角屋 堅次郎(かどや けんじろう、1917年(大正6年)3月… 角屋 堅次郎(かどや けんじろう、1917年(大正6年)3月15日 - 2017年(平成29年)4月7日)は、日本の農林技官、労働運動家、政治家。衆議院議員(11期)。 三重県度会郡豊浜村(現伊勢市豊浜)出身。学歴は宇治山田中学(現三重県立宇治山田高等学校)を卒業。その後三重高等農林学校(現在の三重大学)農業土木学科を卒業し、さらに満洲大同学院を卒業した。 満洲国開拓総局などに勤務。従軍して陸軍中尉で終戦を迎えた。その後、農林省に勤務して、農林技官、全農林中央執行委員長、日本社会党三重県本部委員長などを歴任する。 1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙で左派社会党から立候補するが落選。
大場 松魚(おおば しょうぎょ、1916年(大正5年)3月1… 大場 松魚(おおば しょうぎょ、1916年(大正5年)3月15日 - 2012年(平成24年)6月21日)は、漆芸家。蒔絵の重要無形文化財保持者(人間国宝)。金沢美術工芸大学名誉教授、金沢市名誉市民。石川県金沢市出身。本名、勝雄。 石川県立工業学校卒業。父の大場宗秀に10年間学んだ後、昭和18年上京し、松田権六の内弟子となり2年間師事。 伊勢神宮式年遷宮御神宝「御鏡箱・御太刀鞘」(昭和27年及び47年)、中尊寺金色堂の保存修理(昭和39年)に従事したことが端緒となり、本格的な平文の技法に取り組んだ。 1978年に紫綬褒章を受ける。 1982年(昭和57年)4月20日には人間国宝に認定される。 フランスでクリスタルガラスとの融合など、新しい枠組みにも取り組んだ。
五味川 純平(ごみかわ じゅんぺい、1916年(大正5年)3… 五味川 純平(ごみかわ じゅんぺい、1916年(大正5年)3月15日 - 1995年(平成7年)3月8日)は、日本の小説家。本名︰栗田 茂(くりた しげる)。 関東州・大連生まれ。東京商科大学(現一橋大学)に入学するも1年で中退し、東京外国語学校(現東京外国語大学)英文科入学。同校在学中に、治安維持法違反の疑いで検挙されるが、その後卒業し、満州鞍山の昭和製鋼所に入社する。ここで隅谷三喜男と知り合う。1943年召集を受け、満州東部国境各地を転々とした。1945年8月のソ連軍の満州侵攻時には、所属部隊はソ連軍部隊の攻撃を受けて全滅に近く、生存者は五味川以下数名で、捕虜となる。 1948年の復員後、自らの従軍体験を基にして1956年に発表した『人間の條件』が1,300万部を超える大ベストセラーとなり、一躍人気作家となる。
奥野 良臣(おくの よしおみ、1915年3月15日 - 20… 奥野 良臣(おくの よしおみ、1915年3月15日 - 2011年8月1日)は、日本のウイルス学者。大阪大学名誉教授。専門は病原微生物学。旧姓は牧浦。 1915年(大正4年)3月15日生まれ、大阪府出身。大阪帝国大学(現・大阪大学)医学部卒業。 1956年(昭和31年)、大阪大学教授となり、1968年(昭和43年)、大阪大学微生物病研究所所長。1954年(昭和29年)、麻疹ウイルスを分離、1960年(昭和35年)、麻疹生ワクチンを開発する。いずれもノーベル賞を受賞したエンダースと同年度に独立して成功する。日本ウイルス学会会長などを務める。 2011年(平成23年)8月1日、肺炎のため96歳で死去。
大内 弘(おおうち ひろし、1914年3月15日 - 没年不… 大内 弘(おおうち ひろし、1914年3月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名大内 一郎(おおうち いちろう)。 1914年(大正3年)3月15日、愛媛県松山市に生まれる。4歳下の妹に女優の大内照子(本名・大内幸香)がいる。 旧制・愛媛縣松山中學校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を卒業、東京に移って、旧制・早稲田大学附属早稲田高等学院(大学予科、現在の早稲田大学高等学院)に進学するが、2年次で中途退学する。京都に移り、1933年(昭和8年)9月、満19歳のときに松竹下加茂撮影所に入社した。 記録に残る最初の出演作品は、同年2月22日に公開された二川文太郎監督の『仁義は耀く』である。同年5月9日に公開された笠井輝二監督の『やくざ無敵』、同年7月18日に公開された同じく『第二新選組』ではすでに主演している。
宇佐美 一夫(うさみ かずお、1914年3月15日 - 20… 宇佐美 一夫(うさみ かずお、1914年3月15日 - 2000年6月8日)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは捕手、一塁手。
桜 緋紗子(さくら ひさこ、1914年3月15日 - 200… 桜 緋紗子(さくら ひさこ、1914年3月15日 - 2002年3月20日)は、日本の女優、元宝塚少女歌劇団娘役スター。宝塚退団後、新派を経て引退。その後仏門に入り小笠原日凰(おがさわら にちおう)と名乗る尼僧となった。戦前の表記は櫻緋紗子。
林 基(はやし もとい、1914年3月15日 - 2010年… 林 基(はやし もとい、1914年3月15日 - 2010年11月18日、旧姓:渡辺)は、日本の歴史学者。専修大学文学部名誉教授。専攻は日本近世史、特に百姓一揆の研究で知られるが、西欧及び東欧諸国の歴史書も多数翻訳した。 東京市芝区田村町出身。父・八十吉は米卸商を営み、関東大震災を機に実業家へ転身し芝信用金庫を興した。小学校卒業後、東京府立第一中学校・府立高等学校に進学するも、マルクス主義の読書会に関わった廉で官憲に一時拘束されたことや、病気休学などにより府立高校を中退。このため、慶應義塾大学予科に入り直し、同大学文学部国史学科を1940年に卒業する。大学在学中は幸田成友に師事し日欧通交史を研究した。
水上 徳五郎(みずかみ とくごろう、1914年 <大正3年>… 水上 徳五郎(みずかみ とくごろう、1914年 <大正3年> 3月15日 - 1999年 <平成11年> 2月10日)は、日本の経営者。日立電線社長、会長を務めた。位階は従四位。 新潟県出身。1936年に山梨高等工業学校電気工学科を卒業し、同年4月に日立製作所に入社。1947年9月に日立電線に転じ、1967年5月に取締役に就任し、1971年5月に常務、1973年5月に専務、1977年6月に副社長を経て、1979年6月には社長に就任。1985年6月に会長を経て、1989年6月には相談役に就任。 1982年4月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1999年2月10日心不全のために死去。
西原 忠毅(にしはら ただよし、1913年3月15日 - 2… 西原 忠毅(にしはら ただよし、1913年3月15日 - 2001年6月21日)は、日本の英語学者。 福岡県出身。九州帝国大学文学部英文科卒。九州大学教養部助教授、教授。76年定年退官、名誉教授となり、西南学院大学教授を務めた。英語音声学が専門で、短歌も詠んだ。日本英語音声学会顧問。
大澤 融(おおさわ とおる、1913年3月15日 - 198… 大澤 融(おおさわ とおる、1913年3月15日 - 1983年6月26日)は、日本の農林官僚。 山梨県出身。1936年に高文行政科と高文司法科に合格し、1937年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に農林省に入省。1952年1月に食糧庁長官に就任し、1963年9月から1965年9月までに農林水産事務次官を務め、1966年7月に農林漁業金融公庫総裁を経て、1972年6月から1978年6月までに日本中央競馬会理事長を務めた。 1983年に勲二等旭日重光章を受章。 1983年6月26日肺炎のために死去。70歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
平井 義一(ひらい ぎいち、1913年(大正2年)3月15日… 平井 義一(ひらい ぎいち、1913年(大正2年)3月15日 - 2007年(平成19年)9月6日[要出典])は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 福岡県築上郡八屋町(現・豊前市)出身。1939年(昭和14年)明治大学法学部卒。東京地方専売局に勤務した後、計理士となり、麹町区議、東京市会議長秘書を歴任する。1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で福岡4区から日本自由党公認で立候補して初当選。以来5期務める。炭鉱国管疑獄では、1948年(昭和23年)衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問されている。第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任する。1955年(昭和30年)の保守合同により自由民主党衆議院議員となる。
斎藤 一郎(さいとう いちろう、1911年(明治44年)3月… 斎藤 一郎(さいとう いちろう、1911年(明治44年)3月15日 - 1968年(昭和43年)8月30日)は、昭和時代の労働運動家、労働評論家。 北海道長万部町生まれ。1930年山形県立新庄中学校(現山形県立新庄北高等学校)卒業。 1931年秋田で農民運動に参加。1932年全農全国会議秋田地方委員会を組織、日本共産党に入党。同年11月に治安維持法違反で検挙されて懲役5年の判決を受け、1939年に出獄。 敗戦後の1945年、共産党に再入党。1946年の結成時から産別会議の書記となり、党フラクションの責任者として労働運動を指導。1947年の二・一スト挫折の渦中に立つ。 1949年に労働組合政策をめぐって党中央と対立し、産別会議を離れ、共産党東京都委員に就任。
坂本 善三(さかもと ぜんぞう、1911年3月15日 - 1… 坂本 善三(さかもと ぜんぞう、1911年3月15日 - 1987年10月14日)は、日本の洋画家。 「グレーの画家」と呼ばれる。グレーと黒を主体にした独自の抽象画は、東洋の寡黙、沈黙の錬金術などとも評じられる。1986年のFIEST展(フランス、パリ)で、リトグラフィ「構成80」が専門家賞(Prix Professionnel)を受賞するなど、国際的にも評価が高い。 作品の収蔵は文化庁、栃木県立美術館、熊本県立美術館、福岡市美術館、北九州市立美術館、坂本善三美術館ほか。熊日社会賞、西日本文化賞、第1回長谷川仁記念賞、熊本県文化懇話会賞受賞。熊本県近代文化功労者。 熊本県阿蘇郡小国町には、坂本善三の作品など約500点を収蔵、展示する坂本善三美術館がある。
榊原 政春(さかきばら まさはる、1911年(明治44年)3… 榊原 政春(さかきばら まさはる、1911年(明治44年)3月15日 - 2002年(平成14年)12月11日)は、昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 後に子爵・榊原政敬の養子となる榊原政和の二男として生まれる。父の死去に伴い、1927年(昭和2年)3月1日、子爵を襲爵した。 1935年(昭和10年)東京帝国大学法学部を卒業。その後、同学部研究室で国際政治学を研究。1936年、台湾拓殖に入社。1938年(昭和13年)に召集され野砲兵第1連隊に入隊。1940年(昭和15年)陸軍少尉に任官し、1941年(昭和16年)南方軍司令部付となり、1942年(昭和17年)陸軍中尉に昇進。南方軍では、報道部、軍政部員として勤務し、日本陸軍占領地をくまなく視察した。
山﨑 一雄(やまさき かずお、1911年3月15日 - 20… 山﨑 一雄(やまさき かずお、1911年3月15日 - 2010年4月10日)は、日本の化学者。専攻は無機化学。日本学士院会員。 名古屋市出身。東京帝国大学理学部卒業。大学卒業後は東京帝国大学の恩師である柴田雄次の研究室助手として無機化学の研究を行う。 柴田研究室在籍時代に法隆寺(奈良県)の昭和の大改修に伴う壁画保存調査会の調査員に入ったことをきっかけとして、古文化財の科学的調査研究の分野に進むようになる。 1941年に名古屋帝国大学教官となる。それとほぼ同時に柴田雄次が名古屋帝国大学理学部長として赴任して来たため、柴田と共に名古屋帝国大学(のち名古屋大学)理学部の礎を築く。 化学者としての山崎は、無機化学、錯体化学の分野から古文化財についての調査研究を進め、紫外線や赤外線、或いはX線を用いた解析法、ベータ線後方散乱法など化学的手法で正倉院宝物、醍醐寺の五重塔壁画、高松塚古墳壁画といった古来の遺跡、文化財についての研究に参画している。
北野 邦雄(きたの くにお、1910年3月15日 - 200… 北野 邦雄(きたの くにお、1910年3月15日 - 2000年9月4日)は、日本の教育者、ドイツ語教師、写真・カメラの評論家、出版人。 北海道生まれ。東京外国語大学卒業。東京外国語大学、岩手大学、東京写真大学(現在の東京工芸大学)、陸軍軍医学校、杏林大学、武蔵野音楽大学などでドイツ語の講師を務めた。彼のドイツ語のレベルは、始めてフォトキナを訪れた際、「ドイツ人よりドイツ語がうまい日本人がいる」と評されたほどだったという。 1909年(明治42年)から写真関係の雑誌記事、書籍などの執筆を始め、戦前、戦後を通して代表的筆者であった。また、光画荘(現在の写真工業出版社)の初代社長を務め、同社の代表的月刊誌であった「光画月刊」(後の「月刊カメラ」)の主幹も務めた。
井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 … 井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 - 1997年7月1日)は、大阪府出身の小説家。 大阪府西成郡中津町(後の大阪市東淀川区。その後大淀区を経て現・北区)生まれ。本名は友一。 商業学校在学中、野球と小説乱読で学業を怠け、そのために中退し、その後各中学を転々とする。1929年、関西大学第二商業学校を卒業し、1930年に早稲田大学専門部法科入学。1931年『森林公園』を発表して川端康成に認められる。また坂口安吾、田村泰次郎らとの同人誌『桜』で活動し、1934年「道化者」を発表。 1936年、早稲田大学仏文科卒業。同年「人民文庫」に参加。 「都新聞」記者となり、1938年特派員として中国戦線に従軍した。
秋山 博(あきやま ひろし、1909年3月15日 - 199… 秋山 博(あきやま ひろし、1909年3月15日 - 1990年4月11日)は、日本の電気工学・半導体物理学者。工学博士。大阪工業大学名誉教授。元電気工学教室担当。 専門は、半導体物理学・電磁気学。 愛媛県今治市出身。東京帝国大学工学部卒業。1950年大阪工業大学工学部電気工学科に着任し、電気工学教室を担当。その後、同学部電気工学科教授を経て、1973年大阪工業大学名誉教授。 大阪工業大学工学部電気工学科にて20年以上の長きに渡り教鞭を執り、大学初期の半導体物理学(のちの半導体工学)・電磁気学の研究育成に貢献した。 主な所属学会は、電気学会、日本物理学会、応用物理学会など。
菊池 真一(きくち・しんいち、1909年3月15日 - 19… 菊池 真一(きくち・しんいち、1909年3月15日 - 1997年2月15日)は、応用化学・物理化学・電気化学、特に写真化学の化学者である。東京写真大学(東京工芸大学)の学長として著名なほか、写真界において天然色写真の研究者(日本写真協会会長)、またフランス語学者として「仏和理工学辞典」の編纂に携わり、日仏理工科会の功労者・日仏工業技術会設立者(1954年設立)としても著名であり、新制の「東京工芸大学」の工学部と短期大学部の綜合化と同学部の芸術学部化の発展功労者でもある。 愛媛県出身。暁星中学校・高等学校卒、アテネ・フランセ卒。東京帝国大学工学部応用化学科を1933年卒。東京帝国大学大学院工学研究科応用化学専攻修士課程を1936年卒。
塚本 亮一(つかもと りょういち、1908年3月15日 - … 塚本 亮一(つかもと りょういち、1908年3月15日 - 2000年7月11日)は、日本の経営者。愛知県名古屋市出身。 1931年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業し、同年に第一生命保険に入社。1948年に総務部長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1967年に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格した。1977年4月から1987年4月までに会長を務めた。 日本経営者団体連合会常任理事、経済団体連合会常任理事も務めた。 1972年10月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2000年7月8日肺炎のために死去。92歳没。
倉茂 武(くらしげ たけし、1908年(明治41年)3月15… 倉茂 武(くらしげ たけし、1908年(明治41年)3月15日 - 1998年(平成10年)2月1日)は「競輪の生みの親」とも称される人物。通称は倉茂 貞助(くらしげ ていすけ)。 父の赴任地宮城県仙台市生まれ、新潟県中頸城郡吉川町(現上越市)出身。倉茂家は新田義貞の一統が落武者となり、その子孫と伝えられる。父は陸軍中将倉茂三蔵、叔父(父の弟)倉茂周蔵は陸軍少将。福岡太刀洗近郊の旧制中学4年を修了し、陸軍士官学校に入る。市ヶ谷台の大きな池を泳ぐ奇行で教官に呆れられ、禁煙の場所で煙草を吸っていたことで営倉に入れられた。1928年(昭和3年)、陸軍士官学校第四十期生として卒業、近衛騎兵連隊に配属。同年の昭和天皇の大礼で東京への還幸で東京停車場-宮城間の鹵簿に列する。
今泉 亀撤(いまいずみ きてつ、1907年3月15日 - 2… 今泉 亀撤(いまいずみ きてつ、1907年3月15日 - 2009年12月29日)は、日本の眼科医、医学博士。岩手医科大学名誉教授。福島県郡山市出身。 旧制安積中学校(現福島県立安積高等学校)、旧東北帝国大学(現東北大学)医学部卒。東北大学助教授を経て岩手医科大学に教授として赴任。1949年11月、日本で最初の事例として角膜移植の手術を行った。その後1956年3月、日本最初のアイバンクとなる『目の銀行』を岩手医科大学内に設立した。
関口 真大(關口 眞大、せきぐち しんだい、1907年3月1… 関口 真大(關口 眞大、せきぐち しんだい、1907年3月15日 - 1986年10月2日)は、天台宗の僧、仏教学者。 1907年、栃木県生まれ。1931年、大正大学文学部を卒業。日光山華厳院住職となる。また、母校である大正大学で教授を務め、1960年「天台止観の成立と達摩禅」を大正大学に提出して文学博士号を取得。1978年に定年退職すると同時に名誉教授となった。以降も、国際仏教研究所理事、全日本仏教会評議員を務めた。
荻原 麟次郎(おぎわら りんじろう、1907年(明治40年)… 荻原 麟次郎(おぎわら りんじろう、1907年(明治40年)3月15日 - 1997年(平成9年)4月4日)は、日本の政治家。第14代秋田市長。勲五等双光旭日章。 秋田県秋田市泉三嶽根出身。明治大学専門部卒。秋田県庁に入り、経済部長、出納長、会社社長、秋田県議会議員(4期、自民党)などを経て、1971年(昭和46年)、秋田市長選挙に保守系から立候補し、現職の革新系の川口大助を破って当選した。市長在職中は市民広場の夜間照明の設置、大型市町村圏(秋田、男鹿、南秋田、河辺)促進連絡会議の発足、点字による市の広報の発行などの施策を実行した。しかし、翌1972年(昭和47年)、市長選挙で現職の川口市長のスキャンダルを週刊誌に売り飛ばし、選挙妨害をしたとして解職請求が出され、同年12月の投票の結果、賛成が反対を上回り、荻原は市長を失職となった。
川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)… 川田 晴久(川田 義雄)(かわだ はるひさ(かわだ よしお)、本名:岡村 郁二郎、1907年〈明治40年〉3月15日 - 1957年〈昭和32年〉6月21日)は、昭和期を代表する日本の俳優、歌手、コメディアン、ボードビリアン。いわゆるボーイズものの創始者である。灘康次を始め、多くの弟子を育てたことでも知られる。また、美空ひばりの「師匠」または「芸能界の育ての親」としても、近年、再評価が為されている。戦前は主に吉本興業(東京吉本)所属。 東京府東京市本郷区根津の印刷所を経営する岡村嘉松の子として生まれる。貧しかった少年時代に、家々の屋根を棒で飛び越えるという遊びに興じていた際に転落してしまう。この不慮の事故により脊椎カリエスを患うことになり、これが終生川田を悩ませる病となる。
朝海 浩一郎(あさかい こういちろう、1906年3月15日 … 朝海 浩一郎(あさかい こういちろう、1906年3月15日 - 1995年9月9日)は、日本の外交官。連絡調整中央事務局長官、外務審議官を経て、岸信介内閣における日米安全保障条約改定の時期を含め、駐アメリカ合衆国特命全権大使を異例の6年間務めた。1976年勲一等瑞宝章。
天田 勝正(あまだ かつまさ、1906年3月15日 - 19… 天田 勝正(あまだ かつまさ、1906年3月15日 - 1965年2月27日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。 埼玉県大里郡妻沼村(現熊谷市)に生まれる。東京物理学校に学び、日本大衆党に参加。党埼玉県連常任委員・日本農民組合中央常任委員を歴任し、秋田県北秋田郡前田村(現・北秋田市)の小作争議を指導した。 戦後日本社会党・日本農民組合の結成に参加し、1947年の第1回参議院議員通常選挙に埼玉県地方区から立候補し当選。1950年の参院選では全国区から立候補するが落選、社会党の分裂では右派に属し1953年の参院選では埼玉県地方区に戻り、返り咲きを果たす。 社会党再統一後に鈴木茂三郎委員長の下で選挙対策副委員長に就任するが、1959年に社会党を離党。
寺下 岩蔵(寺下 岩藏、てらした いわぞう、1906年(明治… 寺下 岩蔵(寺下 岩藏、てらした いわぞう、1906年(明治39年)3月15日 - 1980年(昭和55年)4月19日)は、日本の政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。 現在の青森県八戸市出身。八戸尋常小学校(現在の八戸市立八戸小学校)卒。卒業後は左官屋の手伝い、土木労務者、とび職など職業を転々とした後、寺下組を創設し、のち寺下建設工業に改称した。八戸市議、青森県議を5期務め、県議会議長となる。1962年7月、日本赤十字社青森県支部事業資金として10万円を寄付により1963年2月27日、紺綬褒章受章(飾版)。1971年7月、八戸市緑化推進事業費として100万円寄付により同年12月18日に紺綬褒章受章(飾版)。
福田 繁芳(ふくだ しげよし、1905年〈明治38年〉3月1… 福田 繁芳(ふくだ しげよし、1905年〈明治38年〉3月15日 - 1977年〈昭和52年〉2月12日)は、日本の政治家。自由民主党の衆議院議員。 1927年関西大学専門部法律学科卒業後、1946年の第22回衆議院議員総選挙に立候補するが次点で落選。しかしその後三木武吉の公職追放により繰り上げ当選となる。 1951年10月5日、高松地方検察庁に観音寺競輪場誘致運動資金の一部を横領した容疑で逮捕される。 1961年3月、日興連汚職事件で福田に対して懲役1年の実刑判決が確定し、公民権停止となったため国会法の規定で退職(自動失職)。賄賂罪の実刑判決が確定して国会議員が退職(失職)となったのは初めてであった。
多賀 安郎(たが やすろう、1905年(明治38年)3月15… 多賀 安郎(たが やすろう、1905年(明治38年)3月15日 - 2002年(平成14年)5月31日)は、昭和期の新聞編集者、実業家、政治家、アマチュアボクシング選手、プロボクサー。衆議院議員。 岡山県窪屋郡、現在の倉敷市出身。1940年(昭和5年)早稲田大学専門部法律科を卒業した。 東京吉井洋行を経営。合同新聞記者となり、大阪時事新報記者、満州新聞大阪支社営業部長、山陽民報主筆を歴任。南北アメリカ、アフリカ、インド、中国、満州等の各地を取材して回り、また従軍記者として中国大陸や南方に派遣された。その他、在外同胞帰還促進会理事、日本漁民組合瀬戸内海部長、倉敷体育協会副会長、備中板金加工業組合理事長、遠藤青汁取締役社長、ほか内海高速汽船(のち琴平高速汽船)社長、遠洋漁業協同組合理事長などを務めた。
石井 五郎(いしい ごろう、1903年〈明治36年〉3月15… 石井 五郎(いしい ごろう、1903年〈明治36年〉3月15日 - 1978年〈昭和53年〉1月22日)は、日本の作曲家。舞踊家石井漠の弟。作曲家の石井歓と石井眞木は兄・漠の息子である。 秋田県山本郡山本村(現・三種町)に生まれる。父は同村の村長であった。同地の小学校を出てから上京し、東京の大成中学校(現・大成高等学校)に入学する。同校卒業後、山田耕筰や成田為三のもとで和声学や対位法を学ぶ。1929年、第1回作品発表会を開催する。1930年、新興作曲家連盟の最初の会員となる。1931年に結婚する。1937年9月に渡欧し、主にパリやベルリンに遊学する。1938年7月に日本へ帰国する。 1939年(昭和14年)、毎日新聞音楽コンクールに「田園舞曲」で2位入選する。
大橋 秀雄(おおはし ひでお、1903年3月15日 - 20… 大橋 秀雄(おおはし ひでお、1903年3月15日 - 2002年6月1日)は、日本の警察官、著述家。元警視庁警視正。 警視庁特高部外事課に所属していた警部補当時、副主任としていわゆるゾルゲ事件を担当し、事件の全貌を明らかにした。その功により、1943年(昭和18年)に内務大臣功労記章を受章した。 神奈川県横浜市出身。横浜商業学校を経て、日本大学専門部法律学科第二本科を卒業した。1924年(大正13年)、陸軍近衛野砲兵連隊に入営し、1928年(昭和3年)陸軍砲兵少尉に任官した。同年警視庁巡査となる。 1932年(昭和7年)に巡査部長、1935年(昭和10年)に警部補に昇進する。1936年(昭和11年)、特別高等警察部外事課欧米係となる。
北野 道彦(きたの みちひこ、1903年(明治36年)3月1… 北野 道彦(きたの みちひこ、1903年(明治36年)3月15日 - 1993年(平成5年)5月27日)は、東京生まれの文筆家で、流山市立博物館友の会の創設者である(→写真)。 青年期、壮年期は児童文学の著作活動を行っていたが、1973年に東京都世田谷区から千葉県流山市へ転居後は、主に歴史や地理関係の著作活動を行っていた。1978年の流山市立博物館開館を機に同館友の会を設立し、東葛飾地域を中心とした文化活動を開始する。1991年に北野道彦賞を設立する。 正式名称は「公益信託北野道彦郷土研究奨励基金」。1991年、北野が私財2,500万円を投じて、東葛飾地域で文化及び社会、自然保護活動を行う個人及び団体を表象し、その活動による貢献を世に広く知ってもらうことを目的として設立。
東 勇路(あずま ゆうじ、1902年3月15日 - 没年不詳… 東 勇路(あずま ゆうじ、1902年3月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名中島 勇(なかじま いさむ)、芸名を東 勇治、東 勇二とクレジットされた時期もあった。小笠原明峰率いる小笠原プロダクション創立時のスター俳優であり、日活に移籍後は、現代劇のバイプレイヤーとして知られた。 1902年(明治35年)3月15日、福岡県八女郡北山村(現在の同県八女市立花町北山)に生まれる。 旧制・福岡県立八女中学校(現在の福岡県立八女高等学校)を卒業し、旧制・西南学院高等学部(現在の西南学院大学)に進学するが、中途退学し、1923年(大正12年)の小笠原プロダクションの設立に参加した。学歴については、『世界のキネマスター』(報知新聞社)には、明治大学を卒業した旨の記述がみられる。
山本 嘉次郎(やまもと かじろう、1902年(明治35年)3… 山本 嘉次郎(やまもと かじろう、1902年(明治35年)3月15日 - 1974年(昭和49年)9月21日)は、日本の映画監督、俳優、脚本家、随筆家である。脚本を書く際や、俳優としてデビューした当初は、平戸延介、平田延介名義を使用することも多かった。 東京市銀座采女町で生まれる。父の嘉太郎は天狗タバコの総支配人であった。 慶應義塾大学部理財科時代に偶然から映画に出演することとなり、1920年に製作された『真夏の夜の夢』で岡田嘉子と共演して俳優デビュー。慶應義塾を中退して映画界入りをする。しかし、このことが原因で親から勘当され、その手切金で[要出典]1922年「無名映画協会」を設立し、自ら出演した。
栗島 すみ子(くりしま すみこ、明治35年〈1902年〉3月… 栗島 すみ子(くりしま すみこ、明治35年〈1902年〉3月15日 - 昭和62年〈1987年〉8月16日)は、明治・大正・昭和期の女優。日本映画界初期の人気女優である。日本舞踊水木流家元水木歌紅でもある。 東京府豊多摩郡渋谷村大字中渋谷(現在の東京都渋谷区道玄坂)に生まれた。父の死後、母の再婚先である川村家を経て新派俳優栗島狭衣の養女となった。 明治40年(1907年)、5歳のとき狭衣の師である水木歌橘に入門し、日本舞踊を習い始めた。同年父の主宰するお伽劇『うそつき爺い』で初舞台を踏んだ。また、明治42年(1909年)には狭衣と共にM・パテー商会製作・公開の映画『新桃太郎』に出演した。 大正2年(1913年)、栗島狭衣一座の座員となり、巡業生活を送った。
嘉数 昇(かかず のぼる、1902年3月15日 - 1974… 嘉数 昇(かかず のぼる、1902年3月15日 - 1974年7月23日)は、沖縄県の実業家。琉球生命保険の設立に携わり、沖縄大学の母体である嘉数学園を設立する。沖縄県那覇市出身。 明治35年(1902年)3月15日生まれ。大正4年(1915年)に真和志尋常高等小学校を卒業後、昭和7年(1932年)に日本生命保険に入社し沖縄支部長を務めた。 戦後、琉球列島米国軍政府より保険会社設立に関する相談を受け、保険業に精通している嘉数が中心となって1948年に琉球生命保険を創設した。その後、キャラウェイ旋風のあおりを受け、一時琉球生命の経営から身を引いたが、まもなく復帰した。 1956年に嘉数学園を設立し、沖縄大学などを運営した。
光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日… 光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日 - 1961年8月4日)は、日本の俳優である。新字体光岡 竜三郎、本名は中澤 喜一(なかざわ きいち)である。 1901年(明治34年)3月15日、北海道亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に「中澤喜一」として生まれる。11歳上の兄に俳優の葛木香一がいる。 当初舞台劇の俳優であったが、1924年(大正13年)、東亜マキノ等持院撮影所に入社し、映画俳優に転向する。翌1925年(大正14年)、阪東妻三郎主演、二川文太郎監督の『江戸怪賊伝 影法師』前篇・後篇等に出演する。二川監督の『墓石が鼾をする頃』に出演した後、牧野省三らは東亜キネマと分離するが、光岡は東亜キネマに残る。
富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 197… 富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 1979年12月25日)は、日本の武道(合気道・柔道)家。教育学者(武道論)。日本合気道協会、秋田県角館町(後の仙北市)出身。 満州建国大学教授、早稲田大学教育学部教授を歴任、合気道創始者・植芝盛平の高弟として成立期の合気道に理論面で影響を与え、自ら考案した競技合気道の普及発展に努めた。講道館柔道創始者・嘉納治五郎が柔術を柔道に昇華させたように、合気道をより昇華させることを目指し、合気道の乱取り稽古を考案し導入した。富木の合気道は乱取り稽古を行うなど、他の会派と異なる点も多く、区別するため、「富木流合気道」、「富木合気道」と通称される(ただし、富木自身はこの呼称を用いておらず、「新合気道」「合気道競技」と命名していた)。
板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月… 板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月15日 - 昭和26年(1951年)7月16日)は、劇作家、士族。伯爵板垣退助の孫、鉾太郎の次男。母は松本丑太郎の長女節子(せつこ)。号は青牛。宗旨は曹洞宗。別名は山内守正。
堀本 宜実(ほりもと よしざね / せんじつ、1900年(明… 堀本 宜実(ほりもと よしざね / せんじつ、1900年(明治33年)3月15日 ‐ 1978年(昭和53年)6月27日) は、大正から昭和期の獣医師、政治家。参議院議員(3期)、愛媛県温泉郡立岩村長、同郡北条町長。旧姓は阿部。 愛媛県越智郡、のちの玉川村(玉川町を経て現今治市)の阿部家に生まれた。1918年(大正7年)麻布獣医畜産専門学校(現麻布大学)を卒業。立岩村の技術員・獣医師となり、同村の堀本家の養子となった。 立岩村長(1930年9月-1938年1月在任)、北条町長(1939年7月-1940年12月在任)を務めた。1931年(昭和6年)9月、愛媛県会議員に選出され、立憲民政党に所属して1946年(昭和21年)月12月まで連続4期在任した。
銅金 義一(どうがね ぎいち、1900年(明治33年)3月1… 銅金 義一(どうがね ぎいち、1900年(明治33年)3月15日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。1920年(大正9年)5月に陸軍士官学校第32期卒業。のち東京帝国大学冶金学科を卒業する。 1940年(昭和15年)8月、陸軍砲兵大佐に進み、1941年(昭和16年)6月、陸軍技術本部研究所所員、1943年(昭和18年)10月、小倉陸軍造兵廠第2製造所長を経て、1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に進級する。ついで同年9月、小倉陸軍造兵廠糸口山製造所長となった。
舟木 重彦(ふなき しげひこ、1900年(明治33年)3月1… 舟木 重彦(ふなき しげひこ、1900年(明治33年)3月15日 - 1951年(昭和26年)3月6日)は、昭和時代の日本の図書館学者。図書分類法、件名目録法の権威。 石川県金沢市にて生まれ、高知県で育つ。1924年に第四高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部文学科に入学。1927年に同学部独逸文学科を卒業。同年12月から1928年3月まで姫路高等学校講師を務めたのち、千葉高等園芸学校で英語とドイツ語の講師を勤める。1931年に帝国図書館に入り、1947年、文部省図書館職員養成所の初代所長となる。1950年に海外の図書館事業調査のため渡米し、翌年3月の帰国直後に死去。
金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月1… 金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月15日-1982年(昭和58年))は、日本の建築家、建築教育者。金沢庸治とも表記される。 東京出身。1917年(大正6年)3月に京北実業学校中学校を卒業。1919年4月、東京美術学校図案科第二部予備科に入学(1923年5月に図案科第二部は建築科となる)、1924年3月、建築科の第1回生として卒業。同年、一年志願兵として近衛輜重兵大隊に入隊。1927年4月に東京美術学校の講師となり、1936年1月、助教授に就任、1946年3月に退職 建築設計も平行して手がけ、恩師である岡田信一郎の建築事務所のスタッフを務める。一説には、岡田が設計した黒田記念館(1928年)、明治生命館(1934年)の装飾を担当したとも言われる。
松本 一郎(まつもと いちろう、1900年(明治33年)3月… 松本 一郎(まつもと いちろう、1900年(明治33年)3月15日 - 1968年(昭和43年)10月26日)は、日本の農業関係者、政治家。衆議院議員。 三重県一志郡、のちの一志町(現津市)で生まれた。明治大学専門部法科で学んだ。尾崎行雄の秘書を務めた。 一志郡大井村長、三重県会議員、三重県耕地協会長、三重県農業共済組合連合会長、三重県畜産会長などを務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙おいて三重県第1区で民主党から出馬し当選し、第24回、第25回、第29回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算四期務めた。この間、衆議院建設委員長、同農林水産委員長、第2次池田内閣・科学技術政務次官、民主党会計監督、民主自由党相談役、同民情部長、自由民主党全国組織副委員長、全国農業共済協会副会長などを務めた。
佐々木 丙二(ささき へいじ、1899年(明治32年)3月1… 佐々木 丙二(ささき へいじ、1899年(明治32年)3月15日 - 1945年(昭和20年)9月1日)は、日本海軍の軍人。海軍兵学校48期。太平洋戦争末期のミンダナオ島防衛戦において、第32特別根拠地隊ザンボアンガ派遣隊長兼第33警備隊副長として戦死。最終階級は海軍中佐。五・一五事件を契機に予備役に編入され、満州国軍政部に籍を置いた時期もあった。 広島県広島市出身。代々広島藩の上士の家系。広島高等師範学校附属中学校(現:広島大学附属中学校・高等学校)を卒業し、1917年(大正6年)江田島の海軍兵学校(48期)に進んだ。卒業直前に、宮中御内儀として明治天皇の皇后(昭憲皇太后)に仕えた叔母マチと養子縁組した。
川田 熊太郎(かわだ くまたろう、1899年3月15日 - … 川田 熊太郎(かわだ くまたろう、1899年3月15日 - 1981年3月31日)は、日本の仏教学・比較思想学者。 1899年、香川県(旧:大川郡長尾村前山来栖。現:さぬき市前山)生まれ。1922年に東京帝国大学法学部を卒業したが、同じ頃に哲学を研究したいとの希求が高まり、同年、東京帝国大学文学部に入学し、1925年同文学部哲学科を卒業し、直ちに同大学大学院に入る。1927年日本女子大学教授に就任し、西洋哲学、特にプラトンの研究に傾注した。 1941年、『プラトン弁証法の研究』(河出書房、1940年刊)によって東京帝国大学から文学博士の学位が授与された。同年、東京文理科大学助教授に、1943年には同大学教授に任ぜられて、戦後にも及び、1950年には東京大学教養学部教授に就任して、比較哲学の講義や東西思想の比較研究を行った。
岡 延右衛門(延右エ門、おか のぶえもん、1899年(明治3… 岡 延右衛門(延右エ門、おか のぶえもん、1899年(明治32年)3月15日 - 1970年(昭和45年)12月1日)は、大正末から昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)。カトリック教徒。 長崎県北松浦郡黒島村(現佐世保市黒島町)でカトリックの家に生まれる。1924年(大正13年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。同年、母校にカトリック研究会を設立し、公教青年会のメンバーとしても活躍した。 大学卒業後、『萬朝報』の記者となり、社会部長、政治部長、整理部長、編集局長を歴任。戦時下に内閣情報部嘱託、情報局嘱託、内閣嘱託となり、情報局から日・満・支のカトリック統合の使命を帯びて北京に派遣された。
岡田 希雄(おかだ きゆう、1898年(明治31年)3月15… 岡田 希雄(おかだ きゆう、1898年(明治31年)3月15日 - 1943年(昭和18年)1月31日)は、日本の国語学者、国文学者、辞書学者。 京都府葛野郡七条村(現在の京都市下京区)に農家の服部家の次男として生まれる。名は市治郎。3歳で父の浅吉を亡くし、5歳で母のヤヱを亡くした後、乙訓郡久世村(現在の京都市南区)にある曹洞宗の鷲尾寺の住職である岡田希僊に引き取られる。1904年(明治37年)に養子として入籍し、1910年(明治43年)に得度を受けて「希雄」と名前を改め、翌1911年(明治44年)3月に僧籍に登録された。 1915年(大正4年)に京都府立京都第二中学校を卒業後、第三高等学校に入学する。