杉山 二郎(すぎやま じろう、1928年9月14日 - 20… 杉山 二郎(すぎやま じろう、1928年9月14日 - 2011年11月30日)は、日本の美術史学者。 東京府出身。1954年東京大学文学部美学美術史学科卒業。1955年奈良国立文化財研究所美術工藝室勤務、1960年東京国立博物館学芸部に勤務、東洋考古室長。シルクロードの現地調査に参加、西アジアの古代美術や東西文化交流史を研究。 1988年長岡技術科学大学工学部教授、1991年佛教大学文学部教授、1996年国際仏教学大学院大学教授、2002年退任。 1969年『大仏建立』で毎日出版文化賞受賞。 2011年11月30日、膵臓(すいぞう)がんで死去。83歳没。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
南澤 道人(みなみさわ どうにん、1927年(昭和2年)9月… 南澤 道人(みなみさわ どうにん、1927年(昭和2年)9月14日 - )は、日本の僧侶。曹洞宗管長。永平寺第80世貫首。駒澤大学卒業。道号法諱・祖苗道人 長野県更級郡桑原村(現在の千曲市大字桑原)の龍洞院という寺の長男として生まれる。長野県屋代中学校(旧制中学)を経て、1945年に海軍兵学校、1948年に駒澤大学専門部仏教科卒業。1949年、大本山永平寺僧堂に安居。 2003年まで長野県龍洞院住職。その間、1982年に大本山永平寺の副寺(ふうす)、副監院、監院、並びに道元禅師七百五十回大遠忌奉修の総監を務める。札幌中央寺住職。 2008年より大本山永平寺副貫首。2020年9月29日、永平寺貫首に就任。
斉藤 安代(さいとう やすのり、1927年9月14日 - 2… 斉藤 安代(さいとう やすのり、1927年9月14日 - 2005年4月6日)は、日本の映画プロデューサー、民間放送局経営者である。東映東京撮影所の企画部から日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)へ転身して以降、同社常務取締役、同社常勤監査役、静岡朝日テレビ代表取締役副社長等を歴任した。 東映時代、斎藤 安代とクレジットされた作品がある。インターネット・ムービー・データベースの表記 Yasuyo Saitô も、Movie Walker での読み「サイトウヤスオ」も、いずれも誤りである。 1927年(昭和2年)9月14日、静岡県に生まれる。 第二次世界大戦後、旧制高等学校から東京大学文学部に入学、1949年(昭和24年)3月に卒業した。
宇佐美 魚目(うさみ ぎょもく、1926年9月14日 - 2… 宇佐美 魚目(うさみ ぎょもく、1926年9月14日 - 2018年10月19日)は、愛知県出身の俳人、書家。本名は和男。名古屋市生まれ、愛知県第一中学校卒。19歳のとき父・野生の勧めで俳句をはじめ、翌年より「ホトトギス」に投句、高濱虚子、橋本鶏二に師事。また「牡丹」「桐の葉」でも学ぶ。1954年、愛知県愛知郡鳴海町(現、名古屋市緑区鳴海町)にて書道塾を開く。書は武市秀峰に師事。蜻蛉会、舟上会主宰(幹事長:宮川一水)。「桐の花」「鷹」「雪」を経て、1957年に鶏二の「年輪」創刊に参加、編集を担当。また野見山朱鳥に兄事。1958年、第1回年輪賞、第1回四誌連合会賞受賞。1963年、波多野爽波の「青」同人参加。
廣田 馨(ひろた かおる、1926年9月14日 - 2021… 廣田 馨(ひろた かおる、1926年9月14日 - 2021年11月5日)は、日本の実業家。元積水化学工業代表取締役社長。 熊本県出身。1952年大阪経済大学経済学部卒業。積水化学工業の取締役・常務・専務・副社長・社長・会長・相談役を歴任。 1984年に当時の藤沼基利社長の在職逝去に伴い、同年11月に代表取締役社長に就任した。その後、積水化学工業の社長・会長として15年に渡り活躍した。 1999年勲二等瑞宝章を受章。 2021年11月5日、老衰のため死去。95歳没。叙従四位。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
渡辺 保男(わたなべ やすお、1926年(大正15年)9月1… 渡辺 保男(わたなべ やすお、1926年(大正15年)9月14日 - 1992年(平成4年)1月30日)は、日本の政治学者。国際基督教大学名誉教授。 神奈川県横浜市生まれ。1952年東京大学法学部政治学科卒。学習院大学教授を経て、1966年国際基督教大学教授、1984年学長となり、後に名誉教授となる。 1992年1月30日、肝不全のため逝去。
菅原 峻(すがわら たかし、1926年9月14日 - 201… 菅原 峻(すがわら たかし、1926年9月14日 - 2011年6月24日)は、北海道二海郡八雲町出身の図書館コンサルタント。「日本初の図書館コンサルタント」であるとされることがある。25年間にわたって日本図書館協会に勤務して『中小レポート』などに関与した後、図書館計画施設研究所を創設して独立した。 1926年(昭和元年)に北海道渡島支庁の二海郡八雲町に生まれ、旧制北海道庁立八雲中学校を卒業後に八雲町役場に就職した。日中戦争時には少年兵として志願し、神奈川県高座郡相模原町淵野辺の陸軍兵器学校で特別幹部候補生となったが、1945年(昭和20年)8月の終戦後には復員して八雲町役場に復職した。 ここでの仕事の一つに進駐軍に様々なレクリエーション(テニス、スクエア・ダンス等)を習い、それを町民に教えるということがあった。
岡本 佐四郎(おかもと さしろう、1925年9月14日 - … 岡本 佐四郎(おかもと さしろう、1925年9月14日 - )は、日本の技術者、実業家。帝人代表取締役社長や、日本化学繊維協会会長を務めた。化学工学会賞技術賞受賞。 1945年桐生工業専門学校応用化学科選科修了。1948年東京工業大学高分子化学科卒業、帝国人造絹絲入社。1964年帝人三原工場ナイロン製造部次長。1965年帝人松山工場ナイロン第1製造部長。1968年帝人徳山工場副長。1969年帝人徳山工場長。1970年帝人松山工場長。1971年帝人取締役に昇格。1983年帝人代表取締役社長。ナイロンタイヤコ-ドの改良などを実現した。1969年には「ポリエステル連続重合、直接紡糸法の開発および工業化」により、化学工学会賞技術賞受賞。
吉田和夫(よしだ かずお、1925年〈大正14年〉9月14日… 吉田和夫(よしだ かずお、1925年〈大正14年〉9月14日- )は、日本の経営学者、関西学院大学名誉教授。専門はドイツ経営学。 京都市生まれ。同志社大学経済学部卒。1971年「ドイツ企業経済学」で関西学院大学商学博士。関西学院大学商学部講師、助教授、教授。89年定年、名誉教授、大阪学院大学教授。
松本 作衛(まつもと さくえ、1924年(大正13年)9月1… 松本 作衛(まつもと さくえ、1924年(大正13年)9月14日 - 2007年(平成19年)8月29日)は、日本の農林官僚。農林水産事務次官。茨城県出身。 茨城県立水海道中学校、弘前高等学校を経て東京大学経済学部経済学科卒業後、農林省入省。農林経済局金融課長、林野庁林政部林政課長、大臣官房予算課長、国土庁土地局次長などを経て、国土庁土地局長(1977年)、初代農水省官房長(1978年)、食糧庁長官(1979年)となり、1981年(昭和56年)に農林水産事務次官に就任。 退官後は農林漁業金融公庫総裁(1984年)、農林水産技術会議会長(1991年)、農業者大学校校長(1995年)を歴任した。 2007年8月29日、急性心不全により、82歳で死去。
花柳 寿南海 (はなやぎ としなみ、1924年9月14日 -… 花柳 寿南海 (はなやぎ としなみ、1924年9月14日 - 2018年9月11日)は、東京都生まれの日本舞踊家。位階は従四位。 本名は柴崎照子(しばざき てるこ)(旧姓・福井)。文化功労者。 1924年、東京都出身。横浜第一高等女学校卒業。3歳から日本舞踊を習い始め1932年に花柳寿京、花柳寿陽に師事し、1942年に花柳寿南海を名乗る。1946年に花柳寿輔の内弟子となる。1967年に「花柳寿南海とおどりを研究する会」、1989年に「花柳寿南海舞踊の会」を主宰する。山姥伝説をもとにした「山姥物」などの古典を得意とする一方で創作舞踊にも力を注いだ。1966年、芸術選奨文部大臣賞受賞。1992年、日本芸術院賞受賞。
石村 善助(いしむら ぜんすけ、1924年(大正13年)9月… 石村 善助(いしむら ぜんすけ、1924年(大正13年)9月14日 - 2006年7月30日)は、日本の法学者。専門は、民法・法社会学。学位は、比較法修士(Master of Comparative Law (M.Comp.L.))、法学博士(東京大学・論文博士・1961年)。東京都立大学名誉教授。2003年4月、勲三等瑞宝章受章。 福岡県福岡市生まれ。誕生日(9月14日)がオイゲン・エールリッヒと同一である。実家は福岡市の土産菓子として知られる鶴乃子などを製造販売する石村萬盛堂。 東京帝国大学在学中の勤労動員で静岡県の山村に滞在時、学生の状況を知るため巡回していた教授陣の一員であった川島武宜と出会う。
山下 龍二(やました りゅうじ、1924年9月14日 - 2… 山下 龍二(やました りゅうじ、1924年9月14日 - 2011年3月23日)は、中国哲学研究者、名古屋大学名誉教授。 東京生まれ。父は日本大学教授を務めた弁護士の山下博章(1898年 - 1943年)。1943年東京府立高等学校(七年制)文科乙類卒業。1947年東京帝国大学文学部支那哲学文学科卒業、52年同大学院中国哲学科特別研究生満期退学。1954年法政大学第二高等学校教諭、1957年名古屋大学文学部講師、61年助教授、68年教授、70年文学部長、1988年定年退官、名誉教授、名古屋学院大学教授、89-92年同外国語学部長。
マナブ 間部(まなぶ まべ、1924年(大正13年)9月14… マナブ 間部(まなぶ まべ、1924年(大正13年)9月14日 - 1997年(平成9年)9月22日)は、日系ブラジル人の画家。日本生まれであるが後にブラジルに移住し、同国を中心に活動した。マナブ・マベ、間部 学とも表記される。ブラジルを代表する文化人。 熊本県出身。10歳で家族と共にブラジルへ移住。コーヒー農園での過酷な労働に従事しながら、独学で絵画を学んだ。1950年代後半、コーヒー園を売り払いサンパウロへ転居。看板描きなどで生計を立てる極貧生活の中、1959年にサンパウロ・ビエンナーレで国内大賞、パリ青年ビエンナーレで受賞し、一躍世界的に「時の人」となった。 「クワを捨てて2年」で世界の頂点へ登り詰めたその成功は、当時のメディアから「シンデレラ・マン」と称賛された。
斎藤 要(さいとう かなめ、1922年9月14日 - 200… 斎藤 要(さいとう かなめ、1922年9月14日 - 2004年9月23日)は、日本の農学者。農学博士(北海道大学)。小樽商科大学名誉教授。元小樽短期大学学長。専門は物理化学、商品科学。 北海道小樽市出身。1946年(昭和21年)北海道帝国大学農学部卒業。1951年(昭和26年)北海道大学大学院特別研究生課程修了。同年10月、北海道大学農学部非常勤講師、同年12月鹿児島大学助教授。1960年、北海道大学農学博士(「魚類血清蛋白質の組成に関する比較生化学的研究」) 。1962年(昭和37年)小樽商科大学商学部助教授。翌年、同教授。1986年(昭和61年)小樽商科大学停年退職、同大学名誉教授。同年10月、小樽女子短期大学教授。
松田 武彦(まつだ たけひこ、1921年 <大正10年> 9… 松田 武彦(まつだ たけひこ、1921年 <大正10年> 9月14日 - 1999年 <平成11年> 1月26日)は、日本の工学者、工学博士。位階は従三位。 カーネギー工科大学(現カーネギーメロン大学)でハーバート・サイモンに学び、東京工業大学経営工学科助教授、教授、学長を歴任。日本オペレーションズ・リサーチ学会(OR学会)会長、IFORS(国際OR学会連合)会長、経営情報学会初代会長などをつとめ、日本における経営工学、OR研究の黎明期において、その発展、普及に寄与した。研究面では組織知能工学などを提唱。松田研究室出身者に飯島淳一など。
神林 虎二(かんばやし とらじ、1921年9月14日 - 没… 神林 虎二(かんばやし とらじ、1921年9月14日 - 没年不明)は、日本の経営者、銀行家。近畿銀行社長、会長を務めた。茨城県出身。 1950年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1951年に近畿相互銀行に入社。1968年5月に取締役に就任し、1975年5月に常務を経て、1979年6月には社長に就任した。1983年6月に会長を経て、1987年6月には相談役に就任。 1985年11月に藍綬褒章を受章。
三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 -… 三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 - 1992年〈平成4年〉2月22日)は日本の報道写真家。1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)まで、日本人で唯一『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の正規スタッフ写真家として活動した。退社後は、フリーランスの報道写真家として国際的に活動した。晩年はアマチュア写真界の発展並びに学校教育に多大な貢献をした。 青年期に『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の表紙に掲載されたマーガレット・バーク=ホワイトの写真と、土門拳が撮影した「傘を回す子供」の写真に感銘を受け、写真家を志す。土門拳、亀倉雄策に師事し、写真を学ぶ。 シベリア抑留中の日本人が帰還する様子を撮影したフォト・ストーリー「日本の“赤色部隊”祖国に帰る」が『ライフ』の巻頭特集に掲載されたのを機に、『ライフ』の正規スタッフ写真家となる。
原子 公平(はらこ こうへい、1919年9月14日 - 20… 原子 公平(はらこ こうへい、1919年9月14日 - 2004年7月18日)は、俳人。 北海道小樽市に生れる。北朝鮮元山中学校、旧制第三高等学校を経て東京大学文学部を卒業。その後岩波書店、小学館などに勤務した。 俳句は三高時代に「馬酔木」に投句、その後加藤楸邨に師事し「寒雷」同人。1946年、澤木欣一、細見綾子らとともに「風」を創刊、同誌に俳句および評論を発表し社会性俳句を推進、特に1955年に発表した「山本健吉の時評」は社会性俳句の論争のきっかけとなった。1952年より現代俳句協会幹事。1953年「萬緑」同人。1962年「萬緑」を退会し「海程」同人。また「秋」にも同人として参加した。1973年「風涛」を創刊、主宰。
村上七郎(むらかみ しちろう、1919年〈大正8年〉9月14… 村上七郎(むらかみ しちろう、1919年〈大正8年〉9月14日 - 2007年〈平成19年〉9月18日)は、日本の実業家。テレビ新広島副社長、フジテレビジョン専務取締役、関西テレビ放送社長、日本民間放送連盟副会長などを務めた。 陸軍大将を務めた菅野尚一・ハルの七男に生まれる。東京で誕生後、山口県に転居(一部のプロフィールには山口県出身と明記)。末子であるため、学生時代に村上水軍の末裔である母方の血筋を継ぎ、村上健三の養子となる。第22代因島村上家当主。 第一高等学校を経て、1947年東京大学法学部卒業後、共同通信社に入社。社会部記者として出発し、同期にはのちにTBSニュースキャスターを経て参議院議員となる田英夫がいた。
天野 富勝(あまの とみかつ、1919年9月14日 - 19… 天野 富勝(あまの とみかつ、1919年9月14日 - 1985年12月18日)は、日本の水泳選手。福岡県直方市出身。 1937年、福岡県立鞍手高等学校卒業。八幡製鐵を経て日本大学に入学。大学時代の1938年8月10日に神宮プールで行われた第14回関東水上選手権大会の1500m自由形で当時の世界新記録(18分58秒8。1000m通過タイム12分33秒8も当時の世界新記録)を樹立した。同記録は1949年8月の全米水上選手権予選で橋爪四郎に破られるまで11年間保持された。
愛新覚羅 顕琦(あいしんかくら けんき、1918年9月14日… 愛新覚羅 顕琦(あいしんかくら けんき、1918年9月14日 - 2014年5月26日)は、清朝八大親王の一人、第10代粛親王善耆の末娘(第十七女)として旅順に生まれた人物である。天津郊外在住。最後の生存王女であった。旧字体では愛新覺羅顯琦。簡体字:爱新觉罗显琦、拼音: Àixīnjuéluó Xiǎnqí(アイシンジュエルオ・シエンチー)。中国名は金 黙玉。 1918年(大正7年)9月14日、第四側室の末子(第17女)として旅順(現在の遼寧省大連市)で生まれる。同側室が生んだ子は男王6人、女王3人で、母を同じくする2人の姉の1人が、第十四王女「男装の麗人」こと川島芳子であった。父は、1922年(大正11年)3月15日に旅順で死去している。
安良岡 康作(やすらおか こうさく、1917年9月14日 -… 安良岡 康作(やすらおか こうさく、1917年9月14日 - 2001年10月1日)は、日本の国文学者。東京学芸大学名誉教授。日本中世文学、国語教育専攻。
田中 利治(たなか としはる、1917年9月14日 - 20… 田中 利治(たなか としはる、1917年9月14日 - 2005年3月23日)は、日本の実業家。元三菱自動車工業会長。元三菱重工業副社長。 長兄は、元阪神電気鉄道社長の田中隆造 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制松山高等学校を経て、京都帝国大学工学部機械工学科卒業。 1940年(昭和15年)京都帝国大学卒業後、三菱重工業に入社し、長崎兵器製作所に配属。1941年(昭和16年)陸軍に入隊。前橋予備士官学校を経て満州に配備。1944年(昭和19年)陸軍除隊後、三菱重工業長崎に復帰。 1946年(昭和21年)三菱重工業長崎造船所に異動。1969年(昭和44年)同社横浜造船所に異動。
篠崎 勝(しのざき まさる、1917年(大正6年)9月14日… 篠崎 勝(しのざき まさる、1917年(大正6年)9月14日 - 1999年(平成11年)3月14日)は日本の歴史学者。京都大学卒業。愛媛大学教授、愛媛大学学生部長、近代史文庫代表者、愛媛県歴史教育者協議会委員長、愛媛民主教育研究所所長等歴任。専攻は日本史。 愛媛県伊予郡北伊予村大字横田(現在の伊予郡松前町)で、篠崎昌宜・幸枝の長男として生まれた。父は松山に移り質屋業を営むことになるが、高浜虚子の弟子・富安風生に俳句を習い、自宅で俳句会を開いていた。勝は父に頼まれて俳句を選び、句評もしていた。 1930年愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、1934年松山高等学校(文科乙類)へ進学した。
長島 三芳(ながしま みよし、1917年9月14日 - 20… 長島 三芳(ながしま みよし、1917年9月14日 - 2011年9月7日)は、日本の詩人。 神奈川県横須賀市生まれ。横浜専門学校(現在の神奈川大学)卒業。北園克衛の詩誌「VOU」に参加。1937年より中支を転戦し、負傷して帰国。戦後は「日本未来派」同人、「植物派」主宰となる。1958年、横浜詩人会設立に参加。現代詩人会会員。また、神奈川近代文学館評議員を務めた。 戦争体験を直截に描いた詩を多数書く。三好達治や草野心平など多くの詩人と交流があり、その直筆原稿や書、掛け軸などは、死後、遺族によって神奈川近代文学館に寄贈された。遺稿「駆けぬけた夏」は、「現代詩手帖」2012年1月号に掲載された。
白水 隆(しろうず たかし、1917年9月14日 - 200… 白水 隆(しろうず たかし、1917年9月14日 - 2004年4月2日)は、日本の昆虫学者。九州大学名誉教授。専門はチョウ類の分類学、生物地理学。日本および東アジアのチョウ類研究を牽引した基礎生物学者の一人である。 1917年9月14日、福岡県福岡市生まれ。1938年旧制宮崎高等農林学校(宮崎大学農学部の前身)卒業、1941年九州帝国大学農学部卒業。1942年2月九州帝国大学農学部副手、同年6月助手。1944年召集令状を受け鹿児島県の志布志に配属されるも1年で除隊となり、研究室に戻った。九州大学教養部助教授を経て、1963年九州大学教授。1981年定年退官、同大学名誉教授。 日本および東アジアのチョウ類の研究で著名。
鈴木 重吉(すずき じゅうきち、1916年9月14日 - 2… 鈴木 重吉(すずき じゅうきち、1916年9月14日 - 2002年11月30日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。 北海道利尻島出身。1945年広島文理科大学卒、北海道庁通訳官、小樽商業学校教諭、札幌文化専門学院(現・札幌学院大学)教師、1947年北海道帝国大学文学部助手、1949年北海道大学法学部講師、1951年同文学部講師、1952年助教授、1965年「ホーソーン研究」で立教大学文学博士。1968年教授、1980年定年退官、名誉教授、立正大学教授、1986年定年退職。1992年秋、勲三等旭日中綬章受勲。
阿部 助哉(あべ すけや、1914年9月14日 - 1995… 阿部 助哉(あべ すけや、1914年9月14日 - 1995年4月22日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(5期)。
髙橋 節郎(たかはし せつろう、新字体:高橋 節郎、旧字体:… 髙橋 節郎(たかはし せつろう、新字体:高橋 節郎、旧字体:高橋 節郞、1914年(大正3年)9月14日 - 2007年(平成19年)4月19日)は、日本の漆芸家である。長野県南安曇郡北穂高村(現安曇野市)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、1938年東京美術学校工芸科漆工部卒業。日本芸術院会員、文化勲章受章者、文化功労者、日展顧問。
藤川 一秋(ふじかわ いっしゅう、本名・かずあき、1914年… 藤川 一秋(ふじかわ いっしゅう、本名・かずあき、1914年9月14日 - 1992年8月17日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(1期)。トピー工業社長。 愛知県額田郡額田町(現岡崎市)の農家に生まれる。尋常小学校高等科を卒業後、愛知県庁に勤務。1935年(昭和10年)、上京して報知新聞社に入社。1939年(昭和14年)、東京シヤリングに転職。1943年(昭和18年)10月、東京シヤリングは宮製鋼所と合併し東都製鋼が発足。1946年(昭和21年)、同社の取締役に抜擢された。常務を経て1947年(昭和22年)に社長に就任。1952年(昭和27年)、車輪工業社長を兼務。1953年(昭和28年)に慶應義塾大学通信教育課程経済学科卒業。
峯村 文人(みねむら ふみと、1913年〈大正2年〉9月14… 峯村 文人(みねむら ふみと、1913年〈大正2年〉9月14日 - 2004年〈平成16年〉3月6日)は、日本の国文学者。 長野県小県郡富士山村(現上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1935年東京高等師範学校卒業、1935年から旧制新潟県立六日町中学教諭を務めた後、1940年東京文理科大学国文科卒業。東京府立第八高等女学校教諭から1942年小樽経済専門学校(学制改革により小樽商科大学)教授、1954年東京教育大学教授、1962年「新古今時代の研究」で東京教育大学文学博士。1977年定年退官、名誉教授、国際基督教大学教授。1984年同客員教授。1986年秋、勲三等旭日中綬章受勲。
鬼丸 勝之(おにまる かつゆき、1913年9月14日 - 1… 鬼丸 勝之(おにまる かつゆき、1913年9月14日 - 1977年2月14日)は、日本の官吏、政治家。自民党所属参議院議員(2期)。位階勲等は従三位勲二等。 福岡県みやま市(旧山門郡瀬高町)生まれ。三人兄弟の長男。父親が関東州民政署勤務で幼少期を旅順、金州、大連で過ごす。1934年、旧制福岡高等学校文科卒。1936年に高文試験合格。 1937年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、内務省に入省。社会局属。1938年より京都府、北海道、福島県にて経済、民生、教育、労働の各部課長、内閣総合計画局、戦災復興院参事官等を歴任。1950年から建設省住宅局企画、大臣官房人事、文書の各課長、首席監察官、住宅局長を経て、1958年 建設省大臣官房長に就任。
小秋元 隆輝(こあきもと たかてる、1913年9月14日 -… 小秋元 隆輝(こあきもと たかてる、1913年9月14日 - 2004年12月20日)は、日本光学工業(後のニコン)の技術者。電気露出計や光電素子を研究、カメラ用検査機器を開発して、高性能で安定した品質のニコン製品の供給を実現した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
橋本 喜三(はしもと きぞう、1912年9月14日 - 没年… 橋本 喜三(はしもと きぞう、1912年9月14日 - 没年不明)は、美術評論家。 京都市生まれ。1936年早稲田大学文学部英文科卒。1940年朝日新聞社に入社。京都支局、大阪本社学芸部で美術記者。1946年京都美術懇話会を結成しのち理事。1967年定年退社。1970年池坊短期大学教授、1983年客員教授。1975-1983年朝日アートセンター館長。
川崎 秀二(かわさき ひでじ、1911年(明治44年)9月1… 川崎 秀二(かわさき ひでじ、1911年(明治44年)9月14日 - 1978年(昭和53年)2月22日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は瑞宝章。父親は立憲民政党代議士の川崎克。元厚生労働大臣の川崎二郎は次男。 大阪府大阪市生まれ。1929年(昭和4年)旧制芝中学校卒業。1935年(昭和10年)早稲田大学政治経済学部を卒業。早大時代は陸上部に所属する傍ら、学内の弁論大会に参加し、痛烈な軍部批判を行って入賞したこともある。卒業後はNHKに入局するも、戦時中は応召により中国大陸を転戦、この時の経験から、戦後日中友好運動に挺身することとなる。 企画部副部長を最後にNHKを退職し、戦後初の総選挙となった1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に父親の地盤を引き継いで旧三重1区から日本進歩党公認で立候補し当選、以後当選11回を数える(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。
阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治4… 阿部 合成(あべ ごうせい / まさなり、1910年(明治43年)9月14日 - 1972年(昭和47年)6月18日)は、昭和に活躍した洋画家。 青森県南津軽郡浪岡村(現在の青森市浪岡)に、父阿部政太郎、母由みの5男6女の末っ子として生まれる。阿部家は北畠顕家の末裔と言われ、代々浪岡八幡宮の宮司をしていた。合成の名は、同年の韓国併合に因んでいるが、後年合成はこの名を嫌ったという。父は当時衆議院議員だったが、1917年(大正6年)青森市長に就任したことで、一家は青森に移転。4月青森市橋本尋常小学校に入学。1922年(大正11年)1月に母を亡くし、墓前で一人泣きじゃくったという。翌年、青森県立青森中学校(現在の青森県立青森高等学校)に入学。
山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1… 山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1972年7月7日)は日本の哲学者、言語哲学者。立命館大学教授。 鹿児島県国分市(霧島市)出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1927年4月に第三高等学校文科へ入学し、6月に退学。1928年4月に第七高等学校造士館理科へ入学、1931年3月に卒業。1931年4月に京都大学文学部哲学科へ入学し、田邊元に師事。1934年3月に京都大学文学部哲学科を卒業して、同年4月から1936年3月まで大学院在学。 1936年4月~1938年3月、立命館大学専門部講師。1938年4月~1940年3月、京都帝国大学附属図書館嘱託。
井上 究一郎(いのうえ きゅういちろう、1909年9月14日… 井上 究一郎(いのうえ きゅういちろう、1909年9月14日 - 1999年1月23日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、エッセイスト。東京大学名誉教授。本名・九一郎。マルセル・プルースト研究の第一人者であり、『失われた時を求めて』の個人全訳で知られる。 大阪府出身。東京帝国大学フランス文学科卒業。1949年、東京大学教養学部助教授。1953年、フランス渡航中の森有正が辞表を出したため、その代わりとして文学部仏文科助教授、61年教授。70年定年退官後は武蔵大学教授。1999年1月23日に心肺不全のため、89歳で死去した。娘の金沢公子もフランス文学者で、その子(井上の孫)金沢英之は、国文学者である。
平沢 和重(ひらさわ かずしげ、1909年9月14日 - 1… 平沢 和重(ひらさわ かずしげ、1909年9月14日 - 1977年3月7日)は、日本の外交官。NHK解説委員。 香川県丸亀市生まれ。平沢家は岩手県和賀郡西和賀町沢内の旧家で、父の代に転居した。1930(昭和5)年3月に第一高等学校(一高)を卒業し、1934(昭和9)年に文官高等試験外交科試験に合格。1935(昭和10)年3月に東京帝国大学法学部政治学科卒業。翌月、外務省に入省し、書記生となる。1936(昭和11)年7月にベイツ大学を卒業し、1938(昭和13)年4月まで外交官補として在米大使館に勤務。斎藤博アメリカ合衆国駐箚日本国特命全権大使在任中に大使秘書官を務める。 1938年4月、バンクーバーから一時帰国のために横浜港に向かう氷川丸に乗船した際、偶然にもIOC委員で、エジプト・カイロでのIOC総会から帰国の途にあった嘉納治五郎と出会い、交友を深めた。
中田 弘二(なかた こうじ、1909年9月14日 - 没年不… 中田 弘二(なかた こうじ、1909年9月14日 - 没年不詳)は、俳優、政治家である。本名は中田 博二(なかた ひろじ)。 1909年(明治42年)9月14日、長崎県長崎市瀬ノ脇町(現在の同市飽の浦町)に生まれる。父中田猪十郎(生年不詳 - 1914年)は貿易商・土木労力請負業を経営する傍ら、国家主義者頭山満の政治結社玄洋社に入社し、孫文(1866年 - 1925年)の第三革命にも参加していた。 朝日尋常小学校(現在の長崎市立朝日小学校)から長崎県立瓊浦中学(現在は廃校)を経て、1930年(昭和5年)、日本大学専門部芸術科を卒業。卒業後、直ちに野戦銃砲第6聯隊に幹部候補生として入隊。除隊した1932年(昭和7年)10月、スカウトされて日活太秦撮影所に入社。
原 仙作(はら せんさく、1908年9月14日 - 1974… 原 仙作(はら せんさく、1908年9月14日 - 1974年7月9日 )は英語教師、英文学者。旺文社にて編集顧問を務め、大学受験生向けの英語の参考書の著者として活動した。弟は画家の原覚。 長崎県諫早市出身。海星中学校を経て1931年長崎高等商業学校(現在の長崎大学経済学部)を卒業し、日本統治下の朝鮮に渡って龍山公立中学校の教諭となる。終戦直後に米軍政長官付き通訳官兼参謀二課翻訳官を務めたあと、1946年5月に日本へ引き揚げ。旺文社の主幹となり、1948年編集顧問となる。そのかたわら1950年から1956年まで開成高等学校講師、その後は千葉大学工業短期大学部、明治大学、青山学院大学、実践女子短期大学で非常勤講師を務める。
皆川 三郎(みながわ さぶろう、1906年9月14日 - 1… 皆川 三郎(みながわ さぶろう、1906年9月14日 - 1998年10月21日)は、日本の英語学・英語史学者。 新潟県出身。東京外国語学校英語科卒。1981年「形成期の東インド会社とWilliam Adams」で立正大学文学博士。高知商業学校教師、1938年仙台陸軍幼年学校教官、1946年長岡工業専門学校教員、1949年新潟大学助教授、のち明治学院大学教授、1977年定年、帝京大学文学部教授を務めた。トマス・ハーディのほか、江戸時代の西洋との交通について研究した。
相島 敏夫(あいじま としお、1905年9月14日 - 19… 相島 敏夫(あいじま としお、1905年9月14日 - 1973年2月17日)は、科学ジャーナリスト、科学解説者。 東京都出身。1931年、東京帝国大学工学部冶金学科卒業。同年、朝日新聞社に入社し、1943年に日本出版会に転出するまで学芸部記者を務めた。 日本出版会雑誌第一課長、日本出版協会雑誌課長、事務局次長などを経て、1949年に法政大学出版局長。 のち、科学評論家・解説者としてラジオ・テレビなどで活躍。1966年、科学技術庁長官賞受賞。1968年、NHK放送文化賞を受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashi… 橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashimoto、1904年9月14日 - 1949年5月6日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者、音楽教育者。 東京都本郷生まれ。ヴァイオリンを辻吉之助に師事。北野中学校(現:大阪府立北野高等学校)を経て、1923年(大正12年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)入学。安藤幸とヨゼフ・ケーニヒにヴァイオリンを、チャーレス・ラウトロプに指揮法を学ぶ。作曲は信時潔に指導を受けるもほとんど独学であったが、同校研究科で作曲を学ぶ。歌曲『お菓子と娘』『黴』などで作曲家としての名声を獲得。斬新な曲を作る一方ではポピュラーなCM曲や歌謡曲にも手を染めた。
斎藤 巍洋(さいとう たかひろ、1903年(明治36年)9月… 斎藤 巍洋(さいとう たかひろ、1903年(明治36年)9月14日 - 1944年(昭和19年)9月5日)は、昭和時代戦前の競泳選手。1924年パリオリンピック日本代表。 大阪府に生まれる。岸和田中学校を経て、立教大学に入学。在学中、背泳ぎと短距離自由形で、何度か日本新記録を更新した。また、1924年パリオリンピックに日本代表として出場し、男子100m背泳ぎで6位に入賞した。ほか、1923年(大正12年)に開催された第6回極東選手権競技大会では100ヤード背泳ぎで優勝した。 1927年(昭和2年)大学を卒業して、大阪毎日新聞社に入社。運動部記者を務める傍ら、毎日の浜寺水泳学校の教師も務めた。 1934年(昭和9年)12月17日、ブラジルより請われ水泳コーチとして1年の契約期間で遠征し、現地で海軍生徒や関係者に日本独特の泳法を指導した。
龍口 直太郎(たつのくち なおたろう、1903年9月14日 … 龍口 直太郎(たつのくち なおたろう、1903年9月14日 - 1979年8月1日)は、日本のアメリカ文学研究者。早稲田大学名誉教授。 「瀧口直太郎」「滝口直太郎」と名前が誤記されることもある。 スタインベック、コールドウェル、カポーティなどの作品を数多く翻訳。また英国文学でもモームの翻訳が多く、日本モーム協会に参加。英文解釈や作文などの教科書も数多く執筆した。 東京府生まれ。聖学院中学校(現聖学院高等学校)卒業後、東京外国語学校英語科に進学、卒業。アメリカ文学を専攻し、早稲田大学教育学部教授を長年務め、退職後は名誉教授に就いた。 早稲田大学での教え子に角野栄子がいた。 その他共編、改訂で教科書、参考書が多数にのぼる。
花房 満三郎(はなぶさ まんさぶろう、1903年(明治36年… 花房 満三郎(はなぶさ まんさぶろう、1903年(明治36年)9月14日 - 1968年(昭和43年)3月20日)は、日本の実業家、編集者。文藝春秋元編集長、文藝春秋新社(現・株式会社文藝春秋)元取締役、新有社元専務。 1903年、内閣官僚を務めた花房直三郎の三男として生まれる。1927年、立教大学文学部卒業。 文藝春秋社に入社し、文藝春秋編集長(1939年‐1942年、1943年‐1944年)を務めた。 1946年、文藝春秋新社(現・株式会社文藝春秋)常任監査役に就任し、取締役を歴任。1948年、新有社専務に就任した。 妻・春子は、洋画家で日本初のカフェとされる「カフェー・プランタン」を創業した松山省三の長女で、歌舞伎役者の五代目河原崎國太郎の妹。
安藤 楢六(あんどう ならろく、1900年(明治33年)9月… 安藤 楢六(あんどう ならろく、1900年(明治33年)9月14日 - 1984年(昭和59年)1月11日)は、日本の実業家。小田急電鉄社長、同名誉会長。小田急百貨店社長。 東京帝国大学で学び、1925年小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)に入社。関連会社であった東京山手急行電鉄及び帝都電鉄、小田急電鉄(初代)、戦時統合により発足した東京急行電鉄(大東急)での勤務を経て、1946年6月に大東急の取締役となり、後に専務、副社長に就任する。1948年6月1日の大東急解体にも大東急副社長として携わり、現在の小田急電鉄発足に尽力。同年12月、東急の第二会社として分離独立した(新)小田急電鉄の初代社長となる。
高森 龍夫(たかもり たつお、1900年〈明治33年〉9月1… 高森 龍夫(たかもり たつお、1900年〈明治33年〉9月14日 - 1958年〈昭和33年〉5月12日)は、日本の編集者・挿絵画家。雅号は「猟夫(れお)」「夜江」。漫画原作者の梶原一騎(本名・高森朝樹)は長男、同じく漫画原作者の真樹日佐夫(本名・高森真土)は次男。 熊本県立中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)で英語の教鞭を執っていた父・高森貞太郎(1866年 - 1946年)と、熊本藩主細川家に仕えた林氏の長女・寿(? - 1963年)の間の7人兄弟(6男1女)の長男として兵庫県に生まれる。 青山学院卒業後、山梨県都留郡の都留中学校の教員を経て、平凡社や中央公論社で校正の仕事などに従事し、太宰治の担当編集者となる。