宮川 一夫(みやがわ かずお、1908年2月25日 - 19… 宮川 一夫(みやがわ かずお、1908年2月25日 - 1999年8月7日)は日本映画界を代表する映画カメラマンである。主に京都太秦、大映映画の時代劇における陰影ある斬新な撮影で稲垣浩、溝口健二や黒澤明らが監督する作品のカメラマンとして世界に知られる。本名:宮川 一雄。 京都市河原町御池生まれ。マキノ雅弘は小学校での同級生。 少年時代、墨絵を習っていて墨汁の白黒だけで色を使わせてもらえない事が不満だったと自伝で明かしているが、それが逆に白黒映画撮影時の表現に役立った。 京都商業学校(現・京都先端科学大学附属高等学校)を卒業後、18歳で日活京都へ現像部助手として入社。約3年程を見習いとして修行する。
大町 文夫(おおまち ふみお、1908年2月25日 - 19… 大町 文夫(おおまち ふみお、1908年2月25日 - 1982年4月14日)は日本の俳優。本名は瀬戸口文夫。 1908年(明治41年)2月25日、熊本県熊本市に生まれる。長崎高等商業学校卒業後、雑誌・新聞記者、専売局勤務を経て、1934年(昭和9年)に村山知義らの新協劇団の結成に参加し、新劇俳優となる。戦後の1947年(昭和22年)、民衆芸術劇場(後の劇団民藝)に入る。戦中から映画にも出演し、独立プロ作品や日活作品に多く出演した。1957年(昭和32年)頃からはテレビドラマにも出演した。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
周藤 吉之(すとう よしゆき、1907年2月25日 - 19… 周藤 吉之(すとう よしゆき、1907年2月25日 - 1990年1月21日)は、日本の中国史学者、東京大学名誉教授。 島根県簸川郡直江村大字下直江(現・出雲市斐川町直江)に生まれる。旧制島根県立商業学校(現・島根県立松江商業高等学校)、旧制松江高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科卒。宋代史の専門家で東京大学東洋文化研究所教授を務め、1956年「中国土地制度史研究」で日本学士院賞受賞、1957年文学部東洋史学科教授、1967年定年退官。
阿部 行蔵(あべ こうぞう、1907年2月25日 - 198… 阿部 行蔵(あべ こうぞう、1907年2月25日 - 1981年4月28日)は、日本の歴史学者(近代思想史、歴史理論)、旧・東京都立大学(現首都大学東京を経て東京都立大学)教授、牧師。平和運動家。政治家、第10代東京都立川市長。 広島県広島市出身。最初、川端画学校の藤島武二に師事したが1928年、賀川豊彦の集会に出席して神学を学ぶことを決意する。神田の中央バプテスト教会(三崎町教会)で中島力三郎からバプテスマ(洗礼)を受ける。 関東学院に入学、神学部に学ぶ。キリスト者学生運動に参加の後、日本戦闘的無神論者同盟に加盟。1933年治安維持法違反容疑で検挙され執行猶予。1937年同志社大学文学部神学科を卒業すると姫路バプテスト教会に赴任する。
山崎 功(やまざき いさお、1907年2月25日 - 198… 山崎 功(やまざき いさお、1907年2月25日 - 1983年6月3日)は、日本のジャーナリスト、イタリア研究者、翻訳家。 石川県金沢市生まれ。1927年東京外国語学校イタリア語科卒後、読売新聞社に入る。ローマ特派員、1942年ローマ大学政治学部卒。欧米部次長、論説委員。
成瀬 正勝(なるせ まさかつ、1906年2月25日 - 19… 成瀬 正勝(なるせ まさかつ、1906年2月25日 - 1973年11月17日)は、日本の作家、文芸評論家、国文学者。筆名は雅川 滉(つねかわ ひろし)。 尾張藩付家老・犬山藩主成瀬正成の末裔で(同名の旗本成瀬正勝は正成の弟)、成瀬家11代当主、華族であった。10代当主・成瀬正雄(1869年9月9日 - 1949年8月23日)の長男。称号(現 学位)は文学士(東京帝国大学)。 東京府東京市麹町区生まれ。1926年、東京帝国大学国文科入学、雅川滉の名で評論を書き始める。1929年卒業。第9次、第10次『新思潮』同人。ついで『文藝都市』、『近代生活』の同人、1930年、新興芸術派の立場から「藝術派宣言」を『新潮』4月に発表した。
菊池 弘泰(きくち こうたい、1906年(明治39年)2月2… 菊池 弘泰(きくち こうたい、1906年(明治39年)2月25日 ‐ 1976年(昭和51年)10月16日)は、日本の昭和期のボクシング功労者。本名は菊池 弘城。財団法人日本ボクシングコミッション(JBC)初代事務局長。世界ボクシング協会(WBA)および世界ボクシング評議会(WBC)の実行委員を務めた。明治大学理事。 1906年(明治39年)、大分県に生まれる。明治大学商学部に進学する。在学中は柔道部に所属。この時、師事した末永節の紹介で早稲田大学柔道部の田邊宗英と知り合う。1931年(昭和6年)、明治大学を卒業。 1935年(昭和10年)、田邊が創刊して社主を務める新橋の国報新聞社に入り、編集局長を務めた。
安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月… 安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵大尉。二・二六事件に関与した皇道派の人物で、軍法会議で首謀者の一人とされ死刑となる。 1905年(明治38年)2月25日、岐阜県揖斐郡揖斐町が本籍、父・栄次郎が石川県立金沢第二中学校の英語教師を在職中(1903年4月 - 1907年8月)に金沢市で三男として生まれる。父はその後慶応普通部の英語教師となる。輝三は宇都宮中学校、仙台陸軍幼年学校、陸士予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校38期を207番/340名で卒業する。同期に二・二六事件の首魁のひとり磯部浅一(元近衛歩兵第4聯隊附、元一等主計)がいた。
鈴樹 忠信(すずき ただのぶ、1905年〈明治38年〉2月2… 鈴樹 忠信(すずき ただのぶ、1905年〈明治38年〉2月25日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。弁護士。台東庁長。 栃木県宇都宮市に生まれる。1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、在学中に高等試験行政科に合格する。同年8月、台湾総督府営林所勤務を拝命し、1931年(昭和6年)5月、台北州淡水郡守に任じた。ついで新竹州警務課長、台北州警務課長、同教育課長、高雄州地方課長、知事官房文書課長兼務、興亜院廈門連絡部在勤、米穀局総務課長を経て、台東庁長に就任した。 戦後、弁護士となり、熊谷、墨田、渋谷、久喜各簡易裁判所判事を経て、1975年(昭和50年)定年退官した。
筑波 藤麿(つくば ふじまろ、1905年〈明治38年〉2月2… 筑波 藤麿(つくば ふじまろ、1905年〈明治38年〉2月25日 - 1978年〈昭和53年〉3月20日)は、日本の元皇族。旧華族。山階宮菊麿王第3王子。靖国神社第五代宮司。位階勲等は従三位勲一等侯爵。皇族時代の名と身位は藤麿王。 1905年(明治38年)2月25日午後10時15分、山階宮菊麿王の第3王子として誕生。御七夜の3月3日に「藤麿」と命名された。 1925年(大正14年)2月25日、皇族として貴族院議員に就任。同年3月23日勲一等旭日桐花大綬章受章。 皇族男子として初めて皇族軍人としての義務を免除され、東京帝国大学国史学科で黒板勝美に師事する。義務を免除された理由は、明治天皇により、将来、伊勢の神宮の祭主となることが定められていたためとされる。
萬田 五郎(まんだ ごろう、1905年(明治38年)2月25… 萬田 五郎(まんだ ごろう、1905年(明治38年)2月25日 - 1994年(平成6年)5月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、日立市長(3期)。 秋田県出身。1929年東京帝国大学英法科卒。日立製作所に入り、日立工場に勤務する。同工場労務係長、庶務課長を経て1943年総務部長に就任する。この間1939年に日立市議に選出された。1947年4月の第23回衆議院議員総選挙に日本社会党から立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた後、日立電鉄専務取締役を経て、社長に就任した。1963年日立市長に就任、3期務め、1975年に引退した。1994年死去。死去後日立名誉市民に選ばれた。
和久田 鐵雄(わくだ てつお、1904年(明治37年)2月2… 和久田 鐵雄(わくだ てつお、1904年(明治37年)2月25日 - 1990年(平成2年)4月26日)は、日本の内務・警察官僚、簡易裁判所判事、弁護士。最後の官選大分県知事。 静岡県出身。和久田半蔵の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1928年(昭和3年)京都帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し、1929年(昭和4年)新潟県警部となる。 以後、警視庁課長、警察講習所教授、岩手県経済部長、企画院第四部第一課長、宮城県部長・経済部長、広島県内務部長などを歴任。 1947年(昭和22年)3月、前任の細田徳寿が知事選に出馬のため辞任したことに伴い大分県知事に発令された。
窪川 鶴次郎(くぼかわ つるじろう、1903年2月25日 -… 窪川 鶴次郎(くぼかわ つるじろう、1903年2月25日 - 1974年6月15日)は、日本の文芸評論家。 静岡県菊川市出身。掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)から金沢の第四高等学校に進学し、中野重治と知り合う。そのために、理系ではあったが文学に熱中するようになる。文学への欲求のために高校を中退して上京し、貯金局に勤務する。大学進学のために上京した中野と再び文学活動をはじめ、堀辰雄たちも含めて同人誌『驢馬』のメンバーとなる。 そのころ知り合った佐多稲子と1927年に結婚。稲子は彼や中野のすすめで小説「キャラメル工場から」を発表し、小説家窪川稲子としてプロレタリア文学の新進作家として登場するが、鶴次郎はなかなか日の目を見なかった。
吉武 恵市(吉武 惠市、よしたけ えいち、1903年2月25… 吉武 恵市(吉武 惠市、よしたけ えいち、1903年2月25日 – 1988年2月3日)は、昭和期の政治家、官僚。衆議院議員(3期)、参議院議員(3期)、労働大臣(第6代)、厚生大臣(第21代)、自治大臣(第8-9代)、富山県知事(官選第32代)。 山口県萩市に生まれる。萩中学、旧制五高を経て、1928年東京帝国大学法学部政治学科を卒業、内務省に入省する。東京府属。京都府保安課長、東京都官房人事課長を経て、1945年官選富山県知事となる。この間、労働問題について勉強を重ね、戦後はその努力を買われて1946年厚生省労政部長、1947年労働省初代事務次官となる。 1949年、第24回衆議院議員総選挙に民主自由党から旧山口1区(定数4)にて立候補し初当選。
小松崎 軍次(こまつざき ぐんじ、1903年〈明治36年〉2… 小松崎 軍次(こまつざき ぐんじ、1903年〈明治36年〉2月25日 - 1995年〈平成7年〉4月30日)は日本の政治家。東京都江東区長(6期)を務めた。 茨城県稲敷郡古渡村堀之内(現:稲敷市堀之内)に生まれる。1909年4月、古渡尋常高等小学校(現:稲敷市立古渡小学校)に入学する。学業優秀で、卒業時に当時の稲敷郡長だった安井誠一郎から郡長賞として硯箱を授与されている。その後、高等科に進学しそこでも再び郡長賞を授与されている。1918年4月、江戸崎農学校2年次に編入学した。しかし、同年7月末に義兄を頼って東京府東京市小石川区小石川掃除町(現:東京都文京区小石川1・3丁目と白山1丁目)に飛び出して、正則英語学校(現:正則学園高等学校)に入ったが、半年後に病気と父の諫言によって帰省した。
平等 通昭(びょうどう つうしょう、1903年2月25日 -… 平等 通昭(びょうどう つうしょう、1903年2月25日 - 1993年9月20日)は、浄土真宗の僧、仏教研究者。 神奈川県横浜市出身。別名・都筑照雄、平等通照。浄土真宗本願寺派善教寺の継嗣。本名・通照(みちてる)、得度して通昭だが、双方を用いた。 早稲田高等学院を経て、1926年東京帝国大学文学部梵文学科卒。自寺に印度学研究所を設け著述刊行した。1929年善教寺住職となり、1962年新羽幼稚園を設立、園長となる。なお、1947年と1951年の横浜市議会議員選挙(港北区選挙区)に日本社会党公認で立候補し落選している。
杉山 善太郎(すぎやま ぜんたろう、1903年(明治36年)… 杉山 善太郎(すぎやま ぜんたろう、1903年(明治36年)2月25日 - 1988年(昭和63年)2月21日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 愛知県幡豆郡、のちの吉良町(現西尾市)で生まれる。1924年(大正13年)日本大学工学科を卒業した。 日本海員組合組織部員を経て、1945年(昭和20年)全日本海員組合の結成に加わり中央執行委員に就任。1946年(昭和21年)日本社会党に入党。1953年(昭和28年)新潟県労働組合協議会が結成されると議長に就任し9期在任した。 1962年(昭和37年)の参院選に新潟県地方区から社会党公認で出馬して初当選。任期満了に伴う1968年(昭和43年)の参院選には出馬を見送り、2年後の新潟県知事選に立候補するが現職の亘四郎に敗れる。
中尾 純利(なかお すみとし、1903年2月25日 - 19… 中尾 純利(なかお すみとし、1903年2月25日 - 1960年4月26日)は日本のパイロットである。1939年(昭和14年)8月、世界一周親善飛行を行った純国産機、「ニッポン号」の機長を務めた。 1903年(明治36年)、鹿児島県出水郡阿久根村(後の阿久根市)に生まれた。選抜試験に合格し航空局委託操縦生の第一期生として1921年(大正10年)1月に所沢陸軍飛行学校へ入学。同年9月に首席で卒業すると、三菱重工業のテストパイロットとなった。1928年(昭和3年)には日本陸軍の次期戦闘機の競争試作に応募した陸軍三菱隼型試作戦闘機(1MF2)を操縦し、所沢飛行場での試験飛行で急降下中にパラソル翼が機体から外れ、中尾はパラシュートを使って脱出した。
正田 建次郎(しょうだ けんじろう、1902年〈明治35年〉… 正田 建次郎(しょうだ けんじろう、1902年〈明治35年〉2月25日 - 1977年〈昭和52年〉3月20日)は、日本の数学者(代数学)。第6代大阪大学総長、武蔵大学学長、初代大阪大学基礎工学部長。群馬県邑楽郡館林町(現・群馬県館林市)出身。勲一等瑞宝章、文化勲章受章。 1902年(明治35年)、群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に、日清製粉創業者・正田貞一郎の次男として生まれる。小日向台町小学校を経て、1919年(大正8年)に東京府立第四中学校を卒業。1922年(大正11年)に旧制第八高等学校卒業して東京帝国大学理学部数学科に進学し、1925年(大正14年)3月卒業。大学院で高木貞治の指導を受けた。
中野 佐三(なかの すけぞう、1902年(明治35年)2月2… 中野 佐三(なかの すけぞう、1902年(明治35年)2月25日 - 1969年(昭和44年)8月22日)は、日本の心理学者。香川県出身。東京文理科大学卒業。戦後、東京教育大学教授、1954年「児童の思考についての実験的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。1965年定年退官、名誉教授、和洋女子大学教授。児童心理学、教育心理学。
石川 与吉(いしかわ よきち、1902年2月25日 - 19… 石川 与吉(いしかわ よきち、1902年2月25日 - 1984年6月4日)は、日本の地理学者。旧姓では三野 与吉(みの よきち)。東京教育大学名誉教授。日本地理学会会長(1964年 - 1965年)。理学博士(東京大学)。 地形学・水文学などを研究しつつ、地理学・地理教育のあり方を論じた指導的自然地理学者である。地形学など自然地理学の分野に多くの研究者を輩出し、東京教育大学では地形営力論を中心とした学風が作られ、「三野スクール」と呼ばれていた。 香川県三豊郡桑山村(現・三豊市)の三野家に農家として生まれる。3歳のとき、同郡常磐村(現・観音寺市)に一家転住した後、常磐村尋常小学校(現・観音寺市立常磐小学校)と、辻村高等小学校(現・三豊市立辻小学校)を卒業する。
大野 操一郎(おおの そういちろう、1901年(明治34年)… 大野 操一郎(おおの そういちろう、1901年(明治34年)2月25日 - 1995年(平成7年)4月23日)は、日本の剣道家。段位は範士九段。雅号は雲外。国士舘大学の初代剣道部長。 島根県玉造村(現在の松江市)で代々村医をしている家の次男として生まれた。父は福間寛平、母はフサ。後年、大野藤吉・エイの養子となり大野姓となった。幼い頃から体格に恵まれ、運動神経は抜群であった。県立松江中学校で教師の芦田長一(俳優・芦田伸介の父)に剣道の手解きをうけ、持ち前の高い運動能力で頭角をあらわし、2年生で主将の腕前があると芦田にその素質を賞賛されたという。 1922年(大正11年)、東京高等師範学校(現在の筑波大学)体操科(剣道専攻)に入学。
有馬 知機(ありま ちき / ともき、1901年2月25日 … 有馬 知機(ありま ちき / ともき、1901年2月25日 - 1970年12月11日)は、日本の経営者。共栄火災海上保険社長、日本損害保険協会副会長を務めた。 鹿児島県日置郡伊集院町(後の日置市の一部)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1924年3月に旧制山口高等学校文科乙類を卒業。旧制山口高校以来の友人に武安千春(日本セメント社長、会長、相談役)がいる。1927年3月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。 1927年4月、信託株式会社大信社へ入社。1930年3月に大信社を退職して、4月に共同火災保険株式会社へ入社。福岡支店長、関東営業部参事兼本店企画部参事、外国部長などを歴任。
室谷 賢治郎(むろや けんじろう、1900年2月25日 - … 室谷 賢治郎(むろや けんじろう、1900年2月25日 - 1975年)、日本の経営学者。専門は商学、中小企業の経営について研究。小樽商科大学名誉教授。札幌短期大学学長、札幌商科大学初代学長、亜細亜大学教授などを務めた。
早稲田 柳右衛門(早稻田 柳右エ門、わせだ りゅうえもん、1… 早稲田 柳右衛門(早稻田 柳右エ門、わせだ りゅうえもん、1900年2月25日 - 1984年4月15日)は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(12期)を歴任した。 愛知県小牧市出身。享栄商業学校卒業。1929年、瀬戸市会議員となる。 1946年、第22回衆議院議員総選挙に愛知県第1区から日本進歩党公認で立候補し初当選。1947年、第23回衆議院議員総選挙に旧愛知2区から民主党公認で立候補し再選。 1954年、保全経済会の顧問に就任していたため、保全経済会事件に関して、衆議院議員の平野力三、東洋大学教授の松本信次とともに証人喚問される。 1955年、第2次鳩山一郎内閣郵政政務次官。1960年、自民党愛知県連の初代会長に就任。
久安 博忠(ひさやす ひろただ、1900年〈明治33年〉2月… 久安 博忠(ひさやす ひろただ、1900年〈明治33年〉2月25日 - 1981年〈昭和56年〉9月4日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選秋田県知事。岡山県岡山市出身。 岡山県吉備郡大井村(現:岡山市)出身。久安平治郎の二男として生まれる。その後、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、第六高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し社会局属となる。 以後、地方警視として島根県警察部・神奈川県警察部・長崎県警察部・兵庫県警察部各勤務、警視庁警視として総監官房・特別高等部各勤務、宮城県書記官・学務部長、栃木県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、宮城県内政部長などを歴任。
柏原 義則(かしはら よしのり、1900年(明治33年)2月… 柏原 義則(かしはら よしのり、1900年(明治33年)2月25日 - 1971年(昭和46年)4月30日)は、日本の政治家、宗教家。衆議院議員(3期)。位階は正五位。 徳島市幟町に生まれる。徳島県立徳島中学校、第六高等学校卒業後、京都帝国大学文学部社会学科へ進学し卒業。 大学卒業後は天理教が中心となって設置した奈良県の天理中学校に奉職し校長まで務め、後に徳島に戻り天理教徳島教区長・天理教名東大教会長を歴任した。 1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選し、1952年(昭和27年)まで3期を務めた。1949年(昭和24年)には第3次吉田内閣で文部政務次官を務めた。 1970年(昭和45年)、春の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。
大塚 敬節(おおつか けいせつ、おおつか よしのり、明治33… 大塚 敬節(おおつか けいせつ、おおつか よしのり、明治33年〈1900年〉2月25日 - 昭和55年〈1980年〉10月15日)とは、昭和期の漢方復権に尽力した代表的な日本の医師。東洋医学の発展に貢献した業績により1978年に日本医師会より最高優功賞を日本で初めて受賞。号は敬節(けいせつ)。 大塚敬節は、明治33年(1900年)2月25日、高知県高知市に産まれる。大塚家は、同市追手筋1番地の産婦人科・大塚修琴堂医院であり、曽祖父の希斎、その養子(希斎の兄の子)で祖父の恭斎、父の恵遮とも医師であった。敬節は、西洋医学が嫌いであったため、中学卒業後はじめは医師を目指さず、高知の高等工業学校の採鉱冶金科に進学した。
高野 一夫(たかの かずお、1900年〈明治33年〉2月25… 高野 一夫(たかの かずお、1900年〈明治33年〉2月25日 - 1980年〈昭和55年〉2月23日)は、日本の薬学者、政治家。参議院議員(2期)、薬学博士。 鹿児島県肝属郡垂水村(後の垂水町、垂水市)出身。勝目家の二男として生まれ、鉱業家の高野今彦の養子となる。小学校を卒業後に上京し、旧制東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)、旧制第一高等学校で学ぶ。1924年(大正13年)東京帝国大学医学部薬学科を卒業した。 満洲稲畑産業専務、海南薬品工業社長、高野薬品社長、九州大学講師、徳島大学講師などを務めた。 1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から自由党所属で出馬して当選。
衣巻 省三(きぬまき せいぞう、1900年(明治33年)2月… 衣巻 省三(きぬまき せいぞう、1900年(明治33年)2月25日 - 1978年(昭和53年)8月14日)は、日本の作家である。 兵庫県朝来郡生まれ。とても裕福な家庭に育った。早稲田大学英文科中退。神戸時代に稲垣足穂と共に佐藤春夫に師事し大正末から文学活動を始め、詩や小説を発表。一時、東京・馬込付近に居住し(馬込文士村)、ダンスパーティーを開いて知人の文士たちと交わった。1935年に「けしかけられた男」で、第一回芥川賞の候補になる。 第二次世界大戦の戦火で自宅を失う。戦後は足穂を追って京都へ移ったが寡作となり、主に同人誌で随筆を発表した。 1978年8月14日、食道がんのため神奈川県横浜市戸塚区の三和病院にて死去。
薄井 己亥(うすい きがい、1899年(明治32年)2月25… 薄井 己亥(うすい きがい、1899年(明治32年)2月25日(旧暦) - 没年不明)は、昭和時代後期にかけて活動した郷土史家、歴史研究家、水戸史学会顧問。 茨城県那珂郡木崎村(のち那珂町、現那珂市)に生まれる。高等小学校卒業後、寺子屋で学ぶ。1918年(大正7年)頃上京し、正則英語学校で学ぶ。1919年(大正8年)仙台第一中学校(現宮城県仙台第一高等学校)の検定試験に合格する。合格後は開校したばかりの水戸高等学校に入学し、1年留年するが、1924年(大正13年)に卒業する。同年東京帝国大学法学部に入学。東大では上杉慎吉と美濃部達吉から憲法学を学ぶ。1927年(昭和2年)に卒業する。卒業後は大阪商船の内定を受けるが辞退する。
高垣 善一(たかがき ぜんいち、1898年〈明治31年〉2月… 高垣 善一(たかがき ぜんいち、1898年〈明治31年〉2月25日 - 1966年〈昭和41年〉5月31日)は、日本の政治家。長男は元和歌山市議会議員の高垣弼。曾孫はテレビ朝日アナウンサーの島本真衣[要出典]。 1898年(明治31年)2月25日、和歌山県有田郡田殿村(現在の有田川町)で高垣紋之助の長男として生まれる。父が事業に失敗したため、1912年(明治45年)から地元の郵便局に勤務し、新宮郵便局、和歌山郵便局を経て、大阪中央電話局に転任した。1916年(大正5年)、退職して南海鉄道に入社したが、1918年(大正7年)には鉄道院に転職した。 1925年(大正14年)からは和歌山市三番丁の中村愛三郎法律事務所に勤め、関西大学で法律学や政治学について学んだ。
宮田 又三郎(みやた またさぶろう、1898年2月25日 -… 宮田 又三郎(みやた またさぶろう、1898年2月25日 - 1985年8月9日)は、日本の実業家で、西日本鉄道社長を務めた。 佐賀県佐賀市出身。1920年に長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)を卒業し、東邦電力(現・九州電力)での勤務を経て、西日本鉄道の前身である福博電車に入社した。 旧帝国大学出身者が学閥を組んで経営の中心となっていた西鉄の中で、高商卒の宮田はまさに「叩き上げ」で出世していく。常任監査役、常務、専務を経て、1960年から1963年11月までに社長を務めた。在任中に西鉄ライオンズのオーナーも務めた。 西鉄不動産、筑豊電気鉄道、大分交通、テレビ西日本、福岡スポーツセンターなどの各取締役を歴任した。
内藤 克俊(ないとう かつとし、1895年〈明治28年〉2月… 内藤 克俊(ないとう かつとし、1895年〈明治28年〉2月25日 - 1969年〈昭和44年〉9月27日)は、広島県広島市本川町(後の中区本川町)出身のレスリング選手。柔道家で最終位は七段。1924年パリオリンピックで、日本唯一のメダルを獲得(銅メダル)し、日本レスリングの始祖となる。これが、日本がその後レスリングが「お家芸」と称されるようになる歴史の第一歩となった。 生後半年で陸軍将校の父を亡くす。陸軍関係の子女が通う広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)入学後に母も急逝、台湾に嫁いだ長姉を頼って海を渡る。寂しがり屋の内藤に、姉は柔道を習わせた。台北一中(のちの建国中学)に進み、柔道に精を出し在台湾中に初段を獲る。
八木 幸吉(やぎ こうきち、1895年(明治28年)2月25… 八木 幸吉(やぎ こうきち、1895年(明治28年)2月25日 - 1976年(昭和51年)7月26日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。 大阪府大阪市出身。八木商店創業者八木与三郎の二男として生まれる。1917年(大正6年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 鐘淵紡績(のちカネボウ)に入社し、営業部蚕業課長、兵庫工場長などを歴任。武藤山治の秘書となり、1919年(大正8年)ワシントンで開催の第1回国際労働会議に傭主側代表となった武藤に父の与三郎とともに随行して出席した。1921年(大正10年)武藤の次女二三子と結婚。 実業同志会理事に就任し、1930年(昭和5年)2月の第17回衆議院議員総選挙で兵庫県第3区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
白仁 宝一(しらに ほういち、1895年(明治28年)2月2… 白仁 宝一(しらに ほういち、1895年(明治28年)2月25日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 佐賀県佐賀郡春日村大字尼寺(大和村、大和町を経て現佐賀市)に生まれる。1927年(昭和2年)3月、早稲田大学法学部を卒業し、1929年(昭和4年)7月、渡台し台湾総督府税関監吏を拝命する。同年10月、高等試験行政科に合格。府税関監視・台北支署兼監視部勤務となり、1930年(昭和5年)11月には高等試験司法科に合格した。1931年(昭和6年)7月、台南州属に転じ、同州勧業課長を経て、1935年(昭和10年)3月、同州北門郡守に就任。その後、台中州勧業課長、新竹州警察部長を経て、陸軍司政官に任じた。
高橋 啓(たかはし けい、1895年(明治28年)2月25日… 高橋 啓(たかはし けい、1895年(明治28年)2月25日 - 1968年(昭和43年)5月22日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。 宮城県出身。1920年早稲田大学専門部法律科卒。拓北産業社長、宮城県林業会長、日本林業会理事などを歴任する。1947年の第1回参議院議員通常選挙において宮城地方区から民主党公認で立候補して当選。参議院通商産業委員長となる。1950年の参院選で落選。1968年5月22日死去、73歳。死没日をもって勲四等旭日小綬章追贈、従五位に叙される。
羅 容均(ナ・ヨンギュン、朝鮮語: 나용균、1895年2月2… 羅 容均(ナ・ヨンギュン、朝鮮語: 나용균、1895年2月25日または1895年11月25日または1896年1月8日 - 1984年7月6日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。制憲・第4・5・6代韓国国会議員、第6代保健社会部長官、第6代国会副議長を歴任した。 本貫は羅州羅氏。号は白峰。金大中の側近で外交官・元駐日大使の羅鍾一は四男、順天郷大学校名誉教授の羅鍾億(朝鮮語版)は六男。2人以外に次男と三男も政治学者である。 全羅北道井邑またはソウル鍾路区出身。早稲田大学政治科卒(または政経学部中退)。早大在学中に白寛洙・金度演ら朝鮮人留学生と共に二・八独立宣言の発表を主導し、三・一運動に関わり逮捕・投獄された後、渡中し大韓民国臨時政府議政院議員に選ばれ、臨時議院法制委員・政務調査特別委員・政治分科委員、上海海内外国民大会準備委員を務めた。
加藤 勘十(かとう かんじゅう、1892年(明治25年)2月… 加藤 勘十(かとう かんじゅう、1892年(明治25年)2月25日 - 1978年(昭和53年)9月27日)は、昭和期の政治家、労働運動家。衆議院議員(7期、日本社会党)、労働大臣(第2代)。碧水、率とも称した。 戦前の労働運動で活躍し、「火の玉勘十」の異名を取った闘士型の運動家。立憲民政党、国民同盟の衆議院議員を務めた加藤鯛一は実兄。婦人運動家、政治家の加藤シヅエは、夫人で「おしどり議員」として知られた。息子は加藤宣幸、娘は加藤タキ(多喜子)。 1892年(明治25年)2月25日に、愛知県丹羽郡岩倉村(現在の岩倉市)で生まれる。 日本中学などを経て、日本大学法学部中退。 当初は国家主義者として出発し、1918年(大正7年)シベリア出兵に参加するが、戦争の悲惨さを体験して、反戦・労働運動に転向した。
原田 永之助(はらだ えいのすけ、1892年2月25日 - … 原田 永之助(はらだ えいのすけ、1892年2月25日 - 1946年12月20日)は、日本の眼科医。後にVogt-Koyanagi-Harada 病と統一した名前になる疾患を1926年に原著として発表した。 1892年2月25日、熊本県天草郡(現・天草市御領)に生まれた。父親は裁判所書記であった。その後球磨郡多良木で、さらにその後天草市本渡で育つ。学校教育は熊本(県立中学濟々黌、第五高等学校)を経て1913年東京帝国大学医学部に入学。学生時に陸軍省依託学生となる。1917年卒業。最初は陸軍軍医その後内科を選び駒込病院などに勤務。結婚相手の父親が長崎の眼科開業医原満里であったので、東京大学眼科に転向した(1922年1月)。
小倉 尚(おぐら ひさし、1892年(明治25年)2月25日… 小倉 尚(おぐら ひさし、1892年(明治25年)2月25日 - 1943年(昭和18年)9月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。1913年(大正2年)5月26日に陸軍士官学校(25期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第一大隊付となる。1916年(大正5年)11月30日に陸軍砲工学校(22期)高等科を卒業し、更に員外学生として在学。1917年(大正6年)8月6日に工兵中尉に昇進、1920年(大正9年)7月10日には東京帝国大学工学部建築学科を卒業した。 1922年(大正11年)8月15日に工兵大尉に昇進し陸軍工兵学校教官、陸軍技術本部部員等を経て、1928年(昭和3年)8月10日工兵少佐に昇進後、陸軍省兵器局課員等を経て、1932年(昭和7年)8月8日工兵中佐に昇進。
中部 兼市(なかべ かねいち、1892年2月25日 - 19… 中部 兼市(なかべ かねいち、1892年2月25日 - 1953年3月25日)は、日本の経営者で、プロ野球チーム・大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の初代オーナーも務めた。 兵庫県明石市出身。中部幾次郎の長男で、弟には中部謙吉、中部利三郎。1924年9月に林兼商店専務を務め、1945年12月に大洋漁業社長に就任。1947年8月に公職追放を受け、いったん辞任し、1950年10月に社長に復帰。 1941年に水産功労者の表彰を受ける。 1953年3月25日在職中に胃潰瘍のために山口県下関市の自宅で死去。61歳没。
志摩清英(しま きよひで 1890年(明治23年)2月25日… 志摩清英(しま きよひで 1890年(明治23年)2月25日 - 1973年(昭和48年)11月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
西岡 瑞穂(にしおか みずほ、1888年2月25日 - 19… 西岡 瑞穂(にしおか みずほ、1888年2月25日 - 1973年12月8日)は、日本の洋画家。 高知県安芸郡安田村(現・安田町)出身。高知県立第三中学校(現・高知県立安芸中学校・高等学校)、一年間の小学校代用教員を経て、1912年東京美術学校(現・東京芸術大学)図画師範科卒業。鹿児島県内の中学校教諭を経て、1913年長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)教諭。教え子に彫刻家清水多嘉示、洋画家高橋貞一郎がいる。長野県立諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)教諭。1919年長野県立野沢中学校(現・長野県野沢北高等学校)教諭。1920年旅順高等女学校教諭。1925年フランスへ留学。
若山 治(わかやま おさむ、1886年2月25日 - 没年不… 若山 治(わかやま おさむ、1886年2月25日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名同じ。雅号を若山 南柯(わかやま なんか)とする。監督作はいっさい現存していないが、溝口健二の映画界入りのきっかけとなり、師となったことで名を残す。 1886年(明治19年)2月25日、栃木県足利郡足利町(現在の同県足利市)に生まれる。 最終学歴は旧制中学校卒業である。卒業後、薬局に勤務したり、弁護士の書生を務めたり、俳諧師の門下に入ったりといった経歴を経て、1919年(大正8年)6月、満33歳のときに日活向島撮影所に入社する。翌1920年(大正9年)には監督に昇進し、同年9月18日に公開された『罪の影』が、記録残るもっとも古い監督作である。
寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 19… 寺本 武治(てらもと たけじ、1884年2月25日 - 1958年12月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 島根県出身。神戸一中を経て、1905年(明治38年)11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年(明治39年)12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍砲術学校高等科で学ぶ。1911年(明治44年)12月、「筑波」分隊長となり、「三笠」「周防」の各分隊長、砲術学校教官兼分隊長兼海軍機関学校教官、「橋立」分隊長兼砲術学校教官などを経て、1917年(大正6年)11月、海大(甲種15期)を卒業した。 1917年12月、海軍少佐に昇進し海軍省人事局局員(第1課)に就任。1920年(大正9年)12月、「伊勢」砲術長となり、軍令部参謀兼サガレン州派遣軍司令部付に転じ、1921年(大正10年)12月、海軍中佐に進級。
山川 章太郎(やまかわ しょうたろう、1884年(明治17年… 山川 章太郎(やまかわ しょうたろう、1884年(明治17年)2月25日 - 1941年(昭和16年)2月4日)は、内科学者。位階および勲等は正三位・勲二等瑞宝章。専門は糖質代謝、消化器。ぶどう糖、脂肪の非経口的栄養(静脈内投与)の創始者、特に脂肪乳剤ヤノールの臨床応用が重要。 長男は山川邦夫(順天堂大学医学部教授)。次男は山川民夫(東京大学名誉教授)。孫は大熊由紀子(科学ジャーナリスト)。 香川県高松市に、山川慎蔵(儒者、和算家)の長男として生まれる。祖父の山川孫水も大坂出身の儒者および和算家で、私塾を開いたのち高松藩の郷校の校長を務めている。 米国留学中、野口英世の協力を得て、血清プロテアーゼの研究を行った(追悼録)。
橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月… 橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月25日 - 1954年(昭和29年)1月19日)は、国文学者。 東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座)生まれ。児島喜三郎の五男。橘守部直系の家へ養子に入る。第二高等学校、1909年東京帝国大学文学部国文科卒。同助手、13年府立第五中学校教諭、21年『橘守部全集』を編集刊行。25年退職、各学校講師をしながら著述生活。36年国語解釈学会を創立、雑誌『国語解釈』を創刊。41年陸軍士官学校教官、50年跡見学園短期大学教授。没後、二松学舎大学名誉教授の称号を追贈。 1938年、小学校教科書に掲載された『源氏物語』について、不敬の書であるから削除すべしと主張した。
安井 武雄(やすい たけお、1884年2月25日 - 195… 安井 武雄(やすい たけお、1884年2月25日 - 1955年5月23日)は、大阪を中心に活躍した日本の建築家。昭和初期のモダニズム建築を代表する建築として名高い大阪ガスビルディングなどを設計したことで知られる。
土屋 興(つちや おき、1883年〈明治16年〉2月25日 … 土屋 興(つちや おき、1883年〈明治16年〉2月25日 - 1927年〈昭和2年〉12月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 静岡県駿東郡、のちの沼津町(現沼津市)出身。1910年、慶應義塾大学政治科卒。卒業後はイギリスに留学し、1914年、ロンドン大学政治経済科卒。大阪毎日新聞に入り、記者となる。その後、東洋加工紙、富士護謨工業、富士川製紙、関東紡績各(株)取締役、富士薬品工業(株)監査役、土屋(資)代表社員、荏原郡議、大崎町(現・品川区)議となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において東京13区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して再選した。