平山 亨(ひらやま とおる、1929年3月19日 - 201… 平山 亨(ひらやま とおる、1929年3月19日 - 2013年7月31日)は、株式会社レッド・エンタテインメント・デリヴァー取締役。東映では、助監督(映画)、映画監督、テレビプロデューサーを務めた。作詞家として八手三郎および田中守のペンネームを用いている。映画監督の松村昌治(中山昌一)は義兄。 1929年に母の実家の名古屋市で4人兄弟の長男として出生。父は鉄道省勤務。出生時の自宅は東京都だったが、転居を繰り返して東京都と名古屋市で育つ。 旧制中学校時代の1944年には、学徒動員で防空壕作りや疎開工事、工場勤務などの勤労奉仕に従事した。 終戦後の1947年4月に青山学院専門学校(現・青山学院大学)の英文科に入学。
大谷 暢順(おおたに ちょうじゅん、1929年3月19日 -… 大谷 暢順(おおたに ちょうじゅん、1929年3月19日 - )は、浄土真宗僧侶、浄土真宗大谷本願寺派本山本願寺第25世法主留守職、フランス文学者。一般財団法人本願寺文化興隆財団理事長。明仁上皇の従兄弟。長男に大谷光輪。蓮如・ジャンヌ・ダルクの研究者。日仏での著書多数。 1929年東本願寺法主・大谷光暢の次男として京都に生まれる。 1952年東京大学印度哲学梵文学科卒、同大学院仏文科修了。 1955年パリー大学文学部入学。 1967年ソルボンヌ高等学院卒業。 1986年パリー第七大学文学博士号取得。 1988年フランスより、パルム・アカデミック勲章叙勲。 1996年に長男・次男とともに大谷派を離脱、本願寺法主・留守職となる。
三遊亭 金翁(さんゆうてい きんおう、1929年(昭和4年)… 三遊亭 金翁(さんゆうてい きんおう、1929年(昭和4年)3月19日 - 2022年(令和4年)8月27日)は、東京都江東区出身の落語家。落語協会顧問、日本演芸家連合5代目会長、日本芸能実演家団体協議会顧問。本名は松本 龍典。出囃子は『翁千歳三番叟』。前名の三遊亭金馬としては4代目。 柳家小袁治による「当代金馬は、自分の大師匠を知っている大ベテラン」との発言からも窺える通、令和期まで生きた唯一の戦中入門の落語家であった。 子供の頃は兵隊に憧れ予科練を夢見たが、柳家金語楼のSPレコードを聴いたことで落語に興味を持つようになる。家族や近所の人に落語を披露しては爆笑をとっていた。 1941年7月、小学校卒業の12歳のとき、寄席の支配人の伝手で3代目三遊亭金馬に入門。
山下 艶子(やました つやこ、旧姓:生田、1928年3月19… 山下 艶子(やました つやこ、旧姓:生田、1928年3月19日 - 2021年2月12日)は、日本のフィギュアスケート選手、コーチ。大阪府大阪市出身。大手前高等女学校(現・大阪府立大手前高等学校)、関西学院大学卒。155cm。長女は元フィギュアスケート選手で1968年グルノーブルオリンピック、1972年札幌オリンピック女子シングル日本代表の山下一美(現姓・大西)。 6歳のとき、大阪・中之島にあった朝日会館内のリンクで永井康三に師事し、スケートを始めた。 1938-1939年と1939-1940年シーズンの全日本フィギュアスケートジュニア選手権で2連覇を果たし、1940-1941年の全日本フィギュアスケート選手権で3位となった。
泉 大助(いずみ だいすけ、1927年3月19日 - 201… 泉 大助(いずみ だいすけ、1927年3月19日 - 2012年2月28日)は、日本のタレント、テレビ番組司会者。本名は、荒磯 和行(あらいそ かずゆき)。 静岡県生まれ。1948年、慶應義塾大学経済学部を卒業した。舞台芸術学院、はちの会を経て、1955年のTBS放送劇団所属を経て、1957年頃CMタレントに転身する。1959年からフリーランスで活動を開始する。 松下電器産業(現在のパナソニック)と専属契約を結び、同社のCMに多数出演したほか、同社提供の長寿クイズ番組『ズバリ!当てましょう』(フジテレビ)の司会を務めた。 そのため、「ナショナルの顔」と呼ばれ、東芝の押阪忍、日立の高橋圭三と共に「家電CMの顔」とも呼ばれた。
天野 哲夫(あまの てつお、1926年3月19日 - 200… 天野 哲夫(あまの てつお、1926年3月19日 - 2008年11月30日)は、日本の小説家。 覆面作家沼正三の著作として出版された奇書『家畜人ヤプー』について、作者であると告白したことで知られる。 福岡市出身。市立福岡商業(現・福岡市立福翔高等学校)卒。戦前は満州を放浪、戦後は種々の職業を経て1967年から校正者として新潮社に勤務。その傍ら小説を執筆し、沼正三の代理人を名乗っていたが、1982年、自身が『家畜人ヤプー』の作者のひとりであると公表。その真偽や関与の程度をめぐってはなお論争があるが、沼正三の著作のうち『家畜人ヤプー』の後半部分や『マゾヒストMの遺言』の著者は天野であることが確かとされる。
岡 並木(おか なみき、1926年3月19日 - 2002年… 岡 並木(おか なみき、1926年3月19日 - 2002年12月7日)は、日本のジャーナリスト、交通及び比較都市論を専門とする評論家。 東京都出身。1952年に東京大学文学部社会学科卒業後、朝日新聞社入社。編集委員などをつとめる。1985年の退社後は、西武百貨店顧問。のち静岡県立大学国際関係学部教授を経て、武蔵野女子大学文学部教授。 父親は、大正から昭和初頭に、民族・民俗学や考古学の専門書、山岳書を出版した「岡書院」店主の岡茂雄。叔父は民族学者の岡正雄。従兄弟(正雄の息子)に文化人類学者の岡千曲。 衣食住に加えて、交通、移動の重要性とこれらが顧みられていない現状を説き、「衣食住交」を提唱した。
長谷部 七郎(はせべ しちろう、1924年3月19日 - 1… 長谷部 七郎(はせべ しちろう、1924年3月19日 - 1976年10月5日)は、日本の政治家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)。 秋田県出身。1941年秋田県立金足農業学校(現・秋田県立金足農業高等学校)卒。農林省秋田食糧事務所に入り、全食糧労組秋田支部委員長、1955年から秋田県議を4期務め、1969年の第32回衆議院議員総選挙において秋田2区から日本社会党公認で立候補して当選、1期務めた。1972年の第33回衆議院議員総選挙で落選した。1976年死去。
倉田 保雄(くらた やすお、1924年3月19日 - 201… 倉田 保雄(くらた やすお、1924年3月19日 - 2011年11月18日)は、国際問題評論家、エッセイスト。 東京都生まれ。暁星中学を経て1945年慶應義塾大学経済学部卒業後、時事通信、ロイター、UPI通信社東京支局勤務。 1952年フルブライト留学生として米国留学。1953年共同通信に入社。ロンドン特派員、パリ支局長、編集委員。早稲田大学・慶大講師。 1989年から2002年までNHK「視点・論点」のコメンテーター。1994年フランス国家功労勲章(シュバリエ級)受章。ヨーロッパ特に英国、フランスについての著書多数。 2011年11月18日、虚血性心疾患のため死去。87歳没。
田中 正司(たなか しょうじ、1924年3月19日 - 20… 田中 正司(たなか しょうじ、1924年3月19日 - 2020年1月26日)は、日本の社会思想史家、経済学史家。横浜市立大学名誉教授。 横浜市立大学図書館長を経て、一橋大学社会科学古典資料センター第3代主任教授。1970年経済学博士(専修大学)。ジョン・ロックやアダム・スミスを中心とするイギリス思想について研究をおこなった。 東京生まれ。昭和第一商業学校(現 昭和第一高等学校)を経て、戦時中の1943年、横浜市立横浜商業専門学校 (旧制)(現 横浜市立大学)を繰り上げ卒業、三菱石油に入社。1945年3月に召集されるが、まもなく終戦。1946年、三菱石油を退社し、東京商科大学(現一橋大学)本科に入学。
磯貝 碧蹄館(いそがい へきていかん、1924年3月19日 … 磯貝 碧蹄館(いそがい へきていかん、1924年3月19日 - 2013年3月24日)は、俳人、書家。 東京出身。本名は甚吉。豊南商業学校(現・豊南高等学校)中退。川柳、自由律俳句を経て、1954年中村草田男に師事。1960年『与へられたる現在に』で角川俳句賞受賞。1966年『握手』で俳人協会賞受賞。1974年俳誌「握手」を創刊し主宰する。2004年句集『馬頭琴』により第5回雪梁舎俳句大賞特別賞受賞。書を金子鷗亭に学び、創玄展審査員を務めた。2013年3月24日、肺癌のため死去。89歳没。
河西 計介(かさい けいすけ、1924年3月19日 - )は… 河西 計介(かさい けいすけ、1924年3月19日 - )は、日本の実業家。阪神百貨店(現:エイチ・ツー・オー リテイリング)代表取締役社長・代表取締役会長を務めた。 長野県諏訪市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1947年に京都大学法学部卒業し、同年に阪神電気鉄道入社。1983年阪神百貨店(現:エイチ・ツー・オー リテイリング)代表取締役社長。1989年阪神電気鉄道非常勤取締役を兼務。1995年阪神百貨店代表取締役会長。名誉顧問。大阪商工会議所名誉議員を務めた。
稲神 馨(いながみ かおる、1923年(大正12年)3月19… 稲神 馨(いながみ かおる、1923年(大正12年)3月19日 - 2022年(令和4年)6月5日)は、日本の食品科学者。九州大学名誉教授。元カルピス食品工業(現:アサヒ飲料)常務取締役、元日本食品科学工業学会副会長。カネミ油症事件の原因を解明した。岡山県新見市出身。 1923年(大正12年)、岡山県新見市に生まれる。その後、地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。同期には、天野昇(日本原子力研究所副理事長)、福田正彦(新見市長)、古米初男(丸善石油副参与)、田井庄之助(大分大学教授)がいた。1940年(昭和15年)、高梁中学校を卒業、鳥取高等農業学校獣医畜産学科へ進学する。
小森 義峯(こもり よしみね、1923年〈大正12年〉3月1… 小森 義峯(こもり よしみね、1923年〈大正12年〉3月19日 - 2022年〈令和4年〉2月1日)は、日本の憲法学者、海軍軍人、民族派。法学博士(京都大学・論文博士・1966年)。佐賀県小城郡牛津町(現・小城市)出身。大石義雄の門下。門下生は皇學館大学名誉教授の富永健。 1942年旧制佐賀高等学校文科乙類卒業。1943年大日本帝國海軍に応召。その後、中尉に昇進。1945年9月復員。1946年京都帝国大学法学部政治学科卒業。 1947年佐賀龍谷中学校教諭。1948年4月京都府立桃山高等学校教諭。1948年12月京都師範学校附属桃山中学校教諭。 1953年3月京都大学大学院法学研究科修士課程修了(指導教授:大石義雄)。
石橋 一弥(石橋 一彌、いしばし かずや、1922年〈大正1… 石橋 一弥(石橋 一彌、いしばし かずや、1922年〈大正11年〉3月19日 - 1999年〈平成11年〉3月5日)は、日本の政治家(自由民主党衆議院議員)。位階は従三位、勲等は勲一等。第1次海部内閣で文部大臣を務めた。東金市名誉市民。 千葉県山武郡公平村(現・東金市)出身。石橋家は代々名主・村長を務めてきた旧家の豪農で、父・弥は竹尾弌とともに農民運動にも関わり公平村長や県議会議員を務めた。日本農士学校(埼玉県農業大学校の前身のひとつ)に学び、昭和16年に同校を卒業、陸軍に入隊。 1952年に公平村長、1968年に東金市長に就任。1976年、千葉三郎の後継者として旧千葉3区から衆議院議員に初当選。
小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年3月19日 - 20… 小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年3月19日 - 2014年1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。和歌山県出身。 情報将校とし第二次世界大戦に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年を経て、フィリピン・ルバング島から日本へ帰還した。その後は、メディアにつきまとわれた事もあり、戦後の日本への適応は困難であった。 大正11年(1922年)、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて父・小野田種次郎(県議会議員)、母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれる。小野田家は海南市小野田の宇賀部神社の宮司を代々務める家柄で、寛郎の家はその分家。
上崎 暮潮(うえさき ぼちょう、本名:上崎 孝一、1922年… 上崎 暮潮(うえさき ぼちょう、本名:上崎 孝一、1922年(大正11年)3月19日 - 2013年(平成25年)11月6日)は、日本の俳人。日本伝統俳句協会四国支部長名誉理事。徳島県出身。 1947年、名古屋帝国大学(現在の名古屋大学)卒業。高浜虚子等に師事し、第二次世界大戦前より俳誌「ホトトギス」に作品を発表してきた。1946年に徳島県内俳誌の草分けの一つである「祖谷」創刊に携わり、1987年から主宰を務める。 1995年に句集「花鳥阿波」で徳島県出版文化賞、2002年に芦屋国際俳句祭で文部科学大臣賞、2007年に徳島新聞賞(文化賞)を受賞した。 日本伝統俳句協会四国支部長や理事を務めた後、2008年より名誉理事となる。
祖父江 逸郎(そぶえ いつろう、1921年3月19日 - 2… 祖父江 逸郎(そぶえ いつろう、1921年3月19日 - 2021年3月29日)は、日本の医師(神経内科)、軍医。 公益財団法人 長寿科学振興財団名誉理事長および名古屋大学名誉教授、愛知医科大学名誉教授。息子に学校法人愛知医科大学理事長・愛知医科大学学長の祖父江元。愛知県名古屋市出身。 愛知一中を経て、1943年に名古屋帝国大学医学部卒業。海軍軍医学校での訓練を経て軍医中尉となり、戦艦大和に乗艦。乗組軍医としてマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に従軍した。1945年1月に広島県江田島の海軍兵学校大原分校に転勤(乗艦していた大和は1945年4月沈没)。8月6日の広島原爆投下の3日後に現地調査を行った。 戦後は1950年代から多発した「薬害スモン」のほか、筋萎縮性側索硬化症(ALS)やパーキンソン病など難病の原因究明や治療法の開発に貢献。
浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990… 浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990年12月4日)は、日本の都市計画家・建築家。 香川県出身。戦後活躍する丹下健三の右腕として、丹下の数々の建築作品に関与。他、後に大阪万博を主導することになる建築家・デザイナーグループ「メタボリズム」を結成するなど、多方面で活躍。 南極大陸昭和基地プレファブユニットの設計、横浜市六大事業(みなとみらい21地区の開発、横浜ベイブリッジ構想、港北ニュータウン等)横浜市における都市計画の骨格つくりから、横浜こどもの国、世界デザイン会議、香川県の五色台開発や坂出人工土地、美濃部亮吉東京都知事時代の「広場と青空の東京構想」、大阪万博と沖縄海洋博プロデュース、国レベルの政策研究機関である総合研究開発機構(NIRA)設立、さらに本四連絡橋(瀬戸大橋)を架ける提案をした人物として知られている。
中島 平太郎(なかじま へいたろう、1921年3月19日 -… 中島 平太郎(なかじま へいたろう、1921年3月19日 - 2017年12月9日)は、デジタルオーディオ技術の草分け的人物とされる日本の技術者である。コンパクトディスク メディア(CD-DA規格) 開発においてソニー側の責任者で、「CDの父」とも呼ばれる。福岡県久留米市生まれ。任意団体CDs21ソリューションズ会長。ビフレステック株式会社代表取締役会長。 CD-DAはソニーとフィリップスの共同開発だが、中島はそのソニー側の責任者だった。規格制定の貢献度は両社50%ずつと公式に発表されているが、技術コンペを経てソニー側が主張した技術が多く採用されている。 デジタル録音可能メディアであるDATとCD-Rにおいて音楽著作権の在り方に関し、日本レコード協会としばしば対立した。
謝希徳(しゃ きとく、1921年3月19日 – 2000年3… 謝希徳(しゃ きとく、1921年3月19日 – 2000年3月4日)は中国の物理学者。1983年から1989年まで復旦大学の学長を務め、1989年から亡くなるまで大学顧問を務めた。同大学のアメリカ研究センターの設立を援助し、1977年に現代物理学研究所を設立した。 1982年から1992年まで中国共産党中央委員会の委員も務めた。 中国南東部の福建省泉州市出身。教育を重視する家庭に生まれた。父の謝玉銘はシカゴ大学でPh.D.を取得し、北京の燕京大学で教鞭をとっていた。 子供のころは北京で過ごした。1942年、厦門大学で物理学、数学の勉強を開始し、1946年に卒業した。上海大学で1年間教鞭をとり、アメリカのスミス大学で物理学の修士課程で勉強する奨学金を得ることができ、1949年に卒業した。
奥田 鑛一郎(おくだ こういちろう、1920年(大正9年)3… 奥田 鑛一郎(おくだ こういちろう、1920年(大正9年)3月19日 - 1995年(平成7年)3月17日)は、日本の会社経営者(三宅坂経営よろず相談所主宰、梁山泊・三宅坂倶楽部会長)、著述業、元陸軍軍人および陸上自衛官。陸士53期卒(歩兵)。最終階級は陸軍少佐、二等陸佐。旧名:奥田重武。 福島県会津若松市出身。奥田重栄少将の四男。ペンネームの「鑛一郎」は祖父の名で、家憲により1978年ごろ襲名した。 父の予備役編入に伴い京都市で育ち、京都府立第六中学より東京幼年学校を経て陸士53期卒。原隊は歩兵第9連隊。当時の第16師団長は石原莞爾であった。連隊旗手を拝命後、下志津陸軍飛行学校にて特別偵察学生としての訓練を受け、1941年6月、参謀本部課員として南方での空中偵察に従事。
達ノ里 寿弥(だてのさと としや、1920年3月19日 - … 達ノ里 寿弥(だてのさと としや、1920年3月19日 - 没年不明)は、北海道夕張市出身の元大相撲力士。振分部屋→玉ノ井部屋→振分部屋所属。本名は工藤 寿弥(くどう としや)。最高位は西十両5枚目。得意技は投げ、捻り。 振分部屋に入門し、1936年1月場所に初土俵を踏む。1941年1月場所に十両に昇進。再十両の1943年5月場所に応召される。1946年11月場所に復帰するが、その後は十両の地位にあるも勝ち越すことなく1947年11月場所に27歳で廃業した。非常に柔軟な体格で足腰も良く、軽量だが投げや捻りを駆使した激しい取り口が持ち味のの相撲巧者であった。
中西 珠子(なかにし たまこ、1919年3月19日 - 20… 中西 珠子(なかにし たまこ、1919年3月19日 - 2008年4月3日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。 国連ハビタット推進議員連盟事務局長。議員引退後も同活動の支援を続けたことから国連ハビタット賞(英語版)を授与されている。 京都府京都市出身。法学者、中島重の長女。 1940年、津田英学塾卒業。 戦後、GHQに勤務。のち国際労働機関に転じ、東京支局次長を経て、津田塾大学理事、津田塾会理事長を務める。 1983年、第13回参議院議員通常選挙比例区に公明党から出馬し、初当選。 1989年、第15回参議院議員通常選挙比例区再選。 1995年春の叙勲で勲二等瑞宝章受章。同年の第17回参議院議員通常選挙に立候補せず、引退。
高木 貞敬(たかぎ さだゆき、1919年(大正8年)3月19… 高木 貞敬(たかぎ さだゆき、1919年(大正8年)3月19日 - 1997年(平成9年)10月11日)は、日本の神経生理学者。 京都府京都市生まれ。1944年東京帝国大学医学部卒。1952年「後索後根標品に見られる遲電位」で東大医学博士。東大医学部講師、1954年群馬大学医学部生理学科教授。1954年から1957年までイリノイ大学、1964年から1965年までミシガン大学に留学した。1983年定年退官、名誉教授。1997年、膵臓癌のため死去。
福永 武彦(ふくなが たけひこ、1918年(大正7年)3月1… 福永 武彦(ふくなが たけひこ、1918年(大正7年)3月19日 - 1979年(昭和54年)8月13日)は、日本の小説家、詩人、フランス文学者。
馬渕 和夫(まぶち かずお、1918年3月19日 - 201… 馬渕 和夫(まぶち かずお、1918年3月19日 - 2011年11月24日)は、日本の国語学者。筑波大学名誉教授、東京成徳短期大学名誉教授。勲三等瑞宝章受章。長く「馬淵和夫」の表記を用いた。 愛知県名古屋市生まれ。東京文理科大学卒、1961年「日本韻学史の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。東京教育大学、筑波大学教授、1981年定年退官、名誉教授、東京成徳短期大学教授、2003年退職。1995年春、勲三等瑞宝章受勲。 馬渕の研究対象は広範囲にわたり、そのような意味においては総合性が大きな特色の一つであるといえるが、新たに開拓された分野として真っ先に挙がるのは、悉曇学や日本語の音韻史である。
小林 美代子(こばやし みよこ、1917年3月19日 - 1… 小林 美代子(こばやし みよこ、1917年3月19日 - 1973年8月18日)は、日本の小説家。 岩手県釜石市出身。1924年に福島県伊達郡保原町(現伊達市)に移住。1929年、母の癌再発に伴って一家窮乏し、尋常小学校高等科1年で中退、単身上京して子守となる。家業の破産や家族の病死、逐電、精神錯乱などが相次ぎ、転々と職を変えた末、戦時下は速記者として生計を立てる。 戦後は三鷹市井の頭に自宅を構えるが、1955年、メニエール病で倒れ、以後入退院を繰り返す。1962年、近隣トラブルからノイローゼになり、精神病院に入院。1966年、閉鎖病棟の中で書き上げた処女作が『文芸首都』に掲載され、以後、同誌同人の中上健次、勝目梓らと切磋琢磨する日々をおくる。
松田 瓊子(まつだ けいこ、1916年(大正5年)3月19日… 松田 瓊子(まつだ けいこ、1916年(大正5年)3月19日 - 1940年(昭和15年)1月13日)は、日本の小説家。父は小説家の野村胡堂。夫は政治学者の松田智雄。 東京市小石川区(現在の東京都文京区)に4人兄弟の次女として生まれる。作家の父と高等女学校の教員であった母のもと、文化的に恵まれた家庭に育つ。日本女子大附属高等女学校(現在の日本女子大学附属中学校・高等学校)に入学した頃から少女小説を書き始め、女学校卒業の頃に初めての長編である『人形の歌』を完成する。女学校卒業後は日本女子大学校(現在の日本女子大学)英文科に入学する。卒業生名簿に名前が記載されていないことから、卒業はしなかったとされている。
森 三十郎(もり さんじゅうろう、1916年3月19日 - … 森 三十郎(もり さんじゅうろう、1916年3月19日 - 2012年7月2日)は、日本の法学者、福岡大学名誉教授。元法学部長、理事。 福岡県鞍手郡鞍手町出身。第五高等学校を経て、九州帝国大学法学部卒。(宇賀田順三門下、在学中に高等文官試験に合格)。 九大助手、拓務省、大東亜省、外務省勤務、応召して陸軍主計中尉で敗戦を迎え、1948年戸畑専門学校教授(憲法、行政法)に就任。1950年新制八幡大学助教授、教授を歴任後1954年に退任。後鹿児島県立大学、久留米大学助教授。1956年福岡大学教授に就任。1987年、定年退任、名誉教授。 総合国家学研究所のち森国家学研究所を主宰し、天皇制擁護の論陣を張った。
大河原 春雄(おおかわら はるお、1916年(大正5年)3月… 大河原 春雄(おおかわら はるお、1916年(大正5年)3月19日 - 1997年(平成9年)7月17日)は、日本の建築行政指導者、都市計画家、都市計画研究者、教育者。東京都首都整備局技監や東京理科大学教授を歴任した。 石川県金沢市に生まれる。旧制第四高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に進学し、1938年(昭和13年)に優秀な成績で卒業する。当時の都市計画講座は内田祥三(のちに総長)の担当だった。卒業後は警視庁保安部建築課に就職し、都市計画の実務に入る。この就職には、都市計画講座に注力していた内田の薦めがあったともされる。 当時建築行政は警察業務として扱われており、東京府では警視庁が所管して市街地建築物法を執行していた。
江口 朴郎(えぐち ぼくろう、1911年3月19日 - 19… 江口 朴郎(えぐち ぼくろう、1911年3月19日 - 1989年3月15日)は、日本の西洋史研究者。東京大学名誉教授。元日本学術会議会員、元歴史学研究会委員長。 1911年、佐賀県生まれ。少年時代から神奈川県藤沢町(鵠沼(現・藤沢市鵠沼桜が岡1丁目)に在住。湘南中学校、第一高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。同大学院に進んだ。 卒業後は、1934年から外務省に嘱託として勤務。1941年、姫路高等学校教授に就いた。 戦後は鵠沼(現鵠沼橘2丁目)に帰り、1947年に第一高等学校教授となった。この頃、母校の湘南高校の生徒であった江藤淳、石原慎太郎、葉山峻らが出入りしていた。1953年に東京大学教授となった。
志岐 義郎(しき よしろう、1911年3月19日 - 197… 志岐 義郎(しき よしろう、1911年3月19日 - 1973年6月7日)は、日本の経営者。三菱瓦斯化学社長を務めた。 福岡県出身。1931年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。 三菱製紙での勤務を経て、1945年に江戸川化学工業に転じ、1951年に取締役、1956年6月に常務、1966年に専務を経て、1964年には社長に就任し、1971年10月に三菱瓦斯化学社長に就任。 1969年4月に藍綬褒章を受章。 1973年6月7日、心筋梗塞のために死去。62歳没。墓所は鎌倉市の鎌倉霊園。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
近藤 市太郎(こんどう いちたろう、1910年3月19日 -… 近藤 市太郎(こんどう いちたろう、1910年3月19日 - 1961年1月6日)は、日本の美術史家。 東京出身。1934年東京帝国大学卒業、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)に入り、普及課長、資料課長。浮世絵の展覧会を担当した。
堀 一郎(ほり いちろう、1910年(明治43年)3月19日… 堀 一郎(ほり いちろう、1910年(明治43年)3月19日 - 1974年(昭和49年)8月10日)は、日本の宗教学者。東京大学名誉教授。 三重県生まれ。1929年に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部印度哲学科入学。同期に五来重らがいる。1932年に卒業。1935年に大学院を退学した後、1939年から二松学舎専門学校教授、同年文部省国民精神文化研究所助手などとなり、戦後は東北大学教授を経て、1965年東京大学宗教学科教授。1971年定年退官、成城大学教授。また、1950年から國學院大學兼任教授。1953年に「我が国民間信仰史の研究」により、東京大学から文学博士の学位を授与される。
小田部 謙一(おたべ けんいち、1910年3月19日 - 2… 小田部 謙一(おたべ けんいち、1910年3月19日 - 2008年3月17日)は、日本の外交官。駐ベルギー特命全権大使、欧州共同体(EC)政府代表部特命全権大使。 東京出身。1929年東京商科大学(現一橋大学)予科修了。1934年同大学学部卒業、外務省入省、調査部。1945年終戦連絡中央事務局総裁官房翻訳課長。1949年通商産業省輪出局雜貨課長。1951年外務省連絡局長心得。同年外務省経済局次長。1954年外務省経済局長心得。在アメリカ合衆国日本国大使館参事官を経て、1959年外務省経済局経済協力部長事務取扱。同年外務省アジア局賠償部長。1962年外務省大臣官房審議官。同年駐ビルマ特命全権大使。
池田 末利(いけだ すえとし、1910年 <明治42年> 3… 池田 末利(いけだ すえとし、1910年 <明治42年> 3月19日 - 2000年 <平成12年> 11月9日)は、日本の中国哲学者。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 福岡県生まれ。大東文化学院卒、1936年広島文理科大学卒。1938-1941年北京大学に学ぶ。1955年「中国ニ於ケル祖先崇拝ノ溯源的研究、並ニソノ天・地神崇拝トノ関係」で東京大学より文学博士の学位を取得。広島大学文学部助教授、教授、1973年定年退官、名誉教授、大東文化大学教授、学長。1979-1981年日本中国学会理事長。1984年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章を受章。2000年死去。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
吉田 実(吉田 實、よしだ みのる、1910年3月19日 -… 吉田 実(吉田 實、よしだ みのる、1910年3月19日 - 1982年11月16日)は、日本の政治家。公選3人目の富山県知事(4期)で、旧大島村長(現・射水市)。富山県販購農業協同連合会会長、全国販売農協連合会専務理事、富山県農業協同組合中央会長なども務めている。また、衆議院議員・参議院議員も歴任した。子の吉田力は大島町長となった。 1910年3月19日、富山県大島村(現・射水市)に生まれる。1947年4月5日、37歳にして大島村長になり、1956年8月30日に辞職するまで3期にわたり務めた。 1956年9月25日、公選3人目の富山県知事となり、以降4期務めた。その間、立山黒部アルペンルートの開通や、富山新港の開港、太閤山住宅団地の開発を行った。
岡本 敏明(おかもと としあき、明治40年(1907年)3月… 岡本 敏明(おかもと としあき、明治40年(1907年)3月19日 - 昭和52年(1977年)10月21日)は、昭和時代に活躍した日本の音楽家(作曲家)。 1929年(昭和4年)、玉川学園教師、1940年(昭和15年) 、日本放送合唱団で指揮を5年とった後、1942年(昭和17年)からは興亜工業大学(現・千葉工業大学)の音楽担当教員(正科目)などを務めた。戦後は国立音楽大学の設立に携わるとともに文部省図書編集委員として、音楽教科書、音楽学習の指導要領の作成に携わった。また日本基督教団讃美歌委員としても活躍。多くの讃美歌を残す。父は組合教会牧師岡本松籟。教会においてオルガンの音を聴きつつ育った。
山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 -… 山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 - 1990年6月13日)は日本の金属工学、材料工学者、教育者。 1907年(明治30年)京都府に生まれる。京都府立第二中学校、第三高等学校を経て京都帝国大学機械工学科に入学。1921年(大正10年)に卒業すると、そのまま同大の講師を務めた。1923年(大正12年)東北帝国大学助教授、1927年(昭和2年)には東京高等工業学校の講師を兼ねた。1928年(昭和3年)ドイツに留学、1930年(昭和5年)に帰国後、京都大学教授。その後、東京工業大学金属科長、静岡大学学長兼短期大学学長、武蔵工業大学学長などを務めた。
近藤 益雄(こんどう えきお、1907年3月19日 - 19… 近藤 益雄(こんどう えきお、1907年3月19日 - 1964年5月17日)は、障害児教育実践家。 長崎県佐世保市生まれ。1927年國學院大學高等師範部卒。長崎県で小学校教師となり、生活綴方運動などにとりくむ。長崎の原爆で長男耿(あきら)を亡くす。1948年田平小学校長。1950年校長を自ら辞め、佐々町立口石小学校に特殊学級「みどり組」を開設、その担任となる。1953年のぎく寮(のちのぎく学園)を開き、1962年口石小を辞めてのぎく寮での実践に専念する。 「のんき・こんき・げんき」をモットーとした。文部大臣表彰、1954年読売教育賞、西日本文化賞、1963年ヘレン・ケラー教育賞、日本精神衛生連盟表彰。
中川 宋淵(なかがわ そうえん、1907年3月19日 - 1… 中川 宋淵(なかがわ そうえん、1907年3月19日 - 1984年3月11日)は、昭和の臨済宗の禅僧。俳人としても知られた。道号は玄珠、法諱は宋淵。本名は中川基(なかがわ もとし)。号は密多窟。 山口県玖珂郡岩国町(現・岩国市)出身。大正12年(1923年)、旧制第一高等学校入学。昭和2年(1927年)東京帝国大学文学部入学。 東京帝国大学在学中の昭和6年(1931年)3月19日、山梨県の向嶽寺勝部敬学につき得度。得度後は大菩薩山中にて木食修行に励む。昭和5年(1930年)東京の白山道場で山本玄峰に師事し、昭和10年(1935年)に静岡県三島市の龍沢寺へ転錫。昭和26年(1951年)4月、山本の跡を継いで龍沢寺第10世住職並びに僧堂師家となる。
藤井 正男(ふじい まさお、1906年(明治39年)3月19… 藤井 正男(ふじい まさお、1906年(明治39年)3月19日 - 1995年(平成7年)6月12日)は、日本の政治家。第6代福山市長(2期)、衆議院議員(1期)。位階は従五位。 1931年、明治大学法学部卒業。福山市会議員を務めた後、1946年4月10日に行われた第22回衆議院議員総選挙に立候補。落選するも、当選者の渡辺忠雄が公職追放を受け6月22日に辞職。7月4日に繰上補充で衆議院議員となった。 1947年3月19日、公職追放により小林和一福山市長が辞職。かくして、新しく公布される地方自治法に準拠して初代公選市長の選挙が4月5日に行われることとなった。市長選は、市当局の立案した都市計画に反対する藤井と、都市計画遂行を主張する弁護士の徳永豊との一騎打ちとなった。
松田 ふみ子(まつだ ふみこ、1905年3月19日 - 没年… 松田 ふみ子(まつだ ふみこ、1905年3月19日 - 没年不明)は、日本の女性ジャーナリスト。奈良県出身。梅花女子専門学校(梅花女子大学の前身)から、九州帝国大学文学部に進み、1930年に卒業。1937年、中央公論社に入社し、『婦人公論』の編集を担当。1944年、毎日新聞社に移り、『サンデー毎日』の記者として活躍。1961年、退社。1966年 - 1975年、労働省婦人少年局審議会委員。1980年 - 1993年、エリザベス・サンダースホーム理事長。
阿部 五郎(あべ ごろう、1904年(明治37年)3月19日… 阿部 五郎(あべ ごろう、1904年(明治37年)3月19日 - 1963年(昭和38年)1月23日)は、日本の政治家。 初代公選徳島県知事。日本社会党の衆議院議員(5期)。徳島県立商業学校卒業。徳島県徳島市出身。 徳島市出身。徳島県立商業学校(現・徳島県立徳島商業高等学校)を卒業。久原鉱業に入社するも病気により退社、九州に転じ門司港の荷役事務員、労働共済会の主事などを経て労働農民党に入党。労働運動家となる。1930年徳島に帰郷、全国農民組合徳島支部連合会顧問となる。その後独学で司法科高等試験に合格し、徳島市内で弁護士を開業した。 終戦後の1945年、日本社会党に入党。同党徳島県連会長を務め、1947年4月5日に徳島県知事に当選。
関 之(せき いたる、1903年3月19日 - 2001年4… 関 之(せき いたる、1903年3月19日 - 2001年4月25日)は、検事、弁護士。 長野県諏訪郡湖南村(諏訪市)出身。小学校卒業後、専門学校検定試験(専検)合格。第一高等学校を経て、1932年東京帝国大学法学部卒。1934年検事となり、東京控訴院検事などをへて、1948年発足した人権擁護局の第一課長。1949年東京高検検事、1952年公安調査庁総務部長となり、破壊活動防止法や人権擁護委員法の草案を作成する。1963年最高検察庁検事、1966年総務部長。同年弁護士に転じ、中央学院大学教授。1974年定年退任。墓所は多磨霊園(17-1-8)
高橋 一郎(たかはし いちろう、1901年(明治34年)3月… 高橋 一郎(たかはし いちろう、1901年(明治34年)3月19日 - 1951年(昭和26年)12月23日)は、日本の内務・警察官僚。陸軍司政官、最後の官選長崎県知事。 静岡県出身。高橋栄蔵の養子となる。第二高等学校を卒業。1924年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、内務省に入省し京都府書記となる。 以後、京都府社会課長、鳥取県警察部保安課長、同特別高等課長、熊本県学務課長、同庶務課長、神奈川県庶務課長、愛媛県書記官・警察部長、静岡県書記官・経済部長などを歴任し、1942年10月31日、陸軍司政官に就任。1943年3月から1944年12月まで第16軍軍政監部付・スラバヤ市長を務めた。
中村 梅吉(なかむら うめきち、1901年3月19日 - 1… 中村 梅吉(なかむら うめきち、1901年3月19日 - 1984年8月4日)は、日本の政治家、弁護士、第57代衆議院議長(在任期間、1972年12月22日 - 1973年5月29日)。長男は元衆議院議員の中村靖。 東京府北豊島郡下練馬村(現、練馬区練馬)出身。農家の次男に生まれる。 1923年、法政大学専門部法科を卒業。大学在学中は法政大学弁論部に所属していた。三木武吉法律事務所で弁護士修業を始めたのが政治に関わるきっかけとなる。1928年に東京府会議員、1936年に立憲民政党から衆議院議員に初当選。以後通算当選12回。三木武吉の直系として行動を共にする。 1946年から1951年まで公職追放。
岩田準一(いわた じゅんいち、1900年〔明治33年〕3月1… 岩田準一(いわた じゅんいち、1900年〔明治33年〕3月19日 - 1945年〔昭和20年〕2月14日)は、日本の画家・風俗研究家。旧姓は宮瀬(みやせ)。 三重県志摩郡鳥羽町(現・鳥羽市)にて宮瀬家の次男として生まれる。三重県立第四中学校卒業後、親の意志により神宮皇學館へ進むも肌に合わずに中退し、中学時代から親交のあった竹久夢二が教鞭を執る東京の文化学院絵画科へ転校し、夢二に師事。夢二の代作を務め、また夢二本人から「日本一の夢二通」と称される。『明星』を通して与謝野鉄幹・晶子夫妻とも交流があり、夫妻が監修した『日本古典全集』の編纂に参加した。1920年(大正9年)12月に両親が離婚し、母方の姓である岩田を名乗るようになる。
時雨 音羽(しぐれ おとは、1899年(明治32年)3月19… 時雨 音羽(しぐれ おとは、1899年(明治32年)3月19日 - 1980年(昭和55年)7月25日)は、昭和期の作詞家。出生時の戸籍上の名前は池野 音吉(いけの おときち)であるが、1961年(昭和36年)に筆名を本名に改名したため、没年時の本名も時雨音羽である。 北海道利尻島沓形村番外地出身。5人兄弟の末っ子として生まれる。父邦蔵は、新潟県佐渡郡の出身。 新湊小学校、沓形小学校高等科卒業。1916年(大正5年)沓形村役場に附属員として勤めていたが、1918年(大正7年)秋頃上京する。日本大学法科に検定で合格し、1923年(大正12年)卒業後、大蔵省主税局織物課に勤めた。 1925年(大正14年)、新大衆誌『キング』9月号に講談社の依頼で民謡詩「朝日をあびて(後の出船の港)」を掲載。