相撲、プロ野球等のスポーツ実況中継を担当した。 東京府北豊島郡南千住町(現・東京都荒川区南千住)の乾物・雑穀商「川萬商店」に生まれる。出生時の名は「正二」。日大付属中卒業後の1931年、一時僧侶を志し、大正大学予科に通うかたわら、滋賀県甲賀郡大原村(現・甲賀市)の親類の寺院で得度し、「正順」と改名するが、明治大学政治経済学部進学のため還俗している(のちも名を正二に戻さず、「まさより」ないし「せいじゅん」で通した)。 明大卒業後の1936年、ミシンの外交販売員を経て、NHKのアナウンサー採用試験に合格し、入局。
飛島 斉(とびじま ひとし、1912年10月2日 - 200… 飛島 斉(とびじま ひとし、1912年10月2日 - 2006年4月11日 )は、日本の経営者。飛島建設社長、会長を務めた。 福井県出身。1937年に東北帝国大学工学部化学工学科を卒業し、同年に飛島組(のちの飛島建設)に入社した。1943年8月に社長に就任し、1985年6月に会長に就任。1991年6月に再び社長に就任し、1994年4月に相談役を経て、1998年6月には相談役に就任。 1974年11月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2006年4月11日、急性心不全のために死去。93歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
高嶋 雄三郎(たかしま ゆうざぶろう、1911年10月2日 … 高嶋 雄三郎(たかしま ゆうざぶろう、1911年10月2日 - 1993年6月27日)は、医療研究家、文筆家。 東京市小石川区(現:東京都文京区)に東洋大学学長などを務めた高島米峰の三男として生まれる。東京府立第五中学校を経て、法政大学文学部国文科卒。東京宝塚劇場文芸部勤務、1939年中央公論社勤務、1949年学風書院を創設。健康雑誌『主治医』編集長、日本植物友の会参与、松葉を食べる会主宰。
武谷 三男(たけたに みつお、1911年(明治44年)10月… 武谷 三男(たけたに みつお、1911年(明治44年)10月2日 - 2000年(平成12年)4月22日)は、日本の理論物理学者。理学博士。三段階論、技術論で知られる。 福岡県生まれ。台北高等学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業後、湯川秀樹、坂田昌一の共同研究者として、原子核・素粒子論の研究を進めた。その一方、中井正一、久野収らと共に、反ファシズムを標榜する雑誌『世界文化』『土曜日』に参加するなどしたため、2度にわたって検挙された。戦時下には理化学研究所を中心とする原子爆弾の開発(ニ号研究)にも関わっていた。1943年にロシア人医師ピニロピ(バルチック艦隊艦長の孫。後に武谷病院を開設)と結婚。 終戦後は、鶴見俊輔らと『思想の科学』を創刊。
相川 泰吉(あいかわ たいきち、1911年10月2日 - 1… 相川 泰吉(あいかわ たいきち、1911年10月2日 - 1982年11月28日)は、日本の経営者。東京都出身。 旧制成蹊中学校を経て、1936年に東京商科大学を卒業し、後に三菱江戸川化学(のちの三菱ガス化学)に入社。取締役、1964年5月に常務、1970年5月に専務を経て、1973年11月に副社長に就任し、1975年5月に社長に昇格した。 1956年のメルボルンオリンピックと1964年の東京オリンピックで馬術チームの監督も務めた。第4回全日本学生馬術選手権大会で優勝。子・相川一成も成蹊学園出身の第32回全日本学生馬術選手権大会優勝者であり、親子2代の優勝が報道された。 1982年11月28日肺炎のために死去。
塚原 俊郎(つかはら としお、1910年10月2日 - 19… 塚原 俊郎(つかはら としお、1910年10月2日 - 1975年12月7日)は、日本の政治家。総理府総務長官・労働大臣。正三位勲一等。通商産業大臣を務めた塚原俊平は長男。 現在の茨城県常陸太田市に、下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)や太田中学校(現在の茨城県立太田第一高等学校)などの校長を歴任し、茨城教育界で名校長として知られた教育者・塚原末吉の二男として生まれる。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)、水戸高等学校を経て、1935年東京帝国大学文学部社会学科を卒業後、同盟通信社に入社し10年間の記者生活を送る。 戦後は官界に転じ、情報局情報官、内務省地方局世論調査課長を務めた後、1947年増田甲子七運輸大臣秘書官となる。
小倉 武一(おぐら たけかず、1910年〈明治43年〉10月… 小倉 武一(おぐら たけかず、1910年〈明治43年〉10月2日 - 2002年〈平成14年〉2月14日)は、日本の農林官僚、経済学者。 農林事務次官、政府税制調査会会長などを歴任した。特に、政府税制調査会会長は16年間を務め,「ミスター税調」と呼ばれた。旧姓は大井。著作に『土地立法の史的考察』など。 長男は元国際交流基金理事長で外交官の小倉和夫。三男は社会学者で津田塾大学名誉教授の小倉充夫。
竹内 好(たけうち よしみ、1910年(明治43年)10月2… 竹内 好(たけうち よしみ、1910年(明治43年)10月2日 - 1977年(昭和52年)3月3日)は、日本の中国文学者。文芸評論家。魯迅の研究・翻訳や、日中関係論、日本文化などの問題をめぐり言論界で、多くの評論発言を行った。
橘 喜久子(たちばな きくこ、1909年10月2日 - 19… 橘 喜久子(たちばな きくこ、1909年10月2日 - 1968年12月5日)は、日本の女優。女優の大山デブ子は妹。 本名、石川政子。大阪市東区出身。1924年、松竹下加茂撮影所へ入社。「繞る秘密」(ヘンリー小谷監督)でデビュー。1925年、蒲田に移り、「孔雀の光」全6編でヒロインを演じたが、病気退社。1927年ヤマト映画製作所、1928年河合映画に入社する。葉山純之輔、雲井竜之介らの相手役で現・時代劇に出演し、1933年大都映画に改称後も多くの作品に助演。1942年合併で大映東京撮影所に所属し、1967年「早射ち犬」を最後に引退した。1968年12月5日、59歳で死去した。
大石 貞治(おおいし さだじ、1909年(明治42年)10月… 大石 貞治(おおいし さだじ、1909年(明治42年)10月2日 - 1989年3月2日))は、日本の実業家。三笑亭本店代表取締役社長。静岡県食肉事業協同組合連合会相談役。 静岡県静岡市両替町出身。大石善吉の長男。静岡県立静岡中学校卒業。三笑亭代表取締役社長、静岡県食肉事業協同組合連合会長、同環境衛生同業組合理事長、静岡県食料品小売商業組合監事、日本食肉協会副会長を務めた。 趣味はスポーツ観賞。宗教は浄土宗。住所は静岡市両替町2丁目。
平野 順次(ひらの じゅんじ、1909年10月2日 - 19… 平野 順次(ひらの じゅんじ、1909年10月2日 - 1990年9月13日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長を務めた。 和歌山県出身。1933年に京都帝国大学哲学科を卒業し、1939年に栗本鐵工所に入社。1961年5月に取締役に就任し、1966年11月に専務を経て、1967年10月には社長に就任。1981年6月から1985年6月までに会長を務めた。 1990年9月13日、肺炎のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
岡田 章雄(おかだ あきお、1908年〈明治41年〉10月2… 岡田 章雄(おかだ あきお、1908年〈明治41年〉10月2日 - 1982年〈昭和57年〉3月18日)は、日本の歴史学者。中世後期から近世初頭にかけての日本と西洋の交流史が専門。東京大学史料編纂所教授、青山学院大学教授を歴任。 1908年(明治41年)群馬県前橋市に生まれる。群馬県師範学校附属小学校を経て、群馬県立前橋中学校に入学し埼玉県立浦和中学校へ転校。旧制浦和高等学校を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学文学部国史科を卒業。 大学卒業とともに大倉精神文化研究所副本作成部国書校正係嘱託となる。1933年(昭和8年)東京大学史料編纂所嘱託として入所。この頃から歴史地理学会の委員として『歴史地理』の編集に携わる。
金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 19… 金沢 嘉市(かなざわ かいち、1908年10月2日 - 1986年10月10日)は、日本の教育者・教育評論家。 愛知県出身。41年の教員生活で世田谷区立祖師谷小学校校長などを務め、定年後には「児童教育研究家」の肩書で活動した。 1908年(明治41年)10月2日に愛知県宝飯郡蒲郡町平田村(現・蒲郡市平田町)に生まれた。父親は平田村の副区長や区長を務めた。1915年(大正4年)に蒲郡町立東部小学校に入学し、1921年(大正10年)に宝飯郡実業学校(その後愛知県立蒲郡農学校に改称、現在の愛知県立蒲郡高等学校)に入学して教員の道を目指した。1927年(昭和2年)に東京の青山師範学校二部(東京学芸大学の前身)に入学し、1928年(昭和3年)に青山師範学校を卒業して小学校教師となった。
増田 四郎(ますだ しろう、1908年(明治41年)10月2… 増田 四郎(ますだ しろう、1908年(明治41年)10月2日 - 1997年(平成9年)6月22日)は、日本の歴史学者。一橋大学名誉教授。第5代一橋大学学長、東京経済大学理事長。日本学士院会員。文化勲章受章者。位階は従三位。日本学術振興会会長、国立大学協会副会長等を歴任。 専門は西洋史、西洋経済史。西洋社会・経済史の変遷を、実証研究と比較社会史・地域史の方法論を用いて研究した。 1908年、奈良県山辺郡波多野村(後の山添村)生まれ。旧制上野中学校(後の三重県立上野高等学校)卒業後、東京商科大学付属商業教員養成所入学。1932年東京商科大学(後の一橋大学)卒業。学部では日本経済史を専攻し、幸田成友の指導を受ける。
横山 復次(よこやま またつぐ、1908年(明治41年)10… 横山 復次(よこやま またつぐ、1908年(明治41年)10月2日 - 1990-93年(平成2-5年) )は、日本の薬学者であり教育者でもある。長崎医科大学教授(現・長崎大学医学部)を務めた後、岐阜薬科大学教授、エーザイ研究所長 。長崎医科大学時代に長崎原爆を経験した。岡山県出身。 1908年(明治43年)に岡山県に生まれる。その後、1923年(大正12年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学、卒業を経て、1928年(昭和3年)第一高等学校理科乙類へ入学し、1931年(昭和6年)同校を卒業。同年に東京帝国大学医学部薬学科へ入学、1934年(昭和9年)3月に同大学を卒業し、助手として京都帝国大学薬学科で薬学研究を続けた。
伊吹 知勢(いぶき ちせ、1906年(明治39年)10月2日… 伊吹 知勢(いぶき ちせ、1906年(明治39年)10月2日 - 1983年(昭和58年)4月11日)は、日本の英文学者、お茶の水女子大学名誉教授。戦前に2つの日本の大学を卒業する。その後、渡米しカリフォルニア大学ロサンゼルス校英文科に学ぶ。帰国後、大学教授としてジェイン・オースティン、ヴァージニア・ウルフなどを研究・翻訳した。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 1906年(明治39年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の父・伊吹岩五郎、母・美志の四女として出生する。親戚には、群馬大学医学部教授の伊吹令人がいる。1923年(大正12年)3月、16歳のとき、地元の岡山県立順正高等女学校(現:岡山県立高梁高等学校家政科)を卒業する。
円地 文子(えんち ふみこ、1905年(明治38年)10月2… 円地 文子(えんち ふみこ、1905年(明治38年)10月2日 - 1986年(昭和61年)11月14日)は、日本の小説家。本名:圓地 富美(えんち ふみ)。上田萬年の二女。戯曲から小説に転じ、『ひもじい月日』で文壇に地位を確立。江戸末期の頽廃的な耽美文芸の影響を受け、抑圧された女の業や執念を描いて古典的妖艶美に到達。戦後の女流文壇の第一人者として高く評価された。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 1905年10月2日、東京府東京市浅草区向柳原2-3(現・台東区浅草橋)に、父上田萬年(38歳)、母鶴子(29歳)の二女として生まれる。本名富美。家族は他に、父方の祖母いね(66歳)、兄寿(8歳)、姉千代(4歳)がおり、さらに女中、書生、兄の乳母、抱え車夫の夫婦などがいた。
福村 利明(ふくむら としあき、1905年(明治38年)10… 福村 利明(ふくむら としあき、1905年(明治38年)10月2日 - 1944年(昭和19年)5月15日)は、日本の海軍軍人。海兵54期卒。戦死による二階級特進で、最終階級は海軍少将。 熊本県出身。1905年(明治38年)10月2日、福村卯吉の二男として生まれる。中学済々黌の出身で、林正義は同級生であった。のち林とともに王師会の結成に加わる。1926年(大正15年)3月、海軍兵学校(54期)卒業。1927年(昭和2年)10月、海軍少尉に任官。1929年(昭和4年)11月、海軍中尉に昇進し第一遣外艦隊司令部付となる。 1930年(昭和5年)4月、霧島乗組となり、出雲乗組、第5駆逐隊付、波風乗組、第3艦隊司令部付、常磐乗組、安宅乗組を歴任。
宇都宮 清吉(うつのみや きよよし、1905年10月2日 -… 宇都宮 清吉(うつのみや きよよし、1905年10月2日 - 1998年)は、日本の東洋史学者。名古屋大学名誉教授。 愛知県出身。1931年京都帝国大学文学部東洋史学科卒。台北帝国大学予科教授、京都帝国大学助教授を経て1948年名古屋大学文学部教授に転じる。名古屋大学では谷川道雄と共に教授にあたっており、学界を牽引した。1969年定年退官、名誉教授、橘女子大学教授。中国中世史の研究会を主宰した。
佐竹 義利(さたけ よしとし、1904年10月2日 - 19… 佐竹 義利(さたけ よしとし、1904年10月2日 - 1989年1月19日)は、日本の実業家・華族(男爵)。東洋製作所社長。 佐竹東家(旧出羽秋田藩主・佐竹氏の分家)第23代当主・佐竹義準男爵の長男として東京府(現・東京都)に生まれた。1924年、父の死に伴い家督を継ぎ、男爵を襲爵。 東京高等師範学校附属中学校、旧制水戸高等学校を経て、1930年に東京帝国大学工学部航空工学科を卒業し、三菱航空機名古屋製作所に入社した。就職先に三菱系の企業を選んだのは妹の操子が三菱財閥の創業者一族・岩崎彦弥太に嫁いでいることが関係していたと考えられている。三菱重工業、東洋機器製作所勤務を経て東洋製作所の社長に就任。
大隅 健一郎(おおすみ けんいちろう、1904年10月2日 … 大隅 健一郎(おおすみ けんいちろう、1904年10月2日 - 1998年3月19日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1953年)(学位論文「株式会社法変遷論」)。京都大学名誉教授。最高裁判所裁判官。1973年勲一等瑞宝章受章、1977年日本学士院会員、1985年文化功労者、1993年文化勲章受章。愛知県蒲郡市出身。竹田省門下。弟子に上柳克郎、河本一郎、龍田節、川又良也など。 旧制岡崎中学校(現愛知県立岡崎高等学校)卒業。旧制第八高等学校(現名古屋大学)卒業。大学在学中に高等文官試験の行政科と司法科に合格。1928年に京都帝国大学法学部卒業。山田正三学部長の勧められて、京都帝国大学法学部助手となる。
佐藤 昌(さとう あきら、1903年10月2日 - 2003… 佐藤 昌(さとう あきら、1903年10月2日 - 2003年7月19日)は、日本の造園家。都市計画家。官庁造園技師として日本国内や戦前の満州で多くの公園緑地計画と都市の計画設計に携わる。ほか都市計画研究所主宰、音楽評論の分野でも活躍。
八原 博通(やはら ひろみち、1902年(明治35年) 10… 八原 博通(やはら ひろみち、1902年(明治35年) 10月2日 - 1981年(昭和56年)5月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。沖縄戦で第32軍の高級参謀として戦略持久作戦を立案、指揮した。アメリカ軍からは「すぐれた戦術家としての名声をほしいままにし、その判断には計画性があった」と高く評されている。 鳥取県米子市皆生出身。生家は養蚕農家(自作農)。父・八原宇三郎は役場吏員。 父・宇三郎の生家は村一番の地主ではあったが、次男の父は役場のささやかな給料、それに一町歩近い桑畑から上る養蚕の収入で生活をまかなっていた。水田や果樹園からの収入はごくわずかなもので、子どもがふえるに従い、自家飯米も確保できず、端境期には当時、南京米といった外米などを買わねばならぬといった状態だった。
熊谷 登久平(くまがい とくへい、本名:熊谷 徳兵衛、190… 熊谷 登久平(くまがい とくへい、本名:熊谷 徳兵衛、1901年10月2日 - 1968年11月24日)は、日本の洋画家、歌人。岩手県出身。 愛称は「とくさん」「熊公」「十九平/とくべえ」。 1901年(明治34年)10月2日、岩手県東磐井郡千厩町(現・一関市)出身。 1925年(大正14年)、中央大学商学部を卒業。学生時代に川端画学校に入り、藤島武二、富永勝重の指導を受ける。1924年(大正13年)修了。 1926年(大正15年)ごろ、長谷川利行を識り、親交を結ぶ。 1927年(昭和2年)、長谷川利行と二人展(反調和会展)を上野の山、言問通り沿いの額縁屋彩美堂と大地堂(木秋社)を会場として開催(企画段階では松尾恒夫(詳細不明、戦前の白日会展と1930年協会入選者に名がある)を含む三人展)。
只野 直三郎(ただの なおさぶろう、1900年〈明治33年〉… 只野 直三郎(ただの なおさぶろう、1900年〈明治33年〉10月2日 - 1984年〈昭和59年〉9月26日)は、日本の政治家、衆議院議員 (3期)。陸軍司政官。 宮城県大崎市出身。1932年(昭和7年)、東北帝国大学法文学部を卒業。東北中学の教諭や東北薬学専門学校の講師を経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙に非推薦で立候補したが落選した。同年、陸軍司政官となった。他にも東北中学・商業学校校長代理や東北農学校長などの役職を務め、1946年(昭和21年)に日本人民党を結成して党首となった。同党は実質的に只野の個人政党であったが、1947年(昭和22年)第23回衆議院議員総選挙に宮城1区から立候補し初当選した。
黛 治夫(まゆずみ はるお、1899年10月2日 - 199… 黛 治夫(まゆずみ はるお、1899年10月2日 - 1992年10月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。ビハール号事件におけるBC級戦犯として禁錮刑に処された。 1899年10月2日、群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)で、養蚕製糸業を営む父・治良と母・かよの長男として生れる。姉・邦子は後に内田市太郎(最終階級は海軍大佐)と結婚している。富岡中学校、横浜一中を経て、1919年10月、海軍兵学校(47期)を卒業し、少尉候補生として練習航海に出発。1920年8月1日、海軍少尉に任官。1925年11月、海軍砲術学校高等科を卒業、「伊勢」分隊長となる。1926年11月、海軍砲術学校教官兼分隊長に任命。
松本 重治(まつもと しげはる、1899年〈明治32年〉10… 松本 重治(まつもと しげはる、1899年〈明治32年〉10月2日 - 1989年〈平成元年〉1月10日)は、日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」(東京都港区六本木)の専務理事。理事長。アメリカ学会の会長。
工藤 良一( くどう りょういち、1896年10月2日 - … 工藤 良一( くどう りょういち、1896年10月2日 - 1959年1月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
岩城 秀哉(いわき ひでや、1895年10月2日 - 没年不… 岩城 秀哉(いわき ひでや、1895年10月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は中家 秀一(なかや ひでかず)。旧芸名は岩城 秀雄(いわき ひでお)。 1895年(明治28年)10月2日、兵庫県神戸市山本通(現在の同県同市中央区山本通)に生まれる。関西学院中学部卒業後、早稲田大学英文科に進学する。 早稲田大学2年修了(中退)後、海運業輸出部主任を務めていたが、1917年(大正6年)、岩城秀雄という芸名で新国劇創立と共に同劇団に入団。以降、主に端役・脇役として出演するが、1922年(大正11年)頃からは岩城秀哉と改名して活動している。1924年(大正13年)1月、帝国キネマへ入社。同年2月7日に公開された佐藤紅緑原作の松本英一監督映画『大盗伝』や、同年4月2日に公開された若山治監督映画『肉弾』など、悪役俳優として活躍していたが、出演配役に岩城の名前は見当たらず、岩城自身も少々不平があったようである。
熊谷 憲一(くまがい けんいち、1895年(明治28年)10… 熊谷 憲一(くまがい けんいち、1895年(明治28年)10月2日 - 1956年(昭和31年)10月9日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、北海道庁長官、衆議院議員。 福岡県出身。裁判所吏員・熊谷澄の長男として生まれる。小倉中学、第五高等学校を経て、1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1919年(大正8年)10月、高等試験行政科試験に合格し、1920年(大正9年)10月、農商務省に入り農商務属となり工務局労働課兼工務課勤務となる。1922年(大正11年)11月、内務省に転じ内務省社会局属として第二部保険課に配属された。その後、保険部経理課長、社会局庶務課長、大臣官房会計課長、厚生省職業部長などを歴任。
上条 愛一(上條、かみじょう あいいち、1894年(明治27… 上条 愛一(上條、かみじょう あいいち、1894年(明治27年)10月2日 - 1969年(昭和44年)2月18日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 長野県東筑摩郡今井村(現:松本市)で生まれた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)卒業後、代用教員を経て、1920年、早稲田大学政治経済科を卒業。同年、読売新聞社に記者として入社した。 1920年、大日本労働総同盟友愛会東京連合会書記に就任。1925年、第7回国際労働総会に日本労働代表随員として渡欧した。その後、日本労農党、日本労働組合同盟の結成に参画し、1936年、日本労働組合会議書記長に就任した。 戦後、日本社会党に入党し、日本労働組合総同盟(総同盟)全繊同盟総主事、総同盟副会長、中央労働委員会労働者側委員、全繊同盟政治顧問などを歴任した。
加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日… 加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日 - 平成元年(1989年)3月29日)は、日本の化学者。理学博士。日本の女性科学者の草分けの一人。元理化学研究所主任研究員。上野学園大学名誉教授。山形県東田川郡三川町名誉町民。
清水 郁子(しみず いくこ、1892年10月2日 - 196… 清水 郁子(しみず いくこ、1892年10月2日 - 1964年6月24日)は、教育学者、教育者、教育評論家・女性問題評論家。崇貞学園経営者、桜美林学園創立者、桜美林学園初代学園長。旧姓小泉。 1892年10月、島根県松江市に生まれる。1895年、弟の誕生後、菅浦の漁民の家の里子となり、幼少期を過ごすが、学齢期を迎えて実家にもどり、尋常小学校に入学した。 小学生時に教会へ通いキリスト教と出会った。地元の中学校卒業後は上京し東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)へ進学、1915年の卒業間近にキリスト教の洗礼を受ける。 東京女子高等師範学校在学中に平塚らいてう他の「青鞜社」の運動に啓発され、女性問題、男子との社会的平等思想に関心を持つようになる。
額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年)10月… 額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年)10月2日 - 昭和23年(1948年)12月21日)は、日本の劇作家・大衆小説作家。岡本綺堂の高弟。翻訳家、額田やえ子の父。 岡山県勝南郡勝田村(現在の勝田郡勝央町)に生まれた。本来の名前はむつとみ。5男2女の末子であった。勝間田尋常小学校のとき父を亡くしたが、家は豊かであった。勝南高等小学校を経て、明治37年(1904年)、津山中学へ進んだが、校則に触れ、京都市の立命館中学へ転じた。 明治41年(1908年)17歳のとき、結核性関節炎になり、翌年右腕切断の手術を受けた。脊髄カリエスも病んだ。 明治44年の「演藝画報」誌の懸賞に、勝間田町から『踏絵』を応募して落選したが、その選者岡本綺堂に、入門を願って快諾を得、原稿を送り添削を受け推敲を重ねるという、通信指導を受けた。
堀川 浪之助(ほりかわ なみのすけ、1888年10月2日 -… 堀川 浪之助(ほりかわ なみのすけ、1888年10月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名近藤 浪之助(こんどう なみのすけ)。松竹蒲田撮影所での主演俳優として、第2期の阪東妻三郎プロダクションの助演俳優として知られる。 1888年(明治21年)10月2日、東京府荏原郡品川町南品川(現在の東京都品川区南品川)に生まれる。 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)によれば、旧制・大倉商業学校(現在の東京経済大学)を卒業、1910年(明治43年)、井上正夫の一門に加わる。『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』(揚幕社)によれば、初舞台は1909年(明治42年)に井上正夫一座が有楽座(現在の丸の内ピカデリー[要検証 – ノート])で上演した「新時代劇」である旨が記されている。
朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年〈明治2… 朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年〈明治20年〉10月2日 - 1981年〈昭和56年〉4月12日)、または朝香 鳩彦(あさか やすひこ)は、日本の旧皇族。旧陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第8王子。明治39年3月、朝香宮家を創設。妃は明治天皇第8皇女允子内親王。兄に久邇宮邦彦王、梨本宮守正王、弟に東久邇宮稔彦王。長男孚彦王、二男音羽正彦。1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱した。最終階級は陸軍大将。勲等は大勲位功一級。「ゴルフの宮様」と呼ばれた。第125代天皇明仁の大叔父にあたる。陸軍大将であったため、朝香大将宮殿下(あさかたいしょうのみやでんか)とも呼ばれた。 1887年(明治20年)10月、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、1906年(明治39年)3月に朝香宮家を創設。
松村 蒼石(まつむら そうせき、1887年10月2日 - 1… 松村 蒼石(まつむら そうせき、1887年10月2日 - 1982年1月8日)は、滋賀県出身の俳人。本名は増次郎。滋賀県蒲生郡清水鼻(現東近江市)生。13歳で京都の織物問屋へ奉公に出る。17歳の頃より新聞の俳句欄に投句。1906年より東京の支店に勤務し作句を中断したが、関東大震災に被災した後再開。「鹿火屋」「枯野」に投句ののち、1925年に「雲母」に入会、飯田蛇笏、龍太に師事する。戦後は「玉虫」を発行。「雲母」にて1966年および1973年に山廬賞を受賞。1973年、句集『雪』その他の業績により第7回蛇笏賞を受賞。代表句に「たわたわと薄氷に乗る鴨の脚」など。句集に『寒鶯集』(1950年)、『露』(1960年)、『春霞』(1967年)、『雪』(1972年)、『雁』(1975年)がある。
石崎 伝蔵(いしざき でんぞう、旧字体: 石崎 傳藏、188… 石崎 伝蔵(いしざき でんぞう、旧字体: 石崎 傳藏、1886年(明治19年)10月2日 - 1999年(平成11年)4月29日)は、日本の教育者で同国最高齢だった男性。 旧制・茨城縣立太田中學校(現在の茨城県立太田第一高等学校)を卒業後、大里尋常小学校の教員となり、、茨城県内の旧制高等小学校の校長などを務めた。1912年に結婚し、2男2女の子がいた。1928年3月に退職後青年会長、村会議員等に就いた。第二次世界大戦後の1946年に妻は死去した。生前、健康の秘訣は「1日5000回の足踏み、風呂はぬるめ、肉ならば牛」と語っていた。1日最低5時間は読書にあてるという活字好きで、長女と2人暮らしだったが、1997年6月頃より歩行が不自由となり、1999年3月頃より体調を崩して自宅療養していた。
小沢 治三郎(旧字体: 小澤 治三郞、おざわ じさぶろう、1… 小沢 治三郎(旧字体: 小澤 治三郞、おざわ じさぶろう、1886年(明治19年)10月2日 - 1966年(昭和41年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海兵37期。第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。 1886年(明治19年)10月2日、宮崎県児湯郡高鍋町24で元高鍋藩士の小沢寅太郎とヤツの次男として生まれる。宮崎中学(現・県立宮崎大宮高校)に在学中、不良青年と争いになり柔道の投げ技で撃退したが、暴力沙汰として退学処分となる。陸軍軍人だった兄・宇一郎の上官・牛島貞雄から日露戦争の戦場満州より「過ちを改むるに憚ること勿れ」(論語 学而第一 8からの引用)の手紙を送られた事をきっかけに上京し、1905年に成城中学校へ転入した。
小池 正彪(こいけ まさとら、明治18年(1885年)10月… 小池 正彪(こいけ まさとら、明治18年(1885年)10月2日 - 昭和36年(1961年)3月31日)は男爵・小池正直の次男。東京市小石川(現・東京都文京区小石川)出身。三井信託会長を経て、1943年に引責辞任した向井忠晴三井物産会長の後任に内定していた住井辰男が、健康上の理由で就任を辞退したため、急遽三井物産会長に就任した。1944年退任し三井本社・代表取締役常務理事に就任。戦後、公職追放となる。
進藤 甲兵(しんどう こうへい、1884年(明治17年)10… 進藤 甲兵(しんどう こうへい、1884年(明治17年)10月2日 - 1942年(昭和17年)1月25日)は、大正から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。東邦電力常務や九州鉄道(現・西日本鉄道)社長などを務めた。山梨県出身。 進藤甲兵は1884年(明治17年)10月2日、山梨県北巨摩郡小淵沢村(現・北杜市)にて進藤利貞の次男として生まれた。はじめ「広平」と名乗っていたが、1913年(大正2年)分家とともに「甲兵」に改めている。生家の進藤家は土地の名家で、甲兵が生まれた当時はアメリカの商社の特約店として肥料商を営んでおり、裕福な家であった。兄の長重は陸軍士官学校を卒業して陸軍軍人となったが、日露戦争中の1904年(明治37年)に南山の戦いで戦死した。
粟山 博(もみやま ひろし 1884年〈明治17年〉10月2… 粟山 博(もみやま ひろし 1884年〈明治17年〉10月2日 - 1959年〈昭和34年〉9月20日)は日本の政治家。衆議院議員(10期)。位階は正四位。勲等は勲二等。 戦前は憲政会・立憲民政党に所属したが、戦後に公職追放された。追放の解除後は、旧民政党左派の松村謙三・鶴見祐輔・小山邦太郎・中村三之丞・松浦周太郎・川崎末五郎らと行動を共にした。政界復帰(1952年)の後は、改進党・日本民主党に所属した。日本民主党が保守合同した後は、自由民主党にて松村・三木派に所属した。 1884年(明治17年)、福島県安積郡(現在の郡山市富久山町)に生まれる。 1911年(明治44年)、第10回衆議院議員総選挙補欠選挙に出馬していた古島一雄の選挙を手伝う。
小野 義夫(おの よしお、1880年(明治13年)10月2日… 小野 義夫(おの よしお、1880年(明治13年)10月2日 - 1956年(昭和31年)10月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員。 大分県大分郡、のちの南庄内村(庄内村、庄内町を経て現由布市)で、小野同雲の二男として生まれる。大分県立大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1905年(明治38年)早稲田大学法科を卒業した。 神奈川県の依頼で満州の利源調査委員に就任し、絹、綿の調査を実施し、そのことがきっかけで1907年(明治40年)古河鉱業(現古河機械金属)に入社し、本社課長を務めた。ラサ島燐礦株式会社(現ラサ工業)の債務整理で実績を上げ、同社常務取締役、古河鉱業重役、関西硫酸監査役などを務めた。
久野 尊資(くの たかすけ / たかし、1880年(明治13… 久野 尊資(くの たかすけ / たかし、1880年(明治13年)10月2日 - 1939年(昭和14年)2月17日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、愛知県会議長、愛知県知多郡加木屋村長、同郡横須賀町長。 愛知県知多郡加木屋村(横須賀町を経て現東海市加木屋町)で、久野浅右衛門の長男として生まれる。1890年(明治23年)愛知県尋常師範学校(のち愛知第一師範学校)を卒業した。その後、教員となり加木屋小学校長を務めて退職。1905年(明治38年)家督を相続し農業を営む。 加木屋村長、横須賀町会議員、同町長、知多郡会議員、愛知県会議員、同参事会員、同議長などを務めた。1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙で愛知県第2区から立憲民政党公認で出馬して当選し、その後、第一控室会に所属して衆議院議員に1期在任した。
相原 四郎(あいばら しろう、1879年(明治12年)10月… 相原 四郎(あいばら しろう、1879年(明治12年)10月2日 - 1911年(明治44年)1月8日)は、日本の海軍軍人。 日本海軍の最初の搭乗員であり、また日本初の航空事故犠牲者とする見解もある。相原は仏海軍士官ル・プリウール、田中舘愛橘と協力して日本で最初のグライダー製作および飛行の成功に貢献し自らも搭乗した。この成功は日本における航空工学に則った機体飛行の最初の事例であった。最終階級は海軍大尉。 現在の愛媛県松山市に生まれる。農業を営む父相原久米兵衛、母信の間に生まれた第四子で長男であった。松山中学在学中に父を失った相原は、海軍予備校として知られた攻玉社に転じ、1898年(明治31年)海軍兵学校に入校した。
遠藤 隆吉(えんどう りゅうきち、1874年〈明治7年〉10… 遠藤 隆吉(えんどう りゅうきち、1874年〈明治7年〉10月2日 - 1946年〈昭和21年〉2月5日)は、日本の思想家、社会学者、教育者。私立巣鴨学園の創設者である。 1874年(明治7年)前橋藩の下級士族・遠藤千次郎、はる夫妻の長男として現在の群馬県前橋市神明町で生まれた。父・千次郎は福澤諭吉の思想に共鳴していた。隆吉は桃井学校に学び、1892年(明治25年)群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業した。第一高等学校に進学し、1896年(明治29年)に卒業。東京帝国大学文科大学哲学科に進んで、1899年(明治32年)に卒業。同校学長の井上哲次郎、心理学教授・元良勇次郎、外国人教師・ケーベルから強く影響を受けた。
登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2… 登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2日 - 1955年(昭和30年)1月6日)は、日本のドイツ文学者、評論家。本名、信一郎(しんいちろう)。 広島県佐伯郡津久茂村(現・江田島市江田島町津久茂)生まれ。広島中学(現広島国泰寺高校)、山口高等中学校を経て東京帝国大学卒業(1897年)。母校旧制山口高校教授として赴任、当時の同僚に西田幾多郎、教え子にやがて法科に転じた河上肇やドイツ文学者として知られた片山孤村がいる。1901年、高山樗牛が「美的生活論」を発表すると、「美的生活論とニイチエ」を発表して樗牛に賛同し「美的生活論争」を惹き起こした。1902年『ニイチェと二詩人』『気焔録』でニーチェ主義を標榜する。
島谷 敏郎(しまたに としろう、1873年(明治6年)10月… 島谷 敏郎(しまたに としろう、1873年(明治6年)10月2日 - 1940年(昭和15年)8月18日)は、日本の教育者。 広島県佐伯郡廿日市町(現在の廿日市市)出身。1897年(明治30年)、商船学校(のち東京高等商船学校)機関科を卒業。翌1898年(明治31年)、商船学校教諭となり、1903年(明治36年)から1905年(明治38年)まで機関学研究のためイギリスに留学した。帰国とともに教授となり、1923年(大正12年)に教頭に、1925年(大正15年)には校長に就任した。1936年(昭和11年)に退官し、東京高等商船学校名誉教授の称号を得た。 逓信省技師・地方海員審判所審判官・高等海員審判所審判官を兼ねたほか、帝国水難救済会評議員・造船協会評議員・日本海員掖済会理事などを務めた。
三木 竹二(みき たけじ、慶応3年9月5日(1867年10月… 三木 竹二(みき たけじ、慶応3年9月5日(1867年10月2日) - 明治41年(1908年)1月10日)は、明治の劇評家で、医師。本名は森 篤次郎(もり とくじろう)。兄は小説家の森鷗外、妹は翻訳家・歌人・随筆家の小金井喜美子。 大政奉還の直前、石見国津和野に津和野藩医・森静泰(のちに静男と改名)と峰子の間に次男として生まれた。廃藩置県などによって5歳のときに上京する。子供の頃は、鷗外よりも才があったという[要出典]。 12歳の頃、男爵の河田佐久馬(旧鳥取藩士、元老院議官で1887年子爵に叙せられた)に大変気に入られて養子縁組が決まり、本人もその気になっていた。しかし、親戚から横槍が入った河田家が財産譲与額の変更を第三者を介して伝えてくると、金のことを問題にしたことと、それを人の口を介して告げてきた誠意のない態度に若い鷗外が激怒して破談となった。
堀 三太郎(ほり さんたろう、1866年10月2日(慶応2年… 堀 三太郎(ほり さんたろう、1866年10月2日(慶応2年8月24日)- 1958年(昭和33年)7月19日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・瓜生。筑豊の五大炭鉱主と称された。 筑前国鞍手郡、のちの福岡県鞍手郡直方町新町(現直方市)で、醤油醸造業・瓜生幾次の長男として生まれる。小学校の課程を修了すると私塾で漢文学、数学を修めた。1886年(明治19年)8月、先代亡堀甚四郎の養子となり死跡を相続した。 1889年(明治22年)小竹町の御徳炭鉱の経営を始め、付近の海軍鉱区の払下げを受け、当時、直鞍地区随一の炭鉱に発展した。さらに本洞(直方)、若瀬(中間)、平山(嘉穂)、中津川(田川)、篠栗(篠栗)の各炭鉱を買収し、堀鉱業を設立し代表取締役となる。