麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1… 麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1993年5月30日)は、日本のスキー選手、陸上競技選手、登山家。父親は日本銀行の理事、母親はピアニストであった。 東京市麻布区(現在の東京都港区)に生まれる。 旧制暁星中学校を経て、早稲田大学へ進学した。早稲田大学時代には第1回の箱根駅伝より出場し1年目は9区、2年目、3年目は5区で山登り5区を走り、3回とも区間賞を獲得した。その後はベルリン体育大学(ドイツ語版)に留学し、1923年には日本人として初めてマッターホルンに登頂し、翌年にはスキーで冬の槍ヶ岳の登頂に成功している。 1928年にはスイスで開催された1928年サンモリッツオリンピックに日本人として冬季オリンピック初出場を果たす。
鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月… 鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月21日 - 1990年〈平成2年〉5月26日)は、日本の教育者。内村鑑三の弟子で、基督教独立学園高等学校の創設者。初代校長。 山梨県北都留郡七保村大字葛野(現・大月市)で、800年続いた甲斐絹問屋・鈴木商店の店主鈴木治作の次男として生まれる。 1920年、東京帝国大学理学部物理学科に入学。1924年1月27日、東京府柏木の内村鑑三邸内にある今井館で行われた聖書研究会に出席。6月頃、内村が柏木集会に参加していた青年に山形県小国郷と岩手県の北上山地への伝道を呼びかける。この2ヵ所は、内村がアメリカに留学していた頃に日本地図を広げて、将来伝道すべき所として選んだ、人跡稀な34ヵ所の場所の一つであった。
真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年… 真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1957年(昭和32年)8月3日)は、日本の陸軍軍人。 第2総軍参謀副長・陸軍省軍務局長・参謀本部第一部長を歴任し、階級は陸軍少将功四級に至る。 屯田兵、沼貝町長真田嘉七の長男として生まれ、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)・仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て1919年(大正8年)5月陸軍士官学校(31期)を卒業。 同年12月、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第9連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月中尉に進級し、1924年(大正13年)12月26日陸軍大学校(39期)に入校。1927年(昭和2年)12月6日卒業する。
奥井 復太郎(おくい ふくたろう、1897年(明治30年)1… 奥井 復太郎(おくい ふくたろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1965年(昭和40年)2月16日)は、昭和期の日本の都市経済学者・都市社会学者・農業経済学者。経済学博士。慶應義塾長、日本における都市研究の先駆者。景観論や風景へのアプローチも行った。 日本都市学会初代会長、文化勲章受章者選考委員会ならびに文化功労者選考審査会委員、特殊法人国民生活研究所(現・独立行政法人国民生活センター)所長、日本開発センター顧問、財団法人観光産業研究所所長、地域開発研究所所長、海運経済研究所調査委員会委員、ユネスコ国内委員、社会開発懇談会委員等を歴任。
及川 顕司(おいかわ けんじ、1897年〈明治30年〉11月… 及川 顕司(おいかわ けんじ、1897年〈明治30年〉11月21日 - 1985年〈昭和60年〉11月28日)は、日本の政治家。初代岩手県北上市長(2期)。 現在の岩手県北上市生まれ。1917年〈大正6年〉和賀郡黒沢尻町(現・北上市)役場に入る。1937年〈昭和12年〉同町助役。1941年〈昭和16年〉稗貫郡湯本村村長代理。同年西磐井地方事務所総務課長を経て、県嘱託。1944年〈昭和19年〉九戸、二戸、下閉伊各地方事務所総務課長。1947年〈昭和22年〉地方事務官西磐井地方事務所長となる。翌1948年〈昭和23年〉黒沢尻町長に当選。4年後の1952年〈昭和27年〉に再選。1954年〈昭和29年〉黒沢尻町は周辺の町村と合併して北上市が発足。
土屋 喬雄(つちや たかお、1896年〈明治29年〉11月2… 土屋 喬雄(つちや たかお、1896年〈明治29年〉11月21日 - 1988年〈昭和63年〉8月19日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授。東京都生まれ。日本経済史専攻。 仙台一中卒業ののち、1918年に旧制第二高等学校を卒業し、1921年に東京帝国大学卒業。1924年、東京帝国大学経済学部助教授。日本資本主義論争では労農派の論客として活躍。人民戦線事件に連座し、大学を追放される。戦後、大学復帰。1954年に「封建社会崩壊過程の研究」により東京大学から経済学博士の学位を授与される。 1957年に東京大学を定年退官した後は明治大学、千葉敬愛経済大学、駒澤大学、拓殖大学、城西大学で教授として教鞭をとる。
田中 斉之(たなか なりゆき、1896年11月21日 - 1… 田中 斉之(たなか なりゆき、1896年11月21日 - 1983年6月20日)は、日本の経営者。西日本新聞社、テレビ西日本各社長を務めた。福岡県出身。 1920年に早稲田大学専門部政治経済科を卒業し、1921年に福岡日日新聞社に入社した。 1945年に取締役に就任し、1947年から1958年11月までに西日本新聞社社長を務めた。1958年3月にはテレビ西日本社長に就任。 1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年6月20日肺炎のために死去。86歳没。 12008年3月で終刊。 2資本・友好関係のあるテレビ局・ラジオ局。 32007年から暫くの間、共催社として参加。 4過去に資本・友好関係のあったラジオ局。
蠟山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - … 蠟山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - 1980年5月15日)は、日本の政治学者・行政学者・政治家。お茶の水女子大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在である。 新潟県刈羽郡鵜川村で蝋山政次郎と母寛子(衆議院議員・牧口義方の二女)の長男として生まれる。父は1872年8月に蝋山政右衛門の長男として生まれ、同家8代目の当主であった。祖父政右衛門が群馬県高崎市歌川町で蝋山酒造を経営していたため同地で育つ。父は上州銀行や上州信託、高崎倉庫株式会社の取締役をはじめ、上州電気鉄道株式会社の監査役を務めるなど群馬県経済界の重鎮であった。 1913年3月に県立高崎中学校、1917年7月に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に進学。
蝋山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - … 蝋山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - 1980年5月15日)は、日本の政治学者・行政学者、政治家、お茶の水女子大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在である。
神山 嘉瑞(こうやま かずい、1895年(明治28年)11月… 神山 嘉瑞(こうやま かずい、1895年(明治28年)11月21日 - 1971年(昭和46年)4月8日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・神山郡昭の二男として生まれる。父の隠居に伴い、1932年(昭和7年)8月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年、鉄道省に入省し鉄道局書記に就任。以後、鉄道属、鉄道局副参事、東京鉄道局千葉運輸事務所長、鉄道省輸送実費調査委員会幹事などを務めた。 1940年(昭和15年)11月27日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日まで一期在任した。
田中 宗吉(たなか そうきち、1894年11月21日 - 1… 田中 宗吉(たなか そうきち、1894年11月21日 - 1978年10月22日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 一般的な柔道選手が選手としての適齢期を終える31歳で柔道を学び始め、戦前の全日本選士権大会で優勝1度、準優勝1度の成績を残した。指導者としては国鉄や講道館、星薬科大学等で柔道教員を務め、後進の育成に当たった。 佐賀県出身。旧制小城中学校(後の県立小城高校)を中退して上京、31歳の時に初めて柔道衣に袖を通し5歳年長の高橋重蔵5段に師事した。1927年2月に講道館の初段位を許されると、翌28年1月に2段、同年9月には3段へ抜群昇段を果たした。柔道家として生きる事を決意した田中は1930年に警視庁水上警察署の柔道助教となり、以後も1931年4月4段、1932年11月には再び抜群で5段と順調に昇段を重ねた。
関口 存男(せきぐち つぎお、正字は關口存男、1894年11… 関口 存男(せきぐち つぎお、正字は關口存男、1894年11月21日 - 1958年7月25日)は、日本のドイツ語学者(ゲルマニスト)。通称:ゾンダン(ドイツ語のsondernにかけてある)。 ドイツ語以外にも様々な言語に通じており、「不世出の語学の天才」と呼ばれた。また、村田実らの新劇運動に参加、主役級の俳優として大正期の無声映画に出演していた。 兵庫県姫路市生まれ。父・関口存啓は陸軍主計大尉。大阪陸軍地方幼年学校を経て1913年に陸軍中央幼年学校本科を卒業し、士官候補生として千葉県佐倉市の歩兵第57連隊に勤務。1915年、東京の陸軍士官学校を卒業(第27期)。同年12月、陸軍歩兵少尉となるも肋膜炎を患い休務を続ける。
日比野 民平(ひびの みんぺい、1892年11月21日 - … 日比野 民平(ひびの みんぺい、1892年11月21日 - 1964年9月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県加茂郡古井村(古井町を経て現美濃加茂市)出身。古井町長、岐阜県会議員、同第41代副議長(1934年11月21日から1935年10月16日)、同第51代議長(1943年11月24日から1944年11月22日)、所得税調査委員、加茂郡町村会長となる。 1936年の第19回衆議院議員総選挙において岐阜3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。翌1937年の第20回衆議院議員総選挙で落選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。戦後は1946年の第22回衆議院議員総選挙において岐阜県(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補して当選。
米山 治(よねやま はる、1890年11月21日 - 196… 米山 治(よねやま はる、1890年11月21日 - 1968年1月)は、日本の銀行員、作詞家。島根県出身。本名は米山 豊蔵(よねやま とよぞう)。 1890年(明治23年)、島根県神門郡杵築町(現在の出雲市大社町)の旧家に生まれる。1907年(明治40年)に京都市立商業実修学校を卒業し、大阪の三十四銀行へ入行。京橋、次いで神田支店長に就いた。三十四銀行は1933年(昭和8年)に鴻池・山口の両行と合併して三和銀行(現在の三菱UFJ銀行)となり、船場支店長を経て天満、朝日橋、中央市場支店長を歴任する。 定年退職後は島根へ帰郷し悠々自適の生活を送っていたが、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効記念事業として島根県が懸賞募集を行った県民歌で応募作「薄紫の山脈」が宮田隆の応募作「青い空なら」と並んで準入選で採用された。
上沢 謙二(うえざわ けんじ、1890年11月21日 - 1… 上沢 謙二(うえざわ けんじ、1890年11月21日 - 1978年7月7日)は、日本の児童文学者童話作家教育者である。 1890年に栃木県上都賀郡東大芦村(現 鹿沼市)に生まれる。地元の引田尋常小学校および高等科を卒業して上京。日本銀行に見習いとして採用される。1907年、日本基督教団日本橋教会で洗礼を受け、以後、キリスト者の道を歩む。1919年に結婚した後に日本銀行を退職、アメリカ合衆国へ留学する。1923年にワシントン州立大学教育学部卒業後、帰国。子供之友編集主任、日本キリスト教文化協会長などを歴任する。1938年、洗足幼稚園の経営を引き継ぐが、戦局の悪化に伴い1944年に休園。やがて1945年3月の東京大空襲により幼稚園が焼失し、郷里に疎開させていた家族のもとへ戻る。
西沢 義徴(にしざわ ぎちょう、1888年(明治21年)11… 西沢 義徴(にしざわ ぎちょう、1888年(明治21年)11月21日 - 1967年〈昭和42年〉7月28日)は、日本の外交官。台湾総督府官僚。台北市尹、高雄州知事。 高知県、のちの安芸市出身。1913年(大正2年)、京都帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格。神奈川県属、同理事官、外務事務官、大使館三等書記官、同二等書記官、安東領事・関東庁事務官・朝鮮総督府事務官、福州総領事・台湾総督府事務官を歴任した。1929年(昭和4年)、台湾総督府税関長に転じ、台北市尹、高雄州知事を務めた。 1935年(昭和10年)に退官した後は、台湾合同鳳梨株式会社常任監査役を務めた。戦後は、安芸高等学校東京同窓会長を務めた。
徳永 恕(とくなが ゆき、1887年(明治20年)11月21… 徳永 恕(とくなが ゆき、1887年(明治20年)11月21日 - 1973年(昭和48年)1月11日、女性)は、日本の幼児教育者、社会事業家。 保育園の源流のひとつとされる二葉幼稚園(のちに二葉保育園と改称)の保母、園長、理事長として幼児教育・社会福祉に貢献し、女性初の名誉都民となった。 「二葉の大黒柱」(野口幽香による評)として幼児教育に携わる傍ら、小学部、少年少女クラブ、日曜学校、夜間診療部、廉売部、五銭食堂、母子寮等を通じて、底辺社会の人々のために尽力した。 恕は、東京府立第二高等女学校4年のとき、友人の看病で出席日数が足りなくなったために、落第している。このとき、新たに加わったクラスに山川菊栄がいた。
宮崎 一(みやざき はじめ、1886年〈明治19年〉11月2… 宮崎 一(みやざき はじめ、1886年〈明治19年〉11月21日 – 1951年〈昭和26年〉10月10日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市)に衆議院議員宮崎鏋三郎の長男として生まれる。浦和中学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学を卒業した。卒業後は浦和で弁護士事務所を開業した。1919年(大正8年)に埼玉県会議員に当選し、後には議長も務めた。また浦和弁護士会長にも選ばれた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。その間、米内内閣で陸軍参与官に、幣原内閣で陸軍政務次官・第一復員政務次官に就任した。
桐淵 勘蔵(きりぶち かんぞう、1885年〈明治18年〉11… 桐淵 勘蔵(きりぶち かんぞう、1885年〈明治18年〉11月21日 - 1973年〈昭和48年〉6月30日)は、日本の経営工学者。 群馬県藤岡市出身。1914年(大正3年)東京高等工業学校教員養成所機械科卒業。福岡県立福岡工業学校教諭を経て、1916年(大正5年)東京高等工業学校助教授となる。1923年(大正12年)、東京高等工芸学校教授に就任。1926年(大正15年)から工業経営教育のためイギリス・ドイツ・アメリカへ2年間留学。その後、長岡高等工業学校教授、今宮職工学校(大阪府立今宮工科高等学校)校長、中島飛行機株式会社青年学校、千葉工業大学教授、武蔵工業大学教授、亜細亜大学教授を務めた。1964-1966年日本経営工学会会長。
杉森 万之輔(萬之輔、すぎもり まんのすけ、1884年(明治… 杉森 万之輔(萬之輔、すぎもり まんのすけ、1884年(明治17年)11月21日 - 1974年 <昭和49年> 5月5日)は、昭和時代前期の政治家、俳人。三重県上野市長。雅号は干柿。位階は正六位。 三重県出身。上野中学(現三重県立上野高等学校)を卒業する。 上野町助役となり、全国に先駆け上下水道の完成、町営塵芥焼却炉、町立保育園の建設、公共的企業の創設や育成、伊賀文化産業城の建設などに尽力した。 1939年(昭和14年)11月、同町長となった。1941年(昭和16年)9月に町長を退任した。同年11月29日、周辺自治体との合併で発足した上野市の初代市長となった。 町長時代には市制施行の実現、市長に就任後は市民福祉の向上、地域産業の育成、工場誘致や市域拡張の諸政策を遂行した。
鈴木 五六(すずき ごろく、1883年(明治16年)11月2… 鈴木 五六(すずき ごろく、1883年(明治16年)11月21日 - 1932年(昭和7年)11月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 愛知県渥美郡赤羽根村(現在の田原市)出身。1902年(明治35年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。司法官試補を務めた後、弁護士を開業した。 豊橋市会議員に選出され、同参事会員、同副議長を務めた。さらに愛知県会議員、同郡部会議長、同議長を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年… 関口 寿(關口 壽、せきぐち ひさし、1882年〈明治15年〉11月21日 - 没年不詳)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省の技官を経て実業界入りし、大阪電灯技師長や大同電力常務取締役、日本揮発油(現・日揮ホールディングス)初代専務取締役などを務めた。 関口寿は1882年(明治15年)11月21日、東京府関口慶吉の長男として生まれた。1901年(明治34年)7月東京の第一高等学校第二部工科を卒業、次いで1904年(明治37年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業する。卒業後は逓信省に入り通信技手となる。翌年時点の職員録には逓信省通信局所属の通信技手とある。
13代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1879年(明治1… 13代 絲原 武太郎(いとはら ぶたろう、1879年(明治12年)11月21日 - 1966年(昭和41年)9月4日)は日本の地主、実業家、政治家。鉄師絲原家13代、貴族院多額納税者議員。旧姓・江角、旧名・徳次郎。 島根県出雲郡原鹿村(現出雲市斐川町原鹿)で、地主・江角勝太郎の二男として生まれた。1900年、東京正則中学校を卒業し東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、1901年に鉄師糸原家12代・絲原武太郎の養子となり中退した。1911年、養父の死去に伴い家督を継承し武太郎を襲名した。 家業の製鉄業を1922年に廃業し、新たな事業として、先代が推進した植林を継続する中で製炭に着目して、島根木炭として関東地方にも出荷した。
秋本 豊之進(あきもと とよのしん、1873年(明治6年)1… 秋本 豊之進(あきもと とよのしん、1873年(明治6年)11月21日 – 1934年(昭和9年)11月27日)は、衆議院議員。実業家。 山口県美祢郡秋吉村(現在の美祢市)出身。1895年(明治28年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、高等文官試験に合格した。会計検査官補・会計検査院書記官、奈良県参事官、大分県事務官・第四部長、統監府鎮南浦理事官、朝鮮総督府平壌府尹を歴任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、朝鮮京南鉄道株式会社常務取締役、同副社長、朝鮮中央鉱業株式会社代表取締役、桑原鉄工所株式会社取締役、月島鋳工場株式会社取締役、船木鉄道株式会社取締役などを務めた。
田岡 嶺雲(たおか れいうん、明治3年10月28日(1870… 田岡 嶺雲(たおか れいうん、明治3年10月28日(1870年11月21日) - 大正元年(1912年)9月7日)は、近代日本の文芸評論・思想家。本名は佐代治。
伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867… 伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応3年10月26日〈1867年11月21日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月7日) は、明治から昭和期の建築家、建築史家である。号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・早稲田大学教授。出羽国米沢(現山形県米沢市)出身。米沢市名誉市民第1号。 少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。 西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。
不破 彦麿(ふわ ひこまろ、1865年11月21日(慶応元年… 不破 彦麿(ふわ ひこまろ、1865年11月21日(慶応元年10月4日) - 1919年(大正8年)9月2日)は、日本の農商務・内務官僚。官選佐賀県知事、山口県下関市長。族籍は福岡県士族。 筑前国福岡(現在の福岡県福岡市)荒戸町で、福岡藩士・不破国雄の長男として生まれる。1892年7月、帝国大学法科大学を卒業。同月、農商務試補に任官し参事官室に配属された。 以後、農商務参事官兼農商務大臣秘書官、同省特許局審判官、佐賀県事務官、兵庫県事務官・第一部長兼第三部長、東京府事務官・内務部長などを歴任。 1911年10月、佐賀県知事に就任。1914年6月9日、知事を休職。1917年10月、下関市長に就任。
佐藤 富十郎(さとう とみじゅうろう、1861年11月21日… 佐藤 富十郎(さとう とみじゅうろう、1861年11月21日(文久元年10月19日)- 1943年(昭和18年)8月16日)は、明治から昭和前期の養蚕家、林業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国伊達郡、のちの福島県伊達郡小手川村(月舘町を経て現伊達市)で、佐藤長十郎の長男として生まれ、1882年(明治15年)11月に家督を相続した。漢学を修め、のち早稲田大学校外生として政治経済学を学ぶ。 養蚕について研鑽し、養蚕実修学舎を設立して指導に当たり、また各県に養蚕教師として出張した。長年、森林業に従事し、東洋木材を設立して社長に就任した。 政界では相馬郡中村町会議員に在任。相馬地方の開発に貢献した。1924年(大正13年)5月、 第15回衆議院議員総選挙(福島県第10区、憲政会公認)では、前2回落選の同情票で有力候補松本孫右衛門を破って当選し、その後、立憲民政党に所属して衆議院議員に1期在任した。
服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(… 服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(万延元年10月9日) - 1934年(昭和9年)3月1日)は日本の実業家。服部時計店(現セイコーホールディングス)の創業者。輸入時計の販売店を開業し、のちに掛時計・腕時計の製造・販売へと事業を拡大して世界のセイコーの礎を築き、「日本の時計王」とも呼ばれる。
大江 正路(おおえ まさじ、1852年11月21日〈嘉永5年… 大江 正路(おおえ まさじ、1852年11月21日〈嘉永5年10月10日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月18日, Ōe Shikei Masaji, 17th head of the Musō Jikiden Eishin-ryū)は、日本の武道家。無双直伝英信流居合術第17代宗家。大日本武徳会居合術範士、剣道教士。号は「蘆洲」。字は「子敬」と称した。 無双直伝英信流居合術第17代宗家で、英信流は土佐藩において長谷川流、英信流、長谷川英信流、無雙直傳流、無雙神傳流などとも呼ばれており、大江はこれを無双直伝英信流に統一し、あわせて業の形の統一を図った。江戸時代「御留流(おとめりゅう)」として藩外不出だった英信流を、明治の世になり全国に広く伝えた。
佐藤 乾信(さとう けんしん、嘉永3年(1850年)11月2… 佐藤 乾信(さとう けんしん、嘉永3年(1850年)11月21日 - 明治43年(1910年))は、日本の政治家。潮止村会議員。 葛飾郡二郷半領戸ヶ崎村(三郷市)の加藤家に生まれ、埼玉郡八條領川崎村の佐藤家の婿となる。明治8年(1872年)頃伊勢野村戸長、同9年頃川崎村戸長、同13年頃南川崎村惣代、同17年頃伊勢野村連合戸長を務めた。水利に尽力し、葛西用水路第一部普通水利組合の議員を務めた。明治15年(1882年)戸ヶ崎渡しの所に戸ヶ崎村の加藤謙光と共同出資で収銭橋を架け、両人の性を取り藤橋と名付けた。 また同18年と同25年からの2期、県会議員を務めた。明治10年代(1877年 - )から活発な政治活動を行い、明治14年(1881年)7月に法律研究・演説結社である嚶鳴社の影響を受け、高橋荘右衛門らと草加嚶鳴社を結成した。
馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日(天保… 馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日(天保15年10月12日) - 1933年(昭和8年)4月20日)は、日本の実業家。三井物産に勤務し、大日本麦酒(日本麦酒、朝日麦酒、札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物。大日本麦酒の大合同合併を画策し、「日本のビール王」「東洋のビール王」とよばれた。衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。茶人・馬越化生としても知られた。 1844年(弘化元年)、備中国後月郡木之子村(現・岡山県井原市)で父の元泉と母の古尾子の2男として生まれる。馬越家は医者を生業としており兄の元育が医学で親と対立し東京に出たため、次期当主として期待されていた。幼少期は「負けずの恭弥やん」と呼ばれていた。
関戸 由義(せきど よしつぐ、文政12年10月25日〈182… 関戸 由義(せきど よしつぐ、文政12年10月25日〈1829年11月21日〉 - 1888年〈明治21年〉8月17日)は、明治期に神戸の土地開発・売買・創業などを官吏・私人として行った人物。 文政12年10月(1829年11月)、越前国足羽郡下呉服町で、輪違平兵衛(薬種商第4代)と福井藩藩医の第四代山本正伯に乳母奉公した女性(名不詳)の間に生まれる。幼名は良平。 慶応年間に江戸へ移住し、医師として関戸由義と自称する。 明治元年3月上旬(1868年)に横浜港よりサンフランシスコへ密航。帰国後、兵庫県に洋学校設立を建白。明治2年12月4日(1870年1月)、民部省通商少佑として任官。明治4年3月24日(1871年)、兵庫県外務局勧業課少属に転じ、同年5月、兵庫県権大属北風正造と船舶無断売買問題で軋轢、のち和解した。
安井 絵里(やすい えり、11月21日 - )は、日本の女性… 安井 絵里(やすい えり、11月21日 - )は、日本の女性声優、ナレーター。滋賀県出身。青二プロダクション所属。 関西学院大学社会学部社会学科卒業。青二塾大阪校21期生。 太字はメインキャラクター。 この項目は、声優(ナレーターを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJ:アニメ/PJ:声優)。
一龍斎 貞奈(いちりゅうさい ていな、11月21日 - )は… 一龍斎 貞奈(いちりゅうさい ていな、11月21日 - )は、講談師。階級は二ツ目。 静岡県裾野市出身。中央大学商学部会計学科卒業。 『めざましテレビ』で観た八木亜希子に憧れて、将来の夢はアナウンサーだったが、大学卒業後はマーケティング会社に就職。だがここでの仕事にやり甲斐を感じられず「形が残る仕事がしたい」とナレーターを目指し、2年間養成所在籍を経てナレーター事務所に所属。ナレーターの仕事以外に舞台出演もあったが「大勢で一緒に芝居をやるのは自分に合わない」と思い、そんな時に一龍斎貞心の高座を観に行って、「頭の中に画が思い浮かぶ」講談なのでかっこいいと思って、直接入門を申し入れる。 2015年6月、一龍斎貞心に入門。