平 重道(たいら しげみち、1911年10月18日 - 19… 平 重道(たいら しげみち、1911年10月18日 - 1993年7月2日)は、日本の歴史学者、東北大学名誉教授。 仙台市生まれ。1934年に東北帝国大学法文学部国史学科に入学し、村岡典嗣の指導を得て、1937年卒業。卒業論文は「承久の乱の史論と解釈」。1968年「吉川神道の基礎的研究」で東北大学より文学博士の学位を取得。東北大学教養部助教授、教授、宮城教育大学教授。仙台の歴史などを研究した。1986年11月、勲三等旭日中綬章受章。
甲斐 弦(かい ゆずる、1910年 <明治43年> 10月1… 甲斐 弦(かい ゆずる、1910年 <明治43年> 10月18日 - 2000年 <平成12年> 8月21日)は、英文学者、作家、熊本学園大学名誉教授。位階は従五位。 東京帝国大学文学部卒。占領期にGHQで、検閲官を務める。熊本短期大学助教授、熊本商科大学(1994年に熊本学園大学に改称)教授、1981年定年退任。1983年勲四等瑞宝章受章。2000年8月21日、心不全のため死去。死没日付をもって従五位に叙された。 森川譲の筆名でも小説作品がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
小福田 租(こふくだ みつぎ、1909年(明治42年)10月… 小福田 租(こふくだ みつぎ、1909年(明治42年)10月18日 - 1995年(平成7年)7月29日)は日本の海軍軍人、航空自衛官である。海軍兵学校(第59期)卒。最終階級は海軍で海軍中佐、自衛隊で空将。ペンネームは小福田 晧文(こふくだ てるふみ)。 1909年(明治42年)10月、岡山県津山に生まれる。1928年(昭和3年)3月、岡山県立津山中学校(現:岡山県立津山高校)卒業し、同年4月、江田島海軍兵学校第59期に入校。1931年(昭和6年)11月、海軍兵学校卒業。1933年(昭和8年)4月、第25期飛行学生を卒業。1934年(昭和9年)、大村海軍航空隊で戦闘機課程を受ける。周囲の勧めもあり、結婚を考えて海軍省に結婚願いを提出し、晩秋に「結婚認可書」を受けとるも、すぐに「戦地に転勤を命ず」という辞令がきたので、婚約を解消した。
佐藤 亮一(さとう りょういち、1907年10月18日 - … 佐藤 亮一(さとう りょういち、1907年10月18日 - 1994年10月1日)は、日本の翻訳家。 青森県三戸郡名久井村(現・南部町)出身 慶應義塾大学法学部政治学科卒業。1932年時事新報社入社、1936年毎日新聞の記者となる。福島支局勤務の後、従軍記者として中国戦線を取材報道する。中国では資料所持容疑で不当逮捕され、1946年から翌年にかけて北京の捕虜収容所で辛酸をなめる。日本に帰国した後、毎日新聞東京本社に復帰するかたわら翻訳活動を開始する。1958年7月、第1回翻訳家国際会議に出席。1984年国際翻訳家連盟から国際翻訳賞を受賞。1988年から日本翻訳家協会会長。このほか、慶應義塾大学講師、慈恵医科大学講師、共立女子大学教授を歴任した。
柳 珍山(ユ・ジンサン、朝: 유진산、1905年10月18日… 柳 珍山(ユ・ジンサン、朝: 유진산、1905年10月18日 - 1974年4月28日)は、朝鮮の独立運動家であり第一共和国~第四共和国前半にかけて活躍した韓国の政治家である。本貫は文化柳氏(朝鮮語版)。珍山という名は、彼の故郷である忠清南道錦山郡珍山面(朝鮮語版)玉渓里から取られた字で、本名は柳永弼(ユ・ヨンピル、유영필)。号は玉溪(オッケ、옥계)。 息子の柳漢烈も政治家で国会議員を歴任した(民主韓国党→民主自由党→ハンナラ党)。また、元国会議員の成楽絃は姪の夫である。 解放直後における青年運動をきっかけに政界入りし、第一共和国から第四共和国時代における保守野党(民主国民党、民主党、民政党、民衆党、新民党)において要職を歴任した。
上林山 榮吉(かんばやしやま えいきち、1904年10月18… 上林山 榮吉(かんばやしやま えいきち、1904年10月18日 – 1971年8月10日)は、日本の政治家。衆議院議員、防衛庁長官を務めた。 現在の鹿児島県指宿市生まれ。鹿児島実業学校出身。関西大学専門部法律学科中退後、1928年日本大学法律科を卒業、鹿児島毎夕新聞社記者、鹿児島県庁勤務を経て、1936年鹿児島市会議員補欠選挙に当選。1939年からは鹿児島県会議員を務める。1946年第22回衆議院議員総選挙で日本自由党から旧鹿児島1区にて立候補し初当選する(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・川崎秀二・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。
森山 豊(もりやま ゆたか、1904年10月18日 - 19… 森山 豊(もりやま ゆたか、1904年10月18日 - 1988年11月19日)は、日本の産婦人科医。
柏 正男(かしわ まさお、1903年(明治36年)10月18… 柏 正男(かしわ まさお、1903年(明治36年)10月18日 - 1973年(昭和48年)6月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 青森県で生まれる。1936年、九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 日本社会党に所属して、1958年5月、第28回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。 全国選挙管理委員会委員、中央選挙管理会委員、東京家庭裁判所調停委員、アジア民族親善協会常任理事、日本ベトナム友好協会常任理事、日本中国国交回復国民会議理事、自由人権協会監事などを務めた。 1973年6月4日死去、69歳。死没日をもって勲三等瑞宝章追贈、正五位に叙される。
池田 雄一郎(いけだ ゆういちろう、1903年10月18日 … 池田 雄一郎(いけだ ゆういちろう、1903年10月18日 - 1973年8月3日)は、日本の物理学者。 静岡県出身。1930年東京帝国大学物理学科卒業、1935年同大学院修了。1939年旧制立教中学教諭、1943年旧制松本高等学校教授、1949年信州大学理学部教授、1952年理学部長、1967年教養部長、1968年学長を歴任した。 俳人としては「魚魯」と号した。
清水 喜三郎(しみず きさぶろう、1903年10月18日 -… 清水 喜三郎(しみず きさぶろう、1903年10月18日 - 2000年4月12日)は、日本の経営者。三菱レイヨン社長を務めた。岡山県出身。 1932年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に新興人絹(のちの三菱レイヨン)に入社。1953年11月に常務に就任し、1959年11月に専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1967年5月には社長に昇格。1973年11月に会長、1978年6月に相談役を経て、1987年6月から顧問を務めた。 1973年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2000年4月12日心不全のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
磯部 喜一(いそべ きいち、1902年10月18日 - 19… 磯部 喜一(いそべ きいち、1902年10月18日 - 1987年8月15日)は、日本の経済学者・経営学者。専門は、工業経済学、中小企業論。東京工業大学・武蔵大学名誉教授。 大阪府大阪市生まれ。1926年京都帝国大学経済学部卒。1949年「日本漆器工業論」で、京都大学より経済学博士の学位を取得。1928年関西大学専任講師、助教授、教授、1944年東京工業大学生産工学部助教授、教授、1963年定年退官、名誉教授、広島大学工学部教授・武蔵大学教授。1972年武蔵大学名誉教授。日本工業経営学会会長。
杉山 昌作(すぎやま しょうさく、1900年(明治33年)1… 杉山 昌作(すぎやま しょうさく、1900年(明治33年)10月18日 – 1994年(平成6年)3月1日)は、昭和期の大蔵官僚、政治家。参議院議員(2期)、専売局長官。 静岡県静岡市出身。小樽高等商業学校を卒業。1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格。1925年(大正14年)京都帝国大学経済学部を卒業した。同年、大蔵省に入省し専売局書記となる。 以後、専売局参事、大蔵省調査官、専売局長官などを歴任。その他、東北興業(のち東北開発)副総裁、専売事業協会会長、全国たばこ耕作組合中央会理事などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して初当選し、1956年(昭和31年)7月の第4回通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
佐藤 一村(さとう いっそん、明治32年(1899年)10月… 佐藤 一村(さとう いっそん、明治32年(1899年)10月18日 - 1991年11月、本名: 佐藤 武市(さとう たけいち))は、日本の銀行員、大学教員、俳人である。ホトトギスの同人であった。 明治32年、青森市に生まれる。弘前中学校に通う。大正9年に小樽高等商業学校を卒業した後、太平洋戦争終結による解体まで台湾銀行に勤める。台南勤務、スラバヤへの駐在を経て、蘇州支店長、漢口支店長を歴任する。佐藤は武漢での勤務は「文字どうりの滅私奉公の四年であった」と振り返っている。戦後は日本に引き揚げ、GHQ大阪軍政部の技術顧問となった。後に大阪工業高等専門学校および大阪工業大学短期大学部で講師を務めた。
井口 貞夫(いぐち さだお、1899年10月18日 - 19… 井口 貞夫(いぐち さだお、1899年10月18日 - 1980年5月27日)は、日本の外交官。外務事務次官や在アメリカ合衆国特命全権大使を務めた。1969年勲一等瑞宝章。1980年正三位。 和歌山県生まれ。旧制徳義中学校、旧制和歌山中学校(のち和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)入学。 1921年に高等試験外交科試験合格し、1922年大学を中退し外務省入省。入省同期や前後期に田尻愛義、安東義良、西村熊雄らがいる。オックスフォード大学留学等を経て、1940年在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官、1941年同大使館参事官、1942年太平洋戦争開戦に伴い交換船で帰国。 情報局情報官を経て、1943年情報局第三部長。
宮嵜 俊男(みやざき としお、1899年(明治32年)10月… 宮嵜 俊男(みやざき としお、1899年(明治32年)10月18日 - 1965年(昭和40年)4月7日)は、日本の海軍軍人。米駐在時代に情報活動に従事し、米国官憲に摘発され国外追放処分を受ける。太平洋戦争中、連合艦隊先任参謀に擬せられるが、山本五十六の戦死により実現しなかった。最終階級は海軍大佐。
玉蟲 文一(たまむし ぶんいち、1898年10月18日 - … 玉蟲 文一(たまむし ぶんいち、1898年10月18日 - 1982年7月26日)は、日本の物理化学者、東京大学名誉教授。
門脇 勝太郎(かどわき かつたろう、1898年(明治31年)… 門脇 勝太郎(かどわき かつたろう、1898年(明治31年)10月18日 - 1969年(昭和44年)11月19日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 鳥取県東伯郡倉吉町越中町(現倉吉市越中町)で資産家、酒造業の門脇猪蔵の長男として生まれる。早稲田大学政治学科卒。 「菊水」の銘柄で酒造業を営む。その他、大東京小売市場組合主事、東京婦人子供服小売商業組合理事長、東京都繊維製品統制理事、全国繊維製品小売商連合会理事長、全国衣料品小売商協会理事長、全装商事社長、日本洋装協会会長、中央技能検定協会理事などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙に鳥取県全県区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年〈明治30年〉10月1… 壺井 繁治(つぼい しげじ、1897年〈明治30年〉10月18日 - 1975年〈昭和50年〉9月4日)は、日本の詩人。日本共産党員。 香川県小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)出身、早稲田大学に学ぶ。1920年代にはアナキズムの陣営に属し、『赤と黒』などに拠って詩作をはじめた。その後、共産主義に接近、プロレタリア文学の詩の分野で活躍した。1930年代には何度か投獄され、その後は小熊秀雄や村山知義たちと〈サンチョ・クラブ〉を結成し、風刺的な詩を作っていた。 1925年(大正14年)に作家の壺井栄と結婚。 戦後は新日本文学会の創立に参加し、発起人となる。しかし、戦後登場した武井昭夫や吉本隆明たち若手からは、戦時中の行動との差のために批判の対象にされた。
保阪 嘉内(ほさか かない、1896年〈明治29年〉10月1… 保阪 嘉内(ほさか かない、1896年〈明治29年〉10月18日 - 1937年〈昭和12年〉2月8日)は、日本の詩人。宮沢賢治の親友として知られ、賢治の代表作とされる『銀河鉄道の夜』のカムパネルラのモデルとも言われる。 山梨県北巨摩郡駒井村(現:韮崎市)出身。父は郡役所書記であった。韮崎高等小学校から1910年に山梨県立甲府中学校(現:山梨県立甲府第一高等学校)に進む。星の和名に詳しい野尻抱影に英語を教わり、また文芸同人誌に作品を発表していた。中学入学の年にハレー彗星の最接近を観察しスケッチをつけた。 1915年に甲府中学を卒業すると、東北帝国大学札幌農科大学(現:北海道大学)を受験するが不合格となり、翌1916年に盛岡高等農林学校農学科第二部に入学する。
白川 久雄(しらかわ ひさお、1896年(明治29年)10月… 白川 久雄(しらかわ ひさお、1896年(明治29年)10月18日 - 1984年(昭和59年)1月1日)は、大正末から昭和期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県津名郡洲本町長。 兵庫県三原郡神代村(三原町を経て現南あわじ市神代)で、白川五平、まつ の長男として生まれる。旧制洲本中学校卒業。1921年(大正10年)京都帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した。陸軍法務官試補に任官し、法務官に昇進。1925年(大正14年)から弁護士の業務に従事した。 実業界では、洲本瓦斯社長、全淡自動車取締役、洲本鉄工所取締役、淡路交通取締役、淡路タクシー取締役、淡路産業監査役、淡路商工会議所会頭などを務めた。
山内 直元(やまうち なおもと、1896年(明治29年)10… 山内 直元(やまうち なおもと、1896年(明治29年)10月18日 - 1970年(昭和45年)3月9日)は、日本の実業家。住友銀行常務取締役、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)社長を務めた。 愛知県尾西市出身。1920年(大正9年)東京帝国大学法学部を卒業後、住友銀行に入行。 ニューヨーク支店長、常務・東京支店長を経て、1947年(昭和22年)2月から統括常務に就任し、事実上のトップとなるが、8月に公職追放となる。1958年(昭和33年)5月に復帰し監査役を務める。 NETにおける大川・赤尾紛争のあと、社長から退陣した大川博に代わる体制を、旺文社、東映、日本経済新聞社、そして首尾よく経営の一角に食い込むことになった朝日新聞社の四社で協議をしたがまとまらなかった。
10代 深川 栄左衛門(榮左エ門、ふかがわ えいざえもん、1… 10代 深川 栄左衛門(榮左エ門、ふかがわ えいざえもん、1896年(明治29年)10月18日 - 1960年(昭和35年)3月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。初名は隆。 佐賀県西松浦郡有田町で9代・深川栄左衛門(与太郎)の四男として生まれる。1920年(大正9年)早稲田大学商科を卒業した。 有田合同運送社長、有田信用無尽社長、香蘭碍子販売社長、香蘭合名会社代表社員、香蘭社社長、西松浦通運社長、佐賀興業銀行取締役、有田陶磁器工業組合連合会理事、佐賀県工芸協会評議員、九州貿易振興会常任委員、佐賀県陶磁器工業協同組合相談役、窯業協会常議員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に民主党公認で出馬して当選し、その後、改進党に所属して参議院議員に1期在任した。
田中 実司(たなか じつじ、1894年10月18日 - 19… 田中 実司(たなか じつじ、1894年10月18日 - 1980年11月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 本巣郡西郷村(現・岐阜市)生まれ。岐阜商工会議所議員、所得税調査員、岐阜県商工経済監事、岐阜県繊維製品配給(株)取締役、同県繊維製品統制(株)社長、田幸紡績(株)取締役会長、協和興業(株)取締役、(株)新岐阜百貨店常任監査役、岐阜繊維問屋街連合会長を歴任する。 1930年に洋服店を開業した。1942年に岐阜市会議員となった。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において岐阜県全県選挙区から日本自由党公認で立候補して当選する。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において岐阜1区で自由党公認で立候補したが落選。
津雲 国利(津雲 國利、つくも くにとし、1893年〈明治2… 津雲 国利(津雲 國利、つくも くにとし、1893年〈明治26年〉10月18日 - 1972年〈昭和47年〉1月4日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(当選8回)。拓務政務次官、政友会幹事、翼賛政治会常任総務などを歴任。 東京府西多摩郡青梅町上町(現・東京都青梅市)出身。津雲仙太郎の二男。津雲孝の弟。 旧制東京府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)卒業。安田銀行員養成所修業。安田銀行、古河銀行に勤務した。古河銀行宇都宮支店長をつとめた。 宇都宮市に於いて新聞経営に従事した。下野銀行相談役、下野新聞社顧問、下野日日新聞社顧問などを歴任した。1922年(大正11年)に分家し、一家を創立する。
山川 建(やまかわ たける、1892年(明治25年)10月1… 山川 建(やまかわ たける、1892年(明治25年)10月18日 - 1944年(昭和19年)2月22日)は大正時代から昭和初期にかけての日本の官僚、政治家。山川浩男爵家当主。 東京府出身。父は山川健次郎でその四男である。長兄の山川洵は東京帝国大学教授。1913年(大正2年)、従兄弟にあたる山川廉の跡を継いで伯父の山川浩家を承継した。七高を経て、1918年(大正7年)、東京帝大を卒業し高等文官試験に合格。千葉県警視、同理事官、静岡県地方事務官を経たのちは文部官僚として終始する。普通学務局庶務課、専門学務局学務課、大臣官房体育課、同文書課、同会計課の各課長を歴任。この間欧米視察に派遣された。社会教育局長を経て専門学務局長在任中に京都帝国大学で横領事件や清野事件が発生し濱田耕作総長が辞意を表明したが、山川は荒木貞夫文相の意を受けて、辞意撤回の説得を行った。
九津見 房子(くつみ ふさこ、1890年10月18日 - 1… 九津見 房子(くつみ ふさこ、1890年10月18日 - 1980年7月15日)は、日本の社会運動家、社会主義者。日本最初の社会主義女性団体「赤瀾会」の創設者の一人。女性として初めて治安維持法により服役し、ゾルゲ事件にも連座して再度入獄した。 岡山市弓之町に生まれる。九津見家は備前勝山藩・三浦家の血筋につながる藩家老の家柄で、父・又雄は婿養子(旧姓: 内藤)。房子3歳の時に父が離縁されて、祖母のはる・母のうたとの3人の生活になる。生計は岡山医学専門学校産婆看護婦養成所を出ていたうたが産婆として稼ぎ、仏教徒で二刀流剣術や柔術など武芸に長じた武士階級出身だったはるとともに房子を育てた。やがてカトリック教会の付属幼稚園に入るが、房子が赤痢で重篤になった際に「天国に行けるよう」受洗を薦めるフランス人修道女(房子は「ははさま」と慕っていた)を、はるが「自分は極楽に行くつもりだからそうはさせぬ」と拒絶して、幼稚園も移ることになった。
福島 繁三(ふくしま しげぞう、1888年(明治21年)10… 福島 繁三(ふくしま しげぞう、1888年(明治21年)10月18日 - 1939年(昭和14年)8月29日)は、日本の内務・警察官僚。官選埼玉県知事。旧姓・阿久津。 栃木県大田原町(現大田原市)出身。阿久津脩斎の二男として生まれ、福島ソノと結婚して改姓。第一高等学校を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1915年、内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、宮城県加美郡長、鹿児島県学務部長、長野県学務部長、京都府書記官・学務部長、滋賀県書記官・警察部長、香川県書記官・警察部長、青森県内務部長、秋田県書記官・内務部長などを歴任。
酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18… 酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18日 - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争勃発時に第23軍司令官として香港を攻略した。のち、このときの虐殺事件で戦犯となり死刑となる。 広島県賀茂郡原村(現・東広島市)出身。神戸一中(現・神戸高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、 中央幼年学校本科を経て 、1908年(明治41年)陸軍士官学校(20期)を卒業し、同年歩兵第38連隊付少尉に任官した。1916年(大正5年)には陸軍大学校(28期)も卒業している。 1924年(大正13年)少佐。1928年3月の済南事件では、済南で日本人280人が虐殺されたとのデマ報道が日本で一時流れたが、これは当時済南で駐在武官となっていた彼が日本軍の大量出兵を目論み、画策したものではないかとの見方がある。
野村 元五郎(のむら げんごろう/もとごろう、1887年(明… 野村 元五郎(のむら げんごろう/もとごろう、1887年(明治20年)10月18日 - 1954年(昭和29年)2月14日)は、日本の実業家。野村銀行頭取や、同行会長、野村生命取締役、大阪ガス監査役等を歴任した。 大阪府で初代野村徳七の四男として生まれる。二代野村徳七は兄。1908年大阪高等商業学校(現大阪公立大学)卒業。1909年から6年間イギリスに留学した。1917年に家業が株式会社化され野村商店が設立されると監査役に就任した。 1918年に大阪野村銀行が設立されると頭取に就任し、昭和金融恐慌や昭和恐慌下でも順調に業容を拡大させた。1925年大阪瓦斯監査役。1934年野村生命取締役。1943年野村銀行会長。
二瓶 泰次郎(にへい たいじろう/やすじろう、1887年(明… 二瓶 泰次郎(にへい たいじろう/やすじろう、1887年(明治20年)10月18日 - 1963年(昭和38年)8月4日)は、大正から昭和時代の政治家。貴族院多額納税者議員。宮城県伊具郡丸森町長。 二瓶泰吉の長男として宮城県伊具郡丸森村(現丸森町)に生まれる。1907年(明治40年)角田中学校を卒業。家業の醤油醸造業に従事する。1925年(大正14年)丸森信用組合監査役に就任。1929年(昭和4年)には丸森町会議員に当選し、ついで丸森町長を3期務めた。1939年(昭和14年)私有地を寄付し伊具農蚕学校の県立移管に尽力した。ほか、伊具郡養蚕業組合長、同農会長、宮城県信用組合連合会理事、同県農業会長、全国農業会東北支部長などを歴任した。
西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 1… 西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 10月18日 - 1981年 <昭和56年> 4月27日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。位階は従四位。 長崎県平戸市出身。1906年に東京高等工業学校機械科を卒業し、同年に鈴木機械製作所に入社。 1910年に王子製紙に転じ、1941年に取締役を経て、1949年8月には十條製紙社長に就任。1957年11月に会長を経て、1968年5月には相談役に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月には勲三等瑞宝章を受章。 1981年4月27日、心不全のために死去。96歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
景山 圭一(かげやま けいいち、明治16年(1883年)10… 景山 圭一(かげやま けいいち、明治16年(1883年)10月18日 - 昭和32年(1957年)4月25日)は、日本の政治家。境町長(第15代)、境町会議員。鳥取県議会議員(議長、副議長)。 景山塾で名高い景山家の出身であり、景山粛の孫、景山龍造の甥にあたる。 鳥取県西伯郡境町(いまの境港市)出身。父は景山桂。 普通選挙法公布を前にして町村会選挙に初めて等級制がなくなった大正10年(1921年)の選挙で町会に進出、時代の波に乗った新勢力、革新派として境町政界に台頭した。 昭和2年(1927年)から20年間県会議員を務めた。町長職にあった昭和13年(1938年)から昭和14年(1939年)にかけては、第38代県会議長の要職にもあって町政、県政を股にかけ、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いであったという。
田中 邦治(たなか くにじ、1883年(明治16年)10月1… 田中 邦治(たなか くにじ、1883年(明治16年)10月18日 – 1960年(昭和35年)2月4日)は、衆議院議員(立憲民政党)。長野県須坂市長。 長野県上高井郡須坂町(現在の須坂市)出身。須坂町会議員、上高井郡会議員、同議長、長野県会議員、同参事会員、同副議長を歴任した。その他、長野県農会評議員、上高井郡農会長、長野電鉄株式会社監査役、長野温泉自動車株式会社監査役を務めた。1933年(昭和8年)から1946年(昭和21年)にかけて須坂町長を務めた。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第20回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 戦後は第2代須坂市長を務めた。
角田 政之助(つのだ まさのすけ、1882年〈明治15年〉1… 角田 政之助(つのだ まさのすけ、1882年〈明治15年〉10月18日 - 1974年〈昭和49年〉1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 群馬県北勢多郡青木村(利根郡利根村青木を経て現・沼田市利根町青木)出身。群馬県尋常中学校利根分校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。日露戦争では連隊旗手を務め負傷する。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を優等で卒業した。陸大同期には畑俊六、杉山元両元帥、小磯國昭、二宮治重らがいる。 インド駐箚武官、参謀本部欧米課英国班長などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第79連隊長に就任。
小宮山 常吉(こみやま つねきち、1882年(明治15年)1… 小宮山 常吉(こみやま つねきち、1882年(明治15年)10月18日 - 1974年(昭和49年)4月24日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 山梨県西山梨郡甲府若松町(現甲府市若松町)で小宮山栄兵衛の長男として生まれる。甲府市立小学校高等科を卒業。甲府市内の河内屋古着店に勤める。1902年(明治35年)に上京し家具販売業を創業し、のち鉄鋼原料商を営んだ。1928年(昭和3年)[要出典]に長男英蔵が屑鉄・スクラップ業の小宮山商店を創業し、英蔵は常務取締役として、のちの平和相互銀行を中心とする「小宮山コンツェルン」の基礎を築いた[要出典]。 機械製造販売業も営み、足立鋼管社長、足立産業社長、昭和鋼管社長、協同証券重役、小島特殊機械製作所重役、大洋観光重役、京浜ホテル重役、日本金銀糸工業重役などを務めた。
櫻井 天壇(さくらい てんだん、1879年〈明治12年〉10… 櫻井 天壇(さくらい てんだん、1879年〈明治12年〉10月18日 - 1933年〈昭和8年〉9月10日)は、日本のドイツ文学者、文芸評論家。第八高等学校第二語学科主任教授。会津八一の先輩で義弟。本名は櫻井 政隆(さくらい まさたか)。 新潟県南蒲原郡中野原新田村(現 三条市中野原)出身。1893年(明治26年)4月に新潟県尋常中学校に入学、「九泉童子」と号し、文芸雑誌『文庫』に投稿。 1898年(明治31年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1901年(明治34年)7月に第一高等学校を卒業、9月に東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学、カール・フローレンツに師事。 1903年(明治36年)6月から「天壇」と号し、『帝國文學』に評論を発表、1904年(明治37年)7月に東京帝国大学文科大学を最優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
後藤 瑞巌(ごとう ずいがん、1879年10月18日 - 1… 後藤 瑞巌(ごとう ずいがん、1879年10月18日 - 1965年3月20日)は、明治から昭和にかけての臨済宗の僧。岐阜県大垣市生まれ。道号は瑞巌、法名は宗頑。室号は蔭涼軒。俗姓は後藤。臨済宗円覚寺派の釈宗活の法嗣。臨済宗大学学長、妙心寺派管長、大徳寺派管長を歴任。その後は龍安寺山内の大珠院に隠棲。 1879年(明治12年)10月18日、岐阜県安八郡南一色村四番戸(現大垣市南一条町803番地2)、父・後藤吉左衛門、母・なおの五男として生まれる。1895年(明治28年)7月28日、岐阜県安八郡大垣町字南寺内145番戸、内藤宗越方(大悲院14世)に移籍し従弟となる。 1900年(明治33年)3月には、東京中学校を卒業し、その後第二高等学校に進学して1903年(明治36年)に東京帝国大学に入学。
岩下 家一(いわした かいち、1879年〈明治12年〉10月… 岩下 家一(いわした かいち、1879年〈明治12年〉10月18日 - 1963年〈昭和38年〉12月6日)は、日本のホテル経営者、華族(子爵)。祖父は薩摩藩出身の明治の政治家岩下方平。 岩倉使節団に参加し、のちに軍人となった岩下長十郎の息子として生まれるが、幼くして父を亡くす。学習院中等科では、志賀直哉、有島生馬らと同窓。学習院高等科を1年で中退。1900年(明治33年)9月29日、祖父の死去に伴い子爵を襲爵。 1905年(明治38年)東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業しスイスのローザンヌにホテル経営を学ぶため留学。有島生馬は、スイスの岩下を訪ねたときのことを小説『獣人』に描いている。 その後義兄犬塚信太郎が理事を務める南満洲鉄道の満鉄ホテルチェーン・長春ヤマトホテル支配人を務めた。
角田 正喬(つのだ まさたか、1877年〈明治10年〉10月… 角田 正喬(つのだ まさたか、1877年〈明治10年〉10月18日 - 没年不詳)は、大正から昭和戦前期にかけての日本の実業家である。主として電気事業に関与し、名古屋電灯やその後身東邦電力で常務を務めた。群馬県出身。 角田正喬は、1877年(明治10年)10月18日、角田徳太郎の長男として生まれた。出生地は群馬県利根郡沼須村(のちの利南村、現・沼田市)。上京して慶應義塾大学部に学び、1903年(明治36年)5月理財科を卒業した。卒業後はまず横浜の石川商会に入るが、翌1904年(明治37年)8月、大阪の商社日本綿花へと転じる。1905年(明治38年)8月からは同社上海支店勤務となった。 1910年(明治43年)に日本綿花を退職し帰国。
田村 哲 (通称: たむら てつ; 英語表記: S(ator… 田村 哲 (通称: たむら てつ; 英語表記: S(atoru) Tetsu Tamura; 出生名: たむら さとる、「哲」の元の読み; 1876年〔明治9年〕10月18日 – 1909年〔明治42年〕8月19日) は、日米で活躍した明治時代日本の気象学者・海洋学者。2021年ノーベル物理学賞受賞者の眞鍋淑郎が在籍した米国気象庁に日本人として初めて専門官として勤務したのは後述のとおり田村であり、高等数学応用の気象学者であることも共通する。また斯学の教育者にして米国の高等教育事情を調査・紹介した教育学者。 1876年(明治9年)10月18日、山形県置賜郡米澤北寺町(現、米沢市中央3丁目)に没落した米沢藩士田村芳政の三男として出生。
小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18… 小竹 岩楠(しの いわぐす、1874年(明治7年)10月18日 - 1933年(昭和8年)10月5日)は、日本の実業家。郷里の和歌山県で日高川水力電気での水力発電事業を成功させたのち、南紀白浜温泉を開発。明光バスなども設立した。 和歌山県日高郡島村(現・御坊市)に生まれる。小学校、中学校時代を首席で通し、1893年に御坊村の小竹家の養子となった。 和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1894年に高等高等商業学校(現・一橋大学)に進学した。 同校を病気で中退後、鎌倉市の円覚寺で2年間修行し、和歌山に帰郷し兄弟で家業の木材業を再興し、資産家となった。 日高郡で初となる製材所として、1901年に日高製材所を設立。
安原 仁兵衛(やすはら にへえ、1874年10月18日 - … 安原 仁兵衛(やすはら にへえ、1874年10月18日 - 1931年8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 滋賀県出身。明治法律学校で学ぶ。滋賀県議、同議長となる。また、近江重布(株)、高島銀行各取締役を務めた。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀2区から立憲政友会公認で立候補して当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙では87票差で落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では滋賀県全県区から立候補して返り咲いた。衆議院議員を2期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1931年死去。
脇村 市太郎(わきむら いちたろう、1874年(明治7年)1… 脇村 市太郎(わきむら いちたろう、1874年(明治7年)10月18日 - 1960年(昭和35年)4月8日)は、日本の薬剤師、実業家。田辺銀行監査役、田辺町会議員。田辺市名誉市民。 現在の田辺市で脇村市太夫の長男として生まれた。1893年(明治26年)帝国大学医科大学中退。家業の薬種商、山林業を営む。 1956年(昭和31年)に脇村奨学会を設立し、和歌山県の大学進学者に育英奨学金を支給している。 田辺市文化交流センター「たなべる」には脇村市太郎像が設置されている。
橘 糸重(たちばな いとえ、1873年(明治6年)10月18… 橘 糸重(たちばな いとえ、1873年(明治6年)10月18日 - 1939年(昭和14年)8月31日)は、日本の音楽家、敎育者、歌人。 1873年、三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)生まれ。生後まもなく父を亡くし、1874年に母、姉とともに上京。東京音楽学校(現・東京芸術大学)でピアノなどを学び、1892年に卒業。卒業後は研究科に進む。1896年より同校助教授となった。1901年に教授昇進。1928年に教授を辞した後は1939年に亡くなるまで嘱託講師(時間講師)として勤務した。1937年より帝国芸術院会員。ラファエル・フォン・ケーベルを音楽上のみならず宗教上の師とした。また、1931年(昭和6年)に来日したレオニード・クロイツァーの講習会を受講した記録もある。
泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10… 泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10月18日 - 1965年(昭和40年)2月4日)は秋田県出身の俳人で南画家。短歌や書道にも優れた。本名は良之助。 秋田県平鹿郡横手町(現:横手市)四日町下丁に生まれる。幼時に尾崎行雄邸に預けられた。早稲田大学政治科を中退。郡会議員、郡参事員、町会議員を歴任した。1925年(大正14年)に武者小路実篤らと日本画の「煙雲倶楽部」を結成した。翌1926年には新南画を提唱、東京髙島屋で個展をひらく。総理大臣賞受賞。県の国宝重要美術調査委員でもあった。一方で吉川五明の系統をひく俳人でもあり、湯沢市鷹の湯に、高さ10mの巨大な句碑が建っている。横手市文化功労賞、県の文化功労賞を受けた。
福田 笑迎(ふくだ しょうげい、1869年10月18日 - … 福田 笑迎(ふくだ しょうげい、1869年10月18日 - 1909年)は、日本の画家、著作家である。 出羽国五十目村(後の秋田県五城目町)の甚助・いへの第二子で長男として生まれる。生家は肝煎などの村役人を務めてきた旧家で、代々薬種商を営み、地主でもあった。幼名は貞助。幼少の頃より文才・画才に秀でて、当初は「瑞稲(ずいとう)」の号を用いて絵を描いていた。12歳のころに名を禎輔と改め、14歳ころからは笑迎の号を名乗っている。 生家が裕福な旧家であったため多くの書画を所有しており、就学前からそれらに親しんだ笑迎は、みずからも絵筆を走らせるようになっていた。師匠はなく、生家所蔵の書画を手本にした独学であったことから、作風には文人画、狩野派、浮世絵の画風が入り交じった独特のものになっている。
吉良 元夫(きら もとお、1867年10月18日(慶応3年9… 吉良 元夫(きら もとお、1867年10月18日(慶応3年9月21日)- 1938年(昭和13年)10月15日)は、明治から昭和前期の醸造家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡上井田村長。号・淡遠。 豊後国大野郡上尾塚村(大分県大野郡上井田村上尾塚、朝地村、朝地町を経て現豊後大野市朝地町上尾塚)で、酒造業・吉良圭蔵の長男として生まれる。竹田町の寺井塾で漢学を修めた。その後、上京して神田共立学校(現開成中学校・高等学校)、三田英語塾(慶應義塾)で学び、哲学館(現東洋大学)を卒業した。 帰郷して家業の酒造業、醤油醸造業を営む。大野郡酒屋組合長、両豊銀行監査役も務めた。日露戦争では豊州新報記者として従軍した。
赤堀 又次郎(あかほり またじろう、1866年10月18日〈… 赤堀 又次郎(あかほり またじろう、1866年10月18日〈慶応2年9月10日〉 - 1945年〈昭和20年〉)は、日本の国学者、国語学者、書誌学者、図書館学者。 明治10年代初頭の東京大学文学部は、洋学尊重の時代的風潮に影響されて和漢文学を専攻する学生は乏しかった。これを憂えた小中村清矩の献策に基づいて、文学部に古典講習科が付設された。赤堀はここに入学し、修業年限3年の後に卒業した。本科に比してこの科に学ぶものが多く、落合直文らの実力を有する学者が輩出して、古典研究の発展に寄与するものが少なくなかった。 1888年(明治21年)創立の私立言語取調所(会長伊達宗城)で、のちに『国語学書目解題』として出版される書籍の編纂に、林 美、落合直澄、逸見仲三郎とともに着手したが出版に至らず、1890年(明治23年)10月9日に取調所の図書、器具、金員の帝国大学への寄付が願い出られて許されたときに、この初稿も含まれていた。
石坂 美那子(いしざか みなこ、1865年10月18日〈慶応… 石坂 美那子(いしざか みなこ、1865年10月18日〈慶応元年8月29日〉 - 1942年〈昭和17年〉4月10日)は、明治から昭和にかけての日本の中等教育の英語教員、キリスト教伝道者。多摩地方の自由民権運動指導者だった石坂昌孝の長女で、評論家の北村透谷の妻であったことで知られる。 本名は石阪 ミナ。美那子とも書く。苗字は「石阪」「石坂」「北村」とも表記され、文献によってゆれがある。 生涯の精神的なキリスト教に出会い入信し、女学校を卒業した翌年に透谷と結婚する。夫の死後は英語学習と伝道のため、34歳でアメリカに留学。1907年に帰国し、その後は東京府立豊島師範学校(現在の東京学芸大学)、東京府立品川高等女学校(後に東京府立第八高等女学校、現在の東京都立八潮高等学校)などの英語教師を72歳まで続けた。
永山 盛興(ながやま もりおき、1864年10月18日(元治… 永山 盛興(ながやま もりおき、1864年10月18日(元治元年9月18日) - 1924年(大正13年)12月4日)は、明治から大正期の官僚、政治家、華族。男爵、貴族院議員。 薩摩藩士・永山盛輝(のち男爵)の長男として出生。1891年(明治24年)明治法律学校(明治大学)を卒業。 1874年(明治7年)文部省に勤務し文部9等属を経て、逓信省鉄道書記に就任。父の死去に伴い1902年(明治35年)2月7日に男爵を襲爵。1918年(大正7年)7月10日に貴族院議員に就任し、1924年に死去するまで在任。61歳。