抜山 四郎(ぬきやま しろう、1896年(明治29年)3月1… 抜山 四郎(ぬきやま しろう、1896年(明治29年)3月15日 - 1983年(昭和58年)7月2日)は、日本の機械工学者である。実兄は電気工学者の抜山平一。 東京に生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)機械工学科に入学する。1920年(大正9年)に卒業後はボイラー等に関係した沸騰の研究に携わり、その傍らで1926年(大正15年)には東北帝国大学(現在の東北大学)の教授となり教鞭を執った。 後に工学博士を取得し、1959年(昭和34年)には同大学の名誉教授となる。1963年(昭和38年)には日本伝熱研究会の会長も務め、その後はトヨタ自動車および高砂熱学工業の顧問を歴任し多くの賞を受賞した。 父親は元加賀藩士の特許弁理士。
後藤 正志(ごとう まさし、1896年〈明治29年〉3月12… 後藤 正志(ごとう まさし、1896年〈明治29年〉3月12日 - 1929年〈昭和4年〉7月4日)は大分県出身の技師であり飛行家。1929年にアメリカ西海岸から欧州を経て日本まで、三大陸横断飛行を計画したが、ロッキー山脈越えに失敗し墜落死した。 大分県西国東郡田原村下沓掛(現杵築市)で後藤武利の長男として生まれ、幼少期に母を亡くす。父の意向もあり、南部高等小学校を出ると教員養成の私立学校である習説校で学んだ。正志は数学に強く、機械類を好んだという。父は病を得ながらも白鬚田原神社の前に日用品店を開いたが経営は上手くいかず、金銭的に厳しい状況が続いた。 習説校を卒業した正志は立石にある馬上金山の機械部に入る。
金光 恵次郎(かねみつ けいじろう/えじろう、1896年(明… 金光 恵次郎(かねみつ けいじろう/えじろう、1896年(明治29年)3月12日 - 1944年(昭和19年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 岡山県和気郡備前町出身。貧しい農家に生まれる。貧農の家に育った金光は非常に勉強好きな少年で近所の人から”二宮金次郎”と呼ばれていた。学校の成績はとびぬけていたが、家が貧しいので高等小学校卒業後に上級学校へは進めなかった。 20歳のとき、金光は徴兵検査を受け、現役兵として、1916年(大正5年)12月、野砲兵第10連隊に入隊した。勉強家であった金光はそこで伍長、軍曹と進級し、少尉候補者の試験を受け合格し、1926年(大正15年)12月に陸軍士官学校に入学。
中西 寅雄(なかにし とらお、1896年3月11日 - 19… 中西 寅雄(なかにし とらお、1896年3月11日 - 1975年4月25日)は、日本の会計学者・経営学者。経済学博士。東京帝国大学教授であり、日本の経営学の創始者であった。大阪大学経済学部教授(学部長)、慶應義塾大学商学部教授、拓殖大学商学部教授を歴任した。和歌山県那賀郡東貴志村(現・紀の川市)出身。 1945年(昭和20年)11月27日~1946年(昭和21年)2月26日、大蔵省物価部会主査(部会長 大内兵衛)として、終戦直後の混乱期における物価の安定を図った。1962年(昭和37年)11月、大蔵省企業会計審議会、原価計算基準」を第4部会長として公表した。 東京帝国大学教授として同大学に「経営経済学」の講座を初めて開いた。
石野 芳男(いしの よしお、1896年(明治29年)3月10… 石野 芳男(いしの よしお、1896年(明治29年)3月10日 - 1950年(昭和25年)1月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 千葉県出身。東京私立錦城中学校(現錦城学園高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1926年(大正15年)12月7日、陸軍大学校(38期)を卒業し歩兵第75連隊中隊長に発令された。 1928年(昭和3年)8月、支那駐屯軍司令部付となる。参謀本部員、参謀本部付(支那研究員・南京在勤)を経て、1932年(昭和7年)2月から同年5月まで上海派遣軍参謀として第一次上海事変に出動した。
松田 伊三雄(まつだ いさお、1896年3月10日 - 19… 松田 伊三雄(まつだ いさお、1896年3月10日 - 1972年6月23日)は、日本の実業家。元三越社長。 香川県三野郡詫間村(現 三豊市詫間町)出身。旧制香川県立三豊中学校、慶應義塾大学部理財科(現 慶應義塾大学経済学部)卒業。 両親と兄弟五人が早死にし、すぐ上の姉とその夫を後見人として、三豊中学、慶應義塾大学部で学ぶ。三豊中学在学中は、自宅から三里程の距離があったため、寄宿舎に入り通った。慶應義塾大学部では、マンドリンクラブに所属した。 1919年(大正8年)慶應義塾大学部卒業後、三越本店に入社。入社後の苦労は相当なものだった。和服に前掛け姿。初めは通信販売の仕事に携わったが、残業に次ぐ残業で連日帰宅は夜11時をまわっていた。
中野 良次(なかの りょうじ、1896年(明治29年)3月1… 中野 良次(なかの りょうじ、1896年(明治29年)3月10日 - 1977年(昭和52年)2月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 佐賀県出身。地主・中野佐太郎の長男として生まれる。小城中学校(現佐賀県立小城高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第11連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し野砲兵第8連隊中隊長に就任した。 1927年(昭和2年)12月、参謀本部付勤務(通信課)となり、参謀本部員、関東軍参謀を務め、1932年(昭和7年)8月、砲兵少佐に進級。
栗林 徳一(くりばやし とくいち、1896年(明治29年)3… 栗林 徳一(くりばやし とくいち、1896年(明治29年)3月9日 - 1981年(昭和56年)12月27日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、室蘭市名誉市民。 北海道室蘭で、栗林五朔、カス夫妻の長男として生まれる。1918年(大正7年)小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を卒業し、父の事業を継いで海運業を営む。栗林 (名) 社員、栗林商会社長、栗林商船社長、室蘭船渠取締役、南洋興発取締役、室蘭商工会議所会頭、胆振縦貫鉄道会長、北海道地方電力調整委員などを務めた。1932年(昭和7年)2月、欧米の温泉場、港湾の視察で外遊し、同年11月に帰国した。 1939年(昭和14年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任。
笹山 忠夫(ささやま ただお、1896年3月9日 - 197… 笹山 忠夫(ささやま ただお、1896年3月9日 - 1974年9月26日)は、日本の実業家。アラスカパルプ社長。 大分県大分市出身。旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学卒。卒業後は日本銀行に入り、その後安田銀行を経て、日本興業銀行に勤める。戦後の1946年、財閥解体による持株会社整理委員長に就任した。持株会社整理委員長時代の1948年、昭和電工に関する問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1953年、戦後初の海外事業会社アラスカパルプを設立した。1956年、同社の社長に就任、1968年に会長に就任した。1974年死去。 1957年には日本相撲協会に請われて設立されたばかりの運営審議委員会委員となった。
赤嶺 昌志(あかみね まさし、1896年(明治39年)3月8… 赤嶺 昌志(あかみね まさし、1896年(明治39年)3月8日 - 1963年(昭和38年)2月15日 )は、日本のプロ野球球団経営者。 プロ野球・名古屋軍の理事(現在の日本プロ野球における球団代表に相当する)やセントラル・リーグ総務などを歴任した。 大分県出身で、明治大学法学部を卒業後に平壌鉄道局の野球チームの嘱託をしていたところ、若林忠志を要するハワイ州のアマチュア球団「スタクトン」を招き入れて親善試合を行う。しかし赤嶺は、平壌の戦力が不十分として自ら東京へ向かい、新国劇のエースだった黒田健吾を引き抜いた。これがきっかけで、のちに新国劇が平壌で興行した際に赤嶺は劇団の若手に付け回されたという。
広瀬 経一(ひろせ けいいち、旧字:廣瀨經一。1896年3月… 広瀬 経一(ひろせ けいいち、旧字:廣瀨經一。1896年3月7日 - 1986年2月18日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。北海道拓殖銀行頭取を務めた。香川県出身。 高松中學校、第三高等学校を経て、1920年に京都帝国大学政治科を卒業し、同年に大蔵省に入省。札幌税務署長時代の1939年に、ニッカウヰスキーの品質証明を担当した。1942年、神戸税関長を最後に退官。 1945年に北海道拓殖銀行副頭取に就任し、1947年4月には頭取に昇格。1962年3月に会長に就任し、1973年11月には相談役に就任。頭取就任後に債権整備法に基づき不良債権を切り捨てるための9割減資を強行し、さらにその半年後には100倍強の増資をするという「荒療治」を行い、戦後の拓銀の飛躍を築いた。
谷口 輝子(たにぐち てるこ、1896年3月7日 - 198… 谷口 輝子(たにぐち てるこ、1896年3月7日 - 1988年4月24日)は日本の宗教家。生長の家創始者谷口雅春の妻で、生長の家白鳩会初代総裁。富山県高岡市出身。富山県立高岡高等女学校卒業。旧姓江守。
中瀬 泝(なかせ のぼる、1896年(明治29年)3月6日 … 中瀬 泝(なかせ のぼる、1896年(明治29年)3月6日 - 1983年(昭和58年)9月17日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少将。宮崎県椎葉村出身。 旧制宮崎県立都城中学校より海軍兵学校第45期入校。席次は入校時100名中7番、卒業時89名中9番。 中瀬はロシア革命の結果誕生したソ連に脅威を抱いた日本海軍が、ソ連専門家として育成した最初の人物である。2度目のソ連駐在直前には軍令部第3部第7課勤務となるが、第7課はソ連関係の諜報を担当する部署である。 太平洋戦争開戦時は、全海軍士官の人事を掌握する海軍省人事局第一課長を務めている。航空戦艦「伊勢」艦長在任中は、囮部隊である小沢艦隊の一員としてレイテ沖海戦に参戦した。
早川 慎一(早川 愼一、はやかわ しんいち、1896年3月5… 早川 慎一(早川 愼一、はやかわ しんいち、1896年3月5日 - 1969年10月23日)は、日本の鉄道官僚、政治家。参議院議員(2期)。日本通運社長。 東京府出身。東京帝国大学法学部英法学科に入り、1919年、高等試験行政科試験に合格し、翌1920年東京帝国大学を卒業する。同年鉄道省に入り、大宮駅助役となり、鉄道省書記官、鉄道局長などを務め、1938年退官。同年、日本通運に入り、理事を経て、名古屋合同運送社長となる。その後、日本通運社長に就任。1947年の第1回参議院議員通常選挙において全国区から無所属で立候補して当選する。連続2回。後に緑風会に入り、同議員総会副議長、国会内では参議院経済安定、建設の両委員長を歴任する。
高階 哲夫(たかしな てつお、1896年〈明治29年〉3月5… 高階 哲夫(たかしな てつお、1896年〈明治29年〉3月5日 - 1945年〈昭和20年〉4月17日)は、日本のヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。本名は高階哲応、出生名は瀬木三五郎、筆名は小田進吾。博報堂の創設者である瀬木博尚は伯父にあたる。 富山県中新川郡滑川町(後の滑川市山王町)で誕生した。生家の瀬木家は富山藩に仕えた家柄で、父は開達小学校(現在の滑川市立田中小学校)の校長、その三男として生まれる。伯父の瀬木博尚は博報堂の創設者。 1901年(明治34年)に天台宗の寺院・長泉寺を継承する高階家の養子となり、1906年(明治39年)に「哲応」に改名した。 富山師範学校在学中に、先輩である浄誓寺の福井直秋の後を追い、東京音楽学校(後の東京芸術大学)への進学を決意し卒業後は1年余の浜加積尋常高等小学校訓導を経た。
狩野 春ー(かのう はるかず、1896年(明治29年)3月5… 狩野 春ー(かのう はるかず、1896年(明治29年)3月5日 - 1985年(昭和60年)10月19日)は、日本の建築学者。セメントコンクリートの基礎的研究を大成した。 滋賀県生まれ。東京工業大学などで建築材科学を学問的に位置づけ、後進の教育・育成にあたる。東京工業大学教授を退職後も明治大学工学部建築学科の発足により教授として同大学建築学科の発展に尽くし、さらに工学院大学教授も歴任、多数の研究者、技術者の育成に尽くし特に学閥にとらわれることなく多数の研究者、技術者の育成に尽くした。 旧建設省営繕審議会委員、日本建築学会の材料施工委員会委員のほか建材試験センター、日本シーリング工業界、全日本プレハブ建築防水協会等々の各顧問として広く建築界に貢献した。
鈴木 康文(すずき こうぶん、1896年3月5日 - 199… 鈴木 康文(すずき こうぶん、1896年3月5日 - 1997年1月27日)は、日本の歌人。千葉県匝瑳郡栄村堀川生まれ。『橄欖』主宰者の吉植庄亮に師事し、吉植の没後は『橄欖』代表となった。九十九里浜に面する農村に生まれ、農業を続けながら海と農村の歌を詠み続けた農民歌人として知られる。代表歌集に『九十九里』、『新九十九里』、『続々九十九里』などがある。 出生時の名前は鈴木義雄であり、1927年に鈴木康文(すずき やすぶみ)に改名した。歌人としての読みは康文(こうぶん)。 1896年、千葉県匝瑳郡栄村堀川(現・匝瑳市)の農家に生まれる。旧制中学校を卒業。14歳より作歌をはじめ、文芸誌の『文章世界』(博文館)、『秀才文壇』(文光堂)などに入選。
尾澤 淸太郞(おざわ せいたろう、1896年3月5日 - 1… 尾澤 淸太郞(おざわ せいたろう、1896年3月5日 - 1964年10月30日)は、日本の拓務官僚、実業家。弁護士。階級は樺太庁警視。位階は正五位。勲等は勲五等。姓の「澤」は「沢」の旧字体、名の「淸」は「清」の異体字、「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、尾澤 清太郎、尾沢 清太郎などとも表記される。 樺太庁警察部警務課課長、敷香支庁支庁長、大泊支庁支庁長、樺太庁農林部林務課課長、樺太庁殖産部林務課課長、樺太開発株式会社林務課課長、樺太製材株式会社取締役などを歴任した。 岩手県出身の拓務官僚である。樺太庁属として入庁し、樺太庁警察部にて警務課の課長などを歴任した。
内山 貞三郎(うちやま ていざぶろう、1896年3月4日 -… 内山 貞三郎(うちやま ていざぶろう、1896年3月4日 - 1976年10月2日)は、日本のドイツ文学者。 新潟県出身。1920年東京帝国大学文学部独文科卒。第三高等学校教授、1949年大阪大学文学部ドイツ文学科初代教授。1956年「工匠歌人ハンス・ザックスとその舞台」で東京大学文学博士。1960年阪大を定年退官、名誉教授、関西大学教授、1967年京都外国語大学教授。ドイツ戯曲を研究した。 ドイツ文化の普及に尽くしたとして西ドイツ政府からゲーテ・メダルの贈呈を受けた。1976年10月2日、老衰のため京都府向日市の自宅にて死去。80歳。
三宅 晴輝(みやけ せいき、1896年3月4日 ‐ 1966… 三宅 晴輝(みやけ せいき、1896年3月4日 ‐ 1966年9月1日)は、日本の実業家、経済評論家。 兵庫県出身。1919年早稲田大学商科卒。三菱商事をへて1924年東洋経済新報社の記者となり、電力部門を担当、松永安左エ門、小林一三らの知遇を得た。1940年常務理事ののち退社。戦時中、九州の旅館で朝香宮の行状を女中に話したことが刑事に知れ、不敬罪で懲役1年半(執行猶予2年)の判決を受けた。戦後はNHK理事ののち1948年東宝取締役、東宝争議で退社。産経新聞論説委員、NHK放送審議会委員。日本エッセイスト・クラブ賞選考委員。子に英語学者の三宅鴻。
野中 春三(のなか しゅんぞう、1896年(明治29年)3月… 野中 春三(のなか しゅんぞう、1896年(明治29年)3月3日 - 1960年(昭和35年)6月6日)は、日本の官僚・実業家。西日本鉄道社長を務めた。 福岡県柳川市出身。1921年(大正10年)東京帝国大学法学部を卒業後、鉄道省に入省。1940年(昭和15年)仙台鉄道管理局局長に就任。退官後は日本通運理事を経て、西日本鉄道副社長に就任。1945年(昭和20年)に同社社長に就任。1951年(昭和26年)に同社会長に就任した。このほか、RKB毎日放送、井筒屋の各取締役などを歴任した。 1959年(昭和34年)に西日本鉄道社長に再就任したものの、在任中の1960年(昭和35年)6月6日に九州大学病院(福岡市)で死去。
水野 康孝(みずの やすたか、1896年 <明治29年> 3… 水野 康孝(みずの やすたか、1896年 <明治29年> 3月3日 - 1987年 <昭和62年> 3月11日)は、日本の大正から昭和時代に活動した作曲家、声楽家、音楽教育者。元岡山大学教育学部長。位階は正四位。 現在の岡山市北区出身。医事評論家の水野肇は長男。 1896年(明治29年)、岡山市(現在の北区)中山下に生まれる。1916年(大正5年)に東京音楽学校本科声楽部を卒業し、同校の研究科に所属したが中退ののち大阪市立中大江東尋常小学校(大阪市立中大江小学校の前身校)に音楽専科教員として採用される。同年内に大阪音楽学校講師となり、1922年(大正11年)に楽劇「百合姫」へ出演。1923年(大正12年)に日東蓄音機(ニットーレコード)へ入社し、東京へ拠点を移すが関東大震災で被災し大阪へ戻る。
各務 鑛三(かがみ こうぞう、1896年3月3日 - 198… 各務 鑛三(かがみ こうぞう、1896年3月3日 - 1985年12月3日)は、日本のガラス工芸家。カガミクリスタル創業者。日本藝術院賞受賞。岩田藤七と並び、ガラス工芸を美術品の領域まで高めた。 岐阜県土岐郡笠原町(現多治見市)出身。1913年、愛知県立瀬戸陶器学校(のちの愛知県立瀬戸工科高等学校)卒業。1914年、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)附設工業教員養成所工業図案科選科修了。同期の芹沢銈介、1期下の濱田庄司とは生涯交友を持った。同年同校雇員、1917年、同校窯業科嘱託教員。平野耕輔の移籍に伴って、1920年、南満洲鉄道窯業試験所入所。1927年からドイツ・シュツットガルト美術工芸学校に留学し、ウィルヘルム・フォン・アイフ校長に師事。
松下 むめの(まつした むめの、英語:Mumeno Mats… 松下 むめの(まつした むめの、英語:Mumeno Matsushita, 1896年〈明治29年〉3月3日 - 1993年〈平成5年〉9月5日)は、パナソニックの創設者である松下幸之助の配偶者。三洋電機の創設者である井植歳男の姉。 井植清太郎の次女として兵庫県津名郡浦村(現在の淡路市)に生まれる。浦高等小学校を卒業後、技芸学校に通って裁縫技術を覚えた後、大阪に出て船場(京町堀)で女中奉公を務める。炭屋を経営していた平岡屋の紹介で、松下幸之助と出会う。見合いは松島にある芝居小屋「八千代座」の前で行われた。見合いとは言っても目の前を通り過ぎるだけのものであった。この結婚に父であった清太郎は強く反対するが、当のむめのの意思は変わらなかった。
元田 庄一(もとだ しょういち、1896年(明治29年)3月… 元田 庄一(もとだ しょういち、1896年(明治29年)3月 - ?)は、日本の発明家。 広島県佐伯郡大柿町(現在の江田島市)出身。東京電機学校(現在の東京電機大学)本科卒業後、1921年(大正10年)に広島電気に入社し、技手となった。1921年に逓信省電気事業主任技術者試験三種に合格し、1923年に二種一次に合格した。
沼田 恒夫(ぬまた つねお、1895年3月29日 - 196… 沼田 恒夫(ぬまた つねお、1895年3月29日 - 1967年4月9日)は、日本の政治家。元愛媛県大洲市長、今治市長。 旧制大洲中学校(現:愛媛県立大洲高等学校)卒業。喜多郡役所書記を経て、1939年愛媛県属となり、地方課長・商工課長などを歴任した。1942年に今治市長阿部秀太郎に招かれて助役になり、1943年12月今治市長に就任して戦時下の市政を担当した。敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の政令第3号によって市長職を離れた。 1954年に大洲市長選挙に立候補し元菅田村村長の有友寿次郎を破り初当選、初代大洲市長に就任した。1958年の市長選挙において無投票で当選を果たし、2選。3選を目指し、1962年の大洲市長選挙に立候補したが新人で愛媛県議会議員の森永冨茂に破れ落選。
高田 保(たかた たもつ / たかだ たもつ、1895年(明… 高田 保(たかた たもつ / たかだ たもつ、1895年(明治28年)3月28日 - 1952年(昭和27年)2月20日)は、茨城県出身の劇作家、随筆家。俳号は羊軒。母方の従兄に近世文学研究者の山口剛がいる。 1895年、茨城県新治郡土浦町(現在の土浦市)の旧家に生まれる。子供の頃より気遣いが出来てまた話も面白く、同級の者以外とも交流するなど人望が厚かったという。旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を経て早稲田大学英文科へと進んだ。大学在学中から新劇運動に参加して宇野浩二を知るようになる。また、在学中に創立者・大隈重信の妻の銅像を建てるかの問題で「銅像事件」と呼ばれる騒動が起きるが、その時代を描いた尾崎士郎の小説『人生劇場・青春編』に、高田をモデルとした「吹岡早雄」という人物が登場している。
李家 孝(りのいえ たかし、1895年(明治20年)3月28… 李家 孝(りのいえ たかし、1895年(明治20年)3月28日 - 1978年(昭和53年)2月18日)は、日本の実業家。三菱製鋼株式会社元取締役会長。剣道範士。 李家隆介の次男として生まれる。1919年(大正8年)、東京帝国大学工学部機械科卒業後、三菱重工業に入社。1941年(昭和16年)、三菱重工業神戸造船所造機工作部長を務める。1950年(昭和25年)、東日本重工業社長に就き、1952年(昭和27年)、三菱日本重工業株式会社取締役を経て、1955年(昭和30年)に三菱製鋼株式会社取締役会長兼三菱日本重工業株式会社取締役(後に相談役)に就任した。 趣味は剣道、謡曲、打球。宗教は真宗。 長男・孝信(三井物産・三井リース事業副社長)は新田帯革製造所(現ニッタ)社長新田長三の次女・絢子と結婚した。
池田 幸太郎(いけだ こうたろう、1895年3月28日 - … 池田 幸太郎(いけだ こうたろう、1895年3月28日 - 1976年8月16日)は、日本の画家。 佐賀郡出身。1913年(大正2年)に佐賀中学校卒業後に上京し、川端画学校で結城素明の指導を受けた。1921年(大正10年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科を卒業した。 1925年(大正14年)に「染井釣堀の図」が帝展に初入選した。昭和初期にかけて一連の東京風物を描いたが、1933年(昭和8年)頃から官展への出品を辞め、独自の制作活動を行った。 1932年にはロサンゼルスオリンピックの芸術競技の絵画種目に出品した。
素木 しづ(しらき しづ、1895年3月26日 - 1918… 素木 しづ(しらき しづ、1895年3月26日 - 1918年1月29日)は、日本の小説家。本名上野山志づ(うえのやま しづ)。 1895年(明治28年)、札幌に生まれる。昆虫学者・素木得一の妹。庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)卒業後、結核性関節炎が悪化し右足を切断。1913年(大正2年)、小学校から同期だった森田たまに数日遅れて森田草平門下に入る。同年処女作『松葉杖をつく女』を、翌年『三十三の死』を発表。新進女流作家としての地位を築く。1915年(大正4年)画家の上野山清貢(うえのやま きよつぐ)と結婚し(婚姻届を出したのは1917年(大正6年))の年末、子(茂登山櫻子)をもうける。
石浜 知行(いしはま ともゆき、1895年3月26日 - 1… 石浜 知行(いしはま ともゆき、1895年3月26日 - 1950年8月1日)は、日本の経済学者。 兵庫県出身。時事新報社の記者・石濱鉄郎の長男、作家の石浜金作は弟。東京帝国大学経済学部卒。ドイツ留学を経て九州帝国大学教授。1928年(昭和3年)三・一五事件で辞職、のち読売新聞論説委員。戦後、1946年(昭和21年)に中国研究会設立に参加。九州帝大に復帰、マルクス主義経済学者として活動する。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
当間 重剛(とうま じゅうごう、當間 重剛、1895年(明治… 当間 重剛(とうま じゅうごう、當間 重剛、1895年(明治28年)3月25日 - 1971年(昭和46年)10月20日)は、戦前の沖縄県および琉球政府の政治家・裁判官。那覇市長・琉球政府行政主席(1956年11月11日 - 1959年11月10日)。フランス語に堪能な人物だった。 ジャーナリストで初代那覇市長だった当間重慎の息子として沖縄県那覇(現・那覇市)に生まれる。沖縄県立第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年に京都帝国大学法学部を卒業。1939年に那覇市長に選出され、戦時中は大政翼賛会沖縄県支部長を務めた。 沖縄戦後には一転沖縄民政府行政法務部長を歴任し、1946年には戦前の市町村長経験者を市町村長に起用する米軍の特別措置に伴い再度那覇市長に就任。
前田 一(まえだ はじめ、1895年3月25日-1978年5… 前田 一(まえだ はじめ、1895年3月25日-1978年5月2日)は、昭和時代の経営者。日本経営者団体連盟(日経連)発足時から21年にわたって専務理事を務めた。一説には「サラリーマン」という語を広めた人物とされている。 佐賀県小城郡三日月村(現在の小城市)出身。東京帝国大学法学部を卒業後、経済学部に再入学して1921年に卒業、北海道炭礦汽船会社に入社して労務係となり、以後一貫して総務畑を歩む。1927年に著した『サラリマン物語』が日本に「サラリーマン」という和製英語を定着させるきっかけになったと言われている。1929年にヨーロッパに留学し、日本政府の要請で第12回国際労働会議の日本政府代表嘱託に加わっている。
石川 定俊(いしかわ さだとし、1895年(明治28年)3月… 石川 定俊(いしかわ さだとし、1895年(明治28年)3月24日- 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政長官、実業家。 石川龍助の長男として、秋田県秋田市に生まれる。札幌中学から東北帝国大学農学科予科にすすみ北海道帝国大学農学部を経て、1922年(大正11年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、台湾総督府殖産局に奉職する、高等試験行政科に合格。1924年(大正13年)10月、地方理事官に進み、台北州七星郡守に任じ、台北市助役、新竹州内務部地方課長、警務部理蕃課長、台北州警務部長、内務局土木課長、交通局鉄道部長などを歴任した。その後、1942年(昭和17年)7月に陸軍司政長官に任じ、ケドウ州(現インドネシア共和国ジャワ島中部ジャワ州)長官となった。
高木 秀雄(たかぎ ひでお、1895年(明治28年)3月23… 高木 秀雄(たかぎ ひでお、1895年(明治28年)3月23日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。屏東市尹。 高木行正の長男として愛媛県北宇和郡宇和島町野川(現・宇和島市野川)に生まれる。1914年(大正3年)愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業。翌年、台北庁に出仕。 1917年(大正6年)南投庁属、1922年(大正11年)台湾総督府財務局、1925年(大正14年)同府税務課を経て、1927年(昭和2年)1月、再び同府財務局勤務となり、1931年(昭和6年)5月、秘書課勤務に転じ、東京出張所勤務を発令される。翌年の1932年(昭和7年)3月、同府中央研究所会計課長および秘書課長を経て、文書課長となり、同年7月に同府総務長専属となった。
御手洗 辰雄(みたらい たつお、1895年(明治28年)3月… 御手洗 辰雄(みたらい たつお、1895年(明治28年)3月23日 - 1975年(昭和50年)9月7日)は、日本のジャーナリスト。政治評論家。 大分県大分市出身。旧制大分中学校を経て、慶応義塾大学に入るが、1914年(大正3年)に中退。地元の大分新聞(現・大分合同新聞)を経て、上京し、1917年(大正6年)報知新聞社に入り、社会部、政治部記者となり、1922年(大正11年)社会部長となる。1928年(昭和3年)に社内紛争のため退社。その後は東京毎夕新聞、国民新聞、二六新報の各編集局長などを務め、同郷の菊池寛の勧めにより『文藝春秋』に「城南隠士」のペンネームで政治評論を寄稿した。1936年(昭和11年)に朝鮮に渡り、京城日報副社長となる。
福島 敏行(ふくしま としゆき、1895年〈明治28年〉3月… 福島 敏行(ふくしま としゆき、1895年〈明治28年〉3月23日 - 1983年〈昭和58年〉3月23日)は日本の実業家。元日本通運社長、元学校法人日通学園理事長。 1895年(明治28年)3月23日、島根県松江市に生まれる。 1916年(大正5年)、法政大学法学部を卒業し、内国通運(現・日本通運)に入社する。 1960年(昭和35年)、日本通運社長に就任し、1968年(昭和43年)に辞任する。辞任後、いわゆる日通事件により業務上横領の疑い等で逮捕される。1971年(昭和46年)9月に東京地裁で懲役4年の判決が出、1977年(昭和52年)10月に最高裁で確定する。しかし、病気のため刑の執行は停止される。
斎木 重一(齋木、さいき しげいち、1895年〈明治28年〉… 斎木 重一(齋木、さいき しげいち、1895年〈明治28年〉3月23日 - 1977年〈昭和52年〉5月11日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員。旧姓は稲葉。 福井県坂井郡伊井村(現・あわら市)で生まれる。大関高等小学校卒業。卒業後は、一時東京に滞在する。 越前木材工の職工長を務める。1918年(大正7年)、福井製材職工同盟会を組織し、1925年(大正14年)、福井県労働同志会に改組し、農民運動にも加わった。1929年(昭和4年)に福井市会議員選挙に立候補したが、この時は3票差で落選した。1932年(昭和7年)、社会大衆党福井県連会長に就任した。1933年(昭和8年)に福井市会議員に当選した。
秋田 三一(あきた さんいち、旧姓・武光、1895年〈明治2… 秋田 三一(あきた さんいち、旧姓・武光、1895年〈明治28年〉3月22日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の政治家(貴族院議員)、山口県多額納税者、実業家。神戸近海汽船代表取締役。 山口県防府市出身。生家の武光家は防府天満宮で代々大宮司を務めた。武光信雄の三男で、下関の秋田寅之介の養子となる。山口県立山口中学校(現山口県立山口高等学校)、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法科)卒業。 三井銀行横浜支店に入り、彦島船渠常務取締役を経て秋田汽船に転じ、代表取締役となる。材木商海運貿易鉱業を営む。山口県多額納税者に列し、1939年(昭和14年)貴族院議員に互選され、同年9月29日から研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
筑田 勝二(つくだ かつじ、1895年 <明治28年> 3月… 筑田 勝二(つくだ かつじ、1895年 <明治28年> 3月21日 - 1968年 <昭和43年> 1月11日)は、日本の経営者。日本ペイント社長、会長を務めた。位階は従四位。 宮城県出身。1916年に大阪高等商業学校を卒業し、1918年に日本ペイントに入社。1943年に監査役に就任し、取締役、専務を経て、1947年2月から1965年6月までに社長を務めた。1956年に大阪商業学園理事長にも就任。 1955年に紺綬褒章を受章し、1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1968年1月11日、心筋梗塞のために死去。72歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
宮井 一郎(みやい いちろう、1895年3月21日-1991… 宮井 一郎(みやい いちろう、1895年3月21日-1991年)は、日本の文芸評論家。 島根県邑智郡川本町出身。1913年慶應義塾卒、慶應義塾大学理財科中退[要校閲]。満洲で新進コンクリート常務取締役。大連で刊行されていた文芸同人誌『作文』に参加、戦後郷里で工場を経営し、東京で再刊された『作文』同人となる。1962年「『明暗』の主題」を発表して注目され、以後漱石論を書く。江藤淳の漱石と嫂の恋に関する説を激しく批判した。子に映像作家・宮井陸郎がいる。
村上 清治(むらかみ せいじ、1895年(明治28年)3月1… 村上 清治(むらかみ せいじ、1895年(明治28年)3月19日 - 1955年(昭和30年)10月13日)は、大正から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡上郷村長。 秋田県由利郡上郷村横岡(象潟町を経て現にかほ市)で、素封家の家に生まれる。秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を経て、1916年(大正5年)東北帝国大学農科大学農学実科(現北海道大学農学部)を卒業。農業に従事した。 不動建物取締役社長、上郷村農業会長、同農会評議員、同信用組合理事、同森林組合長、上郷文化協会長、由利郡農業会長会副会長、象潟上郷上浜信用購買販売利用組合監事などを務めた。 政界では、上郷村会議員(3期)、秋田県会議員(1期)、上郷村長、由利郡仁賀保町村長会長、秋田県町村長会評議員などを務めた。
河西 太一郎(かわにし たいちろう、1895年3月18日 -… 河西 太一郎(かわにし たいちろう、1895年3月18日 - 1986年8月26日)は、日本の経済学者。立教大学名誉教授、立教大学元経済学部長、学校法人立教学院元理事長。高崎市立短期大学(現・高崎経済大学)初代学長。 1895年3月、大阪府和泉市松尾寺町で河西仲次郎の四男として生まれる。 1912年3月、大阪府立堺中学校卒業、1917年7月、第一高等学校独法科卒業し、同年9月、東京帝国大学法学部政治学科入学。1920年9月、東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年10月、大原社会問題研究所助手に就任。同年11月、安藤文子と結婚する。 1923年3月、大原社会問題研究所の財政的な問題から規模縮小のために、同僚の林要らとともに同研究所を離れる。
井川 伊平(いかわ いへい、1895年(明治28年)3月18… 井川 伊平(いかわ いへい、1895年(明治28年)3月18日 - 1979年(昭和54年)11月2日)は、日本の政治家、弁護士。参議院議員(2期)。 徳島県出身。1921年、明治大学法学部卒業。1923年、札幌市で弁護士事務所を開業。その後、札幌市議会議員(3期)、北海道議会議員(6期)を務め、1951年に北海道議会副議長に就任(1期、当時は国民民主党に所属)。1955年、市議や道議として公共の福祉に奉仕した地方自治発展の功労により藍綬褒章受章。 1959年の第5回参議院議員通常選挙と1965年の第7回参議院議員通常選挙において北海道選挙区より当選(自由民主党)。参議院議員を2期に亘って務め、北海道開発政務次官などに就いた。
北野 吉登(きたの よしと、1895年3月17日 - 198… 北野 吉登(きたの よしと、1895年3月17日 - 1981年4月22日)は、日本の実業家。北野建設創業者。 長野県上高井郡保科村(現長野市)生まれ。保科高等小学校卒業。父の民蔵が明治35年(1902年)に創業した製糸業の「北野商店」を手伝うが、生糸相場暴落を機に、木材や土木建築の請負を開始し、事業の基礎を固める。早くから事業の一体性を考慮し、山林の経営にも着手した。昭和5年(1930年)上高井郡木材業組合長、続いて長野県木材業組合長を務める。同21年(1946年)北野建築工業を設立し、同23年(1948年)現行の北野建設に改称する。昭和38年(1965年)社長を北野次登に譲り、会長となる。長野県建設業協会副会長を務め、アメリカやヨーロッパ各地の建設業を視察し、事業を全国的に躍進させ、海外にも進出した。
高野 源進(たかの げんしん、1895年(明治28年)3月1… 高野 源進(たかの げんしん、1895年(明治28年)3月15日 - 1969年(昭和44年)1月4日)は、日本の内務官僚、弁護士。官僚としては主として警察畑を歩き山梨県知事・警視総監などを歴任したが、特に原爆被災時の(官選)広島県知事を務めたことで知られる。 福島県北会津郡北会津村で農業を営む高野源八の長男として生まれる。 会津中学・一高を経て、1923年3月東京帝国大学法学部法律学科(独法学)を28歳で卒業した。卒業前の1922年11月に高等試験に合格しており、卒業後の1923年4月に内務省に入省、警視庁警部(警務部警衛課)となった。その後神田外神田警察署・神田万世橋警察署・本郷駒込警察署の各署長を歴任したのち、警視庁警務部長(1939年9月 - 1941年1月)を経て、山梨県知事となる(1941年1月 - 1942年7月)。
秋岡 武次郎(あきおか たけじろう、1895年3月15日 -… 秋岡 武次郎(あきおか たけじろう、1895年3月15日 - 1975年2月6日)は、日本の地理学者、古地図収集家。専門は地図学。法政大学名誉教授。地図の歴史を調べ、地理学の教科書を著した。 兵庫県有馬郡三田町に生まれる。大阪市で成長し、大阪府立今宮中学校(現・府立今宮高校)を卒業する。1918年、第八高等学校を卒業すると、同年、同窓156名が東京帝国大学に進み、理科大学入学5名の一人として予修学校に地質学科を選ぶ。翌年、新設の地理学科に転科すると、山崎直方らの指導を受けた。1921年、第1回の唯一人の卒業生となった。 陸軍士官学校教授に[いつ?]就任すると地学(地理学)を担当し、指導要項の設計を手がける。
堀 正旗(ほり せいき、1895年3月14日 - 1953年… 堀 正旗(ほり せいき、1895年3月14日 - 1953年4月28日)は、宝塚歌劇団創成期の劇作家、演出家。理事。広島県広島市生まれ。 久松一声、坪内士行、岸田辰彌、白井鐵造、小野晴通らと宝塚の基盤を築いた功労者。1928年の外遊後、フランスに学んだ白井のパリ・オペレッタに対して宝塚に左翼的なドイツ演劇を持ち込んだ事で知られる。 父親は医師で野添家の四男として生まれる。名前は日本が日清戦争に勝利した年の生まれで「正義の御旗」という意味で付けられたという。生後すぐに母親が死に、父が再婚したため堀家に養子に出される。広島市の広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)を卒業すると郵政官僚だった長兄に引き取られ愛知県や大阪府などで育つ。
多胡 謙治(たご けんじ、1895年(明治28年)3月14日… 多胡 謙治(たご けんじ、1895年(明治28年)3月14日 - 1951年(昭和26年)7月14日)は、日本の歯科医師であり教育者である。東京女子歯科医学専門学校(現:神奈川歯科大学)教授。岡山県津山市出身。 1895年(明治28年)に岡山県勝田郡勝加茂村(現:津山市)の多胡又次郎の三男として生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1916年(大正5年)に同校を卒業し、東京歯科医学専門学校(現:東京歯科大学)へ進学。1919年(大正8年)東京歯科医専を卒業し、24歳で直ちに同校の助手となる。 東京歯科医専の助手として勤務していたが、1921年(大正10年)12月に離職して、渡米する。
大津 桂一(おおつ けいいち、1895年3月14日 - 19… 大津 桂一(おおつ けいいち、1895年3月14日 - 1948年3月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 茨城県久慈郡坂本村(現・日立市)生まれ。1914年茨城県師範学校(現・茨城大学教育学部)本科第二部卒。小学校や茨城県女子師範学校の訓導を務め、小学校長となり、岩間農業公民学校助教諭兼校長、茨城県視学、石岡農商青年学校教諭兼校長を歴任する。新治郡教育会長、新治地方事務所参与などを務める。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で茨城県から無所属で立候補して当選する。当選後は新光倶楽部に入り、その後新政会、国民党、国民協同党から無所属を経て、民主党と変わった。この間、国民党会計監査となった。