君 健男(きみ たけお、1911年〈明治44年〉12月22日… 君 健男(きみ たけお、1911年〈明治44年〉12月22日 - 1989年〈平成元年〉4月20日)は日本の医師、官僚、政治家。参議院議員(1期)、新潟県知事(公選第9・10・11・12代)。医学博士。 1911年(明治44年)12月22日、君修一郎の長男として新潟市に出生。新潟県立新潟中学校を経て官立新潟高等学校を卒業。1936年(昭和11年)3月、官立新潟医科大学(現・新潟大学医学部)を卒業。同年11月、応召。 1940年(昭和15年)、栃尾町の栃尾郷立診療所組合(現・新潟県厚生農業協同組合連合会栃尾郷病院)内科部長に就任。東京の日本光学病院内科主任を経て、再度応召。 1947年(昭和22年)、新潟県庁に入庁し、1949年(昭和24年)に新潟県予防課長、1955年(昭和30年)に新潟県公衆衛生課長、1958年(昭和33年)に新潟県衛生部長を経て、1962年(昭和37年)に新潟県総務部長となる。
恒松 恭助(つねまつ きょうすけ、1910年12月22日 -… 恒松 恭助(つねまつ きょうすけ、1910年12月22日 - 2001年4月13日)は、日本の作家、放送作家。 千葉県生まれ。1936年早稲田大学英文科卒。大学時代より同人誌『人間』に所属、戦後は早大系の『文学者』の編集委員。1956年から1964年までNHKで放送された人形劇『チロリン村とくるみの木』の原作者であり作者で、最終回までの全812回分、および1966年にフジテレビで放送された続編『おーい!チロリン村だよ』の全30回分を単独で執筆。作家としては私小説を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
池島 信平(いけじま しんぺい、1909年12月22日 - … 池島 信平(いけじま しんぺい、1909年12月22日 - 1973年2月13日)は日本の編集者、文藝春秋社長(第3代)。
朝吹 英一(あさぶきえいいち、1909年(明治42年)12月… 朝吹 英一(あさぶきえいいち、1909年(明治42年)12月22日 - 1993年(平成5年)6月14日)は、日本の音楽家・経営者。千代田組会長を歴任。日本木琴協会(現・日本マリンバ協会)初代会長。 父は千代田組を創業した後、三越社長、帝国生命保険株式会社(現朝日生命保険相互会社)社長、日本庭球協会(現・日本テニス協会)を創立し初代会長を務めた朝吹常吉[要出典]。 幼い頃に木琴を買い与えられてプロ級の腕前となり、慶應義塾幼稚舎より進学した慶應義塾大学経済学部に在学中の1927年(昭和2年)から木琴奏者としてNHKのラジオ放送に出演し、1930年にアメリカで音楽を学んだのち、大手レコード会社各社からレコードを出すなどした。
田中 健吉(たなか けんきち、1909年(明治42年)12月… 田中 健吉(たなか けんきち、1909年(明治42年)12月22日 - 1955年(昭和30年)1月13日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員。 秋田県北秋田郡上川沿村(現大館市)で生まれる。 早くから労農運動に加わり、1930年、阿気村争議で検挙され懲役8ヵ月となるなど、何度も服役した。横手町会議員、秋田県会議員、同参事会員を務めた。 戦後、日本社会党に入党し、同党秋田県支部連合会長、同党中央委員、秋田県地方労働委員、同県農地改革推進協議会長、日本農民組合秋田県連合会長、同組合中央委員などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に秋田県選挙区から出馬して当選。第23回総選挙で秋田県第二区から出馬して再選され、衆議院議員を連続二期務めた。
永井 行蔵(ながい こうぞう、1908年〈明治41年〉12月… 永井 行蔵(ながい こうぞう、1908年〈明治41年〉12月22日 - 1988年〈昭和63年〉8月23日)は、日本の国文学者。新潟大学名誉教授。 新潟県南蒲原郡長沢村大字中野原新田(現 三条市中野原)の教育者・永井長祥の三男として出生。 1926年(大正15年)3月に新潟中学校を卒業、1929年(昭和4年)3月に新潟高等学校を卒業、1932年(昭和7年)3月に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。池田亀鑑のもとで『神皇正統記』の研究や『校異源氏物語』の作成に従事。 1933年(昭和8年)1月に岩波書店から出版の『岩波講座 日本文學』の付録の雑誌『文學』第19号に「神皇正統記阿刀氏本に就いて」という題名の論文を発表し、その中で『神皇正統記』の阿刀本を紹介して草稿もしくは初稿本と推定した。
青井 政美(あおい まさみ、1907年〈明治40年〉12月2… 青井 政美(あおい まさみ、1907年〈明治40年〉12月22日 - 1991年〈平成3年〉1月29日)は、日本の農業協同組合指導者、実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員(1期)。 愛媛県越智郡、のちの今治市で生まれる。1927年(昭和2年)東洋商業学校(現東洋高等学校)を卒業。繊維関係の商業に従事した。 富田村農業会会長、愛媛県経済農業協同組合連合会会長を務める。1947年(昭和22年)愛媛県議会議員に選出され2期在任し、同副議長も務めた。愛媛県農協四連会長、全国農業協同組合連合会代表監事などを歴任した。1969年(昭和44年)に長年、農業関係団体要職に就いて育成指導に努め技術普及畜産振興を図り農業発展に寄与したとして藍綬褒章受章。
御子柴 博見(みこしば ひろみ、1907年12月22日 - … 御子柴 博見(みこしば ひろみ、1907年12月22日 - 2005年11月24日)は日本の地方公務員。元東京都副知事。 長野県生まれ。一家で上京し、旧制東京府立第一中学(東京都立日比谷高等学校)、旧制松本高校文科を経て、1930年東京帝国大学卒業。東京市役所入庁。東京都衛生局総務部長、総務局監査部長、人事部長、人事委員会事務局長、都東京五輪準備事務局長、総務局長を歴任。 東龍太郎都知事の下、1963年から1967年まで副知事を務め、1964年の東京五輪開催に関わる。退任後は首都高速道路公団副理事長、特別区人事委員会委員長、東京厚生信用組合理事長、虎ノ門コンサルタンツ監査役、東京都体育協会副会長、日本体育評議会評議員、東京都スポーツ振興審議会長、日本プロ野球選手会理事、社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会理事長などを歴任。
長谷川 良夫(はせがわ よしお、1907年〈明治40年〉12… 長谷川 良夫(はせがわ よしお、1907年〈明治40年〉12月22日 - 1981年〈昭和56年〉5月6日)は、日本の作曲家。 作曲を信時潔、クラウス・プリングスハイムに師事。1931年東京音楽学校師範科卒業。1933年同研究科作曲聴講生修了、日本ビクターに所属。1937年、宝塚歌劇団作曲部に所属。1938年ドイツに渡り、ベルリン国立歌劇場でオペラを研究し、1940年帰国。1946年、東京音楽学校作曲科教授に就任。1949年、学制移行により東京芸術大学教授となる。1975年、同大学名誉教授となる。1979年、勲三等瑞宝章を受章。1981年、心不全のため死去。 音楽教育に力を注ぎ、著書に『作曲法教程』『大和声学教程』『対位法』などがある。
河上 健次郎(かわかみ けんじろう、1906年12月22日 … 河上 健次郎(かわかみ けんじろう、1906年12月22日 - 1985年6月12日)は、日本の経営者。大阪府出身。 1936年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友本社に入社。1946年に井華工業(のちの住友金属鉱山)に転じ、取締役に就任し、1948年に常務、1956年6月に専務を経て、1963年5月に社長に就任。1973年5月に会長に就任し、1979年4月に会長に就任。 1967年10月に藍綬褒章を受章し、1977年5月に勲一等瑞宝章を受章。 1985年6月12日呼吸器疾患のために死去。78歳没。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。
秋山 徳雄(あきやま とくお、1906年(明治39年)12月… 秋山 徳雄(あきやま とくお、1906年(明治39年)12月22日 - 1979年(昭和54年)3月1日)は、昭和期の労働運動家、政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 神奈川県三浦郡、のちの横須賀市で秋山清平の長男として生まれる。1924年(大正13年)横須賀市立実業補習学校を卒業した。 横須賀海軍工廠員として勤務。その後、横須賀市吏員、川崎市吏員を歴任。社会民衆党、社会大衆党に入党した。労働運動に加わり、全日本自治団体労働組合(自治労)特別執行委員、横須賀市労連顧問などを務めた。 1947年(昭和22年)神奈川県議会議員に選出された。日本社会党清掃特別委員会事務局長、同選挙制度対策特別委員会事務局長、地方公営企業対策特別委員会事務局長、地方公務員定年制反対特別委員会事務局長、同神奈川県連副会長、同横須賀支部長などを務めた。
伊達 定宗(だて さだむね、1902年(明治35年)12月2… 伊達 定宗(だて さだむね、1902年(明治35年)12月22日 - 1955年(昭和30年)3月17日)は、日本の華族、造園家、園芸家。吉田伊達家12代当主。旧名は定(さだ)。 東京生まれ、子爵伊達宗定の二男で、前当主の子爵伊達宗起の弟。伊達定清、伊達定継の父。 1925年(大正14年)東京農業大学本科卒業後、匠生として宮内省内匠寮工務課庭園係に勤務した。1929年(昭和4年)に宮内技手補、次いで1933年(昭和8年)宮内技手となった。 1934年(昭和9年)9月20日に分家したが、兄宗起が1940年に34歳で死去したことに伴い本家に復籍し、1941年(昭和16年)6月16日に子爵を襲爵した。
燕石 猷(えんせき ゆう、 1901年(明治34年)12月2… 燕石 猷(えんせき ゆう、 1901年(明治34年)12月22日 - 1974年(昭和49年)11月9日)は、日本の詩人。本名は岸野 知雄。 東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)在学中から日夏耿之介に師事し、1922年同大学予科を卒業した。 1925年に同大学本科2年を修了後、三省堂に入社し、同社資料室長、営業部長などを務めた。 蒐集したウィリアム・バトラー・イェイツ初版本を含むアイルランド文学関連のコレクションは一橋大学附属図書館に岸野文庫として収蔵された。
貴司 山治(きし やまじ、本名:伊藤 好市、明治32年(18… 貴司 山治(きし やまじ、本名:伊藤 好市、明治32年(1899年)12月22日 - 昭和48年(1973年)11月20日)は、日本のプロレタリア文学の小説家、劇作家。 徳島県鳴門市鳴門町高島生まれ。新聞記者などの職業を経て文筆家となる。 昭和2年(1927年)、朝日新聞が阪東妻三郎のために「五千円」(当時)の懸賞をかけ、映画小説を募集。本名伊藤好市名でこれに応募した『霊の審判』が一等入選。朝日新聞紙上で連載される。 昭和3年(1928年)、松竹配給・阪妻プロ製作で新春早々に『霊の審判』映画化が発表され話題となるが、松竹と阪妻の思惑が一致せず、三月封切りの予定が結局製作中止となる。 昭和4年(1929年)日本プロレタリア作家同盟の創立に参加し、プロレタリア文学の大衆化を唱える。
梅津 錦一(うめづ きんいち、1898年〈明治31年〉12月… 梅津 錦一(うめづ きんいち、1898年〈明治31年〉12月22日 - 1984年〈昭和59年〉2月18日)は、日本の政治家、教員、実業家。位階は正五位。参議院議員(1期、日本社会党)。 1898年(明治31年)、元前橋藩士[要出典]・梅津幸次郎、とう(元前橋藩目付・明石家長女)[要出典]の長男として群馬県前橋市高田町(現・文京町1丁目)に生まれる。中川小学校を経て、1913年(大正2年)、教員養成所に入所し、翌年桂萱小学校補助教員となる。1920年(大正9年)、群馬師範学校本科卒業とともに桐生北尋常小学校に赴任した。のち高崎南小学校に転勤。高崎北小学校、片岡小学校に転任し、1946年(昭和21年)高崎市第一国民学校教頭となった。
金子 武麿(かねこ たけまろ、1897年〈明治30年〉12月… 金子 武麿(かねこ たけまろ、1897年〈明治30年〉12月22日 - 1959年〈昭和34年〉1月14日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階は従四位。勲等は勲六等。 官僚・政治家、金子堅太郎の二男として生まれる。父の死去に伴い1942年(昭和17年)6月1日、伯爵を襲爵した。 1922年(大正11年)、東京帝国大学文学部を卒業。1923年(大正12年)内閣属となる。以後、加藤友三郎内閣・第2次山本内閣・清浦内閣の内閣総理大臣秘書官、田中義一内閣内閣総理大臣秘書官兼外務大臣秘書官、齋藤内閣・中島久万吉商工大臣秘書官、大礼使事務官などを歴任。 実業界では、電気化学工業取締役、台湾電化取締役、日本塗紙工業取締役、東北振興化学監査役、カーバイト共販監査役、東京都商工経済会評議員、日本硫硝酸統制社長などを務めた。
成田 一郎(なりた いちろう、1894年〈明治27年〉12月… 成田 一郎(なりた いちろう、1894年〈明治27年〉12月22日 - 1959年〈昭和34年〉7月4日)は、日本の内務官僚、政治家。兵庫県知事(官選第28代)、石川県知事(官選第36代)、台湾総督府総務長官、参議院議員(1期)。 宮城県仙台市出身。成田喜十郎の長男として生まれる。広島高等師範学校を経て、1920年(大正9年)、京都帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入り、埼玉県属となる。埼玉県児玉郡長、警視庁警視、内務省社会局事務官、社会局労働部労務課長、同庶務課長、資源局事務官などを歴任。 1936年(昭和11年)、内務書記官兼内務大臣秘書官となり、大臣官房人事課長、社会局労働部長、厚生省労働局長などを務める。
上條秀介(かみじょうしゅうすけ、1893年12月22日 - … 上條秀介(かみじょうしゅうすけ、1893年12月22日 - 1956年5月19日)は日本の医師。1928年(昭和3年)に昭和医学専門学校(現・昭和医科大学)を設立し、日本病院協会(現・日本病院会)の初代会長も務めた。勲四等瑞宝章、従五位に叙された。
久野村 桃代(くのむら とうだい、1893年12月22日 -… 久野村 桃代(くのむら とうだい、1893年12月22日 - 1979年11月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県出身。医師・久野村桃蹊の三男として生れる。海南中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第44連隊付となる。1925年11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 歩兵第44連隊中隊長、教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、歩兵第37連隊大隊長、陸軍省軍務局課員、教育総監部課員、独立歩兵第13連隊長、教育総監部第3課長などを経て、1940年12月、陸軍少将に昇進。 第36歩兵団長、陸士幹事を歴任し、太平洋戦争には1943年5月、第15軍参謀長として出征した。
土井 辰雄(どい たつお、1892年12月22日 - 197… 土井 辰雄(どい たつお、1892年12月22日 - 1970年2月21日)は、大正・昭和期の日本のカトリック教会高位聖職者。洗礼名はペトロ。日本人初の東京大司教かつ、日本人初の枢機卿。 宮城県仙台市出身。1902年4月21日に洗礼を受ける。仙台第一中学(現・宮城県仙台第一高等学校)・第二高等学校(旧制)卒業後、ローマのウルバノ大学に留学し、神学・哲学の学位を得て帰国。1921年5月1日に司祭叙階。宮城県、岩手県の教会にて司牧活動の後、在京ローマ教皇使節秘書を務めていた。 パリ外国宣教会によって司牧されていた東京大司教区が1937年に邦人教区として独立した時、初代邦人大司教として東京教区長に任命され、1938年2月13日にジャン・アレキシス・シャンボン大司教の手により司教叙階を受けた。
三木 宗策(みき そうさく、1891年〈明治24年〉12月2… 三木 宗策(みき そうさく、1891年〈明治24年〉12月22日 - 1945年〈昭和20年〉11月28日)は、日本の彫刻家。高村光雲の高弟である山本瑞雲の内弟子となる。第十回文展入選以来十二回まで続けて入選、第六回帝展で「不動」が特選となり以後無鑑査を経て1932年〈昭和7年〉帝展審査員となる。新しい造形精神に立脚した伝統木彫の確立に努めた。 三木宗策は福島県郡山市で、表装を生業とする三木宗次郎、ハルの二男として生まれた。明治29年(1896年)金透尋常小学校に入学、成績優秀で毎年のように級長を務め中学校進学を希望したが、父の同意が得られなかった。三木家の菩提寺である善導寺には阿弥陀如来像が座しており、幕末の戊辰戦争と明治期の火災で本堂が焼けた際に、本尊も損傷を受けておりその修復のために、山本瑞雲がおとずれていた。
加藤 富之助(かとう とみのすけ、1889年〈明治22年〉1… 加藤 富之助(かとう とみのすけ、1889年〈明治22年〉12月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月15日)は、日本の政治家。山形県議会議員(7期)、山形県議会議長、米沢市会議員(4期) 山形県米沢市生まれ。米沢商業学校(現・山形県立米沢商業高等学校)卒業。米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)染色科で学んだ後に、上京して、時事新報に勤めた。その後、帰郷し機業に従事して、新聞社の経営を行った。 1933年(昭和8年)に米沢市会議員に当選して、4期務めた。 1939年(昭和14年)9月25日の県会議員選挙に米沢市選挙区から立憲民政党公認で立候補して、初当選を果たした。 1947年(昭和22年)4月30日の県議選では自由党公認で立候補して、再選を果たした。
宮部 一郎(みやべ いちろう、1888年〈明治21年〉12月… 宮部 一郎(みやべ いちろう、1888年〈明治21年〉12月22日 - 1990年〈平成2年〉10月3日)は、日本の実業家。 埼玉県羽生市出身。東京帝国大学経済学部卒業。昭和期における産業組合(農業協同組合の前身)の指導者として活動した。協同組合短期大学(1973年廃止)の2代目学長も務めた。植物学者・宮部金吾の女婿。 宮部一郎 | 打越顕太郎 | 美土路達雄 | 湯河元威 | 江上繁一
小林 弥七(こばやし やしち、1888年12月22日 - 1… 小林 弥七(こばやし やしち、1888年12月22日 - 1967年6月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県高崎市出身、早稲田実業学校卒業。高崎佐藤商組合頭取、群馬県糖業連合会会長、上州銀行、利根産業、群馬製菓、信永運輸各(株)取締役、利根木材、森永製品開発、利根産業各(株)取締役社長、高崎商業会議所議員、高崎市農会評議員、群馬県選挙管理委員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において群馬2区から実業同志会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1967年死去。
斎藤 巌(さいとう いわお、1887年(明治20年)12月2… 斎藤 巌(さいとう いわお、1887年(明治20年)12月22日 - 1934年(昭和9年)2月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 熊本県合志郡合志村(現在の合志市)出身。1909年(明治42年)に明治大学法科を卒業した後、長崎市で九州日の出新聞記者となり、1911年(明治45年)に弁護士を開業した。 長崎県会議員、同副議長を経て、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。また長崎市会議員も兼ねた。
額田 晋(ぬかだ すすむ、1886年(明治19年)12月22… 額田 晋(ぬかだ すすむ、1886年(明治19年)12月22日 - 1964年(昭和39年)9月29日)は、日本の医師、医学者(内科学)、医学博士、理学博士。東邦大学および額田医学生物学研究所の創立者。 1886年(明治19年)、岡山県邑久郡に医師の次男として生まれた。旧制一高を経て東京帝国大学医科大学に進学した。1917年(大正6年)から翌年にかけ、アメリカのハーバード大学に自費留学し、医学博士を取得し帝国大学附属病院の講師を務めた。中国の北京協和医学校に赴任後、帰国した額田は1925年(大正14年)に兄の額田豊と共に帝国女子医学専門学校(東邦大学の前身)を創設した。1926年(大正15年)には理学博士も取得し、神田に額田内科病院、千葉県稲毛に額田医学生物学研究所を設立した。
土居 通次(どい みちつぐ、1884年(明治17年)12月2… 土居 通次(どい みちつぐ、1884年(明治17年)12月22日 - 1952年(昭和27年)1月23日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選徳島県知事、室蘭市長。 堺県堺区(現・大阪府堺市堺区)で土居栄十郎の長男として生まれる。その後、北海道に移り、北海道庁立札幌中学校を卒業。第二高等学校文科を経て、1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学法律学科 (独法)(現・東京大学法学部)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験に合格。内務省に入省し宮城県属となる。 以後、宮城県柴田郡長、同遠田郡長、同牡鹿郡長、茨城県理事官、高知県警察部長、熊本県警察部長、佐賀県警察部長、島根県書記官・内務部長、群馬県書記官・内務部長、福井県書記官・内務部長、滋賀県書記官・内務部長などを歴任。
眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 19… 眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 1966年10月15日)は、日本海軍の軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。
山脇 正次(やまわき まさじ、1884年12月22日 - 1… 山脇 正次(やまわき まさじ、1884年12月22日 - 1970年9月24日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1907年に兵庫県立工業専門学校を卒業。1927年に東邦ガス取締役に就任し、1934年2月に西部ガス社長に就任し、1960年2月には会長に就任。RKB毎日放送取締役、九州電力取締役、福岡商工会議所会頭なども歴任。 1961年11月に藍綬褒章と紺綬褒章を受章。 1970年9月24日福岡市の病院で死去。85歳没。
宍戸 梅軒(ししど ばいけん、1883年12月22日 - 1… 宍戸 梅軒(ししど ばいけん、1883年12月22日 - 1963年5月)は、明治から昭和にかけて福島県伊達郡を中心に活動した俳人である。幼名を文作、通称を寅吉といい、俳号として梅軒、また麦村とも称した。 福島県伊達郡伏黒村宮本(現伊達市)に生まれる。明治30年(1897年)、14歳で正岡子規主宰の「ホトトギス」に投句し、入選する。これを機に子規に師事した。明治38年(1905年)、機関紙「八重桜」を刊行し、「奥州に梅軒あり」と評される。明治41年(1908年)1月、「土筆(つくつくし)」を刊行する。 大正の初め、山梨県の宿で知り合った自称小説家の青年と意気投合し、文学談議に花が咲き深夜まで語り合う、という出来事があった。
松野 鶴平(まつの つるへい、1883年〈明治16年〉12月… 松野 鶴平(まつの つるへい、1883年〈明治16年〉12月22日 - 1962年〈昭和37年〉10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、鉄道大臣、参議院議長などを歴任。権謀術数に長けたことから「松のズル平」とあだ名された。また、実業家として菊池電気軌道(現・熊本電気鉄道)の社長も務めた。熊本県平民。 妻・タキノは商工大臣等を務めた野田卯太郎の娘。自由民主党政調会長、総務会長などを務めた松野頼三は三男。民進党の衆議院議員松野頼久は孫、2016年ミス日本グランプリ受賞者の松野未佳は曾孫にあたる。 明治16年(1883年)12月22日、熊本県菊池郡城北村(鹿本郡菊鹿町、現在の山鹿市)中農の長男として生まれる。
岡崎 栄松(おかざき えいまつ、1882年(明治15年)12… 岡崎 栄松(おかざき えいまつ、1882年(明治15年)12月22日 - 1960年(昭和35年)4月28日)は、かつての仙台市長である。 公選による終戦後初めての仙台市長として、同市の戦災復興に尽力した。 宮城県名取郡秋保村(現在の仙台市太白区西部)長袋字町に生まれ、宮城師範学校を経て日本大学法律学科に進学した。 大学卒業後は教育者となり、丸森小学校(宮城県丸森町)訓導、岩出山小学校(同・岩出山町)校長、宮城県桃生郡視学(教育行政官)を経て、1916年(大正5年)には宮城県県視学に就任した。 1919年(大正8年)からは行政職に転じ、横浜市役所、東京市社会局保護課長、同福利課長、同監査課長、同下谷区長、同大森区長、同電気局電灯部長を歴任した。
池田 宏平(いけだ こうへい、1881年〈明治14年〉12月… 池田 宏平(いけだ こうへい、1881年〈明治14年〉12月22日 - 1905年〈明治38年〉5月30日)は、日本の海軍軍人。日本海海戦で戦死した海軍中尉である。大蔵大臣などを歴任した池田成彬は兄。従七位勲六等功四級。 海軍兵学校30期。山形県米沢市出身。父は米沢藩士・池田成章。同期生に百武源吾、松山茂などがおり、米沢からは今村信次郎、下村忠助など7名が入校している。兵学校卒業後の遠洋航海から帰国した1903年(明治36年)12月、海軍少尉に任官し、ほどなく日露戦争開戦を迎えた。 池田は新造駆逐艦の配置を希望し、第二駆逐隊所属の「雷」へ配属となる。日本海海戦の初日である1905年(明治38年)5月27日、日本海軍の駆逐隊、水雷艇隊はバルチック艦隊に対し夜間攻撃を実施した。
葛原 猪平(くずはら いへい、1879年12月22日 - 1… 葛原 猪平(くずはら いへい、1879年12月22日 - 1942年1月15日)は山口県出身の実業家、政治家。日本の冷凍物流事業の先駆けとして知られる。大正期に山口電灯を設立し、次いで山口県下の電気事業者をまとめて山陽電気に改組した後、大型冷蔵庫の製造や冷凍船を建造するなど冷凍魚の保存及び販売事業を推し進めた。後に衆議院議員も務める。 1879年(明治12年)12月22日、 山口県吉敷郡小郡町上郷字新町東上で葛原富次郎の二男として生まれる。1897年(明治30年)に旧制高等商業学校(現・一橋大学) に入学。また、東京英語専修学校(現・立教大学)に修学。在学中の1900年(明治33年)に農商務省の海外実業練習生に応募すると、見事合格し渡米。
山本 信次郎(やまもと しんじろう、1877年〈明治10年〉… 山本 信次郎(やまもと しんじろう、1877年〈明治10年〉12月22日 - 1942年〈昭和17年〉2月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将、カトリック教会信者。正三位勲二等功五級。族籍は神奈川県平民。 相模国鎌倉郡川口村(現・片瀬)の旧家の山本庄太郎・ミツ夫婦の次男として生まれ、父親が持ち家をマリア会の別荘として貸していた関係から、小学校卒業後、マリア会の暁星中学校に入学した。暁星中学校は禁教令廃止後に開設されたカトリック教会系の学校であるが、当時はキリスト教に対する敵視が根強く、彼も当初は侮蔑を抱いていた。だが学校を運営しているマリア会の修道士と過ごしているうちにキリスト教を次第に理解するようになる。
稲垣 陽一郎(いながき よういちろう、1876年〈明治9年〉… 稲垣 陽一郎(いながき よういちろう、1876年〈明治9年〉12月22日 - 1949年〈昭和24年〉4月1日)は、日本の神学者、聖職者、教育者、翻訳者。聖公会神学院校長、日本聖公会の司祭。 1894年(明治27年)和歌山聖救主教会で、アイザック・ドーマン宣教師から受洗。同年9月、開設された立教学校(現・立教大学)専修科に入学する。この時、信仰復興運動の中心となる永野武三郎(1877‐1898)も立教学校の3年に編入している。 翌1895年(明治28年)、稲垣、永野、池澤駿太郎(1876‐1956)らで、雑誌『廿八年』を発行して「十字同盟」を結成したことをきっかけに、寄宿舎の一室で祈祷会が朝夕開かれるようになり、盛んに伝道活動が行われた。
松岡 勝太郎(まつおか かつたろう、1869年12月22日(… 松岡 勝太郎(まつおか かつたろう、1869年12月22日(明治2年11月20日) - 1932年(昭和7年)9月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県、後の揖斐郡八幡村(現池田町)出身。1887年、同人社、1890年、東京専門学校行政科卒。農業を営む。岐阜県会議員、同議長、所得税調査委員、宅地価修正委員となり、会社重役を務めた。 1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙において岐阜県の郡部選挙区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1932年に死去した。
浅山 正名(あさやま まさな、明治元年11月9日(1868年… 浅山 正名(あさやま まさな、明治元年11月9日(1868年12月22日) – 没年不詳)は、名古屋市助役、長崎市助役、東京市牛込区長。 陸奥国三戸郡八戸村(現在の青森県八戸市)出身。盛岡藩士・青森県会議員浅山正美の長男として生まれる。1897年(明治27年)、三戸郡書記となり、青森県属を経て、内務属となり、県治局や地方局に勤務。その間、和仏法律学校(現在の法政大学)で学んだ。1912年(大正12年)、北海道庁上川支庁長に就任した。 1917年(大正6年)、名古屋市助役に就任。その後、1923年(大正12年)には長崎市助役に選ばれた。さらに1927年(昭和2年)からは牛込区長を務めた。
九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2… 九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2年11月16日)- 1943年(昭和18年)7月25日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 美作勝山藩(現・岡山県真庭市)出身。1889年(明治22年)4月、海軍兵学校(15期)を卒業し、少尉候補生として「金剛」(金剛型コルベット一番艦)に乗組む。1894年(明治27年)4月、「鳥海」航海士となり日清戦争に出征した。その後、佐世保水雷団水雷艇隊艇長、「吉野」航海長、駆逐艦「曙」艦長などを経て、日露戦争に出征。 日本海海戦では第1艦隊第1駆逐隊・駆逐艦「有明」艦長として参加。海軍大佐となり、1910年(明治43年)、「葛城」艦長に就任。
黒田 定治(くろだ さだはる、文久3年11月12日(1863… 黒田 定治(くろだ さだはる、文久3年11月12日(1863年12月22日) - 大正3年(1914年)4月13日)は、日本の教育者。 越後国高田城下(現在の新潟県上越市)出身。1884年(明治17年)、東京師範学校(のち東京高等師範学校)中学師範学科を卒業し、附属小学校訓導、本校訓導、同助教諭を歴任した。1890年(明治23年)より3年間、イギリス・フランス・ドイツに留学した。帰国後、東京高等師範学校教授となり、1896年(明治29年)に附属小学校主事を兼ねた。1897年(明治30年)からは東京女子高等師範学校教授を兼ね、1900年(明治33年)から東京女子師範学校専任となった。1913年(大正2年)に東京府豊島師範学校校長に転じた。
竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈18… 竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈1862年12月22日〉 - 1944年〈昭和19年〉)は、日本の商人(生糸商)、政治家(前橋市会議員)、実業家。前橋商工会議所会頭。族籍は群馬県平民。 上野国(現・群馬県高崎市)生まれ。宮崎源吉の弟。1900年、竹内家の養子となった。生糸商、製糸業を営んだ。弟の勝蔵と竹内合名会社を経営し、共に前橋市における実業界の重鎮であった。1929年(昭和4年)第4代前橋商工会議所会頭に就任。 竹内撚織取締役、上州絹糸紡績、広瀬川電力各監査役、竹内商店代表社員(撚糸工場兼務)などをつとめた。 趣味は謡曲、囲碁、玉突き、俳句。宗教は天台宗。住所は群馬県前橋市本町。
佐野 春五(さの しゅんご、万延元年11月11日(1860年… 佐野 春五(さの しゅんご、万延元年11月11日(1860年12月22日) – 昭和5年(1930年)8月14日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。弁護士。 淡路国津名郡塩田村(現在の兵庫県淡路市)出身。徳島慶應義塾で学んだ後、1876年(明治9年)から慶應義塾本校で学んだ。一度郷里に戻った後、1885年(明治18年)に再び上京し、東京専門学校(現在の早稲田大学)を経て、英吉利法律学校(現在の中央大学)に入った。1887年(明治20年)、英吉利法律学校を卒業し、代言人試験に合格した。神戸市で弁護士を開業し、神戸弁護士会長を務めた。また塩田村会議員、兵庫県会議員を歴任した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
保利 眞直(ほり まさなお、1860年12月22日(万延元年… 保利 眞直(ほり まさなお、1860年12月22日(万延元年11月11日) - 1929年(昭和4年)12月6日)は、明治から昭和初期の眼科医、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医寮御用掛。最終階級は陸軍軍医監。位階および勲等、軍功は正四位・勲三等・功四級。 1860年12月22日((旧暦)万延元年11月11日)、唐津藩典医保利文溟の次男として誕生する。1887年(明治20年)度に東京帝国大学医科大学を卒業し、大学同期には猪子吉人等がいた。大学卒業後日本陸軍講習生として大学院に入り、7月陸軍三等軍医(少尉相当)に任官した大学院修了後、医術開業試験試験委員・日本赤十字社病院眼科主幹等を歴任した。 1893年(明治26年)1月ドイツ留学を命じられベルリン大学に入り眼科学を修め、同年イタリアで開催された第11回国際医学会に出席、翌1894年(明治27年)6月オーストリアのウィーン大学に移り、1895年(明治28年)には再びドイツのハイデルベルク大学に、そしてフランスのパリ大学で学んだ後、1896年(明治29年)6月帰国した。
田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年… 田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年 旧暦11月14日) - 1904年(明治37年)12月31日)は、現在の山口県岩国市出身の作曲家、海軍軍人。 代表作である『美しき天然』(1902年(明治35年))は日本初のワルツとされている。大正、昭和期にはサーカスやチンドン屋などが客の呼び込みで演奏する曲として全国に広まった。同曲は長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保南高等学校の前身の1つである私立佐世保女学校(佐世保市立成徳高等女学校)で田中が音楽指導する際に、教材として作曲したものと伝えられている。『美しき天然』の歌碑が佐世保市の烏帽子岳に、田中穂積の銅像が佐世保市の展海峰に建立されており、佐世保市民の愛唱歌として親しまれている。
広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月2… 広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月22日(安政元年11月3日)- 1929年(昭和4年)1月29日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。5代二三郎。北前船主。 広海常信(4代二三郎)の長男として、加賀国江沼郡瀬越村(石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)に生まれる。生家は加賀大聖寺藩の海運界の旧家。家訓により16歳から5年間手船に乗って船乗りと商売の基礎を学んだ。1887年(明治20年)1月、常信の死亡により家督を相続する。 1884年(明治17年)大阪に進出し、広海商店と屋号を掲げ、船舶業および海産物業を経営し、1889年(明治22年)には北海道小樽に「広海倉庫」を設立した。
高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(185… 高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)は、日本の化学者、実業家。工学博士号と薬学博士号を受ける。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。日本人による開発型ベンチャー企業やスタートアップの先駆者とされる。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。 現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒、応用化学を専攻し、社会人となってから3年間、官費で留学。 1854年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。
手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6… 手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6年11月22日) - 1932年(昭和7年)3月1日)は、「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。 現在の山口県萩市須佐出身。元の名は岡部緒三郎。 長州藩士の家柄だが家貧で四書五経を独学で修めた。長州藩永代家老の益田家が設けた郷校・育英館で学び、33歳の時に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)に進んだ。 その後、庚寅新誌社を創立し政治経済雑誌を発行する一方『庚寅新誌』を発行し、政治活動を始める。1894年(明治27年)に恩師福沢諭吉の勧めで、英国の時刻表を手本に「汽車汽船旅行案内」を発行。
古賀 喜三郎(こが きさぶろう、弘化2年11月24日(184… 古賀 喜三郎(こが きさぶろう、弘化2年11月24日(1845年12月22日)- 大正3年(1914年)12月21日)は、日本の海軍軍人(海軍少佐)、教育者。海城学園の創設者。 肥前国佐賀郡北川副村古賀(現佐賀県)に平尾吉左衛門、よしの次男として生まれ、20石取りの下級武士である古賀家の養子となる。佐賀藩の砲隊司令として奥羽追討の師に加わり、秋田の戦いに功績があって有栖川大総督宮から感状を下賜された。 1891年11月、私財を投じて有栖川宮を始めとする多くの皇族達の賛同を得て海軍予備校、後の海城学園を創設。以降、理事長兼校長として、数多くの将校を育てた。
池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日〈天保1… 池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日〈天保12年11月10日〉- 1918年〈大正7年〉4月30日)は、明治時代の医者。日本の近代医学の礎を築いた人物。学位は、医学博士。華族(男爵)、宮中顧問官、錦鶏間祗候。諱・秀之、幼名・圭助。通称・桂太郎または謙輔(けんすけ)で謙斎に改めた。 1841年、入沢健蔵の次男として越後国蒲原郡中之島村(現長岡市)に生まれる。幼名は圭助。安政5年3月(1858年1月 - 2月)に江戸に出、伯父の入澤貞意宅に寄宿する。漢学を瀬川道元に、剣術を心形刀流伊庭軍兵衛、オランダ語を竹垣龍太郎に学ぶ。 竹垣の紹介を経て適塾に入門し、1862年に西洋医学所へ入学した。
篠原 泰之進(しのはら たいのしん、文政11年11月16日〈… 篠原 泰之進(しのはら たいのしん、文政11年11月16日〈1828年12月22日〉 - 1911年〈明治44年〉6月13日)は、江戸時代後期の志士。新選組隊士(諸士調役兼監察方及び柔術師範)、御陵衛士。幼名は泰輔、変名を篠塚友平、秦河内(はた かわち)。維新後は、秦林親(はた しげちか)と改名。 筑後国生葉郡高見村(現在の福岡県うきは市浮羽町高見)の豪農および石工業者である篠原元助の長男として生まれる。幼時より武芸を好み、久留米藩の森兵右衛門や種田宝蔵院流槍術師範に槍術と剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、良移心倒流柔術師範の下坂五郎兵衛に柔術を学ぶ。 嘉永5年(1852年)、藩士・小倉一之進に仕えた後、家老・有馬右近の中間となる。