黒羽 亮一(くろは りょういち、1928年〈昭和3年〉8月2… 黒羽 亮一(くろは りょういち、1928年〈昭和3年〉8月23日 - 2023年〈令和5年〉3月28日)は、日本の教育学者、社会学者。大学評価・学位授与機構名誉教授。東京市出身。 1949年(昭和24年)3月、東京高等師範学校卒業。1952年(昭和27年)、東京大学文学部西洋史学科卒業。 1952年(昭和27年)、日本経済新聞社に入社、社会部記者・社会部長・論説委員など歴任し、1986年(昭和61年)退社。その後、筑波大学教育学系教授・大学研究センター長。臨時教育審議会で学位授与機関の創設に関与し、発足とともに審査研究部教授に就任。1997年(平成9年)に退官して同機構の名誉教授第1号となる。その後、常磐大学国際学部教授もつとめた。
竹盛 天雄(たけもり てんゆう、1928年8月23日 - 2… 竹盛 天雄(たけもり てんゆう、1928年8月23日 - 2019年11月27日)は、日本の日本文学研究者。専門は近代文学で、森鷗外や永井荷風などを研究した。本名・竹盛 天勇(たけもり てんゆう)。早稲田大学名誉教授。 広島県比婆郡生まれ。1943年森永契天のもとで禅門得度し、天勇と改名。1947年駒澤大学予科入学、1952年早稲田大学第一文学部文学科国文学専修卒業。卒業後は群馬県立前橋商業高等学校や経過高等学校の教員を務め、1967年早稲田大学専任講師。1970年同助教授。1999年3月定年退職。 名誉教授。1991年から『国文学 解釈と鑑賞』に「鷗外 その出発」を長期連載。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
川井 健(かわい たけし、1927年8月23日 - 2013… 川井 健(かわい たけし、1927年8月23日 - 2013年5月15日)は、日本の法学者。学位は法学博士。専門は民法。第11代一橋大学学長、一橋大学名誉教授。広島市生まれ。位階は従三位。父の川井清一郎は川井訓導事件で知られる教育者。 我妻栄の最後の弟子であるとされている[要出典]。北海道大学法学部教授を経て、1971年4月、長らく民法の専任教員が好美清光1名しかいなかった一橋大学法学部の教授に島津一郎とともに就任する。1986年には今井賢一商学部長が学長選の学生投票で除斥され、種瀬茂学長が心労で急逝するなど混乱が生じる中、学園紛争期の都留重人第6代学長以来となる史上2人目の一橋出身者以外の学長として、第11代一橋大学学長に選出された。
田中 正雄(たなか まさお、1926年8月23日 - 202… 田中 正雄(たなか まさお、1926年8月23日 - 2020年7月5日)は、日本の経営者。小松製作所社長を務めた。富山県出身。 1951年に東京大学法学部政治学科を卒業し、同年に小松製作所に入社。1976年3月に取締役に就任し、1981年1月に常務、1984年8月に専務を経て、1987年6月に社長に就任した。1989年6月に取締役相談役に就任し、1991年6月から相談役を務めた。 1993年4月に藍綬褒章を受章し、1999年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2020年7月5日老衰のために死去。93歳没。
本多 健一(ほんだ けんいち、1925年8月23日 - 20… 本多 健一(ほんだ けんいち、1925年8月23日 - 2011年2月26日)は、日本の電気化学者。 埼玉県出身。太陽光エネルギーの化学的変換を中心とする光化学・電気化学の研究で名を知られた。特に、酸化チタンを材料とする光触媒、酸化チタン電極と白金電極とを組み合わせた太陽電池を開発した。 また藤嶋昭と共同で開発した、光をエネルギー源として水の電気分解を行う触媒系は「本多-藤嶋効果」と呼ばれる。 1997年に文化功労者に選ばれ、1998年には日本学士院会員に選任された。2004年には日本国際賞を受賞している。 祖父は日比谷公園などの設計を手がけ日本の「公園の父」といわれる本多静六。 2011年2月26日に肺がんのため死去。
佐藤 喬(さとう たかし、1925年(大正14年)8月23日… 佐藤 喬(さとう たかし、1925年(大正14年)8月23日 - 2020年(令和2年)8月4日)は、日本の英語学者、慶應義塾大学名誉教授。 東京生まれ。1953年東京教育大学文学部卒業。1961 - 62年フルブライト奨学生としてミシガン大学に学ぶ。1964年慶應義塾大学法学部講師、70年助教授、75年教授、1990年定年退任、名誉教授、明海大学教授。日本英語教育研究所所長、日本国連協会理事。 2020年8月4日、脳梗塞のため東京都中野区の病院で死去、94歳没。
丹 保三郎(たん やすさぶろう、1925年8月23日 - 2… 丹 保三郎(たん やすさぶろう、1925年8月23日 - 2015年9月10日)は、日本の整形外科医。 北海道赤平市においてポリオが流行していた1961年に、治療に当たっていた丹が中心となって重度心身障害児者の会「赤平父母の会」(後に赤平くるみ会)を創設し、以後50年以上に渡り中心的な人物として活動を続けた。 福島県小名浜町(現・いわき市小名浜)に生まれる。 陸軍士官学校(58期)および日本医科大学を卒業し、整形外科医となる。 1958年(昭和33年)3月より赤平市立病院に勤務後、1963年6月に丹整形外科を開業した。 整形外科一般に加え、ポリオ、脳性麻痺児の治療に生涯従事する。
北村 恒夫(きたむら つねお、1924年8月23日 - 没年… 北村 恒夫(きたむら つねお、1924年8月23日 - 没年不明)は、日本の経営者。トーメン社長を務めた。静岡県出身。 1949年に京都大学法学部を卒業し、同年に東洋綿花(のちのトーメン)に入社。 1973年11月に取締役に就任し、1976年4月に常務、1983年6月に専務を経て、1985年6月に副社長に就任し、1986年6月には社長に昇格。1993年6月から1995年6月までに会長を務めた。 1986年11月に藍綬褒章を受章し、1998年11月に勲二等瑞宝章を受章。
高橋 寿夫(たかはし ひさお、1924年8月23日 - 20… 高橋 寿夫(たかはし ひさお、1924年8月23日 - 2016年12月3日)は、日本の運輸官僚。海上保安庁長官や日本空港ビルデング社長を歴任した。 第一東京市立中学校(現・東京都立九段高等学校)、旧制浦和高等学校を経て、1947年に東京大学法学部を卒業し、運輸省に入省した。その後、同省自動車局長(1974年)、航空局長(1976年)などを経て1978年に海上保安庁長官に就任した。 1981年日本空港ビルデング社長。1991年同社会長。1997年同社相談役。 1991年、成田空港問題解決のため、成田空港問題シンポジウムに向けて隅谷調査団に参加する。1998年2月25日にはシンポジウムに反対する中核派によって新築中の自宅を放火された。
ドクトル・チエコ(ドクトルチエコとも、1924年(大正13年… ドクトル・チエコ(ドクトルチエコとも、1924年(大正13年)8月23日 - 2010年(平成22年)1月6日)は、日本の産婦人科医、性医学評論家である。謝国権、奈良林祥とならぶ日本の性医学評論のパイオニアとして知られる。本名は木下和子(きのしたかずこ)、夫は劇作家のキノトール(本名:木下徹)。 神奈川県生まれ。帝国女子医学薬学専門学校(現在の東邦大学医学部)を卒業。同付属病院と実家の医院で診察にあたる。 1950年から『オール讀物』に健康解説「お脈拝見」を連載し、医事評論家となる。 1956年、夫のキノトール原作の映画『牛乳屋フランキー』(監督中平康、主演フランキー堺)に、夫とともに出演した。
高橋 アキラ(たかはし あきら、本名:高橋 燎(あきら)、1… 高橋 アキラ(たかはし あきら、本名:高橋 燎(あきら)、1923年8月23日 - 2007年1月8日)は、日本の政治家。豊橋市長(4期)、愛知県議会議員(3期)、同議長(第62代)、豊橋市議会議員(2期)。 愛知県豊橋市菰口町出身。1941年(昭和16年)愛知県豊橋中学校(現・愛知県立時習館高等学校)卒業。1943年(昭和18年)12月、学徒出陣。1947年(昭和22年)3月、早稲田大学法学部卒業。同年10月、大同製鋼株式会社入社。1948年5月、有限会社高橋製糸場入社。 1963年(昭和38年)4月30日に行われた豊橋市議会議員に無所属で立候補し、トップで初当選を果たした。1967年の市議選は自由民主党公認で立候補し再選。
高山 泰夫(たかやま やすお、1922年(大正11年)8月2… 高山 泰夫(たかやま やすお、1922年(大正11年)8月23日 - )は岐阜県出身の元プロ野球選手。
中谷 瑾子(なかたに きんこ、1922年8月23日 - 20… 中谷 瑾子(なかたに きんこ、1922年8月23日 - 2004年6月23日)は、日本の法学者。専門は刑法。学位は博士(法学)(慶應義塾大学・論文博士・2001年)(学位論文「21世紀につなぐ生命と法と倫理:生命の始期をめぐる諸問題」)。慶應義塾大学名誉教授、大東文化大学名誉教授。山形県酒田市出身。 長男は慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート(KGRI)特任教授で前WHO(世界保健機関)執行理事会議長を務めた中谷比呂樹(慶應義塾大学医学部卒業)。 1970年4月から翌年3月まで、ヨーロッパ諸国の大学、矯正施設を視察。厚生労働省の諮問機関「厚生科学審議会」の委員として医療法分野での功績の他、公安審査委員会委員としてオウム真理教の破壊活動防止法適用の審査(オウム真理教破壊活動防止法問題)を行った。
稗田 一穂(ひえだ かずほ、1920年8月23日 - 202… 稗田 一穂(ひえだ かずほ、1920年8月23日 - 2021年3月23日)は、日本画家、文化功労者。東京芸術大学名誉教授。女子美術大学大学院客員教授。創画会会員。 和歌山県西牟婁郡田辺町(現・田辺市)生まれ。父はデザイナーの稗田耕一(号・彩花)。その後大阪に転居、9歳から阿倍野橋洋画研究所に通う。1933年、大阪市立工芸学校工芸図案科に入学。卒業後上京、東京美術学校日本画科に入学。1943年、戦時体制のため繰上げ卒業。その後山本丘人に師事。 戦後1948年、丘人、上村松篁らが創造美術を結成し、第1回展より出品、奨励賞受賞。1951年、創造美術と新制作派協会が合併し新制作協会日本画部が発足、会員に推挙される。
別当 薫(べっとう かおる、1920年8月23日 - 199… 別当 薫(べっとう かおる、1920年8月23日 - 1999年4月16日)は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者。
宇土正彦(うど まさひこ、1920年 <大正9年> 8月23… 宇土正彦(うど まさひこ、1920年 <大正9年> 8月23日 - 1999年 <平成11年> 10月12日)は、日本の体育学者。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 長崎県出身。1944年東京文理科大学教育学科心理学専攻卒。文部省勤務、東京教育大学助教授、教授、1974年筑波大学体育学系教授・体育専門学群長を経て、1983年定年退官、名誉教授、日本女子体育大学学長。96年退任、名誉教授。日本体育・スポーツ経営学会会長、スポーツ産業学会理事長も務めた。 96年勲三等旭日中綬章受勲。99年死去。死没日付をもって正八位から従四位に進階した。
田中 伸(たなか しん、1920年8月23日 - 1991年… 田中 伸(たなか しん、1920年8月23日 - 1991年2月8日)は、日本の国文学者。近世文学専攻。 北海道生まれ。1942年二松学舎専門学校卒、1946年早稲田大学文学部国文科卒。49年同大学院修了。日本女子経済短期大学(のち嘉悦大学短期大学部)助教授、二松學舍大学文学部助教授、教授。定年直前に死去。
東 文彦(あずま ふみひこ、1920年(大正9年)8月23日… 東 文彦(あずま ふみひこ、1920年(大正9年)8月23日 - 1943年(昭和18年)10月8日)は、日本の小説家。本名は東徤(あずま・たかし=行人偏に建)。23歳で夭折した。学習院時代の三島由紀夫と親交を持った。 父・東季彦は奈良県十津川村出身の法学者で、九州帝国大学法文学部教授や日本大学学長などを歴任。母・菊枝は軍人・石光眞清の次女。 「文彦」という筆名は、季彦が息子の名前にと一時考えていたものである。本名の「徤」は、祖父の東武の命名による。「徤」の字は『易経』にあり、天の運行の壮んさを表す。 神奈川県鎌倉市生まれ。幼時を父の赴任先の福岡で過ごした。小学校を福岡県男子師範学校付属小学校で過ごしたことは、文彦にとって重要なものであった。
鮎川 信夫(あゆかわ のぶお、1920年〈大正9年〉8月23… 鮎川 信夫(あゆかわ のぶお、1920年〈大正9年〉8月23日 - 1986年〈昭和61年〉10月17日)は、日本の詩人・評論家・翻訳家。別名・二宮 佳景(にのみや よしかげ)。本名・上村 隆一(うえむら りゅういち)。 戦後の詩壇で一貫して重要人物とされる。第1次、第2次『荒地』の創刊に関わる。「詩人の条件」「なぜ詩を書くか」などの詩論で、戦後詩を性格づける中心的役割を果たした。作品に詩「死んだ男」(1947年)、『鮎川信夫詩集』(1955年)など。 東京小石川の高田豊川町に生まれる。父・上村藤若(「帝国文化協会」主催の出版者・文筆家)は農本主義的なナショナリストで、世間的には温厚な人格者でありながら、家庭内ではすこぶる冷淡な人間であったため、鮎川にとってのモダニズムは〈父親イメージへの反逆から始まった〉と後に語っている。
大野 晋(おおの すすむ、1919年(大正8年)8月23日 … 大野 晋(おおの すすむ、1919年(大正8年)8月23日 - 2008年(平成20年)7月14日)は、日本の国語学者。文学博士。学習院大学名誉教授。
林 竹男(はやし たけお、1919年8月23日 - 1992… 林 竹男(はやし たけお、1919年8月23日 - 1992年9月18日)は、大阪府出身の日本の物理学者。京都大学名誉教授。理学博士(京都大学)。元京都大学原子炉実験所(現:京都大学複合原子力科学研究所, KURNS)第4代所長。日本原子力学会強力中性子源研究専門委員会構成委員。 専門は、原子核物理学・核融合炉開発。 1943年に京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、1944年京都府立高等農林学校講師。1949年西京大学(現:京都府立大学)の発足により同助教授兼任となり、1958年同教授に昇格する。1964年に京都大学原子炉実験所(現:京都大学複合原子力科学研究所, KURNS)教授となり、1980年から1983年まで同実験所第4代所長を務めた。
大木 幸介(おおき こうすけ、1918年8月23日 - )は… 大木 幸介(おおき こうすけ、1918年8月23日 - )は、日本の化学・生理学者。 東京府(現東京都世田谷区[要出典])生まれ。1941年東京薬学専門学校卒、1944年九州帝国大学農学部農芸化学科卒業。1955年九州大学医学博士。九州大学木材研究所、生産科学研究所助手、九州大学医学部講師、信州大学繊維学部教授、江南女子短期大学教授を務めた。専門の分子生理学、生化学の立場から、幅広く研究、執筆活動を行った。
伊藤 桂一(いとう けいいち、1917年8月23日 - 20… 伊藤 桂一(いとう けいいち、1917年8月23日 - 2016年10月29日)は、日本の小説家、詩人。『静かなノモンハン』などの戦場小説や、時代小説、私小説風な身辺小説などがある。日本芸術院会員。
森山 幸雄(もりやま ゆきお、1917年(大正6年)8月23… 森山 幸雄(もりやま ゆきお、1917年(大正6年)8月23日 - 2011年(平成23年)4月16日)は、日本の政治家。福岡県大野城市長(4期)。 福岡県出身。1939年、熊本高等工業学校(熊本大学工学部)卒。同年、日立製作所に入る。1948年、森山セメント工業を創立する。同年、大野村農業調整委員となる。その後、大野町農業委員、同町議会議員、同監査委員などを経て、1965年、大野町長に就任する。1972年、大野町の市制施行により大野城市となる。市長を1989年まで務めた。このほか、全国市長会理事、福岡県市長会副会長なども務めた。 2011年(平成23年)4月16日、心筋梗塞のため死去、93歳。
海達公子(かいたつ きみこ、1916年8月23日 - 193… 海達公子(かいたつ きみこ、1916年8月23日 - 1933年3月26日)は、日本の詩人である。 1916年(大正5年)、長野県下伊那郡飯田町(現、飯田市)に生まれ、父親の仕事の関係で熊本県玉名郡荒尾町(現、荒尾市)で育つ。1923年(大正12年)、荒尾北尋常小学校に入学。1924年(大正13年)、海達が小学2年生のとき、文芸雑誌「赤い鳥」に詩を投稿。詩人北原白秋に称賛される。それ以後、詩人として全国に知られるようになる。1929年(昭和4年)、同校を卒業。1933年(昭和8年)、高瀬高等女学校(現、玉名高等学校)卒業式の日に腹膜炎で倒れ、同月26日に17歳で死去。
佐々木 英治 (ささき えいじ, 1915年(大正4年)8月… 佐々木 英治 (ささき えいじ, 1915年(大正4年)8月23日 - 2007年12月15日) は、日本の実業家。元宇部興産(現・UBE)代表取締役副社長、元テレビ山口社長。 山口県山口市生まれ。山口県立山口高等学校を経て京都帝国大学経済学部卒業。 1940年、沖ノ山炭鉱入社。1944年に宇部炭鉱が宇部興産と合併。1969年にテレビ山口株式会社取締役と宇部興産株式会社常務取締役を兼務。1983年宇部興産代表取締役副社長、1984年テレビ山口代表取締役社長に就任。宇部興産飲料と宇部ゴルフ観光の社長を歴任。山口テレメッセージ株式会社相談役も勤めた。
橋口 隆吉(はしぐち りゅうきち 1914年8月23日 - … 橋口 隆吉(はしぐち りゅうきち 1914年8月23日 - 1996年10月4日)は、日本の金属・材料物理学者。
新井 真一(あらい しんいち、1914年8月23日 - 20… 新井 真一(あらい しんいち、1914年8月23日 - 2012年1月9日)は日本の官僚、実業家。 大阪府堺市生まれ。日本万国博覧会協会の初代常任理事事務総長だったことで知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 … 宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 - 1986年(昭和61年)12月11日)は、昭和時代に活躍した日本の歌人。位階は正五位。本名は宮肇(はじめ)。 長岡中学在学中から作歌をはじめる。1932年に上京、翌年北原白秋を訪ねて門下に入る。1935年、白秋主宰の歌誌「多磨」の創刊に参加。日中戦争に応召し、中国を転戦した体験が、歌集『山西省』(1949年)に結実した。1953年には「多磨」の流れをくむ歌誌「コスモス」を創刊、主宰した。ながらく勤めた製鉄会社を辞して歌作と著作に専念し、74歳で死去。 一生活者の真実の声を響かせた誠実な歌風が特色。歌集に、『日本挽歌』(1953年)、『多く夜の歌』(1961年)、『濁石馬』(1975年)など、エッセイに、『埋没の精神』(1955年)、『西行の歌』(1977年)など。
片山 桃史(かたやま とうし、1912年8月23日 - 19… 片山 桃史(かたやま とうし、1912年8月23日 - 1944年1月21日)は、兵庫県出身の俳人。本名・隆雄。 黒井村(現・丹波市春日町)生まれ。酒屋の次男。旧制柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)を卒業後、鴻池銀行(三菱東京UFJ銀行の前身)に入行。俳句は旧制中学在学中よりはじめ、「鬼灯」誌で西山泊雲に師事、「ホトトギス」を経て、1935年に日野草城の「旗艦」創刊に同人参加。1937年8月応召、中国大陸にて従軍しながら戦地で詠んだ前線俳句を本国に送り「旗艦」に発表した。1940年帰国、句集『北方兵団』(三省堂 俳苑叢刊)を刊行。1941年に再度応召し、東部ニューギニアで戦死した。戦後、宇多喜代子が遺稿などを集め、1984年に『片山桃史集』を編集刊行している。
榎並 正一(えなみ しょういち、1912年 <大正元年> 8… 榎並 正一(えなみ しょういち、1912年 <大正元年> 8月23日 - 1990年<平成2年> 2月6日)は、日本の経営者。バンドー化学の社長・会長を務めた。位階は正五位。父はバンドー化学創業者の榎並充造で、正一は次男である。 兵庫県神戸市出身。1935年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本毛織に入社した。1938年12月に阪東調帯護謨(現在のバンドー化学)に転じた。1942年12月に副社長に就任し、1962年5月には社長に昇格した。1977年6月には会長に就任した。 神戸薬科大学理事長、日本経営者団体連盟理事、神戸商工会議所副会頭なども歴任した。 1983年4月に勲三等瑞宝章を受章した。
大田 正一(おおた しょういち、1912年〈大正元年〉8月2… 大田 正一(おおた しょういち、1912年〈大正元年〉8月23日 - 1994年〈平成6年〉12月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は大尉。特攻兵器桜花の発案者。終戦後に逃亡を図りその後も正体を隠して3人の子をもうけ生きながらえた。 1912年8月23日山口県熊毛郡室津村(現・上関町)に生まれる。名古屋で育ち、高等小学校卒業後、1928年(昭和3年)6月海軍普通科電信術練習生を志願して呉海兵団に入団。 1932年(昭和7年)4月、第20期偵察練習生に採用され、半年課程後に艦上攻撃機の「偵察員」になる。海軍では、操縦員以外で航法、通信、爆撃、射撃、写真撮影、観測などの任務を行う飛行機搭乗員を一括して「偵察員」と呼んでおり、兵曹、水兵の中から募集した「操縦練習生」(略して操練)、「偵察練習生」(略して偵練)の教育を行っていた。
澤柳 大五郎(沢柳 大五郎、さわやなぎ だいごろう、1911… 澤柳 大五郎(沢柳 大五郎、さわやなぎ だいごろう、1911年8月23日 - 1995年11月3日)は、日本の美術史家。東京教育大学名誉教授。 東京生まれ。父は明治・大正期の教育官僚、教育者の澤柳政太郎。 西洋美術研究を開拓した児島喜久雄(東北帝国大学・東京帝国大学教授)の弟子の一人で後継者。 木下杢太郎(太田正雄)の研究・著作画集の編集を行った。新書などを除き歴史的仮名遣いで著訳書を刊行した。 弟子・同僚らによる『アガルマ 澤柳先生古稀記念美術史論文集』(同編集委員会編、同朋舎出版、1982年)がある。 (古田光、藤田健治、木田献一、屋形禎亮、澤柳大五郎、廣川洋一、中野幸次、秀村欣二、兼岩正夫、清水富雄、裾分一弘、下村寅太郎、西沢龍生、永井博による共編著) (澤柳大五郎、関根正雄、村治能就、浅野順一、中野幸次、秀村欣二、兼岩正夫、清水富雄、渡辺金一、下村寅太郎、西沢龍生、藤田健治、永井博による共編著)
林 文雄(はやし ふみお、1911年8月23日 - 2001… 林 文雄(はやし ふみお、1911年8月23日 - 2001年)は、日本の美術評論家。 愛知県出身。東京帝国大学卒業。戦後、日本美術会に所属、共産主義の立場から美術評論を書き、1946年から1948年にかけて土方定一らとの間でいわゆる「リアリズム論争」を展開した。 デジタル版 日本人名大辞典+Plus『林文雄』 - コトバンク
一原 有徳(いちはら ありのり、1910年8月23日 - 2… 一原 有徳(いちはら ありのり、1910年8月23日 - 2010年10月1日)は、北海道小樽市に居住していた版画家。モノタイプ手法を用いた特異な作風で、国際的にも名高い。また、俳人・登山家としても知られる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
富澤 政鑒(とみざわ まさみ 1910年(明治43年)8月2… 富澤 政鑒(とみざわ まさみ 1910年(明治43年)8月23日 - 1980年(昭和55年)2月7日)は、日本の政治家。初代多摩市長である。 1910年に多摩市の連光寺に生まれる。祖父は富澤政賢。 1959年に多摩村の村長になった。 1964年に多摩村の町政執行により、初代町長、唯一の町長になった。 1971年に多摩町の市政執行により、初代市長になった。 聖蹟桜ヶ丘の高級分譲住宅地を中心に住宅都市化を推進した。公団による多摩ニュータウン開発を受け入れた。 1979年に選挙で臼井千秋に敗れ、市長を辞める。 その約1年後の1980年に死去。
古屋 かのえ(ふるや かのえ、1910年8月23日 - 19… 古屋 かのえ(ふるや かのえ、1910年8月23日 - 1993年8月)は、日本の看護教育者。戦後の看護教育の基礎を築くとともに、看護学校の大学化への運動を行った。歌人として八代 かの江の筆名も用いた。 山梨県東八代郡御代咲村(現・笛吹市)に生まれる。両親はともに小学校教員で、父盛治は校長を務めたが結核に罹患し47歳で他界した。 1930年に山梨県女子師範学校本科第一部を卒業し、1930年4月から1934年3月まで山梨県御代咲小学校教員を務める。1934年4月に日本赤十字社中央病院看護婦養成所(甲種)に入学、1937年3月に卒業し、成績優秀により橋本記念賞受賞。同年4月、日本赤十字社山梨支部診療所に勤務。
片桐 顕智(かたぎり あきのり、1909年8月23日 - 1… 片桐 顕智(かたぎり あきのり、1909年8月23日 - 1970年1月29日)は、日本の歌人、日本文学研究者、文筆家。 長野県野沢温泉村豊郷生まれ。新潟県社会教育課勤務の片桐佐太郎の三男。 旧制新潟高等学校卒、1935年東京帝国大学文学部国文科卒。日本放送協会に勤務、編成局社会部長、ラジオ局文芸部長、芸能局次長、1960年総合放送文化研究所所長。1952年に『NHK短歌』を創刊。 1965年退職、1966年跡見学園女子大学教授。 学生時代に歌誌『真人』に参加。落合直文、斎藤茂吉を研究。日本エッセイストクラブ賞選考委員を務めた。
森永 健次郎(もりなが けんじろう、1909年(明治42年)… 森永 健次郎(もりなが けんじろう、1909年(明治42年)8月23日 - 1994年(平成6年)2月11日)は、日本の映画監督である。 1909年(明治42年)8月23日、佐賀県小城郡内の村(現在は多久市域)に生まれる。 1934年(昭和9年)に開所した日活多摩川撮影所に入社し、1936年(昭和11年)には首藤寿久監督の『日蝕は血に染む』に「監督」として名を連ねる。同作は満27歳を目前にした同年7月8日に公開された。1942年(昭和17年)1月、日活の製作部門が他社と合併して大映(大日本映画製作)を形成すると、翌1943年(昭和18年)には、朝鮮映画製作という会社で『昭和19年』という国策映画を監督する。
佐々木 盛雄(ささき もりお、1908年(明治41年)8月2… 佐々木 盛雄(ささき もりお、1908年(明治41年)8月23日 - 2001年(平成13年)8月25日)は、日本の新聞記者・編集者、政治家。 衆議院議員(4期)、内閣官房副長官を歴任した。 兵庫県出身。1932年、東京外国語学校を卒業。報知新聞社に入社し、外信部記者、政治部記者、海外特派員を務めた。戦時中は大本営海軍報道部嘱託、情報局嘱託となる。 終戦後、『自由新聞』を創刊し編集局長となる。その後、報知新聞社渉外部長に就任。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で兵庫県第5区に日本自由党から出馬し当選。以後、第24回、第26回、第28回総選挙で当選し、衆議院議員を通算4期務めた。この間、衆議院厚生委員長、第5次吉田内閣の労働政務次官、1960年7月から同年12月まで第1次池田内閣の内閣官房副長官、日本自由党情報部副部長、民主自由党政調会外務委員長、自由民主党総務、同国会対策副委員長などを歴任。
笹岡 了一(ささおか りょういち、1907年8月23日 - … 笹岡 了一(ささおか りょういち、1907年8月23日 - 1987年6月8日)は、日本の洋画家。本名は秋元 了一(あきもと りょういち)で、結婚後も旧姓で活動していた。妻は画家・詩人の秋元松子、長女(養女)は画家の秋元由美子。
山崎 文男(やまさき ふみお、1907年8月23日 ‐ 19… 山崎 文男(やまさき ふみお、1907年8月23日 ‐ 1981年11月17日)は、日本の原子核物理学者。昭和期の放射線測定の第一人者。日本アイソトープ協会の創設者。理化学研究所において研究に勤めた。 総理府放射線審議会委員、原子力委員会専門委員、原子力安全委員会専門委員、放射線安全技術センター理事長などを歴任した。 1907年(明治40年)8月23日、地理学者の父山崎直方、童話作家の母水田光子の二男として東京に生まれる。 1931年(昭和6年)、東京帝国大学理学部物理学科を卒業する。北海道大学理学部の中谷教室に勤務。 1935年(昭和10年)、理化学研究所で放射線研究を行った仁科研究室に研究生として入室。
山田 肇(やまだ はじめ、1907年8月23日 - 1993… 山田 肇(やまだ はじめ、1907年8月23日 - 1993年8月17日)は、日本の演劇学者、舞台演出家。明治大学名誉教授。 スタニスラフスキーの翻訳で知られ、岸田国士戯曲賞選考委員を発足時から務めた。 東京府東京市牛込区(現:東京都新宿区)に医師の長男として生まれる。1929年に第一高等学校を卒業して、東京帝国大学に進み、1932年に東京帝国大学文学部美学科を卒業した。 大学在学中から心座に関わり、新興劇団協議会書記局員、鏑木清方の長女と結婚、杉山誠と親交を結んだ。1938年から明治大学で西洋演劇を教え、1945年に文芸科兼任教授に就任する。 1946年に新演劇人協会事務局長となる。1947年に木下順二らの「ぶどうの会」に参加。
落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月2… 落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月23日 - 1992年〈平成4年〉8月20日)は、日本の俳優、劇作家、演出家。本名同じ 群馬県高崎市出身。1920年(大正9年)高崎中央尋常高等小学校を卒業後、横浜興信銀行高崎支店に勤務。 1923年(大正12年)/1924年(大正13年)、高崎市郷土芸術社の結成に参加。1932年(昭和7年)、児童演劇運動を開始。1946年(昭和21年)、群馬演劇文化集団を結成。同年、劇団ポポロ座を設立。 1956年(昭和31年)、松竹大船撮影所入社。研究グループ、船の会を設立し、永井秀明、里見孝二とともに幹事役を務める。 映画の制作本数の減少を受けてテレビへの進出を考え、『ここに泉あり』で共演した椎原邦彦の紹介で彼が所属しているグループ・てえぶらにテレビ関係のマネジメントを委託。
木下 常雄(きのした つねお、1904年8月23日 - 19… 木下 常雄(きのした つねお、1904年8月23日 - 1985年8月21日)は、日本の経営者、銀行家。福岡県出身。 1926年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行。1954年4月に大分銀行会長に就任し、1958年4月に頭取、1973年6月に会長を歴任し、1975年5月から1981年6月までに監査役を務めた。 1966年9月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年8月21日気管支拡張のために死去。80歳没。
門脇 源太郎(かどわき げんたろう、明治37年(1904年)… 門脇 源太郎(かどわき げんたろう、明治37年(1904年)8月23日 - 没年不明)は日本の実業家。山陰日日新聞社常務取締役。 鳥取県米子市安倍出身。慶應義塾外国語学校(マライ語)卒業。 昭和4年(1929年)万朝報社記者。昭和7年(1932年)帝都日日新聞関西支社通信部長、昭和10年(1935年)金融経済社創立、社長兼主筆、昭和17年(1942年)まで台湾、朝鮮、満州国へ6回に亘り出張、産業経済事情を視察する。 昭和18年(1943年)陸軍通訳官南方第二方面軍付、昭和23年(1948年)山陰日日新聞社大阪支社長、昭和28年(1953年)取締役に就任、昭和29年(1954年)兼任業務局長、昭和30年(1955年)東京支社長(兼任)を経て昭和31年(1956年)常務取締役兼大阪支社長に就任。
久保田 円次(くぼた えんじ、1903年〈明治36年〉8月2… 久保田 円次(くぼた えんじ、1903年〈明治36年〉8月23日 - 1998年〈平成10年〉2月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(8期)、防衛庁長官、群馬県議会議員、伊勢崎市議会議員・同議長を務めた。群馬県出身。伊勢崎市名誉市民。 1903年(明治36年)、群馬県新田郡笠懸村大字阿左美(現・みどり市笠懸町阿左美)に、和三郎・ひでの三男として生まれる。生家は果樹の栽培などを行う農家だった。兄・茂一郎は後に伊勢崎商工会議所会頭を務めた。 笠懸村尋常高等小学校を経て、1923年(大正12年)栃木県立足利工業学校(現・栃木県立足利工業高等学校)を卒業。同年兄・茂一郎とともに久保田兄弟鉄工所を設立し、副社長に就任。
長谷 長次(はせ ちょうじ、1903年(明治36年)8月23… 長谷 長次(はせ ちょうじ、1903年(明治36年)8月23日 - 1977年(昭和52年)12月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。弁護士。 石川県出身。1926年東京高等工業学校電気化学科卒。司法官試補となり、検察官となる。 1937年の第20回衆議院議員総選挙で石川1区から立候補して当選する。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では非推薦で立候補して落選した。戦後第1回の1946年の第22回衆議院議員総選挙で石川県(全県1区)から立候補したが、次点で落選。翌1947年の第1回北海道知事選挙(1947年北海道庁長官選挙)で無所属で立候補したが落選した。1949年の総選挙と1950年の参院選に北海道から立候補したが、いずれも落選。
楠田 匡介(くすだ きょうすけ、1903年8月23日 - 1… 楠田 匡介(くすだ きょうすけ、1903年8月23日 - 1966年9月23日)は、日本の推理作家、時代小説家。 1903年8月23日、北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)に生まれる。本名は小松保爾(こまつ やすじ)。 高等小学校卒業後、中学校の代用教員や札幌郵便局の電信係を経て、1924年に樺太の恵須取町(現・ウグレゴルスク)に渡り、パルプ工場に勤務。1927年、北海道に戻る。1934年に上京し、さまざまな職業を転々とする。職も30件以上変えた経験があるという。 1938年に結婚し、能率研究所につとめ、明治大学などの講師をつとめる。1943年、千葉県市川市に転居(1941年頃から市川市真間に住んだとする文献もある)。
本多 嘉一郎(ほんだ かいちろう、1903年(明治36年)8… 本多 嘉一郎(ほんだ かいちろう、1903年(明治36年)8月23日 - 1980年(昭和55年)5月15日)は、日本の映画人、地方政治家。第4代調布市長を1962年(昭和37年)から1978年(昭和53年)までの4期16年にわたり務めた。 1903年(明治36年)、大分県(現在の杵築市)に生まれる。 20代の頃の本多は、東亜キネマ京都撮影所(等持院撮影所)の撮影部に在籍し、1930年(昭和5年)久保義郎監督、岡田静江主演の無声映画『一度はすべての女に』の撮影技師などを務めた。 1931年、東亜キネマの経営不振から同社の業務を代行するために発足した東活映画社に移籍した。京都の映画会社である東活映画社が、1932年(昭和7年)に東京地区に撮影所を新設しようとした際、東京へ調査に派遣したのが本多であった。