椿原 健督(つばはら けんすけ、1912年3月26日 - 1… 椿原 健督(つばはら けんすけ、1912年3月26日 - 1986年12月29日)は、日本の経営者。北海道ガス社長を務めた。福岡県柳川市出身。 1939年に東北帝国大学工学部応用学科を卒業し、同年に東京ガスに入社。後に北海道ガスに転じ、1974年12月から1976年6月まで社長を務めた。 1986年12月29日心不全のため死去した。74歳没。
3月26日生まれ:320人
椿原 健督(つばはら けんすけ、1912年3月26日 - 1… 椿原 健督(つばはら けんすけ、1912年3月26日 - 1986年12月29日)は、日本の経営者。北海道ガス社長を務めた。福岡県柳川市出身。 1939年に東北帝国大学工学部応用学科を卒業し、同年に東京ガスに入社。後に北海道ガスに転じ、1974年12月から1976年6月まで社長を務めた。 1986年12月29日心不全のため死去した。74歳没。
碓井 益雄(うすい ますお、1911年3月26日 - 199… 碓井 益雄(うすい ますお、1911年3月26日 - 1997年6月25日)は、日本の動物学者。 朝鮮・京城(現・ソウル特別市)生まれ。東京帝国大学理学部生物学科卒、1952年「有尾両棲類における重複肢に関する研究、特に肢の場の構造との関係について」で東京大学より理学博士の学位を取得。東京文理科大学教授、東京教育大学理学部教授。1974年定年退官、名誉教授。動物実験発生学専攻。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
内出 好吉(うちで こうきち、1911年3月26日 - 19… 内出 好吉(うちで こうきち、1911年3月26日 - 1994年6月5日)は、日本の映画監督。宮城県加美郡小野田町(現・加美町)出身。 旧制神奈川県立逗子中学校卒。早稲田大学文学部在学中の1934年に長谷川一夫の勧めで松竹京都撮影所に入社し大学を中退。1943年に召集され、1947年に復職。1955年に東映京都撮影所に移籍。東映の路線転換によりテレビ部のディレクターに転身し、1963年にフリーとなった。 主にナショナル劇場『水戸黄門』『大岡越前』『江戸を斬る』などのテレビ時代劇のディレクターとして活躍。『水戸黄門』では東野英治郎主演版第1部(1969年)から最終シリーズの第13部(1983年)まで足掛け13年半にわたり156本を担当し現役を退いた。
安部 鹿蔵(あべ しかぞう、1911年(明治44年)3月26… 安部 鹿蔵(あべ しかぞう、1911年(明治44年)3月26日 - 1994年(平成6年)10月6日)は、新東宝の第6代社長であり、国際放映の初代社長。福岡県北九州市生まれ。
荘司 福(しょうじ ふく、1910年3月26日 - 2002… 荘司 福(しょうじ ふく、1910年3月26日 - 2002年10月19日)は日本画家。 裁判官であった父の木村徳之助の赴任先であった長野県松本市で生まれ育つ。女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科日本画部卒業。郷倉千靱に師事。 数学者の荘司篤と結婚後は仙台市に移り住む。長女は日本画家の小野恬、長男の妻は抽象画家の荘司貴和子。結婚後は作家活動を休止していたが、夫の篤が結核に倒れ、画家としての活動を再開。1941年第6回東北美術展(現・河北美術展)に出品。第10回東北美術展で河北美術賞受賞。1951年日本美術院院友、1981年日本美術院評議員。 その後は東京、横浜と移り住み、戦後は油彩画の要素を取り入れた日本画制作を行った。
金 柄淳(キム・ビョンスン、朝鮮語: 김병순、1909年3月… 金 柄淳(キム・ビョンスン、朝鮮語: 김병순、1909年3月26日または1910年3月26日 - 1973年3月5日)は、大韓民国の畜産官僚、政治家。元大韓獣医師会会長、第3・4・6・7代韓国国会議員。 漢字表記は金炳淳とも。 全羅南道海南郡出身。麻布獣医畜産専門学校卒。京畿道・忠清北道産業技手、雑誌『畜産農村』発刊人を経て、1945年から慶尚南道農産局畜産課技師、朝鮮農会事業部長・畜産部長、大韓農会畜産部長、農林部農林委員、大韓畜産同業組合連合会副会長・会長、大韓農民会常務委員、大韓獣医師会会長、畜産農村社社長、自由党中央委員・海南甲区委員長、民主共和党中央常任委員・中央政策審議会委員・全南第14地区党委員長・政策審議委員会副議長、大韓畜産振興会会長を務めた。
平林 忠雄(ひらばやし ただお、1909年3月26日 - 1… 平林 忠雄(ひらばやし ただお、1909年3月26日 - 1979年3月4日)は、日本の経営者。田辺製薬(現在の田辺ファーマ)社長を務めた。長野県出身。 1934年に大阪商科大学を卒業し、大倉高等商業学校で講師を務め、大日本油脂での勤務を経て、1940年10月に田辺製薬に入社し、同時に監査役にも就任。 1948年1月に取締役、1955年9月に代表取締役、1956年6月に専務を経て、1963年8月には社長に就任。 1971年10月に藍綬褒章を受章。 1979年3月4日肺炎のために死去。69歳没。
岸上 慎二(きしがみ しんじ、1908年3月26日 - 20… 岸上 慎二(きしがみ しんじ、1908年3月26日 - 2002年1月29日)は、日本の国文学者。専門は日本中古文学。『後撰和歌集』『枕草子』の研究で知られ、特に『枕草子』の作者とされる清少納言の伝記を解明した。 岐阜県養老郡出身。1925年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業。1928年、日本大学高等師範部国語漢文科卒業。1931年、日本大学法文学部文学科卒業。1943年、日本大学農学部予科教授。1949年、日本大学文学部教授。1960年、「清少納言傳記攷」で日本大学より文学博士の学位を取得。同年、日本大学文理学部教授。1978年、定年退職、名誉教授。1980年、勲三等瑞宝章を受章。
井上 義海(いのうえ よしみ、1908年(明治41年)3月2… 井上 義海(いのうえ よしみ、1908年(明治41年)3月26日 - 2000年(平成12年)4月22日)は、広島県出身の官僚、実業家。大蔵省印刷局長、神戸製鋼所社長などを務めた。
平野 赳(ひらの たけし、1908年3月26日 - 1988… 平野 赳(ひらの たけし、1908年3月26日 - 1988年8月13日)は、日本の実業家。新潟県出身。 1931年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日魯漁業に入社。経理部長、常務、専務を経て1972年1月に社長に就任。1975年1月には相談役に就任。 日本経済調査協議会委員長として、生鮮食品流通の問題点を取りまとめ、改善の議論の必要性を提起する(1973年)等の食生活改善のための活動、特にコールドチェーンの整備に関する言及が知られる。 1973年11月に藍綬褒章を受章。 1988年8月13日脳血栓のために死去。80歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山野 種松(やまの たねまつ、1906年 <明治39年> 3… 山野 種松(やまの たねまつ、1906年 <明治39年> 3月26日 - 1995年 <平成7年> 12月23日)は、日本の経営者。レンゴー社長を務めた。位階は正五位。 大阪府出身。1931年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年にレンゴーに入社。1947年に監査役に就任し、1950年に取締役、1960年11月に常務、1962年5月に専務を経て、1963年11月に社長に就任。1973年2月に会長に就任し、1984年6月に相談役に就任。 1978年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1995年12月23日肺炎のために死去。89歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
大須賀 力(おおすか つとむ、1906年3月26日 - 20… 大須賀 力(おおすか つとむ、1906年3月26日 - 2009年7月24日)は、日本の彫刻家。1979年、勲四等瑞宝章受章。1994年、千葉県市川市名誉市民。多くの彫刻作品が市川市内施設、千葉県内各地に設置されている 。 1906年、東京都千代田区生まれ。 1923年、東京高等工芸学校彫刻部に入学。1926年、東京美術学校(現:東京芸術大学)彫刻科塑像部に入学。学科は異なるものの、同期には加藤栄三、東山魁夷らがいる。1928年、千葉県市川市に移住。 1930年、東京美術学校に在学中の第11回帝展に初入選し、その後毎回出品する。1931年東京美術学校卒業。建畠大夢に師事。1932年の『首飾りの女』が第13回帝展の特選を受賞。
三宅 宗悦(みやけ むねよし、1905年(明治38年)3月2… 三宅 宗悦(みやけ むねよし、1905年(明治38年)3月26日 - 1944年(昭和19年)11月6日)は、日本の人類学・考古学者。医学博士。 1905年(明治38年)3月26日、京都府京都市東山区で三宅宗淳・男依の4男として生まれる。京都府立第二中学校、旧制山口高等学校(のち山口大学文理学部、現同大学人文学部)を卒業後、京都府立医科大学に入学。考古学に興味を持ち、京都帝国大学考古学教室に出入りするようになる。濱田耕作や清野謙次などから考古学・人類学の薫陶を受け、1929年(昭和4年)には同教室による須玖遺跡(福岡県春日市)の発掘調査に参加している。 1930年(昭和5年)に同医科大学を卒業後、京都帝国大学医学部助手に任命される。
瀬川 功(せがわ こう、1905年3月26日 - 1984年… 瀬川 功(せがわ こう、1905年3月26日 - 1984年11月2日)は、日本の小児科医師、陶磁器研究家、医学博士、医療法人瀬川小児病院第3代院長、社団法人日本陶磁協会 第4代理事長。常陸宮正仁親王と清宮貴子内親王の元主治医。旧姓:加瀬。
中山 義夫(なかやま よしお、1905年(明治38年)3月2… 中山 義夫(なかやま よしお、1905年(明治38年)3月26日 - 1986年(昭和61年)11月17日)は、日本の民俗舞踊家。民俗舞踊の第一人者。 1905年(明治38年)3月26日、北海道旭川市にて生まれる。法政大学専門部政治経済科に入学し、在学中に、亡命ロシア人の舞踊家エリアナ・パブロバに師事し、バレエダンサーの草分けとして活動する。1929年(昭和4年)に法政大学を卒業し、卒業後、海外を回るうちに民俗舞踊にひかれるようになる。また、新京で満州舞踊学校長などを務める。 戦後、中山民俗舞踊研究所を設立し、毎年のように海外公演を行う。1978年(昭和53年)に勲五等双光旭日章、1979年(昭和54年)にギリシャ政府文化功労章を受章する。
木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月… 木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月23日)は、岡山県小田郡新山村(現在の笠岡市)出身の小説家、詩人。東洋大学文科中退。詩人として出発し、のち小説に転じた。「海豹」同人。満州で敗戦を迎え、帰国後、その体験をもとに長編『大陸の細道』『長春五馬路』などを発表。私小説的な短編小説やエッセイを得意とした。作家として目立たない存在であるが、庶民性に徹した飄逸と洒脱な表現で没後も根強い愛読者を持つ[独自研究?]。 矢掛中学校(現岡山県立矢掛高等学校)在籍時より詩・短歌・俳句を作り始める。1923年(大正12年)に姫路師範学校(現・神戸大学)を卒業。
井森 陸平(ゐもり りくへい、1903年3月26日 - 19… 井森 陸平(ゐもり りくへい、1903年3月26日 - 1982年12月29日)は、日本の社会学者、甲南大学名誉教授(文学博士)。専門は、農村社会学、産業社会学。 岐阜県郡上郡西和良村鬼谷(現・郡上市八幡町美山)生まれ。その父(京之助)は農商務省京都蚕業講習所(現・京都工芸繊維大学)の第一回卒業生であり蚕業技術者だった。また郡上八幡の実家では養蚕を行っていた。1926年3月、東京帝国大学文学部社会学科卒業。その後、鳥取高等農業学校、第八高等学校、名古屋大学、金沢大学、愛知大学、甲南大学(1973年3月定年退職)の教授を歴任した。甲南大学の就任には臼井二尚の推薦があったという。その学問は、テンニース、バレートの理論社会学研究からはじめ、次第に村落研究を人口、文化、習俗の観点から行うようになった。
小川 正子(おがわ まさこ、1902年3月26日 - 194… 小川 正子(おがわ まさこ、1902年3月26日 - 1943年4月29日)は、日本の医師。手記『小島の春』で知られる。 1932年、希望して岡山県の長島愛生園に勤務、光田健輔の指導を受ける。ハンセン病在宅患者の収容に赴き、その状況を『小島の春』に著した。同書はその文学的価値が高く評価されて映画化され、「小島の春現象」を産んだが、一方でハンセン病に対する偏見を強化し、無らい県運動に加担したとする批判もある[誰によって?]。 ※以下の文中では、当人存命当時の慣例に沿って、ハンセン病について「らい」と表記する場合がある。 山梨県東山梨郡春日居村(現在の笛吹市)に生まれる。1918年に甲府高等女学校を卒業した。
穂積 五一(ほづみ ごいち、1902年3月26日 - 198… 穂積 五一(ほづみ ごいち、1902年3月26日 - 1981年7月17日)は、日本の社会教育家。アジア学生文化協会、アジア文化会館の創設者として知られる。アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどから2万人を超える留学生を受け入れ、国際交流に貢献した。 愛知県八名郡能登瀬村(現・新城市能登瀬)に生まれる。父親は帝国議会議員を1期務めた鈴木麟三。弟に日本社会党衆議院議員の穂積七郎がいる。幼くして1904年6月27日に父を亡くし、母とともに生家を追われる。旧制愛知県豊橋中学校を経て、旧制第七高等学校造士館を1926年に卒業し、同年東京帝国大学に進学。 1925年(大正14年)、上杉慎吉を中心とする思想団体「帝大七生社」が結成され、穂積は同団体において会員の育成にあたった。
高田 正(たかだ ただし、1899年3月26日 - 1947… 高田 正(たかだ ただし、1899年3月26日 - 1947年1月6日)は、日本の裁判官。ゾルゲ事件で裁判長を務めた。 北海道札幌市出身。北海道庁立札幌第一中学校、第一高等学校を経て、1925年に東京帝国大学法学部を卒業。同年司法官試補となり、以後東京地方裁判所判事・検事、対満事務事務官、企画院書記官、司法省刑事局第4課長・第3課長などを歴任。 1942年東京刑事地方裁判所部長判事として、ゾルゲ事件の主犯とされた尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲらの裁判(同裁判所第9部)の裁判長となる。尾崎とは一高・東京帝大を通じて同期生・友人の間柄であったが、高田が尾崎に対して下した判決は死刑であった。高田は判決の後、次のように付け加えたという。
黒田 毅(くろだ たけし、1899年(明治32年)3月26日… 黒田 毅(くろだ たけし、1899年(明治32年)3月26日 - 没年不明)は、日本の政治家。愛知県守山市長。 兵庫県出身。愛知県青年師範学校卒。安城農林学校教諭を経て、守山高等小学校校長、全国青年学校協会会長、全国青年師範同窓連盟理事長、愛知県青年師範学校教員会会長などを歴任する。 1951年三郷澱粉協同組合理事長、守山町教育委員、愛知県商工協同組合理事などを務め、1955年守山市長選挙に立候補し初当選。1959年に再選。在職中に全国市長会から海外産業及び都市開発視察団員に選ばれ、欧米各国を視察。 一方で名古屋市との合併協議にも関わり、1963年に守山市が名古屋市に編入されて後は守山公民館長・愛知県社会教育委員を務めた。
今 東光(こん とうこう、1898年〈明治31年〉3月26日… 今 東光(こん とうこう、1898年〈明治31年〉3月26日 - 1977年〈昭和52年〉9月19日)は、横浜生まれの小説家、天台宗大僧正(法名 春聽)、中尊寺貫主、参議院議員。大正末期に新感覚派の作家として出発。その後出家し、長く文壇を離れたが復帰。住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など奥州を題材にした作品で人気を得た。週刊誌やテレビでも活躍し、毒舌和尚としても知られた。 作家・評論家で初代文化庁長官を務めた今日出海(ひでみ)は三弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は父方の遠縁にあたる。
迫 静二(さこ せいじ、古い文書では「靜二」と表記 1898… 迫 静二(さこ せいじ、古い文書では「靜二」と表記 1898年(明治31年)3月26日 - 1983年(昭和58年)8月6日)は、日本の銀行家、富士銀行初代頭取。 熊本県熊本市出身。熊本県立熊本中学校、官立第五高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部を卒業。安田銀行に入社。1946年(昭和21年)常務取締役、48年と社長となり、行名を富士銀行と改める。翌年社長を頭取に改称し、初代頭取に就任。全国銀行協会連合会会長などを務めた。 1983年8月6日死去、85歳没。
東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没… 東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[3][4][5][6][7][8][9]。本名品川 久義(しながわ ひさよし)[3][4]。海外を柔道行脚した前歴から、日本のサイレント映画の全盛期に現れた「スポーツ俳優」のひとりとして知られ、現代劇を中心に多く主演した[9][10]。
東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没… 東郷 久義(とうごう ひさよし、1898年3月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名品川 久義(しながわ ひさよし)。海外を柔道行脚した前歴から、日本のサイレント映画の全盛期に現れた「スポーツ俳優」の一人として知られ、現代劇を中心に多く主演した。 1898年(明治31年)3月26日、島根県に生まれる。『日本映画俳優名鑑』の「昭和四年版」(1929年版・1928年発行)および「昭和五年版」(1930年版・1929年発行)には「島根縣の一寒村」に生まれたと記述されている。 長じて東京に移り、旧制・海城中学校(現:海城中学校・高等学校)に進学、同校を卒業後に大阪に移り、関西大学法学部に進学する。
野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1… 野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1986年11月4日)は、日本の教育者。岐阜県洞戸村(現在の関市洞戸地区)の農家に長男として生まれる。家は浄土真宗で特に親鸞に信仰しており、精神形成に大きな影響を残した。真宗の活動家梅原真隆(しんりゅう)に傾倒し、その言葉「純に生きる」を生涯を通じてのモットーとした。 農家を継ぐことになっていたが、高等小学校を終えた後、校長から代用教員にと嘱望され、准教員を経て岐阜師範学校卒業。地元の小学校、岐阜女子師範学校付属小学校を経て、1924年上京、野口援太郎が自由主義教育の模範校として創立した池袋児童の村小学校の訓導となる。農村の教育に従事してきたため、東京の知識人階層の新思想には馴染めないものを感じ、親鸞の同行二人の思想を借りて、生活を基礎にし共生協力、あるいは協同自治の精神で、みんなが共に学んでいくことのできる場を作っていくことを教師の役割と捉えた。
素木 しづ(しらき しづ、1895年3月26日 - 1918… 素木 しづ(しらき しづ、1895年3月26日 - 1918年1月29日)は、日本の小説家。本名上野山志づ(うえのやま しづ)。 1895年(明治28年)、札幌に生まれる。昆虫学者・素木得一の妹。庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)卒業後、結核性関節炎が悪化し右足を切断。1913年(大正2年)、小学校から同期だった森田たまに数日遅れて森田草平門下に入る。同年処女作『松葉杖をつく女』を、翌年『三十三の死』を発表。新進女流作家としての地位を築く。1915年(大正4年)画家の上野山清貢(うえのやま きよつぐ)と結婚し(婚姻届を出したのは1917年(大正6年))の年末、子(茂登山櫻子)をもうける。
石浜 知行(いしはま ともゆき、1895年3月26日 - 1… 石浜 知行(いしはま ともゆき、1895年3月26日 - 1950年8月1日)は、日本の経済学者。 兵庫県出身。時事新報社の記者・石濱鉄郎の長男、作家の石浜金作は弟。東京帝国大学経済学部卒。ドイツ留学を経て九州帝国大学教授。1928年(昭和3年)三・一五事件で辞職、のち読売新聞論説委員。戦後、1946年(昭和21年)に中国研究会設立に参加。九州帝大に復帰、マルクス主義経済学者として活動する。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 19… 三浦 三郎(みうら さぶろう、1893年3月26日 - 1974年10月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。関東憲兵隊司令官。
佐々部 晩穂(ささべ くれお、1893年3月26日 - 19… 佐々部 晩穂(ささべ くれお、1893年3月26日 - 1979年1月23日)は、日本の実業家。中部日本放送初代社長。元名古屋商工会議所会頭。元大同大学理事。 福岡県山門郡塩塚村で医者だった父・田尻常太郎(福岡県士族)の息子に生まれる。1914年(大正3年)旧制一高を卒業して、京都帝国大学(現京都大学)に進学、同期の卒業生には汐見三郎、高山義三、岸要、酒井忠正、森本寛三郎がいた。京都帝国大学を首席(恩賜の銀時計組)で卒業後、1918年(大正7年)に日本銀行へ入行する。日銀の同期には一万田尚登がいた。営業局を経て、のちに日銀総裁となる結城豊太郎が支店長を務める大阪支店、ロンドン支店などで勤務する。
福田 正夫(ふくだ まさお、1893年3月26日 - 195… 福田 正夫(ふくだ まさお、1893年3月26日 - 1952年6月26日) は、神奈川県足柄下郡小田原町(現・小田原市)出身の詩人。「民衆詩人」と呼ばれる一派の中心的詩人であった。広く歌われた国民歌謡「愛国の花」(1937年、古関裕而作曲)の作詞者である。 小田原藩士族の堀川家の五男として生まれる。1910年、17歳の時に福田家の養子となる。1913年神奈川師範学校(現・横浜国立大学)卒業。東京高等師範学校(現・筑波大学)体操科中退。1915年、川崎市の小学校教員となる。同年12月、処女詩集『農民の言葉』を自費出版し、民衆詩人として注目される。 1918年、富田砕花・井上康文・白鳥省吾・川崎長太郎らと同人誌『民衆』を創刊。
酒井 直次(さかい なおじ、1891年〈明治24年〉3月26… 酒井 直次(さかい なおじ、1891年〈明治24年〉3月26日 - 1942年〈昭和17年〉5月28日)は、日本の陸軍軍人。第15師団長、陸軍通信学校長、歩兵第19旅団長等を歴任し、階級は陸軍中将功二級に至る。暗号通信の権威として知られる。本籍は東京府。 1891年(明治24年)3月26日、出羽国庄内藩初代藩主酒井忠勝の6男酒井忠直(藩主家一門・酒井奥之助家)の後裔である酒井直興の次男として山形県西田川郡鶴岡五日町(現:鶴岡市)に生まれる。1902年(明治35年)、東京に移住し、1903年(明治36年)、成城中学校に入学。 1904年(明治37年)、陸軍中央幼年学校予科に入学し同本科を経て、1911年(明治44年)5月27日、陸軍士官学校を92番/740名で卒業する。
水野 鼎蔵(みずの ていぞう、1890年(明治23年)3月2… 水野 鼎蔵(みずの ていぞう、1890年(明治23年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、教育者。長野県上田市長。位階は従六位。 長野県小県郡上田町房山(現上田市上房山)で、旧家・水野茂平の長男として生まれた。1910年(明治43年)旧制上田中学(現長野県上田高等学校)を卒業。国内外の玩具に興味を持ち、1922年(大正11年)地元に日本アルプス玩具水野工場を創業し、海外輸出を軌道に乗せ、日本貿易協会から表彰された。1941年(昭和16年)上田化工を設立し、専務取締役工場長となる。戦後はアルプス玩具を経営。その他、上田商工会議所議員、長野県商工経済会評議員、上田ガス取締役、上田信用金庫理事なども務めた。
辰馬 夘一郎(辰馬 卯一郎、たつうま ういちろう、1889年… 辰馬 夘一郎(辰馬 卯一郎、たつうま ういちろう、1889年〈明治22年〉3月26日 - 1979年〈昭和54年〉10月23日)は、日本の政治家。兵庫県西宮市長。西宮市会議員。西宮市名誉市民。 兵庫県武庫郡西宮町(現西宮市)出身。先代辰馬卯一郎の三男。 関西大学専門部に学び、中退する。1933年(昭和8年)、万歳酒造代表取締役となる。西宮町議を経て同市議に当選する。 1946年(昭和21年)3月2日から1959年(昭和34年)4月29日まで西宮市長を務めた。最後の官選市長であり、初代公選市長でもある。 1949年(昭和24年)には、夙川河川敷緑地に1,000本の桜の若木の植樹を行った。 1959年(昭和34年)、西宮市初の名誉市民。
伊藤 一郎(いとう いちろう、1888年(明治21年)3月2… 伊藤 一郎(いとう いちろう、1888年(明治21年)3月26日 - 1973年(昭和48年)2月28日)は、大正から昭和期の鉱山技師、政治家、華族。貴族院男爵議員。 伊藤恭四郎の二男として生まれる。祖父・伊藤圭介の養子となり、祖父の死去に伴い、1901年(明治34年)1月23日、家督を継承し、同年4月19日、男爵を襲爵した。 1913年(大正2年)7月、東京帝国大学工科大学冶金学科を卒業。同年、三菱合資会社に入社し生野鉱山技師に就任。以後、同社大阪製煉所技師、三菱鉱業(現三菱マテリアル)鉱業研究所長、堺化学工業専務取締役などを務めた。 1932年(昭和7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月… 工藤 祐舜(くどう ゆうしゅん、1887年(明治20年)3月26日 - 1932年(昭和7年)1月8日)は、日本の植物学者。現在の秋田県平鹿郡増田町(現横手市)縫殿生まれ。植物分類学の泰斗として知られる。 父祐哲は浄土真宗の寺院通覚寺の19世住職であり、祐舜は長男であったが、のちに弟祐信を養子として寺を継がせている。 1901年(明治34年)秋田県立第三中学校(現秋田県立横手高等学校)に入学、植物好きの教師宮沢運治に傾倒し、宮沢もまた工藤を殊の外かわいがって植物採集に連れまわし、あたかも助手のような扱いであったという。中学時代、すでに海外の植物園や博物館などと標本交換をおこない、学名不明の植物を札幌農学校の宮部金吾に送ったことで2人の文通が始まった。
加藤 隆太郎(かとう りゅうたろう、1887年(明治20年)… 加藤 隆太郎(かとう りゅうたろう、1887年(明治20年)3月26日 – 1973年(昭和48年)12月31日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。板橋区から練馬区の独立に貢献した。 東京府北豊島郡上土支田村(石神井村大字上土支田、大泉村大字上土支田、板橋区東大泉町、練馬区東大泉町を経て現東京都練馬区東大泉)で、農業・加藤信太郎、だい の第2子、長男として生まれる。1901年(明治34年)3月、大泉村立泉小学校(現練馬区立大泉小学校)高等科3学年を修了し東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)に進んだが、病のため1902年(明治35年)11月に中退した。家業の肥料商を手伝い、1906年(明治39年)4月から私立正則予備学校、同英語学校(現正則学園高等学校)で学んだ。
千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 195… 千葉 命吉(ちば めいきち、1887年3月26日 - 1959年12月29日)は明治 - 昭和時代の教育研究者、教育者。奈良女高師付属小学校訓導などをへて、大正9年(1920年)広島師範付属小学校の主事(現在の校長と同等)となる。大正10年(1921年)八大教育主張講演会で子供の独創性を重視する「一切衝動皆満足論」を発表。大正11年(1922年)ドイツに留学、独創学を研究。昭和3年(1928年)大日本独創学会を設立した。著作に「独創主義教育価値論」「独創教育学」など。 千葉命吉の創造教育論というのは1919年1月の『創造教育の理論及実際』でではじめて提唱された。その独創的理論が評価され大正9年(1920年)に小学校校長に抜擢された。
原田 譲二(はらだ じょうじ、1885年3月26日 - 19… 原田 譲二(はらだ じょうじ、1885年3月26日 - 1964年2月10日)は、日本のジャーナリスト。貴族院勅選議員。 岡山県後月郡西江原村(現・井原市)出身。1907年早稲田大学卒。報知新聞社に入り、1915年、東京朝日新聞社に入る。社会部長を経て、1925年、大阪朝日新聞社に入る。同社では編集局長から専務となり、1946年8月14日、貴族院勅選議員となった。貴族院議員は交友倶楽部に所属し翌1947年5月2日の貴族院廃止まで在職した。同年12月に公職追放を受けた。その後、追放解除となり、1964年に死去した。
二本松 孝蔵(にほんまつ こうぞう、1884年(明治17年)… 二本松 孝蔵(にほんまつ こうぞう、1884年(明治17年)3月26日 - 1972年(昭和47年)9月9日)は、日本の建築家、文化財修理技師。多数の社寺の保存修理や新築設計を手掛けた。 福島県出身。1908年(明治41年)工手学校(現工学院大学)卒業。1911年(明治44年)、国宝建造物修理工事主任。延命寺地蔵堂修理などを手掛ける。1917年(大正6年)に造神宮技手兼明治神宮造営技手となったのち、1927年(昭和2年)国粋建築研究所を開設。1925年(大正14年)大正大震災記念建造物競技設計佳作。角南隆を中心とした神祇院造営課と連動し、神社では11府県社の護国神社や官国幣社の社務所、齋館などの設計のほか、寺院でも比叡山修理、身延山祖廟設営など社寺ともに多くの設計を手掛けた。
長沼 賢海(ながぬま けんかい、1883年(明治16年)3月… 長沼 賢海(ながぬま けんかい、1883年(明治16年)3月26日 - 1980年(昭和55年)7月14日)は、日本史学者。九州大学名誉教授。 1883年、新潟県高田(現上越市)浄興寺山内の正光寺に生まれた。長沼賢明の長男。旧制新潟県立高田中学、旧制第四高等学校を経て、1907年、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。 1912年、東京府立第一中学校教諭となった。東京府立第一中学校教諭時代の教え子に、小林秀雄、河上徹太郎がいる。1920年、広島高等師範学校教授に転じた。1924年、史学研究のため欧州留学を命じられ、英・仏・独・蘭・印・伊などに滞在・留学した。1925年、九州帝国大学法文学部国史学科の初代教授に就任。
西村 真琴(にしむら まこと、1883年(明治16年)3月2… 西村 真琴(にしむら まこと、1883年(明治16年)3月26日 - 1956年(昭和31年)1月4日)は、日本の生物学者。元・北海道帝国大学教授。マリモの研究や、人間型ロボット「學天則」の制作などで知られるほか、保育事業にも貢献した。次男は2代目水戸光圀役で知られる俳優の西村晃。
蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 195… 蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 1954年2月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、勲等は勲一等功二級。石川県出身。
篠原 陸朗(しのはら ろくろう、1883年〈明治16年〉3月… 篠原 陸朗(しのはら ろくろう、1883年〈明治16年〉3月26日 - 1966年〈昭和41年〉9月6日)は、日本の政治家。衆議院議員選挙に通算4回当選した。 東京府(現・東京都)生まれ。東京帝国大学法科大学独法科卒業後官界に入り、司法官試補となった。その後大蔵省に移り(主計局属)、税務監査局事務官、大蔵省主計官、大蔵省書記官、長崎税関長、熊本税務監査局長を歴任した。 1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員選挙に立憲民政党公認で旧千葉県第1区から立候補し初当選した。2年後の第18回衆議院議員選挙では民政党大敗のあおりを受け次点に終わったものの、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員選挙で政界に返り咲いてからは連続3回総選挙に当選した。
小野 重行(おの しげゆき、1881年(明治14年)3月26… 小野 重行(おの しげゆき、1881年(明治14年)3月26日 - 1931年(昭和6年)7月30日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。神奈川県橘樹郡町田村の村長を経て、大正9年の総選挙で初当選し、通算4期務めた。 神奈川県橘樹郡町田村(のち潮田町・鶴見町、現・横浜市 鶴見区)に生まれる。東京法学院(現・中央大学)卒。町田村の村長を務め、臨海部の埋立・宅地化や地域開発に尽力した。大正期には多摩川改修など地域インフラをめぐる請願・運動にも関わった。 1920年の第14回衆議院議員総選挙で初当選(神奈川3区)し、1924年(神奈川3区)、1928年・1930年(いずれも神奈川2区)に当選、通算4期務めた。
河野 喜蔵(こうの きぞう、1880年(明治13年)3月26… 河野 喜蔵(こうの きぞう、1880年(明治13年)3月26日 - 1942年(昭和17年)4月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 岩手県西閉伊郡宮守村(現在の遠野市)出身。第四高等学校を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に弁護士試験に合格した。盛岡市に弁護士事務所を開業し、盛岡弁護士会副会長を務めた。1919年(大正8年)からは岩手県会議員に選出され、さらに同参事会員にも選出された。 1922年(大正11年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。
大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 19… 大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 1955年7月31日)は、日本の海事実業家。日本郵船第7代代表取締役社長、船舶運営会初代総裁。 福井県出身。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後日本郵船に入る。カルカッタ支店長、ニューヨーク支店長、ロンドン支店長、副社長等を経て、1935年(昭和10年)から代表取締役社長。日本航空輸送会長兼務を経て、1938年(昭和13年)大日本航空初代会長兼務。この間、1937年(昭和12年)日本通運発足時には理事に就任した。1942年(昭和17年)船舶運営会初代総裁に就任。太平洋戦争中の戦時体制下で海運統制を行った。このほか南洋拓殖参与理事、海運協会理事長、如水会理事等も務めた。
亀井 陸良(かめい ろくろう、明治4年2月6日(1871年3… 亀井 陸良(かめい ろくろう、明治4年2月6日(1871年3月26日) - 1923年(大正12年)3月11日)は戦前日本の新聞記者。 古河鉱業に勤務中、義和団事件におけるロシア帝国軍の満洲駐留に危機感を覚え、北京を拠点に時事新報、順天時報(中国語版)で対露主戦論、対中強硬論を唱えたが、晩年はパリ講和会議で聞いた国際連盟構想に影響を受け、一転して中国権益の放棄を主張した。 明治4年(1871年)2月6日大分県下毛郡万田村に医者亀井玄理の次男として生まれた。中津に出て山田小太郎の私塾に学んだ後、1888年(明治21年)上京し、1893年(明治26年)慶應義塾大学部法律科に進学した。在学中は中年寮舎監を務めて学資を稼ぎ、1895年(明治28年)12月大学部法律科を卒業した。
堀江 覚治(覺治、ほりえ かくじ、1870年3月26日(明治… 堀江 覚治(覺治、ほりえ かくじ、1870年3月26日(明治3年2月25日)- 1930年(昭和5年)4月23日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・志賀。 陸奥国磐前郡、のちの福島県磐前郡鹿島村(石城郡鹿島村、小名浜町、磐城市を経て現いわき市鹿島町)の志賀家に生まれる。1895年(明治28年)8月、伊達郡梁川村(梁川町を経て現伊達市梁川町)の堀江里の養子となり、1898年(明治31年)10月、家督を相続した。1890年(明治23年)慶應義塾大学部文科を卒業。 郷里の石川義塾(現学校法人石川高等学校・石川義塾中学校)講師に就任。岐阜日日新聞(現岐阜新聞)から招聘され主筆となる。
田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年… 田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年2月25日)- 1929年(昭和4年)1月5日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、香川県会議長。号・虚堂、俳号・笑蛙。 讃岐国香川郡高松紺屋町(現香川県高松市紺屋町)で、富豪・田中仁八郎の二男として生まれる。1889年(明治22年)に上京し、1892年(明治25年)専修学校理財科を卒業した。1893年(明治26年)3月、家督相続した。 帰郷して、高松銀行取締役を務めた。その他、高松商業会議所会頭、讃紙取締役、高松煉瓦取締役社長、第百十四銀行監査役、高松土地建物監査役、東京郊外土地監査役などに在任。また、讃岐実業新聞社の2代社長に就任し、讃岐日報社に改称して香川新報との競争を繰り広げた。