濱村 秀雄(はまむら・ひでお、1928年7月20日 - 20… 濱村 秀雄(はまむら・ひでお、1928年7月20日 - 2000年5月7日)は、日本の陸上競技選手、陸上競技指導者。専門は長距離走。姓は常用漢字体で「浜村」とも表記される。 山口県吉敷郡秋穂町出身。兄2人がいたが、いずれも早逝したために三男であった秀雄が濱村家の家督を継承した。 1946年に地元秋穂町体育大会が開かれた際に、1,500m競走に参加して優勝したことをきっかけに山口県内の大会に出場するようになり、その後、山口県庁に公務員として奉職、山口県教育委員会所属の肩書で全国規模の大会に出場するようになる。 1952年1月、第1回別府マラソン(現在の別府大分毎日マラソン)に一般参加選手として出場、2時間1分50秒で優勝を飾ると、1952年ヘルシンキオリンピック代表選考会として施行された同年5月の毎日マラソン(後のびわ湖毎日マラソン)に出場、2時間30分17秒で3位となったものの、ヘルシンキオリンピックの代表には選出されなかった(優勝した内川義高、2位の西田勝雄のほか、山田敬蔵が代表)。
城塚 登(しろつか のぼる、1927年7月20日 - 200… 城塚 登(しろつか のぼる、1927年7月20日 - 2003年4月18日)は、日本の倫理学者・社会思想史家。東京大学名誉教授。元共立女子大学学長。 東京都生まれ。東京大学文学部哲学科倫理学専攻卒、同大学院中退、1957年東京大学教養学部専任講師、1959年助教授、1969年教授(社会思想史)、1988年定年退官、共立女子大学学長を務めた。日本倫理学会会長など。 ドイツの哲学・社会思想を研究、ヘーゲル、マルクスからフランクフルト学派まで幅広く著述を行なった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
浅部 宏(あさべ ひろし、1927年7月20日 - )は、日… 浅部 宏(あさべ ひろし、1927年7月20日 - )は、日本の経営者。ぺんてる社長を務めた。 北海道出身。1948年に都立理工専門学校を卒業し、同年にぺんてるに入社。1968年に取締役に就任し、1987年に専務を経て、1991年6月から2002年6月までに社長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
星 猛(ほし たけし、1926年7月20日 - 2020年1… 星 猛(ほし たけし、1926年7月20日 - 2020年12月24日)は、日本の医学者(生理学)、医師。勲等は勲二等。学位は医学博士(東北大学・1956年)。東京大学名誉教授、東北大学名誉教授、静岡県立大学名誉教授。 東北大学医学部助手、東京大学医学部助教授、東北大学医学部教授、東京大学医学部教授、静岡県立大学食品栄養科学部教授、静岡県立大学食品栄養科学部学部長(初代)、静岡県立大学大学院生活健康科学研究科研究科長(初代)、静岡県立大学学長(第2代)、静岡県立大学短期大学部学長(第2代)、財団法人しずおか健康長寿財団理事長などを歴任した。 大日本帝国領台湾出身の生理学を専攻する医学者である。上皮膜輸送に関する研究の第一人者とされる。
喜田川 信(きたがわ しん、1924年7月20日 - )は、… 喜田川 信(きたがわ しん、1924年7月20日 - )は、日本の牧師、神学者。熊本県出身。 慶應義塾大学文学部哲学科、同志社大学神学部卒業後、フラー神学校、テュービンゲン大学留学を経て、日本ナザレン教団を代表する神学者として多くの著作活動を行っており、日本ナザレン教団横浜教会牧師。日本基督教短期大学の学長も歴任した。 ジェームズ・バー(英語版)の『ファンダメンタリズム-その聖書解釈と教理』を訳したことが福音派で問題となった。日本の福音派を代表する機関である日本福音同盟は「偏見に基づいた福音派攻撃の本」がナザレン教団の指導者によって翻訳、出版されたことは重いとしている。これら聖書の無誤性についての聖書論論争を経て、喜田川の立場とは異なる全的無誤性が福音派の合意として確認された。
田辺 栄吉(たなべ えいきち、1924年(大正13年)7月2… 田辺 栄吉(たなべ えいきち、1924年(大正13年)7月20日 - 2017年(平成29年)4月6日)は、日本の政治家。青梅市長。 東京府西多摩郡青梅町(現在の東京都青梅市)生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。卒業後は釜屋取締役となり、のち代表取締役となる。その後、青梅市議会議員となる。1973年6月13日から1975年4月30日まで、第15代青梅市議会副議長を務め、1977年6月6日から1979年4月30日まで第16代青梅市議会議長を務めた。1987年、田辺は自民党・公明党・民社党から推薦を受け、青梅市長選挙に立候補した。共産党推薦の元市議吉永洋司という新人同士の一騎打ちとなったが、前市長山崎正雄の政策引き継ぎを訴えた田辺が7割以上を得票する大差で初当選した。
松登 晟郎(まつのぼり しげお、1924年7月20日 - 1… 松登 晟郎(まつのぼり しげお、1924年7月20日 - 1986年4月21日)は、千葉県東葛飾郡松戸町(現在の松戸市松戸)出身で大山部屋に所属した大相撲力士。本名は永井福太郎(ながい ふくたろう)。最高位は西大関。身長172cm、体重154kg。得意技は押し、左四つ、寄り、吊り。 小学校3年の時には既に体重16貫(60kg)に達し、関脇・髙登から小学校卒業の折には「ぜひとも私の所に弟子入りさせてほしい」と頼まれたという。その後引退して年寄・大山を襲名した髙登から再度勧誘され入門、1941年(昭和16年)1月場所で初土俵を踏んだ。四股名は故郷・松戸市と師匠の現役名・髙登にちなんでつけられた。当時「大山親方がすごいのを連れて来たらしい」と評判になった。
今田 智憲(いまだ ちあき、1923年7月20日 - 200… 今田 智憲(いまだ ちあき、1923年7月20日 - 2006年6月23日)は、日本の映画プロデューサー。東映アニメーションの社長と会長、東映ビデオの社長を務めた。広島県東広島市西条町出身。 東映社長だった岡田茂の盟友。自宅も近所の幼馴染で、今田の家も酒樽の製造元であった。岡田と小学校から進学・就職とともに歩み、旧制広島一中(現・広島国泰寺高校)、東京商科大学(現・一橋大学)予科を経て1946年東京産業大学(1944年に東京商科大学から改称、現一橋大学)卒業、1947年東京急行電鉄に入り同郷の先輩・黒川渉三が社長を務めていた東横映画(東映の前身の一つ)に誘われて移籍。東映では営業畑を歩き、東映動画(現・東映アニメーション)に移動すると、同社製作のテレビアニメや劇場アニメ作品(東映まんがまつり)の多くに製作・企画などで携わった。
村崎 憲雄(むらさき のりお、1923年(大正12年)7月2… 村崎 憲雄(むらさき のりお、1923年(大正12年)7月20日 - 2014年(平成26年)1月27日)は、日本の物理学者。警察庁科学警察研究所顧問も務めた。 電磁気学を専門とし、洋学書の邦訳を手掛けた。また、静電気に関する研究を多く行い、測定法や放電エネルギーの災害予測への利用を論じた。科学警察研究所としては道路上の事故の発生要因の研究、ドライブレコーダーの研究も行っている。
阿部 英雄(あべ ひでお、1922年7月20日 - 2007… 阿部 英雄(あべ ひでお、1922年7月20日 - 2007年7月10日)は富士経済グループ代表取締役(会長)であった財界人。 静岡県沼津市出身で、千本松原に程近い場所に生家がある。地元で静岡県立沼津商業高等学校(卒業の後に同校は駿東郡清水町に移転)卒業まで過ごした。 地元で腕白な子供の一人として育ち、小学生時代には学校の道すがら空腹から学友の家の乾物屋(綾市商店)が露天に干していた乾物をくすねてかじったこともあったという。 明治大学文学部史学科で東洋史学を専攻。卒業論文の題は「”世説新語”とその思想―特に老荘思想について―」であった。同大卒業後、1962年にマーケティング調査会社富士経済を設立。
服藤 弘司(はらふじ ひろし、1921年〈大正10年〉7月2… 服藤 弘司(はらふじ ひろし、1921年〈大正10年〉7月20日 - 2005年〈平成17年〉7月15日)は、法制史学者、東北大学名誉教授。専門は近世武家法。 愛媛県新居浜市生まれ。1939年愛媛県立西条中学校卒、1942年旧制広島高等学校卒、同年九州帝国大学法文学部入学、1943年学徒動員、1945年復員。 1946年九州帝国大学法文学部卒、1952年同大学院(旧制)特別研究生修了(指導教授:金田平一郎)、九州大学九州文化史研究所研究員、1953年金沢大学法文学部助教授、1957年同教授、1962年九州大学にて論題「近世封建法の性格」で法学博士受く、1967年東北大学法学部教授、1979年同図書館長、1985年定年退官、名誉教授。
片岡 明(かたおか あきら、1921年7月20日 - 199… 片岡 明(かたおか あきら、1921年7月20日 - 1997年8月14日)は、日本の経営者。ヒガシマル醬油社長を務めた。兵庫県出身。 1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、1952年4月にヒガシマル醬油に入社。1966年に取締役に就任し、1971年5月に常務、1978年3月に専務を経て、1986年3月に副社長に就任し、1990年3月には社長に昇格。1996年3月には副会長に就任。 1997年8月14日急性呼吸不全のために死去。76歳没。
中込 八郎(なかごみ はちろう、1921年〈大正10年〉7月… 中込 八郎(なかごみ はちろう、1921年〈大正10年〉7月20日 - 1999年〈平成11年〉11月14日)は、日本の高等学校物理教師、科学写真家。 群馬県館林市生まれ。群馬師範学校を経て、1944年東京高等師範学校卒。東京都立竹早高等学校、東京都立西高等学校教諭として勤務。1986年定年退職。日本物理教育学会理事。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小林 吉彦(こばやし よしひこ、1920年7月20日 - 2… 小林 吉彦(こばやし よしひこ、1920年7月20日 - 2013年2月18日)は、日本の経営者。フジサンケイグループ代表、ニッポン放送会長を務めた。 栃木県出身。1943年に慶應義塾大学法学部を卒業。三井精機、栃木労働基準局での勤務を経て、1954年にニッポン放送に転じ、1960年に産業経済新聞社への出向を経て、1961年にニッポン放送に復帰。1967年5月に取締役に就任し、1968年5月に常務に就任し、1969年5月に専務を経て、1977年6月から1986年6月までにサンケイビル社長を務めた。1992年7月から1993年7月までにフジサンケイグループ本社社長を務め、1993年6月から1997年6月までフジサンケイグループ代表とニッポン放送会長を務めた。
津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 … 津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 - 1984年(昭和59年)12月26日)は、日本のプロ野球記者、野球解説者。広島県広島市出身。 出身校は、広島県立広島第一中学校(広島一中。のちの広島県立広島国泰寺高等学校)→神戸高等商業学校(神戸高商。のちの神戸大学)。中学時代はは堅守の内野手として鳴らしたものの、親の反対により野球を断念。戦後の復員以降は、知人と乾物店を経営しながら、母校・広島一中などで野球のコーチを務めたり、実業団野球チームの全広島に参加していた。 1948年(昭和23年)に中国新聞社へ入社し、運動部記者となりプロ野球記者としての活動を開始。1949年(昭和24年)秋の地元球団・広島カープ(のちの広島東洋カープ)創設以降はカープの番記者として活動。
寺田 建比古(てらだ たけひこ、1916年(大正5年)7月2… 寺田 建比古(てらだ たけひこ、1916年(大正5年)7月20日 - 2008年(平成20年)3月8日)は日本の英米文学者。 高知県に生まれ、東京帝国大学文学部英文学科入学、1939年(昭和14年)に卒業。京都大学教授を経て、神戸大学教授、名誉教授。2008年(平成20年)3月8日、膵臓癌のため、大阪府高槻市の自宅にて歿する。 佐喜浜の庄屋の家系。長男の寺田泰比古は早稲田大学先進理工学部教授。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
原 佑(はら たすく、1916年7月20日 - 1976年3… 原 佑(はら たすく、1916年7月20日 - 1976年3月14日)は、日本の哲学者、東京大学教養学部教授を務めた。 山梨県生まれ。旧制一高を経て1942年東京帝国大学哲学科卒。戦後に東大教養学部教授、定年前の59歳で死去。 イマヌエル・カント、ニーチェ、ハイデッガーなどドイツ哲学の多くの翻訳を行い、哲学史・歴史哲学の研究著書も多い。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 194… 景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 1945年5月20日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手(外野手、投手)。
杉浦 清(すぎうら きよし、1914年7月20日 - 198… 杉浦 清(すぎうら きよし、1914年7月20日 - 1987年8月22日)は、愛知県西尾市出身のプロ野球選手・監督、旧制中等学校野球指導者、野球解説者。
滝崎 安之助(たきざき やすのすけ、1914年7月20日 -… 滝崎 安之助(たきざき やすのすけ、1914年7月20日 - 1980年9月5日)は、日本のドイツ文学者。東京大学名誉教授。 愛知県出身。1939年東京帝国大学独文科卒業。左翼文学運動に加わる。 戦後は新日本文学会に入りその後『人民文学』にも参加。 学習院大学助教授、東京大学教養学部助教授、1965年教授(ドイツ語)、1975年定年退官、名誉教授。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大内 俊司(おおうち しゅんじ、1914年7月20日 - 2… 大内 俊司(おおうち しゅんじ、1914年7月20日 - 2001年7月4日)は、日本の経営者。山陽特殊製鋼社長を務めた。岐阜県出身。 1938年に日本大学法文学部を卒業し、同年に富士製鉄に入社。1965年に取締役に就任し、1967年に常務、1970年に新日本製鐵常務、1973年に専務、1977年に副社長、1979年に常任顧問を経て、1980年に山陽特殊製鋼社長に就任し、同社の再建に尽力。1986年に会長に就任し、1992年には相談役に就任。新日本製鐵室蘭硬式野球部の初代監督も務めた。 1975年に藍綬褒章を受章し、1984年に勲二等旭日重光章を受章。 2001年7月4日肺炎のために死去。86歳没。
今村 成和(いまむら しげかず 1913年7月20日 - 1… 今村 成和(いまむら しげかず 1913年7月20日 - 1996年10月13日)は、日本の法学者。専門は、行政法・経済法。 学位は、法学博士(東京大学、1961年)(学位論文「国家補償法」)。北海道大学名誉教授、北海学園大学名誉教授。日本学士院会員。1985年勲一等瑞宝章受章。京城(後の韓国ソウル)生まれ。父は樺太庁長官の今村武志、柳宗悦は母方の伯父。 朝鮮京城生まれ。京城師範学校附属小学校・中学校卒業。1934年3月、 第二高等学校文科甲類卒業。1937年3月 - 東京帝国大学法学部政治学科卒業。 1937年4月、三菱商事株式会社入社(総務部文書課法規係勤務)。 1947年8月、公正取引委員会事務局事務嘱託。
糸川 英夫(いとかわ ひでお、1912年7月20日 - 19… 糸川 英夫(いとかわ ひでお、1912年7月20日 - 1999年2月21日)は、日本の工学者。専門は航空工学、宇宙工学。ペンシルロケットに始まるロケット開発や宇宙開発を先導し、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる。 小惑星探査機「はやぶさ」が調査を行ったことでも知られる小惑星「イトカワ」は、糸川英夫にちなんで命名された。 1912年、東京市麻布区(現在の東京都港区西麻布)で生まれる。小学校では六本木、中学校からは東京青山に育った。教育者の家庭であり父は麻布の笄小学校の教師であった。英夫という名は、1912年の東大銀時計卒業者(首席)の鳩山秀夫にちなみ、秀才好きの父に命名された。越境入学で麻布の南山小学校に学び飛び級で卒業した。
中内 力(なかうち つとむ、1912年〈明治45年〉7月20… 中内 力(なかうち つとむ、1912年〈明治45年〉7月20日 - 2001年〈平成13年〉11月22日、満89歳没)は、日本の政治家。高知県知事を務めた。 高知県吾川郡明治村(現・高岡郡越知町)出身(なお、出生地は現在の吾川郡いの町)である)。明治村立鎌井田尋常小学校、明治村立片岡尋常高等小学校を経て旧制・高知県立高知城東中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業。その後、大阪での就職を経て帰高し高知県の外郭団体たる高知県体育協会の職員になり、その後高知県職員となる。民生部長、厚生労働部長、高知県教育長、副知事を歴任(なお、生え抜き初の副知事である)。とりわけ、いわゆる勤評闘争時には高知県教育長として組合側と対峙し、県教育界正常化のために奔走する。
渥美 かをる(あつみ かおる、1911年(明治44年)7月2… 渥美 かをる(あつみ かおる、1911年(明治44年)7月20日 - 1977年(昭和52年)12月10日)は、愛知県出身の国文学者。『平家物語』の研究で知られる。 夫は名古屋市で区長や教育長を務めた渥美善三、娘に実業家・著述家の渥美育子がいる。 以後、愛知県立女子短期大学教授、愛知県立女子大学教授、愛知県立大学教授を歴任
浦上 豊(うらかみ ゆたか、1909年7月20日 - 197… 浦上 豊(うらかみ ゆたか、1909年7月20日 - 1972年7月19日)は、日本の実業家。菱備製作所(現・リョービ)創業者。 広島県芦品郡岩谷村(現在の同県府中市目崎町)生まれ。肥料商の長男。旧制府中中学校(現・広島県立府中高等学校)を第1期生として卒業。同級に江草隆繁、岡崎平夫ら。東京株式取引所に就職し、夜学の日本大学専門部商業学科に通い1930年卒業。成瀬証券を経て東京で友人と工具やベルト販売の会社を設立。1943年設立された三菱電機福山工場(現・福山製作所)が航空機部品の協力企業を探していることを耳にして交渉の末、34歳で帰郷し、岩谷村に醤油蔵を改造したダイカスト工場建屋を完成させ、第1号製品を三菱電機に納入した。
高野 務(たかの つとむ、1909年(明治42年)7月20日… 高野 務(たかの つとむ、1909年(明治42年)7月20日 - 1981年(昭和56年)8月9日)は、昭和時代の土木工学者、内務官僚、建設技監。 新潟県に生まれる。1934年(昭和9年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、富山県経済部土木課勤務、新潟県土木技師兼道路技師を経て、1940年(昭和15年)内務省土木局に奉職する。1943年(昭和18年)防空総本部技師を兼任し、終戦を経て、建設省関東地方建設局の横須賀国道改良、相模工事事務所長、京浜工事事務所長を歴任し、1952年(昭和27年)道路局国道課長に就任した。 ついで企画課長、技術参事官、中部地方建設局長、道路局長を経て、1961年(昭和36年)建設技監に就任するが、「河野旋風」のため就任から僅か9カ月で退官した。
大牟羅 良(おおむら りょう、1909年7月20日 - 19… 大牟羅 良(おおむら りょう、1909年7月20日 - 1993年2月20日)は、日本の編集者、農村研究家。エッセイスト。 本名は大村次則。東京物理学校予科卒。 岩手県久慈市に生まれ、17歳で代用教員となる。1938年、満州に渡り、共和会中央本部に勤務、1944年応召、宮古島で敗戦を迎える。 復員後、盛岡に帰って古着の行商人となり、4年間岩手の山村を歩いた。1951年から岩手県国民健康保険団体連合会に勤務、同会発行の雑誌「岩手の保健」を編集、農民の声を活字にする。 1958年、著書『ものいわぬ農民』で毎日出版文化賞、日本エッセイスト・クラブ賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
三熊山 美夫(みくまやま よしお、1908年7月20日 - … 三熊山 美夫(みくまやま よしお、1908年7月20日 - 没年不明)は、現在の兵庫県洲本市出身で中川部屋、武蔵川部屋、鏡山部屋に所属した元大相撲力士。本名は小泉 美夫。167cm、102kg。最高位は西前頭12枚目。 1923年1月初土俵、1932年5月十両昇進。1936年1月新入幕。非力と評されながらも、ずんぐりとした体相当の相撲を見せ、評判はよかった。しかし幕内在位は3場所に終わり、1938年1月に廃業。廃業してからは消息が全く不明になっている。 四股名は故郷の山から。 大変器用な力士で、初っ切り・相撲甚句・弓取りと何でも務められたので巡業で重宝がられた。
西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉… 西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉7月20日 - 1997年〈平成9年〉10月12日)は、日本の政治家、華族。位階は正三位。 法務大臣、参議院議員、貴族院議員。侯爵。西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。 鹿児島県で生まれ、東京で育つ。学習院を経て、東北帝国大学経済学科卒業。学習院時代の同期には日中戦争で戦死した南郷茂章などがいた。祖父隆盛と同じく、堂々とした体躯で知られた。 興銀に入り、その後は南方開発金庫の参事、ジャワ支金庫業務課長を経て、貴族院議員(1936年(昭和11年) - 1947年(昭和22年))、1947年鹿児島県選挙区より参議院議員に当選。以後当選4回。
李 瑞漢(り ずいかん、1906年7月20日 - 1947年… 李 瑞漢(り ずいかん、1906年7月20日 - 1947年3月?)は、日本統治時代の台湾および中華民国の法律家。台湾苗栗県竹南鎮出身。二・二八事件で失踪している。 1926年、李瑞漢は台中一中卒業後、日本内地の中央大学法学部に留学し、在学中に弁理士試験に合格している。1929年に中央大学卒業後も大学に留まり研究を続け、翌年高等試験司法科に合格している。その後台湾に戻った李瑞漢は台北市永楽町で弁護士事務所を開業している。 1945年の日本の降伏により、台湾は国民党率いる中華民国に接収された。李瑞漢は台北市律師公会会長に選出された。1947年に二・二八事件が勃発すると、李瑞漢は3月初に台北市律師公会課会議を招集し、台湾行政長官であった陳儀に対し改革を具申し、同時に強烈な政府批判を行った。
西山 真一(にしやま しんいち、1906年7月20日 - 1… 西山 真一(にしやま しんいち、1906年7月20日 - 1989年4月19日)は、洋画家、日本芸術院会員。 福井県鯖江市出身。福井師範学校(現・福井大学教育地域科学部)卒。鈴木千久馬、辻永に師事。1931年帝展初入選。人物画で出発し、戦後のパリ留学時代に風景画に転換。1980年日本芸術院賞受賞。1984年日本芸術院会員。光風会常任理事。『西山真一画集』(六芸書房、2000)がある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
猪野 省三(いの しょうぞう、1905年7月20日 - 19… 猪野 省三(いの しょうぞう、1905年7月20日 - 1985年1月8日)は、日本の児童文学作家。プロレタリア児童文学の活動などに参加した。 栃木県上都賀郡鹿沼町(現:鹿沼市)で生まれた。父・春吉は一時鹿沼町の町長も務めていた。1923年に、宇都宮中学校を卒業。卒業後は小学校の代用教員として勤務した。 1926年に教職を辞めて上京し、画家を志して太平洋画研究所に入所。江馬修らと知り合い、翌年江馬の紹介で日本プロレタリア芸術連盟に加入。はじめは画家として参加していたが、次第に文学に関心を持ち、1928年に初の童話「ドンドンやき」を『プロレタリア芸術』に発表。その後も相次いで童話を発表し、プロレタリア児童文学者として認知されるようになった。
上條 勉(かみじょう つとむ、1905年7月20日 - 19… 上條 勉(かみじょう つとむ、1905年7月20日 - 1983年5月7日)は、日本の航空機技術者。三菱重工業名古屋航空機製作所(現・三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所)機体部設計課技師、技術部設計課技師を経て、新三菱重工業名古屋航空機製作所小牧工場初代工場長、同名古屋航空機製作所副所長を歴任。クリスチャン。 日露戦争終結間近の、1905年(明治38年)7月20日、長野県松本市北深志東ノ丁に警察署勤務の上條亀十郎の三男として誕生した。2年前にライト兄弟が動力飛行に成功している。1906年(明治39年)から、父亀十郎は浅野総一郎が経営していた茨城県真壁町の浅野石材部(浅野石材工業株式会社)勤務になった。
堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 199… 堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 1996年12月21日)は、日本の化学者、京都大学名誉教授。専門は高分子化学。工学博士(1934年)。大阪府生まれ。
結城 一朗(ゆうき いちろう、1904年7月20日 - 19… 結城 一朗(ゆうき いちろう、1904年7月20日 - 1988年9月15日)は、日本の俳優、演劇プロデューサーである[3][4][5][6][7]。本名松崎 龍雄(まつざき たつお)、旧芸名結城 一郎(ゆうき いちろう)[3][4][6][7]。1930年代、松竹蒲田撮影所の青年スターであり、戦後は舞台や音楽のプロデューサー、テレビ出演に進出した。
鈴木 俊(すずき しゅん、1904年7月20日 - 1975… 鈴木 俊(すずき しゅん、1904年7月20日 - 1975年7月25日)は、日本の東洋史学者。 1904年、東京で生まれた。東京帝国大学文学部東洋史学科で学び、1929年に卒業。 修了後は、東洋大学教授に就いた。後に法政大学教授。戦後は九州大学教授、中央大学教授。1975年に死去。
佐藤 俊夫(さとう としお、1904年〈明治37年〉7月20… 佐藤 俊夫(さとう としお、1904年〈明治37年〉7月20日 - 1990年〈平成2年〉1月12日)は、日本の実業家。新潮社の第3代代表取締役社長。東京府出身。 1928年に法政大学法文学部を卒業と同時に、父・義亮の経営する新潮社に入社。1947年に『小説新潮』を創刊し、その編集長に就任する。1958年に新潮社3代目代表取締役社長に就任。1967年に兄・義夫が急逝し、社長の座を兄の息子・亮一に譲り代表取締役会長となった。 1990年1月12日に肺炎のため死去、86歳。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 19… 前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 1983年6月3日)は、日本のイスラム学者、東洋史家、東洋学者。慶應義塾大学名誉教授。 1903年、山梨県笛吹市八代町に生まれた。山梨県立日川中学校、東京外国語学校仏語科を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科に進んだ。当時は日本ではほとんど研究する者がなかったイスラム史を志し、アラビア語を学んだ。1928年に同大学を卒業。 卒業後は、台北帝国大学助手や台南州立台南第一中学校教諭を務めた。1940年、南満洲鉄道東亜経済調査局に勤勤。このことで厖大なイスラム文献を自由に手に取り研究する機会を得た。 1953年、学位論文『東西交渉史上におけるイスラム教徒勢力の消長に関する研究』を慶應義塾大学に提出して文学博士号を取得。
鈴木 万平(すずき まんぺい、1903年(明治36年)7月2… 鈴木 万平(すずき まんぺい、1903年(明治36年)7月20日 - 1975年(昭和50年)12月3日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 静岡県静岡市で生まれる。静岡県立静岡中学校を経て第四高等学校を卒業。1925年(大正14年)11月、高等試験行政科試験に合格し、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した。 日本セメント(現太平洋セメント)に入社。1928年(昭和3年)東洋紡績(現東洋紡)に転じ、常務を経て1945年(昭和20年)社長に就任。1946年(昭和21年)社長を辞して東洋冷蔵を経営した。 1949年(昭和24年)望まれて三共第4代社長に就任し、人員整理と品種制限により経営を再建した。
小堀 四郎(こぼり しろう、1902年(明治35年)7月20… 小堀 四郎(こぼり しろう、1902年(明治35年)7月20日 - 1998年(平成10年)8月9日)は、日本の油彩画家。愛知県名古屋市中区南呉服町生まれ。小堀遠州の子孫。
原 圭一郎(原 奎一郎、はら けいいちろう、1902年7月2… 原 圭一郎(原 奎一郎、はら けいいちろう、1902年7月20日 - 1983年7月24日)は、日本の伝記作家。本名:貢。
原 奎一郎(はら けいいちろう、1902年〈明治35年〉7月… 原 奎一郎(はら けいいちろう、1902年〈明治35年〉7月20日 - 1983年〈昭和58年〉7月24日)は、日本のジャーナリスト、著作家。本名は貢(みつぎ)。原敬の養嗣子。娘はスタイリストの原由美子。 大阪府出身。首相の原敬の姪の子で、幼児期に養嗣子となる。1915年(大正4年)東京府立一中入学。同期に小林秀雄、迫水久常、千頭暎臣、石丸重治(半途退学)、西竹一(半途退学)らがいる。以降、慶應義塾大学予科在学中に英国留学のため1921年(大正10年)中退。 1940年(昭和15年)、同盟通信記者。1946年(昭和21年)に退社して、ファッション評論なども手掛けた。1950年(昭和25年)に「原敬日記」を乾元社で公刊(原敬の遺言で、公開は没後30年程度を経てからと定めていた)。
種子島 時休(たねがしま ときやす、1902年(明治35年)… 種子島 時休(たねがしま ときやす、1902年(明治35年)7月20日 – 1987年(昭和62年)8月7日)は、元大日本帝国海軍技術大佐。大学教授。日本初のジェット機橘花の開発者として著名である。 薩摩国種子島領主であった種子島氏の末裔で、宗家の種子島男爵家の分家筋にあたる。父は海軍造兵大技士で無線通信の専門家だった種子島時盈。その長男として横須賀市の海軍官舎で生まれた。 1921年(大正11年)に海軍機関学校を卒業し、1929年(昭和4年)に海軍大学校選科合格、翌年には東京帝国大学航空学科に入学。1931年(昭和6年)に大野千代子と結婚。1933年(昭和8年)、東京帝大航空学科を卒業。1935年(昭和10年)の4月から2年に渡ってフランスへと留学。
黒田 辰男(くろだ たつお、1902年7月20日 - 199… 黒田 辰男(くろだ たつお、1902年7月20日 - 1992年12月22日)は、日本のロシア文学者、早稲田大学名誉教授。 1902年、大阪府生まれ。早稲田大学文学部を卒業。駐日ソ連大使館に勤務。 戦後の1946年、母校である早稲田大学教授に着任。1960年「ロシヤ・シンボリズム詩文学の成立過程」を早稲田大学に提出して文学博士号を取得。1962年に雑誌『ソヴェート文学』を創刊。1973年に早稲田大学を定年退任し、名誉教授となった。
織田 ステノ(おりた ステノ、1902年〈明治35年〉7月2… 織田 ステノ(おりた ステノ、1902年〈明治35年〉7月20日 - 1993年〈平成5年〉4月30日)は、日本のアイヌ文化伝承者。アイヌ口頭文芸、アイヌ口承文学の第一人者とされ、特にユカㇻの伝承者として知られる。晩年のアイヌ語、アイヌの神事、口承文芸、生活文化などでの後進の指導、研究者への協力などでも知られている。ユカㇻを始めとするアイヌの生活文化全体について伝承者の少なくなった近世においては、最も信頼のおける人物の1人とされており、北海道静内地方のアイヌ文化は研究成果も資料も少ない中、アイヌ文化全般の知識を有する貴重な存在ともされている。「ステノ」の名は晩年に自称したアイヌとしての名であり、戸籍名は織田 ステ。
細田 綱吉(ほそだ つなきち / つなよし、1900年(明治… 細田 綱吉(ほそだ つなきち / つなよし、1900年(明治33年)7月20日 - 1959年(昭和34年)4月5日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 長野県西筑摩郡大桑村(現木曽郡大桑村)出身。1925年(大正14年)日本大学専門部法律科を卒業した。 1927年(昭和2年)弁護士を開業。農民運動、労働運動にかかわった。1927年、日本労農党中央執行委員に就任し、その後、全国大衆党、全国労農大衆党、社会大衆党の各執行委員を務めた。1930年(昭和5年)日本大衆党埼玉県支部連合会の委員長に選出され、同時に党名が全国大衆党に変更され初代県連委員長となる。また、全日本農民組合(全日農)茨城県連委員長、全国農民組合(全農)茨城県連委員長も務めた。
斎藤 正久(さいとう まさひさ、1897年7月20日 - 1… 斎藤 正久(さいとう まさひさ、1897年7月20日 - 1996年6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 宮城県大崎市出身。商業・斎藤庄吉の息子として生まれる。旧制古川中学校(現:宮城県古川高等学校)を経て、1919年(大正8年)10月、海軍兵学校(47期)卒業。1920年(大正9年)8月、海軍少尉任官。1923年(大正12年)11月、第8期航空術学生卒。 1925年(大正14年)12月、海軍大尉に昇進し空母「鳳翔」乗組となる。この補職は、当時特別に技量優秀でなければ難しいとされた空母への着艦が努力次第で可能であることを証明するためであり、相婿である、山本五十六の推薦であった。斎藤は同時に推薦された三和義勇とともに任務を成功させた。
斎藤 保太郎(さいとう やすたろう、1897年(明治30年)… 斎藤 保太郎(さいとう やすたろう、1897年(明治30年)7月20日 - 1943年(昭和18年)12月8日)は、日本ホーリネス教会、きよめ教会の牧師である。太平洋戦争中に、治安維持法違反で検挙され、服役中に殉教した。 山形県西置賜郡温海村湯温海(現・鶴岡市)に生まれた。鶴岡市の庄内中学(現・鶴岡南高等学校)に入学したが、中退し上京する。絵画の才能があったので、東京では肖像画を描いて生計を立てていた。 1915年(大正4年)単立教会の本郷浅嘉町教会の牧師小沢勝之助に導かれて洗礼を受ける。 1918年(大正7年)に東洋宣教会の聖書学院に入学する。1921年(大正10年)に卒業し、神田ホーリネス教会の副牧師になり、奥野まつと結婚する。
外崎 千代吉(とのさき / とのざき ちよきち、1897年7… 外崎 千代吉(とのさき / とのざき ちよきち、1897年7月20日 - 1974年5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。五所川原市長。 青森県北津軽郡五所川原村出身。日本大学政治経済学部に入るが、中退する。北海道に渡り、函館の床屋で修業し、理髪店を開業する。五所川原町議、青森県議、脇元村村長を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で青森2区(当時)から無所属(翼協非推薦)で立候補したが、3,000票余りで落選した。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙でも無所属で立候補したが落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において青森2区から諸派の社会革新党で立候補して当選した。