津下 健哉(つげ けんや、1921年11月25日 - 201… 津下 健哉(つげ けんや、1921年11月25日 - 2016年5月1日)は、日本の医学者(整形外科)。学位は医学博士。広島大学医学部名誉教授。 岡山大学医学部助教授、広島大学医学部教授、広島手の外科・微小外科研究所所長などを歴任した。 岡山県出身。岡山県にて多くの医師を輩出した津下一族の生まれである。 津下も医学の道を志し、岡山医科大学を卒業した。その後、岡山医科大学が岡山大学医学部に改組されると、同学部にて助教授に就任し、整形外科を専門に担当する。のちに広島大学に転じ、医学部の教授を務めた。 退官後は、あかね会が設立した広島手の外科・微小外科研究所にて所長に就任した。 1949年、岡山大学医学博士。
瀬野 栄次郎(榮次郎、せの えいじろう、1921年11月25… 瀬野 栄次郎(榮次郎、せの えいじろう、1921年11月25日 - 2011年3月1日)は、公明党衆議院議員(4期)。公明党中央執行委員。 鹿児島県日置郡日吉町(現・日置市)生まれ。1939年、熊本県立球磨農業学校(現・熊本県立南稜高等学校)本科卒業。営林署技師、大日本帝国陸軍航空兵中尉を務めた。1959年の熊本市議会議員選挙に無所属で立候補して当選した。当選後は会派「創価学会」に所属した。1963年、熊本県議会議員選挙に熊本市から公明政治連盟所属で立候補し、同連盟として初めての議席を獲得した。1967年の県議選は公明党から立候補して再選を果たした。1969年12月5日付で県議を辞職した。同年の第32回衆議院議員総選挙で熊本1区に公明党から出馬し、初当選。
宇治 達郎(うじ たつろう、1919年11月25日 - 19… 宇治 達郎(うじ たつろう、1919年11月25日 - 1980年11月27日)は、日本の医師。胃カメラの開発者の1人。 長野県上伊那郡小野村(現在の辰野町小野)出身。その後、埼玉県の大宮に移り、浦和中学、浦和高校、東京帝国大学医学部に進学し、1943年に卒業した。 卒業後、東京大学附属病院分院の外科に勤務が決まっていたが、軍医候補生として召集され中国に従軍した(第58師団司令部に所属した)。1946年に復員し、外科副手となった。1948年に林田健男助教授のもとで胃カメラの開発に着手し、オリンパス光学工業の技師であった杉浦睦夫と深海正治と共同で1950年に胃カメラを世界で初めて完成させた。1950年に医学博士を取得した。
赤澤 璋一(あかざわ しょういち、1919年11月25日 -… 赤澤 璋一(あかざわ しょういち、1919年11月25日 - 2002年9月29日)は、日本の通産官僚。日本貿易振興会(ジェトロ)第6代理事長。 戦後初の国産旅客機YS-11の生みの親と言われる。1969年通商産業省重工業局長を退官後、1973年富士通入社、同社専務、1976年同社副社長、1981年同社副会長を歴任。1989年同社を退任。1983年9月~1989年12月の期間に日本貿易振興会理事長を務める。学位は法学士。称号は米国コロラド州名誉州民。 岡山県玉島(現:倉敷市)出身。大阪高等学校卒業。1941年12月 東京帝国大学法学部卒業(繰上げ卒業)。1942年1月7日、商工省入省。同期入省で両角良彦(元通産省事務次官)、原田明(元通産省通商局長)らがいる。
牧 圭次(まき けいじ、1919年11月25日 - 2012… 牧 圭次(まき けいじ、1919年11月25日 - 2012年2月26日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。宮城県出身。 1941年(昭和16年)に東京帝国大学法学部を卒業。1942年(昭和17年)1月に司法官試補となるも、同年2月に現役兵として入隊。復員後は裁判官生活に入り、東京地方裁判所や函館地方裁判所などで裁判を経験後、最高裁人事局勤務、刑事局長、千葉地方裁判所所長、東京高等裁判所判事、最高裁事務総長などを歴任した。 東京地裁時代には東大安田講堂事件を担当した際には1969年(昭和44年)6月に騒ぐ被告たちを機動隊を入れて排除し、9人を5日間の監置処分にし、統一公判要求をする弁護側と3時間の論議を行い、8月には弁護団、被告たちに退廷命令を出し、1970年(昭和45年)5月には弁護士1人を15日間の監置処分にするなど果敢な法廷指揮をとった。
宗川 信夫(むねかわ のぶお、1918年11月25日 - 2… 宗川 信夫(むねかわ のぶお、1918年11月25日 - 2005年12月17日)は、日本の映画撮影監督。 山形県出身。麻布獣医専門学校(現麻布大学)卒業後、1939年日活多摩川撮影所に撮影助手として入社。 1953年大映作品「落花の門」で撮影監督デビュー。以降、「しとやかな獣」、「白い巨塔」、「大怪獣ガメラ」等、大映の話題作ヒット作の撮影を手掛けた。1972年からフリー。 ジャーマンシェパード犬の愛好家で、撮影を担当した1957年映画「名犬物語 吠えろシェーン」、1959年フジテレビ開局記念ドラマ「少年ジェット」に出演したシェーンは自身の愛犬シェーン・D・グランプリ号。「少年ジェット」の第一部・黒い影篇5〜8話では監督と撮影を兼任した。
寺田 登(てらだ のぼる、1917年(大正6年)11月25日… 寺田 登(てらだ のぼる、1917年(大正6年)11月25日 - 1986年(昭和61年)9月26日)は、日本の水泳選手。静岡県磐田郡福島村中島(現磐田市福田中島)出身。慶應義塾大学出身。1936年ベルリンオリンピック1500m自由形で金メダルを獲得した。 静岡見付中(現在の静岡県立磐田南高等学校)から慶應義塾大学に進学。1936年ベルリンオリンピック競泳男子1500m自由形に出場し金メダルを獲得した。引退後は慶應義塾大学水泳部監督などの要職を歴任した。なお、結婚後は伊藤姓を名乗った。1986年、68歳で没した。 水泳選手には珍しい、筋肉質のずんぐりした体形であった。小学校時代に見にいった水泳大会で、人数が足りないからと飛び入り出場し1位になったのが縁で競泳と出会う。
重松 逸造(しげまつ いつぞう、1917年11月25日 - … 重松 逸造(しげまつ いつぞう、1917年11月25日 - 2012年2月6日)は、日本の医学者。ラバウルで海軍軍医として終戦を迎える。都築正男の後継としてABCCの日本側代表、国立公衆衛生院疫学部長、財団法人放射線影響研究所理事長、ICRP委員、厚生省研究班班長などを歴任したのをはじめ、疫学・公衆衛生学・放射線影響学において重要な役割を果たした。叙勲された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
佐藤 進一(さとう しんいち、1916年11月25日 - 2… 佐藤 進一(さとう しんいち、1916年11月25日 - 2017年11月9日)は、日本の歴史家。専門は、日本中世史・中世法制史・古文書学。学位は、文学博士(1961年)(学位論文(学位論文「鎌倉時代より南北朝時代に至る守護制度の研究」)。中央大学名誉教授。東京大学教授・名古屋大学教授を歴任。 新潟県中蒲原郡新津町(現・新潟市秋葉区)生まれ。旧制新潟県立三条中学校4年修了後、1936年3月に旧制新潟高等学校文科甲類を卒業。同年4月に東京帝国大学文学部入学。1939年3月に東京帝国大学文学部卒業。卒業論文は「鎌倉幕府訴訟制度の分化」であった。 同年4月に東京帝国大学史料編纂所第十編部に採用される。
河野 健二(かわの けんじ、1916年11月25日 - 19… 河野 健二(かわの けんじ、1916年11月25日 - 1996年8月10日)は、日本の歴史学者・経済史家(専攻はフランス経済思想史)。京都大学名誉教授・京都市立芸術大学名誉教授。新京都学派の一人。 1916年、徳島県生まれ。旧制徳島中学校を経て、京都帝国大学経済学部に入学。1940年に卒業した。同1940年、京都帝国大学助手に採用された。 戦後の1946年、山口経済専門学校(現・山口大学経済学部)教授となった。1947年、京都大学助教授に転じ、1960年京都大学教養部教授となった。1961年、学位論文『フランス革命と経済思想』を京都大学に提出して経済学博士の学位を取得。1968年、京都大学人文科学研究所教授に異動となり、1970年からは2期6年にわたって第7代所長を務めた。
細郷 道一(さいごう みちかず、1915年11月25日 - … 細郷 道一(さいごう みちかず、1915年11月25日 - 1990年2月15日)は、日本の政治家、内務官僚。神奈川県横浜市長(3期)、自治事務次官を歴任した。
上田 常光(うえだ つねあき、1914年11月25日 - 1… 上田 常光(うえだ つねあき、1914年11月25日 - 1995年3月1日)は、日本の外交官。位階は正三位。初代駐シンガポール特命全権大使や、外務省経済協力局長、駐ドイツ連邦共和国特命全権大使、日独協会会長などを歴任した。 東京生まれ。1934年東京高等学校文科甲類卒業。1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1938年高等試験外交科合格、外務書記生、ドイツ在勤。1939年外交官補。 1951年外務省管理局在外邦人課長。同年外務省欧米局渡航課長。1952年外務省アジア局第五課長。1957年在ドイツ日本国大使館参事官。1959年外務省情報文化局報道課長。 1961年外務省欧亜局外務参事官。1964年在シンガポール日本国総領事館総領事。
宇梶 清司(うかじ きよし、1914年11月25日 - 19… 宇梶 清司(うかじ きよし、1914年11月25日 - 1998年12月8日)は、日本の経営者。茨城県出身。 1937年に青山学院商学科を卒業。1948年から1950年までにペンシルヴァニア大学院に留学。 大正海上火災保険での勤務を経て、1941年に東洋経済新報社に転じ、1970年11月に専務に就任し、1972年11月から1978年12月までに社長を務めた。石橋湛山記念財団監事も務めた。 1998年12月8日呼吸不全のために死去。84歳没。
金山 正信(かなやま まさのぶ、1914年11月25日-19… 金山 正信(かなやま まさのぶ、1914年11月25日-1997年9月27日)は、日本の法学者だった人物。専門は民法。関西大学法学部助教授を経て、同志社大学法学部名誉教授。子息は慶應義塾大学名誉教授の金山直樹(民法)。愛媛県西宇和郡町見村出身。 1942年高等試験司法科試験(現司法試験)合格。1942年関西大学法文学部卒。1942年同法文学部助手。1945年同法学部専任講師。1946年同法学部助教授。1948年同志社大学法学部助教授。1951年同法学部教授。1954年ハーバード大学に研究留学。1962年同志社大学法学部長・同大学院法学研究科長。1964年同付属図書館長。1971年ハーバード大学に研究留学。
岡本 道雄(おかもと みちお、1913年(大正2年)11月2… 岡本 道雄(おかもと みちお、1913年(大正2年)11月25日 - 2012年(平成24年)7月24日)は、日本の医学者。京都大学名誉教授・総長。位階は従三位。専門は脳神経解剖学。 1913年11月25日京都府舞鶴市生まれ。旧制第三高等学校を経て、1941年京都帝国大学医学部卒業。同大学院特別研究生修了(脳神経解剖学)。1946年(昭和21年)京都大学医学博士。博士論文の題は「腫瘍の発育より観たる淋巴の解剖学」。 その後、三重県立医科大学教授、神戸医科大学教授を経て、1959年(昭和34年)京都大学教授となり、1970年(昭和45年)医学部長、1972年(昭和47年)に再任の後、1974年(昭和49年)に総長に就任した。
竹之内 静雄(たけのうち しずお、1913年11月25日 -… 竹之内 静雄(たけのうち しずお、1913年11月25日 - 1997年12月19日)は、日本の小説家、筑摩書房社長。 静岡県生まれ。旧姓・桑原。1932年第三高等学校に入学、野間宏、富士正晴と、竹内勝太郎に師事して雑誌『三人』を刊行する。大学では吉川幸次郎に師事、1940年京都帝国大学文学部哲学科卒、河出書房に入社する。のち筑摩書房に移り、戦時中は海軍に応召した。1950年「ロッダム号の船長」で芥川賞候補となる。1966年から1972年まで古田晁の後を受けて筑摩書房2代目社長を務めた。
内山榮一(うちやま えいいち、1911年(明治44年)11月… 内山榮一(うちやま えいいち、1911年(明治44年)11月25日 - 2012年(平成24年)4月10日)は、日本の政治家、税理士。東京都台東区長(4期)、台東区議会議員(4期)、東京都議会議員(3期)を歴任した。 埼玉県大里郡、のちの岡部町(現深谷市)出身。1935年、法政大学経済学部卒業。その後税理士事務所を開く。 1951年から台東区議会議員を4期務め、1967年、台東区選出の都議会議員の死去による補欠選挙に自由民主党公認で立候補し、当選し、都議会議員を3期務めた。1975年4月に台東区長に当選。1991年4月まで4期16年務めた。 旧東京音楽学校奏楽堂の老朽化にともなう移築問題が起きた際、愛知県の明治村に建物を移築する計画に対して、上野公園敷地内への移築を推進し台東区内での保存を守ったことで知られる。
黒金 泰美(くろがね やすみ、1910年〈明治43年〉11月… 黒金 泰美(くろがね やすみ、1910年〈明治43年〉11月25日 - 1986年〈昭和61年〉10月11日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員、内閣官房長官。1981年勲一等瑞宝章受章。父親は戦前の立憲民政党代議士の黒金泰義。 山形県米沢市出身(北海道生まれ)。旧制武蔵高校を経て、東京帝国大学法学部に入学。肺結核に罹患し4年間、病床で過ごしたため、ひとの倍をかけ大学を卒業する。 高等文官試験に一番で合格し、1935年に大蔵省に入省。理財局属。戦後、津島寿一、池田勇人両蔵相の秘書官を務める。父の死後は、米沢に近い赤湯町(現・南陽市)出身の結城豊太郎が後見役を担ったほか、郷里の偉材である池田成彬とも接する機会が多かった。
大野 市郎(おおの いちろう、1910年(明治43年)11月… 大野 市郎(おおの いちろう、1910年(明治43年)11月25日 - 1988年(昭和63年)2月9日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(7期)。 新潟県長岡市で大野屋旅館主・大野甚松の孫として生まれた。新潟県立長岡中学校[要出典]を経て1932年(昭和7年)兵庫県立神戸高等商業学校卒業。箱根富士屋ホテルに勤めた。 1936年(昭和11年)静岡県熱海市でホテル大野屋を開業した。1940年(昭和15年)父から大野屋本店社長を継承した。熱海市会議員を務め、1950年(昭和25)熱海商工会議所会頭に就任した。日本温泉協会会長などの役職も務めた[要出典]。 佐藤栄作の秘書を経て1952年(昭和27年)自由党から第25回衆議院議員総選挙に旧新潟3区から出馬して初当選。
山崎 斉(山崎 齊、やまざき / やまさき ひとし、1910… 山崎 斉(山崎 齊、やまざき / やまさき ひとし、1910年(明治43年)11月25日 - 没年不詳)は、昭和期の農林技官及び官僚、政治家。参議院議員(1期)、林野庁長官。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。 高知県香美郡徳王子村(大忍村、徳王子村、香我美町を経て現香南市香我美町徳王子)で、山崎栄の二男として生まれる。1933年(昭和8年)東京帝国大学農学部林学科を卒業した。 農林省に入省し、営林署技師、大館営林署長、農林技官、林野庁林産課長、同業務課長、同計画課長、同指導部長などを歴任し、林野庁長官に1958年(昭和33年)6月から1961年(昭和36年)7月まで在任して退官した。 1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
石本 他家男(いしもと たけお、1909年(明治42年)11… 石本 他家男(いしもと たけお、1909年(明治42年)11月25日 - 1988年(昭和63年)5月27日)は、日本の実業家である。デサントの創業者であり社長、会長を務めた。 石川県石川郡鶴来町(現在の白山市)に生まれる。1923年(大正12年)に大阪で丁稚奉公となり、1935年(昭和10年)2月に独立し、現在のデサントのルーツとなったツルヤを創業した。第二次世界大戦中は兵士となるが、戦時中の1946年(昭和21年)に復員となり戦後にはグラブやミットの製造及び販売を始める。1957年(昭和32年)にはツルヤの独自ブランドである「デサント」を立ち上げ、翌1958年(昭和33年)にはスポーツウェアの製造販売を始めた事により「石本商店」に商号変更し株式会社化された。
山崎 宏(やまざき ひろし、1908年11月25日 - 20… 山崎 宏(やまざき ひろし、1908年11月25日 - 2010年12月1日)は戦後に中国に残って、現地の人々に医療をほどこした日本人医師である。出身は岡山県真庭市。戦後に贖罪のため中国に残り、現地の医療に一生を注いだ。後年は「世を救う100歳の神の医師」と呼ばれ慕われた。2010年に病気により死去。享年102歳であった[要出典]。 山崎宏氏の生まれは岡山県真庭市で、早くに両親を亡くし、兄と姉によって育てられた。平穏に生きたいと思っていたが、1937年の盧溝橋事件により、中国に出兵させられた。彼は1937年11月のある日、鄭州の軍営において兵士が三歳の子どもを絞め殺す姿を目撃、阻止しようとしたが、押しのけられたという。
加藤 誠之(かとう せいし、1907年11月25日 - 19… 加藤 誠之(かとう せいし、1907年11月25日 - 1995年12月13日)は、日本の実業家。トヨタ自動車販売取締役社長、取締役会長、トヨタ自動車相談役、顧問、名古屋商工会議所副会頭、学校法人関西学院理事長、世界デザイン博覧会協会協会理事長などを歴任。日本デザインセンター創設メンバーのひとり。息子(次男)はレーシングカーデザイナーの加藤眞。 1907年11月25日、三重県伊勢市生まれ。甲陽中学校(現在の甲陽学院中学校・高等学校、4回卒)を経て、1930年に関西学院高等商業学部を卒業。日本ゼネラルモータースへ入社。 1937年、トヨタ自動車工業設立と同時に同社へ入社。1950年にトヨタ自動車販売設立に伴い、同社へ移る。
八十島 親義(やそしま ちかよし、1907年(明治40年)1… 八十島 親義(やそしま ちかよし、1907年(明治40年)11月25日 - 1990年(平成2年)6月11日 )は、日本の実業家。澁澤倉庫社長を務めた。 東京出身。渋沢栄一の秘書役を務め「渋沢家の番頭」として知られる八十島親徳の二男として生まれる。法医学者八十島信之助と土木工学者八十島義之助は弟。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1931年に慶應義塾大学経済学部を卒業。同年第一銀行に入行した。本店営業部貸付課長、同部預金課長、京橋支店次長、深川、八重洲口各支店長、総務部長を歴任。1957年11月に取締役に選任され、1960年11月に常務に昇進。 1964年4月に澁澤倉庫社長に転じ、東京湾内の江東埋立地区に海上コンテナ専用倉庫を建設するなど、意欲的な経営に取り組む。
小林 信明(こばやし しんめい、1906年(明治39年)11… 小林 信明(こばやし しんめい、1906年(明治39年)11月25日 - 2003年(平成15年)3月5日)は、日本の漢文学・中国哲学者。東京教育大学名誉教授。 愛知県出身。東京文理科大学文学部漢文学科卒業。1955年(昭和30年)「古文尚書伝流考」で京都大学文学博士。東京都立北野高等学校教諭、東京教育大学助教授を経て、教授。1970年(昭和45年)定年退官、名誉教授となる。
三代 義勝(みよ よしかつ、1905年(明治38年)11月2… 三代 義勝(みよ よしかつ、1905年(明治38年)11月25日 - 1967年(昭和42年)11月3日)は、福島県磐城市(現・いわき市)長。位階は正六位。勲五等双光旭日章。 現在の茨城県日立市の漁師の子に生まれる。23歳で魚の行商を始め、小名浜に来てその後、水産加工場を建てる。精力的な努力の末、規模を拡大し、イワシ漁の船を持ち、漁業に乗り出し、マグロ、サバ用などの漁船を多く持ち、全国屈指の漁家となる。小名浜漁業組合長など多くの漁業関連団体の役員を務めた。ほか、1938年2月に東日本漁業取締役となり、同年3月に小名浜町議に当選した。 1956年の磐城市長選挙に立候補し、対立候補を251票差で破った。
山口 次郎(やまぐち じろう、1904年11月25日 - 1… 山口 次郎(やまぐち じろう、1904年11月25日 - 1997年1月1日)は、日本の工学者。大阪大学名誉教授、摂南大学名誉教授。専門は電気工学、半導体工学。工学博士(京都帝国大学)(1945年)。 大阪府生まれ。
水野 久男(みずの ひさお、1904年11月25日-1985… 水野 久男(みずの ひさお、1904年11月25日-1985年2月12日)は東京電力の第5代社長(1971年 - 1976年 )。
堀内 悦夫(ほりうち えつお、1904年(明治37年)11月… 堀内 悦夫(ほりうち えつお、1904年(明治37年)11月25日 – 1970年(昭和45年)12月19日)は、日本の実業家。 1904年、静岡県に出生。明治大学卒業後、マスメディア業界に進み、東京日日新聞、時事新報、新潟新聞などを経て、1950年新潟日報専務に就任。1952年、ラジオ新潟(現新潟放送)の設立に参画し、1961年社長に就任。日本民間放送連盟副会長なども務めた。1970年、新潟馬主協会の2代目会長に就任したが、同年12月19日に死去。66歳没。
大島 弘夫(おおしま ひろお、1903年〈明治36年〉11月… 大島 弘夫(おおしま ひろお、1903年〈明治36年〉11月25日 - 1953年〈昭和28年〉10月4日)は、日本の内務官僚。官選青森県知事。 石川県金沢市長町出身。第八高等学校(現・名古屋大学)を首席で卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し新潟県属となる。 以後、富山県書記官・警察部長、軍事保護院事務局長、総力戦研究所員、内閣参事官などを歴任。 1944年8月、青森県知事に就任。戦時下の食糧増産に尽力。1945年4月、内務省管理局長に転任。内務省調査官、大臣官房調査部長を歴任。1946年1月に退官。その後、公職追放となった。
保岡 武久(やすおか たけひさ、1902年11月25日 - … 保岡 武久(やすおか たけひさ、1902年11月25日 - 1983年2月7日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員。 奄美大島にある鹿児島県大島郡宇検村の生まれ。旧制鹿児島県立大島中学校と旧制第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒。1929年、高等文官試験行政科に合格。群馬県警察警部補を振り出しに、1934年内務省警視庁警視に任命される。海軍司政官、二・二六事件を担当、1939年大阪府刑事課長、地方警視、鹿児島県副知事などを経て、1951年の第2回鹿児島県知事に自由党公認で立候補したが落選。1954年に行われた奄美群島の日本復帰に伴う衆院選に奄美群島区から自由党公認で立候補した。
玉城 肇(たまき はじめ、1902年11月25日 - 198… 玉城 肇(たまき はじめ、1902年11月25日 - 1980年1月11日)は、日本の経済学者、歴史学者。 専門は家族史、経済史。 宮城県出身。第二高等学校卒、東北帝国大学経済学科卒。東北学院大学教授、愛知大学第6代学長、法経学部教授。1957年「近代日本における家族構造」で関西学院大学文学博士。1960年中日文化賞受賞。 長男・徹は歌人、次男・哲は農業経済学者・専修大学教授、三男・素は現代コリア研究所理事長。歌人花山多佳子は孫、花山周子は曾孫。
青野寿郎(靑野壽郎、あおの ひさお、1901年11月25日 … 青野寿郎(靑野壽郎、あおの ひさお、1901年11月25日 - 1991年7月16日)は、人文地理学者。東京教育大学名誉教授。 愛媛県越智郡桜井村(現・今治市)出身。1932年、東京文理科大学卒(第1回卒業生)。1947年東京文理大助教授、1949年「本邦鰹釣遠洋漁村の地理学的研究」で東京大学理学博士、東京教育大学教授。1965年定年退官・名誉教授、立正大学教授、1976年退職。日本の漁村・漁業地理学を研究、日本地誌研究所を創設し『日本地誌』全21巻を日本全国から460名を動員して編集。日本地理学会会長(在任:1962年 - 1963年)、名誉会員。 日本における水産地理学の開拓者であり、青野自身、「地誌学的研究の論文が多いのはオリジナルな研究の結果によるものが多いため当然のことではあるが,これらの研究成果から漁村水産地理学の科学的体系を樹立したいという意欲が強められたことも,ここで述べておきたい.」と著書の冒頭で述べている。
宮崎 奕保(みやざき えきほ、1901年〈明治34年〉11月… 宮崎 奕保(みやざき えきほ、1901年〈明治34年〉11月25日 - 2008年〈平成20年〉1月5日)は、日本の僧。曹洞宗大本山永平寺第78世貫首。曹洞宗管長。道号法諱「栴崖奕保」、黙照天心禅師。永平寺の史上最高齢の住職だった。 兵庫県加西市出身。1915年加古川市の福田寺で得度し、駒澤大学専門部卒。1929年、福田寺住職。1946年、永平寺単頭、1976年、札幌市中央区の中央寺住職。1981年、永平寺監院。1985年、同寺副貫首。1993年、永平寺第78世貫首に就任。 2008年1月5日、札幌市内の病院にて老衰のため、106歳(享年108)で遷化。死後、加西市名誉市民の称号が贈られた。 厳格な仏教僧として知られ、肉は一切食さず生涯独身を貫いた。
長島 銀蔵(ながしま ぎんぞう、旧字体: 長島 銀藏、190… 長島 銀蔵(ながしま ぎんぞう、旧字体: 長島 銀藏、1901年〈明治34年〉11月25日 - 1984年〈昭和59年〉9月8日)は、日本の実業家、政治家。貴族院議員、参議院議員。 現在の静岡県富士宮市出身。長島化学製品所を経営し、清水栄寿座、長島商事、横浜瓦斯化学工業の各社長、日本海獣化学工業代表取締役、清水商工会議所議員などを務めた。 1946年(昭和21年)5月、静岡県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同月18日に就任し研究会に所属した。翌1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在籍した。同年4月に行われた第1回参議院議員通常選挙において、静岡地方区から無所属で立候補したが落選した。
嘉納 履正(かのう りせい、1900年〈明治33年〉11月2… 嘉納 履正(かのう りせい、1900年〈明治33年〉11月25日 - 1986年〈昭和61年〉1月13日)は、講道館第3代館長(1946年 - 1980年)・全日本柔道連盟初代会長(1949年 - 1980年)。嘉納治五郎の次男。第二次世界大戦後の日本の柔道の存続・再編組織化・発展に尽力するとともに、国際柔道連盟の会長も務めるなど、国際的な普及に貢献した。 東京都出身。嘉納治五郎の次男として生まれた。國學院大學卒業。宮内省図書寮御用掛を務めたのち、講道館理事となる。 1946年11月、講道館2代目館長の南郷次郎が病気により辞職すると、第3代館長に就任(1980年まで)。文部省や柔道界が学校での柔道教育の復活をめざして占領当局とおこなった折衝の一環を担った。
谷口 成之(たにぐち しげゆき、1900年11月25日 - … 谷口 成之(たにぐち しげゆき、1900年11月25日 - 1984年)は、東海大学工学部教授などを歴任した日本の都市計画家。 愛知県尾張旭市生まれ。旧制明倫中学校から第八高等学校をへて1925年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、都市計画地方委員会の愛知地方委員会に奉職。1931年には長崎地方委員会に転任。1939年北海道地方委員会に転任。1942年には東京地方委員会に転任するが、戦時中のため仕事は護国寺の大防空壕掘削だったという。そのまま東京都発足で職員となり、戦後は戦災復興都市計画の責任者である都建設局区画整理課長や、区画整理部長を歴任していく。1950年からは都市計画担当教員として中央大学で教鞭を執る。
秋田 伸一(あきた しんいち、1899年11月25日 - 1… 秋田 伸一(あきた しんいち、1899年11月25日 - 1941年10月4日)は、日本の元俳優である。本名同じ。サイレント映画の時代に、松竹蒲田撮影所、阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画、マキノ・プロダクション等が製作した現代劇に主演した、線の細い二枚目スターとして知られる。 1899年(明治32年)11月25日、東京府東京市京橋区南新堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる。実家は酒問屋であったとも、醤油問屋であったともされる。生年月日については、初期の資料である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十二年十月二十日」(1899年10月20日)と記されている。 育った町内にあった旧制・中央商業学校(のちの中央商科短期大学、2001年廃校)に進学、同学を卒業した後、1920年(大正9年)に小林喜三郎が代表を務める帝国興行に入社した。
小沢 佐重喜(旧字体: 小澤佐重喜、おざわ さえき、1898… 小沢 佐重喜(旧字体: 小澤佐重喜、おざわ さえき、1898年〈明治31年〉11月25日 - 1968年〈昭和43年〉5月8日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(10期)。栄典は正三位勲一等。 吉田茂の側近の一人。新進党、民主党代表などを歴任した小沢一郎の父。 『朝日人物事典』によると、 岩手県生まれ。馬車引きなどをしながら1923年に日本大学法学部法律学科を卒業。弁護士となり、三木武吉に師事して1929年から東京市議、府議を5期務める。1946年の戦後初の総選挙で岩手県から衆議院議員に当選(自由党)。選挙法改正の論功行賞で1948年に第2次吉田内閣の運輸大臣に抜擢され、以後も、郵政・電気通信大臣、行政管理庁長官、自由民主党国会対策委員長を歴任。
小川 大系(おがわ たいけい、1898年(明治31年)11月… 小川 大系(おがわ たいけい、1898年(明治31年)11月25日 - 1980年(昭和55年)8月26日)は日本の彫刻家。本名は小川 孝義(もとよし)。 長野県南安曇郡東穂高村(現・安曇野市)の地主の家に生まれる。高等小学校卒業後、農業の傍ら表具師の修業を積み、日本画を独学する。1933年(昭和8年)、35歳で上京し、同郷の山本安曇に才能を認められ、北村西望に入門、彫刻制作に邁進した。翌1934年、「天空を行く」が第15回院展に初入選すると、文部省美術展(文展)に入選を重ね、1941年(昭和16年)文展無鑑査となる。東京大空襲でアトリエが焼失したため、帰郷。戦後は中信美術会委員長、信州美術会(長野県美術展(県展)の団体)運営委員、長野県工芸会会長として活躍し、日展委員、日本彫刻会会員となった。
沢田 ひさ(さわだ ひさ、1897年(明治30年)11月25… 沢田 ひさ(さわだ ひさ、1897年(明治30年)11月25日 - 1979年(昭和54年)11月9日)は、大正時代から昭和時代の女性政治家、女性解放運動家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)。 1897年(明治30年)生まれ。滋賀県甲賀郡土山村(現甲賀市)出身で、結婚して三重県桑名市に移り、戦前から婦人参政権獲得運動に挺身して、中部地区婦人選挙権獲得同盟会員となる。 1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選し、49歳で日本社会党の新人議員として日本最初の女性代議士(三重県の婦人代議士第1号)となり、衆議院議員1期を務めた。1953年(昭和28年)4月24日の第3回参議院議員通常選挙で三重県選挙区から55歳で右派社会党の新人として立候補して 150501票 (得票率28.4%)で落選した。
築藤 鞆一(つきふじ ともかず、1896年 <明治29年> … 築藤 鞆一(つきふじ ともかず、1896年 <明治29年> 11月25日 - 1975年 <昭和50年> 11月9日)は、日本の経営者。広島県出身。 1933年に広島高等学院商学部を卒業し、1934年9月に中国新聞社に入社。1947年1月に代表取締役に就任し、1950年11月には会長就任。1952年5月にラジオ中国(現在の中国放送)専務に就任し、1957年5月から1970年5月までに社長を務めた。 1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1975年11月9日心不全のために死去。78歳没。
大野木 秀次郎(おおのぎ ひでじろう、1895年11月25日… 大野木 秀次郎(おおのぎ ひでじろう、1895年11月25日 - 1966年3月4日)は、日本の政治家。 京都府宇治郡山科村(現京都府京都市山科区)生まれ。大野木繁太郎の次男。清和中学校(現立命館高等学校)を経て、立命館大学経済科中退。 洛東織物工場社長を経て、1946年貴族院多額納税者議員に当選。翌1947年には第1回参議院議員通常選挙京都府選挙区に日本自由党より出馬し当選。以後通算当選4回。在任中は、サンフランシスコ講和条約の首席全権代理、参議院自由党議員会長、自民党京都府議連初代会長(連続4期)などを務めた他、第3次吉田内閣第3次改造内閣および第5次吉田内閣で国務大臣を務めるなど国政の要職を歴任した。
小林 和一(こばやし わいち、1895年(明治28年)11月… 小林 和一(こばやし わいち、1895年(明治28年)11月25日 - 1968年(昭和43年)6月1日)は、日本の政治家、地方公務員。第5代福山市長。 広島県福山町(現・福山市地吹町)に生まれる。1915年(大正4年)、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。深安郡書記、大阪北区職員を勤めたあと、関西法律学校(現・関西大学)に入り、同校を卒業した。 1919年(大正8年)7月、福山市は大水害に見舞われる。帰郷を決意し、福山市役所に奉職。庶務課長、税務課長、収入役などを歴任した。 1939年(昭和14年)1月、助役に選任される。小林壽夫市長の懐刀と言われた。1944年(昭和19年)9月26日、三菱鉱業取締役会長などを務めた三谷一二が第6代市長に就任。
荘 清彦(しょう きよひこ、1894年11月25日 - 19… 荘 清彦(しょう きよひこ、1894年11月25日 - 1967年9月28日)は、日本の経営者。三菱商事社長を務めた。荘清次郎の次男。妻・花子は樺山資英の長女。 東京都出身。1920年に東京帝国大学経済学部を卒業し、三菱造船での勤務を経て、1932年に三菱商事に入社。機械部長、常務を経て、1948年に清光産業社長に就任し、1954年7月に三菱商事副社長に就任し、1960年7月には社長に昇格。1966年に会長に就任し、三菱重工業監査役、原子力産業会議評議員なども歴任。 1963年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1967年9月28日、心筋梗塞のためにで死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
江藤 昌之(えとう まさゆき、1893年(明治26年)11月… 江藤 昌之(えとう まさゆき、1893年(明治26年)11月25日 - 1984年(昭和59年)4月17日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 江藤作吉の長男として福岡県遠賀郡遠賀村島津(現:遠賀町大字島津)に生まれる。1914年(大正3年)福岡県小倉師範学校を卒業し、久留米荘島小学校訓導となる。のち広島高等師範学校に入学。1919年(大正8年)3月、同校を卒業し、京都師範学校訓導兼教諭を拝命する。さらに1922年(大正11年)京都帝国大学法学部法律学科に入学し、在学中の1924年(大正13年)11月に高等試験行政科に合格。1925年(大正14年)卒業と同時に渡台し、台湾総督府に出仕する。 台北州内務部地方課勤務を振り出しに、1927年(昭和2年)地方理事官に進み、台中州勧業課長、台北州勧業課長、台湾総督府事務官営林所兼水産課勤務、文教局学務課勤務、学務課長、社会課長兼図書館長、財務局税務課長、高雄州内務部長、米穀局総務課長、興亜院廈門連絡部書記官を経て、大使館一等書記官に就任。
大矢知 昇(おおやち のぼる、1893年11月25日 - 1… 大矢知 昇(おおやち のぼる、1893年11月25日 - 1970年1月30日)は、日本の経営者。東横百貨店(現在の東急百貨店)社長を務めた。 三重県出身。1916年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井銀行に入行。1939年に取締役に就任し、1941年に常務を経て、戦後の三井銀行改め帝国銀行常務在任時の1946年、公職追放の発表に先立って帝銀万代順四郎会長、入間野武雄頭取(大蔵省出身)、戦前三井財閥のリーダー池田成彬らと共に、池田の子飼とみなされ、かつ万代の後継リーダーと目されていた大矢知も退任した。1948年5月に東横百貨店社長に就任し、1963年9月に相談役に退いた。 1970年1月30日脳血栓のために死去。
山岸 徳平(やまぎし とくへい、明治26年(1893年)11… 山岸 徳平(やまぎし とくへい、明治26年(1893年)11月25日 - 昭和62年(1987年)5月22日)は、日本の国文学者。中古文学専攻。東京教育大学教授、実践女子大学教授、中央大学教授などを務めた。 1893年、新潟県西蒲原郡(現新潟市西蒲区・旧西川町)で生まれた。新潟師範学校で学び、1914年(大正3年)に卒業した後に、東京高等師範学校本科に進んだ。東京高師時代は徒歩部(今の筑波大学陸上競技部)に所属していた。先輩に金栗四三がおり、一緒にマラソン選手として数々の大会に出場。1918年に同校を卒業し、東京帝国大学文学部国文科に入学。1924年卒業後は、同大学大学院に進んだ。 1925年より学習院教授。
岡田 文秀(おかだ ふみひで、1892年(明治25年)11月… 岡田 文秀(おかだ ふみひで、1892年(明治25年)11月25日 - 1989年(平成元年)11月19日)は、日本の内務・厚生官僚。官選県知事、厚生次官、海軍司政長官。旧姓・吉岡。 島根県出身。島根県官房主事・吉岡謙太郎の三男として生まれ、岡田宇之助の養子となる。島根県立松江中学校、第一高等学校を卒業。1916年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し東京府属となる。 1918年1月、東京府南葛飾郡長に就任。以後、岐阜県理事官・内務部地方課長、東京府理事官・視学官、内務書記官・都市計画局庶務課長、内務事務官・土木局勤務、土木局河川課長などを歴任。
中川 紫郎(なかがわ しろう、明治25年(1892年)11月… 中川 紫郎(なかがわ しろう、明治25年(1892年)11月25日 - 昭和33年(1958年)11月13日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。帝国キネマ創立期の大監督であり、独立後は奈良に撮影所を開き、牧野省三、直木三十五、実川延松、阪東妻三郎、志波西果らと共闘し、自社製作のほか、同撮影所を「貸しスタジオ」として経営した。本名中川 四平(なかがわ しへい)。 1892年(明治25年)11月25日、岡山県川上郡東成羽村(現在の高梁市成羽町)に生まれる。戦国時代の武将・中川清秀の子孫であり、父・増治郎は川上郡落合村の村長、川上郡の郡長を歴任した。旧制岡山県立高梁中学(現在の岡山県立高梁高等学校)を1910年に卒業、旧制第六高等学校に進学、在学中に同校「北寮」の寮歌を作詞した。