宮之原 謙(みやのはら けん、1898年(明治31年)2月9… 宮之原 謙(みやのはら けん、1898年(明治31年)2月9日 - 1977年(昭和52年)8月23日)は日本の陶芸家。日展理事・参与、光風会理事などを歴任。東京教育大学窯業科講師を務めた。 1898年(明治31年)鹿児島市鷹師町生まれ。麹町小学校、旧制麻布中学校卒業。早稲田大学建築科中退。1924年(大正13年)頃に川端画学校へ通い、山之内高門に日本画、宮川香山に陶芸を学んだ。また、板谷波山にも師事し、1927年(昭和2年)「東陶会」創立に参加。1929年(昭和4年)第10回帝展に「鉄砂釉竹又陶製花器」で初入選し、岡倉由三郎にインド哲学を学ぶ。1931年(昭和6年)第12回帝展に壁面照明「銀河」、翌年の第13回には釉薬象嵌「十字文花瓶」で連続して特選を受賞し、1933年(昭和8年)帝展無鑑査となった。
二見 貴知雄(ふたみ きちお、1897年(明治30年)2月9… 二見 貴知雄(ふたみ きちお、1897年(明治30年)2月9日 - 1957年(昭和32年)3月23日)は、日本の銀行家。日本銀行副総裁、東京銀行頭取を務めた。 京都府京都市出身。京都府立一中、三高を経て、1921年に東京帝国大学法科を卒業。同年に日本銀行に入行。 計算局を振り出しに、ニューヨーク監督官付、審査部、大阪支店、営業局次長を歴任後、再び海外に出て、ロンドン代理店監督役となり、国際決済銀行理事を兼任し、ロンドンとジュネーブの間を往復した。帰国後の1941年、日銀参事となり、資金調整局調査役を経て、故郷の京都支店長、神戸、名古屋の各支店長を歴任した。その後、本店に戻り考査局長、統制局長をやっているうちに終戦を迎える。
瀧澤 眞弓(たきざわ まゆみ、1896年2月9日 - 198… 瀧澤 眞弓(たきざわ まゆみ、1896年2月9日 - 1983年)は、日本の建築家・建築学者である。 1896年(明治29年)2月9日に誕生した。長野県東筑摩郡会田村の出身であり、旧姓を矢羽といったが、同郡五常村の滝澤家に嗣養子に入った。郷校を卒業したのち上京し、東京府立第三中学校、第一高等学校を経て帝国大学工学部建築科に進んだ。1920年(大正9年)に同校を卒業し、石本喜久治・堀口捨己・森田慶一・山田守・矢田茂とともに分離派建築会を結成した。建築家としてのはじめての作品は卒業制作である「山岳倶楽部」であり、この年の分離派第一回展覧会にて発表された。分離派は芸術作品としての建築を重視した団体であり、松原紀之・足立裕司・中江研によれば「抽象性」を重んじたことが形態理論における特徴であった。
永井 順(ながい じゅん、1896年2月9日 - 1971年… 永井 順(ながい じゅん、1896年2月9日 - 1971年2月4日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 東京出身。書家・作詞家の永井素岳の子として生まれる。東京外国語学校卒、東京外国語大学教授。1960年に定年で退官し、名誉教授を務めた。
平出 英夫(ひらいで ひでお、1896年〈明治29年〉2月9… 平出 英夫(ひらいで ひでお、1896年〈明治29年〉2月9日 - 1948年〈昭和23年〉12月15日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 平出利根次郎の長男として青森県上北郡三沢村(現在の三沢市)に生まれ、5歳の時に伯父の平出栄太郎、京の養子となる。祖父は旧斗南藩士の平出久矢。1902年(明治35年)養父の赴任先である舞鶴に移住し、のち長崎に移り佐世保大村中学校を卒業する。 1917年(大正6年)海軍兵学校第45期を卒業 、1924年(大正13年)海軍大学校選科、東京外国語大学を経て、1926年(大正15年)フランスに駐在。 1929年(昭和4年)練習艦隊副官、1936年駐伊武官を経て、在職中の1938年大佐に進級。
香山 蕃(かやま しげる、1894年2月9日 - 1969年… 香山 蕃(かやま しげる、1894年2月9日 - 1969年5月3日)は、日本ラグビーフットボール協会(以下、日本ラグビー協会)第3代会長、ラグビー日本代表初代監督。 京都府出身。京都府立一中卒業後4浪の末、第三高等学校(旧制高校、略称:三高)に入学。その3年後の1920年、東京帝国大学政治学科に入学した。当初は陸上部に所属していたが、1921年11月、31人の同志とともに、学士ラガー倶楽部(現在の東京大学運動会ラグビー部)を創設。同月、YCACと部として初の試合を行い、さらに翌1922年1月、三高グランドに遠征し、京都帝国大学ラグビー部(現在の京都大学ラグビー部、以下 京都帝大)と初の対抗戦を行なった。
小島 新一(おじま あらかず、1893年2月9日 - 198… 小島 新一(おじま あらかず、1893年2月9日 - 1987年3月3日)は、日本の商工官僚、経営者。茨城県出身。 1918年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に高文行政科に合格し、農商務省に入省。商工省で貿易局長や事務次官などを歴任。1941年に日本製鉄取締役に就任し、1945年には副社長に就任し、1946年に公職追放を受けて、辞任。1952年に八幡製鉄副社長として復帰し、1956年1月に社長に昇格した。社長在任時には、戸畑製鉄所や堺製鉄所の建設に尽力し、君津製鉄所への進出を決定し、業界の近代化を推進した。1962年5月に会長に就任し、1967年5月から相談役を務めた。 1970年から1974年までに日本銀行政策委員会委員を務め、日本鉄鋼連盟会長、経済団体連合会副会長、産業構造審議会会長なども歴任した。
石井 満(いしい みつる、1891年2月9日 - 1977年… 石井 満(いしい みつる、1891年2月9日 - 1977年11月13日)は、日本の作家、出版人、教育学者。 千葉県生まれ。第一高等学校在学時代は芥川龍之介らと同期であった。東京帝国大学法科大学卒業。大学院で交通政策を学ぶ。新渡戸稲造に師事。鉄道院事務官、東京市電気局総務課長を経て、1946年日本出版協会会長。 GHQの指導で戦争責任を問われた出版社の粛清を行い、夏目漱石の著作権問題の処理に当たった。学校法人精華学園理事長などを務めた。
大西 虎之介(おおにし とらのすけ、1890年(明治23年)… 大西 虎之介(おおにし とらのすけ、1890年(明治23年)2月9日 - 1945年(昭和20年)2月9日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 大西行礼の長男として香川県三木郡氷上村長楽寺(現三木町長楽寺)に生まれる。高松中学校(現香川県立高松高等学校)、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部を卒業する。1930年(昭和5年)に家督を相続した。 1924年(大正13年)高松百十四銀行取締役に就任し、同年琴平電鉄を創立し社長となる。ついで四国水力電気取締役、屋島登山鉄道社長を経て、1943年(昭和18年)企業統合により高松琴平電気鉄道社長に就任した。
高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889… 高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889年)2月9日 - 昭和38年(1963年)4月8日)は、大正から昭和後期にかけて活動した医学者、整形外科医。 1926年(大正13年)、東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授を歴任した。日本の肢体不自由児教育の創始者といわれている。日本の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。「夢の楽園教療所」を提唱し,日本で初めて「肢体不自由児調査」という根拠に基づいて肢体不自由養護施設が日本に必要であると説いた。クリュッペルハイムの概念を日本へと持ち込み、日本初の肢体不自由療育施設である整肢療護園(現:心身障害児総合医療療育センター整肢療護園)の創設者で初代理事長。
谷 正之(たに まさゆき、1889年(明治22年)2月9日 … 谷 正之(たに まさゆき、1889年(明治22年)2月9日 - 1962年(昭和37年)10月26日)は、日本の外交官、外務大臣。妻・澄子は島津長丸の娘。 熊本県上益城郡島田村櫛島(飯野村を経て現・益城町)出身。熊本中学、第五高等学校を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科政治学科卒業。同年 外務省に入る。1930年(昭和5年)アジア局長。1933年(昭和8年)満州国大使館参事官。1936年(昭和11年)オーストリア兼ハンガリー公使。 1939年(昭和14年) 外務次官。 1942年(昭和17年) 東条内閣の外務大臣兼情報局総裁。 1943年(昭和18年) 駐中華民国大使(終戦時まで)。 1945年(昭和20年)12月2日 連合国軍最高司令官総司令部による逮捕命令(第三次逮捕者59名中の1人)。
井手 義行(いで よしゆき、1889年2月9日 - 1972… 井手 義行(いで よしゆき、1889年2月9日 - 1972年7月20日)は、大正から昭和期の英米文学者。東京外事専門学校第10代校長、東京外国語大学学長事務取扱、立教大学文学部教授。井出義行の誤字もみられる。 熊本県阿蘇郡宮地町出身。井手義久の長男として生まれる。 1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学英文科(英吉利文学科)卒業後、同年東京外国語学校の講師に就任し、1917年(大正6年)、同校の教授となる。大正から昭和初期に、立教大学文学部教授を兼務し、英文学、英文学史、英訳を教えた。 1921年(大正10年)に、他大学に先駆けて立教大学にバスケットボール部が創部されると、初代部長に就任。
山崎 匡輔(やまざき きょうすけ、1888年〈明治21年〉2… 山崎 匡輔(やまざき きょうすけ、1888年〈明治21年〉2月9日 - 1963年〈昭和38年〉8月8日)は、日本の官僚、土木工学者、教育行政家。鉄道院技師、東京帝国大学教授、日本学術振興会理事長、文部次官、東京都教育委員長、日本放送協会常務理事、東海大学第2代学長、成城大学学長。工学博士。土木学会名誉会員。第12回(昭和35年度)NHK放送文化賞受賞。 群馬県桐生市に、吾妻郡長をつとめた山崎金四郎の長男として生まれる。旧制前橋中学校、旧制第一高等学校理科を経て、1915年東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。鉄道院技師をつとめたのち、1920年東京帝国大学助教授を経て1939年同教授となる。 1945年文部省科学教育局長となり、1946年文部次官に就任。
菅野 力夫(すがの りきお、1887年(明治20年)2月9日… 菅野 力夫(すがの りきお、1887年(明治20年)2月9日 - 1963年(昭和38年)3月12日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の探検家。 8回に及ぶ探検を行い、多くの国々の観光地やその他の土地を訪れ、現地人や日系人と交わった。自身の写真も同時に撮影し、一部は絵葉書としている。講演を多数おこない、旅費を稼いだ。 巨漢で身長5尺8寸(176センチメートル)、1932年に髭を剃るまでは、髭ぼうぼうで顔面を埋め、眼光炯々、三軍を叱咤する風貌であるが、幼児もなつくという性格であった。日本人で菅野をかんのと読む人は多いが、3編の新聞記事ですがのりきおとしている。 福島県安積郡喜久田村(現:郡山市)出身。
土田 麦僊う(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2… 土田 麦僊う(つちだ ばくせん、 1887年(明治20年)2月9日 - 1936年(昭和11年)6月10日)は大正~昭和期の日本画家である。 明治20年(1887年)、新潟県佐渡郡新穂村(現佐渡市新穂)の農家の三男として生まれる。本名は金二。哲学者の土田杏村(茂)は弟である。明治37年(1904年)、竹内栖鳳に弟子入り。明治44年(1911年)、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業している。同年には小野竹喬らとともに前衛的な絵画運動の会である仮面会(ル・マスク)を結成。黒猫会に参加。文展には在学中の明治41年(1908年)から出品していた。この頃の作品にはゴーギャンの影響が見られる。
矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日… 矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日 - 1961年(昭和36年)12月13日)は、日本の小説家、俳人。本名は義勝。矢田插雲とも。石川県金沢市出身。主著に『太閤記』『江戸から東京へ』などがある。 1882年(明治15年)2月9日、石川県金沢市生まれ。幼い頃、父の転勤によって各地を転々とした。 旧制中学時代から俳句に親しむようになり、宮城県立第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)を卒業後に上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学する。この頃に正岡子規と知り合い、俳句を学ぶようになったが、本格的に句作をするべく、中退した。 1908年(明治41年)以降、各地を転々として九州日報や芸備日日新聞にて新聞記者として勤めた。
金行 幾太郎(かなゆき いくたろう、1882年(明治15年)… 金行 幾太郎(かなゆき いくたろう、1882年(明治15年)2月9日 - 1964年(昭和39年)11月27日)は、日本のキノコ学者である。 広島県賀茂郡大和町(現在の三原市)に生まれる。同地で生産されるマツタケの調査を行い、大和町のアカマツを用いてマツタケの増産方法を研究した。 結果増産は現実のものとなり、金行はこの方法を自身の名を用いて「金行式栽培法」と命名した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
石原 正太郎(いしはら しょうたろう、1878年〈明治11年… 石原 正太郎(いしはら しょうたろう、1878年〈明治11年〉2月9日 - 1943年〈昭和18年〉12月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 富山県婦負郡百塚村(八幡村、和合町を経て現富山市)出身。1903年、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒。北陸送電、北陸汽船、日本電力、黒部鉄道各(株)重役を務める。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において富山県郡部から立候補したが2票差で落選した。選挙後、異議申し立てが認められ、更正により議員となった。1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補せず、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党から立候補して再選した。その後は立憲政友会に入り、1928年の第16回衆議院議員総選挙において富山2区から立候補したが次点で落選した。
小原 古邨(おはら こそん、1877年(明治10年)2月9日… 小原 古邨(おはら こそん、1877年(明治10年)2月9日-1945年(昭和20年)1月4日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家・木版画の下絵師。祥邨(しょうそん)、豊邨(ほうそん)の号も持つ。 古邨研究の最重要資料とされる『浮世絵師伝』での祥邨(後述)項を引用する。なお、旧字体は常用漢字に直した。振り仮名は略した。 祥邨【生】明治十年二月九日(略) 【画系】鈴木華邨 【作画期】明治-昭和小原氏、本名、又雄、加賀金沢に生れ上京して鈴木華邨に学ぶ。東京美術学校教授(初め東京帝国大学教師)及び帝室博物館の顧問たりし米国人のフエノロサ博士の指導を受けて、米国へ売る花鳥画を多数描く。古邨と云ふ画名にて、両国の大黒屋(松木平吉)より依頼の角判花鳥の版下を描き、大正元年より祥邨と改め、肉筆のみ揮毫せしも、昭和元年より渡辺版画店の需めに応じ、主として氏の得意とする花鳥版画の創作に努力し、大小取交ぜ数十版作画せり。
鳳 秀太郎(ほう ひでたろう、明治5年1月1日(1872年2… 鳳 秀太郎(ほう ひでたろう、明治5年1月1日(1872年2月9日) - 昭和6年(1931年)9月16日)は、日本の工学者。東京帝国大学工学部教授。電気学会第8代会長。専門は電気工学で、電気回路に関するテブナンの定理をレオン・シャルル・テブナンとは関係なく独自に発見した。このためこの定理は別称「鳳-テブナンの定理」と呼ばれている。 堺県堺区(現在の大阪府堺市堺区)生まれ。与謝野晶子(旧姓名:鳳志よう)の実兄である。また三男の鳳誠三郎、孫の鳳紘一郎も東京大学教授を務めた。墓所は染井霊園。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
市来 保二郎(市來 保二郎、いちき やすじろう、1872年2… 市来 保二郎(市來 保二郎、いちき やすじろう、1872年2月9日(明治5年1月1日) - 1945年(昭和20年)2月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 市来寅之助の長男として後の山口県豊浦郡長府町(現下関市長府)に生まれる。1893年(明治26年)陸軍士官学校第4期卒業。1901年(明治34年)陸軍大学校第15期卒業。 日露戦争に従軍後、1913年(大正2年)1月に仙台連隊区司令官、同年8月に陸軍歩兵大佐、1914年(大正3年)8月に歩兵第19連隊長を経て、1918年(大正7年)7月に陸軍少将に昇進と同時に待命、翌年1月に予備役に編入した。
安藤 新太郎(あんどう しんたろう、1868年2月9日(慶応… 安藤 新太郎(あんどう しんたろう、1868年2月9日(慶応4年1月16日) - 1919年(大正8年)2月13日)は、日本の政治家、実業家。 播磨国明石郡、のちの兵庫県明石郡大久保村(大久保町を経て現明石市大久保町)出身。明治法律学校卒業。 庄屋橋本家から大久保宿本陣を務めた安藤家に養子入りし、当主となる。 1903年(明治36年)、衆議院議員に初当選した後、連続4期務め、第16回列国議会同盟会議などに参加した。 1905年に創設された辰馬本家汽船部に、辰馬本家と共に資金を出仕し取締役として経営に参画、1917年に辰馬本家酒造が創設された際には監査役を務めるなど、同族経営の辰馬財閥に於いて重きをなした。
夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1… 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
藤瀬 政次郎(ふじせ まさじろう、1867年2月9日(慶応3… 藤瀬 政次郎(ふじせ まさじろう、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1927年(昭和2年)1月7日)は、日本の実業家。三井物産株式会社取締役、東洋綿花株式会社(後のトーメン、現在の豊田通商)代表取締役社長。 長崎県出身。1885年に商法講習所(現在の一橋大学)を卒業し、三井物産株式会社に入社した。同期に高柳豊三郎(のちに株式会社読売新聞社社長)がいた。香港支店を経て、上海支店長、綿花部長を歴任し、取締役に就任。東洋綿花株式会社の設立に関与(同社の設立は、三井物産綿花部が分離独立したもの)。代表取締役社長に就任する。 政財界に幅広い人脈を持ち、東亜同文書院教授で、南満州鉄道社員の山田純三郎を通じて、孫文の辛亥革命を支援したり、犬養毅、新渡戸稲造らとともに南洋協会の設立発起人、渋沢栄一、中島久万吉らとともに日米電信株式会社創立委員などもつとめた、晩年は、財団法人滝乃川学園の理事もつとめ、同学園創立者の石井亮一の事業を援けた。
大瀬 甚太郎(おおせ じんたろう、1866年2月9日(慶応元… 大瀬 甚太郎(おおせ じんたろう、1866年2月9日(慶応元年12月24日) - 1944年(昭和19年)5月29日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の教育学者。文学博士。号は金城。 近代日本における体系的な教育学の樹立者、西洋教育史学の開拓者として評価されている。 現在の石川県金沢市生まれ。加賀藩士族・大瀬直温の長男。上京後、進文学舎、東京大学予備門を経て、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科に入学。 文科大学の同級生には大西祝、渡部董之介、三上参次(国文学科)、谷本富(選科生)がいる。卒業後、同大学院に進学し心理学を専攻する。1891年に第五高等中学校に赴任、嘉納治五郎が同校の校長だった時期と重なっている。
池田 詮政(いけだ のりまさ、1866年2月9日〈慶応元年1… 池田 詮政(いけだ のりまさ、1866年2月9日〈慶応元年12月24日〉- 1909年〈明治42年〉6月1日)は、侯爵・貴族院議員。旧岡山藩池田家第13代当主。 1866年(慶応元年)、備前国岡山城下鴨方藩邸(現在の岡山県岡山市)生まれ。幼名銀三郎。明治維新後に鴨方藩池田家から池田宗家を継承し、備前岡山藩の最後の藩主となった池田章政(政詮)の三男(名前は父の初名を逆にしたようなものになっている)。母は大垣藩主戸田氏正の娘鑑子。 1882年(明治15年)、フランスに留学。公爵島津忠義の次女充子と結婚したが、1889年(明治22年)に離婚し、翌1890年(明治23年)に久邇宮朝彦親王の三女安喜子女王と再婚している。
清川 来吉(きよかわ らいきち、1864年2月9日(元治元年… 清川 来吉(きよかわ らいきち、1864年2月9日(元治元年1月2日)- 1957年(昭和32年)10月26日)は、日本の医師、政治家。初代鎌倉市長。広島県出身。 1884年、広島県立医学校(現広島大学医学部)卒業。その後は帝国医科大学(現東京大学医学部)選科で学び、1888年に医師免状を授与される。同年、伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に入所し細菌学の実施研究を行うが、まもなく帰郷して広島県下に診療所を開設。また広島県医師会長を兼ねた。 1889年、栃木県足尾病院副院長に就任し、その2年後(1891年)に鎌倉町雪ノ下に養生所を開設する。これが、来吉と鎌倉との繋がりの始まりである。その後は神奈川県師範学校や鎌倉町内の小学校の嘱託医を務め、1900年には神奈川県検疫官となる。
伊藤 直純(いとう なおずみ、万延元年12月30日(1861… 伊藤 直純(いとう なおずみ、万延元年12月30日(1861年2月9日) - 昭和8年(1933年)8月8日)は、日本の政治家。秋田県横手市生まれ。号は耕余(こうよ)。農村振興、交通網の整備、文化・教育振興など秋田県の近代化を進めた。 出羽国仙北郡金沢中野村に、後に初代金沢村長となる豪農・伊藤兵吉の長男として生まれる。慶応2年(1866年)から横手町の漢学塾「三近堂」で須田水明に学び、明治10年(1877年)に上京し根本通明の私塾で漢学、大沼枕山から漢詩を学ぶ。明治14年(1881年)、父の命で明治天皇巡幸を歓迎するため帰郷。その後再び上京し専修学校(後の専修大学)で学ぶ。卒業後は帰郷し青年会活動に力を入れる。
秋山 好古(あきやま よしふる、1859年2月9日〈安政6年… 秋山 好古(あきやま よしふる、1859年2月9日〈安政6年1月7日〉- 1930年〈昭和5年〉11月4日)は、日本の陸軍軍人・教育者。最終階級及び位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。通称は信三郎。予備役編入後は郷里の愛媛県松山市で私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)の校長を務めた。 陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞され、日本騎兵の父とも呼ばれている。 連合艦隊先任参謀として日本海海戦の勝利に貢献した秋山真之は実弟。 騎兵を選んだのは他の兵科より一年早く卒業でき、給金を受け取れるという理由だった。
吉松 茂太郎(よしまつ しげたろう/もたろう、1859年2月… 吉松 茂太郎(よしまつ しげたろう/もたろう、1859年2月9日〈安政6年1月7日〉- 1935年〈昭和10年〉1月2日)は、日本の海軍軍人。第6・7・8代連合艦隊司令長官。階級は海軍大将。 土佐中村藩士、のち裁判官となった吉松万弥の長男として生まれる。父が自邸に漢学塾を開いていたことから漢詩の素養があった。藩校致道館、開成学校を経て、1880年(明治13年)に海軍兵学校を卒業(7期生)し少尉候補生を経て、1883年(明治16年)に少尉任官。1885年(明治18年)、防護巡洋艦「浪速」の回航委員となりイギリスに出張し「浪速」分隊士となり翌年に帰国。1888年(明治21年)、フランスに留学し、フランス軍艦に実地研究のため乗り組んだり、造兵監督官としてイギリスなどに出張をして1893年(明治26年)に帰国した。
鈴木 雅(すずき まさ、1858年2月9日〈安政4年12月2… 鈴木 雅(すずき まさ、1858年2月9日〈安政4年12月26日〉 - 1940年〈昭和15年〉6月11日)は、日本の看護師である。 旧姓は加藤。父は静岡県士族加藤信盛(1834年〈天保5年〉- 1902年〈明治35年〉12月22日没)、母は御留守居組田辺兵三郎の娘トヨ( - 1915年〈大正4年〉2月10日没)、妹テル(輝代子?)、弟保太郎( - 1924年〈大正13年〉5月24日没)。親類書では加藤千三郎(加藤信盛)が「倅、加藤雅太郎」と書いたものを二重線で抹消して「保太郎」と書き直してあることから、「まさ」ではなく、「雅」が正しいようだ。 加藤家の先祖代々の墓は浅草の成喜院にあったが、関東大震災と東京爆撃で墓地が倒壊して寺には記録が残っていない。
岡部 政太郎(おかべ まさたろう、1855年2月9日(安政元… 岡部 政太郎(おかべ まさたろう、1855年2月9日(安政元年12月23日)- 1934年(昭和9年)12月2日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国彼杵郡、現在の長崎県長崎市古町で、代々の呉服商の家に生まれた。明治の初め東浜町(現浜町)に転居し呉服商を営む。1910年(明治43年)に和仏法律学校(現法政大学)を卒業する 。1934年(昭和9年)岡政百貨店を開業した。その他、長崎市商業会議所特別議員、長崎市呉服商組合副取締などを務めた。 日露戦争時には、長崎市奉公会の設立に参画し会計監督となった。1905年(明治38年)所得税調査委員となり4期在任。1907年(明治40年)9月、長崎県会議員に選出された。
川喜田 四郎兵衛(かわきた しろうべえ、嘉永7年1月12日〈… 川喜田 四郎兵衛(かわきた しろうべえ、嘉永7年1月12日〈1854年2月9日〉 - 1919年〈大正8年〉7月31日)は、明治から大正時代にかけて三重県津市を拠点に活動した日本の実業家・政治家である。「四郎兵衛」は当主が代々襲名した名跡であり、諱は政孝という。 家業として酒類・米穀・肥料などを扱う問屋を営みつつ地元財界に進出し、津商業会議所(現・津商工会議所)会頭と百五銀行頭取を約25年にわたり兼任。政界では1889年(明治22年)の市制施行以来30年にわたり津市会議員を務め、その間副議長・議長を歴任した。女婿に百五銀行頭取の職を継いだ川喜田久太夫(諱は政令、号は半泥子)がいる。 嘉永7年1月12日(=安政元年、新暦:1854年2月9日)、先代川喜田四郎兵衛(隠居号「岫斎」、1832年生)の長男として生まれた。
大藪 房次郎(おおやぶ ふさじろう、1852年2月9日(嘉永… 大藪 房次郎(おおやぶ ふさじろう、1852年2月9日(嘉永5年1月20日)- 1927年(昭和2年)5月2日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国御井郡久留米城下苧扱川町(現福岡県久留米市本町)で、富豪・大藪萬蔵の長男として生まれる。1900年(明治33年)8月に分家した。 第六十一国立銀行取締役、久留米紡績会社社長、筑後水力電気顧問、大川鉄道顧問などを務め、市営瓦斯事業の開始などに尽力し、貧困層への義捐などを行った。 政界では、1889年(明治22年)4月の市制施行の際に久留米市会議員に選出されたが数ヶ月で辞職。その後、市参事会員に就任。1889年(明治22年)4月から1914年(大正3年)まで久留米市会議員に選出され、その他、所得税調査委員会会長、宅地価修正委員会会長などを務めた。
劔山 谷右エ門(つるぎざん たにえもん、1852年2月9日(… 劔山 谷右エ門(つるぎざん たにえもん、1852年2月9日(嘉永5年1月20日) - 1910年(明治43年)11月21日)は、阿波国麻植郡鴨島村(現・徳島県吉野川市)出身の大相撲力士。本名は吉原 熊十郎。最高位は大関。所属部屋は猪名川部屋(大阪)→梅ヶ谷のち雷部屋(東京)。身長177cm、体重120kg。 1870年(明治3年)、大坂相撲で鶴ヶ濱という力士であった父の縁での猪名川の門に入り響矢 熊吉で初土俵。1875年(明治8年)6月入幕(西前頭12)。翌1876年(明治9年)大坂相撲で脱走事件が起き、脱走組は「開化組」を名乗った。響矢も開化組に加わり大関を務めた。1878年(明治11年)9月帰参。
高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1845年2月9日(弘… 高橋 小十郎(たかはし こじゅうろう、1845年2月9日(弘化2年1月3日)- 1911年(明治44年)9月5日)は、明治期の実業家、政治家。旧名・小野田久助。 三河国渥美郡高塚村(愛知県渥美郡高塚村、豊南村、高塚村、高根村、高豊村を経て現豊橋市高塚町)で、小野田久二郎の二男として生まれた。同村、小野田吉次郎の寺子屋で学んだ。1854年(安政元年)吉田(豊橋)船町の回漕肥料店・高橋小十郎家に奉公した。1870年(明治3年)主人、高橋小十郎が死去し、跡取り不在のため高橋家を継承し、小十郎を襲名した。 継承した回漕業の経営を次第に拡大し、豊橋一の回漕問屋に成長させた。また、豊橋市街第一番組長会議員、渥美郡町村連合会議員、豊橋商談会議員、豊橋町会議員、豊橋商業会議所常議員、豊橋米穀取引所監査役などを務めた。
網野 善右衛門(あみの ぜんえもん、1843年2月9日(天保… 網野 善右衛門(あみの ぜんえもん、1843年2月9日(天保14年1月11日) - 1926年(大正15年)4月18日)は、明治時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 雨宮彦兵衛の二男として甲斐国東八代郡祝村(現・山梨県甲州市)に生まれる。1865年(慶応元年)同郡錦村の網野治郎右衛門の養子となり、1870年(明治3年)2月、家督を相続する。1872年(明治5年)11月、同村戸長に就任し、ついで八代郡第四区第五区蚕種製造世話掛、錦村副戸長、八代郡第五区長兼学区取締役、学区取締総理、学事会員嘱託を経て、1882年(明治15年)9月に錦村村会議員に当選した。 1884年(明治17年)9月、東八代郡錦生学校教育連合会議員に転じ、英村錦村所得税調査委員、東八代郡会議員、同郡参事会員、同郡所得税調査委員補欠などを経て、1902年(明治35年)1月、山梨県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年1月10日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
広瀬 誠一郎(ひろせ せいいちろう、1838年2月9日(天保… 広瀬 誠一郎(ひろせ せいいちろう、1838年2月9日(天保9年1月15日) - 1890年(明治23年)3月18日)は、幕末から明治時代前期の政治家、治水家。 下総国相馬郡下高井村(現在の茨城県取手市)の名主の家に生まれる。18歳で名主見習いとなり、父が在職中に病没したため跡を継ぐ。明治に入ると、下高井村組合取締役、戸長、勧農方頭取を経て、戸長頭取に就任し、地券調査に従事した。1879年(明治12年)茨城県会議員となったが、当時の県会では土木費について治水問題を優先すべきとする「河川党」と道路整備を優先すべきとする「山岳党」に分かれ意見が鋭く対立していた。こうした中で1881年(明治14年)県令の人見寧に利根運河開削を建議し、翌年北相馬郡長を発令された。
森田 悟由(もりた ごゆう、俗名:常次郎、天保5年1月1日(… 森田 悟由(もりた ごゆう、俗名:常次郎、天保5年1月1日(1834年2月9日) - 大正4年(1915年)2月9日)は、日本の曹洞宗の僧侶。永平寺64世貫首。曹洞宗5代管長(性海慈舩禅師)。号は大休。 天保5年(1834年)、尾張国知多郡大谷村(現、常滑市)の森田家の次男に生まれる。天保11年(1840年)、名古屋の大光院で出家。嘉永4年(1851年)に、師僧に従って武蔵国大泉寺に移動、吉祥寺旃檀林に通う。 安政3年(1856年)から諸嶽奕堂に師事し、翌年に奕堂と共に天徳院に移動する。万延元年(1860年)に陽仙院の兄弟子天瑞白龍の後を継ぎ、龍徳寺の住職になる。 明治3年(1870年)に奕堂が總持寺貫首になったのに従って總持寺に入り、明治8年(1875年)、天徳院住職となる。
長松 幹(ながまつ つかさ / みき、1834年2月9日〈天… 長松 幹(ながまつ つかさ / みき、1834年2月9日〈天保5年1月1日〉 - 1903年〈明治36年〉7月16日)は、幕末の長州藩士、明治期の歴史学者・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。諱・文仲、字・子固。通称・大蔵、文助、文輔。号・秋琴。 周防国吉敷郡矢原村(現山口市矢原)で医者・長松玄厚の長男として生まれる。大田稲香の指導を受け、嘉永6年(1853年)京都に遊学し、山本読書室に入り山本亡羊から本草学を学ぶ。安政5年(1858年)以降、久坂玄瑞らと国事に奔走。元治元年(1864年)帰藩し右筆に登用され、その後、儒役雇、雇医員を経て、編輯局で尊王事績の編集に従事。鴻城隊に加わり、戊辰戦争中は軍中日誌を担当した。
仮名垣 魯文(かながき ろぶん、1829年2月9日(文政12… 仮名垣 魯文(かながき ろぶん、1829年2月9日(文政12年1月6日) - 1894年(明治27年)11月8日)は、江戸末期から明治初頭にかけての戯作者、新聞記者。江戸の京橋生まれ。本名は野崎文蔵、字は能連、幼名兼吉、また庫七、後に文蔵と改めた。別号に鈍亭、金屯道人、猫々道人、和堂開珍、英魯文、戯作書太郎、野狐庵。俳号は香雨亭応一、狂名は斜月窗諸兄。 京橋の鑓屋町に生まれる。魚屋を営む父野崎佐吉は、星窓梶葉という号を持ち俳句や狂歌を好み、文蔵も戯文や小説を好んで育った。大きな商家の丁稚となったが、人相見に小説家になれば出世すると言われ、18の年に花笠魯介文京の弟子となる。1849年(嘉永2年)19歳の時に名弘めの摺物「名聞面赤本(なをきいておもてあかほん)」を書き、それに先輩の文人や芝居作家に賛助の俳句や短歌を書いてもらったが、最後に当時82歳の滝沢馬琴に頼んで「味噌揚げて作り上手になりたくば世によく熟れし甘口ぞよし」という狂歌を贈られた。
秋奈 るい(あきな るい、2月9日 - )は、宝塚歌劇団宙組… 秋奈 るい(あきな るい、2月9日 - )は、宝塚歌劇団宙組に所属する男役。宙組副組長。 大阪府箕面市、百合学院高等学校出身。身長169cm。愛称は「なっつ」。 2009年、宝塚音楽学校入学。 2011年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に97期生として入団。入団時の成績は15番。星組公演「ノバ・ボサ・ノバ/めぐり会いは再び」で初舞台。 2012年、組まわりを経て宙組に配属。 2023年6月12日付で宙組副組長に就任。
白川 舞(しらかわ まい、2月9日 - )は、ライムライト所… 白川 舞(しらかわ まい、2月9日 - )は、ライムライト所属のフリーアナウンサー。元青森テレビアナウンサー。 東京都出身。小学校時代は中国・上海で過ごし、中学校以降は日本へ帰国し東京で育った。共立女子大学文芸学部文芸学科卒業。 2023年4月に青森テレビ(ATV)に入社した(同期は俵谷理瑶)。同年5月28日にニュースデビュー(初鳴き)を果たし、同月30日には夕方の情報番組『わっち!!』の新人アナウンサー紹介で登場した。 2023年11月25日から毎月第4土曜日放送の情報番組『耳よりサタデー』MCを務めていたが、2025年9月27日放送分をもって卒業した。当初は10月放送分での交代予定だったが、改編期に合わせて急遽前倒しとなった。
天飛 華音(あまと かのん、2月9日 - )は、宝塚歌劇団星… 天飛 華音(あまと かのん、2月9日 - )は、宝塚歌劇団星組に所属する男役スター。 鹿児島県鹿児島市、市立吉野中学校出身。身長171cm。愛称は「カノン」。 2014年、宝塚音楽学校入学。 2016年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に102期生として次席入団。星組公演「こうもり/THE ENTERTAINER!」で初舞台。その後、星組に配属。 2019年、紅ゆずる・綺咲愛里トップコンビ退団公演となる「GOD OF STARS」で、新人公演初主演。その後も3度に渡って新人公演主演を務める。 2023年の「My Last Joke」でバウホール公演初主演。 2025年9月、「アレクサンダー大王 -天上の王国-」(宝塚バウホール・東京建物 Brillia HALL)で東上公演初主演。
九里 みほ(くのり みほ、2月9日 - )は、日本の女優であ… 九里 みほ(くのり みほ、2月9日 - )は、日本の女優である。ヘリンボーン所属。神奈川県横須賀市出身。2007年に九里美保から九里みほに改名した。 2006年、劇団ビタミン大使ABC退団。その後、小劇場の舞台に出演。ドラマ、映画、TVCMのナレーションを中心に活動。 2017年11月より、ウクレレ弾き語りを始め、2018年11月9日1st minialbum虹のネコリリース。2021年7月9日2ndフルアルバム月見る猫はウクレレを歌うをリリース。都内、神奈川、名古屋、大阪、熊本、2023年からは韓国のライブハウスにも出演。 野中希とツインボーカルユニットSalud-Salutとして音楽活動もしているが、現在は休止中。