石井 筆子(いしい ふでこ、文久元年4月27日(1861年4… 石井 筆子(いしい ふでこ、文久元年4月27日(1861年4月27日) - 昭和19年(1944年)1月24日)は、日本の教育者、社会福祉家。日本の近代女子教育者の一人であり、日本初の知的障害者福祉の創始者の一人である。男爵渡辺清の娘。別名・渡辺筆、小鹿島筆。滝乃川学園第2代学園長。 肥前国大村藩士の渡辺清・ゲンの長女として生まれる。父の清は弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として中央で忙しく、筆子は故郷で祖母、母らと暮らした。1872年(明治5年)に上京し、大村藩邸に寄宿し、1873年(明治6年)に東京女学校に入学し、同級生に穂積歌子(渋沢栄一の長女)、鳩山春子(共立女子大学創立者の一人)がいた。
宇都宮 太郎(うつのみや たろう、1861年4月27日〈文久… 宇都宮 太郎(うつのみや たろう、1861年4月27日〈文久元年3月18日〉- 1922年〈大正11年〉2月15日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍大将、位階・勲等は正三位勲一等功三級。 イギリス大使館付武官、参謀本部第二部長、第7師団長、第4師団長、三・一運動時の朝鮮軍司令官、軍事参議官を歴任した。桂太郎、仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれる。最近15年分の日記を遺族が公開し、2007年(平成19年)4月から11月にかけて出版された。いわゆる「佐賀の左肩党」の盟主で、皇道派の荒木貞夫・真崎甚三郎の庇護者でもあった。子息にミノファーゲン社長・衆議院議員の宇都宮徳馬。 佐賀鍋島藩士、亀川貞一の四男として生まれる。
三輪 桓一郎(みわ かんいちろう、1861年4月21日(文久… 三輪 桓一郎(みわ かんいちろう、1861年4月21日(文久元年3月12日) - 1920年(大正9年)2月1日)は、理学博士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 墓標は、谷中霊園内の寛永寺霊園に所在。
牧野 元(まきの はじめ、文久元年3月12日(1861年4月… 牧野 元(まきの はじめ、文久元年3月12日(1861年4月21日) - 大正10年(1921年)1月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、長野市長。 信濃国伊那郡鼎村(現在の長野県飯田市)出身。漢学を学び、1882年(明治15年)に下伊那郡全部町村聯合会議員に、1884年(明治15年)に鼎村戸長に就任した。1890年(明治23年)より長野県会議員を務め、1893年(明治26年)には県参事会員に、1899年(明治32年)に県会副議長に選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第8回、第9回と連続当選を果たした。 1910年(明治43年)、長野市助役に就任。
小倉 倹司(おぐら けんじ、1861年4月19日(文久元年3… 小倉 倹司(おぐら けんじ、1861年4月19日(文久元年3月10日) - 1946年(昭和21年))は、陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師。日本で最初のフィルムによる写真撮影を実施したとされる者として知られている。 文久元年に現在の茨城県にて小倉元心の次男として生まれる。東京帝国大学理科選科を卒業。1887年(明治20年)に陸地測量部の前身組織である参謀本部陸軍部測量局に技生傭として奉職。1889年(明治22年)5月に小川一真、江崎礼二らとともに日本寫眞會の設立に関わる。同年12月25日、陸地測量部陸地測量手(判任官)に任官し、1892年(明治25年)7月6日、陸軍砲工学校敷地内において繋留気球から軍用空中写真の撮影に成功した。
中山 小四郎(なかやま こしろう、1861年4月19日(文久… 中山 小四郎(なかやま こしろう、1861年4月19日(文久元年3月10日)- 1928年(昭和3年)5月7日)は、明治期から昭和初期の林業家、政治家。衆議院議員、新潟県佐渡郡河原田町長。1914年(大正3年)五兵衛に改名した。 佐渡国雑太郡川原田町(新潟県佐渡郡河原田町、佐和田町を経て現佐渡市河原田本町)で、代々酒造業を営む中山家当主・中山五平の三男として生まれる。中山立恭、圓山溟北から漢籍を学び、その後上京して共立学校(現開成中学校・高等学校)で学んだ。兄・五兵衛が本間吾平の養子となり、1890年(明治23年)5月に家督を相続した。 河原田町会議員、同町長を務めた。1890年(明治23年)米の高騰で相川町で米一揆が起こり、川原田町貧民救助基金に寄付を行った。
奥村 七郎(おくむら ひちろう、1861年4月18日(文久元… 奥村 七郎(おくむら ひちろう、1861年4月18日(文久元年3月9日) - 1922年(大正11年)1月21日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(憲政会)、博多米穀取引所理事長、博多商業会議所会頭。 1861年(文久元年3月)、筑前国遠賀郡浅木村(現福岡県遠賀郡遠賀町)に生まれる。東京法学校(現・法政大学、明治23年)、英吉利法律学校、明治法律学校を卒業し、弁護士となる。福岡市会議員、同市参事会員を経て、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。 また、博多米穀取引所理事長、博多商業会議所会頭、博多電灯(後の九州電灯鉄道)・九州生命保険・鎮西倉庫各社の取締役、第十七銀行監査役などを務めた。
尼子 忠蔵(あまこ ちゅうぞう、1861年4月16日(文久元… 尼子 忠蔵(あまこ ちゅうぞう、1861年4月16日(文久元年3月7日) - 没年不明)は、日本の政治家(広島市会議員)、商人(醤油商)、醤油醸造家、実業家。第六十六銀行、尾道貯蓄銀行各取締役。(旧)広島銀行、中国紡績各監査役。広島桟橋監査役、同取締役。族籍は広島県平民。 広島県平民・尼子英次郎の長男。家は代々醤油醸造を業とし、「茶屋」と称する。漢学を学び、後に普通教育を受けた。商業に従事した。1881年、家督を相続した。銀行、会社の重役であった。第六十六銀行取締役兼広島支店長を務めた。 広島市胡町・恵美須神社の境内は、もと32坪2合9勺だったが、1909年6月、忠蔵が付近の地積42坪6合2勺を寄付したので74坪9合1勺となった。
初見 八郎(はつみ はちろう、1861年4月14日(文久元年… 初見 八郎(はつみ はちろう、1861年4月14日(文久元年3月5日) - 1930年(昭和5年)5月31日)は、仏語教授、日本の政治家、ジャーナリスト。国会議員衆議院議員。自由民権運動の中心人物。 常陸国猿島郡東山田村(現在の茨城県古河市)出身。東山田村名主の豪農、茨城県多額納税者である初見吉左衛門の四男で土浦五十銀行の頭取を務めた初見敬二郎の長男。明治維新前初見家は代々北山田(きたやまた)の名主でした。農業を中心に大規模な土地経営を行い、地域の有力な地主として知られていました。東山田村は藍の生産地であり、利根川水運を通じて深谷や江戸方面に送られる流通ルート上にあったため、渋沢栄一の藍染業務時代から直接関わっていました。
村上 芳太郎(むらかみ よしたろう、1861年4月13日(文… 村上 芳太郎(むらかみ よしたろう、1861年4月13日(文久元年3月4日)- 1909年(明治42年)1月15日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県越智郡今治町長。 伊予国越智郡今治中浜町(愛媛県越智郡今治中浜町、今治町を経て現今治市中浜町)で、商家に生まれた。漢学、法律学、経済学を修めた。 中浜町会議員、今治町会議員を務めた。1886年(明治19年)3月、愛媛県会議員に選出され、1894年(明治27年)9月まで在任。高須峯造の勧めで立憲改進党に所属した。1891年(明治24年)4月、今治町長に就任し1893年(明治26年)2月まで務めた。その他、連合町村会議員、所得税調査委員、学務委員などにも在任した。
桂 秀馬(かつら ひでま、1861年4月9日(文久元年2月3… 桂 秀馬(かつら ひでま、1861年4月9日(文久元年2月30日) - 1911年(明治44年)11月6日)は、日本の明治期における外科医、侍医。宮内省侍医。越後国新津(現在の新潟市秋葉区)出身。従四位勲四等。 1861年4月9日(文久元年2月30日)に越後国新発田藩領新津村(後に中蒲原郡新津町→新津市)の士族桂愼吾の六男として誕生。幼名は秀助。1887年(明治20年)7月9日に東京帝国大学医科大学を卒業(明治19年度卒業生)した。 卒業後東京帝国大学医学部においてドイツの外科医で、お雇い外国人であるユリウス・スクリバ博士の助手となった後、済生学舎及び第一高等中学校医学部(後に千葉医科大学を経て千葉大学医学部)教諭となり外科学を担当したが、1889年(明治22年)5月2日宮内省侍医局に異動となり第一高等中学校の後任に大学同期の三輪徳寛を推薦した。
日下部 辨二郎(弁二郎、くさかべ べんじろう、文久元年2月3… 日下部 辨二郎(弁二郎、くさかべ べんじろう、文久元年2月30日(1861年4月9日) - 1934年(昭和9年)1月22日)は、明治から昭和時代の土木技師、実業家。旧姓は巌谷。 書家・巖谷一六の次男として近江国甲賀郡水口村(現・滋賀県甲賀市水口町水口)に生まれる。1882年(明治15年)日下部鳴鶴の養子となり、1902年(明治35年)家督を相続する。 1868年(明治元年)京都に出て、富岡鉄斎や神山鳳陽に学び、翌年の1869年(明治2年)上京し、育英義塾にて英語を学ぶ。1874年(明治7年)開成学校に入り、1880年(明治13年)東京大学理学部を卒業し、理学士の称号を得る。のち1901年(明治34年)工学博士。
阿部 宇之八(あべ うのはち、1861年4月7日〈文久元年2… 阿部 宇之八(あべ うのはち、1861年4月7日〈文久元年2月28日〉 - 1924年〈大正13年〉11月14日)は、大正期の札幌区長、ジャーナリスト。 阿波国板野郡木津村(現在の徳島県鳴門市)に、名主阿部猪蔵の次男(三男とも)滝本五郎の長男として生まれ、叔父阿部興人の養子となった。旧制徳島中学(現在の徳島県立城南高等学校)卒業後、1877年(明治10年)に東京に出て、三菱商業学校と慶應義塾で学んだ。1881年(明治14年)帰郷し、阿部興人の娘の恒と結婚する(いとこ婚)。 1882年(明治15年)、『大阪新報』の記者となり、のち『大阪毎朝新聞』に転じ、『大阪毎朝新聞』は『郵便報知新聞』に吸収された。
8代 佐藤 喜八郎(さとう きはちろう、1861年4月4日(… 8代 佐藤 喜八郎(さとう きはちろう、1861年4月4日(文久元年2月25日) - 1920年(大正9年)3月6日)は明治から大正時代の政治家。大地主。貴族院多額納税者議員。 松江城下白潟本町(現島根県松江市白潟本町)出身。佐藤喜八郎の長男として生まれ、先代愛山の養子となり1914年(大正3年)3月、家督を相続する。和漢学を修めたほか日蓮宗に帰依して仏学を研究した。 1873年(明治6年)以降、島根県第六区戸長、松江市会議員、同市所得税調査委員、同市名誉参事会員、臨時世界博覧会委員、松江市会議長を歴任した。ほか、出雲農会幹事長、同仏教会名誉顧問、教育会育英会各評議員を務めた。 1897年(明治30年)9月には島根県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1900年(明治33年)7月14日まで務めた。
鈴木 馬左也(すずき まさや、文久元年2月24日(1861年… 鈴木 馬左也(すずき まさや、文久元年2月24日(1861年4月3日) - 大正11年(1922年)12月25日)は、第三代住友総理事である。 文久元年(1861年)2月24日、高鍋藩家老の父秋月種節(たねよ)と久子の四男として、日向国高鍋(現・宮崎県児湯郡高鍋町)で生まれた。明治元年、母方の大叔父鈴木翔房(たかふさ)が七五歳で没し、その養子鈴木衞房(もりふさ)も戊辰戦争に加わり、27歳で戦死した。翌2年、馬左也は鈴木家再興のため、戦死した衞房の養子となり同家を継いだ。 明治9年に旧制宮崎中学校(現、宮崎県立宮崎大宮高等学校)を卒業し、同年金沢の啓明学校(現、金沢大学)へ入学したが翌年退学して、11年から東京帝国大学予備門に入学し明治20年、27歳で東京帝国大学を卒業すると内務省に入り、22年愛媛県書記官として赴任した。
斯波 淳六郎(しば じゅんろくろう、文久元年2月24日(18… 斯波 淳六郎(しば じゅんろくろう、文久元年2月24日(1861年4月3日) - 昭和6年(1931年)1月2日)は、日本の内務官僚。錦鶏間祗候。日本法律学校(現在の日本大学)創立者の一人。妻は山東直砥の長女。 加賀国金沢藩家老津田正行の三男として生まれ、斯波蕃の養弟となった。1883年(明治16年)、東京大学法学部を卒業。卒業後は研究生となり、さらに文部省留学生としてベルリン大学で国法学、行政法、国際法を学んだ。1888年(明治21年)に帰国し、帝国大学法科大学教授となる。翌年2月、法制局参事官を兼ね、7月には教授の兼職を解かれ法制局専任となった。1894年(明治27年)からは恩給局審査官を兼任した。
平岡 久左衛門(ひらおか きゅうざえもん、前名・房五郎、18… 平岡 久左衛門(ひらおか きゅうざえもん、前名・房五郎、1861年4月3日〈文久元年2月24日〉 - 1937年〈昭和12年〉8月5日)は、日本の実業家、政治家。東京府西多摩郡青梅町長。平岡商店社長。青梅銀行頭取。武陽銀行専務取締役。青梅電気鉄道取締役。族籍は東京府平民。海軍少将平岡貞一の兄。 東京・青梅出身。先代・久左衛門の長男。1901年、家督を相続し前名・房五郎を改め襲名した。織物仲買業を営む。資産家として知られた。 武陽銀行、青梅電気鉄道創始の功労者であり、武陽銀行の重役だった。青梅町長を務めた。住所は東京府西多摩郡青梅町青梅上町(現・青梅市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、1861年4月1日(文久… 加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、1861年4月1日(文久元年2月22日) - 1923年(大正12年)8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、没後 元帥海軍大将。日露戦争で連合艦隊参謀長(日本海海戦時、第一艦隊参謀長兼任)、ワシントン会議で日本首席全権委員を務める。海軍大臣(第20-24代)、内閣総理大臣(第21代)を歴任し、山梨軍縮やシベリア出兵撤兵を成し遂げた。位階は正二位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。
宇田 友四郎(うだ ともしろう、1860年4月15日(万延元… 宇田 友四郎(うだ ともしろう、1860年4月15日(万延元年3月25日) - 1938年(昭和13年)10月9日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員。 宇田家は香宗我部氏の重臣の末裔で、代々家老職を務めた名家。江戸時代に香宗の城下より故郷の岸本浦(現在の高知県香南市香我美町岸本)に戻った。岸本浦にて半農半漁の生活を営んだのち、江戸時代後期頃に「増田屋」の屋号を名乗るようになった。 2代宇田長蔵、久満子の二男として土佐国香美郡岸本に生まれる。1866年(慶応2年)村の寺子屋である柳瀬塾へ入り、柳瀬清治(別名近森孝策)に学ぶ。当時、「大鼻水垂れ」とのあだ名で塾中の評判となり、読書よりも習字を好む少年だった。
斎藤 珪次(さいとう けいじ、1860年4月15日(万延元年… 斎藤 珪次(さいとう けいじ、1860年4月15日(万延元年3月25日) - 1928年(昭和3年)3月21日)は、明治期の政治家、衆議院議員(8期)、ジャーナリスト、勲四等旭日小綬章。 武蔵国(現在の埼玉県羽生市喜右衛門新田)に斎藤喜右衛門の長男として生まれる。埼玉中学を経て大学予備門に入学するが中退。その後慶應義塾に入って政治経済を学び、自由民権運動に参加し、自由党に加盟。 1885年(明治18年)に埼玉県会議員改選に当選し、矢部忠右衛門・堀越寛介らと「埼玉倶楽部」を結成。県会議員を辞任し、1890年(明治23年)に大同協和会の結成に参画。秩父暴動の暴動で放免、その後再選し、東京倶楽部の設立委員。
工藤 卓爾(くどう たくじ、万延元年3月25日(1860年4… 工藤 卓爾(くどう たくじ、万延元年3月25日(1860年4月15日) - 大正14年(1925年)7月19日)は、青森市初代市長。港湾、水道、中央停車場(現:青森駅)など青森市の振興に取り組んだ政治家として知られる。衆議院選挙には2度当選。政財界の巨頭でもあった。合浦公園には彼を偲んで「工藤卓爾君彰徳碑」が建てられている。孫には第26~29代青森市長の工藤正がいる。
清瀧 徳兵衛(きよたき とくべえ、1860年4月13日〈万延… 清瀧 徳兵衛(きよたき とくべえ、1860年4月13日〈万延元年3月23日〉 - 没年不明)は、日本の商人(青物商、乾物砂糖商)、資産家、実業家。池田実業銀行頭取。北摂信託副社長。摂池銀行、池田実業銀行、池田製氷各取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府平民・清瀧徳兵衛の長男。1883年、家督を相続する。青物商や、乾物砂糖商を営み、傍ら池田実業銀行頭取のほか会社重役であった。大阪府在籍で、住所は豊能郡池田町(現池田市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
平田 平三(ひらた へいぞう、1860年4月12日〈万延元年… 平田 平三(ひらた へいぞう、1860年4月12日〈万延元年3月22日〉 - 1933年〈昭和8年〉2月14日)は、日本の牧師。 万延元年(1860年)3月22日、青森県弘前城下に生まれる。明治8年(1875年)に朝陽小学校、明治12年(1879年)に東奥義塾を卒業し、明治12年(1879年)に耕教学舎(後の青山学院大学)に入学する。同年9月に横浜神学校に転校し、明治16年(1883年)に卒業する。 明治15年(1882年)に美以教会(メソジスト派)の伝道師になる。明治20年(1887年)に按手礼を受けて、牧師になる。 明治21年(1888年)に東京英和学校を卒業し、神田、飯田、松本、四谷の美以教会を歴任する。
岡本 松太郎(おかもと まつたろう、1860年4月9日(万延… 岡本 松太郎(おかもと まつたろう、1860年4月9日(万延元年3月19日)- 1942年(昭和17年)11月23日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長。 播磨国飾東郡八重畑村(兵庫県飾東郡谷内村、飾磨郡谷内村、飾東村を経て現姫路市飾東町)で、代々農業を営む家に生まれた。普通学を修めた。 1880年(明治13年)小学校教員となり8年間在任。1888年(明治21年)兵庫県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長も務めた。その他、徴兵参事員、旅団徴兵参事員なども務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(兵庫県第7区、進歩党)で初当選し、同年8月の第6回総選挙(兵庫県第7区、憲政本党)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
高田 早苗(たかた さなえ、1860年4月4日(安政7年3月… 高田 早苗(たかた さなえ、1860年4月4日(安政7年3月14日) - 1938年(昭和13年)12月3日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の政治家・政治学者・教育者・文芸批評家。学位は、法学博士。号は半峰。 衆議院議員、貴族院議員、文部大臣、早稲田大学総長などを歴任した。 1860年4月4日(安政7年3月14日)、江戸・深川(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の共立学校(現・開成中学校・高等学校)や官立の東京英語学校(のちの一高)などで英語を学び、大学予備門を経て、1882年(明治15年)に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業。文学部の授業では外山正一、中村敬宇、信夫恕軒の授業に感化され、黒川真頼の授業が一番役に立ったという。
山川 義太郎(やまかわ ぎたろう、安政7年3月14日(186… 山川 義太郎(やまかわ ぎたろう、安政7年3月14日(1860年4月4日) - 昭和8年(1933年)1月27日)は日本の電気学者。 武蔵国高麗郡下赤工村(現・埼玉県飯能市下赤工)の山川辰蔵(埼玉県令)の長男。1875年、工部大学校(現・東京大学工学部)で電信学を学び卒業、工学士となる。1887年には工科大学校助教授に任ぜられ、1896年、官命で欧米諸国に留学し主に電気学を研究した。3年後の1899年に帰国すると東京帝国大学(現・東京大学)教授に昇進し、工学博士の学位を受けた。 1914年から1916年まで電気学会の会長をつとめ、電気学の権威として知られた。1919年に海外派遣を命じられ、再度欧米諸国を研究視察した。
大竹 貫一(おおたけ かんいち、1860年4月2日〈安政7年… 大竹 貫一(おおたけ かんいち、1860年4月2日〈安政7年3月12日〉 - 1944年〈昭和19年〉9月22日)は、日本の政治家。衆議院議員、貴族院勅選議員。族籍は新潟県平民。 越後国蒲原郡中之島村(現:新潟県長岡市中之島)で、大庄屋・大竹英治の六男として生まれる。若槻元輔、長善館(吉田町粟生津)の鈴木惕軒に漢学を学ぶ。1873年、新潟学校に入り、1874年に官立新潟英語学校に入学し、土木工学を専攻したが、1876年8月に中退した。 1880年、中之島村会議員に就任(1912年まで在任)。南蒲原郡会議員、新潟県会議員も務め、刈谷田川改修工事、大河津分水路工事の実現に尽力し、「大竹宗」と呼ばれた強い選挙基盤を確立した。
山田 直矢(やまだ なおや、1860年4月1日(万延元年3月… 山田 直矢(やまだ なおや、1860年4月1日(万延元年3月11日) - 1939年(昭和14年)1月9日)は、明治から昭和初期にかけての日本の鉱山学者、実業家。大久保利世の孫、大久保利通の甥。 薩摩藩士の山田有庸とスマ(大久保利世三女)の次男として鹿児島城下で生まれる。 1874年に上京し、伯父の大久保利通宅に寄宿。東京英語学校に入学する。1877年に大学予備門、1885年に旧東京大学を卒業し、理学士を授与される。 1886年、正八位となる。翌年依願免官後、ドイツへ留学。1889年の帰国後、大島高任の娘である大島ヒサと結婚。 1894年に帝国大学工科教授に就任。1897年、三井鉱山(現・日本コークス工業)に入社し、同年5月に分家する。
川崎 善三郎(かわさき ぜんざぶろう、万延元年4月(1860… 川崎 善三郎(かわさき ぜんざぶろう、万延元年4月(1860年) - 昭和19年(1944年)4月29日)は、日本の剣道家。流派は無外流剣術。称号は大日本武徳会剣道範士。職業は警察官。諱は重徳。 万延元年(1860年)、土佐藩剣術指南役・川崎専輔の子として、高知城下の北新町田淵(現在の高知市桜井町)に生まれる。川崎家は代々無外流剣術で藩に仕えた。無外流は土佐藩の有力な剣術流儀で、藩主山内容堂も学んでいる。善三郎は7歳から父に剣術を学び、鏡新明智流の馬詰栄馬、馬渕桃太郎、小野派一刀流の石山孫六などの指南も受け、上達した。 明治16年(1883年)、馬渕桃太郎率いる撃剣興行一座の一員として大阪に遠征し、高橋赳太郎(無外流高橋派)と対戦する。
沢野 淳(さわの じゅん、1859年(安政6年4月28日) … 沢野 淳(さわの じゅん、1859年(安政6年4月28日) - 1903年(明治36年)7月25日)は、明治時代の農学者。位階は正五位、勲等は勲五等。 摂津国三田藩の家老沢野応吉の長男として生まれる。大阪開成所で学び、工部大学校に入ろうと上京したが、考え直して勧農局に入る。農学を学び、駒場農学校農芸化学科(現在の東京大学駒場地区キャンパス)を1883年に卒業し、助教授となる。 その後農商務省に入省。1889年、ドイツ帝国に出張を命じられ、農業事情を視察する。その後、アメリカ、フランス、インド、セイロンと巡った。各国の技術を視察した沢野は、陸奥宗光農商務大臣に西ヶ原の農事試験場の創設を提案し、1893年初代の東京場長となった。
斎藤 金吾(さいとう きんご、1859年4月27日(安政6年… 斎藤 金吾(さいとう きんご、1859年4月27日(安政6年3月25日) - 1941年(昭和16年)6月12日)は、明治から大正時代の政治家。大地主。衆議院議員(1期)。 豪農・斎藤安右衛門の長男として出羽鶴岡藩領田川郡、のちの山形県田川郡播磨村(西田川郡播磨村、栄村を経て現鶴岡市)に生まれる。同村加藤良磨に学んだのち鶴岡の中台元について漢籍を修めた。1881年(明治14年)戸長役場に入り、1889年(明治22年)町村制施行と共に栄村助役、1893年(明治26年)同村長に就任する。この間、1891年(明治24年)には西田川郡会議員に当選し、郡制廃止まで33年間在任。1895年(明治28年)からは山形県会議員となり3期務めた。
倉光 藤太(くらみつ とうた、1859年4月26日(安政6年… 倉光 藤太(くらみつ とうた、1859年4月26日(安政6年3月28日)- 1935年(昭和10年)7月13日)は、明治から大正期の漁業家、政治家。衆議院議員。幼名・棟太郎。 壱岐国壱岐郡箱崎村(長崎県壱岐郡芦辺町を経て現壱岐市)で、水産業、先代倉光藤太、モトの長男として生まれる。和漢学を修めた。1890年(明治23年)4月、藤太を襲名した。 家業の水産業を継ぎ、その改良発展に尽力した。壱岐実業会副会長に就任。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で長崎県郡部区から無所属で出馬して初当選。実業界に専念するため第11回総選挙に立候補しなかったが、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙に立憲同志会から出馬して再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
中川 久知(なかがわ ひさとも、1859年4月23日(安政6… 中川 久知(なかがわ ひさとも、1859年4月23日(安政6年3月21日)- 1921年(大正10年)11月12日)は、明治から大正期の博物学者、政治家。衆議院議員、九州博物学会終身会長。青年期に一時、板倉久知を名乗る。熊本県近世博物学の開拓者。 岡藩主・中川久昭の二男として生まれる。藩校・由学館で漢籍を学んだ。1871年(明治4年)上京し、丹羽家塾、逢坂学舎、東京英語学校、開成学校で学んだ。1877年(明治10年)東京大学理学部に入学。同年10月13日、旧安中藩主板倉家当主・板倉種子(板倉勝殷四女)の入夫となり家督を相続したため東大を中退。しかし、1880年(明治13年)1月17日に隠居し、同月19日に離縁となり中川家に復籍した。
南 鷹次郎(みなみ たかじろう、安政6年3月16日(1859… 南 鷹次郎(みなみ たかじろう、安政6年3月16日(1859年4月18日) - 1936年8月9日)は、日本の農学者。農学博士。北海道帝国大学名誉教授で、北海道帝国大学総長。肥前国大村(現・長崎県大村市)出身。 肥前国大村藩の藩士南仁兵衛の次男として出生し、幼名を久作といった。伯母の嫁ぎ先であった末松家の養子に入ったが、実兄邦蔵が病弱なため実家に戻った。9歳になって藩校五教館に学んだのち、14歳で半ば出奔するような形で長崎の広運学校に移り、2年後には上京して工学寮(のち工部大学校、現在の東京大学工学部の前身)小学校(予科に相当)へ入学した。1877年(明治10年)4月に工部大学校に入学したが、この年より定員の半数のみが官費生となってその選に漏れたこともあり、9月より札幌農学校(現在の北海道大学)の第2期生となる。
浅尾 長慶(あさお ながよし、安政6年3月14日(1859年… 浅尾 長慶(あさお ながよし、安政6年3月14日(1859年4月16日) - 大正15年(1926年)7月17日)は、衆議院議員、山梨県の名望家。 山梨英和女学校の設立者の1人。甲府教会の教会員。 甲斐国山梨郡中小河原村(山梨県西山梨郡住吉村を経て現甲府市中小河原町)に父「長右衛門(長栄)」、母「世以」の長男として生まれる。明治11年(1878年)に同志とともに甲府緑町に英学義塾を開設し英学の普及を図った。明治15年(1882年)には野口英夫、三枝七内らとともに立憲保守党を結成し山梨県内の民権派に対抗した。明治18年(1885年)12月から明治25年(1892年)まで山梨県会議員を務めた後、明治25年(1892年)2月の第2回衆議院議員総選挙に山梨県第一区(甲府市、西山梨郡、中巨摩郡、北巨摩郡)から立候補し衆議院議員に当選。
清水 泰次郎(しみず やすじろう、1859年4月14日〈安政… 清水 泰次郎(しみず やすじろう、1859年4月14日〈安政6年3月12日〉 - 1926年9月2日)は、明治から大正時代に活躍した英学者、教育者。旧姓、中川。幼名、佳之助。同志社英学校(現・同志社大学)や、大阪・英和学舎(現・立教大学)を始め、多くの学校で教授を務め、第五高等学校(現:熊本大学)では夏目漱石の後任となった。英文学者として、日本英文学会を創設し、日本における英文学の発展に貢献した。 1859年(旧暦安政6年3月12日)に中川進之丞玄佳の二男として大阪市東区安土町にて生まれる。幼名を佳之助と称し、家は代々儒者にして医者を業としていた。 1870年(明治3年)、10才の頃に、当時の日本では開国の思想が大きく国内に勃興し、四民平等の精神が発展していく最中、その主旨に感動し、籍を平民に移すことを決心し、その年の12月に清水姓となり、名を泰次郎と改めた。
松本 源太郎(まつもと げんたろう、安政6年3月11日(18… 松本 源太郎(まつもと げんたろう、安政6年3月11日(1859年4月13日) - 大正14年(1925年)10月29日)は、日本の教育者。宮中顧問官。
本間 三郎(ほんま さぶろう、1859年4月12日(安政6年… 本間 三郎(ほんま さぶろう、1859年4月12日(安政6年3月10日) - 1928年(昭和3年)12月27日)は、日本の剣術家、政治家。流派は本間念流。称号は大日本武徳会剣道範士。衆議院議員(3期)。 上野国佐波郡赤堀村(現・群馬県伊勢崎市)の本間千五郎の三男。家伝の念流剣術(本間念流)を修行する。 明治時代に榊原鍵吉が撃剣興行で前橋を訪れ、その後榊原に入門。山岡鉄舟にも師事する。 1893年(明治26年)、警視庁の各警察署に撃剣試合を挑み、門奈正、内藤高治、佐々木正宜、夏目又之進、得能関四郎、柴田衛守ら撃剣世話掛を連破する。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に当選。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に当選。
浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年… 浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年3月8日) - 1940年(昭和15年)9月23日)は、明治から昭和時代前期の電気工学者、通信技術者。 備中国都宇郡茶屋町(現・岡山県倉敷市)に生まれる。浅口郡船穂村の医師浅野意俊の三男。 1881年(明治14年)工部大学校電気工学科(現:東京大学)を卒業し、同年工部大学校教官となる。同校助教授、東京電信学校長兼幹事、逓信省電務局電気試験所(現:電子技術総合研究所)初代所長、逓信技師、電気試験所所長を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)教授となる。その後、早稲田大学教授、早稲田大学工科長を経て1920年(大正9年)早稲田大学理工学部学部長となる。
高橋 文質(たかはし ぶんしち、1859年4月9日(安政6年… 高橋 文質(たかはし ぶんしち、1859年4月9日(安政6年3月7日) - 1915年(大正4年)5月29日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)。 越後国頸城郡板倉村(現在の新潟県上越市)出身。板倉村会議員、中頸城郡会議員、新潟県会議員、同参事会員を歴任した。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、立憲改進党系の高田新聞社社長を務め、上越電気株式会社取締役に選ばれた。
安井 理民(やすい はるたみ、安政6年3月3日(1859年4… 安井 理民(やすい はるたみ、安政6年3月3日(1859年4月5日) - 明治27年(1894年)2月16日)は、上総国(現在の千葉県)の成東下町(現・山武市)の人物。総武本線の前身である総武鉄道設立に尽力したことで知られる。 結城藩の休泊所(中宿)を営む安井家に生まれ、半蔵(はんぞう)と名付けられる。 1878年(明治11年)に20歳にして戸長となり、自らの屋敷を役場として政務を行う。 1886年(明治19年)に27歳にして鉄道計画に着手、150有余名の株主を募って総州鉄道を設立した。このとき名を理民に改める。 東京神田に総州鉄道創立事務所を設けて鉄道創設に尽力したものの、利根運河を優先する当時の千葉県知事 船越衛の反対にあった。
藤井 宣正(ふじい せんしょう、安政6年3月2日(1859年… 藤井 宣正(ふじい せんしょう、安政6年3月2日(1859年4月4日) - 1903年6月6日)は、日本の宗教家・探検家。島崎藤村の「椰子の葉陰」主人公のモデルとなった人物である。 1859年、越後国三島郡本与板村(現新潟県長岡市与板町本与板)の光西寺に藤井宣界の次男として生まれた。旧制長岡中学を経て慶應義塾に学び、西本願寺からの内地留学生として初めて東京帝大哲学科に学んだ。 東大卒業と同時に西本願寺文学寮教授に就任。当時における仏教学のエキスパートとされ、1891年には日本で初めての仏教通史となる「佛教小史」を著した。1892年に飯山の井上寂英の長女瑞枝と結婚。瑞枝は日本英学校を首席で卒業「心の露」を出版した才媛であり、実家は島崎藤村「破戒」の中で蓮華寺のモデルとなった。
河島 敬蔵(かわしま けいぞう、1859年4月3日(安政6年… 河島 敬蔵(かわしま けいぞう、1859年4月3日(安政6年3月1日) - 1935年(昭和10年)5月26日)は、日本の教育者、英文学者、翻訳家。日本で初めて原文からシェイクスピア劇を翻訳し、ロミオとジュリエットの翻訳「露妙樹利戯曲 春情浮世の夢」、ジュリアス・シーザーの翻訳「沙吉比亜戯曲羅馬盛衰鑑」を刊行するなど坪内逍遙と双璧をなした。教え子には元田作之進(立教大学初代学長)や杉村楚人冠(俳人、朝日新聞社記者)らがいる。 1859年4月3日(安政6年3月1日)、現在の和歌山県和歌山市に和歌山藩士河島喜八郎の長男として生まれる。幼児期より聡明で記憶力に富んでいたという。1869年(明治2年)11歳のときに紀州藩学習館の漢学寮に学ぶが、同時にこの学校に付属する「洋学寮」で英語とフランス語を学ぶ。
小島 大治郎(こじま だいじろう、安政6年2月28日〈185… 小島 大治郎(こじま だいじろう、安政6年2月28日〈1859年4月1日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月26日)は、明治から昭和初頭にかけて活動した日本の実業家・政治家である。長野県上田市の人物で、家業の鋳物製造業を営みつつ会社経営にも関わり上田温泉電軌(現・上田交通)初代社長を務めた。長野県会議員を務めた時期もある。 小島大治郎は、安政6年2月28日(新暦:1859年4月1日)、小島佐門太の長男として生まれた。出身は信濃国小県郡常入村(のちの長野県小県郡上田町、現・上田市)。小島家は代々勅許鋳物師として神社仏閣の御用をつとめてきた旧家であり、父・佐門太は幕末に生きた人物ということもあり上田藩・松代藩の大砲・銃器をも製作し名を知られた。
楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体: 楠瀨幸彥、1858… 楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体: 楠瀨幸彥、1858年4月28日〈安政5年3月15日〉- 1927年〈昭和2年〉10月13日)は、日本陸軍の軍人、陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。 土佐国土佐郡高知城下南奉公人町(現:高知県高知市)で、土佐藩士楠瀬正志の長男として生まれる。 東京海南私塾、陸軍幼年学校を経て、1880年(明治13年)12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業。フランス留学、陸士教官、近衛砲兵連隊中隊長、参謀本部第1局員、参謀本部副官、ロシア公使館付などを歴任。 1894年(明治27年)11月、臨時京城公使館付(韓国政府軍部顧問)となり、三浦梧楼公使らと共に、1895年(明治28年)10月8日に発生した閔妃暗殺事件(乙未事変)に係わったとして、同年10月から翌年1月まで入獄したが、1896年(明治29年)1月14日、第5師管軍法会議において無罪判決を受け釈放された。
小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年… 小沢 豁郎(おざわ かつろう、安政5年3月12日(1858年4月25日) - 明治34年(1901年)3月19日)は、日本の陸軍軍人、国粋主義者。清仏戦争に乗じて清国改造の革命を起こそうとした。東邦協会設立発起人。 信濃国上諏訪宿(現長野県諏訪市)に生まれる。年少時に江戸に出てフランス語を学び、次いで陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入り、1879年(明治12年)に陸軍工兵少尉に任ぜられる。1883年(明治16年)に参謀本部出仕となり、翌年清国に派遣され、福州に駐在して諜報任務に当たる。 清国の地下組織「哥老会」と結んで清朝転覆を企て、山口五郎太、鈴木恭堅、松本亀太郎、中野二郎、樽井藤吉と連絡を取り合い策謀するところにあったが、本国より柴五郎が駆けつけ、計画は中止となった。
鶴見 守義(つるみ もりよし、1858年4月25日(安政5年… 鶴見 守義(つるみ もりよし、1858年4月25日(安政5年3月12日) - 1939年(昭和14年)12月18日)は、明治から大正時代の司法官。大審院判事。関西法律学校創立者。 日光(現栃木県日光市)に生まれる。1876年(明治9年)県の貢進によって司法省法学校に入学し、1884年(明治17年)同校卒業と同時に司法省御用掛を拝命する。1886年(明治19年)大阪始審裁判所判事補となり、同年6月、判事に、1890年(明治23年)には部長判事に進む。1895年(明治28年)長崎控訴院判事に転じるまで在阪する。この間、関西法律学校創立に関与し初代学監としてフランス民法を講じた。1899年(明治32年)大審院判事となり、1922年(大正11年)まで務めた。
後藤 恕作(ごとう じょさく、安政5年3月6日(1858年4… 後藤 恕作(ごとう じょさく、安政5年3月6日(1858年4月19日) - 昭和4年(1929年)3月6日)は播磨国(兵庫県)生まれの実業家。後藤毛織製造所(後に東京毛織)の創立者であり、明治から昭和初期にかけて活躍した。 播磨国揖東郡網干村(現・兵庫県姫路市)生まれ。明治8年(1875年)に清国公使として赴任した森有礼に随行し、北京で毛織染色法を学んだ。日本に帰国後、明治12年(1879年)本郷で小工場を設立しなめし革、毛糸紡績を行ったがこれは失敗し、じゅうたんなどの製造を始めた。明治13年(1880年)芝区白金台(現東京都港区)に民間としては日本初の毛織物工場である後藤毛織製造所を設立、明治25年(1892年)には大井町(現品川区)にも工場を進出させて生産基盤を強化し、日清戦争、日露戦争期には業績を躍進させた。
渡辺 たま(わたなべ たま、1858年4月18日(安政5年3… 渡辺 たま(わたなべ たま、1858年4月18日(安政5年3月5日) - 1938年(昭和13年)10月26日)は、日本の慈善家・女性活動家。名前は多満、玉子あるいは多満子とも。明治後期 - 昭和初期の横浜市において、多くの慈善事業団体の立ち上げや運営に関わった。正六位。 現在の群馬県碓氷郡松井田(現安中市)に、回送業を営む大河原太右衛門の次女として生まれる。大河原家は地元の名家であり、代々総社の神官を務めていた。 父太右衛門の兄新次郎は江戸の海産物商明石屋七代目渡辺治衛門に見込まれ、渡辺家の入り婿となり、八代目を襲名していた。太右衛門も明石屋との関係を深め、7代目明石屋治右衛門とともに開港にともなって、主に石炭を商うために出店した横浜の明石屋(明石屋平蔵商店、後に石福商店)の経営に当たった。
鐸木 三郎兵衛(すずき さぶろうべえ、1858年4月16日(… 鐸木 三郎兵衛(すずき さぶろうべえ、1858年4月16日(安政5年3月3日) - 1931年3月8日)は、明治時代の政治家。福島町(現福島市)町長、名誉市長、福島県会議員、衆議院議員(立憲政友会)などを歴任。私財を投じて水道敷設事業や明治14年の福島大火(約1800戸焼失)の復興、福島市の駅前開発などに尽力した。また、福島県庁を郡山市に移転させるという動きがあった際には、福島市の代表として上京し陳情、移転を阻止した。再三の衆議院議員立候補要請を断り続け、晩年は廃寺を買い取って隠居。馬巌(ばがん)という俳号を持ち、風流に興じる一面も持っていた。 鐸木三郎兵衛は安政5年3月3日(1858年4月16日)、宮城県刈田郡白石本郷桜小路(現白石市)の金谷武功の次男・金谷正足として生まれた。