關屋 實(せきや みのる、1918年〈大正7年〉6月29日 … 關屋 實(せきや みのる、1918年〈大正7年〉6月29日 - 1996年〈平成8年〉1月29日)は、日本の薬学者(薬品製造化学)。勲等は勲三等。学位は薬学博士(東京大学・1950年)。静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会有功会員。姓の「關」は「関」の旧字体、名の「實」は「実」の旧字体のため、関屋 實(せきや みのる)、關屋 実(せきや みのる)、関屋 実(せきや みのる)とも表記される。 武田化学薬品株式会社、和光純薬工業株式会社を経て、神戸女子薬科大学薬学部助教授、静岡薬科大学薬学部教授、静岡薬科大学学長事務取扱などを歴任した。 薬品製造化学を専攻する薬学者である。蟻酸アンモニウムによる還元反応の研究では、日本における先駆者とされている。
松本 旭(まつもと あさひ、1918年6月29日 - 201… 松本 旭(まつもと あさひ、1918年6月29日 - 2015年10月30日)は、日本の俳人、俳句研究家、国文学者、作詞家。埼玉大学名誉教授、城西大学女子短期大学部教授。従四位。 埼玉県大石村(現・上尾市)出身。本名の読みは「あきら」。東京文理科大学卒業後、埼玉県立浦和高等学校で教鞭を執った。埼玉大学教育学部助教授、教授、1972年から1975年まで埼玉大学教育学部附属小学校校長兼任。1983年定年退官、名誉教授、城西大学女子短期大学部教授。 加藤楸邨、角川源義に師事して俳句を詠み、1978年俳誌『橘』を創刊、主宰。妻も俳人の松本翠。「村上鬼城研究」で俳人協会評論賞受賞。連歌・近代俳句の研究家でもあった。
織田 重治(おだ しげはる、1917年(大正6年)6月29日… 織田 重治(おだ しげはる、1917年(大正6年)6月29日 - 1995年(平成7年))は、大阪通管工業所の創業者で、アマチュアの古代史研究家。フィギュアスケート選手・織田信成の祖父。 兵庫県神戸市生まれ。1966年(昭和41年)家庭用下水配管の洗浄業を大阪市浪速区桜川で個人経営として創業。1968年(昭和43年)4月、家庭用下水配管の洗浄業を有限会社大阪通管工業所に改組する。 1983年(昭和58年)大阪医科大学の解剖学実習のための献体組織「さつき会」の初代会長となる。1985年(昭和60年)3月、「好太王碑文」の改竄説否定と碑文の再解析のために、古田武彦に従い藤田友治ら21名と訪中して「好太王碑」の現地調査を行う。
小山 正孝(おやま まさたか、1916年〈大正5年〉6月29… 小山 正孝(おやま まさたか、1916年〈大正5年〉6月29日 - 2002年〈平成14年〉11月13日)は、日本の詩人・中国文学者。「四季」「山の樹」「文学館」同人。関東短期大学教授。丸山薫賞受賞。 盆景家小山潭水の次男として、東京青山に生まれる。府立四中を経て、旧制弘前高等学校に進み、本格的に文学を志す。 高等学校時代に、杉浦明平の紹介で立原道造と知り合い、強い影響を受け、詩作を始める。したがって、初期には岩野泡鳴から立原へと発展したソネット形式を多用した、独自の世界を描いた抒情詩を多く作った。が、後には、散文的要素が強い哲学的、幻想的な世界を構築したり、日常に潜む危機を描いていった。また、初期から晩年まで、その詩の中心的課題は、「愛」であった。
村上 孝太郎(むらかみ こうたろう、1916年(大正5年)6… 村上 孝太郎(むらかみ こうたろう、1916年(大正5年)6月29日 - 1971年(昭和46年)9月8日)は、日本の大蔵官僚、政治家。参議院議員(1期)。位階は従三位、勲等は勲二等。 本籍地は愛媛県越智郡宮窪村(宮窪町を経て現・今治市)。東京で村上常太郎の長男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学校)、旧制第一高等学校を経て、1939年(昭和14年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝大在学中の1938年(昭和13年)10月、高等試験行政科試験に合格。卒業後は大蔵省に入省。配属先は専売局長官官房書記兼大臣官房文書課。神戸税関総務部長、神戸税関業務部長兼税関長官房主事を経て1942年(昭和17年)1月、大蔵事務官・理財局勤務となり第四艦隊司令部付が発令されラバウルに赴任。
太田 辰夫(おおた たつお、1916年〈大正5年〉6月29日… 太田 辰夫(おおた たつお、1916年〈大正5年〉6月29日 - 1999年〈平成11年〉1月31日)は、日本の中国語学者・中国文学者。 東京生まれ。東京外国語学校支那語科卒、1961年「現代中国語文法の歴史的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。神戸市外国語大学助教授、教授、1982年名誉教授、京都産業大学教授。1999年、肺炎のため死去。死没日付をもって勲六等単光旭日章を追贈された。 呉承恩を『西遊記』の作者ではないとする立場にたって、中国古典文学大系版の『西遊記』の翻訳にたずさわった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
足立 巻一(あだち けんいち、1913年6月29日 - 19… 足立 巻一(あだち けんいち、1913年6月29日 - 1985年8月14日)は、日本の小説家、詩人、エッセイスト。 メディアを通して本居宣長の顕彰に大きな功績を残した。代表作である『やちまた』は、盲目の国学者である本居春庭を描いた評伝文学の傑作である。 東京市神田区(現:東京都千代田区)に生まれる。生後間もなく父と死別、母は再婚したため、漢詩人であった祖父足立清三(敬亭)、祖母ヒデに育てられるが、1920年に祖母ヒデが急死、祖父清三としばし流浪の生活を送った。翌年、清三も横死を遂げ、神戸在住の母方の叔父に引き取られる。 諏訪山尋常小学校時代から「少年倶楽部」「赤い鳥」等に頻繁に短文、詩歌等を投稿。
竹内榮(たけうち さかえ、1910年6月29日 - 2006… 竹内榮(たけうち さかえ、1910年6月29日 - 2006年5月25日)は、日本の工学者。専門は金属工学・金属学。理学博士。室蘭工業大学元学長。東北大学名誉教授。 宮城県出身で生後間もなく札幌市に移り住んだ。1933年北海道帝国大学工学部卒業。 北海道帝國大學工学部助手、東北帝国大学金属材料研究所助手、東北帝国大学工学部講師、同工学部助教授、1945年東北帝国大学工学部教授。その後、東北大学金属材料研究所所長、東北大学低温センターセンター長を歴任。1974年東北大学停年退官。同名誉教授。 芝浦工業大学工学部教授。1975年室蘭工業大学6代学長に就任。1979年室蘭工業大学を退官。芝浦工業大学工学部教授に再び就任。
朝倉 季雄(あさくら すえお、1909年6月29日 - 20… 朝倉 季雄(あさくら すえお、1909年6月29日 - 2001年4月11日)は、日本の文学研究者、フランス語学者・フランス文学者。 東京生まれ。1922年 東京私立暁星小学校卒業。1927年東京私立暁星中学校卒業、1931年官立東京高等学校文科丙類卒業、1934年 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒業。母校・暁星小学校の教師となる。1946年日本大学三島予科教授、1949年茨城大学助教授、1953年東京大学教養学部助教授。1959年9月よりNHK教育で始まったテレビフランス語講座の講師となる(1962年まで)。1961年東大教授、1970年定年退官、中央大学経済学部教授。1987年東京大学名誉教授。
淺野 五郎(あさの ごろう、1909年6月29日 - 196… 淺野 五郎(あさの ごろう、1909年6月29日 - 1966年3月19日)は、日本の地球科学者。専門は応用地質学・鉱床学。福岡県福岡市生まれ。 1927年福岡県中学修猷館、1930年旧制福岡高等学校理科乙類を経て、1933年3月に東京帝国大学理学部地質学科を卒業。大学院に進むが、同年9月より南満州鉄道嘱託となる。1938年4月より満州国大陸科学院に所属。1946年5月古河鉱業の職員となり、配下の鉱山の調査・探鉱などを行う。1951年4月、東京大学より理学博士の学位を取得。論文表題は「満洲産縞状鉄鉱の造進変成」。1956年3月古河鉱業を退社、4月より国際基督教大学教授となる。1960年4月、木下亀城教授の後任として九州大学工学部教授(採鉱学科応用地質学講座)に就任。
浜田 尚友(はまだ ひさとも、1909年(明治42年)6月2… 浜田 尚友(はまだ ひさとも、1909年(明治42年)6月29日 - 1988年(昭和63年)3月3日)は、日本の政治家。帝国議会衆議院議員、国分市議会議長。 鹿児島県の国分村(現・霧島市)出身で国分小学校卒業。1927年(昭和2年)鹿児島県立加治木中学校 (旧制)卒業。1932年(昭和7年)早稲田大学政治経済学部政治科卒業。同年東京日日新聞社(現・毎日新聞社)に入社し、社会部・政治部記者。厚生大臣秘書官(1940年(昭和15年))などを経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)で翼賛政治体制協議会推薦候補として鹿児島県第2区にて当選。1943年(昭和18年)現職議員中より第一号陸軍二等兵として応召、硫黄島戦闘参加。
伏見 康治(ふしみ こうじ、1909年6月29日 - 200… 伏見 康治(ふしみ こうじ、1909年6月29日 - 2008年5月8日)は、日本の物理学者(理論物理学)。名古屋大学名誉教授、大阪大学名誉教授。理学博士、日本学術会議第11期会長(1953年就任)、民主主義科学者協会メンバー。公明党参議院議員(1期)。正四位勲二等(没時)。 伏見は1909年に愛知県名古屋市で生まれ、東京で育ち、東京高等学校を経て東京帝国大学理学部物理学科に進んだ。 そして1933年に大学を卒業するとすぐに同大学理学部物理学教室で寺澤寛一教授の助手となり、翌1934年に新設の大阪帝国大学理学部物理教室に移った。大阪では友近晋教授の下に助手として就く予定であったが、友近教授がイギリスに留学したため、菊池正士教授に誘われて原子核実験に携わった。
丸岡 明(まるおか あきら、1907年6月29日 - 196… 丸岡 明(まるおか あきら、1907年6月29日 - 1968年8月24日)は、日本の小説家。 東京市麹町にて、落合直文門下の歌人で能楽書林を設立した丸岡桂の長男として生まれる。祖父は沖縄・高知の県知事を務めた丸岡莞爾。暁星中学校から慶應義塾予科を経て、慶應義塾大学仏文科卒。在学中、水上滝太郎の知遇を得て1930年に『三田文学』に「マダム・マルタンの涙」を発表してデビューした。のち堀辰雄に師事し、1935年「生きものの記録」を『三田文学』に発表する。 1966年「静かな影絵」「街の灯」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。『堀辰雄全集』編纂委員を務めた。能の解説、編集も多く、原民喜をモデルとした『贋きりすと』などを書いた。
織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006… 織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006年10月18日)は、日本の地理学者(人文地理学)。京都大学名誉教授。 1907年、京都府京都市生まれ。京都府立一中、七高を経て、1929年に京都帝国大学文学部に進学。地理学を専攻し、1932年に同大学文学部を卒業。 卒業後は、龍谷大学予科、関西学院高等商業学校、立命館大学講師を務めた。1940年、関西学院高等商業学校教授に就任。 1946年4月、立命館大学文学部教授に就任。しかし、翌1947年3月に母校である京都大学文学部助教授に転じた。これは、戦中京都大学地理学教室は地政学研究に走ったため、戦後全ての教官が辞任することとなったためであった。
渡瀬 譲(わたせ ゆずる、1907年6月29日 - 1978… 渡瀬 譲(わたせ ゆずる、1907年6月29日 - 1978年5月17日)は、日本の物理学者。宇宙線研究の草分けとして著名で、大阪市立大学学長を務めた。大阪市北区出身。 実家は、大阪・梅田の阪神百貨店の西側にあった木造3階建て旅館「国有館」。 天王寺師範学校附属小学校、大阪府立生野中学校、姫路高等学校を経て、京都帝国大学経済学部に進学。河上肇の弟子となり、唯物弁証法を学んだ。1930年に卒業後、唯物弁証法を実践するため東北帝国大学理学部に入り直し、物理学を学んだ。1933年の卒業前に東芝に就職が内定していたが、採用を取り消されたため、学究の道に進路変更し、1933年に新設された大阪帝国大学理学部の助手になった。
高島 重孝(たかしま しげたか、1907年6月29日 - 1… 高島 重孝(たかしま しげたか、1907年6月29日 - 1985年1月23日)は、日本の医学者、皮膚科医。ハンセン病治療に貢献した。国立療養所栗生楽泉園、東北新生園、傷痍軍人武蔵療養所、同愛媛療養所、傷痍軍人駿河療養所(所長;国立駿河療養所)、国立療養所長島愛生園(園長)に勤務した。長島愛生園と本土を結ぶ、長島架橋に努力した。 1907年6月29日 東京府東京市麻布区(現・東京都港区麻布)に生まれる。1931年3月 慶應義塾大学医学部卒業。1931年4-8月 同予防医学教室助手。1933年2月 国立らい療養所栗生楽泉園嘱託。4月同医官。1938年9月 国立らい療養所東北新生園勤務。1940年8月 慶應義塾大学 医学博士 論文の題は 「癩の罹患素質と家庭内伝染について」。
朱牟田 夏雄(しゅむた なつお、1906年6月29日 - 1… 朱牟田 夏雄(しゅむた なつお、1906年6月29日 - 1987年10月18日)は、日本の英文学者。東京大学名誉教授。
尾澤 喜雄(おざわ よしお、1906年6月29日 - 197… 尾澤 喜雄(おざわ よしお、1906年6月29日 - 1977年9月7日)は、日本の教育者・文学者(俳文学)。岩手大学名誉教授。俳号は白路(はくろ)。旧姓は片瀨(かたせ)。姓の「澤」は旧字体のため、新字体で尾沢 喜雄(おざわ よしお)とも表記される。 東京府立第二高等女学校教諭、埼玉県立久喜高等女学校教諭、長野県篠ノ井高等女学校教諭、長野市立中学校教諭、岩手師範学校教授、岩手大学学芸学部教授、岩手大学教育学部教授などを歴任した。 1906年6月、片瀨政十郞の二男として生まれたが、尾澤惠の養子となった。長野県北安曇郡七貴村出身。長野師範学校、旧制の松本高等学校の文科を経て、東京帝国大学に進学し、文学部の国文学科にて国文学を学んだ。
入江 相政(いりえ すけまさ、1905年〈明治38年〉6月2… 入江 相政(いりえ すけまさ、1905年〈明治38年〉6月29日 - 1985年〈昭和60年〉9月29日)は、日本の官僚、歌人であり随筆家である。 昭和天皇の侍従・侍従長を長く務めた。従二位勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章、紺綬褒章・賞杯。 堂上華族の入江家出身。歌人・柳原白蓮の甥であり、元岩崎勝商事社長・岩崎勝太郎は相政の義弟にあたる。柳原前光の孫である。 1905年(明治38年)6月29日、東京府東京市麻布区笄町(現・東京都港区西麻布)で、入江為守子爵・貴族院議員の三男として生まれる。兄に入江為常。生家は歌道冷泉派の宗家・冷泉家の流れを汲む「歌の家」。 冷泉家・入江家の通字は家祖・冷泉為相の名から取った「為」だが、入江家では「相」の字も通字として用いられたため、相政と名付けられた。
岡崎 次郎(おかざき じろう、男性、1904年〈明治37年〉… 岡崎 次郎(おかざき じろう、男性、1904年〈明治37年〉6月29日 - 1984年〈昭和59年〉9月30日以降?)は、日本のマルクス経済学者、翻訳家。マルクスの大著『資本論』の翻訳で知られる。 北海道江差生まれ。第一高等学校を経て、1927年(昭和2年)に東京帝国大学文学部、1929年(昭和4年)に同経済学部を卒業。戦後、1950年(昭和25年)より九州大学教養部教授。ついで法政大学経済学部教授となる。1968年(昭和43年)法政大学教授を辞任、以降は著述業に専念した。 1983年(昭和58年)に青土社から出版した『マルクスに凭()れて六十年 自嘲生涯記』という自伝で向坂逸郎を批判。本書を友人・知人らに献本し、さりげなく別れの会を持った岡崎は、「これから西の方へ行く」という言葉を残して、80歳となる直前の翌1984年(昭和59年)6月6日からクニ夫人とともに死出の旅に出た。
内田 鐡衛(うちだ てつえ、1904年(明治37年)6月29… 内田 鐡衛(うちだ てつえ、1904年(明治37年)6月29日 - 1996年(平成8年)2月18日)は、日本の技術者、実業家、経営者、株式会社コロナ創業者。内田力は長男。 1904年(明治37年)新潟県三条市に生まれる。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、20歳の時には逓信省電気事業主任技術者の資格を取得。その技術と知識を生かすべく富山電気(現・北陸電力)へ入社。 入社後4年程で、父に呼び戻され家業であるガソリンコンロの販売を手伝うようになる。家業は順調に進み、販売や修理を通して、燃焼効率や操作性などコンロの様々な改良点を発見した鐡衛は、徐々に自分のアイデアを活かしたコンロを自らの手で作り上げたいという思いを強めていく。
阿子島 俊治(あこしま しゅんじ、1902年〈明治35年〉6… 阿子島 俊治(あこしま しゅんじ、1902年〈明治35年〉6月29日 - 1954年〈昭和29年〉4月30日)は、日本のジャーナリスト、政治家。 宮城県刈田郡白石町(現・白石市)生まれ。1927年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、国民新聞社に入社。政治部記者、政治部次長、論説委員を歴任した。 政治ジャーナリストとして活動する一方早くから政界入りを志し、1936年に立憲民政党公認で第19回衆議院議員総選挙に立候補したが落選。その後1942年に行われた翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し初当選、翼賛政治会・大日本政治会に所属した。 阿子島が総選挙に初当選したのは翼賛選挙だったが、落選したとはいえ政党解消前に民政党公認で総選挙に立候補したことがあったことや、ジャーナリスト時代に衆議院議長を務めたこともある民政党の大物政治家・藤沢幾之輔の伝記を上梓したこともあったため、阿子島は翼賛議会においては戦前の民政党の系譜を受け継ぐ政治家とみなされた。
山崎 覚太郎(やまざき かくたろう、1899年6月29日 -… 山崎 覚太郎(やまざき かくたろう、1899年6月29日 - 1984年3月1日)は、漆芸家。富山県出身。 1924年(大正13年)東京美術学校漆工科卒。1925年(大正15年)パリ万国博覧会で金賞。1928年(昭和3年)より東京美術学校助教授、のち東京芸術大学教授を務める。 1939年(昭和14年)文展審査員、1946年(昭和21年)日展審査員、1950年(昭和25年)日展運営会参事、1954年(昭和29年)日本芸術院賞受賞。帝展特選受賞。 1957年(昭和32年)日本芸術院会員、1958年(昭和33年)日展常務理事。同年、第一回日本美術展覧会が東京都美術館で開催され、昭和天皇、香淳皇后が行幸啓。
長谷部 文雄(はせべ ふみお、1897年(明治30年)6月2… 長谷部 文雄(はせべ ふみお、1897年(明治30年)6月29日 - 1979年(昭和54年)6月13日)は、日本の経済学者。 愛媛県出身。愛媛県立今治中学校卒業後、第一高等学校に進学し、1920年に同校英法科を卒業し、京都帝国大学経済学部に入学。1923年に学士試験に合格し、「経済原論」の研究のため、同大学大学院に進学する。その後、同志社大学講師となり、教授であった1933年には治安維持法違反で検挙起訴され、同志社大学を退職した。戦後、立命館大学教授、龍谷大学教授、1977年退職。 マルクス主義経済学文献の翻訳を行い「資本論」を完訳した。
村田 保定(むらた やすさだ、1897年(明治30年)6月2… 村田 保定(むらた やすさだ、1897年(明治30年)6月29日 - 1976年(昭和51年)11月6日)は、大正・昭和期の弁護士・政治家・華族。貴族院男爵議員。旧姓・安場、旧名・道俊。 実業家・安場末喜の三男として生まれる。1921年(大正10年)3月、京都帝国大学法学部法律学科を卒業した。同年、明治銀行に入行し、日本勧業銀行に転じ同青森支店主事、同本店支店課勤務を務めた。妻子を伴い、男爵・村田綱太郎(村田経芳長男)の死跡を相続し、1929年(昭和4年)4月15日、男爵を襲爵した。その後、第一弁護士会所属弁護士となった。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
土浦 亀城(つちうら かめき、1897年(明治30年)6月2… 土浦 亀城(つちうら かめき、1897年(明治30年)6月29日 - 1996年(平成8年)1月29日)は、昭和期の建築家である。 茨城県水戸市で土浦市松と光枝の間に生まれた。市松と横山大観はいとこである。1918年東京帝国大学工学部建築学科に入学。1922年、寄宿先で知り合い懇意にしていた遠藤新(当時、帝国ホテル建設のために来日していたフランク・ロイド・ライトの手伝いをしていた)の紹介でドラフトマンとしてライトの設計を手伝った。 同年にライトが建設費の問題から帝国ホテルの設計の任を解かれアメリカに引き上げる際、土浦はライトからアメリカに来るように請われ、卒業後の1923年に信子夫人(吉野作造の長女)と共に渡米。
小林孝三郎(こばやし こうざぶろう、1897年6月29日 -… 小林孝三郎(こばやし こうざぶろう、1897年6月29日 - 1995年7月22日)は、茨城県坂東市(旧岩井市)生まれの実業家であり、コーセーの創設者である。 長男は第2代社長の小林禮次郎、三男は第3代社長の小林保清。孫は第4代社長の小林一俊。
大中 寅二(おおなか とらじ、1896年(明治29年)6月2… 大中 寅二(おおなか とらじ、1896年(明治29年)6月29日 - 1982年(昭和57年)4月19日)は、日本の作曲家、オルガニスト。 東京市芝区三田(現在の東京都港区)に生まれる。大阪府立北野中学校時代に大阪教会で宮川経輝から受洗。1920年(大正9年)同志社大学法学部経済学科を卒業し、霊南坂教会(東京市赤坂区霊南坂町)オルガニストとなる(1979年(昭和54年)まで)。東京で山田耕筰に作曲を師事する。1925年(大正14年)にはドイツに留学し、ベルリンでレオポルト・カール・ヴォルフに作曲を師事する。帰国後、東洋英和女学院短期大学で教えた。 また副科で打楽器を習得し、1942年の満洲国建国10周年奉祝交響楽団(山田耕筰、大塚淳、ヘルムート・フェルマー指揮で新京での演奏)には打楽器奏者として加わっている。
二神 範蔵(ふたかみ のりぞう、明治28年(1895年)6月… 二神 範蔵(ふたかみ のりぞう、明治28年(1895年)6月29日 - 没年不明)は日本の実業家。元山下近海汽船社長。 二神は、東京都知事石原慎太郎の父潔の死後、慎太郎に一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめた 愛媛県南宇和郡城辺町(現在の愛南町)出身。二神彦一の男。 大正7年(1918年)東京高商(現在の一橋大学)を卒業し三井物産を経て、昭和6年(1931年)6月山下汽船に入社し日濠定航事務所長、紐育支店副長、名古屋支店長を歴任。 昭和18年(1943年)山下近海機船常務に転じ、昭和22年(1947年)3月同社社長に挙げられ、昭和24年(1949年)4月第二会社山下近海汽船を設立し社長に就任した。
小寺 敬一(こでら よしかず、1894年6月29日 - 19… 小寺 敬一(こでら よしかず、1894年6月29日 - 1951年9月16日)は、日本の経営学者。関西学院高等商業学部教授。大丸百貨店監査役、神戸ゴルフ倶楽部理事。族籍は兵庫県士族。兵庫県多額納税者。氏の本宅については本記事の「邸宅」の節及び「日本一の富豪村・住吉村」を、別荘は「六甲山荘」の記事を参照。 第10代学校法人関西学院院長の小寺武四郎、元ユニチカ社長の小寺新六郎は甥。 大日本紡績監査役の小寺成蔵の長男として生まれる。 1912年、兵庫県立第一神戸中学校を卒業し、関西学院高等学部に進学し、同学部商科第1期卒業生(16年)12名の一人となった。その後、アメリカ・インディアナ大学、コロンビア大学に留学する。
飯塚 知信(いいづか とものぶ、1892年(明治25年)6月… 飯塚 知信(いいづか とものぶ、1892年(明治25年)6月29日 - 1965年(昭和40年)3月12日)は、昭和時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 新潟県刈羽郡日高村新道(高田村新道を経て現柏崎市新道)で、素封家、実業家、政治家・飯塚弥一郎の二男として生まれる。1918年(大正7年)早稲田大学政治経済科を卒業し、1921年(大正10年)欧米を視察する。1924年(大正13年)柏崎銀行頭取、ついで柏崎瓦斯取締役、第四銀行監査役、柏崎農業倉庫組合長、早稲田大学評議員、新潟県山林会顧問、新潟地方裁判所陪審委員長、高田村長、百三十九銀行取締役、上条郷農業振興会長、柏崎販売購買利用組合長、新潟県農会特別議員、刈羽郡乾繭組合長、高田村農協組合長などを歴任した。
二木 保幾(ふたつぎ やすき、1892年6月29日 - 19… 二木 保幾(ふたつぎ やすき、1892年6月29日 - 1934年9月21日)は、日本の経済学者。 長野県南安曇郡明盛村(現安曇野市)生まれ。旧制順天堂中学校を経て、明治43年(1910年)早稲田大学高等科に入学し、大正3年(1914年)早稲田大学政治経済学部卒業。同年朝日新聞社に入社し、政治経済部の記者を経て、外務省担当記者を担当した。同4年(1915年)第2次大隈内閣が全国遊説を試みた際には後援会遊説部を組織し、その会長となった。同8年(1919年)、早稲田大学第2代総長塩澤昌貞から、母校留学生としてアメリカ、ドイツ、フランスへの留学を命じられ、帰国後は、同12年(1923年)同大学政治経済学部教授、同13年(1924年)教務主任等を勤め、日本の経済学界の重鎮と謳われたが、昭和9年(1934年)に病没した。
金島 桂華(かなしま けいか、1892年〈明治25年〉6月2… 金島 桂華(かなしま けいか、1892年〈明治25年〉6月29日 - 1974年〈昭和49年〉9月14日)は、日本画家、日本芸術院会員。福山市名誉市民。 広島県安那郡湯田村(現・福山市神辺町湯野)に父儀一郎、母シナの長男として生まれる。本名は政太(まさた)。 絵の勉強は平井直水に師事、竹内栖鳳主催の竹杖会では西山翠嶂、西村五雲、橋本関雪、土田麦僊や小野竹喬、徳岡神泉、池田遙邨あるいは大村廣陽と同門である。橋本とは1917年、共に揚子江を旅している。 私塾の衣笠会を主催し、藤島博文など後進の育成に努め、四条派と院体風を取り入れた花鳥画を得意とした。万鉄五郎とは金島の妻が加わった参禅の会を介して知己を得る。
岩崎 栄(いわさき さかえ、1891年6月29日 - 197… 岩崎 栄(いわさき さかえ、1891年6月29日 - 1973年3月5日)は、日本の作家。 岡山県児島郡琴浦町(現・倉敷市)に農家の次男として生まれる。岡山商業学校(現岡山県立岡山東商業高等学校)卒。 郷里の商工学校で教えたりしたが上京し、早稲田大学予科および明治大学中退。帰郷し、岡山新聞、大阪時事新報支局の記者をしたのち1920年大阪毎日新聞に入社、1928年東京日日新聞社会部に転じ、社会部副部長を務め1939年に退社。 1934年8月、佐山栄太郎の筆名で『改造』に発表した「天保忠臣蔵」が1935年片岡千恵蔵によって映画化された。 はじめ政治家伝などを書き、戦後はエロティック歴史小説を書いた。
千輪 浩(ちわ ひろし、1891年6月29日 - 1978年… 千輪 浩(ちわ ひろし、1891年6月29日 - 1978年8月13日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。 旧制第六高等学校、東京帝国大学文学部哲学科心理学専攻卒業。1926年東京帝大助教授、のち教授、1952年定年退官。1965年 日本心理学会名誉会員。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
平島 良一(ひらしま りょういち、1891年(明治24年)6… 平島 良一(ひらしま りょういち、1891年(明治24年)6月29日 - 1956年(昭和31年)11月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府日根郡北信達村、のち泉南郡信達村→信達町、現在の泉南市で平島幸吉の息子として生まれる。1915年(大正4年)明治大学法律科を卒業した。 大阪木津川セメント (株) に入社し用度課長を務めた。在勤中、雨の日には出勤せず、会社もしかたなく公認した。その後、会計士の業務に従事。鉱業、農業に転業し、1943年(昭和18年)コバルト採掘鉱業に関係した。その他、合資会社信達織布工場理事、平島紡績取締役、同会長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で大阪府第2区から立候補したが落選。
増田 胤次(ますだ たねじ、1887年6月29日 - 196… 増田 胤次(ますだ たねじ、1887年6月29日 - 1964年6月5日)は、日本の医学者。東京帝国大学医学部耳鼻咽喉科の教授。埼玉県出身。 1887年(明治20年)6月29日生まれ。東京帝国大学医科大学卒業。スイスに留学し、陸軍軍医学校教官を経て、1924年(大正13年)母校である東京帝国大学の教授となる。同年、医学博士を取得。1942年(昭和17年)、東京帝国大学附属病院長に就任。1952年(昭和27年)東京大学名誉教授。 1964年(昭和39年)6月5日死去。76歳。墓地は奥多摩にある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
上中啓三(うえなか けいぞう、1876年(明治9年)6月29… 上中啓三(うえなか けいぞう、1876年(明治9年)6月29日 - 1960年(昭和35年)1月11日)は、日本の化学者、薬剤師。ニューヨークで高峰譲吉の助手としてアドレナリンの発見に貢献し、帰国後はアドレナリンの製造開発に尽力したことにより知られる。 1876年、兵庫県塩瀬村名塩(現:西宮市名塩)に生まれる。10歳の時に大阪のミッションスクールに入学して英語や化学を学んだ後、大阪道修町の薬問屋にて丁稚として働く。1891年共立薬学校(現・大阪大学薬学部)に入学し、1894年には薬剤師国家試験に合格して薬剤師となる。その後東京帝国大学医学部薬学科に入学し、「日本近代薬学の開祖」として知られる長井長義のもとで研究生活を送る。
井上 虎治(いのうえ とらじ、1876年〈明治9年〉6月29… 井上 虎治(いのうえ とらじ、1876年〈明治9年〉6月29日 - 1929年〈昭和4年〉12月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 飾磨県飾西郡飾西村(のちの兵庫県飾磨郡余部村を経て現姫路市)出身。逓信省通信書記、姫路郵便局電信課長となり、その後は大阪商船(株)助役、(資)台湾組支配人、(名)富島組総務理事、帝国サルベージ、阪堺電鉄各(株)取締役社長、木津川運河土地、木代発動機製造各(株)監査役、大阪商業会議所議員、大阪税関貨物取扱人連合会会長、港湾協会評議員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において兵庫10区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に移り、衆議院議員を1期務めた。
坪川 洹平(つぼかわ かんぺい、1874年(明治7年)6月2… 坪川 洹平(つぼかわ かんぺい、1874年(明治7年)6月29日 - 1958年(昭和33年)11月7日)は、日本の実業家・慈善家。1952年(昭和27年)には新発田市名誉市民に推挙された(名誉市民第1号)。新発田町立図書館(新発田市立中央図書館の前身)の寄贈者である。新潟県北蒲原郡新発田本村外ヶ輪(現・新発田市城北町)出身。 1874年(明治7年)6月29日、新潟県北蒲原郡新発田本村外ヶ輪(現・新発田市城北町)に生まれた。父親は坪川瀬平、母親はウイである。洹平は5人兄弟姉妹の三男であり、兄には英吉と雄二、姉にはレンとキイがいた。父の瀬平は新発田藩の茶道家である田宮休斎の次男であり、坪川家を嗣いで同家7代目となった。
金山 米次郎(かなやま よねじろう、1872年6月29日(明… 金山 米次郎(かなやま よねじろう、1872年6月29日(明治5年5月24日)- 1941年(昭和16年)5月29日)は、富山市長。弟は安田銀行下谷支店長を務めた金山音治。 富山県富山市出身。青雲の志を抱き東京に出る。東京芝新銭座町4番地(現・東京都港区東新橋2丁目)にあった吏党系の壮士の集う「青年義勇団」に所属しようとしたが若すぎた為、年齢を2歳偽り所属した。実年齢20歳(公称22歳)の時、1891年(明治24年)5月29日、板垣退助を総理(総裁)に迎えた自由党は「国家主義(極右)と社会主義(極左)とはともに国を滅ぼす」とし、その中庸を目指す自由党の自由主義こそが国家を津々と発展させるものであるとして国家が歩むべき方向性を示す宣言を行い、10月15日に自由党は党大会を開いて党則を改正したが、国家主義を標榜し民党と対立する吏党に所属する米次郎は、自由党の方向性と板垣に対して憤りを覚えた。
並川 栄慶(なみかわ えいけい、明治4年5月12日(1871… 並川 栄慶(なみかわ えいけい、明治4年5月12日(1871年6月29日) - 1936年(昭和11年))は日本の芸能家、政治家。京都市会議員、京都府会議員、京都府会議長(第30、32代)。別名は並河栄慶、並川隆乗、隆栄。 1877年(明治10年)家督相続。明治法律学校卒業。1890年(明治23年)京都の中竹座で藤沢浅二郎とともに浮世演説をして賑わい、『諷刺悲壮時事講談』の上演で臨検警官の注意を受けるも初日200、2日目300の人出で注目される。1895年(明治28年)頃に浪曲の前身『チョンガレ節』で人気となる。明治30年代に姓の並河を並川に改姓。 1911年(明治44年)4月、京都市会議員となる。
瀬戸口 藤吉(せとぐち とうきち、1868年6月29日〈慶応… 瀬戸口 藤吉(せとぐち とうきち、1868年6月29日〈慶応4年5月10日〉 - 1941年〈昭和16年〉11月8日)は、日本の音楽家、海軍軍楽師。軍艦行進曲や愛国行進曲などを作曲し、「日本行進曲の父」とされる。 琉球王朝に対する接待係を務める薩摩藩士・瀬戸口覚兵衛の家に生まれる。出生地は鹿児島県鹿児島郡小川町(現・鹿児島市)と肝属郡垂水村(現・垂水市)の二説がある。 13歳の時、覚兵衛の実弟であり、東海鎮守府警吏補であった大山軍八の養子となって大山藤吉と名を改め、横浜(東海鎮守府が置かれていた。1885年に横須賀に移転)に移る。1882年、海軍の第2回軍楽公募生に応募し採用される。クラリネットを学んだほか、フランツ・エッケルトと吉本光蔵に和声を師事し、後に東京音楽学校外国人教師のアンナ・レール(ピアノ)とアウグスト・ユンケルとグスタフ・クローンにも師事した。
今村 恵猛(いまむら えみょう、英: Yemyo Imamu… 今村 恵猛(いまむら えみょう、英: Yemyo Imamura、慶応3年5月27日(1867年6月29日) - 昭和7年(1932年)12月22日)は、明治後半から昭和戦前期にかけてハワイで活動した浄土真宗本願寺派(本派、西本願寺)僧侶。本派本願寺ハワイ別院初代輪番(住職)。仏教青年会(YMBA)の設立者でもある。 1867年、越前国足羽郡東郷村(現在の福井県福井市東郷地区)の専徳寺に生まれる。1876年、10歳で得度。京都の西本願寺普通教校(龍谷大学の前身)で学んだ後、奨学金を得て東京の慶應義塾大学に学ぶ。1893年に卒業後は福井に戻り、中学校で英語教師を務める。 1899年、今村はハワイ在住の浄土真宗門徒に奉仕するため同地に移住した。
高楠 順次郎(たかくす じゅんじろう、1866年6月29日(… 高楠 順次郎(たかくす じゅんじろう、1866年6月29日(慶応2年5月17日) - 1945年(昭和20年)6月28日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の仏教学者・インド学者。号は「雪頂」。 東京帝国大学(東京大学の前身)文学部教授、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長、東洋大学学長。 1866年(慶応2年)、備後国御調郡篝村(現三原市八幡町篝)の農家・沢井家に7人兄弟の長男として生まれた。幼いころから祖父に漢籍を習ったが、旧家とはいえ進学するだけの余裕はなく、14歳で小学校教員として働き始めた。その後、近隣出身で当時西本願寺を代表する学僧であった日野義淵(足利義山の子)や是山恵覚等の助力もあって、1885年に西本願寺が京都に創設したばかりの普通教校(現・龍谷大学)に21歳で入学した。
榊田清兵衛(さかきだ せいべえ、元治元年5月26日(1864… 榊田清兵衛(さかきだ せいべえ、元治元年5月26日(1864年6月29日) - 昭和4年(1929年)10月10日)は、明治時代から昭和時代の政治家。仙北郡会議員、秋田県会議員を経て元衆議院議員(当選7回)。地方問題の解決と床次竹二郎内閣実現のために奔走した。 出羽国仙北郡大曲村(現秋田県大仙市大曲地区)に大地主・四世榊田清兵衛(長蔵)と由利町出身のさだの長男として誕生。幼名は清蔵。女ばかりの後の待望の男子となる。1874年(明治7年)に大曲小学校に入学後、まもなく父長蔵が亡くなり、家督相続し、家名の清兵衛をついだ。わんぱく少年だったが学問を好み、神沢繁(素堂)、黒沢利吉、高垣重明、岡田好成らに師事し、自宅向かいに講習義塾を設立した。
宇田川 銀之助(うだがわ ぎんのすけ、旧姓・福室、1863年… 宇田川 銀之助(うだがわ ぎんのすけ、旧姓・福室、1863年6月29日〈文久3年5月14日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、資産家、商人(酒醬油商)、会社役員。東京市神田区会議員。共立土地建物取締役。族籍は東京府平民。 東京府豊多摩郡上落合村(現・東京都新宿区上落合)出身。福室藤左衛門の三男。浅草平右衛門町の酒家の宇田川に養子となり、1896年に家督を相続する。 酒醬油商を営む。養父・金蔵は老衰していて家業は甚だ振るわなかったので、身を挺して難局に当たった。 信仰に厚く、平常弘法大師に帰依し、諸国の霊場を巡拝した。住所は東京神田同朋町(現・東京都千代田区外神田)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
飯島 正治(いいじま まさじ / しょうじ、文久元年5月22… 飯島 正治(いいじま まさじ / しょうじ、文久元年5月22日〈1861年6月29日〉 - 1922年〈大正11年〉7月24日)は、明治から大正時代にかけての日本の政治家・実業家である。政治家としては長野県会議員(1期)や衆議院議員(2期)を歴任、実業家としては六十三銀行頭取を長く務めた。号は雪州。 子に六十三銀行の後身にあたる八十二銀行で頭取を務めた飯島正一がいる。 飯島正治は、文久元年5月22日(新暦:1861年6月29日)、飯島新左衛門の長男として生まれた。飯島家は信濃国更級郡今井村(後の長野県更級郡中津村、現・長野市)の素封家。300年を越える旧家であり、先祖は上野国館林から移り住んできたと伝わる。
鍋島 桂次郎(なべしま けいじろう、1860年6月29日(万… 鍋島 桂次郎(なべしま けいじろう、1860年6月29日(万延元年5月11日) - 1933年(昭和8年)1月30日)は、日本の外交官、貴族院勅選議員。神代鍋島家第16代当主。 神代鍋島家13代当主鍋島茂元(佐賀藩9代・鍋島斉直の26男)の次男として生まれる。1884年(明治17年)、外務省御用掛となり、外務属、交際官試補、外務書記官などを歴任。同年6月に兄茂文の後を継ぎ神代鍋島家当主となる。アメリカ、ドイツ、イギリスで公使館一等書記官として勤務した。1906年(明治39年)、統監府書記官兼外務省参事官に任じられ、統監府参与官、統監府外務総長、同外務部長を歴任した。1909年(明治42年)、駐ベルギー公使に任命され、1913年に後任の阿部守太郎が暗殺されたため、1914年(大正3年)まで務め、陸奥広吉と交代した。
石川 清(いしかわ きよし、1852年6月29日(嘉永5年5… 石川 清(いしかわ きよし、1852年6月29日(嘉永5年5月12日)- 1930年(昭和3年)2月25日)は、明治から大正期の酒造家、政治家。衆議院議員、宮崎県会議長、宮崎県東臼杵郡富高村長。 日向国臼杵郡、のちの宮崎県東臼杵郡富高村(富高町、富島町を経て現日向市)で、酒造業・石川源五郎の長男として生まれる。漢学を修めた。酒造業を営む。 椎葉向山村副戸長に就任。1880年(明治13年)鹿児島県会議員に選出された。宮崎県会議員に選出され7期18年9カ月在任した。この間、同常置委員、同議長、富高村長、宮崎県農会議員なども務めた。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(宮崎県全県区、立憲政友会)で初当選し、第9回総選挙でも再選され、衆議院議員に通算2期在任した。