森 万吉(萬吉、もり まんきち、1883年(明治16年)3月… 森 万吉(萬吉、もり まんきち、1883年(明治16年)3月8日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。台南市尹。花蓮港庁長。 東京府荏原郡馬込村(馬込町、東京市大森区を経て、現東京都大田区)に生まれる。1907年(明治40年)3月、台湾総督府雇となり、同年7月、文官普通試験に合格する。1908年(明治41年)4月、統計講習会を修了し、土木局勤務を拝命する。ついで臨時台湾工事部書記、土木局庶務課勤務、台北庁属、内務局土木課庶務係長などを経て、1924年(大正13年)12月、新竹州苗栗郡守となる。1926年(大正15年)1月、台南州虎尾郡守、1928年(昭和3年)9月、台中州豊原郡守を経て、1932年(昭和7年)4月、台南市尹に就任。
米津 政賢(よねきつ まさただ、1883年(明治16年)3月… 米津 政賢(よねきつ まさただ、1883年(明治16年)3月8日 - 1941年(昭和16年)8月19日)は、明治から昭和期の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員。位階および勲等は正三位・勲二等。 旧長瀞藩主・米津政敏の長男として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)11月22日、子爵を襲爵した。 学習院中等科、第六高等学校を経て、1908年(明治28年)7月、東京帝国大学農科大学を卒業。同年、農商務省嘱託となる。以後、農商務省種畜牧場嘱託、農林省嘱託、同畜産試験場嘱託、畜産博覧会審査官、第2回神奈川県有畜農業経営共進会審査長などを務めた。 1915年(大正4年)6月12日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月… 塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月5日 - 1943年(昭和18年)11月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。長野県伊那郡大草村(現上伊那郡中川村)出身。実家は養命酒で有名な養命酒製造で塩沢はその四男。妻すがは代議士・北原阿智之助次女。文芸評論家の中沢臨川は次兄。
伊木 壽一(いぎ ひさいち、明治16年(1883年)3月3日… 伊木 壽一(いぎ ひさいち、明治16年(1883年)3月3日 - 1970年11月28日)は、日本の歴史学者。専門は日本古文書学。 1883年(明治16年)、山口県大津郡三隈村(現在の山口県長門市)で山口県士族伊木尚義の長男として生まれた。山口中学校、山口高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に進学。1906年に卒業。同大学大学院に入学し、古文書学を専攻した。 1907年、東京帝国大学史料編纂掛嘱託となり、『大日本古文書』の伊達家文書・相良家文書等の編纂に従事。1908年からは國學院大學、1911年からは慶應義塾大学部で講師として古文書学を講義した(兼任)。1925年に史料編纂官となり、『大日本史料』第9編の編纂を手掛けた。
和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日… 和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日 - 1967年(昭和42年)8月22日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家、版画家。帝国美術院会員。1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。
武田 久吉(たけだ ひさよし、1883年3月2日 - 197… 武田 久吉(たけだ ひさよし、1883年3月2日 - 1972年6月7日)は、日本の植物学者、登山家。
朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年〈明治16年〉3月1… 朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年〈明治16年〉3月1日 - 1964年〈昭和39年〉4月18日)は、明治から昭和の彫刻家(彫塑家)である。号は紅塐(こうそ)。「東洋のロダン」と呼ばれることもある。位階は正三位。舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)は長女、彫刻家の朝倉響子は次女。 1883年(明治16年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市朝地町)村長であった渡辺要蔵の三男として生まれる。11人兄弟の5番目の子であった文夫は1893年(明治26年)の10歳の時に朝倉種彦(衆議院議員・朝倉親為の弟にあたる)の養子となるが、入学した大分尋常中学校竹田分校(在学中に「竹田中学校」に独立。現大分県立竹田高等学校)を3度も落第し、いたたまれなくなった母・キミにより1902年(明治35年)、当時既に東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京することになる。
牛島 省三(うしじま しょうぞう、せいぞう、1883年(明治… 牛島 省三(うしじま しょうぞう、せいぞう、1883年(明治16年)3月 - 1940年(昭和15年)10月14日)は、日本の内務・警察・朝鮮総督府官僚、実業家。官選茨城県知事。 陸軍大将の牛島満は弟。 鹿児島県鹿屋市出身。薩摩藩士牛島実満の二男。父は明治維新後、東京に住し、陸軍中尉として近衛連隊に勤務していたが、弟の満が生まれる半年前に死去。5歳の時に母に連れられて鹿児島に転居[要出典]。 第七高等学校造士館を卒業後、1910年に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し兵庫県試補となる。 以後、兵庫県警視、同県美嚢郡長、鳥取県理事官、山口県警察部長、熊本県警察部長、兵庫県警察部長、石川県書記官・内務部長、長野県書記官・内務部長、大阪府書記官・内務部長、警視庁警務部長などを歴任。
真野 正雄(まの まさお、1883年〈明治16年〉3月 - … 真野 正雄(まの まさお、1883年〈明治16年〉3月 - 1939年〈昭和14年〉2月7日)は、明治末期から昭和戦前期にかけての日本の電気技術者・実業家である。逓信省の技師を経て中部電力(岡崎)常務取締役を務めた。父は機械工学者の真野文二。 真野正雄は、1883年(明治16年)3月、当時工部大学校助教授であった真野文二(のち東京帝国大学教授・貴族院勅選議員)の長男として生まれた。1906年(明治39年)7月、岡山市の第六高等学校工科を卒業し、次いで1910年(明治43年)7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 大学卒業後は一旦三井物産に入社するが1911年(明治44年)5月退社して逓信省へ入り、8月逓信技手に任ぜられる。
生方 大吉(うぶかた だいきち、1882年〈明治15年〉3月… 生方 大吉(うぶかた だいきち、1882年〈明治15年〉3月28日 - 1964年〈昭和39年〉3月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。 群馬県利根郡、のちの新治村下新田(現みなかみ町)で、生方太吉の長男として生まれる。1898年(明治31年)利根学校(沼田中学を経て現群馬県立沼田高等学校)を卒業した。 1918年(大正7年)利根電気を設立して社長に就任し、鶴ヶ淵発電所を設けた。その他、新治製材社長、利根倉庫取締役、坂東自動車取締役、利根製糸監査役、群馬共栄合資会社代表社員、棒丸百貨店会長などを務めた。 1918年ころから政治家を志し、1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で群馬県第5区から憲政会公認で初出馬して当選。
石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月2… 石井 柏亭(いしい はくてい、1882年〈明治15年〉3月28日 - 1958年〈昭和33年〉12月29日)は、日本の版画家・洋画家・美術評論家。1935年(昭和10年)沖水彩画用紙製造所(初代・沖茂八)が開発した水彩画および版画用紙のMO紙の命名者である。 1882年(明治15年)東京府下谷区下谷仲御徒町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。本名は石井満吉。祖父は画家の鈴木鵞湖、父は日本画家の石井鼎湖で、弟は彫刻家の石井鶴三である。母はふじ。女婿は画家の田坂乾。 1892年(明治25年)、11歳の時から柏亭と号して日本美術協会や青年絵画共進会に作品を出品、これ以降、毎年作品を出品しながら、印刷局工生として彫版の見習い生となっている。
守田 保太郎(もりた やすたろう、1882年〈明治15年〉3… 守田 保太郎(もりた やすたろう、1882年〈明治15年〉3月27日 - 1959年〈昭和34年〉12月12日)は、日本の実業家。ラヂウム製薬社長。守田商店代表。族籍は東京府平民。 東京府・守田重次郎の長男。守田治兵衛の従兄。1918年、家督を相続した。大成中学卒業。慶應義塾大学に学んだ。武田長兵衛商店に勤務した。ラヂウム製薬会社に入り専務取締役を経て社長となる。 宗教は真宗、あるいは浄土宗。趣味は読書。住所は東京大森区新井宿、牛込市谷本村町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
荻野 久作(おぎの きゅうさく、1882年〈明治15年〉3月… 荻野 久作(おぎの きゅうさく、1882年〈明治15年〉3月25日 - 1975年〈昭和50年〉1月1日)は産婦人科医、医学博士である。女性の月経周期と妊娠との関連性を研究した先駆的業績で知られる。 愛知県八名郡下川村(のち豊橋市下条(げじょう)東町)出身。父の姓は中村だが、1901年(明治34年)に西尾藩士で漢学者の荻野忍の養子となり、荻野姓となる。 旧制愛知県第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)、日本中学、一高などを経て1909年(明治42年)に東京帝国大学医科大学を卒業。しばらく同大病院で勤務した後、1912年(明治45年/大正元年)に新潟市の竹山病院産婦人科部長に就任するとともに新潟大学で研究を続ける。
丸茂 藤平(まるも とうへい、1882年(明治15年)3月2… 丸茂 藤平(まるも とうへい、1882年(明治15年)3月25日 - 1956年(昭和31年))は、日本の内務官僚、官選岩手県知事。旧姓・両角。 長野県諏訪郡玉川村(現:茅野市)出身。両角彦五郎の二男として生まれ、丸茂米作の養子となり、のち養父の長女「まつよ」と結婚した。 諏訪郡立実科中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、[要出典]第一高等学校を卒業。1908年7月、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年1月、内務省に入省し、拓殖制度取調事務嘱託となり大臣官房台湾課及び地方局拓殖事務取扱を嘱託。同年5月、内務属となり鹿児島県揖宿郡長に就任。
今沢 慈海(いまざわ じかい、1882年3月24日 - 19… 今沢 慈海(いまざわ じかい、1882年3月24日 - 1968年12月31日)は、明治-昭和期の僧侶・図書館学者。幼名は市次郎。別号は天瑞・南岳。愛媛県西条町(現在の西条市)出身。 熱心な仏教徒だった母の意向で、西条市にある臨済宗の名刹保国寺の養子となり、同寺を継ぐべく育てられる。西条中学校(現 愛媛県立西条高等学校)卒業後、第五高等学校を経て、1907年に東京帝国大学哲学科倫理学科を卒業。1908年7月同大学大学院修了。 1913年東京市立日比谷図書館の職員となり、1914年には31歳で館長に抜擢され、日本図書館協会副会長に就任する。また、1921年から20年にわたって図書館員教習所講師を務めた。
式場 麻青(しきば ませい、1882年〈明治15年〉3月23… 式場 麻青(しきば ませい、1882年〈明治15年〉3月23日 - 1933年〈昭和8年〉4月1日)は、日本の歌人、書家、国文学者。元大阪府女子師範学校専攻科教授。本名は式場 益平(しきば ますへい)。 新潟県中蒲原郡五泉町大字五泉字指柳(現 五泉市本町)の式場幸八の長男として生まれた。 1897年(明治30年)4月に新潟中学校に入学すると、俳句の会・舟江会に入り、2年先輩の会津八一と知り合った。1901年(明治34年)7月に同級生の青木得三、安倍邦太郎、山崎良平たちと同人雑誌『若菜舟』を発行した。 1902年(明治35年)3月に新潟中学校を卒業すると、上京して二松學舍で三島中洲に漢文学を、落合直文に国文学を学んだ。
浦野 謙朗(うらの けんろう、1882年〈明治15年〉3月2… 浦野 謙朗(うらの けんろう、1882年〈明治15年〉3月22日 - 1964年〈昭和39年〉8月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県西加茂郡四郷村(上郷村、猿投村、猿投町を経て現豊田市四郷町)に浦野錠平の長男として生まれる。生家は浦野酒造場(後の浦野合資会社)を営む庄屋の浦野家。 1901年(明治34年)3月、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)を卒業。同年12月、志願兵として歩兵第六聯隊に入隊。1902年(明治35年)11月、除隊。1904年(明治37年)6月、応召。陸軍歩兵少尉として日露戦争に従軍した。1905年(明治38年)6月、歩兵中尉に昇進し、その功により勲六等単光旭日章を受けた。
福田 関次郎(ふくだ せきじろう、1882年(明治15年)3… 福田 関次郎(ふくだ せきじろう、1882年(明治15年)3月18日 - 1979年(昭和54年)7月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(通算3期)。 山口県出身。1904年、関西法律学校(現・関西大学)卒。朝鮮で小学校校長をした後、京都製薬所長、七寿肥料(株)社長などを務め、京都市議、京都府議を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙において京都1区(当時)から中立(無所属)で立候補して初当選した。以来3回連続当選。当選後の会派は第一控室を経て、立憲民政党に入った。民政党解党後は鳩山一郎率いる同交会に入り、1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補したが落選した。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙と翌1947年の第23回衆議院議員総選挙(京都1区)に日本自由党公認で立候補したがいずれも落選し、政界から引退した。
大橋 廣(おおはし ひろ、1882年(明治15年)3月18日… 大橋 廣(おおはし ひろ、1882年(明治15年)3月18日 - 1973年(昭和48年)2月20日、女性)は、日本の植物学者・教育者である。日本女子大学第5代学長。日本家政学会を設立し、初代会長を務めた。 1882年(明治15年)、岡山県倉敷市に生まれた。同志社女学校に入学した後、親の命により中退して結婚する。一子をもうけるが、後に離婚する。離婚後、日本女子大学校に入学し、英文学部および教育学部第二部博物科を卒業。日本女子大学校で教えた後、1922年から1926年までシカゴ大学に留学し、シカゴ大学で植物学の博士号を取得した。 帰国後は日本女子大学校の師範家政学部で家庭黴菌学などを教えた。1947年日本女子大学校長に就任し、1956年まで務めた。
斎藤 鷲太郎(さいとう わしたろう、1882年〈明治15年〉… 斎藤 鷲太郎(さいとう わしたろう、1882年〈明治15年〉3月18日 - 1936年〈昭和11年〉8月3日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。弁護士。 愛知県額田郡幸田村(現在の幸田町)出身。1902年(明治35年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。1906年(明治39年)から8年間、関東都督府で警部や属官を務める。1915年(大正4年)に弁護士試験に合格。翌年に大連市に事務所を開業し、1919年(大正8年)より関東州弁護士会長を3回務めた。さらに大連市会議員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
橋田 邦彦(はしだ くにひこ、1882年(明治15年)3月1… 橋田 邦彦(はしだ くにひこ、1882年(明治15年)3月15日 - 1945年(昭和20年)9月14日)は、日本の医学者、教育者。医学博士。号は無適。旧姓藤田。生理学者藤田敏彦(東北帝大名誉教授)の実弟。 「科学する心」を推称、学校教育での自然観察を推進するなど、戦後の科学教育においても影響を与えた。また、興亜工業大学(現・千葉工業大学)の創立に際して、政府代表として関わっている。 日本で最初に「実験生理学」を提唱するなどして生理学者・医学者として多くの業績を上げた。その名声ゆえに近衛文麿・東條英機両首相より文部大臣として招聘された。このため、太平洋戦争敗戦後にGHQよりA級戦犯容疑者として指名されて、警察が迎えに来た際、服毒自殺をした。
山道 襄一(やまじ じょういち、1882年(明治15年)3月… 山道 襄一(やまじ じょういち、1882年(明治15年)3月15日 - 1941年(昭和16年)5月11日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。所属政党は憲政会→立憲民政党→国民同盟→立憲民政党。衆議院議員を10期務めた。 広島県賀茂郡板城村福本(現・東広島市西条町福本)出身。1906年(明治39年)に早稲田大学大学部政治経済学科卒業。鳥取新聞社の主筆を務めた後、韓国に渡り、『大韓日報』の主筆となり、また習俗慣行の調査にあたった。韓国併合後、大韓日報が廃刊になると、雑誌『新半島』を経営し、朝鮮総督府の嘱託として引き続き習俗調査を行った。のちに『中国新聞』主筆も務めた。 1912年(大正元年)、衆議院広島県郡部補欠選挙に当選した。
浪ノ音 健藏(なみのおと けんぞう、1882年3月14日 -… 浪ノ音 健藏(なみのおと けんぞう、1882年3月14日 - 1967年11月25日)は、現在の青森県青森市出身で高砂部屋に所属した力士。本名は鎌田 健藏。11代振分。166cm、79kg。最高位は西関脇。 子供の時から小兵ながら土地相撲で取っていたが、1897年の夏に高砂の一行が巡業に来た時に同県の綾浪を頼り入門した。1898年1月初土俵、1906年1月新入幕。入幕3場所目には小結に上がり、当時大関であった荒岩亀之助を引き落としで破る殊勲を挙げた。1907年5月関脇昇進。それ以降は中堅に甘んじた。1914年5月幕下に陥落して引退し11代振分を襲名。振分部屋を創設し、大ノ高などを育て、勝負検査役などを務めた。
島田 朋三郎(しまだ ともさぶろう、1882年(明治15年)… 島田 朋三郎(しまだ ともさぶろう、1882年(明治15年)3月12日 - 1945年(昭和20年)9月4日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍法務中将。 1882年(明治15年)に徳島県で生まれた。東京帝国大学法学部を卒業し、高等試験司法科試験に合格。文官として陸軍法務部に奉職する。各師団の法務部長などを歴任し、甘粕事件・五・一五事件の軍法会議に法務官として参加している。その後第1師団法務部長に就任し、1935年(昭和10年)に発生した相沢事件を裁いた軍法会議に検察官として参加し、相沢三郎に死刑を求刑した。 1938年(昭和13年)に関東軍隷下の第4軍法務部長に転じ、1939年(昭和14年)に支那派遣軍法務部長を経て、1940年(昭和15年)に東部軍法務部長に就任。
河合 義一(かわい ぎいち、1882年(明治15年)3月11… 河合 義一(かわい ぎいち、1882年(明治15年)3月11日 - 1974年(昭和49年)7月25日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 兵庫県加古郡、のちの高砂町(現高砂市)で、蔵元の家に生まれた。同志社中学校で学び、高砂教会で洗礼を受けた。1904年、東京外国語学校仏語科を卒業し、日本銀行に入行。その後、病気となり治癒したが、1911年、日銀を退職して帰郷した。 1919年、高砂町会議員に就任。賀川豊彦の活動に共鳴し農民組合運動に参加。日本農民組合東播連合会長、同兵庫県連合会長を務め、小作争議指導のため投獄されたこともあった。また、日本労農党などを経て社会大衆党に所属し、1937年4月、第20回衆議院議員総選挙に兵庫県第三区から出馬して初当選した。
花田 比露思(はなだ ひろし、1882年3月11日 - 19… 花田 比露思(はなだ ひろし、1882年3月11日 - 1967年7月26日)は、日本の教育者・歌人。 福岡県朝倉郡安川村(現・朝倉市)に生まれる。本名・大五郎。京都帝国大学法学部を卒業し、大阪朝日新聞記者となる。調査部長兼論説委員として寺内内閣に批判的な論調を張るも、1918年米騒動にからんだ白虹事件で連帯責任を取って辞職する。 大阪朝日退職後は大正日日新聞、読売新聞などに勤めた。1924年に京都帝大に招かれ、学生監となる。 その後は和歌山高等商業学校(現・和歌山大学)校長、福岡商科大学初代学長、別府大学長、大分大学長を務めた。大分大学名誉教授となる。 歌人としては、正岡子規に傾倒し,歌誌『潮騒』(のち改題し『あけび』)を創刊・主宰した。
安倍 邦衛(あべ くにえ、1882年〈明治15年〉3月10日… 安倍 邦衛(あべ くにえ、1882年〈明治15年〉3月10日 - 1950年〈昭和25年〉10月19日)は、日本の鉄道官僚、鉄道技術者、土木技術者。位階は正五位。学位は工学博士。 元鉄道省東京鉄道局工務課技師、東京地下鉄道初代技師長、元帝都復興院勅任技師、東京市電気局第4代技術長、元東京高速鉄道顧問技師。日本で最初の地下鉄の設計者。 新潟県中蒲原郡流作場新田(現 新潟市中央区三和町)出身。1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業、1903年(明治36年)7月に第四高等学校を卒業、1906年(明治39年)7月に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1906年(明治39年)7月に鉄道作業局に技手として入局、1909年(明治42年)12月28日に鉄道院技師に任官、中部鉄道管理局工務課に配属、東海道線の東京 - 横浜間の鉄道の改良工事に従事、以後、東京の国有鉄道の工事を担当。
佐々木 指月(ささき しげつ、1882年(明治15年)3月1… 佐々木 指月(ささき しげつ、1882年(明治15年)3月10日) - 1945年(昭和20年)5月17日、俗名:佐々木栄多)は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。東京美術学校彫刻選科(後の東京芸術大学)を卒業。米国仏教協会(後の米国第一禅堂)を1930年にニューヨークに創設した。アメリカ合衆国での禅宗発展に影響を与えた指月は、米国で生活し指導を行った最初の日本人師家たちの一人である。1944年、米国人ルース・フラー・エヴェレットと結婚した。1945年5月、法嗣を残さずに死去。著名な彼の生徒の一人アラン・ワッツは、1930年代後半に短い間彼の許で学んだ。号は曹溪庵。 1882年、三重県に生まれた。
嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 194… 嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 1944年5月31日)は、日本の俳人・翻訳家・新聞記者・教員。本名は嶋田 賢平。姓の「しまだ」は「嶋田」と書くのが正式であるが、一般に「島田」の表記も用いられる。俳号の青峰は、故郷の山・青峰山(あおのみねさん、標高336m)に由来する。 三重県答志郡的矢村(現在の志摩市磯部町的矢)出身。大正時代末期に俳句雑誌『ホトトギス』において、池内たけし・篠原温亭・鈴木花蓑らと並び、活躍したが、晩年は新興俳句弾圧事件の犠牲となり、俳句史上に悲しい印象を残している。 1882年3月8日に、的矢村にて父・峰吉と母・りうの3男として生まれる。地元の的矢尋常小学校を卒業後、学を成そうと上京、旧制日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)を出て1899年(明治32年)に東京専門学校予科に入学、卒業後は早稲田大学哲学科に進むが、後に英文科に転じる。
高橋 保(たかはし たもつ、1882年〈明治15年〉3月8日… 高橋 保(たかはし たもつ、1882年〈明治15年〉3月8日 - 1972年〈昭和47年〉12月9日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者・実業家である。 郷里長野県の電力会社長野電灯・東信電気で技師長を務めたのち、東信電気が起業した肥料会社昭和肥料の常務取締役に転身。姉妹会社としてレーヨンメーカー昭和人絹(クレハの母体)を起業して初代社長となり、1939年(昭和14年)には昭和肥料の後身にあたる昭和電工の初代副社長に就任した。衆議院議員を務めた時期もある(当選1回)。 高橋保は、1882年(明治15年)3月8日、長野県人・高橋澄弥の長男として生まれた。出身地は長野県東筑摩郡上川手村(現・安曇野市)。
公森 太郎(きみもり たろう、明治15年(1882年)3月6… 公森 太郎(きみもり たろう、明治15年(1882年)3月6日 - 昭和28年(1953年)2月25日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。元朝鮮銀行副総裁。元中国銀行頭取。 岡山県都宇郡大内田村(のち都窪郡吉備町、現岡山市北区)に公森仲次の長男として生まれた。 その後、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)へ進学、1901年に卒業し、旧制第一高等学校へ進学する。1904年(明治37年)に同校を卒業し、東京帝国大学法学部へ進学する。明治41年(1908年)7月、東京帝国大学政治科卒業する。大蔵省奉職。昭和5年(1930年)8月退官、日本興業銀行理事に就任。昭和12年(1937年)4月朝鮮銀行副総裁。
小山 寛蔵(おやま かんぞう、1882年〈明治15年〉3月3… 小山 寛蔵(おやま かんぞう、1882年〈明治15年〉3月3日 - 1929年〈昭和4年〉12月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県三上郡、のちの庄原村(比婆郡庄原村、庄原町を経て現庄原市)出身。 東京法学院(のち東京法学院大学を経て、現在の中央大学)で学ぶ。広島県議、庄原町長、同農会長、比婆郡自治教育会長、同郡有財産林組合長、広島県土地収用審査委員、広島地方森林会議員、山陽製鉄(株)高野山工場長、東城製鉄(株)取締役兼工場長、京都西陣織物同業組合調査部長となる。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において広島3区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めたが、1929年12月、在職中に死去した。
伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日… 伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日 - 1961年(昭和36年)1月28日)は、日本の画家。本名は伊藤一。責め絵、幽霊画を得意とする。 出身は東京市浅草区。父親は旗本橋本大炊頭の子で、没落し彫金師を生業としていた。母親は丹南藩の元家老の娘・とら。その長男として生まれる。幼い頃から絵が得意であったため8歳で琳派の絵師・野沢提雨に弟子入りする。9歳の段階で芝居の折檻シーンや女の髪の匂いに執着する性癖が発現している。 父が彫金師だったために12歳で象牙彫刻師・内藤亀次郎のもとへ丁稚奉公する。23歳で絵描きになるべく彫刻師修行を辞め京都へ移り、様々な職業を転々とするが身体を壊し東京に戻る。
坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 -… 坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 - 1969年7月14日)は、明治後期~昭和期の洋画家である。
伊藤 精司(いとう せいじ、1882年〈明治15年〉3月1日… 伊藤 精司(いとう せいじ、1882年〈明治15年〉3月1日 - 1964年〈昭和39年〉6月22日)は、日本陸軍の軍人。階級は陸軍少将。武道の称号は大日本武徳会銃剣術範士、剣道教士。流派は直心影流。 陸軍戸山学校教官、富山連隊区司令官、歩兵第45連隊長、陸軍憲兵学校教授、拓殖大学専門部武徳科長を歴任した。 新潟県生まれ。1897年(明治30年)新潟中学校に入学後、直心影流を学ぶ。1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業し、同年4月、歩兵少尉に任官。その後、陸軍きっての名剣士となる。 1929年(昭和4年)、御大礼記念天覧武道大会指定選士の部に出場。予選リーグで大麻勇次、小関教政、早坂広道と戦い、小関に敗れ2勝1敗。
泉谷 祐勝(いずみたに すけかつ、1882年〈明治15年〉3… 泉谷 祐勝(いずみたに すけかつ、1882年〈明治15年〉3月 - 1967年〈昭和42年〉2月3日)は、日本のアマチュア野球選手。黎明期の早稲田大学野球部の中心選手であり、後には宮内省野球班を組織した。守備位置は捕手、一塁手。慶應義塾大学野球部の主将を務めた佐々木勝麿は実弟。 兵庫県神戸元町通(現・神戸市中央区)出身。実家は浄土真宗本願寺派善照寺。元の姓は佐々木であったが、幼い頃母方の養子に出されて泉谷姓となった。 神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)を経て、1902年(明治35年)東京専門学校(現・早稲田大学)に入学する。野球部に入部し、翌年の第一回早慶戦の際には1番キャッチャーで出場している。
周布 兼道(すふ かねみち、1882年3月 - 1955年6… 周布 兼道(すふ かねみち、1882年3月 - 1955年6月29日)は、日本の貴族院議員。男爵。周布公平の長男。長州藩士・周布兼翼(周布政之助)の孫にあたる。
波多野 養作(はたの ようさく、1882年3月 - 1935… 波多野 養作(はたの ようさく、1882年3月 - 1935年7月)は、日本の探検家。外務省嘱託。日露戦争末期に外務省の特命で中国西域を探査。
西山 左内(にしやま さない、1882年(明治15年)3月 … 西山 左内(にしやま さない、1882年(明治15年)3月 - 没年不詳)は、大蔵官僚、関東庁官僚。 群馬県人狩野清八の四男として生まれ、宮城県人西山省吾の養子となった。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵省勤務、司税官、税関事務官、横浜税関総務課長、門司税関長を務めた。1921年(大正10年)、関東庁事務官に転じ、同財務局長を務めた。 退官後の1933年(昭和8年)、満洲電信電話株式会社監事に選ばれ、1936年(昭和11年)まで在任した。その後は中野商店株式会社取締役、長崎鉱業株式会社取締役を務めた。
小坂 順造(こさか じゅんぞう、1881年〈明治14年〉3月… 小坂 順造(こさか じゅんぞう、1881年〈明治14年〉3月30日 - 1960年〈昭和35年〉10月16日)は、日本の実業家、政治家。長野電灯、信濃毎日新聞、信越化学工業、東信電気の経営者。日本発送電総裁。長野県生まれ。 長野県上水内郡柳原村(現・長野市柳原)で、信濃毎日新聞社長や衆議院議員などを務めた小坂善之助の長男として生まれる。旧制長野中学校(現・長野県長野高等学校)、信濃毎日新聞取締役、日本中学などを経て、1904年に東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業する。元社団法人如水会会員であり、籠城事件の際は交渉委員として母校防衛に活躍した。 1904年に日本銀行へ入行、1908年に同行を退職し信濃銀行(現・みずほ銀行)取締役、1911年信濃毎日新聞社長、長野商業会議所会頭、1923年長野電灯社長、1930年信濃電気、信越窒素肥料(現・信越化学工業)の経営を越寿三郎から引き継ぎ、1931年信越窒素肥料社長、1940年信越窒素肥料を信越化学工業に社名変更、1950年日本発送電総裁、1954年電源開発総裁。
明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 195… 明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 1956年9月29日)は、岡山県和気郡英保村(現・備前市吉永町)出身の実業家、銀行家。 1881年3月、和気郡英保村(現備前市吉永町)で生まれる。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、東京帝国大学へ進学する。成績が優秀だった事から、渋沢栄一に認められ、三女、愛子の娘婿となった。欧米へ留学後、第一銀行へ入行。1926年取締役、1928年常務取締役、1932年副頭取、1935年頭取となる。1943年、三井銀行との合併により帝国銀行の会長となる。その間、1920年から澁澤倉庫取締役、1932年から1935年まで澁澤倉庫取締役会長を兼務。
津田 信吾(つだ しんご、1881年(明治14年)3月29日… 津田 信吾(つだ しんご、1881年(明治14年)3月29日 - 1948年(昭和23年)4月18日)は、大正・昭和期の実業家。鐘紡の第2代社長を務めた。鐘紡争議を収束させ社長となる。昭和初期のインド綿花不買運動で知られる。旧姓西山。 愛知県額田郡岡崎能見町(現・岡崎市)に岡崎藩士・西山芳六の四男として生まれる。7歳の時に福井県庁の土木課長を務めていた津田於菟の養子となる。福井県立福井小学師範学校から福井県尋常中学校に進む。2年浪人したのち慶應義塾大学予科に入学。同大学卒業後、鐘淵紡績に工員として入社。1911年(明治44年)、西大寺工場長に就任。ついで淀川工場長となる。1930年(昭和5年)に副社長となり、同年4月から6月にかけて八つの工場で発生した労働争議(いわゆる鐘紡争議)の解決にあたる。
篠原 和市(しのはら わいち、1881年(明治14年)3月2… 篠原 和市(しのはら わいち、1881年(明治14年)3月29日 - 1930年(昭和5年)8月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 長野県南佐久郡岸野村(現在の佐久市)出身。篠原代吉の三男。小諸義塾を卒業し、日本大学法科で学んだ。大阪毎日新聞・東京日日新聞各記者となった。 清浦内閣で鈴木喜三郎司法大臣の秘書官を務めた後、1925年(大正14年)の衆議院補欠選挙に当選。その後の第17回・第18回総選挙でも再選された。その間、田中義一内閣で鈴木喜三郎内務大臣の秘書官に就任した。 他に日本大学評議員、国本社評議員を務めた。また日本大学推薦校友であった。
小野 重行(おの しげゆき、1881年(明治14年)3月26… 小野 重行(おの しげゆき、1881年(明治14年)3月26日 - 1931年(昭和6年)7月30日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。神奈川県橘樹郡町田村の村長を経て、大正9年の総選挙で初当選し、通算4期務めた。 神奈川県橘樹郡町田村(のち潮田町・鶴見町、現・横浜市 鶴見区)に生まれる。東京法学院(現・中央大学)卒。町田村の村長を務め、臨海部の埋立・宅地化や地域開発に尽力した。大正期には多摩川改修など地域インフラをめぐる請願・運動にも関わった。 1920年の第14回衆議院議員総選挙で初当選(神奈川3区)し、1924年(神奈川3区)、1928年・1930年(いずれも神奈川2区)に当選、通算4期務めた。
広沢 豊作(ひろさわ とよさく、1881年〈明治14年〉3月… 広沢 豊作(ひろさわ とよさく、1881年〈明治14年〉3月24日 - 1942年〈昭和17年〉4月11日)は、昭和時代戦前の政治家・医師・実業家。山口県小野田市長。 山口県出身。広沢季三郎の長男。1907年(明治40年)京都帝国大学医科を卒業し、小野田病院を創立。小野田陶業、小野田合同運送、小野田清涼飲料水各社長、門司病院長、山口県医師会長、山口県会議員、新沖ノ山炭坑(後の宇部興産、現在のUBE)取締役、朝鮮小野田セメント、宇部電気鉄道各監査役、山口県学校医会長などを歴任した。 1941年(昭和16年)小野田市の市制施行とともに初代市長に就任。在任中は、戦時下ながら市の発展と平和を象徴した市章の制定、小野田・高千帆両商工会を合併し新たに小野田商工会を設立するなど尽力したが、任期途中で死去した。
三宅 市郎(みやけ いちろう、1881年3月24日 - 19… 三宅 市郎(みやけ いちろう、1881年3月24日 - 1964年2月15日)は、日本の植物病理学者。 1881年、岐阜県恵那郡串原村(現・恵那市)に生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学農科大学農学科(現・東京大学)を1906年に卒業、1907年に同大学助手となった。 1910年に清国・北京大学教授に招かれるが、政変により1914年に帰国。東京農業大学講師を勤め、植物病理学講座を開設して担当した。1924年に教授に昇格。玉川大学教授なども務めた。
児玉 一造(こだま いちぞう、明治14年(1881年)3月2… 児玉 一造(こだま いちぞう、明治14年(1881年)3月20日 - 昭和5年(1930年)1月30日)は、明治から大正期の実業家。東洋綿花株式会社(トーメンを経て豊田通商と合併)を創設。また、輸出綿糸組合を結成するなど綿業界の再建に尽力し、豊田紡織や三井物産の取締役・大阪市教化委員・資源審議会委員などを歴任した。 豊田利三郎トヨタ自動車工業初代社長や児玉桂三東京大学名誉教授は実弟。妻の米は園田孝吉男爵の娘。 児玉一造は、明治14年(1881年)3月20日に滋賀県犬上郡彦根町大字芹橋(現彦根市芹橋)で児玉貞次郎と美衛の子として誕生した。父貞治郎は美濃国養老郡の高木利右衛門の子で、長浜(後の神照村)の児玉助三郎の養子となり、江波伴三の娘美衛と結婚した後、彦根藩足軽の株を買い、明治維新後は家屋の壊し屋を家業としていた。
森田 草平(もりた そうへい、1881年〈明治14年〉3月1… 森田 草平(もりた そうへい、1881年〈明治14年〉3月19日 - 1949年〈昭和24年〉12月14日)は、作家・翻訳家。本名:森田 米松。夏目漱石の門下生の一人であるが、特に私生活での不祥事が多かったことから、門下生の中では異色の存在として扱われることが多い。 岐阜県方県郡鷺山村(現・岐阜市)生まれ。1895年に高等小学校卒業後、日清戦争の影響を受け海軍軍人となるべく単身上京し、海軍予備校だった攻玉社に入学。しかし校風が合わず退学し、日本中学校(現日本学園中学校・高等学校)に入学。同校を1899年に卒業。さらに金沢の第四高等学校に入学するが、恋人の森田つね(のちの妻)との同棲が見つかり、つねの親が学校に訴えたため退学処分を受ける。
今村 次吉(いまむら じきち、1881年(明治14年)3月1… 今村 次吉(いまむら じきち、1881年(明治14年)3月15日 - 1943年(昭和18年)4月17日)は、日本の大蔵官僚、実業家。東京帝国大学卒業。大日本蹴球協會(日本サッカー協会の前身)初代会長。大日本レスリング協会(日本レスリング協会の前身)会長。大日本陸上競技連盟(日本陸上競技連盟の前身)顧問。 今村有隣(1841年-1924年)の次男として生まれる。有隣は明治・大正期の著名なフランス語学者。また兄の今村新吉(1874年-1946年)は京都帝國大學教授を務め、日本の精神病理学者の先駆者と呼ばれた人物である。 1891年に東京高等師範学校附屬小學校(現・筑波大学附属小学校)、1897年に東京高師附屬中學校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
上田 三平 (うえだ さんぺい、1881年3月15日 - 1… 上田 三平 (うえだ さんぺい、1881年3月15日 - 1950年12月19日 )は、日本の考古学者。 次男、上田明(愛媛、千葉、埼玉県警察本部長等を経て、中国管区警察局長)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。