板沢 武雄(いたざわ たけお、1895年1月5日 - 196… 板沢 武雄(いたざわ たけお、1895年1月5日 - 1962年7月15日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授・法政大学教授を歴任。専門は、日本近世史・日蘭貿易史。 1895年(明治28年)1月5日に岩手県南閉伊郡釜石町(現・釜石市)の天台寺門宗の名刹観音寺住持・板沢真小雄と喜智の五男として生まれた。旧制遠野中学校に入学し、中学時代に『台湾文化志』の著者・伊能嘉矩の家に寄寓してその感化を受け、これがのちに歴史学を志す契機となった。中学卒業後に第二高等学校に進学し、1916年7月に同校大学予科第一部英文科卒業。同年9月に東京帝国大学文科大学国史学科に進んだ。1919年7月に卒業。 その後、宮内省図書寮勤務を経て、1921年に学習院講師となり、翌年教授に就任した。
中原 益治郎(なかはら ますじろう、1895年〈明治28年〉… 中原 益治郎(なかはら ますじろう、1895年〈明治28年〉1月5日 - 1958年〈昭和33年〉2月22日)は、日本の工学者。工学博士。大阪大学名誉教授。三菱重工業、芝浦共同工業各顧問。 大阪府大阪市で、中原庄兵衛の二男として生まれる。中原繁之助の弟である。分家した。1916年、東京帝国大学工科大学機械工学科に入学する。 1921年、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業する。1923年、横浜高等工業学校教授となり、1927年、東京帝国大学工学部講師、1929年、大阪工業大学助教授を歴任。同大学が大阪帝国大学工学部に昇格後、引き続き助教授の任にあり1935年、教授に進む。 1934年、工学博士の学位を受く。
山沢 和三郎(やまざわ わさぶろう、1895年(明治28年)… 山沢 和三郎(やまざわ わさぶろう、1895年(明治28年)1月5日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。弁護士。 新潟県西頸城郡糸魚川町(現在の糸魚川市)出身。第三高等学校を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部独法科を卒業した。朝鮮総督府試補、事務官、京畿道地方課長、同審査課長、咸鏡南道財務部長、全羅南道財務部長、専売局庶務課長、同製造課長、殖産局商工課長、農林局農産課長、総督官房審議室勤務を歴任。1938年(昭和13年)、慶尚南道知事に就任し、さらに農林局長に転じた。 1942年(昭和17年)に退官した後は、東洋拓殖株式会社理事、朝鮮鉱業振興株式会社理事、朝鮮電業株式会社監事を務めた。
明礼 輝三郎(明禮、みょうれい てるさぶろう、1895年(明… 明礼 輝三郎(明禮、みょうれい てるさぶろう、1895年(明治28年)1月5日 ‐ 1954年(昭和29年)12月16日) は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 愛媛県喜多郡満穂村論田(現内子町)で明礼善助の長男として生まれた。1921年、日本大学法律科を卒業した。弁護士となり、1936年に東京弁護士会副会長に就任した。その他、日本弁護士協会理事、日満法曹協会理事、大東亜法曹協会理事などを務めた。 戦後、1947年4月の第23回衆議院議員総選挙に自由党公認で愛媛県第3区から出馬して当選。第24回総選挙では落選したが、1952年10月の第25回総選挙で再選された。1953年4月の第26回総選挙で落選し、衆議院議員に2期在任した。
久保 禎三(くぼ ていぞう、1894年〈明治27年〉1月5日… 久保 禎三(くぼ ていぞう、1894年〈明治27年〉1月5日 - 1968年〈昭和43年〉8月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1894年(明治27年)に群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で生まれた。生家は新町宿の脇本陣を勤めた家で、父・喜三郎は新町小学校の初代校長。 旧制藤岡中学校、旧制富岡中学校を経て、陸軍士官学校第28期、東京帝国大学土木工学科卒業。1938年(昭和13年)7月15日に陸軍工兵大佐進級と同時に陸軍大学校教官に就任し、1939年(昭和14年)8月に陸地測量部三角科長に転じた。1940年(昭和15年)12月に鉄道第6連隊長(第14軍)に就任し、フィリピン攻略戦に出征した。
花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 … 花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 - 1957年(昭和32年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。奉天特務機関員として柳条湖事件(満洲事変)に関与したとされ、太平洋戦争では第55師団長としてビルマ戦線で作戦を指揮した。人物・指揮ぶりの評価は一様ではなく、統率の強硬さを問題視する見解と、作戦指揮を評価する見解が併存している。 岡山県勝田郡広戸村村長・花谷章の息子として生まれる。津山中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉任官。歩兵第54連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。
小林 清栄(こばやし きよえい、1894年(明治27年)1月… 小林 清栄(こばやし きよえい、1894年(明治27年)1月5日 - 1987年(昭和62年)12月20日)は三重県生まれの洋画家、政治家である。 1894年1月5日、三重県南牟婁郡神川村(現熊野市神川町)に生まれる。出生当時の名前は茂。父は神川村村長の小林信太郎、母の名は不詳であるが、文化学院を開いた西村伊作とは従兄弟の関係にあたる。 1905年、青木梅岳に師事。1908年、西村伊作に油絵技法を習う。1920年に鹿子木孟朗の門に入る。1924年、絵画を学ぶため渡仏。1927年(昭和2年)帰国。藤島武二に師事する。1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)にかけてカメラマン2人を率いて紀伊半島各地を巡って写真に収め、それらの写真を吉野熊野国立公園の指定申請書に添付した。
大達 茂雄(おおだち しげお、1892年(明治25年)1月5… 大達 茂雄(おおだち しげお、1892年(明治25年)1月5日 - 1955年(昭和30年)9月25日)は、日本の内務官僚、政治家。内務大臣(小磯内閣)、文部大臣(第5次吉田内閣)。参議院議員(1期)。 島根県那賀郡浜田町(現・浜田市)に、酒造業・大達新作の次男として生まれる。浜田中学から一高に進み、1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、内務省に入る。宮城県属。 内務省では地方局財務課長を経て1932年(昭和7年)福井県知事となる。福井師範学校整理問題で県会と衝突し、それに対する内務省の扱いに不満を抱いて辞表を提出した。 1934年に満洲国に招かれて満洲国国務院総務庁法制処長、1936年同国務院総務庁長を歴任。
宮本 武之輔(みやもと たけのすけ、1892年(明治25年)… 宮本 武之輔(みやもと たけのすけ、1892年(明治25年)1月5日 - 1941年(昭和16年)12月24日)は、日本の工学者・土木技術者。内務官僚・企画院次長。 愛媛県松山市興居島出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務技手となった。1919年(大正8年)、内務技師となり、東京第一土木出張所、東京土木出張所、新潟土木出張所・土木試験所、内務省土木局に勤務した。1910年代には、当時待遇が文官に比べて冷遇されていた土木官僚たちによる待遇改善をめざした「技術者水平運動」のリーダー的存在であった。その間、1928年(昭和3年)に工学博士号を受けた。1937年(昭和12年)から東京帝国大学工学部教授を兼任。
上川 豊(かみかわ ゆたか、1892年1月5日 - 1984… 上川 豊(かみかわ ゆたか、1892年1月5日 - 1984年4月29日)は日本の医師。ハンセン病の治療、研究に従事し、国立療養所菊池恵楓園、台湾総督府楽生院(初代院長)、国立療養所東北新生園(2代目園長)で勤務した。大風子油を研究し、東北新生園時代は社会復帰農園を作った。 1892年広島県生まれ。大正6年(1917年)長崎医学専門学校卒業。皮膚科(青木大勇教授)に入る。第2代笹川教授の示唆で、1919年九州療養所国立療養所菊池恵楓園に入る。大風子油を研究し、1930年4月に京都大学にて医学博士。論文の題は 「大風子油の癩に対する治療的有効作用に就て」。 1930年8月、台湾総督府のらい療養所(楽生院)初代所長に任命された。
熊谷 綾雄(くまがい あやお、1892年(明治25年)1月5… 熊谷 綾雄(くまがい あやお、1892年(明治25年)1月5日 - 1968年(昭和43年)6月19日)は、日本の政治家。室蘭市長(5期)。位階は正五位。 岩手県西磐井郡一関町(現・一関市)出身。鉄道教習所を卒業後、旭川駅電信掛を皮切りに鉄道員の道を歩む。その後、名寄、滝川、岩見沢、室蘭の各駅長、稚内、旭川、室蘭の各運輸事務所長、稚内、室蘭の各管理部長を務めた。 戦後の1946年、室蘭市長松尾孝之が死去。市長選挙(準公選)が行われることになり、市長選挙に立候補して当選した。翌年4月の選挙でも当選した。市長在職中は小中学校の校舎の充実や室蘭工業専門学校の大学昇格、室蘭工業大学短期大学部の設置、図書館の開設、消防力の強化、社会福祉の充実など市の再建に大きく貢献した。
天野 久(あまの ひさし、1892年1月5日 - 1968年… 天野 久(あまの ひさし、1892年1月5日 - 1968年2月15日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位、勲等は勲二等。衆議院議員(3期)。山梨県知事(公選第2-5代)。 山梨県東山梨郡七里村下於曽(のち東山梨郡塩山町→塩山市、現在の甲州市塩山下於曽)の出身。生家は江戸時代には村役人を務める。高等小学校卒業後に上京し、官費の逓信講習所(現在の電気通信大学)入学を望むが果たせずに帰郷し、1911年(明治44年)に下於曽で、政友会代議士でもある田邊七六の経営する田辺酒造店に奉公する。後に北都留郡笹子村(現大月市笹子町)で笹一酒造を創業し、山梨県酒類販売連合会会長などを務める。また、笹子郵便局長を兼ねていた。
永瀬 義郎(ながせ よしろう、1891年1月5日 - 197… 永瀬 義郎(ながせ よしろう、1891年1月5日 - 1978年3月8日)は、日本の版画家、画家。茨城県出身。大正初期の時代から昭和にかけて旺盛なる創作活動を続け、版画や油絵により、自分の信ずる「美の世界」を表現するために、様々な手法を試み社会に問い続けた。また、著書「版画を作る人へ」はその後の版画家たちへ影響を与えた。 茨城県西茨城郡北那珂村入野(現在の桜川市)に生まれる。土浦中学時代より絵画に興味を持ち始め、熊岡美彦、矢口達、高田保らと知り合う。1904年に創刊された美術雑誌『みずゑ』に水彩画を応募し、画家になることを本格的に意識し始める。東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻科に入学するもすぐに中退。
浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 194… 浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 1944年1月24日)は、日本の元プロ野球監督。 旧制立教中学に在籍し、野球部(立教大学野球部の基礎)を創設。立教大学教授で聖公会の司祭でもあったハーバート・ロイドに技術的指導を受ける。その後早稲田大学商科に進み、二塁手として野球部第9代主将を務める。東京六大学野球連盟の初代首位打者。 その後、東京六大学野球リーグ戦で審判を務める。八十川ボーク事件(1931年(昭和6年)5月18日)で、騒動の発端となるボーク判定を行った試合の球審を務めたのが浅沼であった[リンク切れ][出典無効]。 1922年(大正11年)、第二高等学校(旧制二高)の野球部のコーチをする。
福澤 駒吉(ふくざわ こまきち、1891年〈明治24年〉1月… 福澤 駒吉(ふくざわ こまきち、1891年〈明治24年〉1月5日 - 1945年〈昭和20年〉3月18日)は、大正から昭和初期にかけて活動した日本の実業家である。 「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介の長男で、福澤諭吉の孫にあたる。父の電気事業に参加し矢作水力社長などを務めたほか、化学工業を起して東亞合成化学工業(現・東亞合成)初代社長となった。 福澤駒吉は1891年(明治24年)1月5日、福澤桃介(旧姓・岩崎、福澤家に婿入り)の長男として生まれた。母は福澤諭吉次女の房(ふさ)。当時桃介は北海道で炭鉱と鉄道を経営する北海道炭礦鉄道(北炭、後の北海道炭礦汽船)に勤めており、房を連れて札幌へと赴任していたが、出産にあたって東京に帰ったため、駒吉は東京三田の諭吉邸で生まれた。
小野沢 勝太郎(おのざわ かつたろう、1891年〈明治24年… 小野沢 勝太郎(おのざわ かつたろう、1891年〈明治24年〉1月5日 - 1975年〈昭和50年〉3月1日)は、長野県小県郡東部町滋野原口(現・東御市)出身の実業家・政治家。小野沢興行株式会社会長。島根県議会議員(1期)。息子の小野沢明男は益田市議会議長・益田商工会所会頭。 1891年(明治24年)1月5日、長野県小県郡東部町滋野原口(現・東御市)に生まれた。父は小野沢勝次郎であり、勝太郎は5人兄弟の長男だった。小野沢家は規模の小さな農家であり、小野沢は小学校に4年間しか通っていない。 16歳の時には家出して東京に出た。まずは専売局の下請け工場に務めたが、新聞配達、牛乳配達、土方人夫と様々な職業を転々とした。
鈴木 翠軒(すずき すいけん、1889年〈明治22年〉1月5… 鈴木 翠軒(すずき すいけん、1889年〈明治22年〉1月5日 - 1976年〈昭和51年〉9月26日)は、愛知県生まれの書家、文化功労者。旧姓は長尾、本名は春視(はるみ)、翠軒は号。 愛知県渥美郡堀切村(現在の田原市堀切町)に生まれる。1903年愛知県立第四中学校(現在の愛知県立時習館高校)を卒業後、1910年愛知県立第一師範学校へ進学。翌年卒業して地元の小学校の訓導となる。1916年文部省習字科検定試験に合格すると、1919年に上京して丹羽海鶴に師事した。この時、比田井天来にも教えを乞う。1932年、『国定甲種小学書方手本』の揮毫者となり、1938年に完成させる。この国定教科書の書風は、その明快な用筆と結体により絶賛され「翠軒流」として世の中に広まった。
豊嶋 房太郎(てしま ふさたろう、1889年(明治22年)1… 豊嶋 房太郎(てしま ふさたろう、1889年(明治22年)1月5日 - 1979年(昭和54年)4月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。「豊島」と表記される場合がある。 山口県出身。農業・豊嶋鶴松の二男として生れる。防府中学校卒業を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第42連隊付となる。1916年11月、陸軍大学校(28期)を卒業。 以後、陸軍兵器本廠付(軍事調査部)、陸軍省軍務局課員、フィリピン出張、欧州出張、歩兵第33連隊大隊長、整備局課員(統制課)、朝鮮軍司令部付などを経て、1934年3月、陸軍大佐に進級し歩兵第23連隊長に就任。
前田 伍健(まえだ ごけん、1889年1月5日 - 1960… 前田 伍健(まえだ ごけん、1889年1月5日 - 1960年2月11日)は香川県高松市出身の川柳作家である。本名は久太郎。 父は画家の前田北水。ペンネームの由来は五剣山から始まり、五剣、五健を経て、伍健となる。 地元の旧制高松中学校(現・香川県立高松高等学校)を卒業後、愛媛県松山市に出て、現在の伊予鉄道に入社した。在勤中は東京の窪田而笑子(1867年〜1928年)の弟子となり、「媛傘」「番傘」など津々浦々の川柳雑誌の客員として活躍した。 絵は父である北水から始まり、堂本印象、近藤浩一路の指導を受けた後、村上霽月(1869年〜1946年)と出会い、川柳作家として普及活動を行った。愛媛県川柳文化連盟の初代会長となる。
平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 196… 平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 1969年8月30日)は、京都府京都市生まれの日本画家。帝国美術院展覧会審査委員。本名は平井秀三。 1906年(明治39年)に京都市立美術工芸学校絵画科卒業。1907年(明治40年)新古美術展四等受賞(夕月)第1回文展入選(宮苑の朝)。 1910年(明治43年)に京都市立美術工芸学校卒業生入江波光・榊原紫峰らによる研究会「桃花会」を結成し、翌年には、榊原紫峰・野長瀬晩花・星野空外ら京都大学文学研究者たちと「バトサヤ」を立ち上げる。文部省美術展覧会(初期文展・新文展)・帝国美術院展覧会に無鑑査出品を続け、戦後は後援会の楳推会を中心に活躍した。
安座上 真(あざがみ まこと、1888年1月5日 - 195… 安座上 真(あざがみ まこと、1888年1月5日 - 1957年8月11日)は、日本の経営者。日本通運社長を務めた。 福岡県宗像郡河東村(現在の宗像市)出身。1907年に東筑中学校を卒業。吉田組、(出光商会)、内国通運での勤務を経て、1937年に日本通運理事および台湾支社長に就任し、1946年に副社長に就任した。1954年には社長に昇格した。それまでの社長はいずれも鉄道出身者であったが安座上は初の社員出身の社長となった。 日本経営者団体連盟常任理事も務めた。
篠原 秀吉(しのはら ひできち、1886年〈明治19年〉1月… 篠原 秀吉(しのはら ひできち、1886年〈明治19年〉1月5日 - 1971年〈昭和46年〉7月8日)は、日本の新聞記者、実業家。上毛新聞社社長。また、学生時代から柔道で鳴らし、講道館8段という経歴から日本体育協会評議員を務めるなど、スポーツ環境の整備に尽力した。桜郷と号して書をよくした。正四位勲三等。 群馬県前橋町(現・前橋市)に、上毛新聞社初代社長・篠原叶の子として生まれる。旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、1911年(明治44年)早稲田大学政治経済学部を卒業。同年上毛新聞社に入社。 1926年(大正15年)父の死により上毛新聞社を継ぐ。1939年(昭和14年)に上毛新聞が株式会社となると取締役社長に就任した。
二代 戸田 利兵衛(にだい とだ りへい、本名:富田 繁秋、… 二代 戸田 利兵衛(にだい とだ りへい、本名:富田 繁秋、1886年1月5日 - 1981年3月28日)は、日本の実業家。戸田組(現在の戸田建設)の社長・会長を務めた。 茨城県出身。本名は富田繁秋。1913年に東京帝国大学卒業後、初代の戸田利兵衛に子が恵まれなかったことにより養嗣子として迎えられ、初代没後の1920年に2代戸田利兵衛を襲名し、社長に就任した。 初代戸田利兵衛が築いた戸田組を、1924年の横浜出張所を皮切りに、1931年に名古屋出張所、1936年に大阪支店、1937年に釜石出張所を開設し、全国組織の総合建設業者へと成長させた。また、この間の1936年には戸田組を資本金200万円の「株式会社戸田組」とした。
猪野毛 利栄(いのけ としえ、旧字体:猪野毛 利榮、1886… 猪野毛 利栄(いのけ としえ、旧字体:猪野毛 利榮、1886年(明治19年)1月5日 - 1952年(昭和27年)10月11日)は、日本のジャーナリスト・政治家、衆議院議員(6期)。 福井県大野郡、のちの富田村(現大野市)出身。1911年(明治44年)日本大学法律科卒業。順天中学校教諭、二六新報記者を経て、日本浪人社を設立し、雑誌『日本浪人』を主宰する。さらに経国社を設立し雑誌『政治及経済界』を主宰。その後政友会に入党し司法大臣秘書官、内務大臣秘書官を経た後、1924年(大正13年)の第15回総選挙に無所属で立候補して初当選。4年後の第16回総選挙では政友会の公認を得たものの次点に泣く。さらに2年後の1930年(昭和5年)の第17回総選挙で返り咲き、以後連続5回の当選を果たした。
河合 小市(かわい こいち、1886年1月5日 - 1955… 河合 小市(かわい こいち、1886年1月5日 - 1955年10月5日)は、日本の技術者、実業家。河合楽器製作所創設者・初代社長。ピアノ製造技師。 浜松市菅原町の車大工の河合谷吉(屋号は「するがや」)の子供に生まれた。幼少の頃から手先が器用で研究心があったという。 河合楽器製作所製グランドピアノの多くに刻まれているK.KAWAIというロゴタイプは小市の名に由来する。 河合楽器製作所2代目社長の河合滋は次女の婿。KAISERブランドのピアノ(製造元は日本楽器製造株式会社)で知られる河合楽器株式会社を経営していた河合晋は長女の婿。 この項目は、楽器に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/プロジェクト:楽器)。
瀬川 深(せがわ ふかし、1885年1月5日 - 1948年… 瀬川 深(せがわ ふかし、1885年1月5日 - 1948年)は、岩手県出身の医師、歌人・俳人である。雅号として藻外を名乗った。 1885年(明治18年)1月5日、岩手県江釣子村(現・北上市)の瀬川早水の三男に生れる。のちに、同族の医師の瀬川雅夫の養子となった。実父の早水は1846年(弘化3年)に村宿の長男として生まれ、のちに江釣子小学校を創設。1899年から1903年まで同村の助役を務めたのち板垣退助が率いる自由党のもとでの自由民権運動を推進した。 深は旧制盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。同学年にはともに医師を志した小林茂雄や岡山儀七、一級上には歌人の石川啄木がおり、さらに先輩には金田一京助や及川古志郎、野村胡堂らがいた。
山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年〈明治18年〉1月… 山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年〈明治18年〉1月5日 - 1952年〈昭和27年〉7月1日)は、日本のジャーナリスト。改造社社長。雅号は亀城。 鹿児島県高城郡水引郷大小路村(現在の鹿児島県薩摩川内市大小路町)出身。1885年(明治18年)1月、にて鍛冶屋山本庄之助の長男として出生する。実彦が小学生の頃に生家の経済状況が悪化、困窮を極めたことから旧制鹿児島県立川内中学校を自主退学。自ら働くことを決意して沖縄に渡り、離島にて1902年(明治35年)に代用教員の職を得る。 1904年に19歳で上京、郵便及び筆耕屋の仕事の傍ら日本大学法律科を卒業。『門司新報』『やまと新聞』記者を経て、1915年(大正4年)に東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本関係はない)社長に就任。
宮川 一貫(みやかわ いっかん、1885年(明治18年)1月… 宮川 一貫(みやかわ いっかん、1885年(明治18年)1月5日 - 1944年(昭和19年)3月25日)は、昭和期の政治家、柔道家。衆議院議員。
高橋 信美(たかはし のぶよし、1884年1月5日 - 19… 高橋 信美(たかはし のぶよし、1884年1月5日 - 1958年2月24日)は、日本の医師・医学者。妻・ふく子は大沢岳太郎の次女。 長野県小県郡武石村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、第四高等学校を経て、1910年東京帝国大学医学部卒業。同大助手を経て、1917年千葉医学専門学校(現千葉大学医学部)の第一外科主任教授となる。1919年から2年間欧米諸国に留学、1923年、千葉医科大学(同)教授となり、1929年には学長に就任した。1938年勲二等瑞宝章、1940年従三位に叙された。 その後、千葉県医師会会長、千葉県済生会長、日本外科学会会長、国際外科学会名誉会員などを歴任した。
潮崎 喜八郎(しおざき きはちろう、1884年 <明治17年… 潮崎 喜八郎(しおざき きはちろう、1884年 <明治17年> 1月5日 - 1969年 <昭和44年> 9月1日)は、日本の経営者。兵庫県津名郡一宮町(現:淡路市)出身。位階は正五位。 1904年に大阪高等商業学校を卒業し、同年に日本綿花に入社。1939年に専務に就任し、1941年には社長に昇格した。1947年から会長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等旭日中綬章を受章。 1969年9月1日脳軟化症のために死去。85歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
今井 昌治(いまい まさはる、1884年(明治17年)1月5… 今井 昌治(いまい まさはる、1884年(明治17年)1月5日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。高雄市尹、花蓮港庁長。 新潟県中頚城郡高田城下に生まれる。1899年(明治32年)台湾に渡り、1908年(明治41年)6月に台北庁警部、1920年(大正9年)9月に台北州保安課長を経て、1922年(大正11年)5月、台湾総督府地方警視に進み、台北南警察署長に就任する。 1924年(大正13年)12月、地方理事官に進み、台中州新高郡守となり、ついで1926年(大正15年)1月に新竹州苗栗郡守、1927年(昭和2年)8月に台中州彰化郡守を経て、1929年(昭和4年)5月に高雄市尹に就任した。
島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1… 島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1月5日 - 1937年(昭和12年)8月24日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院議員、男爵、従四位。 伯爵・島津忠亮の二男に生まれ、明治42年(1909年)12月20日、分家して祖父・佐土原藩主島津忠寛の勲功により男爵を叙爵する。その後、慶應義塾大学部理財科を修了。 1910年(明治43年)国光生命保険相互会社監査役となり、のち同社取締役社長を務めた。 1918年(大正7年)7月10日に貴族院男爵議員に選出され、1925年(大正14年)6月24日まで在任した。
関水 武(せきみず たけし、1883年(明治16年)1月5日… 関水 武(せきみず たけし、1883年(明治16年)1月5日 - 1939年(昭和14年)7月8日)は、朝鮮総督府官僚。 神奈川県高座郡渋谷村(現在の藤沢市から大和市にかけての地域)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格した。茨城県属、同警部、同理事官、同西茨城郡長、同那珂郡長を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、忠清南道警察部長、朝鮮総督府監察官、警務局衛生課長、平安南道内務部長、慶尚南道内務部長、京畿道内務部長、京城府尹を歴任。1930年(昭和5年)、咸鏡南道知事となり、1933年(昭和8年)に慶尚南道知事に転じた。 1935年(昭和10年)に退官した後は、朝鮮石油株式会社常務取締役を務めた。
広瀬 猛(ひろせ たけし、1882年(明治15年)1月5日 … 広瀬 猛(ひろせ たけし、1882年(明治15年)1月5日 - 1934年(昭和9年)7月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県東山梨郡七里村に父広瀬久光の六男として生まれる。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官され歩兵第34連隊付。日露戦争に従軍。明治38年(1905年)6月に歩兵第34連隊中隊長、明治39年(1906年)11月に第17旅団副官、明治41年(1908年)4月に大尉に昇進、1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を卒業し、参謀本部外国戦史課に配属された。 1920年(大正9年)8月、陸大教官に就任。
河北 林吾(かわきた りんご、1880年1月5日 - 195… 河北 林吾(かわきた りんご、1880年1月5日 - 1958年3月29日)は、明治期から昭和期の実業家、時計商。河北時計店社長。旧姓、牛島。 九州福岡県八女郡出身。 東京に出て、立教大学商学部に入学。この頃、築地にあった立教大学の寄宿学生たちは、「天國は近づけり、汝等食ひあらためよ」と吟じつつ、夕方になると銀座をふらついては、木挽町にあった天丼屋の「天國」で天丼2杯ほどをペロリと平らげて群歩いていたが、林吾もそうした中の一人だった。また林吾は、学生当時、立教最初の英語劇を催した一人であった。 1911年(明治44年)、立教大学商学部を主席で卒業。立教大学第1回卒業生として、小島茂雄(立教大学元文学部長、立教中学校元校長、文学部卒)や、久保田正次(立教大学元教授、立教大学野球部元部長)と同級生。
水野 直(みずの なおし、1879年(明治12年)1月5日 … 水野 直(みずの なおし、1879年(明治12年)1月5日 - 1929年(昭和4年)4月30日)は、日本の華族(子爵)・政治家。貴族院の院内会派・研究会の幹部で、加藤高明内閣の陸軍政務次官。水野宗家第18代当主。旧紀伊新宮藩主・水野忠幹の五男。養父は旧結城藩当主家の水野忠愛。妻は旧菊間藩主・水野忠敬の三女・貞子。教育調査会会員、臨時教育会議委員、学習院御用掛、鉄道会議臨時議員などを歴任した。 1879年(明治12年)1月5日、旧紀伊新宮藩藩主・水野忠幹の五男として東京府で生まれる。1884年(明治17年)10月に水野宗家第17代当主・水野忠愛の養嗣子となって同年12月に家督を相続する。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学卒業。
鈴木 孫彦(すずき まごひこ、1878年1月5日 - 193… 鈴木 孫彦(すずき まごひこ、1878年1月5日 - 1930年4月25日)は、日本の会計学者、俳人。初代専任京城高等商業学校校長。 静岡県磐田郡向笠村生まれ。1899年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1904年同校専攻科卒業。1905年熊本県立商業学校教諭。1907年同校長。 1909年山口高等商業学校教授。1917年からイギリス、アメリカ合衆国、フランスに留学し、帰国後、1921年から京城高等商業学校校長を務め、朝鮮総督府の意向に反し、朝鮮民族美術館設立を支持した。 1927年叙従四位。1928年病気のため辞任し、山口市後河原の自宅で療養していたが、1930年に死去した。俳人としても活動し、俳号は芒生。
林 仙之(はやし なりゆき、1877年1月5日 - 1944… 林 仙之(はやし なりゆき、1877年1月5日 - 1944年5月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
石橋 五郎(いしばし ごろう、1876年1月5日 - 194… 石橋 五郎(いしばし ごろう、1876年1月5日 - 1946年4月19日)は、日本の地理学者。京都帝国大学名誉教授。 千葉県出身。千葉県立尋常中学校、第一高等学校卒、1901年東京帝国大学文科大学史学科卒、大学院を経て、1904年神戸高等商業学校教授、1907年京都帝国大学文学部史学地理学助教授兼任、1910-12年英国、ドイツに学ぶ。1919年京大教授。1927年から『日本地理風俗大系』などを編纂。1938年退官。 小川琢治らと京都地理学派の基礎を築いた。門下に小牧実繁などがいる。石橋雅義の岳父。
沖野 岩三郎(おきの いわさぶろう、1876年1月5日 - … 沖野 岩三郎(おきの いわさぶろう、1876年1月5日 - 1956年1月31日)は、日本の小説家、牧師。 和歌山県生まれ。明治学院神学部卒。宗教活動をしながら小説を書き、牧師作家と呼ばれ、児童文学、通俗小説などにも作品を残す、異風の流行作家として知られた。 1876年1月5日、和歌山県日髙郡美山村に生まれる。1895年、和歌山師範学校に学び、川原河小学校(和歌山県)教師となり、この頃から小説等の創作活動を始める。22歳で龍神小学校(和歌山県)校長に就任。この間宣教師ジョン・バックスター・ヘールによりキリスト教に導かれた。1904年、上京し明治学院神学部に入学。1907年、新宮日本基督教会(和歌山県)牧師となる。
河野 治平(こうの じへい、1875年〈明治8年〉1月5日 … 河野 治平(こうの じへい、1875年〈明治8年〉1月5日 - 1950年〈昭和25年〉12月23日)は、日本の政治家、実業家。神奈川県会議長。豊川村長。足柄肥料会社社長。曽我銀行取締役。小田原実業銀行専務取締役。 副総理兼東京五輪担当大臣、建設大臣、行政管理庁長官、農林大臣を務めた河野一郎は次男。参議院議長を務めた河野謙三は三男。五女・美喜子はラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)社長や富士観光(現・富士レックス)社長を務めた越田覚造に嫁いだ。衆議院議長、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表を務めた河野洋平は孫。外務大臣・防衛大臣、デジタル大臣などを歴任している衆議院議員、河野太郎は曽孫にあたる。
若宮 貞夫(わかみや さだお、明治8年(1875年)1月5日… 若宮 貞夫(わかみや さだお、明治8年(1875年)1月5日 - 昭和21年(1946年)9月8日)は、日本の逓信官僚、政治家。衆議院議員。東京府平民。位階および勲等は従三位・勲二等。 元総理大臣の橋本龍太郎および元高知県知事橋本大二郎の外祖父。 兵庫県城崎郡豊岡町(現在の豊岡市)の西楽寺に、熊本県人で僧侶である若宮正海の三男として生まれる。 開成中学校、第二高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し、同年12月、逓信省に入り逓信属・管船局勤務となる。また、兄正音の養子となる。 1902年(明治35年)家督を相続する。 北海道逓信局長、北部逓信局長、管船局長兼高等海員審判所長、戦時船舶管理局長などを歴任。
藤田 謙一(ふじた けんいち、1873年〈明治6年〉1月5日… 藤田 謙一(ふじた けんいち、1873年〈明治6年〉1月5日 - 1946年〈昭和21年〉3月12日)は、日本の実業家、政治家。日本商工会議所初代会頭、貴族院議員。 青森県弘前市に、武将明石全登の末裔で津軽藩士だった父明石永吉、母ともの次男として生まれる。5歳のときに、親戚の藤田正三郎の養子となり、藤田姓を名乗る。 東奥義塾を中退、1891年(明治24年)に上京し、東京・神田駿河台の明治法律学校(現在の明治大学)に入学する。法学博士・熊野敏三の書生になる。同学を卒業し、大蔵省(現在の財務省)に入省する。 1901年(明治34年)に大蔵省を辞し、翌1902年(明治35年)、「天狗煙草」で知られる岩谷松平の岩谷商会の支配人となる。
石橋 重吉 (いしばし じゅうきち、1872年1月5日〈明治… 石橋 重吉 (いしばし じゅうきち、1872年1月5日〈明治4年11月25日〉 - 1953年〈昭和28年〉11月21日)は、日本の教育者。郷土史家。号は咬菜(こうさい)、豊洲、酔逃。 福井県今立郡粟田部(現・越前市)に生まれる。1887年真宗大谷派学場で英語、漢文、数学を学ぶ。1888年病に倒れ、福井中学の受験を断念し、郷里に戻り病床で独習する。1889年名古屋の小堀蓬髪の漢学塾に入門。1893年名古屋で嚶鳴塾を開き、塾師になる。講義の間には、書生のために炊事もし、近隣から食べ物をもらった際には牡丹餅を作って配った。愛読書はスマイルズの『自助論』。1896年、文部省教員検定試験に合格し、1896年福井中学で倫理と漢文を教える。
釈 宗活(しゃく そうかつ、明治3年11月15日(1871年… 釈 宗活(しゃく そうかつ、明治3年11月15日(1871年1月5日) - 昭和29年(1954年)7月6日)は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。東京市麹町の生まれ。出家前は入澤譲四郎。号は両忘庵、輟翁、石佛。
岡田 重久(おかだ しげひさ、1871年1月5日(明治3年1… 岡田 重久(おかだ しげひさ、1871年1月5日(明治3年11月15日) - 1936年(昭和11年)8月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。 土佐国香美郡立田村(現・高知県南国市)に生まれた。1893年(明治26年)7月、陸軍士官学校(4期)を卒業。1894年(明治27年)3月、歩兵少尉に任官。1895年(明治28年)5月、歩兵中尉に進級。1899年(明治32年)3月、歩兵大尉に進級。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業。1904年(明治37年)8月、歩兵少佐に進級。日露戦争に満州軍情報参謀として出征した[要出典]。1908年(明治41年)12月、歩兵中佐に進級。 1912年(大正元年)12月、静岡連隊区司令官となり、1913年(大正2年)2月、歩兵大佐に昇進。
竹下 勇(たけした いさむ、1870年1月5日(明治2年12… 竹下 勇(たけした いさむ、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1946年(昭和21年)7月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。
鈴木 錠蔵(すずき ていぞう、1870年1月5日(明治2年1… 鈴木 錠蔵(すずき ていぞう、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1947年(昭和22年)6月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 茨城県出身。東京高等商業学校を矢野二郎排斥事件により中退。日本海員掖済会理事兼横浜支部長、共同火災保険(株)名古屋支店長、横浜生命保険(株)支配人、硫酸販売、関東機械ナット、東京リベット製造各(株)取締役、保土ヶ谷化学電気(株)常任監査役、東京硫酸(株)常務監査役となる。また、朝鮮政府に招かれ、法規編纂に従事する。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では茨城7区から立候補して再選する。
甲 吾郎(かぶと ごろう、1870年1月5日(明治2年12月… 甲 吾郎(かぶと ごろう、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1923年1月9日)は、山梨県巨摩郡(現・南アルプス市)出身で立川部屋、中村部屋、再度立川部屋に所属した力士。本名は五味 安吉。6代立川。168cm、90kg。最高位は東前頭4枚目。 1893年1月初土俵、1897年5月十両昇進。1903年1月新入幕、1909年から二枚鑑札、1913年1月に力士を引退。1911年から引退までは最年長幕内力士だった。 甲→甲斐ノ山→甲→兜→甲→立川
武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11… 武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11月16日) - 1942年(昭和17年)2月16日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍機関中将。 文久2年(1863年)11月、土佐国香美郡野市村(現:香南市)に生まれる。土佐藩家老の武田秀友の長男。 大阪英語学校を経て上京。当時満15歳であったが、同郷の海軍中秘史楠目正幹の斡旋により辛うじて証明を得て1878年(明治11年)8月、海軍兵学校機関科に入校 。1883年(明治16年)10月、海軍機関学校(旧2)を卒業。1886年(明治19年)4月、海軍少機関士(少尉相当官)に任官した。 1890年(明治23年)7月から1894年(明治27年)6月までフランスに留学。