木村 毅(きむら き、1894年2月12日 - 1979年9… 木村 毅(きむら き、1894年2月12日 - 1979年9月18日)は、日本の文学評論家、明治文化史の研究家、小説家。小説家の阿部知二とはいとこ同士にあたる。 岡山県勝南郡勝間田村(現:勝田郡勝央町)に生まれる。少年時代から文士を志し、『少年世界』『文章世界』に投稿する。高等小学校卒業後の3年間独学、その後早稲田大学英文科に入学。同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、細田源吉らがいた。1917年卒業。 隆文館、次いで早稲田で同級だった直木三十五らの設立した春秋社に入社し、トルストイ全集の編集を手がけ、植村退社後も宮崎安右衛門『乞食桃水』、西田天香『懺悔の生活』などのベストセラーを企画した。
重宗 雄三(しげむね ゆうぞう、1894年(明治27年)2月… 重宗 雄三(しげむね ゆうぞう、1894年(明治27年)2月11日 - 1976年(昭和51年)3月13日)は、日本の政治家、実業家。 参議院議長(第8-10代)、参議院副議長(第4代)、運輸大臣(第24代)を歴任。 山口県岩国市出身。1912年(明治45年)3月、東京高等工業学校附属工業補習学校(現東工大附属高専攻科)を卒業して兄重宗芳水が創業した明電舎に入社、1938年(昭和13年)社長。1946年(昭和21年)8月14日、貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。同郷の岸信介、佐藤栄作兄弟に懇請される形で1947年4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し、当選する。
諫山 春樹(いさやま はるき、1894年(明治27年)2月1… 諫山 春樹(いさやま はるき、1894年(明治27年)2月11日 - 1990年(平成2年)6月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。 福岡県出身。第17代台湾軍参謀長、その後第10方面軍参謀長。1945年10月25日、国民政府代表との降服式典に台湾総督安藤利吉とともに台湾総督府(日本)代表として出席し、任を終える。 官吏・諫山虎鹿の二男として生れる。中学明善校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校を卒業。1915年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。 1925年8月、歩兵第38連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、フランス大使館付武官補佐官などを経て、1930年8月、歩兵少佐に昇進。
岡本 清纓(おかもと きよふさ、明治27年(1894年2月1… 岡本 清纓(おかもと きよふさ、明治27年(1894年2月11日) - 昭和58年(1983年2月22日))は、日本の歯科医。東京医科歯科大学教授として口腔衛生学講座を担当し、付属歯科技工士学校・歯科衛生士学校の校長を兼務したほか、のちに愛知学院大学歯学部長を務めた。歯科医療分野に加え、日本卓球協会総務理事や日本卓球協会副会長も歴任した。 戦前・戦後を通じて日本の歯科医療と口腔衛生学の発展に大きな影響を与えた人物である。学生時代は東京歯科医学専門学校で卓球選手としても活動したが、卒業後は恩師の勧めによりライオン歯磨(当時・小林商店)に入社し、口腔衛生普及事業の先端に立った。1921年に開設された日本初の小児専門歯科診療所「ライオン児童歯科院」では初代院長を務め、18年にわたり診療と啓発活動に携わった。
白 南雲(日本語読み;はく なんうん、朝鮮語読み;ペク・ナム… 白 南雲(日本語読み;はく なんうん、朝鮮語読み;ペク・ナムン、1894年2月11日 - 1979年6月12日)は、日本統治時代の朝鮮・連合軍軍政期の南朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の経済学者、政治家。学者としての専門は朝鮮社会経済史。 韓国のマルクス主義歴史学の創始者として知られ、京城帝国大学教授、ソウル大学校教授等を務めたのちに北朝鮮に渡り、朝鮮民主主義人民共和国初代教育相、最高人民会議議長、祖国統一民主主義戦線議長等を歴任した。論文「金日成同志の英雄的偉業」により金日成勲章受章。 全羅北道高敞郡の貧しい家で生まれ育つ。本貫は水原白氏。1911年に結婚。同年朝鮮総督府附属水原農林学校(現ソウル大学校農業生命科学大学)に入学して農業政策を学び、1915年に卒業。
田垣内 友吉(たがいと ともきち、1894年(明治27年)2… 田垣内 友吉(たがいと ともきち、1894年(明治27年)2月11日 - 1931年(昭和6年)10月4日)は三重県生まれの洋画家である。雅号は愛耕と名乗った。 1894年(明治27年)2月11日の紀元節の日に三重県南牟婁郡五郷村(現熊野市五郷町)に生まれる。父は五郷郵便局長の田垣内粂吉、母はけい。 1924年(大正13年)4月、五郷の旧家山東家の長女光恵と婚姻する。1925年(大正14年)東京に上京し、洋画家中川一政に師事する。この頃中川一政に師事をしていた堀内唯生と出会う。1926年(大正15年)に中川一政より油彩(夏の橋)など二点譲り受ける1927年(昭和2年)に第五回春陽会展に五郷桃崎の景と初秋の郊外が入選。
大矢市次郎(おおや いちじろう、1894年(明治27年)2月… 大矢市次郎(おおや いちじろう、1894年(明治27年)2月11日 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、大正 - 昭和期の俳優。新派生え抜きの役者の一人で名脇役として知られた。 東京浅草須賀町(現・台東区)の生まれ。幼少時からの芸事好きで、1907年(明治40年)に伊井蓉峰主演の舞台「乞食の子か大名の子か」で子役エキストラの一人で初舞台を踏む。伊井の弟子の藤井六輔に師事し、藤川宗六の芸名を貰うが後に本名の大矢市次郎で活動。 18歳のときに、60歳の役を演じて以来老け役を得意とし、多くの当り役を持った。 新派系の劇団を転々としたのち、1939年(昭和14年)に花柳章太郎・伊志井寛・柳永二郎・川口松太郎・大江良太郎らと、劇団『新生新派』を旗揚げ、戦後の劇団新派結成へも関わり、新派に欠かせぬ中心メンバーとなる。
佐々木 長治(ささき ちょうじ、1894年(明治27年)2月… 佐々木 長治(ささき ちょうじ、1894年(明治27年)2月10日 - 1970年(昭和45年)9月12日)は、日本の実業家、政治家、衆議院議員(2期)。貴族院議員。旧名・馨。 愛媛県西宇和郡伊方村(現伊方町)で、佐々木長治(高二郎)の息子として生まれた。1914年(大正3年)家督を相続し、長治を襲名。1916年(大正5年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒。 伊方郵便局長、西宇和郡会議員、八幡浜市長のほか、西南銀行、第二十九銀行、予州銀行の各頭取などを務める。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で愛媛県第6区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。2期務める。その後、1939年(昭和14年)愛媛県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
大久保 忠素(おおくぼ ただもと、1894年2月10日 - … 大久保 忠素(おおくぼ ただもと、1894年2月10日 - 没年不明)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。松竹キネマおよび松竹蒲田撮影所の創生にかかわり、小津安二郎の唯一の映画監督としての師であることでも知られる。 1894年(明治27年)2月10日、東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)に生まれる。 明治大学文科を卒業後、有楽座の舞台監督を務める。1920年(大正9年)6月、松竹蒲田撮影所に入社。ヘンリー・小谷、野村芳亭に助監督として師事する。1922年(大正11年)、監督に昇進する。同年に斎藤寅次郎が入社、1926年(大正15年)に小津安二郎が撮影助手から異動し、それぞれ大久保の助手となる。
香山 蕃(かやま しげる、1894年2月9日 - 1969年… 香山 蕃(かやま しげる、1894年2月9日 - 1969年5月3日)は、日本ラグビーフットボール協会(以下、日本ラグビー協会)第3代会長、ラグビー日本代表初代監督。 京都府出身。京都府立一中卒業後4浪の末、第三高等学校(旧制高校、略称:三高)に入学。その3年後の1920年、東京帝国大学政治学科に入学した。当初は陸上部に所属していたが、1921年11月、31人の同志とともに、学士ラガー倶楽部(現在の東京大学運動会ラグビー部)を創設。同月、YCACと部として初の試合を行い、さらに翌1922年1月、三高グランドに遠征し、京都帝国大学ラグビー部(現在の京都大学ラグビー部、以下 京都帝大)と初の対抗戦を行なった。
榎本 隆一郎(えのもと りゅういちろう、1894年2月8日 … 榎本 隆一郎(えのもと りゅういちろう、1894年2月8日 - 1987年2月7日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中将。 和歌山県出身。農業・榎本熊太郎の長男として生まれる。和歌山中学校を経て、1915年12月、海軍機関学校(24期)を卒業し、翌年12月、海軍機関少尉任官。1920年12月、海軍大学校選科学生となり、翌年9月、九州帝国大学工学部に入学、応用地質学を学び1924年3月に卒業した。 徳山燃料廠製油部員、機関学校教官、欧米出張、海軍省軍需局員、欧米出張、徳山燃料廠付、燃料廠研究部員、北支特務部員(北京)、商工省燃料局人造石油課長、昭南在勤武官などを経て、1942年11月、海軍少将に進級した。
谷口 午二(たにぐち ごじ、1894年2月8日 - 1987… 谷口 午二(たにぐち ごじ、1894年2月8日 - 1987年1月13日)は、日本の洋画家。戦前に金羊会を主宰して南國美術展を創設し、戦後は鹿児島市立美術館初代館長や顧問として鹿児島県の洋画振興に尽力した。代表的な作品として「自画像」と「琉球風景」が挙げられる。 鹿児島県鹿児島市山之口町出身。旧姓・益山。生年月日(1894年2月8日)が午の年午の日であるのにちなみ午二と名づけられる。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)(鹿児島二中)で大牟礼南島に学び、学外の山下兼秀からも指導をうける。1913年に上京して黒田清輝の葵橋洋画研究所でデッサンを修練し、貴族院議員千頭清臣(元鹿児島県知事)の書生をしながら東京美術学校西洋画科に入学。
高橋 清治郎(たかはし せいじろう、1894年(明治27年)… 高橋 清治郎(たかはし せいじろう、1894年(明治27年)2月8日 - 1957年(昭和32年)12月7日)は日本の政治家。衆議院議員(2期)。宮城県玉造郡鳴子町(現・大崎市)長。 宮城県大崎市で生まれた。明治大学法学部卒業後、米国ワシントン大学ランドスクールで政治学を専攻。コロンビア大学でも学んだ。在米8年。帰国後は明治大学講師となった。 その後、日東窯業、明治大学出版部、鳴子木材、東北鉱山資材各取締役、日東紡績理事、荒尾嶽鉱業取締役社長、鳴子町会議員となる。 1948年(昭和23年)5月21日に旧宮城2区で行われた第23回衆議院議員補欠選挙に民主党から立候補し当選。翌年の第24回衆議院議員総選挙で再選。
白井 烟嵓(しらい えんがん、1894年2月8日 - 197… 白井 烟嵓(しらい えんがん、1894年2月8日 - 1976年1月19日)は、愛知県豊橋市出身の画家。 1894年(明治27年)2月8日、愛知県渥美郡花田村(現豊橋市)に白井徳平の二男として生まれた。本名は龍、字名は瀧司。従兄弟の白井永川から絵の手解きを受け、静古と号した。他に烟巌とも。1917年(大正6年)、南宗画家の松林桂月に師事し、烟嵓と号する。1920年(大正9年)第2回帝展に「幽栖」が初入選した。 1896年(明治29年)の日本南画院創設に参加し、日本南画院では理事も務めた。大正・昭和を通じて帝展、新文展、日展を中心に日本南画院展など団体展を舞台に活躍した。 1918年から1933年まで外海家と養子縁組していた時期があり、この期間は外海烟巖名義。
入江為常(いりえ ためつね、1894年2月7日 - 1969… 入江為常(いりえ ためつね、1894年2月7日 - 1969年3月3日)は、日本の貴族院議員。子爵。入江為守の子。 東京府出身。学習院を経て1914年(大正3年)、東京府立一中卒業。家業である歌道を極める道には進まず、東京帝国大学に進学して理学部化学科を卒業。台湾総督府中央研究所技師を経て、1928年(昭和3年)に陸軍技師、次いで理化学研究所技師となった。1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)まで貴族院議員を務めたほか、東京女学館で講師も務めた。 妹の高木邦子は崇仁親王妃百合子の母。弟に入江相政。母・信子は柳原前光伯爵の長女で、柳原白蓮の異母姉、かつ大正天皇の生母・柳原愛子の姪にあたる。
貴志 喜四郎(きし きしろう、1894年2月6日 - 193… 貴志 喜四郎(きし きしろう、1894年2月6日 - 1933年12月14日)は、大正・昭和期の実業家。関東軍財務顧問。大阪三品取引所常務理事。 佐賀県藤津郡嬉野町(現・嬉野市)出身。東京帝大法科を卒業後、大阪の貴志米吉の養子となる。逓信省書記官を経て、大阪三品取引所の書記となり、のち常務理事に就任。 一方、関東軍財務顧問となり、1932年(昭和7年)建国間もない満州国政府の要請で大陸に渡る。 日蒙貿易協会の石塚忠の仲介により、当時の関東軍参謀長の小磯国昭中将と新会社の設立を計画していたが、新会社は満州産業の開発を目的としており、主に大阪・東京の少壮投資家が出資した3000万円を資本金とした。この新会社は国有企業とし、貴志喜四郎が委託経営をする予定であった。
槇 有恒(まき ゆうこう、「ありつね」とも、1894年〈明治… 槇 有恒(まき ゆうこう、「ありつね」とも、1894年〈明治27年〉2月5日 - 1989年〈平成元年〉5月2日)は、宮城県仙台市出身の日本の登山家。日本山岳会設立者・会長(2期)、日本山岳協会会長・名誉会員を歴任し、ヒマラヤの8,000m峰・マナスル第3次登頂隊長として日本隊のマナスル初登頂を成功させた。近代アルピニズムの開拓者・紹介者。位階は従四位。文化功労者、仙台市名誉市民。 父・槇武は新潟県の士族であったが、幕末・維新期に仙台藩が越後国長岡藩と友好的であったことや、福澤諭吉の推薦などによって、有恒が生まれる頃は『奥羽日日新聞』主幹として仙台に赴任していた。 本籍地は東京都文京区。宮城県師範学校付属小学校、仙台第二中学校(現、宮城県仙台第二高等学校)を経て、1911年(明治44年)、慶應義塾大学部予科に入学する。
信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2… 信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2月5日 - 1981年(昭和56年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、火薬学者。最終階級は陸軍中将。 京都府京都市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官した。陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部工業化学科で学び、1923年(大正12年)3月に卒業した。 1930年(昭和5年)8月、砲兵少佐に進級。1934年(昭和9年)8月、砲兵中佐に進み、1935年(昭和10年)8月、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所長に就任。1937年(昭和12年)6月、陸軍科学研究所員に転じ、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進した。
奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4… 奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4日 - 1939年(昭和14年)11月4日)は、日本の海軍軍人。少年飛行兵制度を発案することで予科練に至る基礎をつくり、のちに航空隊司令として作戦指揮中に戦死した海軍少将である。 奥田は兵庫県出身で、神戸一中を経て1914年(大正3年)に海軍兵学校を卒業した海兵42期生である。席次は117名中54番であった。翌年12月海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科学生を経て、「洲埼」分隊長。次いで「神威」艤装員としてアメリカ合衆国に出張した。同艦分隊長、「島風」砲術長兼分隊長と砲術畑を歩む。 同期生の先頭を切って近藤泰一郎と共に海軍大学校甲種学生(23期)に進み、卒業後航空に転科。
仁田 竹一(にた / にだ / にった たけいち、1894年… 仁田 竹一(にた / にだ / にった たけいち、1894年(明治27年)2月4日 - 1976年(昭和51年)6月14日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、広島県佐伯郡大柿町長。 広島県佐伯郡深江村(大柿町を経て現江田島市)で仁田笹松の二男として生まれ、仁田久米次の養子となる。1912年(明治45年)広島県立呉中学校(現広島県立呉三津田高等学校)を卒業した。 呉商工会議所副会頭、呉第一銀行頭取、江田島汽船社長、瀬戸内海汽船社長、広島緑地建設社長、広島湾海運会長、因島運輸社長、ラジオ中国取締役、全日本観光連盟中国支部長、広島県観光連盟会長、日本経営者団体連盟(現日本経済団体連合会)常任理事、中国ヨット連盟会長、中国操艇協会会長などを務めた。
今村 春吉(いまむら はるきち、1894年〈明治27年〉2月… 今村 春吉(いまむら はるきち、1894年〈明治27年〉2月4日 - 1989年〈平成元年〉7月19日)は、長崎市の外科医師、洋画家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
三好 義雪(みよし よしゆき、1894年〈明治27年〉2月3… 三好 義雪(みよし よしゆき、1894年〈明治27年〉2月3日 - 没年不明)は、日本の医師(内科小児科、三好医院)、会社役員。族籍は広島県平民。 広島県広島市東白島町(現・広島市中区東白島町)出身。三好家は代々医を業とする。広島高等師範学校附属中学校を優等の成績を以て卒業する。1915年、岡山医学専門学校を卒業する。1916年、舟入病院臨時医員嘱託、同年に広島県防疫医拝命、同年に一年志願兵として入隊。1917年、正八位に叙される。 1920年、予備役三等軍医後広島病院に勤務。1923年、開業する。内科小児科を主とする。白島小学校医、広島高等師範学校医である。1930年以来広島市医師会理事。1937年、鈴木商店監査役に就任する。
田口 政五郎(たぐち まさごろう、1894年(明治27年)2… 田口 政五郎(たぐち まさごろう、1894年(明治27年)2月3日 - 1964年(昭和39年)2月8日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、兵庫県明石市長、同明石郡垂水村長、同垂水町長。 兵庫県明石郡、のちの明石市で生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学経済学部を卒業した。 1923年(大正12年)兵庫県会議員に選出された。その後、垂水村長、垂水町長(2期)を務めた。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で兵庫県地方区から民主党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)した。次の第2回通常選挙には出馬せず、参議院議員に1期在任した。この間、第3次吉田内閣大蔵政務次官などを務めた。
片岡 鉄兵(かたおか てっぺい、1894年(明治27年)2月… 片岡 鉄兵(かたおか てっぺい、1894年(明治27年)2月2日 - 1944年(昭和19年)12月25日)は、日本の大正・昭和前期における小説家。「鉄平」と表記されることもある。 岡山県苫田郡芳野村(現・鏡野町)に生まれる。 津山中学の同級生に矢野峰人、中山巍らがいる。中学校卒業後、第六高等学校受験に失敗、自殺を企てた。上京し、慶應義塾大学仏文科に進学したが、出席日数が不足したため中退、一時帰郷。様々な職を転々としながら小説を書き始め、各雑誌・出版社に投稿を行う。1921年『舌』などを書いて文壇に出る。山陽新報、大阪朝日新聞社、大阪時事新報の記者を務める。 1924年(大正13年)、横光利一や川端康成らと文学雑誌「文芸時代」を創刊し、創作活動のみならず評論活動や翻訳活動にも手を付けた。
太田垣 士郎(おおたがき しろう、1894年2月1日 - 1… 太田垣 士郎(おおたがき しろう、1894年2月1日 - 1964年3月16日)は、昭和の実業家。贈正四位・勲二等。京阪神急行電鉄(現・阪急阪神ホールディングス)社長や関西電力の社長・会長を歴任。関西電力時代には黒部ダム建設を指揮した。 兵庫県城崎郡城崎町湯島(現・豊岡市)で地元の開業医、太田垣隆準(りゅうせつ)の長男として生まれる。 第五高等学校、京都帝国大学経済学部卒業。1920年に日本信託銀行へ入行したが、1925年には阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス)に移った。阪急では小林一三のもとで出札係や阪急百貨店の店員などの業務を広くこなした。1946年12月、京阪神急行電鉄(1943年に阪神急行電鉄が京阪電気鉄道と合併して改称)社長に就任。
潁原 退蔵(えばら たいぞう、1894年〈明治27年〉2月1… 潁原 退蔵(えばら たいぞう、1894年〈明治27年〉2月1日 - 1948年〈昭和23年〉8月30日)は、日本の国文学者。専門は近世文学、とくに俳諧史研究に業績を残す。学位は、文学博士(1947年)。病によりかつて依願免官した京都大学助教授に1948年8月再び着任するが、同月30日に逝去、死去日を以て、京都大学教授。 1894年、長崎県南松浦郡北魚目村(現長崎県南松浦郡新上五島町)生まれ。1917年3月、東京高等師範学校国語漢文学卒業。1921年3月、京都帝国大学文学部卒業後、京都帝国大学大学院入学。1928年3月、京都帝国大学大学院退学。 1931年4月、京都帝国大学助教授に着任するも、1936年4月に病気により依願免官。
田村 虎一(たむら とらいち、1894年(明治27年)2月1… 田村 虎一(たむら とらいち、1894年(明治27年)2月1日 – 1983年(昭和58年)7月11日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、山口県玖珂郡川下村長。 山口県で田村與兵衛の三男として生まれる。1918年(大正7年)中央大学専門部法律科を卒業。 卒業後、農商務省、東京鉄道局などで勤務。1922年(大正11年)弁護士試験に合格し、のちの岩国市で開業した。1938年(昭和13年)川下村長に就任。その他、川下村会議員、岩国町会議員、山口県会議員、同副議長、岩国市会議員、同市助役、山口県監査委員、岩国弁護士会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙に山口県第2区から日本自由党公認で出馬して当選し、その後、民主自由党に所属して衆議院議員に1期在任した。
森 友一(もり ともかつ、1893年〈明治26年〉2月28日… 森 友一(もり ともかつ、1893年〈明治26年〉2月28日 - 1959年〈昭和34年〉1月23日)は、日本海軍の軍人。操艦の名手といわれ、太平洋戦争において重巡洋艦・「羽黒」艦長として歴戦。のち第一水雷戦隊司令官を務めた海軍少将である。 石川県出身。父は第三高等学校や京都一中の校長を務めた森外三郎である。草鹿龍之介は石川師範学校附属小学校の同級生であった。京都一中を経て海軍兵学校42期を117名中62番で卒業した。森は水雷学校高等科学生を修了した水雷科専攻士官である。大尉で「有明」駆逐艦長、「葦」駆逐艦長に就任して以来、6艦の艦長、2隊の駆逐隊司令などを経て、「羽黒」艦長として太平洋戦争を迎えた。
棟居 俊一(むねすえ しゅんいち、1893年(明治26年)2… 棟居 俊一(むねすえ しゅんいち、1893年(明治26年)2月28日 – 1954年(昭和29年)1月3日)は、日本の拓務官僚。樺太庁長官。 山口県出身。斎藤吉五郎の三男として生まれ、棟居保の養子となった。1917年(大正6年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。大蔵属、司税官、亀戸税務署長、永代橋税務署長、税務事務官、横浜税関総務課長、門司税関監視部長・総務課長、神戸税関総務課長を務めた。その後、拓務省に転じ、書記官、殖産局第二課長、同第一課長、朝鮮総督府事務官、警務局保安課長を歴任。1936年(昭和11年)には朝鮮総督府専売局長に、1937年(昭和12年)には拓務省管理局長に、1938年(昭和13年)に樺太庁長官に就任した。
清水 良策(しみず りょうさく、1893年2月27日 - 1… 清水 良策(しみず りょうさく、1893年2月27日 - 1989年9月7日)は、日本の内務官僚、実業家。県知事、川崎重工業取締役。 現在の石川県七尾市出身。清水栄蔵の二男として生まれる。第四高等学校を経て、1916年、京都帝国大学法科大学政治科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り京都府属となる。 以後、京都府理事官、栃木県学務部長、内務事務官、内務省土木局道路課長、同港湾課長、静岡県書記官・内務部長などを歴任。 1932年6月、和歌山県知事に就任。1934年11月に退任し、満州国民政部総務司長に転じた。1936年6月、徳島県知事となり、次いで、宮城県知事に異動。1940年4月、宮城県知事を辞任して退官し、川崎重工業取締役に就任し、1946年まで在任。
黒田 忠次郎(くろだ ちゅうじろう、1893年2月27日 -… 黒田 忠次郎(くろだ ちゅうじろう、1893年2月27日 - 1971年8月4日)は、日本の詩人・俳人。光湖と号する。 東京巣鴨(赤坂ともいう)に生まれる。大倉高等商業学校(現東京経済大学)を卒業後、十五銀行に勤務し、帝国銀行検査役となる。退職後は各種の事業会社の社長を経て、永代信用組合常務理事にいたる。 銀行勤務のかたわら句作に励み、文芸誌『鉄心』『射手』『生活派』などを主宰。
末次 留蔵(すえつぐ とめぞう、1893年(明治26年)2月… 末次 留蔵(すえつぐ とめぞう、1893年(明治26年)2月27日 - 1975年(昭和50年)6月15日)は、日本の剣道家。段位は剣道範士七段、居合道範士八段、銃剣道範士八段。夢想神伝流居合を九州に広めた。 福岡県山門郡瀬高町(現みやま市)の農家に生まれる。少年の頃より剣道、柔道を学んだ。水上尋常小学校を卒業。 1913年(大正2年)、志願して陸軍歩兵第48連隊に入隊。1914年(大正3年)、日独戦争青島の戦いに出征。1918年(大正7年)及び1919年(大正8年)、第18師団長主催の銃剣術大会を連覇。 1919年(大正8年)3月、陸軍戸山学校に入校。同時に剣道を学ぶため高野佐三郎の修道学院に入門し、その5日後には居合を学ぶため中山博道の有信館に入門した。
山田 珠樹(やまだ たまき、1893年2月26日 - 194… 山田 珠樹(やまだ たまき、1893年2月26日 - 1943年11月24日)は、日本のフランス文学者。東京帝国大学の助教授および司書官を務めた。フランス文学者として、辰野隆、鈴木信太郎らと東大仏文科を興し、司書官として、関東大震災後の東大図書館の復興に力を尽くした。また、森茉莉の最初の夫としても知られる。
李 相喆(イ・サンチョル、朝鮮語: 이상철、1893年2月2… 李 相喆(イ・サンチョル、朝鮮語: 이상철、1893年2月26日 - 1979年11月27日)は、大韓民国の政治家。 本貫は慶州李氏。号は石雲(ソグン、석운)。 1893年、忠清道青陽(現忠清南道青陽郡)出身。日本の明治大学法学部を卒業し、日本統治時代に東亜日報・朝鮮日報・毎日新報の社会部・政治部で記者として働いた。 解放後は政界に転じ、1950年の第2代総選挙で無所属候補として青陽郡選挙区から出馬し当選。1957年、民主党の中央委員会副委員長となり、1960年の第5代総選挙で青陽郡・洪城郡選挙区から出馬し当選。逓信部長官、内務部長官を歴任した。1963年の第6代総選挙では国民の党公認で青陽郡・洪城郡選挙区から出馬し当選。
三島 徳七(みしま とくしち、1893年(明治26年)2月2… 三島 徳七(みしま とくしち、1893年(明治26年)2月24日 - 1975年(昭和50年)11月19日)は、日本の冶金学者。アルニコ磁石を発見し、その一つとしてMK鋼の発明者として知られる。東京大学名誉教授。文化功労者。勲一等旭日大綬章追贈。 1893年(明治26年)、兵庫県津名郡広石村下組(現:洲本市五色町広石下)の農家である喜住甚平の5男として生まれる。1907年(明治40年)に広石尋常高等小学校を卒業した後、独学で学び1911年(明治44年)に立教中学校への編入試験の末、同校に入学した。その後、旧制第一高等学校を経て、1920年(大正9年)、東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。同年に三島通良と養子縁組し娘の三島二三子と結婚して三島姓となっている。
岸田 幸雄(きしだ さちお、1893年2月24日 - 198… 岸田 幸雄(きしだ さちお、1893年2月24日 - 1987年10月16日)は、日本の政治家、実業家。京都府出身。 兵庫県知事(官選1期・公選2期)、参議院議員(2期)を歴任した。 1893年(明治26年)、山口県士族・岸田氏美の三男として京都府に生まれる。第三高等学校を経て1916年(大正5年)に京都帝国大学法科を卒業し、高等文官試験に合格するも官僚とはならず大阪商船(現在の商船三井)に入社した。1920年(大正9年)、イタリアのジェノヴァで開催された国際労働者会議に使用者代表の随行員として参加する。日本に帰国後、大阪商船子会社の大阪海上火災(現在の三井住友海上)へ出向して神戸支店および東京支店長を務めた。
大潮 又吉(おおしお またきち、1893年2月24日 - 1… 大潮 又吉(おおしお またきち、1893年2月24日 - 1964年4月16日)は、福岡県山門郡大和町(現在の柳川市)出身で陸奥部屋に所属した大相撲力士。本名は塩塚 又吉。最高位は東関脇。現役時代の体格は182cm、90kg。得意手は右四つ、吊り、寄り、上手投げ、突っ張り。 1911年(明治44年)6月場所、序ノ口で初土俵を踏んだ。5年後の1916年(大正5年)5月場所に十両昇進、その翌年、1917年(大正6年)5月場所には入幕を果たした。この場所、初日から勝ち続けて9連勝、千秋楽こそ預りとなったものの9勝1預無敗の堂々たる成績で優勝旗手となった(この場所、優勝は同成績の大関栃木山)。新入幕力士の無敗は1914年(大正3年)5月場所の前頭14枚目両國以来の快挙で、その後も1945年(昭和20年)11月場所の前頭10枚目千代ノ山を最後に出ていない。
庄武 憲太郎(しょうたけ けんたろう、1893年2月22日 … 庄武 憲太郎(しょうたけ けんたろう、1893年2月22日 - 1952年5月27日)は、昭和時代戦前の日本の作詞家、歌人、旧制中学校教諭。号は春鳥(しゅんちょう)。大分県出身。 1893年(明治26年)2月、大分県西国東郡朝田村(現在の杵築市大田地区)の農家に四人兄弟の長男として生まれる。小学校を卒業後、田原村の準教員養成所を経て西国東郡高田町(現在の豊後高田市)で代用教員を務め、大分師範学校へ進学する。 大分師範学校を卒業した後は日本大学へ進み国語と漢文を学んだ。帰郷後は県立臼杵高等女学校(現県立臼杵高校)や徳島師範学校、旧制宮崎中学(現在の宮崎県立宮崎大宮高等学校)で教諭を務める。旧制宮崎中学在職中の1933年(昭和8年)、宮崎市で開催された祖国日向産業博覧会のテーマ曲募集で応募作「祖国日向の四季」が一等入選となる。
中村 知(なかむら さとる、1893年2月21日 - 197… 中村 知(なかむら さとる、1893年2月21日 - 1972年3月1日)は、日本のボーイスカウトの黎明期から、第二次世界大戦前の拡大期、戦後の再建期にわたって活躍したボーイスカウト指導者。「ちーやん」の愛称で親しまれた。筆名に東野通義。 ボーイスカウト日本連盟の功労章である「はと章」「やたがらす章」の受賞者。 『ちーやん夜話集』や多くのスカウトソングの作詞作曲、スカウト運動の基礎となる書籍類の翻訳で知られる。 1893年、愛媛県松山市に生まれる。 1909年、広島高等師範学校(現・広島大学)付属中学校に在学中、当時の校長だった北条時敬より英国ボーイスカウトについての知識を得、生徒同志30名と日本最初のスカウティング集団「城東団」を結成し班長となる。
益尾 美太郎(ますお よしたろう、1893年〈明治26年〉2… 益尾 美太郎(ますお よしたろう、1893年〈明治26年〉2月20日 - 1941年〈昭和16年〉)は、日本の醸造家、鳥取県多額納税者。益尾酒造店、清酒(眞壽鏡、不老)醸造、醤油(眞壽花)醸造。 鳥取県米子市道笑町出身。益尾徳次郎の長男。1929年、家督を相続する。米子中学(現米子東高校)を卒業。酒造業を営み、鳥取県多額納税者である。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 趣味は囲碁。宗教は黒住教。住所は米子市道笑町1丁目。
岡野 馨(おかの かおる、1893年2月20日 - 1941… 岡野 馨(おかの かおる、1893年2月20日 - 1941年12月12日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 俳人岡野知十の子として東京に生まれる。1915年、東京外国語学校卒業。1921年、フランスに渡る。のち陸軍大学校教授。墓所は多磨霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1… 大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1977年6月20日)は、経済学者・文芸評論家・歌人。 富山大学教授、神奈川大学教授、創価大学教授などを歴任。福田徳三門下。 山形県米沢市元籠町生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。中学時代、浜田広介や上泉秀信と同人誌を作っていた。高商同期の歌人浦野敬はのちに、大熊の創刊した歌誌「まるめら」の同人となった。 1916年日清製粉入社。米沢商業学校で教鞭をとった後、1919年東京高等商業学校専攻部進学、1921年同卒。1941年経済学博士(東京商科大学)。論文の題は「経済理論における配分原理の所在並に適用に関する基礎的研究」。
別宮 貞俊(べっく さだとし、1893年2月18日 - 19… 別宮 貞俊(べっく さだとし、1893年2月18日 - 1958年9月19日)は、日本の実業家、工学博士、登山家。住友電気工業初代社長を務めた。 東京都で別宮音五郎の子として生まれる。1917年に東京帝国大学工学部電気科を卒業し、逓信省で電気試験所技師を務め、東京工業大学教授も務めた。 1930年に住友電気工業の前身である住友電線製造所に転職し、常務、専務、社長を歴任した。 東京電機大学教授、日本科学技術情報センター理事長、日本電気学会会長なども歴任した。登山が趣味で日本山岳会会長も務めた。 1958年9月19日、狭心症のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、18… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、1893年〈明治26年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉7月10日)は、日本の政治家、実業家、群馬県多額納税者。位階は正三位。衆議院議員(8期)、参議院議員(2期)、運輸大臣。伊香保温泉の旅館業、木暮旅館主。群馬県観光協会、日本温泉協会各会長。群馬銀行取締役会長、関東いすゞ自動車販売社長、群馬バス社長。25代目武太夫。 群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)出身。先代・木暮武太夫(元衆議院議員)の長男。 1912年(明治45年)、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業。1917年(大正6年)、慶應義塾大学理財科を卒業。はじめ三井銀行に勤めたが、退社して家業の旅館業に従事した。
井川 忠雄(いかわ ただお、男性、1893年2月15日 – … 井川 忠雄(いかわ ただお、男性、1893年2月15日 – 1947年2月18日)は、日本の大蔵官僚、政治家。太平洋戦争開戦前、日米民間人交渉に携わった人物として知られる。 島根県出身。(旧制)仙台一中、一高、1917年東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、大蔵省に入省。東京税務監督局兼理財局属。近衛文麿と近しく、近衛や後藤隆之助らが設立した「昭和研究会」の初期のメンバーでもあった。1936年、門司税関長を最後に退官し、産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事となった。 1940年、ニューヨーク州のカトリック外国伝道協会のジェームズ・E・ウォルシュ、ドラウト両神父が井川のもとを訪れ、日米国交の調整問題について意見交換を行ったことを契機に、陸軍省の岩畔豪雄大佐とともに日米交渉を進め「日米諒解案」を作成するが、蚊帳の外に置かれていた松岡洋右外相の逆鱗に触れ、事実上握り潰された。
沢 ゆき(さわ ゆき、1893年(明治26年)2月15日 -… 沢 ゆき(さわ ゆき、1893年(明治26年)2月15日 - 1972年(昭和47年)11月29日)(澤ゆき。澤ゆき子。)は、大正-昭和時代の詩人。本名は飯野ゆき。「炬火(たいまつ)」などの詩誌に叙情詩を発表。1921年(大正10年)の詩集『孤独の愛』は島崎藤村から激賞された。茨城県出身。詩集に『孤独の愛』『沼』『浮草』がある。 1893年(1894年記載のものもあるが正しくは1893年)2月15日に茨城県稲敷郡茎崎村小茎(現・つくば市小茎)で生まれた。旧姓相澤ゆき(相沢ゆき)。牛久沼畔にある酒造家に生まれ、沼に親しんで育つ。沼は彼女の作品に多く描かれる。 1905年、単身上京し1908年に技芸大学(共立女子職業学校)(現、共立女子大学)に入学、1911年同大学を卒業。
中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月… 中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月14日 - 1991年〈平成3年〉2月5日)は、日本の洋画家、美術家、歌人、随筆家。東京府生まれ。 洋画、水墨画、版画、陶芸、詩、和歌、随筆、書と多彩な作品を制作した。作品のすべてが独学であり、自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。
草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948… 草川 信(くさかわ しん、1893年2月14日 - 1948年9月20日)は、日本の作曲家。 長野県上水内郡長野町(現長野市)に旧松代藩士で銀行員の草川一成の四男として生まれる。長野師範学校附属小学校(信州大学教育学部附属長野小学校)で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)を経て、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に進むとヴァイオリンを安藤幸と多久寅に、ピアノを弘田龍太郎に師事する。 1917年卒業後、渋谷区立小学校訓導、東京府立第三高等女学校(東京都立駒場高等学校と東京都立芸術高等学校の前身)教諭、東京市杉並高等家政女学校(東京都立荻窪高等学校の前身)、東京音楽学校教務嘱託など教職の傍ら、東京音楽学校管弦楽団などで演奏家として活動。
渋谷 塊一(しぶや かいいち、1893年〈明治26年〉2月1… 渋谷 塊一(しぶや かいいち、1893年〈明治26年〉2月14日 - 1971年〈昭和46年〉2月9日)は、大正から昭和時代の政治家。埼玉県南埼玉郡日勝村長、川越市長。号に香井。位階は従六位。 素封家・渋谷浦吉の二男として、埼玉県南埼玉郡岡泉村(日勝村、白岡町を経て現白岡市岡泉)に生まれる。1914年(大正3年)明治大学法科を卒業し、1916年(大正5年)日勝村の名誉助役に就任する。ついで同村農会長、同村長を経て、1928年(昭和3年)埼玉県会議員に当選し、郡農会副会長、県農地委員などを兼ねた。 1942年(昭和17年)7月、地方事務所官制が施行されると民間人としては異例の地方事務官として北足立地方事務所長に登用された。
児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年2月13日 -… 児島 善三郎(こじま ぜんざぶろう、1893年2月13日 - 1962年3月22日)は、日本の洋画家である。