鈴木 俊隆(すずき しゅんりゅう、1905年5月18日 - … 鈴木 俊隆(すずき しゅんりゅう、1905年5月18日 - 1971年12月4日)は昭和の曹洞宗の僧侶。アメリカに禅を広め、欧米では、鈴木大拙と並んで「2人の鈴木」と呼ばれている。 神奈川県平塚市の曹洞宗松岩寺に生まれる。12歳で静岡県森町の蔵雲院の玉潤祖温に弟子入り。駒澤大学在学中に蔵雲院住職となる。1930年同大卒業。永平寺、總持寺で修行。1936年に静岡県焼津町(現、焼津市)林叟院住職に転任。 1959年に55歳でアメリカに渡り、サンフランシスコの桑港寺の住職となる。桑港寺はそれまで主に日系人向けに教化活動をしていたが、当時の社会運動により、非日系アメリカ人の参禅者が増加。日系人との間で軋轢を生むようになり、鈴木は彼らのために1962年にサンフランシスコ禅センターを設立。
青木 恵一郎(あおき けいいちろう、1905年5月17日 -… 青木 恵一郎(あおき けいいちろう、1905年5月17日 - 1988年2月10日)は、日本の農民運動家、著作家。 長野県更級郡稲里村中氷鉋(現・長野市)生まれ。1925年旧制千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)卒。日本農民組合東京出張所書記となり、木崎村小作争議などに参加。秋田県でも活躍し、1933年日農東京出張所長となる。その後、全農全国会議派の合法化運動をし、1939年中国に渡って中支那合作社幹事となる。戦後は日農の再建に加わり、1948年日本共産党に入党し、1949年離党。この間、長野県第1区 (中選挙区)から衆議院選に出馬(1947年日本社会党、1949年共産党)し、落選。1957年日農連合会を結成して、第一線から退き、林業経営研究所員、東京教育大学講師などを務め、農民運動史の研究に従事した。
大澤 嘉平治(おおさわ かへいじ、1905年(明治38年)5… 大澤 嘉平治(おおさわ かへいじ、1905年(明治38年)5月17日 - 1983年(昭和58年)8月21日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期、民主党→民主自由党) 1905年(明治38年)に栃木県で生まれ、法政大学商業学校を卒業する。野洲繊維工業、安足産業、安足自動車運送、大澤建設工業、日本化工、東京タクシーなど多くの社長を務め、佐野商工会議所初代会頭に就任する。 1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙に栃木県第2区から出馬し、当選する(連続2期)。また、民主自由党総務を務める。 1980年(昭和55年)秋の叙勲で勲三等瑞宝章受章。 1983年(昭和58年)8月21日死去、78歳。
田宮 義雄(たみや よしお、1905年(明治38年)5月15… 田宮 義雄(たみや よしお、1905年(明治38年)5月15日 - 1988年(昭和63年)11月2日)は、模型メーカータミヤの創業者。
門田 芦子(かどた あしこ、本名:内山仲子、1905年5月1… 門田 芦子(かどた あしこ、本名:内山仲子、1905年5月15日 - 1974年12月20日)とは元宝塚少女歌劇団(元月組主演男役クラス・元月組・星組組長)の人物である。愛知県名古屋市出身[4]。宝塚歌劇団時代の愛称はチャマさん。
内藤 隆福(ないとう たかとみ、1905年 <明治38年> … 内藤 隆福(ないとう たかとみ、1905年 <明治38年> 5月15日 - 2009年 <平成21年> 7月8日)は、日本の経営者。オリンパス光学工業(現在のオリンパス)社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1931年に早稲田大学理工学部電気工学科を卒業し、同年に高千穂製作所(現在のオリンパス)に入社。1945年12月に取締役に就任し、1954年7月に常務、1963年12月に専務を経て、1967年6月に社長に就任。1971年12月に会長に就任し、1973年12月から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2009年7月8日老衰のために死去。
前川 國男(まえかわ くにお、1905年5月14日 - 19… 前川 國男(まえかわ くにお、1905年5月14日 - 1986年6月26日)は日本の建築家である。
鎌原 正巳(かんばら まさみ、1905年5月14日 - 19… 鎌原 正巳(かんばら まさみ、1905年5月14日 - 1976年3月15日)は、日本の作家。 長野県埴科郡松代町(現:長野市)生まれ。松本高等学校文科乙類卒、京都帝国大学文科中退。 早稲田大学出版部にて雑誌編集等に携わる傍ら、1939年に古谷綱武、森三千代らと同人誌『文学草紙』を創刊。 1947年-1966年東京国立博物館に勤務し資料室長となる。 1954年「土佐日記」で芥川賞候補、「曼荼羅」で再度候補。70年文化財功労者となる。
阿部 吉雄(あべ よしお、1905年〈明治38年〉5月12日… 阿部 吉雄(あべ よしお、1905年〈明治38年〉5月12日 - 1978年〈昭和53年〉5月30日)は、日本の中国哲学者。 1905年、山形県山形市で生まれた。山形中学校を経て、東京帝国大学文学部支那哲学科に入学。1928年、卒業論文『荀子の研究』を提出して同大学を卒業。同大学大学院に進学した。 1930年、東方文化学院東京研究所の助手となり、服部宇之吉の「儀礼鄭注補正」の助手を務めた。1935年に同研究所研究員となり、「朱子経説の淵源」の題目で研究を進めた。 1941年、京城帝国大学法文学部助教授として赴任。当地で朝鮮儒学に関心を抱いた。李退渓と闇書の思想的血縁関係について著した専門書をまとめたものの、公刊直前に敗戦となり、原稿ともども失う。
松島 詩子(まつしま うたこ、本名:内海 シマ、1905年〈… 松島 詩子(まつしま うたこ、本名:内海 シマ、1905年〈明治38年〉5月12日 - 1996年〈平成8年〉11月19日)は、日本の歌手。山口県玖珂郡日積村(現在の柳井市の一部)出身。夫は戦前期浅草オペラやニットーレコードで歌手として活躍した内海一郎(1898年 - 1972年)。 テレビ東京系「出没!アド街ック天国」のワンコーナー「〇〇物語」のBGMにこの曲のインストゥルメンタルが使われている。
鈴木 敬信(すずき けいしん、1905年5月12日 - 19… 鈴木 敬信(すずき けいしん、1905年5月12日 - 1993年1月27日)は、日本の天文学者。専門分野は位置天文学、日食計算論。 東京学芸大学名誉教授。秋田県秋田市出身。一部の人名事典では出身地が東京都になっているものもある。なお、小惑星の(2393) Suzukiは、彼に因み命名された。 旧制第一高等学校を経て1929年、東京帝国大学理学部天文学科を卒業。広島第一中学校教諭、赤羽工兵隊幹部候補生、東京科学博物館嘱託を経て1939年、海軍水路部技師となる。水路部では編暦に従事し、『天体位置表』を創刊した。 1951年、運輸大臣賞(「天体位置表の創刊」により)。 1952年、東京学芸大学教授に就任し、1969年退官。
多武良 哲三(たむら てつぞう、1905年5月11日 - 1… 多武良 哲三(たむら てつぞう、1905年5月11日 - 1962年3月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1935年東京帝国大学商科卒。(株)明電舎平坂、名古屋各工場長、同名古屋製作所副所長、同監査役、取締役、三光商事(株)取締役社長となる。 1949年の第24回衆議院議員総選挙では愛知2区から民主自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。この間民主自由党政調会文部副部長を務めた。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。1953年の第26回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。 このほか西枇杷島町監査委員、愛知県卓球協会名誉会長、名古屋電気学園理事、愛知工業大学事務局長を歴任した。
柳田 秀一(やなぎた ひでかず、1905年5月10日 - 1… 柳田 秀一(やなぎた ひでかず、1905年5月10日 - 1978年4月4日)は、日本の医師、政治家。位階は従三位。日本社会党衆議院議員(8期)、舞鶴市長。 京都府舞鶴市出身。京都一中・旧制六高を経て岡山医科大学を卒業し、京都帝国大学大学院医学部で学ぶ。その後医師を開業。1947年に舞鶴市長に当選し1950年まで務める。 1952年の総選挙に左派社会党公認で京都2区から立候補し、初当選。1955年に再統一した日本社会党にも引き続き所属し、この間1966年1月に佐々木更三・勝間田清一両委員長の下で、国会対策委員長を務める。また日本体育協会でも理事を務め、東京オリンピックでも組織委員となった。 1972年の総選挙で地盤を京都府副知事だった山田芳治に譲り引退する。
石橋 岱城(いしばし たいじょう、1905年5月10日 - … 石橋 岱城(いしばし たいじょう、1905年5月10日 - 1936年9月25日)は、日本の宗教家。福岡県柳川市(旧 福岡県山門郡)出身で、京都帝国大学卒業後、浄土真宗本願寺派第22世法主鏡如(大谷光瑞)の秘書となり、内モンゴル・ハイラル(満州)に西本願寺末寺を開設した。本名は石橋 肇(いしばし はじめ)。 幼少の頃より聡明で、旧柳川藩主立花家から学年で一人だけに与えられる「殿さま御褒美」を毎年貰い神童と呼ばれた。矢留尋常高等小学校を卒業した14歳の時、柳川市恵比寿町の浄土真宗本願寺派法霊山西方寺へ上がって仏門に入り、そのつてから広島の同系寺院へ移り、広島高等師範学校を経て京都帝国大学へ進学。京都帝国大学卒業後、優秀な成績と人物を見込まれ、浄土真宗本願寺派第22世法主鏡如(大谷光瑞)の秘書となって薫陶を受けた。
具 乙会(ク・ウルェ、朝鮮語: 구을회/具乙會、1905年5… 具 乙会(ク・ウルェ、朝鮮語: 구을회/具乙會、1905年5月9日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家、実業家。第2代韓国国会議員。本貫は綾城具氏。 忠清南道唐津郡あるいはソウル出身。20歳までに漢文を学び、普成専門学校法科卒、専修大学法学部修了(3年時に中退したという情報もある)。図們東興銀行監査役、大韓物産株式会社共同管理人、大韓独立促成国民会唐津支部副委員長、大韓国政会中央分科委員を経て、1950年の第2代総選挙で唐津郡選挙区から無所属で当選し、国会において外務委員、捕虜実情調査委員などを歴任した。
櫻内 乾雄(さくらうち きみお、明治38年(1905年)5月… 櫻内 乾雄(さくらうち きみお、明治38年(1905年)5月8日 - 昭和52年(1977年)4月3日)は、日本の実業家。中国電力会長を務めた。 父は商工大臣、農林大臣、大蔵大臣などを務めた櫻内幸雄。弟は衆議院議長を務めた櫻内義雄。 東京市芝区に生まれる(島根県能義郡広瀬町(現安来市)出身)。櫻内家は旧藩時代、広瀬藩士として松平家に仕えた武士の家系だった。曽祖父の四郎左衛門以前の系譜については、明らかでない。四郎左衛門の役は側用人であり、理財の道に長け、広瀬藩の財政経済については、もっぱら指導的な役割を担当した。 明治中学校(明治大学付属明治高等学校・中学校)、静岡高等学校を経て昭和5年(1930年)、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し大学院に入る。
佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8… 佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8日 - 平成2年(1990年)以降)は日本の俳人、政治家。元境港市議会議員。号榎村。佐賀家の12代目。 俳人鹿島平堂は大おじにあたる。 鳥取県西伯郡上道村(現・境港市上道町)の農家に生まれる。 鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)、正則英語学校(現・正則学園高等学校)を経て、大正14年(1925年)3月に東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)卒業。大正15年(1926年)3月、早稲田大学専門部中退。 帰郷して農業に従事する。上道村会議員、境港市会議員などをつとめた。 元農業会理事、村会議員、境港市農業委員等務め農業多角経営の指導、実践に努力、養鶏の大家として三十年の経験と共に県下に有名である。
川畑 愛義(かわばた あいよし、1905年5月8日 - 20… 川畑 愛義(かわばた あいよし、1905年5月8日 - 2005年1月23日)は、日本の公衆衛生学・健康学者。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館理科乙類を経て、1931年京都帝国大学医学部卒業。1935年「晝光照明学の根本命題」で京大医学博士。京都市立衛生試験所、京都大学教養部助教授、教授、1970年定年退官、名誉教授。京都府衛生研究所長。京都栄養学院長。日本水質保健研究所所長。日本生活医学研究所所長。1977年勲三等旭日中綬章受章。長命を保ち多くの一般啓蒙書を著した。体育生理学の研究の一環として「どうすれば身長は伸ばせるか」を研究し、発育開発協会より通信教育講座「川畑式背伸び法」を開講した。
谷 信一(たに しんいち、1905年5月8日 - 1991年… 谷 信一(たに しんいち、1905年5月8日 - 1991年1月21日)は、日本の美術史家。日本近世美術史専攻。東京国立博物館勤務。 1905年、三重県安濃郡安西村の素封家・駒田家生まれ。父の姉の家を継ぎ谷家へ養子に入る。第八高等学校卒業後、1930年3月東京帝国大学文学部美術史学科を卒業、同年4月東京帝国大学文学部副手、1932年7月東京帝国大学史料編纂所嘱託を経て、1942年3月京城帝国大学助教授に任官したが、1946年8月大学廃止により退官帰国した。 引き揚げ後は、1946年より美術研究所研究員、1949年5月東京芸術大学美術学部講師、1952年神戸大学文理学部教授となり、1952~1958年まで東京芸術大学教授を兼任した。
小林 高四郎(こばやし たかしろう、1905年5月7日 - … 小林 高四郎(こばやし たかしろう、1905年5月7日 - 1987年1月2日)は、東洋史学者、横浜国立大学名誉教授。専攻はモンゴル史・元朝史。 1905年、新潟県で生まれた。慶應義塾大学文学部支那文学科で学び、1930年に卒業。1933年より北京に留学し、モンゴル語を学んだ。 帰国後、慶應義塾大学教授に就いた。外務省に調査官として入省し、満蒙の調査を担当した。第二次世界大戦中の1942年、ソ連経由でアンカラに赴任、日本大使館書記官をつとめた。1946年3月2日に帰国。 1949年、横浜国立大学教授となった。また、神奈川県立外語短期大学教授も兼任した。1953年に学位論文『元朝秘史の研究』を京都大学に提出し文学博士の学位を取得。
山中 散生(やまなか ちるう、1905年5月7日 - 197… 山中 散生(やまなか ちるう、1905年5月7日 - 1977年9月11日)は、昭和期の日本の詩人・フランス文学者。本名・山中利行。 愛知県名古屋市に生まれる。1923年(大正12年)に名古屋高等商業学校に入学。在学中に当時名古屋で刊行されていた象徴派の詩誌『青騎士』に参加している。3年後に卒業するとNHK東海支部に就職する。1929年(昭和4年)、冨士原清一から雑誌『衣裳の太陽』を贈られたことを機にシュルレアリスムに傾倒。同年、雑誌『Ciné』を創刊。1933年(昭和8年)からフランスの詩人ポール・エリュアールとの文通が始まり、その交際はアンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラ、ジョルジュ・ユニエ、ルネ・シャール、マン・レイ、サルヴァドール・ダリ、ハンス・ベルメールらに広がっていき、彼らの作品を『詩と詩論』『文藝汎論』『マダム・ブランシュ』『Vou』『Cendre』などの雑誌に発表、紹介を始める。
沙羅 双樹(さら そうじゅ、1905年5月6日 - 1983… 沙羅 双樹(さら そうじゅ、1905年5月6日 - 1983年1月20日)は、日本の小説家、経済評論家。本名、大野兤(おおの ひろし)。 埼玉県越谷市出身、日本大学専門部法科中退。 時代小説を主に執筆した。 1936年、『天鼓』で第1回千葉亀雄賞受賞。※田中平六名義 1938年、『兜町』が第8回直木賞候補作となる。 1940年、「白狼」及び「花影」が第11回直木賞候補作となる。 1952年、「獄門帳」が第28回直木賞候補作となる。 1954年、「帰らぬ人々」が第31回直木賞候補作となる。 映像化された作品に「獄門帳」鶴田浩二、「大江戸喧嘩纏」大友柳太朗、「雪姫七変化」松島トモ子、「伊達六十二万石」(映画名「伊達騒動 風雲六十二万石」大友柳太朗)、「妻恋い獅子」(映画名「胡蝶かげろう剣」里見浩太郎)がある。
今西 正雄(いまにし まさお、1905年5月4日 - 199… 今西 正雄(いまにし まさお、1905年5月4日 - 1990年6月13日)は、日本の歴史学者。同志社大学名誉教授。 1905年5月4日、京都市の西陣に織問屋を営む今西家の長男に生まれる。1928年、同志社大学法学部経済学科卒業。アメリカ合衆国やドイツに留学。1949年より同志社大学経済学部教授。専攻はドイツ経済史。1965年ころから「低開発」問題に関心をもち、ブラジル経済史、特にポピュリスト的指導者ヴァルガスの計画経済の研究にとりくむ。1976年の退職後は、同志社大学や他大学で後進の指導にあたった。1990年6月13日、ブラジルで逝去。享年85。
朴 允進(パク・ユンジン、日本名:福田允進(ふくだ いんじん… 朴 允進(パク・ユンジン、日本名:福田允進(ふくだ いんじん)、1905年5月2日 - ?)は、大韓民国の仏教僧侶。号は大愚(デウ、대우)、法名は領海(ヨンへ、영해)。 もともとは京畿道高陽郡の興国寺に在籍する僧侶であった。京城第一高等普通学校(後の京畿高等学校)を1927年に卒業し、仏教専修学校(後の東国大学校)に入学した。この学校在学中に、青年僧侶たちが韓龍雲を党首に推して組織した卍党に加入した。 仏教専修学校は朴允進の在学中に中央仏教専門学校へと昇格し、朴允進はこの専門学校の第1回卒業生として日本に留学した。東京の大正大学宗教学科で修学した。日本留学の期間中、東京の留学生たちが作る雑誌『금강저(金剛杵)』の編集と発行に参加し、文章も発表していた記録がある。
岸 輝子(きし てるこ、本名:伊藤 キシ〈いとう キシ〉、1… 岸 輝子(きし てるこ、本名:伊藤 キシ〈いとう キシ〉、1905年5月1日 - 1990年5月10日)は、日本の女優。夫は千田是也。千田らとともに劇団俳優座を創設。 北海道出身。北海高等女学校卒業。一旦は就職したものの俳優を志し、1925年に築地小劇場に入り研究生となる。初舞台は、『寂しき人々』。築地小劇場の分裂を経て、1936年、新築地劇団に入団。1940年に弾圧による解散後、1944年2月に青山杉作、千田是也、東野英治郎、小沢栄太郎、東山千栄子ら10人で劇団俳優座を創立、以降俳優座の中心女優として活躍し、多くの舞台に立った。『肝っ玉おっ母とその子供たち』はその代表作で、1966年に芸術祭奨励賞を受賞している。
大久保 康雄(おおくぼ やすお、1905年5月1日 - 19… 大久保 康雄(おおくぼ やすお、1905年5月1日 - 1987年1月12日)は、日本の英米文学翻訳家。日本における専門翻訳家の草分けで多くの翻訳者を育成した。茨城県生まれ。本名・保雄。日本ペンクラブ、日本文芸家協会、日本翻訳家協会、各会員。 結城郡八千代町芦ケ谷舟戸の出身で、安静小学校から旧制水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て慶應義塾大学英文科中退。大宅壮一のジャーナリスト集団に属して翻訳を修業、1931年、最初の訳本を刊行。1938年『風と共に去りぬ』の完訳を、友人・竹内道之助の経営する三笠書房から刊行。また1941年頃には翻訳活動と並行して、竹内・宮西豊逸・小出節子らと「霜月会」を結成、同人雑誌に小説を執筆していた。
犬塚 又太郎(いぬづか またたろう、1905年5月1日 - … 犬塚 又太郎(いぬづか またたろう、1905年5月1日 - 1994年)は、日本の漢学研究家、(財)致道博物館初代館長理事・常任顧問。
南雲 道夫(なぐも みちお、1905年5月 - 1995年2… 南雲 道夫(なぐも みちお、1905年5月 - 1995年2月6日)は、日本の数学者。理学博士、大阪大学名誉教授。解析学の分野で多くの独創的な業績がある。
辰巳 浜子(たつみ はまこ、1904年5月31日 - 197… 辰巳 浜子(たつみ はまこ、1904年5月31日 - 1977年6月11日)は主婦、料理研究家。日本の料理研究家としては草分け的存在であったが、本人は料理研究家と呼ばれることを嫌い、自らを主婦であるとしていた。本名は辰巳ハマ。東京都千代田区神田錦町生まれ。長女の辰巳芳子も料理研究家、随筆家として知られる。 浜子は普通の主婦であったが、家に招いた客をもてなすために作っていた料理が評判となり、雑誌やテレビに登場するようになった。料理は誰かに習ったわけではなく独学だった。食材の野菜は自ら畑を作って育てていた。一般の婦人や栄養士向けの料理講習会も行った。夫の芳雄は大成建設の常務取締役。長女の芳子は病を得て学究の道を断念した後に母と同じ料理研究家の道を選び、浜子の著書『手しおにかけた私の料理』が1992年に復刊された際に解説を加えている。
北條 秀一(北条、ほうじょう しゅういち / ひでいち、19… 北條 秀一(北条、ほうじょう しゅういち / ひでいち、1904年(明治37年)5月31日 - 1992年(平成4年)8月23日)は、日本の実業家、政治家、郷土史家。引揚者団体全国連合会理事長、参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、日本国有鉄道顧問。 兵庫県城崎郡竹野村(現豊岡市竹野町竹野)の宮大工の家に生まれる。竹野小学校を経て、1924年神戸商業学校を卒業し、東京商科大学(現一橋大学)予科に入学。大学では自治組織の一橋会総務理事を務めたが、1929年に大山郁夫へ献金を行ったとして逮捕された。1930年大学卒業。同年南満洲鉄道に入社。1932年、満鉄調査部経済調査会に配属される。参与兼総務課長を経て、理事に就任。
後藤 悦治(ごとう えつじ、1904年(明治37年)5月31… 後藤 悦治(ごとう えつじ、1904年(明治37年)5月31日 - 1980年(昭和55年)9月28日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 兵庫県有馬郡中野村(広野村、三田町を経て現三田市)で生まれる。尼崎実業補習学校英語科、同商業科で学び、1921年(大正10年)に卒業した。 家業の米穀商を継承。直木三十五に師事して創作活動を行う。日本硝子釦工業社長、旭商会取締役会長、昭和化学取締役会長、近畿サルベージ社長、後藤産業社長、後藤建設社長、全国釦工業組合理事長、トヨタオート阪神社長、(株)「紙ふうせん」監査役、尼崎商工会議所常議員などを務めた。 政界では、尼崎市会議員(1932年-1939年)、兵庫県会議員(1939年-1947年)を務め、同県参事会員にも在任した。
尾崎 喜左雄(おざき きさお、1904年〈明治37年〉5月3… 尾崎 喜左雄(おざき きさお、1904年〈明治37年〉5月30日 - 昭和53年〈1978年〉1月4日)は、日本の歴史学者・考古学者。主に群馬県で古墳の調査を行い、群馬県の考古学の礎を築いた。文学博士、群馬大学名誉教授。 1904年(明治37年)、神奈川県足柄上郡川村(現・山北町)に生まれる。1923年(大正12年)神奈川県立第一横浜中学校(現・神奈川県立希望ケ丘高等学校)を卒業。1926年(大正15年)日本メソヂスト静岡教会で受洗。同年静岡高等学校卒業後、東北帝国大学法文学部に入学するも中退。1930年(昭和5年)九州帝国大学法文学部を卒業(法学士)。1932年(昭和7年)近衛砲兵大隊に入隊し工兵科幹部候補生となるが同年除隊し予備役となる。
菅 太郎(かん たろう、1904年(明治37年)5月30日 … 菅 太郎(かん たろう、1904年(明治37年)5月30日 - 1980年(昭和55年)1月11日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(5期)。 愛媛県松山市出身、東京帝国大学法学部卒業。戦前は内務省の革新官僚の一人で、内務事務官や企画院調査官を務めた他、1936年12月より一時期は満洲国総務庁に配属されている。また1941年に発足した大日本翼賛壮年団の訓練部長や理事に就任した(1943年まで)。 戦後、公職追放となり、1952年に追放解除。同年の第25回衆議院議員総選挙で改進党から愛媛県第1区より初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙では落選した。その後も当選と落選を繰り返し、1955年の第27回衆議院議員総選挙で日本民主党から2度目の当選を果たし、同年の保守合同(自由民主党結党)に参加。
蓮實 重康(はすみ しげやす、1904年5月30日 - 19… 蓮實 重康(はすみ しげやす、1904年5月30日 - 1979年1月11日)は、日本美術史学者、元京都大学教授。東京市麻布生まれ。
李 在鶴(イ・ジェハク、朝鮮語: 이재학、1904年5月30… 李 在鶴(イ・ジェハク、朝鮮語: 이재학、1904年5月30日または5月31日 - 1973年11月23日)は、日本統治時代の朝鮮の官僚、大韓民国の官僚、政治家。丹陽郡守、制憲・第2・3・4・5代韓国国会議員を歴任し、第3・4代議員在任中は国会副議長を務めた。 本貫は原州李氏。号は東恩。妻は李正守(朝鮮語版)、元国会議員の李教善(朝鮮語版)と李応善(朝鮮語版)は息子。 江原道洪川郡西面出身。1924年に京城第1高等普通学校(現・京畿高等学校)を卒業し、1929年京城帝国大学(現・ソウル大学校)法文学部卒。1938年から忠清北道学務課嘱託・視学・社会課長を務め、1944年に丹陽郡守となった。 光復後は江原道学務局長・警務局長・内務局長・知事代理・知事署理、春川農業大学(現・江原大学校)学長を経て、1948年の初代総選挙で国会議員に当選した。
杉浦 彦衛(すぎうら ひこえ、1904年(明治37年)5月2… 杉浦 彦衛(すぎうら ひこえ、1904年(明治37年)5月28日 - 1980年(昭和55年)9月13日)は、日本の政治家。愛知県安城市長(3期)、愛知県議会議員(2期)、安城町議会議員(安城市議会議員)(1期)などを歴任した。位階は従五位。 愛知県出身。福釜信用組合の前身である報恩社の設立者、杉浦彦次(ひこじ)の長男として生まれた。愛知県立安城農林高等学校卒業。1929年(昭和4年)3月、東京農業大学農学部卒業。 アメリカ合衆国農務省昆虫局嘱託、全国販売農業協同組合連合会(全販連。全国農業協同組合連合会の前身)の農畜特産課長などを務め、戦時中は海軍省兵備局からバンコクに派遣され、農作物の現地指導にあたった。
草地 貞吾(くさち ていご、1904年(明治37年)5月28… 草地 貞吾(くさち ていご、1904年(明治37年)5月28日 - 2001年(平成13年)11月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は大佐。 旧制大分県立宇佐中学校出身。陸軍士官学校第39期を卒業し、同期生の末松太平歩兵少尉とともに青森を衛戍地とする歩兵第5連隊に配属される。1936年(昭和11年)に末松歩兵大尉は、二・二六事件に連座している。 著名な同期生は、終戦時に陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、第53軍参謀の大橋武夫中佐がいる。第106師団では、同期の成富政一大佐(戦死後、進級)と勤務している。 終戦時、満州にあった関東軍の作戦課主任参謀。
栗原 佑(くりはら たすく/ゆう、1904年5月26日 - … 栗原 佑(くりはら たすく/ゆう、1904年5月26日 - 1980年1月4日)は、日本の経済学者、大阪市立大学名誉教授。広島県出身。
崔 凡述(チェ・ボムスル、朝鮮語: 최범술、1904年5月2… 崔 凡述(チェ・ボムスル、朝鮮語: 최범술、1904年5月26日 - 1979年7月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、仏教の僧侶、教育者、政治家、茶人。制憲韓国国会議員。 俗名は英煥。堂号は錦峯、法号は暁堂(ヒョダン、효당/曉堂)。 慶尚南道昆陽郡両浦面(後の泗川郡西浦面)出身。昆陽普通学校卒業後、1916年に地元の多率寺(朝鮮語版)で出家した。1917年に海印寺の地方学林に入学した。三・一運動の時は独立宣言文を配布したため、日本の警察に逮捕された。1922年に渡日し大正大学予科を経て、1933年に同大仏教学科卒。特に1923年以降は朴烈、朴興坤、陸洪均、韓龍雲、金法麟らと「不逞鮮人社」「黒友会」「卍党」などの運動に参加して、いわゆる「朴烈事件」の大逆事件で上海への爆弾運搬役として検挙され、8か月間投獄された。
中村 英男(なかむら ひでお、1904年5月25日 - 19… 中村 英男(なかむら ひでお、1904年5月25日 - 1988年2月14日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(5期)。参議院議員(2期)。歯科医師。 現在の島根県江津市出身。旧制島根県立浜田中学校(現在の島根県立浜田高等学校)、1927年日本歯科医学専門学校卒業。卒業後は帰郷し、歯科医を開業する傍ら農民運動を指導する。戦後、日本社会党島根県連を結成し、副委員長となる。島根県議を2期務め、1952年の第25回衆議院議員総選挙で島根全県区から日本教職員組合の政治団体である日本教職員政治連盟公認で立候補して初当選。以来連続5期当選した(その後は無所属を経て左派社会党から日本社会党に入る)。1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選。
田村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 19… 田村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 1999年2月24日)は、日本の東洋史学者、京都大学名誉教授、京都女子大学学長。 1904年、山口県生まれ。1929年京都帝国大学文学部史学科卒業。 1940年に京都帝国大学助教授となり、1947年に教授、文学部長を務め、1968年に定年退官する。京都女子大学学長。主著に『中国征服王朝の研究』、東洋史教科書作成にも多く参加した。1930年代に中国東北部の実地調査を行い、契丹・遼代の遺跡墳墓を発掘、契丹文字を初めて学会に紹介した。
田村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 19… 田村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 1999年2月24日)は、東洋史学者、京都大学名誉教授、元京都女子大学学長。
南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年〈明治37年〉5月… 南部 忠平(なんぶ ちゅうへい、1904年〈明治37年〉5月24日 - 1997年〈平成9年〉7月23日)は、日本の陸上競技選手。走幅跳および三段跳の元世界記録保持者。ロサンゼルスオリンピック陸上男子三段跳金メダリスト。位階は正五位。 北海道札幌区(現札幌市)出身。札幌中心部の狸小路商店街1丁目で酒屋「三国屋南部源蔵商店」を営んでいた南部源蔵の4男として生まれ、小学校高等科から攻玉社中学(現・攻玉社中学校・高等学校)に進学し、後に北海中学(現在の北海高等学校)へ転校する。腕白な子供であったが体はあまり強くなく、小学4年から始めた乗馬で体力を養った。北海中学3年の時に上級生にスカウトされて徒歩部(現・陸上競技部)に入部した。
宮崎 世龍(みやざき せいりゅう、1904年〈明治37年〉5… 宮崎 世龍(みやざき せいりゅう、1904年〈明治37年〉5月23日 - 1995年)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞記者を務めた。 宮崎民蔵の子で、宮崎世民の実弟、宮崎滔天の甥に当たる。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)を経て(1922年卒業)、東亜同文書院大学(当時は旧制専門学校の扱い)を卒業した。 朝日新聞社に入社し、上海通信局員として第一次上海事変を取材した。1935年には、日本人記者として初めて蔣介石と単独会見をおこなう。1943年に朝日新聞社南京支局長兼上海総局次長、1945年に上海総局長となった。 戦後は朝日新聞東京本社東亜部長、編集局次長、朝日新聞社社友などを歴任した。
鄭 準謨(チョン・ジュンモ、朝鮮語: 정준모、1904年5月… 鄭 準謨(チョン・ジュンモ、朝鮮語: 정준모、1904年5月23日 - 1978年11月26日)は、大韓民国の医師、病院経営者、陸軍軍人(陸軍少領)、政治家、実業家。保健社会部次官・長官、第3・4代韓国国会議員を歴任した。 本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。漢字表記は鄭準模とも。 全羅北道(現・全北特別自治道)長水郡出身。京城薬専、平壌医専を経て、1937年京都帝国大学(現・京都大学)医学部研究科卒。1939年医学博士号取得。1928年医師試験合格。同仁外科医院経営者、ソウル医師会副会長、陸軍軍医学校校長、保健社会部次官(1952年)、高等選考委員、大韓医学協会理事、大韓赤十字社副総裁、第3代国会保社委員長、自由党中央委員、第2代保健社会部長官(1956年5月26日~1957年6月16日)を務めた。
滝口 武士(たきぐち たけし、1904年5月23日 - 19… 滝口 武士(たきぐち たけし、1904年5月23日 - 1982年5月15日)は、大分県出身の日本の詩人。 大分県東国東郡武蔵町(現:国東市)の出身。大分師範学校を卒業。 中国の大連市に渡り、安西冬衛らが大連市で創刊した詩誌『亞』に3号から参加(1924年)、3号から23号までは実質的に滝口と安西の2人で編集を行なっていた。 大連では小学校の教師をしており、生徒にはのちの詩人、清岡卓行がいた。 他に『詩と詩論』『詩聖』『日本詩人』などに作品を投稿していた。特に『亞』に発表した作品は2行詩が多く、単純で簡素な表現形式を取っていた。1933年に、『亞』に発表した作品を中心に収めた詩集『園』を発行。 1939年に帰国し、大分県で教員を勤めた。
弘世 現(ひろせ げん、1904年(明治37年)5月21日 … 弘世 現(ひろせ げん、1904年(明治37年)5月21日 - 1996年(平成8年)1月10日)は、日本の実業家、日本生命社長。同社の「中興の祖」と呼ばれた弘世助太郎の娘婿。 三井合名会社理事・成瀬隆蔵の六男として、東京市麴町区(現・東京都千代田区)に生まれる。成瀬家は二条関白藤原良基の末裔で、尾張犬山城の城主だった成瀬隼人正を先祖とする門閥である。隆蔵の長男の成瀬達は日本生命4代目社長、三男の成瀬雄吾は第一火災海上社長を務めた。 現は、初等科から高等科まで学習院に学び、1928年(昭和3年)東京帝国大学経済学部卒業後、三井物産に入社。同年日本生命社長・弘世助太郎の婿養子となる。弘世家は嵯峨源氏の流れを汲むとされており、旧彦根藩の御用商人であった。
中尾 彰(なかお しょう、1904年〈明治37年〉5月21日… 中尾 彰(なかお しょう、1904年〈明治37年〉5月21日 - 1994年〈平成6年〉10月6日)は、昭和初期~平成初期にかけて活躍した日本の洋画家、童画・絵本作家、詩人。島根県鹿足郡津和野町出身。 津和野で生まれ、教員をしていた父親の仕事の関係で物心つく前に津和野から離れ、幼年期を中国山脈の山間の草深い村で過ごす。高等小学校進学を機に津和野へ戻り、卒業目前に満州へと渡る。独学で絵を学び、満鉄育成学校を卒業後は島根県下で教員生活を送る傍ら、時折上京して画学生をする生活を送り、1931年(昭和6年)の第1回独立美術協会展に入選。以来、独立美術協会を中心に油彩画を発表し、1949年(昭和24年)には同協会会員に、また、1992年(平成4年)には同協会会員功労賞を受賞する。
星名 秦(ほしな しん、1904年 5月20日 - 1984… 星名 秦(ほしな しん、1904年 5月20日 - 1984年9月26日)は、日本の元ラグビー選手で指導者。京都大学ラグビー部出身。元同志社大学工学部長、元同大学学長。
高木 正征(たかぎ まさゆき(または「せいせい」)、1904… 高木 正征(たかぎ まさゆき(または「せいせい」)、1904年5月17日 - 1994年6月1日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。極東選手権競技大会では100メートルおよび100ヤード、220ヤードで入賞を果たし、100メートルと200メートルで日本記録(タイ記録を含む)も樹立するなど、その才能を嘱望されながら、旧制山形高等学校時代に事実上陸上競技を引退した。 丹南藩藩主の分家筋に当たる高木正秋(高木正得の弟)を父として、東京府東京市赤坂区青山高樹町(現・東京都港区南青山)で生まれる。「高樹町」の町名は、丹南藩邸があったことに由来し、高木の生家も1000坪の敷地に80坪の邸を構えていた。 暁星中学校時代に陸上競技を本格的に始め、旧制高等学校や大学からの中学校招待レースでいくつも優勝を飾る。