飯本 信之(いいもと のぶゆき、1895年3月14日 - 1… 飯本 信之(いいもと のぶゆき、1895年3月14日 - 1989年6月12日)は、日本の地理学者。お茶の水女子大学名誉教授。日本地理学会会長(1956年 - 1958年)。勲三等旭日中綬章(1969年)、従三位(1989年)。 昭和前期に政治地理学と地政学を開拓し、その研究を先導した。特に自然地理学中心の日本の地理学界を批判し、国内にドイツ地政学を導入・紹介して、その学問の制度的基礎をつくった。日本で初めて「地政学」という言葉を使用した人物である。 1895年3月14日、石川県金沢市大浦町で生まれる。大浦尋常小学校(後の金沢市立大浦小学校)、石川県立金沢一中(後の石川県立金沢泉丘高等学校)、帝国大学予科第四高等学校(後の金沢大学)を経た後、遊学の地を東京とし、1917年に東京帝国大学理科大学鉱物学科へ入学した。
金 俊淵(キム・ジュニョン、朝鮮語: 김준연、1895年3月… 金 俊淵(キム・ジュニョン、朝鮮語: 김준연、1895年3月14日 - 1971年12月31日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、政治家。第4代法務部長官、第8代無任所長官、制憲・第3・4・5・6代韓国国会議員を歴任した。韓国建国後はさまざまな野党の幹部を務めた。 本貫は金海金氏。号は朗山。画家の金子玉は長女、女医の金子香(朝鮮語版)は次女。元全南大学校医科大学長の曺圭瓚(朝鮮語版)は長女の夫、法曹の金洪燮(朝鮮語版)は三女の夫。 全羅南道霊岩郡出身。9人きょうだいの長男である。霊岩普通学校卒、京城公立高等普通学校卒、岡山第六高等学校卒、1920年または1921年東京帝国大学(現・東京大学)法学部独法科卒。
草葉 隆圓(くさば りゅうえん、1895年(明治28年)3月… 草葉 隆圓(くさば りゅうえん、1895年(明治28年)3月13日 - 1966年(昭和41年)9月20日)は、日本の社会福祉事業家、政治家、僧侶。参議院議員(4期)、厚生大臣(第24代)。雅号・隆月。 福岡県出身。1920年(大正9年)、大谷大学を卒業し欧米に留学。1921年(大正10年)から社会福祉事業に従事し、愛知県遺友会会長となる。 1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙に愛知地方区から出馬し当選(任期3年)。以後、第2回、第4回、第6回参議院議員通常選挙で再選され、連続4回当選を果たした。 参議院議員としては、参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員長、同議院運営委員長、同外務委員長、同日米安全保障条約等特別委員長を務める。
喜多 長雄(きた ながお、明治28年(1895年)3月13日… 喜多 長雄(きた ながお、明治28年(1895年)3月13日 - 昭和22年(1947年)5月1日)は、日本の外交官。 徳島県三好郡西祖谷山村出身。徳島商業学校、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学経済学部に進学し、1922年高等試験外交科に合格。1923年に東京帝国大学経済学部を卒業し、在イギリス外交官補に任官。1924年在イギリス大使館付(オックスフォード大学留学)。1928年在中国外交官補。1929年在中国公使館三等書記官。1933年外務省情報部外務事務官。 1934年外務省情報部第二課外務事務官。1936年外務省情報部第三課長。1937年内閣情報部情報官、外務省東亜局兼欧亜局。1938年在中華民国大使館二等書記官。
大槻 正男(おおつき まさお、1895年3月12日 - 19… 大槻 正男(おおつき まさお、1895年3月12日 - 1980年12月8日)は、日本の農業経済学者。 宮城県出身。1921年東京帝国大学農学部卒。京都帝国大学農学部助教授、教授となり、1955年定年退官、名誉教授、東京農業大学教授を務めた。農地審議会委員、米価審議会委員などを務めた。1978年日本学士院会員。子にフランス文学者の大槻鉄男がいる。
木村 素衛(きむら もともり、1895年3月11日 - 19… 木村 素衛(きむら もともり、1895年3月11日 - 1946年2月12日)は、日本の哲学者・教育学者。 1895年、石川県生まれ。京都帝国大学哲学科選科を卒業。卒業後は、広島高等師範学校教授となった。1940年、学位論文『実践的存在の基礎構造 教育哲学の考察に向けられたるフイヒテ哲学の一つの研究』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。同1940年に京都帝国大学教授となり、教育学を担当した。 大西正倫『表現的生命の教育哲学―木村素衞の教育思想』(2011、昭和堂)門前斐紀『木村素衞「表現愛」の人間学―「表現」「形成」「作ること」の身体論』(2019、ミネルヴァ書房)蜂谷俊隆「糸賀一雄と木村素衛──教養の思想を中心に」『福祉にとっての歴史 歴史にとっての福祉』(2017、ミネルヴァ書房) この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
亀尾 英四郎(かめお えいしろう、明治28年(1895年)3… 亀尾 英四郎(かめお えいしろう、明治28年(1895年)3月10日 - 昭和20年(1945年)10月11日)は日本のドイツ文学者。東京高等学校教授。 鳥取県米子市糀町出身。家業は足袋製造業。亀尾定右衛門の四男。 米子中学校、岡山の第六高等学校を経て、大正10年(1921年)、東京帝国大学文学部独文科を卒業、同大学研究室副手となる。1919年、坪田譲治、相良守峯らと『地上の子』を創刊する。 ドイツ文学者として早くからゲーテに心酔し、その貴重な入門書とされるヨハン・エッカーマン『ゲエテとの対話』を完訳して世に問うたのは大正11年(1922年)、27歳のときである。 大正14年(1925年)東京高等学校教授となる。
福島 繁太郎(ふくしま しげたろう、1895年〈明治28年〉… 福島 繁太郎(ふくしま しげたろう、1895年〈明治28年〉3月9日 - 1960年〈昭和35年〉11月10日)は、日本の画商、美術評論家。妻・福島慶子も随筆家、評論家として知られた。 株式仲買人で、日露戦争による相場急騰で財を成した福島浪蔵の子として東京に生まれる。。1921年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌1922年までイギリスに留学し、次いで1923年にフランスへ渡り、長くパリに滞在した。福島は滞仏期間中に同時代の多くの画家と交流し、特にジョルジュ・ルオーと親しく交際した。また、多数の絵画を収集して、いわゆる「福島コレクション」を形成し、その多くを日本にもたらした。1928年、ないし1929年には、パリでジョルジュ・ワルドマー (George Waldemar) を中心とする美術評論誌『フォルム (Formes)』を創刊した。
大林 末雄(おおばやし すえお、1895年〈明治28年〉3月… 大林 末雄(おおばやし すえお、1895年〈明治28年〉3月8日 - 1983年〈昭和58年〉4月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。愛知県宝飯郡佐脇村(のち御津村→御津町、現在の豊川市)上佐脇出身。 旧制愛知県第一中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第27期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第94位、卒業時成績順位は96名中第22位。
中嶋 舜司(なかじま しゅんじ 1895年〈明治28年〉3月… 中嶋 舜司(なかじま しゅんじ 1895年〈明治28年〉3月7日 - 1981年〈昭和56年〉3月11日) は、東京都立川市長(2期)。位階は正六位。 東京府北多摩郡立川村(立川町を経て、現在の東京都立川市)生まれ。東京府立第二中学校(現在の東京都立立川高等学校)卒業。立川村会議員、同町会議員、同市会議員を務める。その後、同議長、農業委員会委員長などを務める。 戦後の1947年、立川市長に就任。1期目は市公民館の建設に着手、自治体警察の発足、市営火葬場の建設、児童相談所の開設、上下水道も計画された。 1951年に板谷信一郎に市長を譲るも、1955年に再び市長に就任。立川基地拡張を巡り、反対闘争が起こる。
大久保 正二(おおくぼ しょうじ、1895年(明治28年)3… 大久保 正二(おおくぼ しょうじ、1895年(明治28年)3月6日 – 1965年(昭和40年)1月21日)は、東京都出身の実業家。 14年半に亘って日野自動車のトップを務め、積極政策、研究重視政策により、現在の同社の基礎を築いたとされる。販売の神様と称されたトヨタ自動車の神谷正太郎などと共に、自動車業界を代表する人物のひとりと言われた。
横井 忠雄(よこい ただお、1895年(明治28年)3月6日… 横井 忠雄(よこい ただお、1895年(明治28年)3月6日 - 1965年(昭和40年)9月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。大分県大分市出身。
鄭 重燮(チョン・ジュンソプ、朝鮮語: 정중섭、1895年3… 鄭 重燮(チョン・ジュンソプ、朝鮮語: 정중섭、1895年3月6日または1898年3月6日 - 1978年2月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、教育者、警察官、政治家。第3・4代韓国国会議員。 咸鏡南道利原郡出身。京城高等工業専門学校(朝鮮語版)応用化学科卒、在学中は独立運動に関与して数回拘束された。東洋大学東洋倫理哲学科卒または3年修了。間島で東興中学校を設立し、教員・校長を務め、左翼団体である平友同盟にも参加したが、5・20間島暴動により避難し帰国した。その後は高城警察署刑事部長、北青工業学校教員・校長、北青産業学校・北青中学校教員、木浦工業学校(朝鮮語版)校長、光州西公立中学校(現・光州第一高等学校(朝鮮語版))校長、木浦商業学校(現・全南大学校)校長、全南大学校商科大学学長、全羅南道学務課長・教育局長、全南教育会創立初代会長、民主党中央委員、株式会社ラジオ木浦発起人・初代代表理事、初代木浦MBC社長、新民党中央委員会議長、共和党常任委員を務めた。
森下 政一(もりした まさかず、1895年〈明治28年〉3月… 森下 政一(もりした まさかず、1895年〈明治28年〉3月5日 - 1957年〈昭和32年〉3月5日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。 位階は正五位、勲等は勲三等。 大阪市財務部長、大阪市民信用組合長、大阪市教育会長、日本社会党大阪府支部連合会会長、参議院議員総会副会長を務めた。 京都府福知山市生まれ。1916年(大正5年)- 早稲田大学商科卒業。大学卒業後、米国に留学。 1925年(大正14年) 関西大学経済学部で講師、後に教授として財政学や英語経済を教える。 1930年(昭和5年) 第17回衆議院議員総選挙大阪1区落選(国民同志会)。 1936年(昭和11年) 大阪市助役就任。 1947年(昭和22年) 第1回参議院議員通常選挙大阪府選挙区初当選(日本社会党)。
紅葉川 孝市(もみじがわ こういち、1895年3月5日 - … 紅葉川 孝市(もみじがわ こういち、1895年3月5日 - 1967年12月9日)は、埼玉県北埼玉郡(現在の鴻巣市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は岡戸 孝市(おかど こういち)。最高位は小結。身長171cm、体重90kg。引退後は年寄として後進の指導につとめた。 大相撲常設館落成の1909年6月場所に友綱部屋から初土俵を踏む。祖父の兄弟は杣ヶ花渕右エ門。 若い頃はなかなか出世せず、神経痛に苦しんだ時期にはフグで自殺を図り自ら捌いて食したが、死なないどころか逆に毒が薬になったのか神経痛が治り、それ以降地力を増して1914年5月新十両、1916年5月新入幕を果たし1920年1月と1921年5月は小結を務めた。
南家 碩次(なんけ せきじ、1895年〈明治28年〉3月3日… 南家 碩次(なんけ せきじ、1895年〈明治28年〉3月3日 - 没年不明)は、日本の実業家。 鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)に生まれる。1917年、第六高等学校を卒業する。1920年、東京帝国大学工学部採鉱学科を卒業する。満鉄に入社する。鞍山製鉄所に勤務する。 1923年、鞍山製鉄所桜桃園採鉱所長。1924年、撫順炭鉱古城子採炭所に勤務する。1931年、撫順炭鉱揚柏堡採炭所長。昭和製鋼所採鉱部次長、採鉱部部長を経て1941年理事に就任。 1943年、満州製鉄理事。1945年、満州製鉄東辺道支社長。鋼管鉱業取締役、三信建設社長、三信採石社長、三信コンサルタント社長をつとめる。 著書は『鑛山に賭ける』、『或る鉱山技師の手記』などがある。
岩淵 三次(いわぶち さんじ、1895年〈明治28年〉3月2… 岩淵 三次(いわぶち さんじ、1895年〈明治28年〉3月2日 - 1945年〈昭和20年〉2月26日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。最終階級は海軍中将。 新潟県南蒲原郡三条町(現三条市)出身。旧制新潟県立三条中学校より海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第26位、卒業時成績順位は96名中第13位。海軍砲術学校高等科を卒業後は砲術畑を歩んだ。 1942年4月20日、戦艦「霧島」の艦長に着任し、ミッドウェー海戦、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。第3次ソロモン海戦では米戦艦「ワシントン」、「サウスダコタ」等と乱戦状態になり、舵を損傷した「霧島」は自沈、岩淵は救助され生還した。
岩本 信行(いわもと のぶゆき、1895年3月2日 – 19… 岩本 信行(いわもと のぶゆき、1895年3月2日 – 1963年4月5日)は、日本の政治家。国務大臣、衆議院副議長(第34・35代)、衆議院議員(5期)。位階は正三位、勲等は勲一等。 神奈川県高座郡大野村上鶴間(現相模原市南区)に、農業・岩本次左衛門の長男として生まれる。小学校を卒業後、東京府南多摩郡忠生村(現東京都町田市)にあった漢学塾・尚絅塾で学ぶ。大野村役場書記、高座郡書記を経て家業の農業に専念し、また養蚕組合を設立して組合長になったり、青年団長を務めるなど、地域の世話役的活動を積極的に行った。 大野村会議員(1922年)を経て、1928年神奈川県会議員に当選し、1946年まで選出される。
小倉 遊亀(おぐら ゆき、1895年3月1日 - 2000年… 小倉 遊亀(おぐら ゆき、1895年3月1日 - 2000年7月23日)は、日本画家。本名はゆき。旧姓は溝上。女性初の日本美術院同人。上村松園・片岡球子と並ぶ日本を代表する女性画家の一人。 代表作品に「O夫人坐像」「小女」「浴女」など。 現在の滋賀県大津市中央に生まれる。1913年、滋賀県立大津高等女学校(現在の滋賀県立大津高等学校)を卒業後、1913年、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)国語漢文部に入学。1917年、奈良女子高等師範学校を卒業し、京都第三高等小学校に着任。1919年、椙山高等女学校教諭、1920年、捜真女学校教諭を務める。同年、安田靫彦に師事する。1926年、「胡瓜」が院展に入選。
佐々木 善七(ささき ぜんしち、1895年3月1日 - 19… 佐々木 善七(ささき ぜんしち、1895年3月1日 - 1994年8月11日)は、日本の経営者。島根県出身。 1918年に慶應義塾理財科を卒業。岩井商店、徳山鉄板での勤務を経て、1930年に関西ペイントに転じた。 1946年4月に取締役に就任し、1955年4月には社長に就任。1966年5月に会長を経て、1972年11月から顧問を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1966年4月に勲三等瑞宝章を受章し、1967年に紺綬褒章を受章。 1994年8月11日肺炎のために死去。99歳没。
伊藤 武雄(いとう たけお、1895年3月1日 - 1984… 伊藤 武雄(いとう たけお、1895年3月1日 - 1984年9月5日)は、日本の中国研究者。日中友好協会副会長を務めた。 1895年、愛知県渥美郡田原町(現・田原市)で生まれた。東京帝国大学法学部政治学科で学び、1920年に卒業。 南満州鉄道勤務。満鉄時代の1943年、満鉄調査部事件で検挙され、10カ月投獄された。 第二次世界大戦後、1946年には中国研究所の設立に参加したほか、日中友好協会副会長を務めた。また、日中文化交流協会を設立し、ジャパンプレス会長を務めた。
三輪 幸助(みわ こうすけ、1895年(明治28年)3月1日… 三輪 幸助(みわ こうすけ、1895年(明治28年)3月1日 - 1968年(昭和43年)9月)は、日本の台湾総督府官僚。 東京府出身。1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、高等試験に合格。台湾総督府属、台中州勧業課長、台北州教育課長、台中州新高郡守、同地方課長、同警務部長、中央研究所庶務課長、税関庶務課長、専売局酒課長、同煙草課長、台北州内務部長、専売局参事・庶務課長、交通局理事・逓信部長、専売局長、台北州知事を歴任し、1942年(昭和17年)に退官した。
柏原 幸一(かしわばら こういち、1895年(明治28年)3… 柏原 幸一(かしわばら こういち、1895年(明治28年)3月1月 - 1981年(昭和56年)12月1日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、大分県北海部郡佐賀関町長。 大分県北海部郡佐賀関町(現大分市)で、海産物問屋「かしわや」に生まれる。1909年(明治42年)臼杵中学校(現大分県立臼杵高等学校)を卒業。1913年(大正2年)第七高等学校造士館に進学し、1916年(大正5年)中学校以上の在学生の親睦と町発展のための「摘星郷友会」を立上げ会長に就任した。1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 卒業後、朝日信託 (株) に入社し、昭和恐慌を迎えて帰郷した。1930年(昭和5年)に佐賀関町助役に就任し、1930年(昭和6年)同町長となり4期在任した。
栗原 悦蔵(くりはら えつぞう、1894年〈明治27年〉3月… 栗原 悦蔵(くりはら えつぞう、1894年〈明治27年〉3月31日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。太平洋戦争中に大本営海軍報道部長を勤めた。 群馬県勢多郡荒砥村西大室(現・前橋市西大室町)に生まれる。 旧制群馬県立前橋中学校より海軍兵学校第44期入校。平出英夫 海軍少将に代わり、海軍報道部第1課長に着任したが、早々に「竹槍事件」が発生。筆者である毎日新聞記者新名丈夫を守るべく陸軍との対応にあたった。また米内光政、井上成美、高木惣吉などの下、終戦工作に携わっている。 戦後は公職追放となり、その後は小松製作所に入社し小松フォークリフト社長に就任した。
上滝 基(こうたき もとい、1894年(明治27年)3月29… 上滝 基(こうたき もとい、1894年(明治27年)3月29日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 福岡県三井郡味坂村(現在の小郡市)出身。1917年(大正6年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。朝鮮総督府試補、同事務官を経て、1924年(大正13年)に全羅北道財務部長となった。1926年(大正15年)からは専売局庶務課長、同製造課長、同事業課長、殖産局鉱山課長・同商工奨励館長を歴任し、1930年(昭和5年)に欧米に出張した。帰国後、総督官房人事課長・中枢院書記官、鉄道局理事、官房審議室事務官を歴任した。1936年(昭和11年)に慶尚北道知事となり、内務局長を経て、1941年(昭和16年)11月に殖産局長に就任した。
岡部 楠男(おかべ くすお、1894年 <明治27年> 3月… 岡部 楠男(おかべ くすお、1894年 <明治27年> 3月27日 - 1972年 <昭和47年> 12月3日)は、日本の経営者。日本鉱業社長を務めた。位階は正五位。 徳島県徳島市出身。1918年に東京帝国大学採掘学科を卒業し、久原鉱業に入社。1939年5月に日本鉱業に転じ、1945年5月に取締役に就任し、1947年4月から1957年11月までに社長を務めた。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1972年12月3日、肺化膿症で死去した。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
池内 信行(いけうち のぶゆき、1894年3月27日 - 1… 池内 信行(いけうち のぶゆき、1894年3月27日 - 1972年2月12日)は、日本の経営学者。関西学院大学名誉教授。経営学の方法論の研究で知られた。 兵庫県姫路市新在家生まれ。1914年東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。コロンビア大学大学院、ベルリン大学で学び、1924年関西学院高等商業学部教授、関西学院大学経営学部教授。1964年大阪経済大学教授、同経営研究所長。1950年「経営経済学の存在論的究明」で関西学院大学経済学博士。
大下 大蔵(おおしも だいぞう、1894年(明治27年)3月… 大下 大蔵(おおしも だいぞう、1894年(明治27年)3月27日 - 1979年11月6日)は、日本の実業家。フマキラー創業者。 広島県安佐郡祇園町(現・広島市安佐南区祇園)出身。力三郎の二男。 1923年、殺虫剤「強力フマキラー液」を創製、翌1924年、祇園町に「大下回春堂」(現・フマキラー)を創業。同年専売特許に成功し、戦前までに国内のみならず欧米諸国にも市場を拡げ、上海に工場を設置するなど同社を躍進させた。戦後1950年、一子・俊春の社長就任で会長に退いた。 趣味は碁、茶道、書画、骨董。宗教は真宗。 広島市の老舗百貨店「福屋」や、大下学園(大下学園女子短期大学・大下学園祇園高校)も一族の経営であった。
竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 197… 竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 1973年4月30日)は、日本の弁護士、実業家、政治家。位階は従三位。 大阪市会議員、衆議院議員(4期)、地方財政委員会委員長(初代)、厚生大臣(第16代)、神鋼商事株式会社社長などを歴任した。 石川県出身。1918年、京都帝国大学法科大学法律科を卒機後、鈴木商店に入社し、支配人金子直吉の秘書を務めた。その後弁護士となり、さらに大阪市会議員となる。また樺太ツンドラ工業、大聖寺商業等各社の社長を歴任する。 1930年の第17回衆議院議員総選挙に旧大阪府第2区から立憲民政党公認で立候補し当選。以後、18、22、23回総選挙に当選。戦前は、同郷である拓務大臣の永井柳太郎の下で大臣秘書官などを務めた。
吉田 甲子太郎(よしだ きねたろう、1894年〈明治27年〉… 吉田 甲子太郎(よしだ きねたろう、1894年〈明治27年〉3月23日 - 1957年〈昭和32年〉1月8日)は、日本の翻訳家、英文学者、児童文学者。筆名に朝日壮吉、吉田夏村などがある。 群馬県北甘楽郡小野村(現・富岡市)生まれ。東京芝桜田小学校高等科、旧制立教中学校を経て、早稲田大学英文科卒業。 大学卒業後、母校、旧制立教中学校の英語教師となる。大学在学中より山本有三に師事。朝日壮吉などの筆名を用い、中学教師のかたわら、『新青年』などに探偵小説を翻訳するが、1927年ころから児童文学に移行し、少年小説を書く。1932年、新設された明治大学文藝科で、科長となった山本の推薦で教授となる。戦後は明大文学部文学科長を務め、児童雑誌『銀河』の編集にも携わる。
岸 要(きし かなめ、1894年3月23日 - 1982年1… 岸 要(きし かなめ、1894年3月23日 - 1982年10月1日)は、日本の実業家。住友電気工業社長、会長を務めた。 大阪府泉佐野市出身。1918年に京都帝国大学法学部を卒業し、住友銀行での勤務を経て、1937年に住友電気工業の前身である住友電線製造所に転職。 総務部長、経理部長、取締役、常務を経て、1947年から1956年11月までに社長を務め、1956年11月から1962年6月までに会長を務めた。1962年以降は相談役を務めた。 日本電気取締役、関西テレビ放送監査役なども歴任した。 1965年春に勲三等瑞宝章を受章した。 1982年10月1日、呼吸不全のために大阪市の住友病院で死去。88歳没。
山内 義雄(やまのうち よしお、1894年3月22日 - 1… 山内 義雄(やまのうち よしお、1894年3月22日 - 1973年12月17日)は、日本のフランス文学者。早稲田大学などで教鞭を執りながら、多くの訳業を遺した。日本芸術院会員。 1894年(明治27年)、父通義、母テウの次男として、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷田町に生まれた。父は陸地測量部長を経て初代の陸軍砲工学校長を務めた陸軍工兵大佐であった。暁星小学校・同中学校を経て、1911年、東京外国語学校仏語科に進んだ。中学時代、永井荷風と上田敏の訳詩によりヴェルレーヌやボードレールを知り、原書を輸入して読み、また、作歌・詩作も試みた。 1915年(大正4年)、東京外国語学校を卒業し、家庭の事情で、希望の京都帝国大学文学部でなく、[要出典]法学部に入って、文学部上田敏教授の講義をその急逝までの1年余聴いて、直接の薫陶も受けた。
藤田 敬三(ふじた けいぞう、1894年3月22日 - 19… 藤田 敬三(ふじた けいぞう、1894年3月22日 - 1985年11月29日)は、日本の経済学者。大阪経済大学学長(第3代)、同理事長を歴任。大阪市立大学経済学博士、同名誉教授。日本経済政策学会名誉会員。 大阪市立大学名誉教授で元大阪経済法科大学学長の藤田整は子息。 香川県三野郡本山村(現 三豊市豊中町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、1921年京都帝国大学経済学部卒業、同大学院に進み河田嗣郎に師事。1922年より文部省在外研究員として欧州に留学。羽仁五郎、大学同窓の三木清らと同時期にドイツ・ハイデルベルク大学で学び交流をもった。 1924年彦根高等商業学校教授、1927年京都帝国大学農学部農林経済学科講師。
仲町 貞子(なかまち さだこ、1894年3月22日 - 19… 仲町 貞子(なかまち さだこ、1894年3月22日 - 1966年6月16日)は、日本の作家。本名、柴田オキツ。 長崎県南高来郡大三東村(後の有明町、現在の島原市)に生まれる。1907年長崎県立長崎高等女学校に入学し、三宅古城に和歌を学ぶ。卒業後すぐに結婚してしばらく京都に住んだ後、別府に移住。1925年詩人の北川冬彦と知り合い、東京へ出奔する。1929年『詩神』に「託児所風景」を発表して新進女流作家として注目される。1931年『磁場』創刊に参加し、宮本のりの筆名で「鎌」を発表する。翌年、『麵麭』創刊に参加し、筆名を仲町貞子とする。1936年小説『梅の花』を出版。その間北川と別れ、文芸評論家の井上良雄と結婚。
青木 武三(あおき たけぞう、1894年(明治27年)3月2… 青木 武三(あおき たけぞう、1894年(明治27年)3月21日 - 1982年(昭和57年)8月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。岩国中学校(現山口県立岩国高等学校)を卒業し、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。1919年(大正8年)5月、操縦術を修了し、同年12月、航空第2大隊付となる。航空第3大隊付を経て航空第3大隊中隊長に就任し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転じ航空兵大尉となる。以後、明野陸軍飛行学校教官、陸軍航空本部員、第2飛行集団司令部員、同参謀、飛行第33戦隊長を歴任し、1939年(昭和14年)3月、航空兵大佐に昇進した。
荒川 豊藏(あらかわ とよぞう、1894年3月21日 - 1… 荒川 豊藏(あらかわ とよぞう、1894年3月21日 - 1985年8月11日)は、昭和を代表する美濃焼の陶芸家。岐阜県多治見市出身。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した可児市久々利にある牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねた。終には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立した。'''斗出庵'''、'''無田陶人'''と号す。 豊蔵が古志野筍絵陶片を発見した当時多治見陶磁試験場に勤務していた土師萌は、豊蔵が古志野の破片を発掘した話を聞いて、豊蔵の投宿先に破片を見に来る。また、1924年(大正13年)、豊蔵と共に久尻清安寺境内の古窯跡を発掘。
村野 次郎(むらの じろう、1894年3月19日 - 197… 村野 次郎(むらの じろう、1894年3月19日 - 1979年7月16日)は、歌人、実業家。 東京府北多摩郡多磨村(府中市)に生まれる。家業は江戸時代より続く酒問屋。詩人の村野四郎は弟。 多摩尋常小学校卒業後、府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)に入学。文学熱を憂慮した父の助言で早稲田実業学校へ転校、1913年、同校卒業。1919年、早稲田大学商学部卒業。 北原白秋に師事し、「朱欒」「地上巡礼」に参加。1918年、白秋のもとを離れ、「秦皮(とねりこ)」を創刊。1923年、「香蘭」を創刊し、白秋を顧問に迎える。 1924年、白秋、前田夕暮、古泉千樫、土岐善麿が創刊した「日光」に参加。1932年、日本歌人協会を設立、評議員となる。
原 随園(はら ずいえん、旧字体: 原 隨園、1894年〈明… 原 随園(はら ずいえん、旧字体: 原 隨園、1894年〈明治27年〉3月19日 - 1984年〈昭和59年〉3月25日)は、日本の西洋史学者。 愛知県名古屋市出身。第八高等学校卒、東京帝国大学卒。姫路高等学校 (旧制)教授、1924年東北帝国大学助教授、1933年京都帝国大学文学部西洋史教授。同年「テセウス伝説考」で京大文学博士。京都大学図書館長、文学部長。1957年定年退官、名誉教授、立命館大学教授。1964年退職。専門は古代ギリシア史。
米澤 菊二(よねざわ きくじ、1894年(明治27年)3月1… 米澤 菊二(よねざわ きくじ、1894年(明治27年)3月19日 - 1983年(昭和58年)11月9日)は、日本の外交官。駐ポルトガル公使。 石川県能美郡(現・能美市)出身。1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等試験行政科に合格した。農商務省に入省し、福岡鉱務署に鉱務監督官として勤務。のち外務省に転じ、事務官・条約局第三課勤務、イギリス大使館三等書記官、同二等書記官、安東領事、満州国大使館一等書記官、外務書記官・大臣官房電信課長、カルカッタ(現在のコルカタ)総領事、外務省調査部長を歴任。1939年(昭和14年)、駐ポルトガル公使に就任し、1941年(昭和16年)に退官した。
大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月… 大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月17日 - 1948年(昭和23年)5月4日)は、大正から昭和期の銀行家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・大岡忠明の息子として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)2月16日に子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1919年(大正8年)京都帝国大学法学部政治学科卒業。1921年(大正10年)朝鮮銀行に入行し、その後、同行東京支店支配人代理を務めた。 1932年(昭和7年)11月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日に辞職するまで2期在任した。この間、鈴木貫太郎内閣・陸軍参与官、司法省委員、産業設備評価中央委員会委員などを務めた。
松本 秀治(まつもと ひではる、1894年3月17日 - 1… 松本 秀治(まつもと ひではる、1894年3月17日 - 1983年5月1日)は、大日本帝国陸軍の軍人・軍医。最終階級は陸軍軍醫少将。 東京帝国大学医学部(のちの東京大学医学部)卒業。陸軍士官学校、陸軍軍医学校教官などを経て、第23軍軍医部長となる。形成外科医の他、疫病の研究や口腔外科医として戦地にて活躍した。 父は長州藩の武士・医者・官軍である松本 三省(まつもと さんせい)(別名、源 道秀)。親戚に日本画家の松林桂月がいる。 明治27年(1894年)3月17日、山口県に生まれる。東京帝国大学医学部卒業後、陸軍軍医学校に入校。軍医として文部省歯科病院で修業し、三内多喜治主幹のもと陸軍軍医学校教官となる。
村山 長挙(むらやま ながたか、旧字体:村山長擧、1894年… 村山 長挙(むらやま ながたか、旧字体:村山長擧、1894年3月16日 - 1977年8月7日)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社長、社主。 旧岸和田藩主・岡部長職の三男として東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。 1919年3月、京都帝国大学法学部政治経済学科を卒業。同年10月、朝日新聞社初代社主の村山龍平の長女・藤子と結婚し、村山家の婿養子となった。翌1920年6月、朝日新聞社に取締役・計画委員長として入社。大阪・東京両朝日新聞の計画部長、航空部長、大阪朝日新聞印刷局長、朝日ビルディング初代社長を歴任し、1933年12月朝日新聞社会長に、1940年5月社長に就任した。 しかし主筆として社長を凌ぐ声望を持つ代表取締役緒方竹虎に反感を持ち、東京本社派の緒方に対する大阪本社派の代表取締役専務取締役原田譲二や、緒方の出身の政治部、経済部の「硬派」に対する社会部出身の「軟派」で、東京本社編集総務から名古屋支社長兼編集局長に転出させられ、さらに傍系の出版局長にさせられたことで反緒方となった常務取締役鈴木文四郎らと結ぶようになった。
大原 博夫(おおはら ひろお、1894年〈明治27年〉3月1… 大原 博夫(おおはら ひろお、1894年〈明治27年〉3月15日 - 1966年〈昭和41年〉1月11日)は日本の政治家、医師。衆議院議員(2期、社会革新党)。広島県会議員、同議長。広島県知事(第48、49、50代)。広島県医師会長、日本医師会理事、 三女は参議院議長を務めた藤田正明の妻。広島県知事を務めた藤田雄山は孫。 広島県豊田郡大河村(後の河内町、現東広島市)出身。医師・大原弥八の長男。1913年、広島県立広島中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1920年、東京慈恵会医院医学専門学校(現東京慈恵会医科大学)卒業。父の医業を継ぎ、自宅で開業する。 県会議員を5期務めた。1943年、県医師会長に選出された。
青木 誠四郎(あおき せいしろう、1894年3月15日-19… 青木 誠四郎(あおき せいしろう、1894年3月15日-1956年12月9日)は、日本の児童・教育心理学者。
南波 松太郎(なんば まつたろう、1894年〈明治27年〉3… 南波 松太郎(なんば まつたろう、1894年〈明治27年〉3月15日 - 1995年〈平成7年〉7月3日)は、日本の船舶工学者、海事史研究者、古地図蒐集家。本業は船舶工学だが、余技であった海事史研究でも多くの業績を残した。日本有数の古地図コレクターとしても知られており、そのコレクションの多くは神戸市立博物館に寄贈されている。 1894年(明治27年)3月15日、大阪に生まれる。 大阪府立今宮中学校在学中の同級生に、のちに地理学者となる秋岡武次郎がおり、終生にわたり親交を結んだ。 1916年(大正5年)6月、第三高等学校二部甲類卒業。9月、東京帝国大学工科大学船舶工学科入学。1919年(大正8年)7月、卒業、三菱造船神戸造船所に技師として入社。
田辺 寿利(たなべ すけとし(または「じゅり」)、1894年… 田辺 寿利(たなべ すけとし(または「じゅり」)、1894年3月15日 - 1962年1月25日)は、日本の社会学者。 北海道釧路市出身。1921年東京帝国大学社会学科選科中退。建部遯吾に師事。1927年に尾高豊作・尾高朝雄兄弟により設立され、大塚金之助が所長に就任した東京社会科学研究所の常務理事となる。日本大学講師などを経て、38年モンゴル・蒙疆学院副院長。戦後は東洋大学・東北大学・金沢大学各教授などを務めた。フランス社会学、特にオーギュスト・コントとデュルケームの研究・紹介に尽くした。また、言語社会学研究の分野においても先駆的な役割を果たした。主著に『言語社会学叙説』(1943年)、『フランス社会学成立史』(1965年)、訳書にデュルケーム『社会学的方法の規準』(1942年)など。
伊藤 忍(いとう しのぶ、1894年(明治27)3月15日 … 伊藤 忍(いとう しのぶ、1894年(明治27)3月15日 - 1995年(平成7年)11月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍運輸部内で上陸作戦の専門家として認められた人物。 宮城県仙台市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第49連隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し、参謀本部外国戦史課などで勤務した。 1937年(昭和12年)8月、近衛師団参謀に就任。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に進級し、同年7月、第17師団参謀長に転じ日中戦争に出征。宜昌作戦などに参戦した。1940年(昭和15年)8月、第14師団司令部付となり満州に赴任。
金児 杜鵑花(かねこ とけんか、1894年3月14日 - 1… 金児 杜鵑花(かねこ とけんか、1894年3月14日 - 1938年2月21日)は大正-昭和時代前期の俳人。本名は農夫雄(のぶお)。新興俳句の命名者とされているが、その言葉は、彼が私淑した河東碧梧桐が先に著書『新興俳句への道』(昭和4年)の題名で使っていたものを、山口誓子、水原秋櫻子らの運動に当てたものである。 1894年(明治27年)3月14日、北海道余市郡(現余市町)生まれ。札幌師範を卒業後、堺小学校教諭となったが、1918年上京して新潮社に入社。1920年、素人社を設立。山口誓子の処女句集『凍港』を出版。雑誌「現代文芸」「俳句月刊」「俳句世界」などを発行、主宰。俳句は河東碧梧桐に私淑し新傾向風の俳句をつくるが、晩年は定型句に転じた。
木下 郁(きのした かおる、1894年3月13日 - 198… 木下 郁(きのした かおる、1894年3月13日 - 1980年6月19日)は、日本の政治家。元衆議院議員(1942年 - 1945年、1952年 - 1955年)、元大分市長(官選)(1945年 - 1947年)、元大分県知事(1955年 - 1971年)。大分県知事としては、官選も含めると第41 - 44代、公選のみでは第3 - 6代にあたる。 大分県宇佐郡安心院村(現宇佐市)出身。旧制宇佐中学校(現宇佐高校)、旧制第五高等学校を経て、1918年に東京帝国大学法科を卒業。三井物産、兵役、英語教師(旧制大分中学校(現大分上野丘高校))、イギリス・ドイツ留学を経て、1926年に弁護士となる。 太平洋戦争下の1942年に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)において、翼賛政治体制協議会の推薦を受け当選。
植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)… 植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)3月12日 - 1978年(昭和53年)8月1日)は、昭和初期から後期(1920年代 - 1970年代)の財界人、官僚。札幌オリンピック組織委員会会長。 経済団体連合会(現:日本経済団体連合会)創設に加わり事務局長となるも、公職追放となる。解除後、第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年(昭和43年) - 1974年(昭和49年) )。 東京府東京市に植村澄三郎の長男として生まれる。父の仕事の関係で、幼少期を札幌で過ごす。札幌区創成尋常小学校、慶應義塾幼稚舎、東京府立一中、第一高等学校を経て1918年(大正7年) 東京帝国大学法学部政治学科を卒業。